当サイトの趣旨と概要

 
 この国で古典文学が成立して1000年ほど。

 しかしその中核の肝心の文学的記述ほど、全く筋が通らない旧来の説にひきずられ、要所で字義から全く離れる曲解が多く見受けられるので、独自に改めようと思う。

 

 それは何となくおかしいレベルではなく、原文に基づくと現状の解釈には全く根拠がない曲解という場合以外は、既存の学説は基本尊重している。

 

 学説に反対する場合でも、できる限り、従来の通説解釈は原文の文脈に根拠がない普遍的字義からも離れた思い込みに基づく曲解で、字義に素直で原文に多角的に基づく自説に比し不適当と論拠を示して説明するようにする。教科書や辞書は基本的に理由も示さず断定するが、それはタフな学問的態度(自説に対する厳しい自問自答)に欠いた、知的に安易な権威主義的・御用系的・暗記主義的態度なので、良識ある皆さんはそれが社会の目標となるべき知的態度と勘違いしないでほしい。現状そういう読解モデル・解釈理論が全く存在していない。
 
 とはいえ、個々の文言解釈でも最も原文に多角的に忠実な自信はあるが、より大きな成立文献論等のマクロの解釈こそ当サイトの大きな成果と思う。理論面の概要については、以下のページフッター部分参照。現状の学説は、基本的に原文ではなく自説・自分達の安易な観念論から論を展開しおかしなことになっているが(例:土佐日記以前に女性作品は確認されておらず、直近の仮名和歌集・古今でも女性は上位20人中2人だけなのに、男もすなる日記というものを「女もしてみん」とあれば、女の私もしてみようという意味だ、理知的で知られる貫之が女を装ったのだ、とするのが全く異論のない通説だが、全く幼稚かつ正気の沙汰でない)、それを古文史を一貫して筋を通し(男もしているから女もしてみようと平易な仮名でするという啓蒙の体)、網羅的に理解しなおせると自負している。

 

 またウェブ技術をデジタルと称するアナログ社会、ガラパゴスと自ら揶揄される日本社会しかもその古文界では、アクセス性向上は事実上望めないから、ここで主要古典を網羅的に構造化し、速やかにアクセスできるインデックスとなるようページを作成し、レイアウトを整えようと思う。

 紙では実現できない多元的クロスリファレンスも、手間を惜しまなければリンクで実現できる。紙の教科書が大事という意見もわかる。一般読書や子供時代は紙でいいだろう。しかし学部以上の一定の研究レベルに至っては紙ベースの思考では正直全くお話にならない。紙はディスプレイ(大人なら4Kとそれ未満では視野が圧倒的に違う)に比し圧倒的に一覧性に乏しく、何より参照速度が前時代的。紙の本なら何冊も開いておくしかないが、今はタブブラウザで実現できる。学説文献を漁る必要はない。原文を網羅的に見れればいい。という人は少ないかもしれないが。

 

 何より文字の配置が固定的であることは古文の理解に致命的。当時の技術的制約上そうなっていたことまで守る必要はない。それで句読点や括弧など付け始めたのだろう。その延長で考える。伝統的遺物として遺すなら別として、縦書きなら文意の理解が深まるだろうか。

 

 構造化・レイアウトという点に関しても、出版には諸々の制約があるとはいえ、その制約によって思考・発想が制限されてきたと思う。

 古文読解の理論が、日記・随筆・恋歌・屏風歌・短歌・連歌などのそらそうだ的分類(そういう平面的な棚わけ分類の知識は体系的理解とは言わない)、品詞分解・活用分類くらいしか理論がなく、解釈が恣意的で、対訳性がぬるく微妙になるとすぐ原文を離れて想像に走るのは、原文と現代語訳をボンボンと雑に置くレイアウトの甘さ、アクセスを拒むかのような文章の索引性の弱さも原因にあると思う。単語索引は構造的理解と言わない。日本は構造主義にような近代的理解のメソッドから隔絶されているのだろうか。 

 

 それが次世代の理論の深まりにつながると信じる。
 

 古文はその国の精神性・言語認識の根幹であるが、現状はそれが訳のわからないドグマとなっている。
 問題ある所ほどそうであるから、国全体が、致命的問題ほど、言を左右に向き合わない習性になる。そうではないか。そういう教育ではないか。
 どうでもいいことをわざわざ問題にする必要はない。国全体がそんなことをしている場合ではない。そうして問題と指摘されれば、何事もそんなことは些末な問題と思い、真摯に取り組むと口では言いつつ言を左右に向き合わない。それは政治だけの話ではないだろう。これまでの教育思想の集大成として全国民の代表者に民の苦しみに馬耳東風で不遜さを隠さない人達ばかり出現し続けるのだろうと、私は思う。

 理論的に重大な、全体に影響ある問題(それを基礎理論という)を自ら見出し向き合う、それが学問的態度。それが身につく機会がなく小手先で対応してきた人達に対応を任せて真摯に誠実にと色々注文しても、どうにもならない。

 

 この点、従来の学習は反射的に複雑な事務処理をして与えた答えに辿り着くことを深い現場思考力と勘違いしているので、世界水準の学問的態度とは隔絶している(独自。学問と学習の隔絶)。文明化以来の上意下達の西洋受容という教育構造上先進的でも何でもない。基礎を固めるとは、1+1とか頓知的問題処理を訓練することではなく、基本的な思考様式を身に付けること。多少の計算は機械にやらせればいい。そこは人の本分ではない。よって米国では電卓使用可。単純なことで消耗してやった気になるから高次の計算に至らない。いつまでも源氏の訳出を一からして良かれと思うようなもの。

 



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