原文 |
書き下し 漢文叢書 |
現代語訳 下村湖人 要検討 |
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子游 曰 |
子游しいう 曰いはく、 |
子游しゆうが いった。 |
事君 數 |
君きみに事つかへて 数しばしばすれば、 |
「君主に対して 忠言の度が過ぎると、 |
斯 辱矣 |
斯こゝに 辱はづかしめらる、 |
きっと ひどい目にあわされる。 |
朋友 數 |
朋友ほういうに 数しばしばすれば、 |
友人に対して 忠告の度が過ぎると、 |
斯 疏矣 |
斯こゝに 疎うとんぜらる。 |
きっと うとまれる。」 |
※本章の最後にして、唯一冒頭が孔子ではなく弟子の子游で始まる(里仁第四目次参照)。
しかもその内容は、孔子の説く仁の文脈と真逆(6でいう好仁者ではなく、12の「利によって行えば怨み多し」の実践)とも言える。
そして本章のような、孔子の仁と隔絶した本章の弟子の発言から、前章の内容(徳は孤ならず必ず隣あり)との整合性が問題になり、ここから(里)仁と徳の違いが示唆される。
といっても学者風の空虚な観念論ではなく、「仁徳」というように「仁」が上位(精神的)概念、「徳」は下位(世俗具体的)概念で、「仁」が里(精神的拠り所)、「徳」が世俗出仕利益に対応している。したがって「徳を積む」とは世俗世間で良く働き、良い経験を積み重ねる意味で、人間性の高まり(思考が世界と人類の進歩に貢献するものであること)までは問われない(天に)。よって「徳が高い」には奢るなどして慕われることも含む。仁と徳はイコールではないが、相反するとも限らない。そしてその判定は徳の次元ではできない。以上独自説。