本段は、昔男=縫殿の文屋=二条の后に仕うまつる男(95段)が、幼い二条の后にお見舞いの着物を見繕う話。
縫殿は女達の世話をする女所で服の所。だから初段も狩衣の話で、ふくからに(22)。
ここでは、その着物じゃなく、黒いものの方(ひじきもの)がいいでしょうと諭す歌。
これがヒジキモの心です。
え、なにそれ? つまり言うてもあんまりうまくなかった。ヒジキ好きな人いたらごめんね。いやこれマジ。だって肝の心だもの。漢字読めるでしょ?
え、ちょっとまって、やっぱうまくない? ざわ… ざわ…
え、なにここ地下帝国? 地獄? うっすい袋すら有料? うわあマジじゃん…。どこの小二の仕業だよ。失望した。もうここらにせんとね。汚れちゃう。
女の子だから化粧(懸相)しようと一生懸命。
女の子というのは6段末尾から(まだいと若うて后のたゞにおはしける時とや)。
そんな所、女性が人に見せますか? まして后になる人。
だからそういう年齢で、こういう関係でしかないでしょうが。男は世話係なの。下僕なの。悲しいけどね。ある種の幸せ?
え、すでに寝ている関係? 妄想もたいがいにせーよ。下賤の話と違う。
二条の后は西の京の女? え、あれ、音が掛かっているぞよ? まあこういうレベルの解釈を重ねられるなら考えますわ。
この3段から6段まで一続きの内容。それが続く歌の内容。
二条の后が幼い頃、お忍びで東五条のいとこのトコにしばしば外出したら、それで騒ぎが起こって(5段)、業平の夜這いで駆け落ちの話になった(6段)。
それで伊勢が丸ごとのっとられた。発想が幼稚だっての。穴から通って夜這いだ何だ。それはみやびか、みやびなのか?
思ひあらば葎の宿にねもしなむ
ひじきのものには袖をしつゝも
その思いもあれば、むぐらの宿に寝れもしましょうけれどもね。とかけて
きれいな着物には袖を通しつつもね。と解く。
その心は、あ、わからん? まそうだよね。夜這いの業平でイケメンだもん。いやイケメンって、そういうことすんの?
イケメンならそんなことする必要ないでしょ。それが摂理でしょ。それが69段ね。あ、イケメンじゃないからわからん? じゃー伊勢はわからん。
人の世界を、自分達の世界観で決めつけないでくれるかな。けぢめ見せぬ心とした男を主人公と言い張り、装っているとか思慕しているとか正気じゃない。
自分の歌を、全く知らない人が解説とか言っていたらどう思う。チョまてよなるがな。それに解説って対象より上の人だけできるんじゃないの?
元祖の歌仙の歌なのよ?
紫が一般は片端も読めないとした、無名の「伊勢の海(ほど)の深き心」とされた歌なのよ? その心が解説できるわけ? それはすごい。
紫以上に歌がわかるんだ。すごいじゃん。そんで当然源氏もわかるんでしょ? 歴史的快挙じゃん。誇っていいじゃん。そういう内容なんでしょ?
