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第24段 梓弓 |
伊勢物語 第一部 第25段 逢はで寝る夜 |
第26段 もろこし舟 |
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昔男が、あわないとも言わない(??)、さすがな女の人(?)のもとに、こう言いやった。
秋の野に 笹分けし朝の袖よりも あはで寝る夜ぞ ひぢまさりける
→ひぢまさりける?
これに色好みの(≒わかってる)女が返すには(古今では小町と認定)、
みるめなき わが身を浦と知らねばや 離れなで海人の 足たゆく来る
→私は見る目がないって、分かってるでしょう、その身の上ならぬ裏側を。離れないでずっと一緒にいるのだから。
海人が陸を歩くように、そういうのは苦手なんだ(慣れてない)って。
「あしたゆくくる」?
→明日と朝をかけ、明後日来い(出直して来い)。袖とかけて袖にする。→男を振る。冷たくあしらう。
しかし、普通ならそうするところ(小町針)、そうは言わず受け答えしてくれている。だからさすが(おだてて)。
これで最初のおかしな言葉は回収完了。
最後に残っているのは、「ひぢまさりける」。
これは、朝の袖、あはで寝る夜と対比させ、涙→露と導き、露しらなんだ、
つまり、意味わからないことは(言葉は)、素直にわからないと言うことは、聖(賢者)に優るといっている。つまり無知の知。
そして、そう答えているから流石。それ何だ? にかけ灘(流れ早く、石も流れる)。「あはじ」とかけ淡路灘。
なんだと問うに、流石というのはこれいかに。それはこういう訳。
だからこの段は、ちょっとしたひっかけ。高度な教養問題。本気で風情を歌った歌ではない。
露知らずは、6段の芥河と符合するが、その段も似たような趣旨(加えて、灘は9段の東下り中盤のすずろな修行者の段にかかる)。
これらは、文章の内容をそのまま伝えようとしているのではなく、その内容のおかしさが、そのおかしさの意味がわかるかなと。
なお、このような内容が業平によるものではないことは明らか。
男女 及び 和歌 |
定家本 |
武田本 (定家系) |
朱雀院塗籠本 (群書類従本) |
---|---|---|---|
第25段 逢はで寝る夜 | |||
♂ | むかし、男ありけり。 | むかし、おとこありけり。 | 昔おとこありけり。 |
あはじともいはざりける女の、 | あはじともいはざりける女の、 | あはじともいはざりける女の。 | |
さすがなりけるがもとにいひやりける。 | さすがなりけるがもとにいひやりける。 | さすがなりけるがもとにいひやりける。 | |
♪ 56 |
秋の野に 笹分けし朝の 袖よりも |
秋のゝに さゝわけしあさの そでよりも |
秋のゝの(に一本) 笹分し朝の 袖よりも |
あはで寝る夜ぞ ひぢまさりける |
あはでぬるよぞ ひぢまさりける |
あはてぬる夜そ ひち勝りける |
|
色好みなる女、返し、 | いろごのみなる女、返し、 | 色ごのみなりける女。返し。 | |
♪ 57 |
みるめなき わが身を浦と知らねばや |
見るめなき わが身をうらとしらねばや |
みるめなき 我身を浦としられはや |
離れなで海人の 足たゆく来る |
かれなであまの あしたゆくゝる |
枯なて蜑の 足たゆくくる |
|
むかし、男ありけり。
あはじともいはざりける女の、さすがなりけるがもとにいひやりける。
秋の野に 笹分けし朝の 袖よりも
あはで寝る夜ぞ ひぢまさりける
むかし、男ありけり。
むかし、男がいた。
この男を古今集は業平と認定するが違う。
古今の認定以外に根拠がない。前提がおかしいから数々の矛盾がでる。となぜ思えないのだろう。
古今の認定を盲信しすぎ。だから全部噂の一人歩き。だから古今以外根拠がないと。この点については1段、9段、19段、24段等で述べている。
正確にいえば、古今は以下の歌の詠み手を業平としているが、
他の歌の詞書を見れば明らかに伊勢を参照しているし(逆に見たり、別の根拠を想定するのは、実力・実績・歴史に及ぼした影響力的に全く不自然)、
ここでは、以下の冒頭の説明が抽象的で意味不明すぎるから、詞書として掲載していないだけ、というほかない。
あはじともいはざりける女の、
あわないとも言わない(?)
