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第99段 ひをりの日 |
伊勢物語 第四部 第100段 忘れ草 |
第101段 藤の花 |
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画像はウィキペディア「七殿五舎」より。
むかし、男、後涼殿のはさまを渡りければ
本段で建物の名前を明示したのは、校書殿が近いことを示す意図も、若干はあろう。万葉も見れず、この書物を書くことはできない。
塗籠のみ弘徽殿とするが、明確に改変。表現内容(やんごとなき=最上級の敬語)を真に受けてこうなった。自分達の認識に合わせて、内容を積極的にいじっているという証拠。
むかし男が、後涼殿のはざまを渡っていた。
(男は女方に勤めている。95段、65段等)
そこに、あるやんごとない人のお局が、突如
「忘草は忍草や~」と(頭に草が生えたことを)いうて来たので、そのお言葉を有難く頂戴し、
忘草 生ふる野辺とは みるらめど
こはしのぶなり のちもたのまむ
忘草? ココに生えたと 見えますがw
ここはこらえて おきまっせ ほなまたよろしく(サイナラ)
~
その心は、すいません、ちょ~っと何言ってるかわかんない。
けどそれは忍んで言わんでおくわ。そういうことでヨロシク。
この段の内容は、31段(忘草)と明確に符合し、内容も確実に掛かっている。
したがって、頭におかしな草が生えているという解釈も、確実な根拠がある。
大事なことなので全文引用しよう。
むかし、宮の内にて、ある御達の局のまへをわたりけるに、なにのあたにか思ひけむ、よしや草葉よ、ならむさが見むといふ。男、
つみもなき 人をうけへば忘草 おのがうへにぞ 生ふといふなる
といふを、ねたむ女もありけり。
このように全ての表現が符合している。
「宮の内」=後涼殿、
「ある御達の局のまへ」=あるやんごとなき人の御局より
31段で「局のまへ」とは、居住空間の前という意味だったが、ここでは渡りの最中なので、局(人)とすれ違う時という意味。
「忘草を忍草とやいふとて出だせ給へり」とは、草と葉という縁語を「よしや草葉」で導き、縁側でそういう言葉を言ってきたという意味。
「忍草」とは、なんやよーわからんが、
31段の「ねたむ女」=やんごとなき御達が、あん時のこと忘れてへん、根に持ってるいう恨み節。
ヤマちゃんは! 忘れんで~! ほ~う?
せやかてコナン、こんな逆恨みを一々真に受け止めたら身がもたんて。だから右から左へとな。恨みは忘れて楽しくいこーや、なんつってな。
だから最後に、「あ、その節はどーも、草もだいぶ育ったようで何よりです。またヨロシクねん♪」という超スパイシーな皮肉で〆ているわけ。
何でもかんでも、お決まりのように、包んだ恋心とかさあ、私の頭が野原と見えましたか!? とかさあ…。
もうそういうしんのすけ的解釈はやめてくれ~。
どうみても31段と完璧にシンクロしているのに、がん無視かよ~。ピクミンかよ~。何ピクミンなんだよ~。でかい虫(チャッピー)のほうかよ~。
訳はまだはえーから。一から読み直して。
知ったかするより、その方が近道だから。ね?
ピピーッ。
男女 及び 和歌 |
定家本 |
武田本 (定家系) |
朱雀院塗籠本 (群書類従本) |
---|---|---|---|
第100段 忘れ草 | |||
♂ | むかし、男、 | 昔、男、 | むかし男。 |
後涼殿のはさまを渡りければ、 | 後涼殿のはさまをわたりければ、 | 弘徽殿のはざまをわたりたりければ。 | |
あるやんごとなき人の、御局より、 | あるやむごとなき人の御つぼねより、 | あるやむごとなき人の御つぼねより。 | |
忘草を忍草とやいふとて、 | わすれぐさをしのぶぐさとやいふ、とて、 | わすれ草をしのぶぐさとやいふとて。 | |
出ださせ給へりければ、 | いださせたまへりければ、 | さしいださせ給へりければ。 | |
たまはりて、 | たまはりて、 | たまはりて。 | |
♪ 176 |
忘草 生ふる野辺とはみるらめど |
わすれぐさ おふる野辺とは見るらめど |
忘艸 おふるのへとは見るらめと |
こはしのぶなり のちもたのまむ |
こはしのぶなり のちもたのまむ |
こは忍ふなり 後もたのまん |
|
この段は、31段(忘草)と明確にリンクしている。その後日談。
なお、一般に全く言及されないが、
ここで後宮のことを端的に言及したのは、男が女方に仕えているからである。
普通の男は、ここを通ることはできない。業平でもできない。65段参照。
