昔、ある男が宮仕えに忙しく、妻に良くしなかったところ、良くしてくれる人についてよその国に出て行った。
さて、男がある時、大分の宇佐に仕事でいくと、出迎え役の妻として、なんとその妻が出現した。
男「女、主に(盃を)かわりなさい。でなければ飲めない」(女主人ではない。全く脈絡がないし、62段・69段との相似性を完全無視)
女、そこで、サケのサカナ(アテ)として、橘(ミカン)をとり、これをサカヅキに当て
さつき待つ 花橘の 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする
その心は
さっきまで 待っていたのに 袖にされ 何の因果か わたしはかなし
と言って、思い余って尼になり、山に入ってしまったのであった。
(なお、この歌は男の歌ではない、女の歌。
内容がそうだし、一方的に男が懐かしむ意味も文脈も意味不明。まして女主人とは誰でどういう繋がりだ? 誰かは知らんが昔の人? んなわけない)
盃を相手に出し「主はあなた」。
だけども、サツキでサカヅキからカをなくし、果無しで悲し。実りない。
果がない。花もかげば懐かしい香がするから、かがない。
つまり、酒の肴の橘とは花のこと。だから花・橘とつけている。それに五月でミカンのミの季節ではない。
いわば、花の賀≒香。断ち花で切花。
この花は、男が思い出されるその花を、酒の席に供じるためのものであった。
男の言う「飲めない(飲まじ)」とは、その新しい関係を受け入れないという意味を含んでいる(この話は飲めない)。というかそちらがメイン。
女が杯に当てて返したことは、縁を切るという儀式的な意味(ただし嫌いだからではなく、新しい関係を見られた以上、事実上修復不能だから)。
このように、言葉に普通の思い込みと違う繊細な意味を含ませ、そちらを本意にすることが、この物語最大の特徴。それをみやびという。
それに、ここでの肴のアテという読みは、貴(あて)なるにかかり、それは大体、みやびの意味なのだから(見や美)。
文脈全体でよく通るよう解釈しなければならない。ただバラバラ繋ぎ合わせれば、ただ支離滅裂になるだけ。意味がない即ちナンセンス。
~
本段は宇佐への使の話で、69段は伊勢への使の話。
69段では「むかし男」が、会ってすぐの斎宮に、まるで夫婦のようにもてなされるという描写がある。(斎宮の親=帝によくもてなせと言われ)
そして「斎宮」が「尼になり」という、本段末尾と符合する記述が102段、104段にある。
斎宮(女)が、神と相容れない尼になるのは、死ぬほど穢れたと思ったからだが、それは本段の文脈。
本段の歌は古今139に詠人不知で収録されるが、古今がこの伊勢を参照している(一般はそうみないが)。
伊勢単体で古今を凌ぐ影響力をもつのに、その著者が、古今を一々参照しチマチマ作る動機がない。
しかも万葉すら直接引用は一度もしてないのに。本段の歌もそう。
加えて業平は登場するたび非難し(63段等)、その歌をよくもない(77段)、もとより歌を知らない(101段)、その名は忘れたとする(82段)。
他方、歌集の古今が伊勢を参照する動機はいくらでもある。
まず何よりその詞書(古今最長の詞書が突出し筒井筒、次が東下り)、歌の配置(分厚い恋愛等)が、伊勢からの多大な影響を如実に表す。
つまり伊勢の歌は既に強く流布していたが、それを業平のものと勝手に古今がみなした。それでそれっぽいのは諸々業平の歌ということにされている。
なぜみなしたかというと、第一に二条の后の話が描かれる(細部は知らん)、加えて女の話が沢山でてくる。あの噂の業平に違いない。そのレベル。
だから業平主人公説は、細部の整合性を悉く無視する。しかしそこまで安易な話ではない。
花橘・宇佐の使は、明らかに62段、狩の使とリンクさせた前準備であり、女主人などという解釈はありえないナンセンス。
本来、伊勢の著者を業平ではないとみたその時点で、伊勢の歌を業平の歌とみなすことはできない。
女の話が沢山出てくるのは色好みというより、男が後宮に勤めていたから。縫殿の六歌仙。女とかかわるのは仕事だから。
しかし伊勢斎宮とはそうではない。後宮の女ではないから。昔男が契りという言葉を出した女は二人だけ。筒井筒=梓弓の女と、伊勢斎宮。
その二人のリンクが、前段で清水での妻の死を悼んだ話と、直後のこの話。
どちらも(さびしくなって)他の男になびいて、女として自分で死んでしまった話。梓弓の子は清水(きよみず)で、ここでの妻は尼になった。
