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第113段 短き心 |
伊勢物語 第四部 第114段 芹川行幸 |
第115段 みやこしま |
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むかし(男=著者が)、仁和帝が芹川に行幸された時の話。
今はもうそのようなこと(初段で初々しく信夫摺の狩衣の袖に歌を書いたこと)は似つかわしくないと思ったが、
元々御付でもあったので(狩の供。歌要員。69段参照)
大鷹の鷹飼として侍らせている者の摺柄の狩衣の袂にと言われ、
何や、おお? タカかいな…
高そうな 服に何さす このオッサン
と書きつけた。
翁さび 人な咎めそ狩衣 けふばかりとぞ 鶴も鳴くなる
爺のするさぶいことで服汚しても咎めんでな。
今日だけやから。
かくもなくなる。
爺ってもちろんワシね。それ以外ないだろ常識的に考えて。
ワシもう消えるんで堪忍なと掛け、書いてすぐ消えると解く。
その心は、書いてもすぐ消えるので安心よ。
…んなわけあるかーい
あ、これはですね、
ツエーワシは消えて、鷹匠と鷹は奮い立ち、よーわからんけど今日は鶴も張り切って鳴くやろ、そういう意味です、はい。
いやちょっと待って、鶴の鳴き声ってケーンって言うらしいでしょ? え、消えーん!ってこと?
まずいじゃん! デリカットじゃん! 裾カットじゃん! え、ウルフがいいねん? ちゃうねん、ウルフルズでええねん?
あ~やっぱおれ天才…ですか?
すると、公のお顔のお色が悪くなった。
(おおやけに御顔が悪いですな! あっ…笑えばええのに。代打・松本。トータスね)
おおやけとは、帝をぼかした言葉。
そら、あの有名な伊勢のエピソードに掛けて、超みやびな歌を、余の冥土の土産に歌ってくれる~とwktkしてたらこれだもん。
著者としては、そういう歌じゃねーから!って言う、心の余裕を見せてほしかったのね。そしたらマトモなの詠んだかもね。
それで、この流れを汲むのが百人一首15(光孝=仁和)の
「君がため春の野に出でて若菜つむ わが衣手に雪は降りつつ」
しかしこれもやはり百人一首1を受けてフザけたものであった。
「秋の田のかりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ」
だから百人一首15も著者の作。「君がため」とは代作という意味。
爺つーのは、自分の年齢を言ったのだけど、若くない人は聞き置いて、老い先短いだろうけど参考にして下され。
老いも、おいおいって聞き流して笑えばええねん。
だからワシ・タカ・ツルの鳥掛かりの話ね。
爺の自称ワシに掛け、鷹をネタにしたら、ツルっとすべりました。
猛禽類で鶴はもう来ん。着物ももう着れんし、お後はよろしくありませんでした。
~
え、老い先短くて「狩(衣)は今日だけだ」? ん~大丈夫? 人生これまでだの爺武男さん?
老人のようなのを咎めるな?? やばすぎでしょ。含みも何もない。
狩衣は今日だけだとつるが鳴いている?? ん~頭大丈夫? 幻鶴?