よそ行き言うても行く先はあれや(荒屋=西の対へのお忍びのお偲び)、目立たないようにするのがやはり大人の嗜みというものですよね。お姫様。
こういう哲学つうか美学が、わかりますかね。美学とは理想の哲学のことだから。業平の話にどこにこんな解釈があるわけ? ひたすら滅茶苦茶。
一般の初段の解釈からして初見の姉妹に心乱された!と突如文を渡す危ないオッサン展開にし、みやびの心を読んだことにする。ありえねー。
まー哲学なんて、在五万歳には1000年はえかった。いや万年。在五だよ在五。この字面が目に入らんの。五男だよ五男。ありえねー。
二条の后の、まだ帝にも仕うまつりたまはで、たゞ人にておはしましける時のことなり。
二条の后は、言うまでもなく伊勢物語、正確にいえば、業平との色恋話を象徴する女性。
しかし伊勢物語という以上、彼女はメインではない。つまり伊勢は、業平の色恋物語ではない。
しかるに貫之は古今唯一の二条の后(古今4)に両サイドを不知、至近に文屋を配置し、かつオリジナルの二条の后の詞書を二つ持たせる(古今8・445)。
これは当然文屋のみ。つまり二条の后との話=伊勢物語は、文屋の完全オリジナルという配置。これにより、一般の業平認定を配置で否定している。
さらに文屋・小町・敏行(秋下・恋二・物名)のみ巻先頭連続、業平は恋三で敏行により連続を崩す。この配置と序列に意味を見れないのは、ただの無知。
業平認定の歌は伊勢にしかない。業平には伊勢しかない。だから業平には何もない。業平は歌を知らない(101段)。
業平と貴族社会による伊勢の乗っ取り。
伊勢が卑官の歌でなければ何でもいい。自分達の平板で表面的な歌心の解説がみじめになるような歌を詠むやつなど、そんな不遜なやつは認められない。
だから文屋は歌を字面しか読めない人にバカにされているし、伊勢というと脊髄反射的に業平業平と人は言う。今でもそう言う人達は確実にそう言っていた。
だから業平認定がいくら矛盾しても認められない。事実と違うのは百も承知だったから。だから今も業平が主人公と堂々と「みなし」ている。撤回はしない。
主人公が誰かもどうでもいい。著者が誰かも関係ない。むしろ著者の存在意義をなくし、伊勢をひたすら支離滅裂にし、低俗に無意味化することにこそ意味があった。
業平の歌で話かどうかなど一般人はそこまで興味などない。正直言ってどうでもいいだろう。だからといってそれで良い訳はない。
男女 及び 和歌 |
定家本 |
武田本 (定家系) |
朱雀院塗籠本 (群書類従本) |
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第3段 ひじき藻 | |||
♂ | むかし、男ありけり。 | むかし、おとこありけり。 | 昔男ありけり。 |
懸相じける女のもとに、 | けさうじける女のもとに、 | けさうしける女のもとに。 | |
ひじき藻といふものをやるとて、 | ひじきもといふ物をやるとて、 | ひじきといふものをやるとて。 | |
♪4 |
思ひあらば 葎の宿にねもしなむ |
おもひあらば むぐらのやどにねもしなむ |
思あらは 葎の宿にねもしなん |
ひじきのものには 袖をしつゝも |
ひじきものには そでをしつゝも |
ひしきものには 袖をしつゝも |
|
二条の后の、 | 二条のきさきの、 | 五條[二條イ]の后の。 | |
まだ帝にも仕うまつりたまはで、 | まだみかどにもつかうまつりたまはで、 | いまだみかどにも。つかうまつらで。 | |
たゞ人にておはしましける時のことなり。 | たゞ人にておはしましける時のことなり。 | たゞ人にておはしけるときのことなり。 | |
むかし、男ありけり。
懸相(けさう)じける女のもとに、ひじき藻といふものをやるとて、
むかし、男がいた。
化粧している女のもとに、ヒジキという藻というモノをやるといって。
懸相は、思いをかけると定義されるが、これはまだしも化粧=求婚というのはない。葎宿と言っている。
ひじき藻
は、黒いモソモソしたひじき。
この黒い藻を、ひじ着物にかけて喪服みたいなジミーな服ね、
袖をしつつもで、袖に少し包もうね。え、無理? まあ無理だよね。
しかしこういうチャレンジが大事である。
思ひあらば葎の宿にねもしなむ
ひじきのものには袖をしつゝも
その思いもあれば、むぐら這うような(都の外れ=東五条の)宿でも寝ることになるかもしれないけども
そのようなひじりの(特に綺麗な)着物を喪服にするには(ふさわしくないでしょう)
それに袖を通しつつも
(こっちのほうがいいでしょう)
と直接は言わない。それが高度な作法。
実際は子どもが察せられるわけないけども、それが表現上のたしなみ。
二条の后の、まだ帝にも仕うまつりたまはで、
たゞ人にておはしましける時のことなり。
二条の后が、まだ帝にも仕えないで、ただの人だったころ。