原文 |
書き下し 漢文叢書 |
現代語訳 下村湖人 要検討 |
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哀公 問 |
哀公あいこう 問とふ。 |
哀公が 先師にたずねられた。 |
弟子孰 爲好學 |
弟子ていし孰たれか 学がくを好このむと為なす。 |
「門人中で誰が 一番学問が好きかな。」 |
孔子 對曰 |
孔子こうし 対こたへて曰いはく、 |
先師が こたえられた。 |
有 顏回 者 |
顏回がんくわい といふ者もの あり、 |
「顔囘 と申すものが おりまして、 |
好學 | 学がくを好このんで、 | 大変学問が好きでありました。 |
不遷怒 | 怒いかりを遷うつさず、 | 怒りをうつさない、 |
不貳過 | 過あやまちを貳ふたたびせず。 | 過ちをくりかえさない、 |
×ということは、 なかなか出来ることではありませんが、 それが顔囘には出来たのでございます。 |
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不幸 短命死矣 |
不幸ふかう 短命たんめいにして死しせり。 |
しかし、不幸にして 短命でなくなりました。 |
今也 則亡 |
今いまや 則すなはち亡し。 |
もう この世にはおりません。 |
未聞 好學者也 |
未いまだ 学がくを好このむ者を 聞きかざるなり。 |
顔囘亡きあとには、残念ながら、ほんとうに 学問が好きだといえるほどの者は いないようでございます。」 |
○ 孔子の学問という意味が、道徳的精進を意味することは、本章に極めて明瞭にあらわれている。
【と注されるが、道徳的というより「好」「学」に対比させた表現が、怒りうつさず・過ちふたたびせず(不遷怒・不貳過)で表したと見るべきで、それを道徳的と言うならそうかもしれないが、道徳性というのは理解がピンポイントではない。好きな人の言ったことは忘れないように学を好んだ。それが好学者。
本章の「未聞好學者」と対をなすものに「我未見好仁者」(4-6)がある。そこで孔子が未だ見たことがないという「学」より明らかに上位概念の「好仁者」につき、下村訳は何も難しいことではないとしていたが、仁の理解と実践はそこまで簡単なのだろうか。
読者は、孔子の概念で「学」と「仁」はどういう関係にあると思うだろうか。
私は、「仁」は天(天道天命)に仕える(使える)道具として生きる人間性・人道性、「学」はそのための第一の手段・道具と思う。それが高次の道徳性。
仁が道(精神)、学が徳(世俗現世)に該当】