伊勢物語 32段:倭文の苧環 あらすじ・原文・現代語訳

第31段
忘草
伊勢物語
第二部
第32段
しづのをだまき
第33段
こもり江

 
 目次
 

 ・あらすじ(大意)
 

 ・原文対照
 

 ・現代語訳(逐語解説)
 
 

あらすじ

 
 
 むかし物をよく言い交わした女(小町)に、年ごろあって(時を経て)こう言った。
 
 古の しづのをだまき くりかへし 昔を今に なすよしもがな
 
 昔から 糸をまきまき くるくると 古からも してきたように。
 

 をだまき:機織のため、糸を玉状に巻いて立てて置く装置。
 これを玉の緒(魂の糸)とかけ、くりかえし回る輪廻を表現している。だから、昔と今で同じ事をしているなと。
 

 したがって、冒頭の「むかし」とは、古という意味も含み、むしろそちらの方がメイン。
 続く「年ごろ」も、そういう含みがある。
 

 小町という理由は、男と縫殿でつながっているから。同じ六歌仙。小町は「いにしえのそとほりひめのりう」(古今)という。これが古からの絆。
 昔の女に言い寄った? なぜそういう軽薄な内容に貶めるのか。だからどこぞのボンボンの話じゃなく、真面目な話だって。違うのもあるけども。
 
 なお、古今で小町を衣通姫と書いたのは貫之でも、伊勢にある歌を業平の作と認定したのは貫之とは限らない。一人の一存では決まらないだろう。
 加えて、古今で唯一ある衣通姫の歌は、墨で消されており、正本扱いではない(墨滅歌)。その歌のすぐ下に、貫之の歌が一緒に墨滅されている。
 
 

原文対照

男女
及び
和歌
定家本 武田本
(定家系)
朱雀院塗籠本
(群書類従本)
  第32段 しづのをだまき(倭文の苧環) 欠落
   
   むかし、  むかし、  
ものいひける女に、年ごろありて、 ものいひける女に、としごろありて、  
       

65
 古の
 しづのをだまきくりかへし
 いにしへの
 しづのをだまきくりかへし
 
  昔を今に
  なすよしもがな
  むかしをいまに
  なすよしもがな
 
       
  といへりけれど、 といへりけれど、  
  なにとも思はずやありけむ。 なにともおもはずやありけむ。  
   

現代語訳

 
 

むかし、ものいひける女に、年ごろありて、
 
古の しづのをだまき くりかへし
 昔を今に なすよしもがな
 
といへりけれど、
なにとも思はずやありけむ。

 
 
むかし、
 

ものいひける女に、
 よく口を聞いた女に、
 
(小町のこと。織物・縫殿(同じ仕事場・六歌仙)つながりで、小町針。
 小町は「そとおりひめ(衣通姫)」の流と、古今集仮名序では称される。
 この時代は一緒に糸をつむいだ間柄。それだと一緒にいられるでしょう。一緒にいても仕事しているのだから、恋に怠けていることにはならない。
 もとが織姫なら織物は得意かと思いきや、何とも思わずやありけむ。)
 

 ものいふ 【物言ふ】
 :ここでは、よく色んなことを言い交わしたという意味。
 男女が情を通じるという意味が与えられるが、それは本来かすかな暗示。直接の意味ではない。本末転倒。<呼び会う→よばひ→結婚!>くらい安直。
 よくしゃべった→色々つきあったという意味。例えば<七夕伝説→情を交わす>っておかしいでしょう。そういう要素は大きくても、色々省きすぎ。
 伊勢の著者、この国史上最高峰のみやび、千年を超えて残る繊細な感覚を、現代一般人のチャラい発想の枠組みにはめこみ、勝手に納得してはいけない。
 
 よって、ここでは「むかし」のかかり方が他の段と違う。
 
 

年ごろありて、
 長い年月がたって、
(これが、他の段でいう「むかし」)
 

 年ごろ:長年・数年。
 適齢という意味は、「昔」とのかかりから、ここではない。
 
 

古の
 
(古代。冒頭の「むかし」を限定している)
 

しづのをだまき(倭文の苧環)
 

 倭文(しず=賤)
 :日本の織物。唐物と対比させた、麻などの粗い織物。「倭」とは卑しい人と当てた象形文字。
 

 苧環(をだまき)
 :糸巻。機を織り用の糸をぐるぐる巻きにして立てるもの。
 

 糸とかけて、30段の玉の緒とかかっている(糸を巻けば玉状)。
 

くりかへし
 
(同じところでクルクル回る→輪転→輪廻。
 前々段の玉の緒とかかり、魂の糸・意図・つながり・運命の糸、その堂々巡り。
 こういう内容だから、後世(鎌倉?)でも好まれたのだろう。詳しくは知らんけど)
 

昔を今に
 昔していたことを今でも
 

なすよしもがな
 しているようだな
 

といへりけれど、
 と言ったが、
 

なにとも思はずやありけむ。
 何とも思っていないようである。
 

 そんな昔のことは覚えていない(その繰り返し)。
 

 正確にいえば、記憶をヨミがえらせられない。思い出せない。
 朱にまじわり赤くなってしまった。
 (だからこの言葉は良い意味ではない=良くはならない。古代の叡智が矮小化して幼くなるという意味。その些細な一例が、この言葉の意味の混同)
 

 それを覚えていたら、というのが竹取の内容。
 だから20年でも片時。少々年とっても心幼い。