原文 | 書き下し |
現代語訳 (独自) |
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子曰 | 子曰く、 | 孔子が言うには |
巧言令色 | 巧言令色かうげんれいしよく、 | 「人を惑わすように巧みな言葉を連ね、上から目線で冷笑的な顔をする人には、 |
鮮矣仁 | 鮮すくなし仁じん。 | 思いやりの仁徳(人徳)はほとんどない」 |
これはまさに今の日本で日々繰り返される権力者と何々長官の定例会見の言葉と顔色への感想。令は命令・指令(長官)の意味で、これに仁と対極の冷たく真摯でない意味の冷笑を掛けた。論語は先頭で君子ではないかと問いかけるように本質的に非道=無法の世の君子論(君主論・統治論)で、仁は君子の最大の特性として説かれるから、ここでも下の者の卑しい特性として揶揄しているのではない。統治者が詭弁をこねて普遍の高次の法に従わず、またその崇高な摂理の目(天道)の支配を認めずに、自分達で決めた法律もあるようで無い状態、自分達だけは免除されていると思い、自分達で決めれば何でもありにできると思う規範状態を無法という。法律がない国家はおよそ存在しないので、役に立たない観念的理解をしてはいけない。
仁とは、高次の人間性・ヒューマニティー・慈悲。論語は言葉巧みな学者向け論文ではないから、ここでは仁徳・高次の人徳として問題ない(金の打算で集まる人徳ではない)。些末な観念論に囚われ、普遍に通じる字義と大意を取り違えないことこそ肝心である(歴史的文書に対する権威的学者による曲解は常)。
鮮とは、少ない・稀という意味で、裏返すと僅かにあるという意味だが、それは一寸の虫にも五分の魂というようなもので、そんな器の人でも自分がそうされたようにそのままでは世に出ない息子や娘や妻に地位や財産を継がせようと思ったりもする。これも一応ミクロレベルだが仁。しかしそういう人々が代表になり続けているのだから全体が総じてそのような行動原理で行動していることになる。社会全体の内心の見えない所での真摯さ・何を理想にして生きるか・人類普遍の(政治)哲学への興味と理解の程度、つまりいわゆる民度が、日々の諸々の会見の根本的に他人事で口先の窓口的対応に集約されていると思う。
なお、本章は陽貨第十七-17でもそのまま繰り返される(つまり重要)。
先師がいわれた。
「巧みな言葉、媚びるような表情、そうした技巧には、
仁の影がうすい。」
本章は「巧言令色、すくなし仁」という文語訳で有名である。