源氏物語は「光る君の物語」という異称もある位、その登場人物は光源氏を中心に構成されている。
したがってその主要人物達を源氏と切り離して論じても意味はないし、源氏か誰なのか、周りの人物と全く照らし合わせられないなら、現状のように何とでも言え大した意味はない。虚構だから大した意味はないというのは、視野が狭くて意味の連関を見れてないだけ。それをここで証明する。
一人のしかも一部の属性だけ見て、源氏の主人公モデル性を論じるのは、異論は無視する単なる思い込みでしかない。
いわば品詞分解しまくり全体像を理解した気になる、典型的な日本的近視眼解釈(群盲象を評す)。
栄華という表面的現世利益的一面しか見ず、他の際立った象徴的属性(低いのに取り立てられ周囲にやっかまれた出自、類ない美貌評、光と並び立つ輝く日の宮、地方に流れて無位無官、221首という突出した歌人性、前世から因縁の度重なる強調)は全く無視。
現状は専ら源氏が誰なのか、断片的な一つの属性だけ見て論じているに過ぎないので、その情況を整理してここで改める(結論だけ示しても受け入れることが難しい人もいるだろうから、まずは従来の議論の流れと至らなさをまず説明する)。
結論だけ見たい方は、下の目次に飛んでほしい。
源氏のモデル候補として、巷では大河ドラマとその題名が恐らく暗示する道長説が極めて有力に流布しているが、学説においては、光孝天皇、源融、源高明らが有力な候補で、おまけで在原業平。通説と言えるものはなく、またこれら以外は適当な思いつきの泡沫候補。
そして道長という俗説には、以下に示すような上記学説を上回る根拠、道長でなければ通らないと言えるような必然の根拠は何もなく、安易な思い込みの域を出ない。
伝統的には、①源融、②光孝天皇が主たる候補、加えて③業平。特に①②は、大抵の学説ではまず紹介される。
その根拠は第一に①②の名前、高い地位、いずれも百人一首にとられるほど有名な和歌をもつこと(ただし伊勢物語の記述から自作ではなく、いずれも伊勢物語で著者が提供した和歌。これは独自説だが100%確実に論証できる)。
特に①は六条に邸宅を構えて、源平戦の陣営にもなった源氏の象徴的存在である。
さらに第二に、源氏物語は伊勢物語の影響を極めて強く受けて書かれているところ(伊勢物語の最初の和歌の歌詞に「若紫」があり、源氏の『若紫』巻にはその文脈とリンクする垣間見文脈がある)、①②③の人物は全て伊勢物語に登場すること(その文脈は、いずれも名もなき人物が歌を提供するというもので初段・81段(源融)・114段(光孝)、業平は和歌はもとより歌を詠めず強いて詠ませたならこのようであったとあり(109段:もとより歌のことは知らざりければすまひけれど、強ひてよませければかくなむ)、普通に見れば、伊勢物語の歌は全て著者たる昔男の代作で翻案。なお独自説)。
③業平はその伊勢物語の著者と目された主人公で、その根拠は、古今の業平認定を元に文脈を無視して無名の「昔男」に一方的に代入されてきたことにあるが、そもそもこの業平認定、伊勢物語の業平著者・主人公説は従来そういうものと「みなし」てきたように、噂だけが根拠で事実の根拠はない(当初は伊勢物語を業平歌集と丸ごとみなしてその歌を業平認定していたが、情報共有が進んで維持できなくなり、その時点で業平認定の根拠は失われたが、歴代学説はその失態を認められない)。つまり道長説的な根拠のない安易な思い込みによる誤認定なのだが、歴代の貴族付き御用系学者達は単に頭が悪かったことによる過ちと認められず正当化を続け、伊勢物語の一体作品性を散々破壊して無秩序化し、不備は悉く作品のせいにし筋の通せなさを顧みず、着地点のない論を立てて高等な議論が進んだ風を装っている。このように③業平説は実際の内実や記録が全く伴ってないので、源氏物語の主人公説では影響力が全くない。