突如何のことかと思うかもしれないが、本段は実は極めて重要。全く目立たないが。
花橘・宇佐の使が、続く62段(古の匂は)と完全リンクし、69段(狩の使)の伏線。つまり、伊勢斎宮と昔男との前世を暗示した内容。
だから69段で伊勢斎宮と初見で夫婦のような近い距離になる。
それで最後に盃を交わすのである(続末の盃:そこに歌を二人で記した超みやびな代物。もちろん盃は、本段のものと掛かっている)。
でないと、凡人ならともかく、伊勢斎宮と初対面でそうなることは事実上も立場上もありえない。
他方で、紫式部の記した源氏物語の歌では、橘の花・袖の香が前世・夫婦の文脈でしばしば登場、そして本段末尾のように、尼になろうとする女が描かれる。
詳しくは、源氏の和歌一覧を参照。源氏以前に、橘の花の香を、明確に夫婦の前世で具体化したのは、伊勢しかない。
源氏の主人公、スーパー才能色男とそれで泣く女達、一貫して前世と現世を憂う内容。つまり源氏は、伊勢を受けて書かれた。としかいえない。
そして紫はしばしば昔の思い出の象徴・橘の花を出し、尼になる尼になる、憂い憂いと描くのだから、彼女は、伊勢斎宮の宿世を受けた存在。
だから二人は特別扱いになっている。つまり伊勢(と竹取)の著者と紫は。古典の双璧。
竹取も含めて見ているから、かぐやのように主人公は光るとした。かぐやと対比していることは源氏原文で直接説明されている。
紫が特別なのは、この段をその文脈で一般は誰も見ないし疑問にも思わないから。彼女だけそう見て注意を惹かれたのは、二人の記憶が刻まれていたから。
したがって、この物語が「伊勢物語」という名称に固定されたのは、まずもって彼女による。そもそも、伊勢自体は後半の内容で、全体の象徴ではない。
源氏中に「伊勢物語」「在五が物語」どちらもあるが先に出したのは伊勢表記、「業平」「在五」は共に「朽たす」に掛けるので、実は朽そという暗示。
源氏の最初の妻が葵、次が紫ということは、伊勢の昔男の最初の幼馴染の妻、筒井筒=梓弓の女が果てた後の、次の候補が斎宮ということとパラレル。
そして源氏の上では、関係を成就させたと。
花橘は万葉語で、本段ように五月と合わせ用いられる。昔男が万葉語を持ち出す時は、古の関係を暗示(典型は梓弓や、沖つ白波龍田山)。
なお、万葉すら直接引用していないので、伊勢は古今やら業平の歌を引用して作っているのではない。
五月の 花橘を 君がため 玉にこそ貫け 散らまく惜しみ(08/1502)
五月山 花橘に 霍公鳥 隠らふ時に 逢へる君かも(10/1980)
暇なみ 五月をすらに 我妹子が 花橘を 見ずか過ぎなむ (08/1504)
霍公鳥 来鳴く五月に 咲きにほふ 花橘の(19/4169)
風に散る 花橘を 袖に受けて 君がみ跡と 偲ひつるかも(10/1966)
鶉鳴く 古しと人は 思へれど 花橘の にほふこの宿(17/3920)
玉に貫く 花橘を ともしみし この我が里に 来鳴かずあるらし(17/3984)
「玉」とは魂、「玉を貫く」とは、玉緒の暗示。つまり運命の糸(魂の意図・見えない繋がり)。
ここでの「袖」は他生の縁の暗示。「古」はもちろん前の世。
上記の「霍公鳥(ほととぎす)」も花橘とセットの言葉で、源氏では要所で用いる。
「ほととぎす 君につてなむ ふるさとの 花橘は 今ぞ盛りと」(源氏♪576)
「橘の香を なつかしみ ほととぎす 花散る里を たづねてぞとふ」(源氏♪168)
香というのも、この特有の文脈で前世と現世のつながりを意味し、光る源氏死後、次の主人公、薫というのはそういう名前。
「鶉鳴く」は、123段の深草の女の歌として出しており、つまり伊勢斎宮の隠居先。
なおここで、宇佐という具体的な昔の言葉が入っているが、これはまず何かの記録を見て書いている。そこで確実な符合・類似性を見てとった。
恐らく柿本人麻呂の時の記録。それが文屋の前世。本と文。歌聖で歌仙。なので万葉の歌も自然に繰れるのである。どちらも恋歌を多く作って。
そしてどちらも卑官で帝の代作を勤めている。狩の使はその随行員。だから百人一首1(天智)と15(光孝)で、完全パラレルの内容なのである。
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ
君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪は降りつつ
