原文 |
書き下し (武田祐吉) |
現代語訳 (武田祐吉) |
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即不入坐 宮而。 |
すなはち宮に 入りまさずて、 |
そうして皇居に おはいりにならないで、 |
引避 其御船 泝於堀江。 |
その御船を 引き避よきて、 堀江に泝さかのぼらして、 |
船を曲げて 堀江に溯らせて、 |
隨河而。 | 河のまにまに、 | 河のままに |
上幸山代。 | 山代やましろに上りいでましき。 | 山城に上つておいでになりました。 |
此時歌曰。 | この時に歌よみしたまひしく、 | この時にお歌いになつた歌は、 |
1つぎねふや山城:佐斯夫の歌(刺し夫) |
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都藝泥布夜 | つぎねふや | 山また山の |
夜麻志呂賀波袁 | 山代やましろ河を | 山城川を |
迦波能煩理 | 川のぼり | 上流へと |
和賀能煩禮婆 | 吾がのぼれば、 | わたしが溯れば、 |
迦波能倍邇 | 河の邊べに | 河のほとりに |
淤斐陀弖流 | 生ひ立てる | 生い立つている |
佐斯夫袁 | 烏草樹さしぶを。 | サシブの木、 |
佐斯夫能紀 | 烏草樹さしぶの樹、 | そのサシブの木の |
斯賀斯多邇 | 其しが下に | その下に |
淤斐陀弖流 | 生ひ立てる | 生い立つている |
波毘呂 由都麻都婆岐 | 葉廣ゆつ眞椿まつばき、 | 葉の廣い椿の大樹、 |
斯賀波那能 弖理伊麻斯 | 其しが花の 照りいまし | その椿の花のように輝いており |
芝賀波能 比呂理伊麻須波 | 其しが葉の 廣ひろりいますは、 |
その椿の葉のように 廣らかにおいでになる |
淤富岐美呂迦母 | 大君ろかも。 | わが陛下です。 |
2あをによし奈良 |
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即自山代廻。 | すなはち山代より廻りて、 | それから山城から廻つて、 |
到坐那良山口。 | 那良の山口に到りまして、 | 奈良の山口においでになつて |
歌曰。 | 歌よみしたまひしく、 | お歌いになつた歌、 |
都藝泥布夜 | つぎねふや | 山また山の |
夜麻志呂賀波袁 | 山代河を | 山城川を |
美夜能煩理 | 宮上り | 御殿の方へと |
和賀能煩禮婆 | 吾がのぼれば、 | わたしが溯れば、 |
阿袁邇余志 | あをによし | うるわしの |
那良袁須疑 | 那良を過ぎ、 | 奈良山を過ぎ |
袁陀弖 | 小楯をだて | 青山の圍んでいる |
夜麻登袁須疑 | 倭やまとを過ぎ、 | 大和を過ぎ |
和賀美賀本斯久邇波 | 吾わが 見が欲し國は、 | わたしの見たいと思う處は、 |
迦豆良紀多迦美夜 | 葛城かづらき 高宮たかみや | 葛城かずらきの高臺の御殿、 |
和藝幣能阿多理 | 吾家わぎへのあたり。 | 故郷の家のあたりです。 |
如此歌而還。 | かく歌ひて還らして、 | かように歌つてお還りになつて、 |
暫入坐。 筒木韓人。 名奴理能美 之家也。 |
しまし 筒木つつきの韓から人、 名は奴理能美 ぬりのみが家に入りましき。 |
しばらく 筒木つつきの韓人の ヌリノミの家に おはいりになりました。 |
あをによしは、まず大前提として歌詞であり、その歌の文脈から全く離れて意味を断片的観念的に注入定義することは本末転倒。また万葉(青丹吉)ではなく古事記(阿袁邇余志)が初出で、万葉328は古事記の文脈を読み込んでいる枕詞なので、古事記から解説する。
古事記は712年成立で710年奈良遷都直後。それより昔(当時は難波が宮という設定)のまだ若い奈良の意味。またこれにイワヒメが若造(青二才・青年)に会いに行く意味を掛ける。ここで最後に、家に入るという表現もその意味(男女の文脈では寝る意味)。加えてイワヒメに仕える口姫が、兄の口子臣の青摺衣が雨で紅色になり涙し、妹が物申すという謎掛けの歌が出てくる(兄妹は古事記では深い恋愛関係を示唆しているし、それが古来の兄妹の用法でもある)。
この文脈のあをに「よし」(余志)は、ヨシ(決めた)・ヨッシャ!という意志(ウシ!)である。字義もそう。
「よ」と「し」で間投助詞という説明は、細切れすぎて全く血肉が通っていない死んだ説明。
