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第90段 桜花 |
伊勢物語 第四部 第91段 惜しめども |
第92段 棚なし小舟 |
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むかし、月日の行方さえ嘆く男が、三月末日に、
をしめども はるのかぎりの けふの日の 夕暮れにさへ なりにけるかな
惜しんでも 春の最後の 今日の日も もう夕暮れに なってしまった。
その心は、まだ月が残っている。まだだ、まだ終わらんよ。
この段は、88段で「おほかたは月をもめでじ」という歌と明らかにかけている。
つまり「ゆくへ(行方)」は、つごもりがたと、その段での「おほかた(大方)」に掛かっている。
そして、88段の通りだろう。大方というか誰一人、このように解釈していない。いや、いたら素直に凄い。相当だよ。
なにせ、書写本の人々はこれを理解できず、「ゆくへ」を丸めてしまっているのだから。
とまあこれが著者の実力。事実その通りの観察眼でしょ。大方とは控えめに言っただけ。本当は誰一人いないと思っていた。
古今からの引用? いや、一々引用する意味などない。同等以上ならともかく。この一連の表現はそういう意識の表れ。
月日が過ぎるのを嘆く? そんなん気のきいた中学生でも言える。
実力者の表現を真剣に受け止めず、脈絡のない訳を受け売りし、ナニ平ナニ平騒いで知ったかして。
主人公というだけでもありえんのに、あろうことか装って書いている? どれだけくさすの。
伊勢はまだ早かった。この国に。
なんで文字に真剣に取り組まないかな。みんな言葉が軽いんだって。別に難しいことじゃない。せめてねじまげないで。
男はナニ平なんだと、全体と明らかに矛盾したことをこじつけ続けながら、不都合な所にくると、著者のこじつけだの、矛盾だのと言う。
そんなだから実力が上がらない。あいた口もふさがらない。
男女 及び 和歌 |
定家本 |
武田本 (定家系) |
朱雀院塗籠本 (群書類従本) |
---|---|---|---|
第91段 惜しめども | |||
♂ | むかし、 | むかし、 | 昔。 |
月日のゆくへをさへ嘆く男、 | 月日のゆくをさへなげくおとこ、 | 月日のゆくさへなげく男。 | |
三月つごもりがたに、 | 三月つごもりがたに、 | やよひの晦日に。 | |
♪ 165 |
をしめども はるのかぎりのけふの日の |
おしめども 春のかぎりのけふの日の |
おしめとも 春のかきりのけふの日の |
夕暮れにさへ なりにけるかな |
ゆふぐれにさへ なりにけるかな |
夕暮にさへ 成にける哉 |
|
むかし、月日のゆくへをさへ嘆く男、
三月つごもりがたに、
をしめども
はるのかぎりのけふの日の
夕暮れにさへ
なりにけるかな
むかし
月日のゆく(▲へ)をさへ嘆く男
月日の行方をさえ嘆く男が
(男はもちろん昔男。なぜなら時間の前後にのみかかわる形容だから)
ここの表記は全ての本でぶれる。
「ゆくへをさへ」「ゆくをさへ」「ゆくさへ」
右二つは普通の表現だが、左は文字をあえて置かないとこうならない。
したがって、左が本意で、中央は誤記の可能性を考慮し、右は安易に丸めたと解する。
そして「ゆくへ(行方)」とすることで、直後のつごもり「方」と符合。
よって、これで間違いない。
「ゆくへ」と「さへ」で韻を踏み、それ以上の嘆きを用意している前フリ。
三月つごもりがたに
三月末日頃に、
月日を入れるため、つごもりは末日と解する。
よって、三月は弥生と読まない。塗籠はテキトーすぎる。
つごもり 【晦日・晦】:
①月の最後の日。みそか。
②月の終わりごろ。下旬。月末。
をしめども はるのかぎりの けふの日の
惜しんでも 春の最後の 今日の日も
夕暮れにさへ なりにけるかな
もう夕暮れに なってしまった
つまり、一日の日が隠れてしまうだけで嘆いていたというオチ。
いやでもまだ月は残っているからな。これから月を愛でるのである(88段)。
そしてこういうことを一々くどくど説明せず、情況で間接的に仄めかすことが、みやびなのである。
時間を留めることができない、などと、当り前すぎる意味ではない。そんなことは子供でも言える。
目前の一つ一つの時間の流れが、いと惜しい(愛おしい・切ない・大事だ)、ということ。
大事ということに、切ない(いとおしい≒切に=とても)という意味を合わせた言葉が、大切。
だから大切な人という。大事な人より、心がこもっているだろう。愛している、という意味。
だから、大切なこと、というのは肝心なこと、という意味。
大切なのは心。わかりますか。表面的な知識を羅列しても意味がない。何も生まない。見栄だけで役に立たない。
動機が、その志が肝心。本心の動機が利己的なら、口でどう大きく言おうと、その程度の器と頭にしかならない。