伊勢物語は、平安前期(850年頃)の男女を題材にした125段からなる物語。
竹取同様の時期で、同じく作者不明とされるが、これはいずれも女所に仕えた文屋である。
これは推測ではない。伊勢・竹取・古今・源氏等の記述やその他の伝承(小町針)から絶対確実にそう言える。
詳しい根拠は以下で説明するので、話を進めよう。
源氏との関連は源氏のページを参照。源氏は竹取と並べて「伊勢物語」と定義し、ふりにし「伊勢の海の深き心」と評し、在五・業平を否定した(絵合)。
一般にこの文脈を完全に取り違え、伊勢を片端も読めない浅はかなる若人どもも読めず、誰でも知る在五を礼賛したとし、伊勢を規定するのも完全に誤り。
さて、伊勢は、876年~880頃から順次リリースされ、886年頃に完成したと見れる。
古今以後ではない。それは業平ありき・つまり古今の業平認定ありきの見立てであり、確実に誤り。それをここで論証する。
876年~というのは、藤原高子の子、陽成が即位したのがその年。そこから后と称されうる(皇太后)。今でいう后とは違う。そういう人は何人もいるので。
冒頭3段に「二条の后」表記があり、后になったその近辺から書き始められたと見れる。
彼女の身が安泰になり、それなりに発言力も持ったろうから。淫奔との熱愛云々は事実無根の虚偽の風説と、回想と弁明もかねて。
そもそも伊勢で彼女と業平は恋仲ではない(76段=伊勢での后に藤原の氏神を出し祝儀がしょっぱいとクサす業平。99段=后の車と知らず言い寄る業平)。
880年頃というのは、879年に縫殿介に就任していることから、ここから書き始めたのが、上記と合わせより確実と思う。
つまり元の職場に若干出世して戻ってきた。陸奥や地方を経て戻ってきた描写は終盤にある。
「むかし男、久しく音もせで、わするゝ心もなし。まゐり来むといへりければ…うれしげもなし」(118段:たえぬ心)
「まゐり来む」とは、当然自分が下の、宮仕えの表現。
京を出たのは当然、冒頭の東下り(9段)の内容。
一般に905年成立の古今後や、900年前後などとされるが、それらはありえない。
なぜならそういう見立ては、一方的に古今に基づき、他方で、以下の伊勢の表記を完全に無視し、業平ありきで伊勢を捻じ曲げ、それで伊勢を語るから。
文中の帝の表記は、深草~田村~水尾と墓所名にするが、これらに続く仁和帝(884-887)を存命時の呼称にする(114段)、
加えて、107段で藤原敏行を内記とする。敏行が内記だったのは870年までとされる(内記が当時の彼の象徴的な役職だったと。文屋の縫殿同様に)。
886年に右近衛少将、893年に中将とされるが、この物語で衛府督・大将・中将など軍人の肩書は重んじ明示されてきた(77段・87段・101段)。
これらの表記は、物語が話題にした年代、886年頃が物語を記した末尾であることと何の矛盾もなく整合する。
なお登場人物は后のように、常に記述時の最高の肩書で書かれているのは、回想の当然の作法であり、その時々の肩書で書いているのではない。
つまり、伊勢は905年の古今と無関係に成立している。
主観目線で登場人物とも符合する一貫した帝の記述を無視して、古今以後ということは、論理的にできない。
それを飛躍させるのが古今の業平認定。その一事で、矛盾しかない認定を真摯に検証せず、何とか維持するために、古今以後で古今を参照したとし続ける。
一般が伊勢を受け、古今が伊勢の影響を受け、その身分不詳の男を、女が沢山出てきて男が武勇伝する色物という浅はかな解釈(現状)で業平と認定した。
源氏でもそう評されている(浅はかなる若人ども)。伊勢物語を評した「伊勢の海の深き心」と対置させ。在五・業平の否定をしても全く理解されない。
伊勢の影響は仮名序からも、歌の配置・詞書の分厚い引用からも明らか(突出して最長の詞書が筒井筒・295文字、二番目が東下り・252文字)。
このような力関係は、現状における影響力から言っても、自然なこと。
これを逆に見るから、様々な無理がでる(伊勢といえば業平業平、そう刷り込まれている。いわば理由も論理も筋も当否も全く考えない暗記教育の集大成)。
業平が六歌仙とされたのは、主人公と目された伊勢があったから以外ない。そして業平には伊勢以外何もない。何一つない。
