← |
第101段 藤の花 |
伊勢物語 第四部 第102段 あてなる女 |
第103段 寢ぬる夜 |
→ |
むかし男が、歌は詠まなかったが、世の中を思い知った。
(最近は詠んでいないという意味。前段で業平のことを酷評した「もとより歌のことは知らざりければ」と対比させ。
思い知ったとは、続く「思ひ倦んじ」と合わせ、嫌気がさしたという意味。
言わば、男の歌が、ことあるたび業平の作とみなされること。だから詠んでいない。うんざり。別に目立つための歌ではない)
他方、
高貴な女が尼になって、やはり世の中を思い知り倦み疲れ、京でもない遙遠くの山里に住んでいた。
もと親族だったので詠んでやる。
そむくとて 雲には乗らぬものなれど 世の憂きことぞ よそになるてふ
と言いやる。斎宮の宮に。
~
本段の歌は、その文面だけでは意味不明。
雲とよそが出た時点で、19段「天雲のよそ」の女の歌を参照する。ちゃんとアマに掛かっている。
天雲の よそにも人のなりゆくか さすがに目には 見ゆるものから
これを合わせると、
憂いたからと、アマになって、フワフワよそに行くなんて、さすがに目にアマる。
どこかに行っても、憂いもどこかにいったりしないでしょ?
(だから戻っておいで。俺のところにくればいいのに。京はその暗示)
この物語で斎宮は、69段の伊勢斎宮しかいない。
伊勢斎宮は天皇の娘なので「あてなる」。
普通なら「やんごとなき」(100段)だろうが、著者は形式の身分は重視しない。
100段でも「後涼殿(帝が手のつけやすい所)」で皮肉で用いているし、「二条の后」も東宮の女御時代とはいえ「ただ人」(3段)。
親族とは、男の母が宮(84段)というのもあるが、それは表面的な理由。
ここでは、60段・62段の内容を受けている。
そこで男女は夫婦だった。
しかし、女はふとヨソの男に気が移って行ってしまい、後に元の男(著者)に会ってその身を嘆き、尼になったり出奔したりする話。
夫婦ということが史実云々はナンセンス。そういうレベルの話ではない。
そもそも伊勢とは天照の場所。だからアマアマ言っている。そいう話は一生ではならない。
斎宮は伊勢の分身。
男女 及び 和歌 |
定家本 |
武田本 (定家系) |
朱雀院塗籠本 (群書類従本) |
---|---|---|---|
第102段 あてなる女 世のうきこと | |||
♂ | むかし、男ありけり。 | むかし、おとこ有けり。 | むかし男有けり。 |
歌はよまざりけれど、 | うたはよまざりけれど、 | 歌はたよまざりけれど。 | |
世の中を思ひしりたりけり。 | 世中を思ひしりたりけり。 | 世中をおもひしりたりけるあてなる女の。 | |
あてなる女の尼になりて、 | あてなる女のあまになりて、 | あまになりて。 | |
世の中を思ひ倦んじて | 世中を思ひうんじて、 | 世中を思ひくわ(う一本)むじて。 | |
京にもあらず、 | 京にもあらず、 | 京にもあらず。 | |
はるかなる山里に住みけり。 | はるかなる山ざとにすみけり。 | はるかなる山ざとにすみけり。 | |
もと親族なりければ、 | もとしぞくなりければ、 | もとしたしかり(しんぞくたり一本)ければ。 | |
よみてやりける。 | よみてやりける。 | よみてやりける。 | |
♪ 178 |
そむくとて 雲には乗らぬものなれど |
そむくとて くもにはのらぬものなれど |
背くとて 雲にはのらぬ物なれと |
世の憂きことぞ よそになるてふ |
よのうきことぞ よそになるてふ |
世の憂事そ よそになるてふ |
|
となむいひやりける。斎宮の宮なり。 | となむいひやりける。斎宮のみやなり。 | ||
むかし、男ありけり。
歌はよまざりけれど、世の中を思ひしりたりけり。
むかし男ありけり