だから「二条の后に仕うまつる男」(95段)として、二条の后の行動(主に外出時)に、しばしば付き添っている(3-5段、39段、76段)。
それが業平との密会などと噂され(6段)、それが現代にまで広まった。
むかし、男、
後涼殿のはさまを渡りければ、
むかし男
むかし男が
後涼殿(×弘徽殿)のはさまを渡りければ
後涼殿の渡り廊下を渡ろうとした所
31段宮の内にて、ある御達の局のまへをわたりけるに
とリンク。つまり同じ人。
この物語でこういう表現はそういう意味。著者はそこまで語彙と表現力が貧弱ではない。
距離を置いて書いているのは、読者も忘れているかもしれないが、という意味。
後涼殿は後宮の一つ(画像参照)。
清涼殿という帝のなじみの居所に最も近い。
つまり簡単に手が出せる位置にあり、そこまで格上ではない。
それらの建物と別で上にあるのが弘徽殿。配置は基本、右で上が上位。
したがって、塗籠は以下の文脈を考慮して弘徽殿に改変しているが、そういうことはしてはいけない。
著者の意図が読めておらず、繊細な文脈を破壊している。
あるやんごとなき人の、御局より、
忘草を忍草とやいふとて、出ださせ給へりければ、
あるやんごとなき人の御局より
あるやんごとないお方のお局より
31段ある御達の局のまへをわたりけるに
やむごとなし
:身分を表す場合、類がない最上のもの。
ここでは「御達」と対応して、そこから上げられている。
後涼殿とは若干釣りあわないが(格上の弘徽殿がある)、上げて褒めている意味。
局:ここでは人、現代のお局の意味で見るべき。
素直に見ると部屋という意味で、31段もそうだったが、
そこからあいまいにさせた表現になっていること、以下の文脈から。
つまり、はざまを歩いている時の話。はざまに部屋はない。
このように情況で同じ文字の意味を使い分けることも、とても良くすること。
その一例が「宮」。人でも場所でもあるだろう。
忘草を忍草とやいふとて
忘草を忍草やといって
出ださせ給へりければ
(何やら)出して下さったので、
つまりこの解釈が本段のキモ。歌のお題。
たまはりて、
忘草 生ふる野辺とはみるらめど
こはしのぶなり のちもたのまむ
たまはりて
有難く頂いて、
たまわるも、最上の言葉。
忘草 生ふる野辺とは みるらめど
忘癖 おいしげるこの辺りでは珍しい
その心は、
おやおや忘れっぽい人が多いここら辺で、私のことをまだ覚えている(31段)なんて珍しい人ですなあ、なかなか見る目あるじゃん?
宮中で野辺という壮絶な皮肉。辺りは渡りとかけている。
つまり上記の表現は、全て本気ではない。この場面に限らないが。
こういう表現を凡の発想で、藤原への対抗とかいったりするが、そんなことはどうでもいい。
親王への田舎(塩釜)にかけた当てつけ(81段)も、真に受ける頭で言ってもしょうがない。はなからそういう頭で見ているだけ。
そういう下賤の発想じゃないから伊勢を残せているって、わかりませんか。
じゃあ帝か!? →ねーよ。 だから地位じゃなくて人格の問題なの。
わたしのことが野原のようにみえたのですか?
おいおい意味不明すぎだろ、ありえないだろ。ハゲを自虐しているのかよ。これで忍んで植毛せよってか? 違うがな。
こはしのぶなり のちもたのまむ
このことは忍んで(忘れて)おきます ではまた後ほど (今後ともよろしく)
そういう何気なーい日常の、ウイットをきかせた挨拶だっての。
恋心を包む? う~ん、どうみたらそうなるの。忍草って、そういう意味の言葉?
「草」って良い言葉じゃないってわかるよね?www これだよ? だから恋とかじゃない。それは間違い。
侍女を通してとか、勝手にどんどん補っちゃだめ。そういうのは古典読解の作法と全く程遠いからね。
まず字句通り見る。断固として文字・語義・語調に即するようにする。
解釈と称し事情(事実。おまけで心情)を、勝手に想像して付け足しちゃだめ。非常に大事なことだから、忘れないで覚えといて。
たとえ訳でも、著者の表現を最大限尊重して。それ自体が元のレベルと同等以上になるようにして。でなければ訳したら失礼。
これはね、めっちゃ、アゲアゲ・エブリデイの話なの。
しかしその実、ボケあって楽しんでいるの。つまり忘れ草って言の葉とかけているの。
31段「よしや草葉よ」。わかります? 縁語よ縁語。それを縁側歩いていた時の言葉に掛けているの。
わからんやっちゃな。ま、これはちょっと難しいけどな。
何でもかんでもアゲまくるのは、人として浅い。言葉が軽い。相応の弁えがない。
男が野原にみえました? 末はひろしか、しんのすけか。んなわけねーよ。
そういやひろしの中の人、藤原だったっけ。良い声だったよね。