だから自虐って言っとるがな。ネタ。それが第一義。そこに皮肉を混ぜている。
笑いを理解できない人はわらえないよ。だからすぐ危うい文脈になる。
つか訳が日本語としておかしいでしょ。それは著者のせいじゃない。理解の問題。
本段の歌と近似する歌が、後撰集1076に行平作として収録されている。
(「鶴」を「たつ」に変更。この時点でトリの掛かりを全く無視)
しかしこの人物認定は誤り。根拠は以下の通り。
伊勢の内容は2段「奈良の京は離れこの京は人の家まだ定まらざりける時」からこの段に至るまでの、800年初頭から880年までの内容であること。
本段「仁和」元号は、これまで帝の表記、田村・水尾という墓所名(77・69段)ではないこと。つまり887年以後の記述ではないことを示していること。
この時点が物語の末尾であること、つまり伊勢はこの頃に成立したということは、他の表記とも符合すること。
(107段で藤原敏行を立場が低い内記とする。衛府の肩書は重んじて記されるが(77・87・101段)、敏行は少将に886年、衛府督は897年)
伊勢の「むかし」とは主観的相対概念で、それをもって古今以後とは言えず、回想の意味や「今は昔」同様、将来の目線を想定した言葉であること。
そして、伊勢の歌を業平と認定する古今は905年、本段の歌の行平認定の後撰は957年頃の成立で、いずれも伊勢の内容の後であること。
その大元である古今は、顕著に伊勢の影響を受けていること。
(最も厚い恋愛、詞書の突出した最長が筒井筒の歌で295文字、二番目が東下りの252文字。いずれも伊勢を象徴する話)。
この影響が後撰集にも確実に波及している。
後撰1076は、1075の行平の歌に都合で付け足したと見て、何ら差し支えない。こういう抱き合わせの誤魔化し認定は、ちはやぶるの歌と同じ。
古今の業平認定は、伊勢が業平の歌集ということが前提だった(それは現状のように二条の后との風評に基づく。6段。逆に言えばそれしかない)。
しかし本段からその認定は明らかに成り立たない。つまり細部の不都合は無視して認定したからそうなったのだが、その疑問が後に当然の如く提出された。
しかるに勅撰歌集の認定を否定し覆すことは、当時の人々にはできない。というよりそれを金科玉条とし、誤りとは思えなかった。現状と同じ。
したがって業平説を維持すべく、兄の行平を都合であてがい、ついで理解不能だった部分も勝手に丸めて補った。これは業平認定と全く同じ構図。
つまり捏造。虚偽の不都合を、更なる場当たり的虚偽で塗り固めた。古今の認定が間違いなどではありえないのだからと。今でも同じように。
伊勢の一貫した時代内容を無視し、一方的に、古今や後撰より後に成立したと見ることは、その認定を維持しようとすること以外根拠がない。
そして、その大元をなす業平認定には、根拠がない。歌集である古今や後撰には必ず参照元がある。しかしそれは伊勢以外に確認されていない。
どこかにあるはずだと想定すること自体不自然で、それ自体伊勢以外に根拠のないことの証。
伊勢はそれ自体で十分に実績を残し、不動の地位を確立しているにも拘わらず、それを無視してまで。
そして肝心の伊勢は、初出の63段の在五の「けぢめ見せぬ心」から始まり、業平を登場段全てで非難している(当時から混同された著者の防御策)。
端的に「もとより歌のことは知らざりければ」とし、客人に失礼なことを言ったのに行平は咎めもしないと咎める(101段)。
行平は二度も名指しし、いずれも(最悪な)業平とセットで出した(79段・101段)。
そのような人物を、突如ここだけ無表記で著者のように表記する理由が何一つない。むしろ全く相容れない。
伊勢より後に成立した歌集、第三者の認定を、当然のように伊勢本体に還元することはできない。本末転倒。倒錯で盗作。
業平という認定自体が妥当であるかの判断(つまり伊勢自体の内容読解)を避け、外部の資料から物語の成立を、中身を悉く分断させようとする。
だから至るところで矛盾する。
男女 及び 和歌 |
定家本 |
武田本 (定家系) |
朱雀院塗籠本 (群書類従本) |
---|---|---|---|
第114段 芹河に行幸(芹川行幸) | 81段後に挿入 (時系列操作) | ||
♂ | むかし、仁和の帝、 | むかし、仁和のみかど、 | 昔。ふか草のみかどの。 |
芹川に行幸し給ひける時、 | せり河に行かうし給ける時、 | せり川のみゆきし給けるに。 | |
なまおきなの。 | |||
いまはさること似げなく思ひけれど、 | いまはさる事にげなく思ひけれど、 | いまはさることにげなく思ひけれど。 | |
もとつきにける事なれば、 | もとつきにける事なれば、 | もとつきにけることなれば。 | |
大鷹の鷹飼にて | おほたかのたかがひにて | おほかた[たかイ]のたかがひにて | |
さぶらはせ給ひける、 | さぶらはせたまひける。 | さぶらひ給ひけるを。 | |
