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第120段 筑摩の祭 |
伊勢物語 第四部 第121段 梅壷 |
第122段 井出の玉水 |
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画像は、ウィキペディア「凝花舎(梅壷)」より。
見て分かるように、梅壷は内裏でも奥まった位置にあり、極めて特別な者しか立ち入れない(業平クラスは容易に入れない=部外者=目につく)。
だからどこかの馬の骨であることはありえないし、たまたま人を見たり、人が雨に濡れて出てくるなども、まずありえない。
極めて特異な建物における、特異な情景を描写している。
そのことを、常に念頭において解釈する。
しかしこの梅壷すら、壷だ、梅だ、鶯とかの掛かりにしか見ない。
後宮の女が雨の中出てきて、男の歌に反応して誘惑するなど、ありえない。後宮での地位を完全に捨て去る行為。
男の朝帰りもありえない。雨に濡れて出てくるような者が入る所ではない。
しかしそのありえないことが起こった。
そういう段。
むかし男(著者=後宮の縫殿に勤める六歌仙)が、100段に出てきた後涼殿辺りで経験した話。
梅壷から、雨に濡れて、退出してくる人を見た。
ここで梅壷から出てくる人は女ではなく男。後宮だから、女なら人にする意味がない。
雨に濡れて男が出て来たなどとすると、女性の品位を損なう(前段・築摩の祭。女の体験を周囲に晒す内容)。
ここにいる女の地位を考えてほしい。まず雨に濡れて一人で出てくる状況などない。
そして「まかる」=退出なので、どこかに向かうことに主眼がある表現ではない。
つまり仕事で動いている男ではない。著者はそう認識している。
よって、まず女目的で侵入した男≒業平の類い。
そして今までの伊勢物語の描写で、そういうことをした人物は一人しかいない。
在五だ。
63段で在五が女を好き勝手弄び、65段では端的に後宮=女方に上がりこみ、女につきまとい滅茶苦茶して流された。
よって、在五しかいない。
本段の2つの歌のリンクは、在五と著者が混同されたことを象徴させている。
一般の認識は、まずここからズレている。
後宮の女が、何の文脈もなく、濡れて出てきて、著者の歌に対し誘惑してくるなどと言うのは、後宮の品位・気位を、地べたで踏みにじる解釈。
男が後宮から朝帰りで出てきて、むかし男が女になりすまし詠むなどというのは、○気の沙汰。状況を想像することすらできない。
しかも朝帰りとして、何も違和感も感じない所がある意味凄い。
どこかの女の家ではなく、宮中しかも後宮の話なのに。
そして以下の歌。
鴬の 花を縫ふてふ笠もがな ぬるめる人に きせてかへさむ
かへし、
鴬の 花を縫ふてふ笠はいな おもひをつけよ 乾してかへさむ
この情況、歌の配置で、両者の歌であることなどない。著者の翻案。だから詠んだとしていない。そこは区別している。
鶯を、梅壷にかけ梅の花を掛けるのは、花札にもあるし、万葉以来の春の定石。そこは別に感心する所じゃない。
二つの歌のリンクは、万葉以来の、万葉を用いる時の著者の手法を、自分の歌にも応用している。
ここでは、花(女)をついばんで飛び回る小さい男を、鶯に当てている。
また、花を縫うは(女達の間を)飛び回る(男)という意味もあるが、これを縫殿に掛けている。
ある意味では、女達の面倒を見て飛び回る著者の立場とダブらせて(19・31・95段等)。
鶯が傘も縫うではない。
「もがな」は付加じゃなく、あったらいいなの意味。
鶯は傘を縫えない。古今1081にそういう表現があるが、それは飛び回ることの例え。
あをやきを かたいとによりて 鶯の ぬふてふ笠は 梅の花かさ
見せない「あおやき」を、ヤキを入れる(けじめをつけさせる)に掛ける。
63段の在五の「けぢめ見せぬ心」とセットにして。
ぬるめる人は、濡れる人じゃない。「ぬるめる」。
濡れるに掛け、温(ぬる)める=ほてった(病的に)熱くなったという意味。
おもひを火だというなら、ここもそう見ないの。明らかにパラレルに配置しているのに。それに明らかにひっかかる表現でしょ。
ぬる+めりの視覚推定? めるって確定しとるがな。すぐバラす癖あるけど、言葉は常に一連の文脈の下で意味があるので。
細部の分類より、まず全体の流れ。ぱっと見どうなっているか。
そういうこと全部無視。全部バラバラ。
この段は古今にあるから業平~、「二条の后に仕える男」はどっかの知らん誰か~、ここだけ業平死んでるけど後撰にあるから行平~(114段)
おかしい所は著者のこじつけだもん。しょうがないもん。…はい? どっちがこじつけよ。
「きせてかへさむ」
これはおしきせて帰そうかという意味。笠は着るものではないから。
無理に(きせて)というのは、花と掛けて花笠。もちろんバカにしている。頭お花畑。
逃げて隠れようとしているけど、目立たせてあげよう。
笠をかぶらせて帰してやりたいって。ああ、なんておいたわしや…って? ほんと花畑。
いやさ、この段は、後宮から不自然に人が出てきている文脈なので。
何で建物名を明示しているの。建物名出したの、後涼殿と梅壷だけでしょ?
