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第93段 たかきいやしき |
伊勢物語 第四部 第94段 紅葉も花も |
第95段 彦星 |
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この段は、筒井筒の話に続き、梓弓の間に起きた話。
女親が亡くなり生活のため、男は別れを惜しみ宮仕えに出て、家に住まなくなった。
その間、細々仕送りをし、宮仕え先の女方に絵描きがいたので、(特別な日に)その人を遣わした。
(今でいう記念写真。この時代、最高にみやびなことのはず)
しかし返事がこない。
(ここで「今の男」のことがあってとされるが、返事がないのに知りようがない。なので、梓弓のことを受けて、そうだったのだと回想している)
人並みのことをしてあげられず、恨まれることも当然だと思って、かろうじて詠んでやる。
(本文では「ろうじて」だが、これは「か」なしと掛けている。ただそれは見せないようにして、という意味)
時、秋のこと。
秋の夜は 春日わするゝものなれや 霞に霧や 千重まさむらむ
秋の夜だから あの春の日のことも忘れられたか
霞や霧が 千夜の重なりにまさってしまったか
(春とは青春。大和の古里春日とかけて、二人の場所。それとかけた霞は貧しい生活。霧は千夜(22段)の重みと対比し、男にとっては…軽いこと)
女
千ぢの秋 ひとつの春にむかはめや もみじ花も ともにこそ散れ
千秋の秋も 一つの秋(の積み重ね)。必ず次の春に向かうもの。 もみじも花も ともに散ってこそ(実りある)
そしてそれが美しいって、あなたは歌っていたよね(82段・渚の院「散ればこそ いとゞ桜はめでたけれ」)
ま、そんなことは、この子は知るわけもないのであるが。
もみじ(楓)は、かつて男が女に、家に帰れないことを嘆きながら、興があるものを送ったもの(20段)。
だけど、それも散るんだって。
この点、「たくさんの秋が一つの春にかなうだろうか、いや、かなわない」などと、意味不明な訳が流布しているが、論外。
どんだけ秋を軽んじているの。秋は和歌で一番大事な季節とされているのも知らんのかよ。知らなければ、古今の分布と百人一首の最初を見てな。
そうやって調子のって滅茶苦茶しないで。全然訳じゃねーだろ。
ん~まあ、全体のレベルが低すぎるんだろうけども。
天才は辛いね、全く理解されないのよ。いや、著者のことだからね。
~
この段では「女」が、歌の前にしか存在せず、冒頭で不自然に言及されないが、それはもう彼女がいないからである。
そしこの段で、男が「むかし男」になった理由が判明した。
つまり「今の男」ではないから。それを最初から最後まで、ずっと引きずっている。
なんとも女々しい話だろ? だから相応しく、女方にいたのかもしれないな。
さらに梓弓の子との間に子供がいたことも明らかになった。
この段の前に、男の子と女の子、二人が出てきた(87段・布引の滝)。
そのうちの一人が、梓と康秀の子で朝康。87段の「この男のこ」とはこの子。
87段では、この子のかみ(上司)は「衛府の督」という縁もあり、この男達と一緒に物見遊山したという話があったが、
朝康には舎人であった記録があり、右大将藤原常行を描いた段で、あえて舎人を出しているので間違いない(78段・山科の宮)。
女方とは、縫殿のあった後宮のこと。
だから87段でも女方が宮内卿と合わせて出てきたし、初段でも9段(東下り)でも、ずっと服の話を出している。ふくからに。
9段東下りで、男が京に住む必要がないと思ったのは、もうこの子がいなくて、京にいる理由がなくなったから。
だから家を探しにいって、道中妻のことを思い出して歌を読み、みなで涙している。
でなければ、歌で泣くわけあるかって。
業平が何となく東に行って、何となく都の妻を思い出した歌で友達が泣く? なにそれ。一応軍人なのに。
男女 及び 和歌 |
定家本 |
武田本 (定家系) |
朱雀院塗籠本 (群書類従本) |
---|---|---|---|
第94段 紅葉も花も | 欠落 | ||
