← |
第103段 寝ぬる夜 |
伊勢物語 第四部 第104段 賀茂の祭見 |
第105段 白露 |
→ |
「賀茂の祭見にいでたり」
賀茂の祭は、上賀茂と下鴨の二つの神社祭。会場は下鴨。時期は5月。
祭の主役は勅使と斉王(伊勢斎宮と対で斉王と称される)。したがって、本段ではその両者と、むかし男と伊勢斎宮と対比させている。むかし男は、60段の宇佐の使、69段の狩の使、71段の内の御使と記された(ただし60段は時間軸が違う。むかしは古の意味)。
祭を見に来た斎宮は、102段で「京にもあらず、はるかなる山里に住みけり」とされる。
「いでたり」とは、そこから二条近辺(京=街の中心)に出てきたという文脈。
「はるかなる」とは、斎宮=帝の娘が住むには、離れているという意味。距離的には上賀茂辺りとさして変わらないだろう。
これは、著者(=昔男)の母が宮で、長岡に住んでいたことも多少リンクする(84・58段)。距離はその3~4倍。
なお、著者は業平ではないことは当然。
著者は二条の後宮、縫殿に勤めている男(95段で「二条の后に仕うまつる男」、100段で「後涼殿」の記載がある。大体★の位置)、そこそこ気軽に見に行ける距離だろう(約4km)。
しかし距離を測ると、上賀茂とは5kmで実はさほど変わらない。
かつての伊勢斎宮が、籠っていた山里(102段)から賀茂の祭を見物しに来た時の話。
ずっと気にしてるから、と男が歌を送り(69段であはむとした約束。だから見に来た。祭じゃなく君を見に来た)、次段で続くやりとりをする。
~
むかし、相変わらずコトが成就することがなく、尼になった人がいた。
形をやつしたが、心は相変わらず惹かれていたので(物やゆかし)、
賀茂の祭を見に出てきた所、男が歌を詠んでやる。
世をうみの あまとし人を 見るからに めくはせよとも 頼まるゝかな
世に倦み疲れ 尼になった人 見るからに 目配せせよとも 頼まれてもないが
その心は、尼の姿が心苦しくて見てられんくて、気になるアマり見ちゃいます。
何か頼みごとがあれば、目配せしてくれれば。(できることなら何でもするよ)
これは、斎宮が物見される車と、そう聞こえてきたので、
見に行って(京に)帰ってきてくれればいいなと、思ったそういう話。
~
あのさ、尼を海女とかけ、めくはせを海藻(め)食わせとかさあ。チョまてよ。意味不明すぎるでしょ。
アマ*メで、ピコーン 海藻! はい? これが暗記教育の集大成。知識の意味を全く考えない。無意味に覚え、ただ吐き出す。
どれだけおかしくても気にしない。だってそれが正解だもん。超賢い人が超考えているんだもん。俺らは従っているだけ。何も悪くないもん。
そしてだーれも考えず、延々おかしなことを再生産し、責任転嫁し続ける。これがこの社会の構図。
海女にかける意味がひとっつもない。まして海藻にかける意味など、ありうるわけがない。賀茂って賀藻のことだったのか?
なんなんだよー涙 やめてくれよー涙
しかも、男が何かにつけて色目線で言い寄る話にするの、ほんとやめて(泣) きもいから。
前段でそういう文脈、もの凄い拒絶してたじゃない。
たった一つ前の前段だからね、遠い昔の話じゃない。
むかし男ありけり。いとまめに、じちようにて、あだなる心なかりけり
→すごいマジメで、実直で誠実で、不誠実な浮気心なんてありません!
こう書いても、なおその直後に言い寄る話にされるんだよ?? いや、すんごい我慢してたけど、もう、ったまおかしーだろこれ。
その後で業平の寝る云々の歌を「さる歌のきたなげさよ」って、あからさまに拒絶してるのに、言を左右に目を背ける。塗籠なんて完全無視。
言葉をちゃんと受け止めて。自分らに都合よく捻じ曲げないで。解釈と付け足しは違う。解釈は字義に即しその枠内で説明することだからな。
102段で男が歌を詠まなくなったと言ってるのは(歌はよまざりけれど)、そうやって滅茶苦茶汚され続けるから、だからな?
