原文 |
書き下し 漢文叢書 |
現代語訳 【独自】 |
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子曰 | 子曰く、 | 孔子曰く、 |
蓋 有 不知而 作之者 |
蓋けだし 知しらずして 之これを作なす者もの 有あらん、 |
なぜに 知らずに 出来る者が あると思うか。 |
我無是也 | 我われは是これ無なきなり。 | 私にそれはない。 |
多聞 | 多おほく聞きき、 | 多くを聞き |
擇 其善者而 從之 |
其の善者ぜんしやを 択えらんで 之に從したがひ、 |
そのうち善いものを 選択して これに従い、 |
多見而 識之 |
多おほく見みて 之を識しるす。 |
多くを見て この善悪(良し悪し・当否)を識別する。 |
知之次也 | 知しるの次つぎなり。 | これが知の次にある |
識である。 | ||
以下、下村湖人訳だが これは最早訳に仮託した下村氏自身の見解 |
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×先師がいわれた。 「無知で我流の新説を立てる者もあるらしいが、 私は絶対にそんなことはしない。 私はなるべく多くの人の考えを聞いて 取捨選択し、 なるべく多く実際を見てそれを心にとめておき、 判断の材料にするようにつとめている。 むろん、それではまだ真知とはいえないだろう。 しかし、それが真知にいたる途みちなのだ。」 |
※通説は「蓋」を書き下しのように推定の意味に解するが、文脈文末が当然の否定なので「なんぞ…ざる」という否定呼応の反語用法の応用と見る。つまり明言されない反語の否定末尾を明言したのが「我無是也」。
つまり弟子や読者は、孔子の知性を生まれながらと思うかもしれないが、私はそう思わないという趣旨(7-19:子曰く、我われ生うまれながらにして之れを知しる者ものに非あらず)、学びて時にこれを習い(ここまでは普通)、主体的に当否を考えたと言っている(これが本邦に欠けている視点)。
主体性と思っているのが実は集団従属的主体性と、主体性を重んじる外のコミュニティに入ればわかる。日本で言われる主体性は、集団の規律を自発的に忖度してその枠に従って動くことと。
以上独自説で、下村流に言えば我流の新説。そもそも無知で新説を立てようと思うだろうか。思うに「知」とは教科書的な答えを覚えることで、そこに問題があっても取るに足らないレベルと思われている。
それが日本の学問理論の根本にある宿命的後進性・二番煎じ性、人文系理論のドグマ的弱さ。上から与えられた問いの延長以外、無知といちゃもん以外に問う意味を知らない。地球人類は全知でないという学問の素朴な前提がない。
理系でも思考の根本は文章。西洋に追いつけ追い越せで、通説で思考停止し条件反射・事務処理に優れる者を優秀としてきた知性の限界。
個々の結果が問題ではなく問題分析が皮相的なことが問題。延々目先のことばかりで、根本的な基礎理論・哲学の研究を役に立たないと小ばかにして疎かにしてきた。それは一朝一夕でならない。よって世界の理系の最高峰の象徴・ケンブリッジには古典学部がある。理論の立論は単なる知識(ナレッジ≒カレッジ)の集積で生じない。理想の精神が必要。理想が安易でせこいと、安易でせこい説しか生まれない。異次元と言っても自国基準という悲哀。精神と能力を象徴する君主と首席の如く全体もそうなる。これが東西の学問の根本的違いで革命の有無。変えるなら上(頭・指令系)でなく下(手足・末端)の問題と思い、問題は良化していると誤魔化し悪化し続けるのが極東。それは摂理の無知(無理解以前の)。古の起源の本を、最初から体制維持に都合良く認識を変え続けた国の行く末。