♂ | むかし、男ありけり。 | 昔、おとこ有けり。 | |
いかゞありけむ、 | いかゞありけむ、 | ||
その男すまずなりにけり。 | そのおとこすまずなりにけり。 | ||
のちに男ありけれど、 | のちにおとこありけれど、 | ||
子あるなかなりければ、 | 子あるなかなりければ、 | ||
こまかにこそあらねど、 | こまかにこそあらねど、 | ||
時々ものいひおこせけり。 | 時ゞ物いひをこせけり。 | ||
女方に、絵かく人なりければ、 | 女がたに、ゑかく人なりければ、 | ||
かきにやれりけるを、 | かきにやれりけるを、 | ||
今の男のものすとて、 | いまのおとこのものすとて、 | ||
ひと日ふつかおこせざりけり。 | ひとひふつかをこせざりけり。 | ||
かの男いとつらく、 | かのおとこ、いとつらく、 | ||
おのが聞ゆる事をば、 | をのがきこゆる事をば | ||
今までたまはねば、 | いままでたまはねば、 | ||
ことわりとおもへど、 | ことはりとおもへど、 | ||
なほ人をば | 猶人をば | ||
うらみつべきものになむありけるとて、 | うらみつべき物になむありけるとて、 | ||
ろうじてよみてやれりける。 | ろうじてよみてやれりける。 | ||
時は秋になむありける。 | 時は秋になむありける。 | ||
♪ 168 |
秋の夜は 春日わするゝものなれや |
秋の夜は 春日わするゝものなれや |
|
霞に霧や 千重まさむらむ |
かすみにきりや ちへまさるらむ |
||
となむよめりける。 | となむよめりける。 | ||
女、かへし、 | 女、返し、 | ||
♪ 169 |
千ぢの秋 ひとつの春にむかはめや |
ちゞの秋 ひとつのはるにむかはめや |
|
もみじ花も ともにこそ散れ |
もみぢも花も ともにこそちれ |
||
むかし、男ありけり。
いかゞありけむ、その男すまずなりにけり。
むかし男ありけり
むかし男がいた。
いかゞありけむ
なにがあったのか
その男すまずなりにけり
その男が(家に)住まなくなった。
これは、筒井筒の最後「男すまずなりにけり」と完璧に符合。その続き。
だから「いかがありけむ」とは23段の内容。本段はこれと24段の間にあった話。
だから、「女のもとに通わなくなった」ではない。宮仕えで帰れない状態が続いていた。
「すまず」を勝手に改変しないで。
しかもこの物語の通うはそういう意味じゃねーから。仕事だから。女物の服を作る仕事だから。縫殿で。
だから女物の服と女方の話が沢山出てくるんだって。ま、難しいですか。
女物の服を贈るのはこの時代普通? 普通じゃねーよ。そんな文化あるかよ。それに伊勢は普通の作品じゃないだろ。極めて特別なんだよ。
この段で絵描きを送るのもどれだけ気を利かせているか。女は絵を描く人ってなんだよ。仕事を頼むってどういう展開だよ。ホントテキトーだよ。
最も象徴的なエピソードとのつながりを完全無視。春日とかも出しているのに。
たった数十段離れてこれなら、古に思いをはせる気持ちは、理解できない。だってつながりが、因果が全く見れないんだもの。ま、しょうがないね。
どこかのボンボンの話と混同しないで。
ことあるたびに色目的であっちこっち通うってどういう発想だよ。しかもここでは通うって書いてないよな。
だから男の通うは一貫して仕事だからな。
のちに男ありけれど、
子あるなかなりければ、こまかにこそあらねど、時々ものいひおこせけり。
のちに男ありけれど
その後に男ができたが
これは筒井筒後の梓弓に出てきた男。
ここまで家も女も不自然に出していないことは、もういないからである。
子あるなかなりければ
子のある仲だったので、
こまかにこそあらねど
細かいものではなかったが
そこまで親密ではないがという訳→ おいおいおいおい!?!?
正気かよ。親密ではないのに子供作るのかよ。ありえねーよ。だったらこの段存在する意味ないだろ。業平並みに無責任だろ。
そうやっていとも簡単にこの物語の核心をねじまげるのホントやめて。筒井筒の冒頭100回読まないとわからない?