摺狩衣の袂に、 | すりかりぎぬのたもとに | すりかりぎぬの袂に。 | |
書きつける。 | かきつけゝる。 | 鶴のかたをつくりてかきつけける。 | |
♪ 195 |
翁さび 人な咎めそ狩衣 |
おきなさび 人なとがめそかり衣 |
翁さひ雖年七十 人なとかめそ狩衣 |
けふばかりとぞ 鶴も鳴くなる |
けふ許とぞ たづもなくなる |
けふはかりとそ たつもなくなる 行平歟 |
|
おほやけの御けしきあしかりけり。 | おほやけの御けしきあしかりけり。 | おほやけの御きそくもあしかりけり。 | |
おのがよはひを思ひけれど、 | をのがよはひを思ひけれど、 | をのがよはひ思けれど。 | |
若からぬ人は聞きおひけりとや。 | わかゝらぬ人はきゝおひけりとや。 | わかゝらぬ人きゝとがめけり。 | |
むかし、仁和の帝、
芹川に行幸し給ひける時、
むかし仁和の帝
光孝天皇(830- 887年〈仁和3年〉≒57歳)
文徳天皇の弟。
今までの天皇の呼称としては
文徳→田村(~858年。77段)
清和→水尾(~876年。69段)という墓所の呼び名だった。
なのにここでは年号。人を定義する言葉は、伊勢では明確に意図をもって区別している。
例えば101段の左兵衛督行平、107段の内記の敏行。敏行も右兵衛督(中将)になるが、それは897年。少将は886。
肩書は最初の「二条の后」がそうであるように、基本全て最高を用いているから、つまり書かれたのは古今の905年以後ではない。
著者が886年頃までに既に書き上げてないと、その辺りで肩書を線引きする意味がない。またそのように解することで記述と完璧に整合する。
仁和だから、885-887年に限定。行幸の記録が886年にあるらしい。
著者(女方にいて二条の后に近かった六歌仙)の没年は885年頃とされ整合する。
記述の上では、この帝とほぼ同時期か少し前に果てたと。だから著者は翁と言っている。
終盤に来て、全て短文で済ませていることとも符合する。
この点、業平(880没)が著者ではないのは問題ない。
それで次に行平を当てがうと。あまりに場当たり的。
芹川に行幸し給ひける時
芹川に行幸しなさった時
886年とのこと。
芹川:
京都市伏見区を流れる小川。
京都市右京区嵯峨を流れる小川の古名。
滋賀県彦根市を貫流する川。
どれかは不明。住吉行幸(117段)でも同様。
「翁」の解釈とも、物語全体の方向性(2段・西の京)からも特定する意味で書いていない。むしろぼかす意味がある。
(塗籠のみ:なまおきなの)
いまはさること似げなく思ひけれど、
もとつきにける事なれば、大鷹の鷹飼にてさぶらはせ給ひける、(塗籠のみ:鶴のかたをつくりて)摺狩衣の袂に書きつける。
なまおきなの
いい加減な・中途半端な老人が(?)
→後撰集の認定を、勝手に持ち込むために捏造しないように。
いまはさること似げなく思ひけれど
今は(もう)そのようなことは似つかわしくないと思うが、
「いま」とあるが、この段では、「むかし」を振り返って書いているという意味ではない。
冒頭の「むかし」は、「今は昔」と同じ。見られる遠い未来を見越している。
物語前半は時間差のある回想も多かったが、ここに至ればほぼリアルタイム。それが墓所ではない「仁和」に出る。
もとつきにける事なれば
元々付いていたことであったので
これは
①自分の性分として身についていたこと、つまり初段の「信夫摺の狩衣」のこと。「摺」とは、その意味でしかない。
②元々こういう御付についていたこと(つまり文徳天皇には好まれた。69段の伊勢斎宮の親の発言「常の使よりは、この人よくいたはれ」)、
③これらをまとめて、この記述は他人の後付ではない、として作品の一体性を保持する意味。
④その帰結として、業平を明確に排除する(初段及び全体の一体性を保持し、この時点で死亡の業平は主人公ではありえない)。
そうすると次は行平認定。初段は無視。
今まで行平は名指ししたことも無視。なぜなら勅撰だから。
それを盲信という。
大鷹の鷹飼にて
大鷹の鷹飼として
さぶらはせ給ひける
お供させていた
(塗籠のみ)鶴のかたをつくりて
これは後撰集の「かりきぬのたもとにつるのかたをぬひてかきつけたりける」という詞書を受けて織り込んだ内容。
裾に書かせるのだから、こうなのだろうという。捏造。しかも陳腐。
摺狩衣の袂に書きつける
摺狩衣の袂(袖口)に書き付けた
摺狩衣(すりかりぎぬ)
:今でこそ辞書に載っているが、
これは初段の「信夫摺の狩衣」を受け、摺柄の狩衣を省略した著者の言葉。
絞り狩衣などと言わない。調べても出てきやしない。
袂に書き付けたとは、著者の初段の話が、帝にも伝わったから(都度リリースしていた)。
でなければ、摺りの狩衣と明示して、しかも袖に文字を書く理由がない。
それで、あの話があるが、それをやってみてということ。すんなり通るでしょうが。
珍しい着物を着ていた?