この物語の全体の解釈もほんと支離滅裂だよ。よりにもよって主人公が業平?? 著者に自○しろと言っているに等しい。
歌も乗っ取られて、伊勢全体もついでに(?)乗っ取られてな。どんだけだよ。最低の淫奔と最高の慎みの区別もつかない。終わってんだろ。
この段の解釈でも、むかし男はどこいったんだよ。102段出すんならテキトーに無視すんなって。
目配せっていうのは、女方に仕えている男の配慮のことを言ってるの。
95段二条の后に仕うまつる男ありけり。女の仕うまつるを、つねに見かはして、よばひわたりけり
つまり、目配せで呼ばれ頼まれ、行き来している。
よばひわたりは夜這いではない。しかしそう解されない。ほんと頭ん中そればっか。
宮中のしかも女方に仕える男が夜這いするかよ。ソッコークビだろ。それは色々緩い人達の話でしょうが。伊勢の著者は違う。明確に拒絶している。
何より63段で在五に「けぢめ見せぬ心」と不快感を露わにしとるがな。
65段で宮中でも靴を放り投げ作法を守れないと一々描写してるがな(主殿司の見るに、沓はとりて奥になげ入れてのぼりぬ)。
本段の最後も「見さしてかへり給ひにけりとなむ」って、このような色目のキモ男が寄ってきたから、物見を止めて帰ったんだって?
は?? みさしてが「見止して」? 辞書にも載ってるけどさ。この部分が出典で。
場当たり的なこじつけを、辞書にのせて正当化するなよ。これ、業平認定と全く同じ構図だろ。
だったら次段で、いつもの冒頭の説明が何もなく、いきなり男女のやりとりから始まるのは何なんだよ。無視かよ。つか海藻男、誰だよ!
69段-75段で、散々二人で会おうとしていた話はなんだったんだよ!! 伊勢物語って何なんだよ! それで海藻男かよ。
死してなお、なぜここまでの耐え難い辱めを受け続けなければならんの?? やめてよ、もう。
男女 及び 和歌 |
定家本 |
武田本 (定家系) |
朱雀院塗籠本 (群書類従本) |
---|---|---|---|
第104段 賀茂の祭(見) | |||
むかし、 | 昔、 | 昔。 | |
ことなる事なくて | ことなる事なくて | ことなる事なくて | |
♀ | 尼になれる人ありけり。 | あまになれる人有けり。 | あまになれる有けり。 |
かたちをやつしたけれど、 | かたちをやつしたれど、 | かたちをやつしたれども。 | |
物やゆかしかりけむ、 | ものやゆかしかりけむ、 | 物ゆかしかりけん。 | |
賀茂の祭見にいでたりけるを、 | かものまつり見にいでたりけるを、 | かものまつり見に出たるを男 | |
をとこ歌よみてやる。 | おとこうたよみてやる。 | 歌を一本よみてやる。 | |
♪ 180 |
世をうみの あまとし人を見るからに |
世をうみの あまとし人を見るからに |
よを海の 蜑とし人をみるからに |
めくはせよとも 頼まるゝかな |
めくはせよとも たのまるゝかな |
めくはせよとも 思ほゆる哉 |
|
これは、斎宮の物見たまひける車に、 | これは斎宮の物見たまひけるくるまに、 | ||
かくきこえたりければ、 | かくきこえたりければ、 | ||
見さしてかへり給ひにけりとなむ。 | 見さしてかへりたまひにけりとなむ。 | ||
むかし、ことなる事なくて、尼になれる人ありけり。
むかし
ことなる事なくて
相変わらずコトが成就することなく
さしたることがないのに尼になるという訳→完全に意味不明
ことなる 【事成る】:
①物事が成就・成立する。
②物事が始まる。
これを異なるともかけ、事なる事なくというトンチ的表現。
成就とは、69段で男女が人目を忍んで二人だけで会おうと言って会えなかったこと。
この時は斎宮の方から深夜に訪ねてきてくれたが、童がついてきて二人で寝れなかった。
尼になれる人ありけり
尼になった人があった。
102段あてなる女の尼になりて
…斎宮の宮なり
斎宮は本段末尾とも符合し、69段の伊勢斎宮。
「事成る」とは、男目線でいえば男と結ばれること(60段・62段参照)。
