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第122段 井出の玉水 |
伊勢物語 第四部 第123段 深草に |
第124段 我と等しき |
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目次
・あらすじ(大意)
・原文
・現代語訳(逐語解説)
深草(男女をつなぐ血≒地)
むかし男(著者not在五)
深草に住みける女(伊勢斎宮。cf.前段)
やうやうあきがた(69段の夜を連想)
すみこし里(尼の山里×筒井の古里)
狩だにやは(69段の直接的暗示)
ゆかむと思ふ心(万葉の示唆。次段へ続く)
本段の深草は、103段「深草のみかど」に掛かる。
なおこの103段は、業平を物語中最も強い言葉で非難する内容。
この段は、前段と対をなす。
つまり「契れることあやまれる人」に歌を送り、返事がなかったことと(本段では返事がある)。
この段では、契れることあやまることなく約束を果たしたい。69段で二人で会おうとした約束。
昔男が、「契」った相手は二人だけ。
かつての妻と伊勢斎宮。
前者は、20-24段・梓弓の子。あだに契りて
(21段・これは女の子の発言)。
この子は24段で果てたので、返事がなかった。
「梓弓ま弓つき弓 年を経て」という歌と、本段の歌「年を経て」で、一層の連結を示す。
後者は、69段・狩の使で出会った伊勢斎宮。
むかし男、ねむごろにいひ契れる女の、ことざまになりにければ
(112段)
「ねむごろにいひ契れる」とは「狩の使に…いと懇にいたはり…かくて懇にいたづきけり」と、最後に盃を出して来て一緒に用いたこと(69段)。
「ことざま(異様)」とは、尼になり山里に入ったこと(102段・女としては死んでしまった)。
このような経緯から本段の女は、伊勢斎宮(と、まず見立てる。それ以外ないが)。
そして本段の「狩」で、69段とのリンクが確実になる。でなければ、女から狩を言う意味がない。
「やうやうあきがた」(明け方)とは、その段で契りを誤った時。
(女に飽きたとかいうのは、色んな意味で最低)
「すみこし里」は、住む古里とかけ、伊勢であったり、尼になって入った山里のこと。
こうした前提を踏まえて、本段を読む。
なお、このような文脈を一切無視する、古今971の業平認定は誤り。
古今が先ではない。古今が伊勢を参照した。それは古今最長の詞書が筒井筒の歌(295文字)、二番目が東下り(252文字)であることから明らか。
昔男の馴れ初め話である筒井筒に、別の原典など存在しない。
筒井筒・東下り・狩の使と、独立した強力な柱がいくつもあるのに、これをただの寄せ集めと見ること自体ナンセンスで馬鹿げているし、失礼極まる。
古今は風評で全体を業平の日記とみなした。個別の認定に根拠は一切ない。現状と同じ。
~
むかし男が、深草に住んだ女を(あの頃にかけ)明け方頃に思いだし、以下のような歌を詠んだ。
年を経て すみこし里を出でていなば いとゞ深草 野とやなりなむ
長年住んだ里を出て行っても(京に戻らず)さらに深草の野となったか
野は、在野の意味。斎宮は帝の娘なので。
あてなる女の尼になりて、世の中を思ひ倦んじて京にもあらず、はるかなる山里に住み
(102段)
深草は、103段で「深草のみかど」とあったように、場所(墓所)と帝を暗示している。
そして著者の母も宮とあるので(84段。その縁で後宮に勤めている)、二人はその血でつながる(「もと親族」102段)。
著者の身分(身はいやし。84・93段)にも掛けて、在野。男の場合のすみこし里は、筒井の里。
この103段を挟み、104段で「尼になれる人」が斎宮であることが明示される。
女、かへし、
野とならば 鶉となりて 鳴きをらむ 狩だにやは 君はこざらむ
野になれば 鶉になって ないている 君は狩にも来なき爺だろうから
(ピーピー泣いても安心ね)
