原文 |
書き下し 漢文叢書 |
現代語訳 下村湖人+【独自】 要検討 |
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閔子 侍側 |
閔子びんし 側かたはらに侍じす。 |
閔びん先生は 【先師孔子の側に侍する時、】 |
誾誾如也 | 誾誾如ぎんぎんじよたり。 | 物やわらかな態度で、 |
子路 | 子路しろ | 子路は |
行行如也 | 行行如かうかうじよたり | ×ごつごつした【イキイキした】態度で、 |
冉有、 子貢 |
冉有ぜんいう 子貢しこう |
冉有と 子貢とは |
侃侃如也 | 侃侃如かんかんじよたり | ×しゃんとした【泰然自若とした】態度で、 |
先師のおそばにいた。 | ||
子 樂 |
子し 楽たのしむ曰く、 |
先師は 【それを楽しんで】 ×うれしそうにしていられたが、ふと顔をくもらせていわれた。 |
若由也 | 由いうが若ごときは | 「由ゆう【子路】のような気性だと、 |
不得 其死然 |
其その死然しぜんを 得えざらん |
畳の上で【自然に】は死 ねないかも知れないね。」【と。】 |
【これは死然と自然を掛け、さらに「行行」を生き生き・活き活きに掛けたと解する。
最後の発言は、不自然にイキイキし過ぎて自然ならぬ死ぬ寸前の死然でないかとした頓知で「楽しむ」とある(11-15:過ぎたるは猶及ばざるが如し参照)。通説的解釈は大真面目なので、この頓知を全く解せず文面にないことを補って真逆に曲げている(下村訳「ふと顔をくもらせて」)。
この死然に対し、前後三者は強弱で対比した自然な様子。「誾」は穏やか、「侃」は強さをいうが、共に和やかな意味を持つ(いわば柔和とほがらか)。
以上独自説だが、字義と文脈を完璧に捉えきった解釈と思う。
こうした解釈は誰にも認知されていないが、対句的理解こそ論語解釈の生命線なのである(12-17:政は正なり、12-3:仁じんとは其その言いふや訒じん)。生命線を解せないから文面上不自然になる。
孔子は五十までに易を学び(7-16:五十以學易)、天命を知った(2-14)と理解されているが、人により見え方が違う所は筋が通っているかで当否が決まる。安易な運命論のようなことは学ぶまでもないが、教育業界のように世の中には様々な形態がある】