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第61段 染河 |
伊勢物語 第三部 第62段 古の匂は |
第63段 つくもがみ |
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むかし、長年顔を見ていなかった女の話。
何を思ったのか、虚しい人の虚言について行き、久々に会えば、(かつての誇りを失って)人にこき使われる使用人になっていた(60段参照)。
その晩、この使用人を私の元に、と主に言えば、すんなり寄こしてきた(つまりその程度の扱い)。
男は、私を知らないのか(覚えていないのか)「古の桜花もこけ(堕ち)たものだな」と言えば、
女はとても恥じ物も言えないでいたが、なぜ何も言わないといえば、涙で目もみえず、物も言えないという。
「こんなに落ちて。私にいずれ会うべき身なのに逃れて、長年経たとしても、それは誇れるものでもあるまい」(もう意地を張らなくてもいいだろう)
と言って上着をとってかけてやれば、それを捨てて逃げてしまった。
そして、そのままどこに行ったかもわからない。その心は、放蕩娘は帰還せず(言うこと聞かんな。帰ってくればいいものを)。
男女 及び 和歌 |
定家本 |
武田本 (定家系) |
朱雀院塗籠本 (群書類従本) |
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第62段 古の匂は こけるから | |||
♀ | むかし、年ごろおとづれざりける女、 | むかし、年ごろをとづれざりける女、 | 昔年ごろをとろへざりける女。 |
心かしこくやあらざりけむ。 | 心かしこくやあらざりけむ、 | 心かしこくやあらざりけん。 | |
はかなき人の言につきて、 | はかなき人の事につきて、 | はかなき人のことにつきて。 | |
人の国になりける人に使はれて、 | 人のくになりける人につかはれて、 | 人の國なりける人につかはれて。 | |
もと見し人の前にいで来て、 | もと見し人のまへにいできて、 | もとみし人のまへにいできて。 | |
物食はせなどしけり。 | 物くはせなどしけり。 | 物くはせなどしありきけり。 | |
長きかみをきぬのふくろに入て。 | |||
遠山ずりのながきあををぞきたりける。 | |||
夜さり、このありつる人給へ | よさり、この有つる人たまへ、 | よさりこのありつる人たまへと。 | |
と主にいひければ、 | とあるじにいひければ、 | あるじにいひければ。 | |
おこせたりけり。 | をこせたりけり。 | をこせたりけり。 | |
男、我をば知らずやとて、 | おとこ、われをばしるやとて、 | 男われをばしらずやとて。 | |
♪ 112 |
いにしへの にほひはいづら桜花 |
いにしへの にほひはいづらさくらばな |
いにしへの 匂ひはいつら櫻花 |
こけるからとも なりにけるかな |
こけるからとも なりにけるかな |
わけるかことも(ちれるが如も一本) なりにける哉 |
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といふを、いとはづかしく思ひて、 | といふをいとはづかしと思ひて、 | といふを。いとはづかしとおもひて。 | |
いらへもせでゐたるを、 | いらへもせでゐたるを、 | いらへもせでゐたるを。 | |
などいらへもせぬといへば、 | などいらへもせぬといへば、 | などいらへもせぬといへば。 | |
涙のこぼるゝに目もみえず、 | なみだのこぼるゝにめを見えず、 | 淚のながるゝに。めもみえず | |
ものもいはれずといふ、 | 物もいはれず、といふ。 | ものもいはれずといへば。おとこ。 | |
♪ 113 |
これやこの 我にあふみをのがれつゝ |
これやこの 我にあふみをのがれつゝ |
是やこの 我にあふみをのかれつゝ |
年月経れど まさり顔なき |
年月ふれど まさりがほなみ |
年月ふれと まさり顏なみ |
|
といひて、 | といひて、 | といひて。 | |
衣ぬぎて取らせけれど、 | きぬゝぎてとらせけれど、 | きぬぬぎてとらせけれど。 | |
すてて逃げにけり。 | すてゝにげにけり。 | すててにげにけり。 | |
いづちいぬらむとも知らず。 | いづちいぬらむともしらず。 | いづこにいぬらんともしらず。 | |
むかし、年ごろおとづれざりける女、心かしこくやあらざりけむ。
はかなき人の言につきて、人の国になりける人に使はれて、
もと見し人の前にいで来て、物食はせなどしけり。
むかし年ごろおとづれざりける女
むかし、長年訪れなかった女が
※17段「年ごろおとづれざりける人」と符合。この人も女性だった。
心かしこくやあらざりけむ
心が賢くなかったのか、
(愚か≒疎か。つまり愚かにも。)
はかなき人の言につきて
虚しい人の言葉に従ってついて行って
人の国になりける人に使はれて
よその国の人に使われて、その果てに、
もと見し人の前にいで来て
もと見たことがある人の前に出てきて
物食はせなどしけり
物を食べさせる役の人になっていた。
この内容は、60段(花橘)とほぼ完璧に符合。
そこで女は出て行って尼になったというが。
夜さり、このありつる人給へと主にいひければ、おこせたりけり。
男、我をば知らずやとて、
いにしへの にほひはいづら 桜花
こけるからとも なりにけるかな
といふを、
夜さり
その夜、
よさり 【夜さり】
:夜となるころ。夜。今夜。
このありつる人給へと主にいひければ
そのようにしていた人を(こっちに)よこし給えと、その主に言えば、
おこせたりけり
(こともなく)寄こしてきた。
表面的にいえば使用人を呼んだだけだが、60段で男女は元夫婦だった。
男、我をば知らずやとて
男が、わたしをわからんかと
いにしへの
古の
(これは前世の暗示)
にほひはいづら桜花
においはどこへ桜花
にほひ:60段の花橘の香とかかっている。
いづら 【何ら】:
①どこ(代名詞)
②さあさあ。促す
③どうした。問いかけ
こけるからとも なりにけるかな
随分堕ちたとも 思われるが
こける:
①ハナはだしく続くこと
②【痩ける】肉が落ちてやせ細る。
③【転ける/倒ける】ころぶ。ころげ落ちる。
といふを
というと
いとはづかしく思ひて、いらへもせでゐたるを、
などいらへもせぬといへば、
涙のこぼるゝに目もみえず、ものもいはれずといふ
いとはづかしく思ひて
(女は)とても恥ずかしく思い
いらへもせでゐたるを
返事もしないでいたところ、
いらへ 【答へ】
:返事
などいらへもせぬといへば
なぜ返事もせぬと言えば
涙のこぼるゝに目もみえず
涙がこぼれて目もみえない
ものもいはれずといふ
物も言われないと言う。
何も言えないと言うとは、これいかに。
これやこの 我にあふみをのがれつゝ
年月経れど まさり顔なき
といひて、衣ぬぎて取らせけれど、すてて逃げにけり。
いづちいぬらむとも知らず。
これやこの
こんな風に
我にあふみをのがれつゝ
私と一緒の身を逃れて
年月経れど
長年経ったが
まさり顔なき
誇れたものでもないな
まさりがほ 【勝り顔・優り顔】
:得意顔。誇る顔つき。
といひて
といって、
衣ぬぎて取らせけれど
上着をとってかぶせたが、
すてて逃げにけり
捨てて逃げてしまった。
いづちいぬらむとも知らず
どこにいったかとも知れず。
いづち 【何方・何処】
:どこ。どの方向。