帝を前にし、瞬間的にこの一見ふざけた歌を詠める、それは本人しかない。
いや、ふざけていると思われないという確信のもと、滑稽さを出した。なぜなら代作自体どうでもいい、というか馬鹿みたいな行為だから。
そうしたらやりすぎて、114段で光孝の機嫌を損ねて慌てたという話。
上級貴族が代作をすることは作法上ないし、名前を控える動機がない。
歌を詠めたことがモテ要素というがどうか。31音で歌うもなにもほぼつぶやき。聞いたと思ったらもう終わる。歌を嗜む社会は自由恋愛でもない。
和歌は感覚ではない、理性と知性。その上の感性で完成させる。そういう教養を好むならわかる。でもそういうのは、最早モテとかじゃない。理解。
だから、そういうのが好きな紫式部が熱心に書いたからといって、モデルがモテたわけでは必ずしもない。陰の評判は知らないが、文屋の表現はそう。
むしろ幼い頃からの妻に振られて泣いて、物凄い頭の悪い淫奔に乗っ取られ死にそうになった。それに現に和歌もわからん有象無象に侮辱されとるがな。
草木を枯らす山風を嵐という歌だって、文字足しただけじゃんw百人一首で一番下らないw ってはあ? 嵐からの木枯らしの掛かりも見えん素人がさあ。
バカでも分かるようしろいうから基本示すと、バカだろwとクサしてくる。そういうのを触ると障るアンタッチャブルという。最低の下賤。地獄かここは。
まー知らんのはどうでもいいけど、今の感覚から推測すると、自分でぶち壊したのが多い。本段のように。
「心もまめならざりけるほどの」とは、心の機微がまだよくわからなかった頃という意味。この言葉はどちらにもかかっているが、メインは男。
男女 及び 和歌 |
定家本 |
武田本 (定家系) |
朱雀院塗籠本 (群書類従本) |
---|---|---|---|
第60段 花橘 | |||
♂ | むかし、男ありけり。 | 昔、をとこ有けり。 | 昔男有けり。 |
宮仕へいそがしく、 | 宮づかへいそがしく、 | 宮づかへもいそがしくて。 | |
心もまめならざりけるほどの | 心もまめならざりけるほどの | 心もまめならざりければ。 | |
家刀自、 | いへとうじ、 | 家とうじ「と新」[イニナシ] | |
まめに思はむといふ人につきて、 | まめにおもはむといふ人につきて、 | まめに思はんといひける人につきて。 | |
人の国へいにけり。 | 人のくにへいにけり。 | 人の國へいにけり。 | |
この男、 | このおとこ、 | この男 | |
宇佐の使にていきけるに、 | 宇佐のつかひにていきけるに、 | うさの使にていきけるに。 | |
ある国の祇承の官人の妻にて | あるくにのしぞうの官人のめにて | ある國のしぞうの官人のめに | |
なむあると聞きて、 | なむあるときゝて、 | なんあると聞て。 | |
女あるじにかはらけとせよ。 | 女あるじにかはらけとらせよ、 | 女あるじに。かはらけとらせよ。 | |
さらずは飲まじといひければ、 | さらずはのまじ、といひければ、 | さらばのまんといひければ。 | |
かはらけ取りいだしたりけるに、 | かはらけとりていだしたりけるに、 | かはらけとらせて。いだしたりけるに。 | |
肴なりける橘をとりて、 | さかなゝりけるたちばなをとりて、 | さかななりけるたち花をとりて。 | |
♪ 109 |
さつき待つ 花橘の香をかげば |
さ月まつ 花たちばなのかをかげば |
さ月まつ 花橘の香をかけは |
昔の人の 袖の香ぞする |
昔の人の 袖のかぞする |
昔の人の 袖のかそする |
|
といひけるにぞ、思ひ出でて、 | といひけるにぞ思ひいでゝ、 | といへりけるにぞ。思ひ出て | |
尼になりて、山に入りてぞありける。 | あまになりて、山にいりてぞありける。 | あまになりて。山には入にける。 | |
むかし、男ありけり。宮仕へいそがしく、
心もまめならざりけるほどの(△ざりければ)家刀自、まめに思はむといふ人につきて人の国へいにけり。
※「まめ」が繰り返されが、このような用法は、この物語ではよくある同音異義。「色好みと知る知る」(42段)「恨むる人を恨みて」(50段)
ここで塗籠本(△)は表現をずらすが、このようなことは不適切。男がまめでないのか、家刀自(家内)がまめでないのか違いがでる。