摺柄は珍しい? んなわけない。だから鶴ですか、そうですか。
当初の認定がまずくなると自分達で証拠捏造って、国のお家芸? 勝手に自分達で作り変えるなって。
翁さび 人な咎めそ 狩衣
けふばかりとぞ 鶴も鳴くなる
おほやけの御けしきあしかりけり。
翁さび 人な咎めそ狩衣
爺らしさと 人が咎めないか 狩衣も
爺は著者と帝(57歳?)の両者にかけている。
なお、帝はこの翌年に。そして著者も大体同様。
さび(さぶ):
①…のよう、らしく振る舞う、
②【荒ぶ・寂ぶ】荒れた気持ちになる。
(③歌で一番盛り上がる所。北島)
これを同時に掛けている。
咎める人は、鷹匠と周囲の目のこと。
帝であればそんなことは気にする必要もない。
だからそういう意味ではないと察して欲しいということ。
けふばかりとぞ 鶴も鳴くなる
今日だけはと 鶴もナキますん
いや~これで鷹も力づいて、鶴もいなくなる、じゃなかった、今日こそは鳴きますわ(適当)。
鶴ってなに? 一声じゃない?多分。いやだけど、やるっきゃないって。
狩(衣)は今日だけだ(と鶴も鳴いている)
→???
意味不明。爺武男さん? これまでだ。
何言っているんですか。世が世なら即死罪。
それを言うのは、好々爺っつーか笑いのボケを超えたボケ。
純粋な文章としてもない。鶴がそんなん鳴くわけない。
鶴が「オマエ(御前)は今日だけだー」鳴きます? どんな仕込み? 淳二級に怖いよ。あれ~おかしいな~。
和歌はそういうもの? ちがうがな。読解力・象徴表現の理解が無いだけ。
だから旧かな短歌は10%しか意味をとれていないというのは、とても謙虚。
ただ伊勢に限れば、意味を全く取り違えているから、限りなく0。
おほやけの御けしきあしかりけり
公(帝)の顔色が悪くなった。
だから相手に合わせて超単純にしないと。
人麻呂みたいなアゲアゲでエブリデイ。だから人麻呂も翼賛したんじゃない。相手に合わせただけ。
あ、一応、公(≒大衆、公僕)という時点で、他の人よりナメてる(いとなめし・105段)。
おのがよはひを思ひけれど、
若からぬ人は聞きおひけりとや。
おのがよはひを思ひけれど
己の齢のことを思って書いたのだが
(もちろんボケ。世が世なら命はないが、そこら辺は当然、見極めている)
若からぬ人は聞きおひけりとや
若くない人は聞き置いてくれと
聞きおひけり:老いと聞き置ひを掛けている。
つまり老い先短い人は、聞き流して。
「聞きおひける(聞き置き)」は、まんま108段で出てきた。その時は著者が、他人の変なことを聞き流した。
我関せずで聞き流すという意味。だから真に受けてはいけないよ?
もし同じことをして失命しても責任は負いません的な表現だが、そんな状況に至ることは普通はない。
普通なら若い人の参考に。だからこういう意味。
だから落とした塗籠はある意味無難。塗籠らしいが、累が及びかねないから、ここはそれでもいいだろう。
しかしそれが勅撰・公の限界。都合の悪いことは落とし墨で塗り、表現を勝手に改変。
現代でも、記録を残せという自分の記録を抹消するという渾身のギャグ。でも珍しいことじゃない。
文化というのに消すとはこれいかに。つまり野蛮。