さすがなりけるがもとにいひやりける。
さすがな女(?)のもとに言ってやった。
さすがなり 【流石なり】
:現代と同じ。
(何が流石なのかは一見不明。それより「あはじともいはざり」も不明。
結論を先取りすれば、淡路の灘とかかっているのだろう。流れが早いから、流石で流れる。灘に掛けた意味は、あらすじの通り。なんだこれ?)
秋の野に
笹分けし朝の
袖よりも
あはで寝る夜ぞ
ひぢまさりける
ひぢまさりとは何か? それを問うている。
朝の袖とかけ、あはで寝る夜ととく、その心は?
→朝夜で なみだを露と しりませば かのひじりより まさりけりとぞ。
つまり自分が全然知らない(露知らず)と知れば、あの聖(賢者)よりも賢いと。これがいわゆる無知の知。古を知る心。
色好みなる女、返し、
みるめなき わが身を浦と 知らねばや
離れなで海人の 足たゆく来る
色好みなる女、返し、
いろごのみ 【色好み】
①恋愛の情趣を理解している人
②風流に関心がある人
③多情(→ここでは違う)
この女を古今は小町としている。
古今の歌で伊勢に含まれる小町の歌は、これともう一つだけであるから(115段・都島)、
こちらの認定は、業平のそれよりは、それなりの根拠があると思われる。
他方で、業平と認定される歌・22首全てが伊勢にある。つまり伊勢がなくなれば全て無くなりうる、異常な偏り。詞書もほぼ全部伊勢からの抜粋。
つまり匿名をいいことに業平の日記とみなされた。業平は多情かもしれないが、情緒とは無縁の存在。65段にはそうある。
小町が多情でないことは、「小町針」というエピソードに示される通り。かぐや姫と同じ構図。
そして小町と歌をやりとりしたとされる男が六歌仙にいる。古今にも記録されているように、その男には東下りの「三河」に赴任した記録もある。
勤め先は縫殿。そして小町針。論証完了。だからここでやりとりしていたことにも理由はある。同じ職場。根拠がある。
他方で、業平が小町と歌を贈答したというのは、この伊勢に基づく。主人公認定は古今に基づく。古今の認定は伊勢の記述に基づく(みなしているだけ)。
だから、そのように自己参照して循環している、その大元の決めつけをとり除けば何も残らない。多情と見たこと以外に、さしたる根拠がない。
逆にいえば、そうであることを根拠づけるために、内容を無理にでも、無節操な内容にこじつけてみる。ひどい話。
そう色眼鏡で見ているから、物語全体の解釈を、非常に乱れたものにしている。初段も筒井筒も。
伊勢を古今からの切り貼りとみなすのに、その良い所だけは切りとって格調高いとみなす。一言でいえば、支離滅裂。
みるめなき
こう言っているのは、基本的に上の男が歌を作詞しているということ。歌手が小町。だから歌の内容に意見を聞いている流れになっている。
こう見ないと、実力的にも、初期に突出して女性で一人だけ多い作品量の説明がつきにくい。伊勢(の御)も多いが、時代的にやや遅れている。
しかし、その子の呼び名が伊勢というのは、平安的に言えば、間違いなく宿世によっている。
わが身を浦と 知らねばや
私の身の裏を 知ってるでしょう。
離れなで海人の
いつも一緒にいるのだから 漁師が
足たゆく来る
足で歩くように(本来得意ではないと)
つまり小町は賢いのだなと。そういう内容。だから「さすが」。
もしかすると小町ではないかもしれないが、それはわからない。
ただし、古今の認定がおかしいのは基本、業平だけ。そこだけ詞書が伊勢からの異様に厚い抜粋。
小町に詞書が付されることはまずない(つまり普通である)から、
その認定は、よっぽどおかしな事情がない限りそのまま見てよい。業平の場合、全てがよっぽどおかしい場合に当たる。
そして、古今において小町の歌の中で唯一簡素な詞書が付される歌がある。それが文屋が三河に誘った歌(巻18雑下938)。
これは上の事情(縫殿)と東下りとも符合するから、むしろ補強する要素になる。
基本文屋は名前を出さず、小町に恋歌を担当してもらっていたと見るべき。この段の内容からも。
この段の歌は、伊勢にその結びつきを残す一つの伏線として、意図して残したものと思う。暗号は鍵がないと解けないので。