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第65段 在原なりける男 |
伊勢物語 第三部 第66段 みつの浦 |
第67段 花の林 |
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昔男が、津の難波の方に知る所があり、親友達とトモに行った。
渚に舟が沢山あるのをみて、
難波津を けさこそみつの 浦ごとに これやこの世を 海わたる舟
難波というに、この世のようにアマたある舟。海と舟と海人をかけて。
みつと三途をかけ、そこを渡る舟かな。
その心は、ぽしゃらんで渡りきれるかな。
いや、川用の舟では難破必至や、何てね。
そこまで詠み込んだかはわからんけど、最後に「これをあはれがりて」とあるから、詠み込んでいるでしょう。つまり必死の定めってこと。
津の国と難波をかけて難波津。
「しる所」で別荘? そんな記述はどこにもない。そもそも業平説自体に根拠がない。
「しる」の語義に「領る」などという意味はない。その意味わからんから勝手にこじつた言葉(初段「しるよしして」)。
これは(よく)知る友にかけた言葉。
兄弟友達とは、男の親友の意味。次段の冒頭「親(ちか)い」と符合。
さらに港と合わせて、特にその地方で兄弟はそういう意味(だからといってその筋ではない)。
実の兄弟の記述など、どこにもない。根拠がないことを、あれこれ考えてもしょうがない。
この物語に限らず、「友」は中立の表現(46段・うるはしき友。この段は言葉に示される通り、女性の内容)。
というかそう見ないで、「人」や「友」を即座に男と決めつけるから、至る所で変になる。その点を明示して注意喚起している表記。
「みつ」も「うみ」も、三津やら倦みやら、何でもかんでも掛ければいいというものはない。意味がよく通らなければ意味がない。
加えて、掛かりを当てるには根拠が必要。何でも思いつくまま当ててはいけない。それは解釈という名の下に、この物語をおとしめている。
男女 及び 和歌 |
定家本 |
武田本 (定家系) |
朱雀院塗籠本 (群書類従本) |
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第66段 みつの浦 | |||
♂ | むかし、男、 | むかし、おとこ、 | むかし男。 |
津の国にしる所ありけるに、 | つのくにゝしる所ありけるに、 | つのくににしるところありけり。 | |
兄弟友達ひきゐて、 | あにおとゝともだちひきゐて、 | あにをとゝともだちなんどひきゐて。 | |
難波の方にいきけり。 | なにはの方にいきけり。 | なにはのかたにいきけり。 | |
渚を見れば、舟どものあるを見て、 | なぎさを見れば、舟どものあるを見て、 | なぎさをうち見ければ。船どものあるを。 | |
♪ 123 |
難波津を けさこそみつの浦ごとに |
なにはづを けさこそみつのうらごとに |
難波津を(に一本) けふこそみつの浦ことに |
これやこの世を 海わたる舟 |
これやこの世を うみわたる舟 |
是や此よを うみわたる舟 |
|
これをあはれがりて、人々かへりにけり。 | これをあはれがりて、人々かへりにけり。 | これをあはれがりて。人々かへりにけり。 | |
むかし、男、
津の国にしる所ありけるに、兄弟友達ひきゐて、難波の方にいきけり。
むかし男
津の国にしる所ありけるに
摂津国に知る所があったので、
「しる」に別荘や領地の所有という意味はない。「しる」にそういう意味はない。
初段の「しるよし」の一般の解釈がそうなっているが、これ自体、男を貴族(業平)とみなしてこじつけただけ。
「むかし男」の父はただ人(10段)、身はいやし(84段)とあるが? 田舎出身で宮仕えに出たのだが?(24段)
これらを別々の話と解する根拠はなにか? そんなものはないが。
津の国:摂津国=大阪北部・兵庫南東部。
津の国は、33段(こもり江)で初出。
33段は前後の流れから、女方での男の仕事(服の話)で通った話と解するのが自然で、男の別荘の話などはない。
文中以外の事情を、文面のかかりが一切ないまま、何となく気分で補わないように。自分の作品というのならともかく。
兄弟(あにおとゝ)友達ひきゐて
親友達を率いて
兄や弟は親しみを込めた言葉。加えて、男友達と限定する意味がある。
この点、その限定がない東下り(友とする人)の歌で、唐衣(十二単衣)を歌って涙した意味を、誰一人としてわかっていない。
なぜ兄弟としないか。そう見る根拠がないから。
記述がない・根拠がないことを一々探る意味などない。意味があるなら書いている。書いていないのだから、上の意味でしかない。
難波の方にいきけり
難波(大阪)の方に行った。
渚を見れば、舟どものあるを見て、
難波津を けさこそみつの 浦ごとに
これやこの世を 海わたる舟
これをあはれがりて、人々かへりにけり。
※前段の「あまの刈る 藻に」と同様、5+2を崩している歌。
本来は「けさこそ みつの浦ごとに」であるところを崩し
本来は「これやこの」で区切れ、枕に配置する言葉を下の句に据え、この世につなげる面白さ。なのに悲しい内容のであはれ。
つまり「舟」をあの世の渡し舟とかけて歌っている。だから舟ども。のっている人をはこんでいくなと。
なお、この「いくな」は多義的であり、見る人の気持ちにゆだねられるもの。基本的には。こういうのを含みとか、余韻という。
ただし、そのようにまかせると、別荘や在五などと全くあらぬことになるので、もういいです。そうではないです。
舟が海の縁語とかいうのは、あまりにも当然過ぎて言及する意味がない。舟山に登ることもあるというが、そういう文脈でもない。
渚を見れば舟どものあるを見て
渚を見れば、舟が沢山あるのを見て、
「ども」は物体につかず、人々をあらわす言葉。
難波津を
難波津の歌にかけて、古来より、という暗示。
けさこそみつの 浦ごとに
みつ:密(どもに対応)、みつつを、見+津にかけ。
これも一般に色々なかかりをするが、他の文中の根拠なく、何でもかんでも好き勝手当ててはいけない。当てたところで意味はない。
これやこの世を 海わたる舟
海を倦みにかけるなどとするのもあるが、そのようにかけてどういう「あはれ」な意味があるのか。
かかりは、何でもかんでもかければいいというものではない。そこにセンスがでるわけ。
これをあはれがりて人々かへりにけり
つまりこの「あはれ」の意味が何なのかという内容。
いや、問うているつもりはなく、この段に限らず、著者的には、わかる人はわかる、お~中々だね(すごいね)と言ってくれると思っていた。
そしたら、まさか在五が主人公などとされるとは。ありえない。だから一緒にされないようダメだしてるのに(6段、63段、65段)、それは無視。
いやつーか、「この世」と「舟」をかけている歌でしかないでしょ。海「渡る」で、渡し舟。みつで三途。
そういうのが、いっぱいいるねって。川じゃなくて海なところが、おかしいけどもって。
こういうのは人生観、素養の問題。
字面だけ見てもわからんて。まして思い込みで字面すら簡単に無視する、そういう俗世の感覚でこの伊勢をきめつけないで。
伊勢を下衆などという人もいるが、下衆極まるだろ。なんでこうなるの。
業平? ありえない。あまりにひどい。報われない。だから報いねばならん。