原文 (実践女子大本) |
現代語訳 (渋谷栄一) 〈適宜当サイトで改め〉 |
注釈 【渋谷栄一】 〈適宜当サイトで補注〉 |
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月見る朝(あした)、 | 月を見ていた翌朝、 |
〈月見(中秋の名月)の翌朝とするのが通説(新大系・集成)だが、皮相的な即物的解釈、かつ文脈上の根拠なく夜と朝を分断しており不適当。これは一連の歌の人と共寝した朝の婉曲表現と解する。独自。それで枕詞が「横目」。夫宣孝ではない。そう見るから「従来から難解な歌とされる」(上原廣田・世界)のであり、そのわけをここで明らかにする〉 |
いかに言ひたるにか、 | どのように言って来たのであったか、 |
〈上記文脈で言われたピロートークの情況。「にか(であったか)」は婉曲で、「家集編纂の時から記憶が曖昧なこと」(世界)というのは皮相的。自分の夜の事情をつまびらかにすることは、一般常識でも日記での和泉式部に対する批判からもない。 「宣孝からの夜離れの言い訳」(新大系)という説は一つ覚えで、月見る朝とあるのに想像で文脈を分断し夜離れというのがそもそも不自然で無理。発言も時間差ない表現なのに後日の言い訳と見るのも無理。夫という根拠は、男は夫だけと思う論者の願望・結婚観しかない。しかも歌序では高齢夫はとっくに死亡している。レールに乗って生きて来た人は、婚姻を前提としない男女関係を認め難いから創作や題詠と認識を変えようとするのだろう。しかし源氏はその話題から始まり、しかも式部には夫が既にないから、失うものがないどころかシンママでも良いという好いた人がいれば、むしろメリットしかない〉 |
横目をも | 〈横目でも〉△他の女性に関心を寄せることなど |
【横目】-他の女性に関心を寄せること。竹内『評釈』では「夜ごめ」と解す。 〈しかしこれは第一に夜の営みの最中に紫式部が恥じらい目を横にそむけたこと、第二に朝寝ながら話している状態の掛詞(参照日記:いと恥づかしげなるに、我が朝顏の思ひ知らるれば)と解する。それをからかって「秋の月にもいかでかは見し」。独自。これが色々ある横目の妙、かつここでの文脈を完全に拾いきった解釈。紫式部の作風とも完全一致。文脈にない視点を根拠に限定して代入していくのは解釈ではない〉 |
ゆめと | 〈私の夢(しかしもうそうすることもあるまい)〉△けっしてしませんと |
【ゆめ】-副詞。けっして、--しない。 〈この「ゆめ」は第一に理想・夢想・妄想、ここでは上記の寝て見る意味。夢は寝て見るもの。次に末尾に打消しを伴い、決してない、夢見ない・もうそうしないの意味をもつところ、それがない(省略されている)のでその意味は副次的でその意味しか読まないのは違う。通説のように寝る文脈と切り離す解釈を否定する〉 |
言ひしは誰れなれや | 言ったのは〈誰なのかな〉△誰でしょうか | 〈と言ったのは誰だっけ…?という口語調の、からかい・いじわる・いけず。横目でもう恋なんてしないと言ったのは誰でしょ~うか?マ〇キーは言わないよ?絶対〉 |
秋の月にも | 〈秋の月でも〉×昨夜の秋の月見も | 〈一番歌「雲隠れにし夜半の月影」と結び付けて見る〉 |
いかでかは見し | 〈どうにかして見ていたのか〉△どのようにして見たのでしょうか |
【いかでかは】-疑問、どのようにして。 〈「見し」が112なほざりのの式部の「見えじ」と対にして見る。これが文脈を全て拾いきった解釈。そもそもいつから日本は女性の意志で結婚できるようになったのか。女は高齢夫を死後も求め続けたと思うのが中国以下でヨルダンインドと並ぶジェンダーギャップ指数の国(2023)〉 |