つまり伊勢のレベルが無名の六歌仙というに相応しいのであり、業平が凄いのではない。実際そういう評判だろう。
そして著者が880年で死亡した業平とは見れない以上、後世の別人が装って書いたなどとおかしなことを言う前に、まず他の歌仙を見なければならない。
そうすると、二条の后に近い人物がいるわけだ。
後宮で、女官人事も担当する縫殿という極めて特殊な宮中に仕えて、「二条の后に仕うまつる男」(95段)というに相応しい男が。
その男の没年は885年頃(未詳)とされ、上述した年代と完璧に整合する。
「身はいやし」(84段・93段)なので無名にし、人目を忍んで(初段)いると(仮名序でいう匂わせず)、話と歌を悉く乗っ取られたと。
だから「在五」を「けぢめ見せぬ心」とし(63段)、仕事場の後宮で女につきまとい流されたと描写し(65段)、拒絶している。
しかしそれすら無視される。書いてある内容は関係ない。周囲の評判・勅撰ブランドに基づき決めつける。1000年以上そういう読解力。
だから、この何の後ろ盾もない、ただの木っ端役人が当時歌仙とされたことが、どれほど突き抜けた実力だったか。それが伊勢の影響力。
業平の知能ですら歌仙にしてしまう力。だから、頭はアレだが歌は良いというのは違う。乗っ取っただけ。
順次リリースしてきたというのは、著者が後宮の女達・御達に、手習いがてら自分の作品を書写させた(向上意欲は凡人より数段高いだろう)。
女達が「おもしろ」く学べるよう男女の話にした。そしてそれを添削がてら自ら校正した。暇をしてる女達は沢山いるから、大量頒布が可能。
そういう伝統が、この時後宮に根付いたと見れる。でなければこの時代の女子の際立った文才、その特異な文化のきっかけを誰がつくったのか。
藤原達が女子の教育に力を入れた(はず)、とかいう指摘は全く的外れ。百歩譲って仮にそうでも、学術知識と文才は直接結びつかない。
和歌も(文章も)、当時も今も全く一般ではない。限られた一部の才能による。それは古今を見れば一目瞭然。万葉にいたっては漢語。
そしてこの才は、体制教育があったからとは関係ない、というか、それを当然にしつつ、そういうことを蔑視するレベルでないとできない。
したがって、女達の最初期の文章教育は、専ら伊勢・竹取、土佐日記などの書写、それをネタにした女達の雑談(議論)によって涵養された思う。
土佐日記の冒頭は、確実にそれを意図したと思う。つまり貫之が伊勢にインスパイアされ、明確に教育・啓蒙を意識した(内容を単純化させて)。
伊勢の御(子)という名はまず伊勢物語に由来し、紫式部を生み出した土壌も確実に後宮(≒女コミュニティ)にある。だから在五と竹取に言及している。
こうして多数の女達に支えられ、著者は異色の影響力を誇った。114段で、仁和帝が初段のエピソードを意識し狩衣の袂に書くよう言ったのは、その表れ。
しかし冒頭で二条の后との話を出したことから、それがただ女にふしだらな業平の話と次第に混同され始めた。
(光源氏はまずこの昔男の影響があると思う。恋愛を描きながら死に近い発想も59段の東山などにある。ただし伊勢は仏道と相容れないが)
したがって、物語後半に入って、そういう風説に逐一反論している。
103段で、男は「いとまめにじちようにて、あだなる心なかりけり」(とても真面目で実直で、浮気心はありません)
101段で、行平のはらから(兄弟)は「もとより歌のことは知らざりければ」
この意味で段階的に成長しているが、著者はあくまで一人。114段の内容が明らかに最初とリンクし、しかもそれに気づかれていないように。
さらに、そういう前後のリンクはそれだけではなく、以降全ての段で、明らかに全体の一体性保持を意図している。
そしてこういう掛かりは凡人に判別不可能。それは現状の全く及んでいない理解から見ても明らか。したがって複数などと言っても書けるわけがない。
昔男とかそれっぽいことを書けば誰でも流布できるなら、誰でもできることになる。ナンセンス極まる。
後日の付け足しのナンセンスさは、84段の塗籠本を見れば明らか。
『いよ〳〵みまく ほしき君哉』となん有ける。 是を見て馬にものりあへずまいるとて。 道すがらおもひける
このような母の手紙を見たからと言って、そのような反射的行動は著者はしない。頼みにしても甲斐(雁)がないとした10段は一体何だったのか?
