原文 |
書き下し 漢文叢書 |
現代語訳 【独自】 |
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子曰 | 子曰く、 | 【孔子曰く、 |
知之者 不如 好之者 |
之れを知る者ものは、 之れを好このむ者ものに 如しかず。 |
これを知る者は これを好む者に 及ばない(かなわない)。 |
好之者 不如 樂之者 |
之れを好このむ者ものは、 之れを楽たのしむ者に 如しかず。 |
これを好む者は、 これを楽しむ者に、 及ばない(かなわない)。】 |
以下、下村湖人訳 | ||
×先師がいわれた。 「真理を知る者は 真理を好む者に及ばない。 真理を好む者は 真理を楽む者に及ばない。」 |
※「之(これ)」は何にでも当てはまり、何事もという前置きをつけた意味に解する。非限定なので真理と限定するのは文脈に根拠なく不適当。本章は好学者(6-2)、好仁者(4-6)とセットになる章で、そこで孔子は、学や仁を好む者を見ないとしていたが、裏返すと、学や仁への理解を深めることを孔子は好んで楽しんでおり、誰より先に行っているという自負を控えて言っている。
下村注釈は「知・好・楽」を以下の様に哲学的に解するが、論語の文脈に根拠がない下村氏自身の哲学。恐らく時代的にも明治生まれで楽しんで仕事する発想がなかったのだろう。孔子はそれより20世紀以上前だがそれが孔子の別次元性。孔子の学問が単なる趣味・娯楽道楽で、世の学者のような仕事としての意味はないと思うのは、そういう人達基準の理屈。
「知・好・楽」は普通にそのままの意味で通せる。多くの大人は、別に好きでもないけど仕事だから、楽しいのは仕事ではないと思うであろうところ、その道の超一流のプロは自分こそ最先端という楽しみ、前より楽にできる喜びが基本にあると思う。それで隙あらば努力できる。無理にしても、好きにも楽しくも上手にもならない(好きこそ物の上手なれ)。楽しんでやれと言われてやる気をなくす。国に余裕がないと総体的に上手にならない】
○ 孔子はここで求道者の境地を知・好・楽の三段にわかつて表現している。
「知」は単なる知的理解の境地、
「好」は感情の燃燒を伴つてはいるが、まだ道と自己とが別々であり、相対している境地、
「楽」は道と自己とが完全に溶けあつて一如になつた境地をいうのであろう。