もちろん著者。
歌はよまざりけれど
歌は詠まなかったが
これは含みがある。
以前ほど詠んでいないとも言えるし、
前段の業平へのダメだし「もとより歌のことは知らざりければ」と対比させて
これを裏返し、著者は歌のことを多少知っているという間接的暗示。
世の中を思ひしりたりけり
世の中(の不条理さ)を思い知っていた。
これは21段(思ふかひなき世)の記述を受けている。
いでていなば 心かるしと言ひやせむ 世のありさまを 人は知らねば
とよみおきて、出でていにけり
出て行ったのは、筒井筒=梓弓の女の元から宮仕えに。
もう少しつっこむと、歌の内容からも、心が重いということを言っている。
あてなる女の尼になりて、世の中を思ひ倦んじて
京にもあらず、はるかなる山里に住みけり。
あてなる女の尼になりて
高貴な女が尼になり
あてなり 【貴なり】
:高貴だ。身分・家柄が高い。
世の中を思ひ倦んじて
世の中を思いながら倦み疲れ
うむ 【倦む】
:あきていやになる。つかれる。くたびれる。
普通世の女性は、世のことではなく、自分や家庭の生活のことを考える(悪い意味ではなく)。
それを思っているのは、末尾の斎宮の文脈。
京にもあらず
京でもなく
はるかなる山里に住みけり
はるか遠くの山里に住んでいた。
これは60段(花橘)の「思ひ出でて、尼になりて、山に入りてぞありける」を受けている。
この段も「むかし男ありけり」から始まる。
内容は、夫婦の男の宮仕えばかりで女が出て行き、男が宇佐の使にいったら女が他人の妻として出現し、女は辛さのあまり尼になったという話。
宇佐には伊勢と同じ様に神宮がある。そしてこの60段は69段・狩の使でもてなされる構図と同様。
もと親族なりければ、よみてやりける。
そむくとて 雲には乗らぬものなれど
世の憂きことぞ よそになるてふ
となむいひやりける。斎宮の宮なり。
もと親族なりければ
元は親族であったので
親族とは明らかにぼかしている表現。ここでは深いつながりがあるという意味。
とりあえず世の一般の文脈ではない。だから男が皇族の血をひいていると言いたいわけでもない。
男の母は宮だった(84段)とあるが、それは重要ではない。だからそれ以前に「身はいやし」と前置きしている。
そのような俗の関係の背後には、さらなる昔のつながりがあり、これは一般の理解では絶対に理解不能。
60段を解釈する補助的な段の、62段(古の匂は)参照。この次の段「つくもがみ」は、文脈では憑物神・化物だが、本義は造物神。天地創造の。
だから伊勢と冠する本の著者になっているわけ。天地の地とは地球でこの国に限らない。だから色んな土地の女の子の面倒を見ている。縮図(投影)。
21段「世のありさまを知る」とはそういう人目線の文脈。
なので、
よみてやりける
詠んでやる。
どうしてその行先等の事情を知ったのか等は、ここでは不明。
そむくとて 雲には乗らぬ ものなれど
背くといっても 雲には乗らぬものなれど
世の憂きことぞ よそになるてふ
世の憂きことも ヨソになるという
この文面だけでは意味不明。ここでは雲とよそで、それをアマに掛け、
19段「天雲のよそ」の女の歌を参照せよ。
天雲の よそにも人のなりゆくか さすがに目には 見ゆるものから
つまり、そんなヨソの所までフワフワ行ってしまって、目にアマる。
どこかに行くと、世の憂いもどこかに行くというのか。いかんだろ。
だから戻っておいで。
60段・62段も、この国以前の天地創造の神話も全く同様の構図。
となむいひやりける
と言ってやった。
やりけるを連発して、やれやれ。
斎宮の宮なり
この子は、最初の女の子の一つの分身。いわば末っ子。
肉体のではない。それをいったら全てそう。
最初の男は自身の分身。人に合わせているので、本体より圧倒的バカになっているが、なんとか頑張る。