斎宮は105段で、俺もう死のうかと言った著者を、玉なしと激励(?)した。
(玉にぬくべき人もあらじを。いとなめしと思ひけれど、こころざしはいやまさり)
しかしこれは冗談なので無視していい。男に子はいることは明示されている(87段)。挑発だが自虐でもあるということ。
鳴くを泣くに掛けるのは当然。
雌の鶉は大人しく、人に懐きやすいことに掛け、当時を懐かしみ、
雌は(比較的)あまり鳴かないことに掛け、よくは泣かないけど、たまには泣くという暗示。
とよめるけるにめでゝ、ゆかむと思ふ心なくなりにけり
と詠んだのを愛でて、鶉可愛いなと思い、そっとしておこうと思った。
愛でてとあるから、狩れるわけなどない。
というより、そういう狩ではなく、69段の狩の話を暗示していることは上述。
これに加え、鶉が鳴くで、万葉との掛かり・さらなる含みがある。
鶉鳴く 古しと人は 思へれど 花橘のにほふ この宿
(万葉集17/3920)
鶉鳴く 古りにし里ゆ 思へども 何そも妹に 逢ふよしも無き
(万葉集0775)
花橘は端的に60段の内容。宇佐の使をもてなし、盃を出してきた女。
つまり伊勢斎宮と完全にパラレルの存在。同じ男女の古い昔の関係。
しかもその前の59段は、東山≒清水で梓弓の子が果てたことを思った内容。
つまり大きく分けると物語前半は男の妻の話で、後半は伊勢斎宮の話。
二番目の歌は言うまでもなく、その意味を男の心情として読み込んでいる。
~
鶉を憂面と掛ける? →そんな言葉はない。仮にあっても「なく」と二重表現でナンセンス。
狩を仮とかける? →続く反語があるので二重で無意味。
掛かりは、当然のことを示す概念ではない。奥行きをもたせるためにある。
情交を交わすために通っていた、歌に感動して、女を捨てるのをやめたなどと、文中に一切ない外道の言葉を、さも当然のように潜り込ませる。
そういう表現は、包んでいるようで全然包んでいない。即物的で動物的な発想丸出し。
自分がそう思うから対象もそうだと思う。それを投影という。
捨てると思った後、歌一つで感動し、よそに行くのをやめた…か。
随分ばかみたいな話にされたものだ。
男女 及び 和歌 |
定家本 |
武田本 (定家系) |
朱雀院塗籠本 (群書類従本) |
---|---|---|---|
第123段 深草(にすみける女)(鶉) | |||
♂ | むかし、男ありけり。 | むかし、おとこありけり。 | むかし男ありけり。 |
深草に住みける女を、 | 深草にすみける女を、 | ふかくさにすみける女を。 | |
やうやうあきがたにや思ひけむ、 | やうやうあきがたにや思ひけむ、 | やう〳〵あきがたにや思ひけん。 | |
かゝる歌をよみけり。 | かゝるうたをよみける。 | ものへいでたちて。 | |
♪ 206 |
年を経て すみこし里を出でていなば |
年をへて すみこしさとをいでゝいなば |
年をへて 住こし宿を出ていなは |
いとゞ深草 野とやなりなむ |
いとゞ深草 野とやなりなむ |
いとゝ深草 野とや成なん |
|
女、かへし、 | 女、返し、 | 女かへし。 | |
♪ 207 |
野とならば 鶉となりて 鳴きをらむ |
野とならば うづらとなりて なきをらむ |
野とならは 鶉となりて 鳴をらん (いきてとしはへん古今一本) |
狩だにやは 君はこざらむ |
かりにだにやは きみはこざ覧 |
狩にたにやは 君はこさらん |
|
とよめるけるにめでゝ、 | とよめりけるにめでゝ、 | とよめりけるに。 | |
ゆかむと思ふ心なくなりにけり | ゆかむと思ふ心なくなりにけり。 | いでてゆかんとおもふ心うせにけり。 | |
むかし、男ありけり。
深草に住みける女を、やうやうあきがたにや思ひけむ、かゝる歌をよみけり。
むかし男ありけり
これは著者。
ただし在五ではない。
古今971は、業平と認定するが誤り。詞書も伊勢に基づいて丸めた改変。
114段の「仁和」帝(884-887年)の時点で、業平は死亡(880年)確定。