コトは床とかけ、69段の二人で人目を忍んで夜寝ようとしたが童がついてきて寝れなかったこと。
しかし、最後に歌で盃を一緒に用いた(続松の盃)。
なお、今までの展開から当然だが、相手(主人公)は業平ではない。
著者(主人公)は、業平を断固拒絶している。
63段在五中将…この人は、思ふをも思はぬをも、けぢめみせぬ心なむありける
65段在原なりける男…女のある所に来て…人の見るをも知でのぼりゐければ
82段惟喬の親王…その時右馬頭なりける人を常に率て…その人の名忘れにけり
103段みこたちの使ひ給ひける人…さる歌のきたなげさよ
かたちをやつしたけれど、物やゆかしかりけむ、
賀茂の祭見にいでたりけるを、をとこ歌よみてやる。
かたちをやつしたけれど
姿形をやつしたけれど
やつす 【俏す・窶す】:
①服装を目立たないよう、みすぼらしくする。
②僧や尼の姿にする。
物やゆかしかりけむ
その心には心惹かれるのであった。
何となく心惹かれて祭に出た→×
これは女の目線ではない。伊勢物語は終始一貫、昔男の目線だというのはいいよな?
ゆかし:
①見たい。聞きたい。知りたい。
②心が引かれる。慕わしい。懐かしい。
「もの」は、者とも接頭語とも言える。
「かたち」と対置させて心。
「ゆかし」の心惹かれると掛かって心。
2段「かたちよりは心なむまさり」。
賀茂の祭見にいでたりけるを
賀茂の祭りを見に出てきたので、
賀茂の祭
:上賀茂と加茂御祖(下鴨)で、現代の暦で5月15日(旧四月)に行なわれる例祭。
祇園祭が庶民の祭で、賀茂祭は貴族朝廷の祭だったとのこと。
祭の主役は勅使と斉王(伊勢斎宮と対で斉王と称される)。
御輿に斉王(巫女)が担がれているのは、それが神社の神体(分身)だから。
本段ではその両者と、むかし男と伊勢斎宮と対比させている。
むかし男は、60段の宇佐の使、69段の狩(伊勢)の使、71段の内の御使と記された。つまりそういう存在。だからこの影響力。
(ただし60段は時間軸が違う。むかしは古の意味)
102段で彼女は「京にもあらず、はるかなる山里に住みけり」とされる。
普通の(京以外の)感覚だと、賀茂なら問題なく京だが、こういう話題は特有の表現に注意。
まず「京にもあらず」で「はるかな」と重ねていることが怪しい。
というのも、斎宮は帝の娘だから。
したがって、ここでの「京」は、かつての京中枢のことで、「はるか」とは今の感覚ではそこまでの距離ではない。京外縁という意味。
中心の概念なので、相対的で外から見るほど外縁が広がるが、内から見るほど限定される。
ここでは、居る所(山里)から「いでたり」とあるので、山から離れた下鴨に出てきたと。
しかし尼(世捨て)とは、神社(斎宮「世の中を思ひ」102段)とは相容れないのだが、
なんともな、という男の心苦しい思い。
なお、寺社という表現は、神を重んじる人は避けるべし。
仏はただの被造物。だから天上天下と独尊するし、般若の心を唱えている。般若とは鬼。天邪鬼。だから歪んだ形相。
だから救えないし救いがない。説明もできない。所詮被造物だから。すべて幻想とか何とか言って嘯いて誤魔化している。それが釈迦力(必死)。
そこで、
をとこ歌よみてやる
男が歌を詠んでやる。
世をうみの あまとし人を 見るからに
めくはせよとも 頼まるゝかな
世をうみの あまとし人を 見るからに
世に疲れ 尼になった人を 見るからに
世をうみ:「あてなる女の尼になりて、世の中を思ひ倦んじて」(102段)
めくはせよとも 頼まるゝかな
目配せしろとも 頼まれてないがな
その心は、尼の姿が心苦しくて見てられんくて、気になるアマり、ついつい見ちゃいます。
ま、それだけじゃないけどな。
めくはす【目くはす】
:目くばせをする。
尼でも、目配せしてくれれば、気にしちゃう? はい? 誰? めっちゃきもいしょ。そうじゃねーよ。
69段から今までの文脈は一体…
って、めが海女とかけて海藻のメ? 海藻食わして?? はいはいはいはい? どうなってるんだーー!! 完全に意味不明。なぜ海藻??