凡の発想。
伊勢の「むかし男」と、竹取の「今は昔」。
この特有の語感・感じが、いわゆるしるし(サイン)。
竹取では、六歌仙達が揶揄され(5人の男+1人の女等々)、宮中の女事情に詳しく、
伊勢も、女方を内部から描写すること、そして両者は等しい影響力をもつことから、著者は同一人物。
つまり、
初冠で服(狩衣と生地)の話から始まるように、縫殿の人。「ふくからに」の人。
小町針の小町と同じ女方にいた人。だから唐衣(からものの既成服)や、それと対比させた、倭文の糸巻(しずのをだまき)などの話がある。
小町針は、体を求めてきた男達を拒絶し続けた話。つまりこれが竹取のモデル。そういうことを素材にしたのは、近かったからと見るのが自然。
ひるがえって、和歌の教科書を記すほどの実力だから、ただの役人なのに、六歌仙と称されている(人麻呂と同じ構図)。
本当に実力がないなら、歌が一世風靡したこの時代に、そう称されるわけがない(仮名序の一般の解釈は、かかりをただ読めていないだけ)。
ただし、貴族や皇族・旧豪族・坊主などは、その称号に一人代表を入れること自体に意味があった。だから単なるおまけ。下馬評はその過度の一般化。
そしてこの物語をどこかの貴族の話とみるから、無理がでる。三河行きも説明できない(縫殿の人には、三河に赴任した確実な記録がある)。
業平の行動を描写したものでもない。それは6段と63段・65段で示される(つまり明確に書きわけ、あしざまに描いている)。
古今の認定は、伊勢が匿名であるのをいいことに、現在のように伊勢を業平の日記・歌集とみなしたまで(その噂の発端が五段・六段に記される)。
記述の抽象性を逆手にとって、常に女に無節操な内容=業平とみただけ。その証拠に、その認定とみだりな解釈は、現在までワンセット。
しかし伊勢の著者と業平が違うと見た時点で、その歌集という築土(前提)は崩れたのだが、結論だけ一人歩きして無理が生じている。それが現状。
古今と伊勢の他にどこか別の参照元を想定することは、影響力から考えても無理。どうみても全ての原因は伊勢物語にある。それが自然な見方。
主人公は文屋。
業平ではありえない。
根拠は、伊勢でも伊勢から離れても、多角的かつ数え切れないほどある。推測ではなく絶対に確実。
伊勢自体が文屋の境遇と経歴と完璧に符合し(業平は880年死亡の時点で114段を記せないし)、そもそも業平=在五は全否定している。
その客観的証拠は貫之(の配置と詞書)と紫(源氏物語)が提供している。
まず、一般のこのような説明が問題点をよく集約しているので、みてみよう( ウィキペディア「伊勢物語」)。
章段の冒頭表現にちなんで、この主人公の男を「昔男」と呼ぶことも古くから行われてきたが、
歌人在原業平の和歌を多く採録し、主人公を業平の異名で呼んだりしている(第63段)ところから、主人公には業平の面影がある
まず「業平の和歌を多く採録し」たという点から根拠が実はない。そしてこれこそが問題の大元。
古今が伊勢を業平日記とみなしたことは業平説側の一貫した態度から間接的に証明されている(どこかにあるはずの業平原歌集という想定それ自体、原歌集がないことの証明。そして伊勢は101段で業平は歌を知らないとしている。他人目線で。)。
次に主人公を業平の名で呼んでいるとしているが、この時点で既に自分達の認定をもぐりこませている。つまり根拠が既に自分達の説。
自分達がみなしているから主人公なのだという構造。循環論法。自己参照。