時々ものいひおこせけり
時々頼りにできるような便り(細々した仕送り)を出していた。
ここで補った「頼り」はかすかな望みの意味で、前段で浮き出て存在していた言葉。
つまり仕送り。これと「こまか」とあわせて細々を読み込む。
しかしこのように多角的な根拠がなくては補ってはいけない。
まず第一にかかりが必要なんだよ。その理解を養って下さい。
ま、別にいいけど。
女方に、絵かく人なりければ、かきにやれりけるを、
今の男のものすとて、ひと日ふつかおこせざりけり。
女方に絵かく人なりければ
女方に絵を描く人がいたので
なり:ここでは文脈から、ある(存在)という意味。
女方とは、女のもとに、という意味ではない。
ここでは後宮。男の勤め先。そこに縫殿がある。
直接の言葉としては65段、関節的には87段で(宮内卿とセットで)出てくる。
だから著者は、しばしば女方を内側から描写するし(31段「ある御たちの局」)、女達にまつわる話、女物の服の話を良く出す。
だから、女のもとにという、今までの用法を無視した解釈は成り立ちえない。
また、女が絵を描く人という設定が突如出現する理由もないし、仕事の依頼を男がする理由も全くない。
かきにやれりけるを
(特別な日に)描きに行かせたりしたら
昔で言う写真屋を頼んだ。
今の男のものすとて
今の男とよろしくやっているからといって、
ひと日(ひとひ)ふつかおこせざりけり
一日たっても二日たっても、返事もよこさなかった。
つまり「今の男」がいたのは、この段の時点では知らないということ。後から知った(梓弓の時)。その間接的な表現。
今の男ではないので、昔の男(むかし男)。別れたから。
だから、この子が、男にとってどれほどの存在だったか。
男が宮仕えに出たのも、この子のため(24段)。
東に下ったのも、この子が果ててて家がある京付近にいる必要がなくなったから。だから子供と住まいを探しに行っている。
それが燕+子+花。かきつばたの歌。だからその歌で道中妻を偲んで泣いているんでしょう(つましあれば)。
それを業平の行楽ってなんだよ。ひどすぎる。それに意味不明。
三日目で返事を寄こしてきたなら、とても辛くはならない。
このひとひ(一日)は、後述の「千重」に掛けられる言葉(人麻呂の万葉歌。万葉集10/2234)。
千重は後述のように、白波・娘・恋にかかる。
かの男いとつらく、
おのが聞ゆる事をば、今までたまはねば、ことわりとおもへど、
なほ人をばうらみつべきものになむありけるとて、
ろうじてよみてやれりける。
かの男いとつらく
かの昔男はとても辛く
おのが聞ゆる事をば
自分が聞くようなことは
(普通の夫が妻にしてあげるらしいようなことは)
今までたまはねば
今まで(して)あげてこなかったから
つまり生活に困る。女の親はもういないので(23段)。
しかも子供もいる。
こういう文脈と関係なく、突如この表現を出す意味がないだろう。
ほんと何なの? 読んでもないし考えもしないんだね。あきれる。
ことわりとおもへど
それも当然だと思ったが、
前段の「世のことわり」とかけ、連結を示している。
なほ人をば
やはり人を
うらみつべきものになむありけるとて
恨みに思っているだろうといって(そういう口実で)、
ろうじてよみてやれりける
かろうじて詠んでやった。
ろうじて
:かろうじてから、かを抜いて悲しい。が、何とかして。
策を弄じてという意味とも言えなくもないが、
皮肉とか、からかうとかいう意味ではない。文脈が完全に破壊される。辛いとは何だった?
辛い反動でからかって恨むなどと送るのは、もはや精神の病。伊勢をなめきってる。というか足りてない。
時は秋になむありける。
秋の夜は 春日わするゝものなれや
霞に霧や 千重まさむらむ
となむよめりける。
時は秋になむありける
時は秋のことであった。
ここは特に誤解を生まないようにという表現。
だから、からかいなどではない。
秋の夜は 春日わするゝものなれや
秋の夜なら 春日のように微かに忘れるものだよな
霞に霧や 千重(ちへ)まさむらむ
(むなしい)霞や霧が 千の重なりに勝ったか
ちへ【千重】
:幾重もの重なり。万葉では、一日・白波・恋・娘・妹などと掛かる。
つまり筒井筒の「沖つ白波」の歌に掛かっている。妹はこの子という意味。
この子との歌は基本的に万葉の内容に基づく。古い関係ということ。梓弓は万葉の超重要頻出単語。
千は、女との古い関係のこと。千夜を一夜(22段)。
春日も古い里という意味(初段)。二人の里を表わす言葉(京ではない大和)。
春日と微かな霞にかけているが、霞とは、もちろん貧乏の暗示。
となむよめりける
と詠んだ。
女、かへし、
千ぢの秋 ひとつの春にむかはめや
もみじ花も ともにこそ散れ
女かへし
女が返し、
(今度は無視せず、返してくれた。しかし)
千ぢの秋 ひとつの春にむかはめや
数多の秋も 次の一つの春に向かうでしょう?