祭りを見に来た斎宮に、突如出現した謎の男が色目をつかって、海藻を食わせてくれ、ってマジかよ!?!? かなりの狂気を感じる。
何でもかんでも同じ音なら良い訳じゃない。掛かりというものに無理解すぎる。センスなさ過ぎ。日本の和歌の理解終わってない!? これ伊勢だよ!
意味ないことをあると言い張るのがナンセンス。学者達の理解がこれなの?? まじで!?!? 唖然というレベルじゃない。
滅茶苦茶やらかして、知った風にして誤魔化すなって。さらしてるだけじゃん。
なぜ海藻。
素直に目配せ・頼まれでいいでしょうが。それを言い換えた表現が、
95段二条の后に仕うまつる男ありけり。女の仕うまつるを、つねに見かはして、よばひわたりけり
つまりこちらは、目配せして頼まれ呼ばれ、行き来しているのである。
夜這いではない。しかしそうは解されない。ほんと頭ん中ヤらしいことばっか。あ~もう滅茶苦茶。
いちいち声などかけっかよ。言わなくても分かる位、気にしてんの。
だからここでも、困ったら言ってねっつーか、入用なら目配せしてね、っていってんの。
なーにが色の期待だよ。あーもうきもいよ~。なんなんだよー(泣)
前段で昔男が「いとまめ(真面目)」で「じちよう(実直)」って書いてもがん無視されるよ~。
これは、斎宮の物見たまひける車に、かくきこえたりければ、
見さしてかへり給ひにけりとなむ。
これは斎宮の物見たまひける車に
これは斎宮が物見なさる車と
ものみ【物見】
:見物。(祭りの)
かくきこえたりければ
そのように聞こえてきたので
これは仕事ではないということ。
二条の后の車には仕事でついている(39段・源の至、76段、小塩の山、99段・ひをりの日)。
見さして、かへり給ひにけりとなむ
それを見に行って、帰って来てくれるといいなと(思ったそういう話)
これをもって、みれんたらしいというのである。
ということは、見れたらしいぞ。おー。
しかし男なら未練たらたらしてんじゃね~よ。
だからこの段は「男」から始まらない。女々しい段なのである。
~
みさす 【見止す】
:見るのを途中でやめる。
訳:見物を途中でやめてお帰りになったということだ。→はいい?
どういうことだよ。ちげーよ。文脈からして完全に意味不明だろ。なぜ突如帰るんだよ。
み「さす」はやるという意味。みやる。見に行く、というくだけた意味。
「かへり」が目に入って反射的に結びつけるって。
なんでそうやっていつも場当たり的で超近視眼的なの。主客を悉く真逆に混同する。
次の段で男女がやりとりしてるだろ。帰ってねーって。「となむ」って最後の余韻はなんなんだよ。
102段で「京にはあらじ」ってしたでしょ、斎宮をやめたなら京に帰って来て欲しいんだって。帝の娘なんだから。
海藻食わせてくれって頭のおかしい男に色目使われて、キモ!って思って物見をやめたってか?
あのさあ。この段を書いた意味は一体なんなんだよ。
男は業平じゃねーよ。そうやって手当たり次第、滅茶苦茶にしてコケにするのもいいかげんにしてくれよ(涙)
102段の続きいうなら、あえてそこで親族と言ったむかし男は一体どこに消えたんだよ(涙)
著者の存在その程度かよ。海藻に上書きされるとは。あんまりだ。