そしてこれに良しを掛ける(それが万葉の青丹吉)。択一排他的に解そうとするのが一般的な悪い癖だが、「あをによし」は端的に歌詞で、掛詞は歌詞の解釈の基本中の基本である。掛詞は同音異義とだけ覚えて情況に応じて用いること(応用)ができない。それが使えない知識。使えないのは、教える方が、妻が褄、馴れが萎れというような、全く一般的用法ではない辞書がないと分からないような重箱の隅をつつくような掛かり、学者の苦し紛れの後付けこじつけドグマを堂々受け売りしているだけだから。
また良しと掛けることは、以下のように、より大きな文脈で多角的な根拠がある。
あをに(阿袁邇)は、青い・若い方(老女より八田若部郎女)が良いというのがこの歌の直前の話で、同じ下巻の雄略天皇は若く美しい引田部赤猪子に求婚し、八十の老女になったら追い返した。つまりこの青い赤い・八と八十というリンクからも二つの話と表現は無関係ではない。つまりここでの「あお」は若さ(そして男=青+年)を表している。花盛りといっても物理的な植物が繁殖していることは本意ではない。そう思うなら語彙が足りてない。言うまでもないかもしれないが、青二とは青二才の略で、右も左もわからない若者の幼稚さを象徴的に表す、侮蔑的表現。
まとめると「あをによし(阿袁邇余志×青丹吉)」は、若くていいじゃん。若いっていいじゃん。男性性目線では賛美で女性性目線では皮肉。年寄りには皮肉で若いと賛美。
準備が整ったので万葉を見てみよう。初出は1巻17額田王だが、実質は次に出てくる29の人麻呂の歌詞。三巻までは一貫して「青丹吉」だが、その後の五巻からはブレ始める。なお、万葉は1・2巻と3・4巻のそれぞれ中後半までは人麻呂編纂と見る。
青丹吉 寧樂乃京師者 咲花乃 薫如 今盛有 |
あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり |
まず歌い手が、小野「老」(直前の歌は或娘子等の歌)。
この「青丹吉」は枕詞。枕詞とは先頭にあり、古来の文脈を当然の前提として一言で読み込む歌詞、象徴的な歌詞のこと。
「吉」として上述の良しの文脈を読み込む。
この歌で「吉」で良しではなく専ら間投助詞というのは字義を無視している。抽象的で観念的で、この歌での根拠に欠いて不適当な解釈。
歌全体を表面的にみると、これは遷都した後の歌で花の都をいう文脈。しかし植物の花の盛りという意味で青と表現していると見るのは表面的すぎる。歌の心を解してない。「丹」で何かの色ではなく青と丹(赤)の対比で、上述した若い男女の意味。そういう赤青の文脈が古事記にある。それと対比した「小野老」で「今は盛り」。回春。ヨシ!ワシも。
あとは蛇足だが、前提のせんと(遷都)は、せむと=しないと(男女が寝ること)に掛かり、伊勢2段(西の京)と同じ用法(しないとというのにしないとはこれ如何・イカンというギャグ)。
花を盛り(欲情)、色と好みに掛けるのは、徒然の「花は盛りに」でもある、王道中の王道の用法。歌の嗜みがあればそれは当然の理解。
「つぎねふ」も語義不明とされる山城に掛かる枕詞で、古事記ではここでの歌(58・59)と続く歌(62・64)の4首あるが、万葉では4000首以上の中13巻の1首(3314)のみ。この作者は明示されないが配置的に人麻呂の歌である(万葉は16巻まで基本的に人麻呂とそれを立てた赤人の歌集)。人麻呂こと安万侶(字形)の歌詞。万侶で万葉集。
その歌に含まれる「垂乳根」も古事記由来の枕詞(根の国で乳を垂らした母・御祖)。
原文 | 訓読 | かな |
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次嶺經 山背道乎 人都末乃 馬従行尓 己夫之 歩従行者 毎見 哭耳之所泣 曽許思尓 心之痛之 垂乳根乃 母之形見跡 吾持有 真十見鏡尓 蜻領巾 負並持而 馬替吾背 |
つぎねふ 山背道を 人夫の 馬より行くに 己夫し 徒歩より行けば 見るごとに 音のみし泣かゆ そこ思ふに 心し痛し たらちねの 母が形見と 我が持てる まそみ鏡に 蜻蛉領巾 負ひ並め持ちて 馬買へ我が背 |
つぎねふ やましろぢを ひとづまの うまよりゆくに おのづまし かちよりゆけば みるごとに ねのみしなかゆ そこおもふに こころしいたし たらちねの ははがかたみと わがもてる まそみかがみに あきづひれ おひなめもちて うまかへわがせ |