ちぢ 【千千】
:たくさん。数が多いこと。
もみじ花も ともにこそ散れ
紅葉も花も 散ってこそ美しいのでしょう?
(82段・渚の院の著者の歌。「散ればこそ いとゞ桜はめでたけれ」)
つまりね、わたし達はここで解散。あーあ。
「千ぢ」「一つ」は、男の一日千重にかけ、
さらに三の句「むかはめや」は、男の三の句「ものなれや」と合わせている。
もみじは、20段で男が「かへでもみぢ」を仕事で帰れないと掛けて送ったことに掛けている。
この時は女の子が来てくれたが、もうそうではない。子供もいる。
(次の)春に向かうとはそういう意味。
だから、男がその家に向かったのは、しんどかった(24段)。
この歌を一般の訳では、
たくさんの秋が一つの春にかなうだろうか、いや、かなわない。
しかし、秋の紅葉も春の花も同じように散るのだ。
などとされているようだが、どういう意味なのか。日本語のはずなのに、全く頭に入ってこない。
「かなうだろうか、いやかなわない」ってさあ…。伊勢の表現と対極のもたつきでしょ。なぜ反語にしたし。そうじゃねーよ。合わせてるの。
それに内容自体ありえない。たくさんの秋が一つの春にかなわない? はい?? 秋は和歌で最重要の季節なのに? 大概にせーよ。いやかなわんわ。
散るのだ、じゃない。違うから。これ物語だからな? 歌もつながっているの。繊細な意味で。全体像わかってないのに訳さんでよくね?
和歌なのに、凡庸な現代語に置き換えて矮小化しないで。ま、やっつけ仕事ならしょうがないか。興味ないからこう書けるんだよね。
ただ、これが伊勢を専門にしているとかいう学者の訳としたら、驚くべきことだ。
とはいえ、「けぢめみせぬ心」の在五を主人公とみなしている位だから(63段)、これ位は序の口なのかよ。ホント、気い遠くなるわ。
いや、この国の国語能力、一体どうなってんの?
言葉が滅茶苦茶。支離滅裂でもキニシナーイ。それを考えようともず、上手くいかなければ著者のせい。
ちょっと立ち止まって考えようよ。考えるとは何かを考えようよ。「考える力」ってなんだよ。そんなもん、あっても1ミリ位しかないだろ。
ただ既存の知識覚えて、吐き出しているだけじゃない。そこに合わなければ間違い。合ってれば正解。機械かよ。
そういう人達は自分達に内在する問題を、自分達で発見し修正することができない。省みれずに自爆するまで突き進む。レミングス並の脳みそ。
どう考えてもおかしいことでも、それを認めず、自分達は最善なんだとなぜか思い込む。それがこの国の優秀とかいう人達。そうでしょ?
優秀って、しもべ養成学校の成績を誇って言っているんでしょ。自分で考えることなんてしたことないもんなあ。延々答えを探し回ってさ。
だからみながおばかなままだってなぜわからんのかな。これが流布している答えなんだから、これがベストで正解! う~ん、実におばか。
じゃあこの社会はベストなのかよ。んな単純なことも分からん。そう人達は日本は誇らしいとか言い出すんだよな。勇ましいハナタレ。
業平説はその典型的な集大成。これが1000年も続いているとは。
ま、でも著者が業平ではないというだけちっとは進んだけど、今度は複数人ときたか。ふれ幅すごいな。ま、そういうもんか。
いや、著者が業平ではない時点で、業平主人公もありえないからな? それが当初の大前提だったろうになあ。
ちょっとみなさん、国語のあり方を根本的に見直して、じっくりじっくり、考えるべき。
言葉を語義から離れて滅茶苦茶用いる、だから思考・論理が滅茶苦茶。
目先のことばかりで全部バラバラ。だから筋を通して、体系立てて考えられない。