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第71段 神のいがき |
伊勢物語 第三部 第72段 大淀の松 |
第73段 月のうちの桂 |
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男が、69段狩の使に引き続き、71段の内の御使でも、斎宮(伊勢の国なりける女)に二人で会えなかった。
そこで女がうらみ言(不満でという意味)。
大淀の 松はつらくも あらなくに うらみてのみも かへる波かな
(72段)
「大淀」とは、70段で松阪辺りの宿に泊まったその地名。松阪にかけて「松」。待つともかける。
「つらく」は、大淀と松につながるから、「斎宮のわらはべ」が大淀まで男について行ったこと。
この童は、69段で男女が寝ようとした時にも、ついてきた。
それで斎宮は途中で帰ったばかりか、その子は男のことが気に入って、見送りに宿まで来た。
つまり、気持ちに凄い素直な子(おそらく妹)。なので斎宮は「つらく」。
辛くはない(あらなくに)という微妙な内容だが、これ自体、辛いということ(うらみ言)を暗示している。
さらに下の句は、7段の歌を受けている。
いとゞしく 過ぎ行く方の恋しきに うらやましくも かへる浪かな
(7段)
つまり二つの歌を合わせると、行ってしまいますます(いとど)恋しい、浪のように寄せて帰ってきてほしいという内容。
7段は二条がらみで、男が伊勢から尾張にいく時(東下り)の心を詠んだもの。状況は全く別。
しかし情況も内容も、完璧に符合しすぎている。
つまりこの段の歌も、著者(むかし男)が、女の気持ちをうけて、物語の筋に合わせて歌ったもの。
そして、このような前後の符合は、ここだけではなく全体に言える。
したがって、伊勢物語は、基本著者が全ての歌を詠んでいる(翻案)。
このことから、その意味で伊勢の表記を真に受け、それぞれ別人の作とする古今の認定は誤り。
そういうスタンスの前提をなす、男を業平とする認定も誤り。
伊勢は業平を明確に否定している(63段・65段等)。
どういうことかというと、二条の后の噂が先行し、伊勢を業平の日記と安易にみなしたということ。
個別の認定に根拠はない。なぜなら大前提に全く根拠がないから。だから至る所で矛盾している。そのひずみを悉く著者のせいにする。
男女 及び 和歌 |
定家本 |
武田本 (定家系) |
朱雀院塗籠本 (群書類従本) |
---|---|---|---|
第72段 大淀の松 | 欠落 | ||
♂ | むかし、男、 | むかし、おとこ、 | |
伊勢の国なりける女、 | 伊勢のくになりける女、 | ||
又、えあはで、隣の国へいくとて、 | 又えあはで、となりのくにへいくとて | ||
いみじう怨みければ、女、 | いみじううらみければ、女 | ||
♪ 132 |
大淀の 松はつらくもあらなくに |
おほよどの 松はつらくもあらなくに |
|
うらみてのみも かへる波かな |
うらみてのみも かへる浪かな |
||
むかし、男、
伊勢の国なりける女、又、えあはで、隣の国へいくとて、
いみじう怨みければ、女、
大淀の 松はつらくも あらなくに
うらみてのみも かへる波かな
むかし男
むかし男が
伊勢の国なりける女
伊勢の斎宮なりける人(69段)に、
又えあはで隣の国へいくとて
また会えずにに隣国に行くと言い
「又えあはで」とは、前の71段「伊勢の斎宮に、 内の御使にてまゐれりければ」をうけてのこと。
「又」の前は69段での狩の使。
いみじう怨みければ女
とても不満に思い悲しみ、うらみ言を言って
うらみ 【恨み・怨み】
①不満。残念と思う気持ち。それを口に出すこと。うらみ言。
②嘆き。悲しみ。
呪いではない。巫女なので。
大淀の
大淀とは、松阪あたりの地名で、70段で69段からの帰りがけに「斎宮のわらはべ」が宿場までついてきたことを受けている。
松はつらくもあらなくに
待つことは辛くもないが、
つまり、辛かった。これで「斎宮のわらはべ」が、女子ということがほぼ確定(年の離れた妹のような存在)。
というのも、この童は、69段で男女が子の時あたりに男の寝所であおうとしたら、女の先に立ってくっついてきた童。
幼さのあまり斎宮についてきたというより、気持ちあまって男についてきた。当然、斎宮は良い気持ちはしない。
うらみてのみも かへる波かな
うらみ言を言うようだけど、すぐ帰ってきてね(寄せては返す波のように)
とあるが、この歌は7段の歌を受けている。
いとゞしく 過ぎ行く方の恋しきに うらやましくも かへる浪かな
(7段)
大淀の 松はつらくも あらなくに うらみてのみも かへる波かな
(72段)
7段は、全く状況が異なるので、ここでの二人が歌をあわせたのではない。
しかし、異なるといっても、7段は
「むかし、男ありけり。京にありわびて東にいきけるに、伊勢・尾張のあはひの海づらを行くに、浪のいと白くたつを見て」
というもので、確実に符合している。本段の内容としても、7段の歌を読み込むことで実に良く通る。
よって、これらの歌は、男が斎宮の気持ちを代弁して歌ったもの。歌がズバ抜けた者には普通の行為。いわばプロ、というより歴史の伝説(六歌仙)。
したがって、伊勢の歌を、表現通り著者以外の登場人物の歌と認定する、古今の認定は誤り。
このように文脈を超えて符合するのに、他人の歌を参照しながら作ったもの、ということはできない。可能性を考えるだけでも不自然。
外的状況の描写はともかく、歌は引用を示したもの以外(初段参照)は、基本的に著者の歌。25段の小町の歌も実質はそう(二人で一人)。
そしてもちろん、著者は業平ではない。