目次
・あらすじ(大意)
・原文対照 ・現代語訳(逐語解説)
むかし男が、京をもの憂く思い、東の方にいった際、浅間の嶽が見えて歌う。
その火で煙が立っても、誰も咎めないなと。話はここまで。
その思いのタケは、その非はどこからくるのかと(京から来ている)。
誰も見てないのに吹きたてられた話が3~6段。膨れに膨れ、ボンボンの夜這い話になり、二条の后にケチがついた(咎めその1)。
もう一つは、京で仕事していたら24段の梓弓の話になってしまった(咎めその2)。それで奥さんへの親への面目なさにかけて「嶽」。
その京の思い(悔やみ・お悔やみの思い出)から離れて、咎めから、少しは離れられたのかと。
男女 及び 和歌 |
定家本 |
武田本 (定家系) |
朱雀院塗籠本 (群書類従本) |
---|---|---|---|
第8段 浅間の嶽 | |||
♂ | むかし、男ありけり。 | むかし、おとこありけり。 | むかし男ありけり。そのおとこ。 |
身はようなきものに思ひなして。 | |||
京や住み憂かりけむ、 | 京やすみうかりけむ、 | 京にはをらじ。 | |
あづまのかたにゆきて | あづまのかたにゆきて、 | あづまのかたに | |
住み所もとむとて、 | すみ所もとむとて、 | すむべき所もとめにとてゆきけり。 | |
ともとする人、ひとりふたりしてゆきけり。 | ともとする人ひとりふたりしてゆきけり。 | ||
信濃の国、浅間の嶽に、 | しなのゝくに、あさまのたけに | しなののくにあさまのたけに。 | |
けぶりの立つを見て、 | けぶりのたつを見て、 | けぶりたつを見て。 | |
♪9 |
信濃なる 浅間の嶽にたつ煙 |
しなのなる あさまのたけにたつけぶり |
しなのなる 淺間のたけに立煙 |
をちこち人の 見やはとがめぬ |
をちこちびとの みやはとがめぬ |
をちかた人の 見やはとかめぬ |
|
むかし、男ありけり。
京や住み憂かりけむ、
あづまのかたにゆきて住み所もとむとて、
ともとする人、ひとりふたりしてゆきけり。
むかし、男ありけり
むかし、男がいた。
△身はようなきものに思ひなして
(塗籠特有の記述。つまり、
「その身を用ないものと思いなして」とは書いていない。だからそういう訳ではない。こういう安易な決めつけ的解釈・訳が、憂かりけむ理由。)
京や住み憂かりけむ
京に住むのが、もの憂く思われたので、
(や=強調。で、ものすごい憂い。「にや(には)」を一字に縮め強調を強調。一つならよく目に入るだろうと。「これやこの」の「や」。
憂い(うい・うれい):思うようにならなくて、つらい。せつない。悲しみ。嘆き。
一つには、6段の芥河で、二条の忍びの五条へのお偲びの話が安いゴシップになったこと、もう一つは、24段の梓弓。)
あづまのかたにゆきて
東の方に行って。
(「ゆきて」とあるから、初段で狩りに「往にけり」などとするのは、一字一句意味をもたせていると。これは大事)
住み所もとむとて
住む所を求めようと(いって)
▲ともとする人、ひとりふたりしてゆきけり
共とする人、一人二人と一緒に行った。
(ここは塗籠本にはない。だから注意。逆に大きな意味がある。
表現を抽象化するのは、俗な意味がある(つまびらかにすることはそぐわないが、書く必要があった)から。)
ともとする人:友と供、明言していない。つまり友と子供。とも見れる。
なぜなら、①ここでは家を探していること、②次段では「友だちども」と明言しているため。
この著者は一度書いたことは意味がないと繰り返さない。表現を変えるなら違う意味がある。
ひとりふたりして; 特に意味があることは上述。
前段では、陸路ではなく船(伊勢ー尾張間)に乗っている。だからまず子供がいる。そしてここから導かれるのは、女子供。
ここで、この「ひとりふたり」という表現は、古今和歌集の仮名序・六歌仙評の冒頭にも見られる表現(歌の心、古のことをも知る者)。
そして、一人の六歌仙が、三河の任の際、小町を誘った記録がある。実際はわからない。そして小町も不能だ何だと騒がれている(小町針。当然憂かり)。
この符合からも、仮名序にいう「ひとりふたり」とはこの二人。本来の意味は違っても、こう見て良い。なぜなら、この二人は一人と同じだから。
一人は前者。これは確実な根拠がある。またそうでなければ説明できない。仮名序の「ひとりふたり」の本来の意味は、業平を含めるか不明だったと。
そしてさらにひるがえると、子供づれで赴任する時、家も探しやすいよう、物見遊山がてら小町を誘ったとも見れる(だから山を見ている)。
なおその子の母親はいない。それが梓弓。これが一番大きな憂い。それに加えて、ある美女が偉そうな男達を断り続け、最後に煙立ち昇る話が竹取。
つまり伊勢はこの男の物語で、竹取は彼女に捧げた物語。だから小野という人も出てくる(小野房盛とふさ子。かぐやと唯一会話する女子)。
信濃の国、浅間の嶽に、けぶりの立つを見て、
信濃なる 浅間の嶽に たつ煙
をちこち人の 見やはとがめぬ
信濃の国、浅間の嶽に
信濃(長野)の国、浅間山に、
けぶりの立つを見て
煙が立つのを見て、
信濃なる 浅間の嶽に たつ煙
信濃にある、浅間のたけに たつ煙
(嶽:大きな、高い山。妻の父母の敬称。上述した子の母親にかけた文脈。しなので梓弓の子。それで自分を咎める気持ち。
あさまやま、というのが素直なのに、あえて嶽にして、しかも繰り返す)
をちこち人の
あちらこちらの人が
(塗籠は「をちかた人の」で都落に単純化させるが違う。こういう微妙に安易な改変の積み重ねで変になる。)
見やはとがめぬ
見ても誰もとがめない。
(火のないところに煙はたたないとかけ、煙が立とう立たまいが、そんなことはここでは誰も気にしない。知りもしない。
咎める:①自動詞(自分):悪いことをしたと心苦しくなる ②他動詞(他人):非難する、怪しく思い尋ねる)
※この歌の心は、京では咎めたという対比で、その内容は「京や憂かりけむ」で上述した2つの内容。
1つは、二条の子は嫁入り前に変な話で②騒ぎ(芥河)になり(ケチがついて①)、もう1つは、①仕事ばかりで奥さんに悪いことしたと(梓弓)。
さらに、をちこちが見ても咎めないと言っているので、京の②喧騒から離れて、①そこにまつわる悔やみからも離れた場所だな、と。
しかし、誰も咎めぬが、自分は咎める。
しかし、誰も咎めないと言っていることから、小町が来てくれたのかもしれない。
つまり、仮に子供を連れていても、親子三人とみれば自然だから。でなければ、②人さらいとかで咎められかねない(それを暗示する挿入話が12段)。
それに、さすがの小町なら、心も晴れるというもの。だからこの話の後で「さすが」が連発される。
でも奥さんのかわりとかいう安易な気持ちじゃない。その証が竹取。5人の男と1人の美しい女性の話。
こういう口実でもないと、日頃からの親しみ・大切にしている気持ちを表すことが、社会的にもできない。それでせめてもの償いと。