それで面影があるとぼかし、論理的つながりのなさを濁して文章の問題にしている。
「業平の歌」という根拠は古今集の認定に基づいているのだが、その古今の業平の歌は、元は全て伊勢に基づいている。
つまり、古今が伊勢の主人公を業平にみなしたことによる業平認定。つまり根拠は実はない。その証拠にいまだに、みなされているだけ。
古今で「業平の歌」と認定された、20ほどもある歌の、悉く全てが伊勢にある。逆にいえば、伊勢以外の歌が一つもない。不自然だろう。
しかも伊勢にある歌に限ってといえるほど、異様にぶ厚い、伊勢と細部まで符合する説明が付されている。
唯一古今独自の詞書をもつのが屏風云々のちはやぶるだが、歌自体は106段にある(つまり屏風の話は、独自性を出すための小細工。素性がからんでいる)。
国家の歌集にもかかわらず最大の恋愛の巻の出現することから、双方の影響力に鑑み、古今は伊勢から多大な影響をうけ業平と認定したといわざるをえない。
何より筒井筒の田舎女の「龍田山」の歌すら、古今随一といえるほど分厚い説明が付され伊勢と細部で符合するので、伊勢以外の参照を想定するのは無理。
次に、ではなぜ業平の歌と認定したのか、だが、
その問題が、次の「主人公を業平の異名で呼んだりしている」という記述によく表わされている。
つまり「主人公を業平の名で呼んでいる」と既に決めているのだが、これ自体が誤りであり、このような思込みに基づいて認定されたからである。
主人公はあくまで「むかし男」。上記で引用される63段は「在五」とし、その段は「むかし男」から始まらない。
さらに、この「在五」とかけられた65段では「在原なりける男」とあり、ここでも「むかし男」から始まらない。
このような冒頭の人物の書き分けは、物語全体に一貫し、単なる気まぐれではない。
そして上記の63段・65段いずれも、著者の目線から、女に対する無節操さを徹底的に非難するもの(そもそも名称自体が蔑称)。
63段では「けぢめみせぬ心」、
65段では多少長いが引用すると
「例の、このみ曹司には、人の見るをも知でのぼりゐければ、この女思ひわびて里へゆく。
されば、何の、よきこととて思ひて、いき通ひければ、みな人聞きてわらひけり。
つとめて主殿司の見るに、沓はとりて奥になげ入れてのぼりぬ。」
このように著者に非難される人物が、主人公という根拠はどこにあるのか。そんなものはない。
だから訳の方をありえないほど曲げてしまう(「けじめみせぬ」→大らかに愛する、「沓はとりて奥になげ入れ」→靴を奥にしまう、など)
しかるに、冒頭の説明は「主人公には業平の面影がある」とするのだが、主人公にそんな面影などない。
物語の文脈を読まず、全く安易に表面だけみて、女が沢山でてきて次々良い感じになる=業平と決め付けられたから、このような認定になった。
良い感じでも何でもないところまで、悉くそう見る。
このように根拠のない認定を根拠に、次々認定を重ねていく、それが上の文章にあわらされる現状。
それを裏づけるのが、現状流布している類の訳。ほとんど全てが無節操。かつ筋立てが全く無秩序。
主人公が女に近かったのは、女方で勤めていたからであり、二条の后に近かったのもそれが原因。
それを夜這いだ禁断だなんだと全く根拠のない幼稚な噂は当時からあったと、5段と6段に説明される。
同じ六歌仙にいる後宮の男。その人が主人公。かつ著者。それで何も問題ない。
そのおこぼれにあずかって、六歌仙の称号を得た、それが業平。
業平は、伊勢がなくなれば、何も残らない。