原文 |
書き下し 漢文叢書 |
現代語訳 下村湖人+【独自】 要検討 |
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子 謂 子夏曰 |
子し 子夏しかに 謂いつて曰く、 |
先師が 子夏しかに いわれた。 |
女 爲 君子儒 |
女なんぢ 君子くんしの儒じゆ と為なれ、 |
【そなたは 志高い人の需要(求める所) となれ。 |
無 爲 小人儒 |
小人せうじんの儒じゆ と為なる 無なかれ。 |
志低い人の需 となる なかれ】 |
×「君子の儒じゅに なるのだ。 小人の儒に なるのではないぞ。」 |
※儒:孔子の思想を受け継ぐ学問、それを学ぶ人。
儒学の儒もこの意味。下村訳と注釈ではこのまま日本語とする方が面白いとされるが、儒だけでは一般的でなく面白い以前に意味が分からない。人の需要で儒。人の需要に応える学問で儒学。そのままでは儒の字義に反するのではないか。
肝心ほど先に簡潔に示すのが論理。また、解釈は自在に具体化するのではなく、一般的な字義と文脈に多角的に基づかねばならない。小人は論語で常に君子と対にされる志の低い(低次元の)人。それで小さい人(独自)。4-5によれば孔子のいう君子は仁をなす者で(君子くんしは仁じんを去りて悪いづくにか名なを成なさん)、自分の世俗的成功を主に志すことは仁ではない(富とみと貴たふときとは、是これ人ひとの欲ほつする所ところなり)。世の中を豊かにすることを主に志すのが君子の特性たる仁(道によって富と貴を得なければ貧と賎は去らない、ということの反対解釈)。世の構成上みなが君子になることはないし、その必要もない。ただ理想の君主か何か興味がある人向けの本が論語。
○ 君子の儒、小人の儒は強いて訳さないで、このまま日本語として通用させる方が面白い。
儒は濡(水にひたるの意)を人扁にしたもので、先聖の道を学んで、それに身をひたす人を意味する。
「君子の儒」は真実に道を求めて学問をする人、「小人の儒」は、立身出世を求め、利害の打算に終始し、徒らに物知りになるような学問をする人。いつの時代にも小人の儒が多い。