そこに普通男はいないでしょ。後宮ってそういう所の代名詞でしょ。
「二条の后に仕うまつる男」(95段)って書いてある。え、むかし男じゃない? じゃあ誰。
そんで六歌仙にいるがな。そういう人が。
なんでここまで書いて業平の歌集なの。
導き出される結論は一つ。頭○すぎ。
「乾(ほ)してかへさむ」
ほしてと当てられているが、ほしてなら干してがくるので原文は乾して。それでカワして。
そして男をかわして帰る。どいて~。帰して~。
思いの火で笠を乾かします?? いや燃えない?
万歩譲ってそれはいいとして
「今度は私の思いの火をお返しします」って何? いや返すなら笠でしょ。
火を返すって何だよ。
アーチーチーアーチーの業かよ。
んなこと言われたら、コイツ頭やばない? って思うでしょ?
あ~もう。これがこの国の読解力?
あれれ~おかしいな~、こわいなこわいな~
男女 及び 和歌 |
定家本 |
武田本 (定家系) |
朱雀院塗籠本 (群書類従本) |
---|---|---|---|
第121段 梅壷 | |||
♂ | むかし、男、 | むかし、おとこ、 | 昔男。 |
梅壺より雨にぬれて | 梅壷よりあめにぬれて、 | 梅つぼより雨につ(ぬ歟)れて | |
人のまかりいづる | 人のまかりいづる |
人のまかづ(てけ一本)る (殿となりける一本) |
|
をみて、 | を見て、 | を見て。 | |
♪ 203 |
鴬の 花を縫ふてふ笠もがな |
うぐいすの 花をぬふてふかさもがな |
鶯の 花をぬふてふ笠もかな |
ぬるめる人に きせてかへさむ |
ぬるめる人に きせてかへさむ |
ぬるぬる人に きせてかへさん |
|
かへし、 | 返し、 | ||
♪ 204 |
鴬の 花を縫ふてふ笠はいな |
鶯の 花をぬふてふかさはいな |
|
おもひをつけよ 乾してかへさむ |
おもひをつけよ ほしてかへさむ |
||
むかし、男、
梅壺より雨にぬれて人のまかりいづるをみて、
むかし男
むかし男が
これは著者だが、ここでは
むかし、二条の后に仕うまつる男ありけり
(95段)
むかし男、後涼殿のはさまを渡りければ
(100段)
という後宮の文脈。
梅壺より
梅壷から
梅壺
:後宮の一つ。女御などが居住した他、東宮御所や摂政・関白の詰所ともされたとのこと。
後宮には基本、男は入れない。貴族でも入れない。
仕事でなければ。
仕事とは上の定義の後段の人物達も含まれるが、そのような人々と裏づける描写はなく、「雨にぬれ」ることは相容れない事情。
男がたまたま、梅壷の人を見た?