流れでみれば男だが、文章としては家刀自につくとも見うる。したがって、男がまめでないことを主にしつつ、女もそうだったと解する。
このような男女どちらも読み込む用法は、「つれなかりける人」(34段)などにもある。
むかし男ありけり
むかし男がいた。
宮仕へいそがしく
宮仕えが忙しく
心もまめならざりけるほどの(△ざりければ)
心もまめでなかった頃、
まめなり 【忠実なり・実なり】
:現代のマメそのまま。マジメ、誠実、細やかな配慮。
→ここでは、前段末尾(櫂がない歌)から、頼りがいがない薄情な、というような意味。
ほどの、と合わさり、そこまで気を回せない、男性として成熟していない頃という意味。
この言葉は昔男=著者にとって、とても大事な言葉。ポリシー。だから反省を込めている。
参考:「むかし、男ありけり。いとまめに、じちようにて、あだなる心なかりけり」(103段)
→とてもマジメで実直で、浮気な心などありません。
浮気しまくりとされているが、それは違います。女の子(仕事場の御達)と仲良くしていただけです。仲良くに深い意味はないです。
ほど:頃合
家刀自
家内が
一般に主婦とされるが、家内・家にいる人が本来。家乃至から家刀自とし家掃除する人の暗語と思う。女中(ハウスキーパー)も含む(44段)。
ここでは文脈からも妻だが、それは前後全体をみないとわからない。そうみないから女主人とかにしてしまう。
まめに思はむといふ人につきて
ま(じ)めに思うよと言う人について
人の国へいにけり
人の国に行ってしまった。
この男、宇佐の使にていきけるに、
ある国の祇承の官人の妻にてなむあると聞きて、
女あるじにかはらけとせよ、さらずは飲まじといひければ、
この男
(これは、冒頭の男か、まめに思はむという人、この時点では不明だが、
「男」の符合、「宮仕え」が神宮とかかり、続く文脈からも、冒頭の男)
宇佐の使にていきけるに
大分県の宇佐神宮(八幡宮)。神託事件の所(769年。物語の80年ほど前)。
ある国の祇承の官人の妻にてなむあると聞きて
ある国の接待役が、その妻ということを聞いて
しぞう 【祇承】
:地方にあって、勅使を接待する役。
女あるじにかはらけとせよ
女、主にカワラケ役をかわりなさい
(女主人× 文脈から突如出現する意味が不明。安直にひっかかりすぎる。この時代、句読点はないだろうに)
かはらけ 【土器】
:酒杯のやりとり。酒宴。
→これを替わらせとかけている。
さらずは飲まじといひければ
そうしなければ飲めないといえば、
つまり
「あるじ」とは「まめに思はむといふ人」といって女を連れて行った人。=ある国の祇承の官人。
「飲まじ」とは、そういう関係・他人に使われている関係をオレは受け入れない、と言っている。
なお、これは44段(馬の餞)で、家刀自に盃させた話とも表現がリンクしている。文脈は違うが。
かはらけ取りいだしたりけるに、肴なりける橘をとりて、
さつき待つ 花橘の香をかげば
昔の人の 袖の香ぞする
といひけるにぞ、
かはらけ取りいだしたりけるに
しかし女、かわらずに、カワラケ(盃)を取り出し
肴(さかな)なりける橘をとりて
酒の肴の橘をとって
橘:こうじみかん。花は夏、実は秋。
酸味が強いとされ、酒の肴(アテ)にはならないだろう。
つまりこれ自体が、かわらけ(盃)。それにアテている。
そのアテになりける橘をとって、
さかづきを、さつきにかけて、かがないと解く、そのこころは「かなし」
さつき(五月)待つ
ついさっきまで待っていた
待つと歌っているのは男ではない。家刀自として、この話で家で待つのは女しかない。
それに男が歌っているなら、まず古今では業平認定されただろう。
花橘の香をかげば
花の香りをかげば
昔の人の
昔の人の(アマずっぱい)
袖の香ぞする
袖の香がする
袖にする:親しくしていた人、特に異性を冷淡にあしらう。 おろそかにする。
といひけるにぞ
と言って、
そのつれなさで、
思ひ出でて、尼になりて、山に入りてぞありける。
思ひ出でて
思いアマって、出て行って
尼になりて山に入りてぞありける
尼になって山に入ってしまった。
つまり好きだったが相手にされずもてあまし、寂しさあまって他の所にいった。それなのに全然離れた所でまた会った。
お話だからと思うかもしれないが、こういうのを、運命とか宿世(宿命×前世)という。
それを何の因果か、とかいう。
前段で「思い入り」「出でて」は、「死に入り」にかかった言葉。
そこでの行先は東山だったが、ここではどこかの山。