仁和は帝生存時の呼称だから、77段・69段の田村・水尾・そして本段の深草の墓所名と比較し、伊勢は886年近辺の成立。
直ちに905年の古今後とみなすのは無理だし、950年頃の後撰の後などはもっと無理。
しかし伊勢の記述ではなく、無条件で古今を優先させる。古今の業平認定と相容れないことは、伊勢に何が書いてあっても認めない。
「在五」が「けぢめ見せぬ心」(63段)とされても、「在原なりける男」が後宮で女につきまとって流されたと記されても(65段)、主人公と解する。
伊勢では、114段から(それ以前からも)ずっと、文章が掛けられつながっている。
その一つ一つが物語前半と細部で符合し、物語の一体性保持を確実に意図している。
本段においても、この符合を明らかにしよう。
深草に住みける女を
これは伊勢斎宮。
前段からの文脈と、本段の内容、特に「狩」とあることから(もちろん69段・狩の使の暗示)。
一つ一つの認定は間接的だが、女の方から「狩」とすることから、確実に伊勢斎宮。
これ以外ありえない。
女の方から狩に来ないのかという明らかに特異な文脈(しかもウズラ)、何とも思えないのか。
思えないんだな、これが。
ここまで続けてきた物語の最後に、どこの女とも分からない、ただの深草の女を突如出現させると言うのは、ナンセンス極まる。
それに狩の使は、伊勢の由来となる話。最も象徴的とされるエピソードそのもの。だから最後に斎宮の話で締める。
深草の女を認定できないのに、なぜ深草は京だと認定できるのだろう。
学者が認定しているから? 勅撰だから? それは学問ではない。ただの前習え。
古今の業平の認定は、こういう盲信・盲従に支えられている。
伊勢は業平を全否定している。63段以降全ての登場段で。「けぢめ見せぬ心」と非難してもなお主人公だと言い張る、けじめつけれない人達。
ここで前段の文脈というのはこうだ。
むかし男、契れることあやまれる人に、『山城の井出の…』(122段)
伊勢で契りが出てきたのは2回・2人しかない。
思ふかひ なき世なりけり年月を あだに契りて 我や住まひし
(21段・男の妻。筒井筒・梓弓の子。既に果てた)
むかし男、ねむごろにいひ契れる女の、ことざまになりにければ
(112段・伊勢斎宮)
そして前段の「契れることあやまれる」は、上の21段と掛かり、井出の水は、筒井と、し水(きよみず・清水)に掛けた内容だった(23・24段)。
そして前段の最後は、
…なき世なりけり』といひやれど、いらへもせず(返事もせず)
で締めくくられていること。
これが本段で、返してくれていることとパラレルになる。
そして「懇ろにいひ契れる女」とは、
69段における伊勢斎宮の著者に対する待遇「狩の使に…いと懇にいたはり…かくて懇にいたづきけり」と、最後に盃を一緒に用いたこと。
また、前段の「山城」は、京と大和の境であったが、
「山城の井出」とすることで、伊勢斎宮が山里に入ったこと、本段でそこから出てきたと言うことを掛けている。
あてなる女の尼になりて、世の中を思ひ倦んじて京にもあらず、はるかなる山里に住みけり
(102段)
この尼になった人は、斎宮であると104段であると明示される。斎宮は勿論、伊勢斎宮しか出てきていない。
やうやうあきがたにや思ひけむ
徐々に明け方になり思う
「あきがた」は、あひがたき(会いにくい)と、明け方をかける。
明け方とは、夜に斎宮が男の寝室に来てくれたが、諸事情で斎宮が途中で帰ってしまった(童≒斎宮の幼い妹もついてきた)。
その時のことを思い出している。
会いがたいとは、互いの立場があることと、69段以降も、75段まで何度も会おうとしていたこと、そして後に尼になってしまったこと。
二人が会いづらいのは、二人の間になぜか存在していた童への配慮も、少しはある。
この童は、70段で見送りに伊勢の外、大淀辺りの松(松阪=つまり宿場)まで付いて来る。
つまり子供ではない。慕ってきた、まだあどけない(周りの目があまり見えていない)女の子という意味。
