昔、陸奥の国で、何とも思っていない(?)女の所に通っていた。
(夜とか寄るとは書いていない。これは、その時はそこまで意識していなかったということ)
しかし女の様子がいつもと違い、何やら怪しげ。
そこで「人の心の奥を見るべく(?)」と人目をしのび山をはって言うと、とても喜んだ。
つまりもっと(入って)来てほしかった、進んだ関係になりたかったのだと、理解する。
しかしこのように無邪気な心の、さらに奥まで入ることが、ためらわれた(色々思い始めた)。
前段からの流れでいえば、男はそこの土地の者ではないから。ずっといるわけではないから。
~
この後日談が、115段。物語終盤にも、この時のことを思い出す。
そこで男女は、沖の井辺り(多賀城。昔の陸奥国府)で送別会をする。男が帰る時の話。
15段と115段で、良い子だったと。
じゃないと、そこまで思い出して書かない。
男女 及び 和歌 |
定家本 |
武田本 (定家系) |
朱雀院塗籠本 (群書類従本) |
---|---|---|---|
第15段 しのぶ山 | |||
むかし、陸奥の国にて、 | 昔みちのくにゝて、 | 昔。男。みちの國へありきけるに。 | |
♀ | なでふ事なき人のめに通ひけるに、 | なでうことなき人のめにかよひけるに、 | なでうことなき人のむすめにかよひけるに。 |
あやしうさやうにて | あやしうさやうにて | あやしくさやうにて | |
あるべき女ともあらず見えければ、 | あるべき女ともあらず見えければ、 | あるべき女にはあらず見えければ。 | |
♪ 23 |
しのぶ山 しのびて通ふ道もがな |
忍山 しのびてかよふみちもがな |
忍ふ山 しのひてかよふ道もかな |
人の心の 奥も見るべく |
ひとの心の おくも見るべく |
人の心の 奧もみるへく |
|
女かぎりなくめでたしと思へど、 | 女、かぎりなくめでたしとおもへど、 | 女かぎりなくめでたしとおもへど。 | |
さるさがなきえびすごゝろを見ては、 | さるさがなきえびす心を見ては、 | さるさがなきえびす所にては。 | |
いかゞはせむは。 | いかゞはせむは。 | いかゞはせん。 | |
むかし、陸奥の国にて、なでふ事なき人のめに通ひけるに、
あやしうさやうにて あるべき女ともあらず見えければ、
むかし(△男)、陸奥(△みち)の国にて(△へありきけるに)、
むかし、むつの国にて
(△塗籠本は「男」をつけているが、男とは書いていない。これには意味がある。女の子の話だから。
△「ありきける」と付け足し、ありけるとかけているが、これも余計。
△みちの国は「みちのく」とかかわるわけだが、ここでは、むかし・むつで韻を踏む読みが本来。それが基本)
なでふ事なき人のめに通ひけるに、
特に何とも思っていない(特別な感情はない)人の女に(普通の用で)通っていたが、
(なでふ:何という・何ほどの。疑問・反語の語。
つまり一見思っていないようにしているが、実は思っている。
つまり、普通の安易な(男女の)文脈ではないが、心の奥底では非常に大切に思って行っている。こうみなければならない。通らない。)
あやしうさやうにて
何やら怪しげな様子で、
(あやし:怪し。現代と同じ。
さやう(然様/左様):そのように
やしう・さやうと韻を踏み、意味も対比させている。基本的に全ての文章がこのように意図されている)
あるべき女とも(△には)あらず見えければ、
いつもの女性の様子でもないように見えたので
(ある・あらずで対比させ)
しのぶ山
しのびて通ふ 道もがな
人の心の
奥も見るべく
しのぶ山
と
(山をかけて=あぶない賭け。多義的。
①以下のように聞くこと、②通っていること、③②の帰結として、ここで女が思っているであろうこと。
山をはるには根拠がある。)
しのびて通ふ 道もがな
人目をしのんで通う 道だから
(人目は、冒頭の「人の女」とかけて、確実に入れてみる。
人目を忍んでいるのは、ヤマしいことだからではなく、それが男=著者のならわし(後述の「さが」)だから。例えば、初段・4段など。
人を見舞って偲んだ4段の西の対・5段の関守の話。それを安易な夜這いにおとしめられて噂されたというのが、6段の芥河の話。
それだからではないが、人目をはばかるのは、みやびの素養(必ずしも貴族皇族を意味しない)。だからその心得ある人は、常に控えて行動する。
なお、業平については、65段『在原なりける男』で「人の見るをも知でのぼりゐければ」と明確に説明(否定)されている。一連の行為主体ではないと)
人の心の
人の(しのんで見せない)心の
奥も見るべく
奥も見ようか
(これも多義的だが、見ることは必然という程度。ただし、まだそこまでは踏み込んでいない。繊細な暗示での様子見。しかし、これをうけて)
女かぎりなくめでたしと思へど、
さるさがなきえびすごゝろを見ては、いかゞはせむは。
女かぎりなくめでたしと思へど、
女は非常に喜んでいた様子であったが、
(めでたし:喜ばしい。すばらしい。見事だ。)
ああ、やはりそういうことかと(女の方の心の奥は少し見れたかと)。
その気持ちは嬉しいのだが、
さるさがなき
このように、いたずらに(無邪気に)はしゃいで
(さる(然る):そのような。相当な。
さる(戯る)(暗示):たわむれる。はしゃぐ。才気がある。気が利く。色気がある。しゃれている。
さがなし(性無し):いたずら・やんちゃ)
えびすごゝろを見ては(△所にては)、
そこまで開けていない(うぶな・純粋な)子の心を見ては、
(えびすごころ (夷心):田舎の人の、情趣を解さない心。
→しかしこの段は反語で始まるのだから、言葉を同時に、多角的に解する必要がある。
言葉に反応する時点で才気はある。だから通っている。しかしここでは少し安易だと(ただし、この伊勢物語の著者レベルからみればの話)
いかゞはせむ(▲は)。
一体どうしたものだろうか(という男の心の奥底)。
つまり「心の奥を見るか」と言ったところ、女の人がやったあ!と喜んでいるわけだが、仄めかした意味をわかってない。という反応。
心を見て喜んだら、見えなくなれば(土地の者ではないので)、同じくらい悲しくさせてしまうのではないか?(まして土地の者であった時の、梓弓参照)。
喜ばせたいのは山々だけども(だから通っている)、無邪気で可愛いとは思うけど、どうにも難しい。というためらい。それを最後の言葉で表現している。
そういう話と思う。
ひるがえり、最初の何とも思っていない人の所に通っているというのは、世間的な男女の文脈のことで、人の心としてはとても大事にしていたという意味。
そしてこの女性は、先段で声をかけてきた流れの子とみれる。「人のめ」の見方によってはそう見ないかもしれないが、同時にそうであるとも見れる。
だから「あやしう」とかの言葉も出てくるのではなかろうか。
つまり、流れの女の子と、流れ者の男の話。
ゆく河の流れは絶えずして、久しくとどまりたるためしなし。 世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。
しかしその記憶はこうして、久しくとどまり続ける。それが永久。自然な流れで自ずととどまる。それが普遍(不変)。