本当適当。たまたまで入ったり通ったりする所じゃねーだろ。
しかも歌で名を轟かせる人物だろ? 名前出してねーけど、それくらい特定しろや。あー業平!ってそっちじゃねーよ。そいつは出てきたほうだよ。
花を縫うだ、縫う。
さらにここでは前段での、女の頭に経験人数分の鍋をのせる祭に掛けて、
そういうことは見るべきことではない、人前にさらすべきことではないという文脈。
ここでも著者は当然そう認識した。それ以上・以外のことは文中にはない。
適当な妄想で上書きするなよ。
雨にぬれて人のまかりいづるをみて
雨に濡れて人が退出してきたのを見て。
まず普通に考えてくれ。梅壷がどういう建物なのか。だから明示しているのだ。刈穂のイオなどではない。
上記の身分の例示(東宮・関摂)を現代に置き換えてくれ。しかも昔だ。
そこにいるのは著者のような凡民の階級では、ありえない。
著者は超例外なのだ。賤しい階級が、ズバ抜けて和歌が上手いと思わないだろ? 伊勢の候補に一ミリも挙がらないだろ? それと同じだ。
だからそういう連中は雨に濡れて出てくることなど本来ありえないのだが、そうなっている。
つまりそうせざるを得なかった。急いでいる。
しかもどこかに行こうとしているのではない。退出して・逃げてきたのだ。著者はそう認識している。
つまり入るべき人じゃない人が入った。
つまり資格ない男。まず業平のような不逞の輩。女目的の男。女ではない。
「人」とするのは、曖昧にした嗜み。
後宮だから、女であれば「人」とする意味が全くないし、女達に急ぐ理由は何一つない。そういう立場の女が入る所ではない。
前段の文脈からすると、分別があれば、こう推測できる。
女が誘惑した? 本気か? 後宮の話だ。
なぜ場所を明示していると思う。そういうことしか頭にないのか。
後宮にいる女達の気性を少しでも想像してくれ。そんなことすると思うか?
朝帰り? そんな記述はどこにもない。
それが大事なら「つとめて」と65段のように端的に書く。そこも後宮の話。
そもそも、後宮はそういう馬の骨が用を足す場所ではない。
当り前すぎて抜けているのか、それとも理解が及ばないのか。
勝手な補いが多すぎる。
だからむかし男は業平とか言えてしまう。
鴬の 花を縫ふてふ 笠もがな
ぬるめる人に きせてかへさむ
鴬の 花を縫ふてふ
鶯の 花を縫うという
鶯は渡り歩く男、花は縫殿の女の例え、
花を縫うとは、男が忙しく飛び回る様。
笠もがな
傘があれば
もがな
:あればいいなあ。
ぬるめる人に きせてかへさむ
熱くほてった人に きせて帰そう(かな)
ぬるむ 【温む】
:なまあたたかくなる。熱っぽくなる。
ぬる 【濡る】→△
濡れるとかけているが、それだけでは「ぬるめる」になりようがないので、濡れる人とだけするのは誤り。
ほてったと解するのは、おもひを火などと見れば当然の対比だろう。てか、なぜそう思わない?
「ぬるめる」だ。「ぬるめる」。
なんで「め」があると思っている。自分らの都合で無視すんなや。
鶯が花を飛び交って笠を縫う?
当時の歌謡? 比喩でしょうが。そんなものかぶれるわけない。
ありえない物を歌ってどうすんの。
だからありえないおかしさを表現しているの。なんでマジに文面通り捉えるわけ? おかしくないの。
かへし、
鴬の 花を縫ふてふ 笠はいな
おもひをつけよ 乾してかへさむ
かへし
鴬の 花を縫ふてふ 笠はいな
今忙しい(渡っている最中)から 笠はいらん
おもひをつけよ 乾(ほ)してかへさむ
ちっとは思い致せや かわしていくから、もう帰して
とおせんぼすなや。
え? あんた誰。不審人物?
乾してを、ほしてに普通当てない。それなら干して。
だから「乾」の読みと掛けて、カワして。
おもひつく 【思ひ付く】→×
:好ましく思う。好きになる。
命令形と相容れない。
二つの歌をリンクさせているのは、著者の趣向。
この状況で相手が詠んでるわけない。普通に考えてくれ。
濡れて急いできた人が、突如ここまでの掛かりで歌えるわけない。
これは著者の万葉を読み込む時の手法を応用している。
万葉では鶯は梅の花とセットでよくあるので、それに掛けて。
あなたの思いの火をつけて下さい? 学芸会のカチカチ山か?
どうしてそんな意味不明な解釈で、褒め称えられるわけ? 賞賛すら受け売りなの? サクラ? これ梅の歌。ちっとはうめーかなんつって。
鶯と梅の花なんて、花札にもある定番のワンフレーズ。そこは感心する所では全くない。
花を縫う(渡る)と縫殿のわたしに掛けている。
みんなほんと頭なんなんだよ。自分の頭を少しは使って考えようよ。
勅撰学者に突撃するのが正しい・合理的だって言われたらするのかよ。するんだなあ、これが。
それだと頭に鍋かぶる祭と同じだって。
意味全然考えてない。鍋はかぶるもんじゃない。空襲用のヘルメットでもない。
一応前段の話だからな。そういうの一切無視してっけど。
もうどっから手をつけたらいいの? あ、放置ね、放置。