以下は、69段。
月のおぼろなるに、小さき童を先に立てて人立てり。
男いとうれしくて我が寝る所に率ていり、子一つより丑三つまであるに、まだ何事も語らはぬに帰りにけり。
男いと悲しくて、寝ずなりにけり
普通なら、童が逢瀬の夜についてきたら、邪魔だと思うだろう。
それを「とても」喜んでとするのだから、男はどちらも好きだった。微妙な三角関係。
しかしどちらも相手にする訳にはいかないし、どちらかを選べばどちらかを傷つけるので、どちらとも距離を置くと。
「あきがた」で、(女に)飽きた? とかいうのは、文字としても、人としてもありえない解釈。
それなら歌など送らない。かまってクンか? そういう人の解釈はそう。
俺いなくなると荒れ果てて困るだろ?ってか? 何も困らねーよ。むしろそういうのはいると困る。
かゝる歌をよみけり
年を経て すみこし里を 出でていなば
いとゞ深草 野とやなりなむ
年を経て すみこし里を出でていなば
年を経て 年越し住んだ(山)里を出て行けば
いとゞ深草 野とやなりなむ
さらに深草 の野となるか
いとど:ますます。いよいよ。いっそう。そのうえさらに。
年を経て:「梓弓ま弓つき弓 年を経て」で24段とリンクし、前段との掛かりを確実にする。
すみこし:年を越すと掛け、越える山、山科の暗示。
里:「はるかなる山里に住みけり…斎宮の宮なり」(102段)
野:山から下るとかけ「京にもあらず」(102)、下々・在野という意味。
斎宮は(文徳)帝の娘だから。
なお深草は「深草のみかど」として出てきた(103段)。文徳天皇の親。
著者も母は宮とあるので(84段)、素朴に見れば、著者と斎宮の祖父。
最後に深草を明示するのはその意味がある。
つまり「野とやなりなむ」とは、二人の境遇。
だから著者は身分には価値をみない(作法は守るが、人間的な意味で)。
僻みではなく、実態を近くで知っているのでどうでもいい。
後宮にいることは、なった時の一番のプライベートにいるということ。
だから文徳天皇を69段末尾で明示しつつ、「斎宮なりける人の親」とする。
一般はこれを理解できず、この「親」を文面にない母の紀静子を突如出現させ手紙を送ってきたと解するが無理。文中に根拠が一切ない。
手紙などの安易な補いが、認定の場当たり的ないい加減さを象徴している。
自分が通った里が、もし自分が出て行けば草ボーボーになる? 意味不明。駆け引きのつもりなのか?
草伸びちゃうけど、おれが出て行ってもいい? とでも? きもいだろ。出て行けよ。
自分が通ったではない。住んでいる、だ。
女の目線で描いてみて、そこは大変だろ? そういうものか? と問うているのだ。
自分目線で滅茶苦茶アホみたいに捏造しないでくれ。
しかも里は深草のことではない。といってもこの段しか見ないなら分かりようもないな。
自分がいれば草が抑制されるとでも? それ自体意味不明、さらに既にいる女の存在を完全に無視しているので誤り。勘違いの自己肥大も甚だしい。
それ自体で意味が通らないのは、どうやっても成り立ち得ない。なぜそのような文章で通せると思えるのか。
女、かへし、
野とならば 鶉となりて鳴きをらむ
狩だにやは 君はこざらむ
女かへし
野とならば 鶉となりて 鳴きをらむ
野というなら ウズラとなって 鳴いている
うずら:憂面? それなら憂辛。というか憂面とかいう言葉はない。よって誤り。
しかし、鳴くを泣くに掛けるのは当然のことだ。自然かつ基本。
狩(▲に)だにやは 君はこざらむ
(なのに)狩にも 君はこないのか
狩に仮を掛けた? 掛ける必要がない。「だにやは」に仮想は含まれている。
掛かりは、必要最小限かつ最大の効果を発揮する言葉で、無意味だったり自明のことに用いるものではない。
狩だにやは:字足らずで「に」ない。にてもにつかなくなった。
だに:…だって。…すら。
ある状態を強調し、他のことを類推させる
ここでは、獲物がいるのに、君は来ないのか?