④源高明説は、これらの内実のなさを総合するために提唱された代替案で、その実は、ある程度の皇族なら誰にもある高い評判という程度で、当然ながら当初の主候補を上回る多角的実態がない(現代の源氏相当男子と、その取り巻きによる立派な風貌や傑出した学力等の評の意義と動機を想起してもらいたい)。
この流れで出て来た説が、⑤道長説。
これは生来、源高明以上の代替案に過ぎず、当てはまりそうな人物を次々挙げているに過ぎない。現実世界を描写した『紫式部日記』での道長の描写を、この国得意の文言を自在に曲げる「解釈」能力で、「恥ずかしげ」という一貫した批判を自分の卑下だと全力で曲げ、容姿を褒めた描写も全くないのに美化礼賛し、恋愛関係にあったと見る妄想説。よって源氏の人生は、⑥道長より道長父に似ているという説も派生する(当否は論ずるまでもない)。
伊勢物語の昔男が誰なのか、つまり永年、立場ある学者達が真摯に向き合ってこなかった古文和歌史上最大の問題を明らかにすれば、源氏物語の主要な人物を矛盾なく説明できる。それをここで証明する。
それは縫殿にいた文屋で、縫殿という後宮女官担当部署にいたから女達の話題に通じ、竹取のように上流貴族皇族が女に群がりそれを滑稽に描く動機があり、竹取と伊勢物語を象徴する衣、「羽衣」「若紫のすりごろも」「狩衣」「唐衣」と多用する根拠がある。「文屋」もゴシップ屋という意味。業平・在五中将にはこのような内実が一切ない。ただ稀に見る淫奔性で押し通しているに過ぎず、知的な文才の根拠も全くない。
だから源氏物語では、竹取と伊勢を並べた絵合で「在五物語」とせず「伊勢物語」と定義し、主人公の名を業平の名で貶めるなと激しく争い、絵を買い漁った中将陣営を負かし(これは「ちはやぶる」の屏風の揶揄と見る)、伊勢物語を擁護した伊勢斎宮に付いた自筆の主人公陣営を勝利させる。
自分で作れる実力者なら、馬には読めず大した文も書けないことはわかる。自分で作れないから、そのような論を立てれるのである。
・光る源氏:伊勢物語の昔男=文屋=伝説の歌仙=輝くかぐや(小町)と並び立つ→密通。歌数221。 |
・夕霧:主人公唯一の公式嫡子(朝康)。光の陰で影薄い。妻の雲居雁も同旨の名。源氏の世で歌数37。 |
・頭中将:在五中将=業平。主人公と永遠のライバル。歌数17。 |
・柏木:頭中将の息子で夕霧のライバル(業平息子・棟梁) |
・薫:中将の孫(元方=なぜか古今先頭で調子にのる場違い男) |
・六条御息所:二条の后(東宮の御息所が枕詞で文屋が仕えた女性)=伊勢物語で車とセットで車争い |
・藤壺:かがやく日の宮=月に行った不死壷のかぐや=小町=光を放つ衣通姫のりう |
・梅壺:伊勢121段・梅壷を受け伊勢物語の継承を象徴(源氏では前伊勢斎宮を梅壺に入れる) |
・朧月夜:伊勢69段「狩の使」の斎宮との夜の象徴=斎宮の源氏に対する分身 |
・桐壺:伊勢物語の梅壷に加え藤壺(竹取)と三位一体で源氏物語を象徴。内裏で対の配置 |
・葵:幼馴染の筒井筒・梓弓(伊勢23~24段)で早世した妻。里の女 |
・花散里:葵の分身。伊勢94段=紅葉も花も(散るもの) |
・紫の上:伊勢41段の紫・上の衣(藤原の娘に贈る話)。源氏の話は41巻まで。紫式部も藤原の娘 |
・明石の君:伊勢114段・須磨のあま。よって明石父母は入道で尼 |
・明石の姫君:伊勢87段・布引の滝で三宮辺りの昔男の家にいた謎の女子 |
・玉蔓:玉葛という伊勢36段の変化形。玉葛(つる草)=長いだけで実りない・結ばれない(恋) |
源氏物語の趣旨:無名の昔男の擁護復権と、その死後主人公気取りで乗っ取る中将系列の断固否定 |
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