やは:反語。どうして…なのか。
「君はこざらむ」だけ見ると誘いだが、それは見せかけ。それが反語。「やは」で、それを確実にしている。
表面的には聞いているが、聞いているわけではない。
どうしてそんなことがありうる? というのと同じ。
ありえないに決まっている。聞いてはいない。情況から絶対かつ当然の答えを暗示し、相手の思考を促し導く間接的表現。
それなのに、一々マジにありうるだなんだ、そういう問いは矛盾だのと、全くズレたことを言ってくるのが、現状の理解。
つまり、私がこんな廃れた(尼の)状態では、君は来れない、来ても69段のように十分に(懇ろに)相手できない、楽しませてあげられない、
大人しくして、めったに泣かないけど、それでも女だから、君が懐かしくて、たまには隠れて泣いていると、そういう歌。
ウズラは、多少大きいヒヨコ並の大きさ。人に懐く。
雌のウズラは、よく懐いて大人しい(鳴かないとされるが、大人しいだけ)。
そんな可愛いものを狩れるわけなどない。
直後に「めでて(愛でて)」とあるのだから、狩の意味ではない。
69段の狩の時の話。女にとってはその意味。狩なんて興味あるわけない。
つまり、斎宮が、身を隠しているけど大丈夫、元気にしている、またウチに狩にでもしにおいで(もちろん建前であると強調)と言っている歌。
それを著者が翻案した歌。
この趣旨は116段の「なに事も皆よくなりにけりとなむゐひやりける」と同じ。
しかし、何事も良くないことは物語全体から明らか。
~
私がウズラになることにして、私に逢うためではないにせよ、きっと狩に来てくれる?
いや会わずに狩してどうすんだよ。何のための歌のやりとりだよ。
狩をすれば、草が刈られる? んなわけない。ゴルフコースか。ありえない。
最低限、文章の筋を通そうとしないのか。
書いてあるモーン、自分らのせいじゃないモーン?
いや、書いてない。情を交わすために通っていた(??)とか、女を捨てるとか一ミリも書いてない。
そういう表現、ほんと多いけど、それ包んでいるようで全く包んでいないからな。それを投影という。
あ~好き勝手できたらいいな~。男のロマンだな~、そういうことでしょ。しょうもな。
~
とよめるけるにめでゝ、
ゆかむと思ふ心なくなりにけり
とよめるけるに、めでゝ
と詠んできたのを愛でて
うずらの可愛さを思って。
(よめりけるではないことは留保する)
ゆかむと思ふ心なくなりにけり
行こうと思う心はなくなったのであった。
ウズラを驚かすのはよくない、そっとしておこう。
いや、もちろんこれはツッコミ待ち。
69段でここまで引っ張ってきて、ウズラの歌一つで気持ちがなくなるものか。
この最後は、万葉の内容と掛かっている。
鶉鳴く 古しと人は 思へれど 花橘のにほふ この宿
(万葉集17/3920)
鶉鳴く 古りにし里ゆ 思へども 何そも妹に 逢ふよしも無き
(万葉集0775)
花橘は端的に60段の内容。宇佐の使をもてなし、盃を出してきた女。
つまり伊勢斎宮と完全にパラレルの存在。同じ男女の古い昔の関係。
二番目の歌は言うまでもなく、その意味を男の心情として読み込んでいる。
妹とは、可愛い子という意味。血縁の意味もあるが、そうとも限らない。
しかしその含みも、ここではある。現代でもいとこ同士なら問題ないがな。
しかしこういう読みのレベルでは全くなかった。
在五が主人公ってか。
~
歌に感動し、女を捨てて余所に行くことをやめた?
女の所に通うしか能がない下半身が、随分上から目線。
女を捨てるとかいう即物的な発想に、唖然とする。
歌に感動し捨てることをやめたとかいう、ふれ幅の危うさ。
全て自分の都合。自分目線。人の心を何とも思わない。
それが63段で著者が非難した、在五の振る舞い。