源氏物語・絵合(えあわせ)巻の和歌9首を抜粋一覧化し、現代語訳と歌い手を併記、原文対訳の該当部と通じさせた。
内訳:3(斎宮)、2(朱雀院)、1×4(紫上、源氏、大弐典侍、平内侍)※最初と最後
通説は上記斎宮和歌のうち1首を藤壺とするが、これは100%誤認定と断言できるので除いた。簡単に述べると、第一に藤壺はそれまで源氏にしか歌を詠んでいないところ、当該和歌は主体が「宮」で人定が文脈読解に依存しているが、これを複数人中の歌の配列のみから藤壺中宮と推測するのは誤った解釈態度。藤壺たる必然が必要。当該和歌の絵合巻と絵合せの主役で伊勢物語を擁護して勝利する文脈に基づけば、その「宮」は梅壺こと前伊勢斎宮と見るの順当である。藤壺の御前での絵合で、源氏にしか和歌を詠んでこなかった彼女が終盤の和歌の連続に判定として突如自作を差し挟んだと見るのは彼女の受動的な贈答割合に照らしても無理だし、女社会の頂点の中宮の判定に対し女達が乱りがはしく争った見るのは、光と並ぶ輝く日の宮に失礼に過ぎ、場当たりで常軌を逸している認定とすら言える。以下和歌に付随させて論じるが、できれば検討してもらいたい。
即答 | 2首 | 40字未満 |
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応答 | 5首 | 40~100字未満 |
対応 | 2首 | ~400~1000字+対応関係文言 |
単体 | 0 | 単一独詠・直近非対応 |
※分類について和歌一覧・総論部分参照。
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上下の句に分割したバージョン。見やすさに応じて。
なお、付属の訳はあくまで通説的理解の一例なので、訳が原文から離れたり対応していない場合、より精度の高い訳を検討されたい。
原文 (定家本校訂) |
現代語訳 (渋谷栄一) |
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274 贈 |
別れ路に 添へし小櫛を かことにて 遥けき仲と 神やいさめし |
〔朱雀院〕別れの 御櫛を差し上げましたが、 それを口実に あなたとの仲を遠く離れたものと 神がお決めになったのでしょうか |
275 答 |
別るとて 遥かに言ひし 一言も かへりてものは 今ぞ悲しき |
〔斎宮〕別れの御櫛をいただいた時に 仰せられた 一言が 帰京した今となっては 悲しく思われます |
276 贈 |
一人ゐて 嘆きしよりは 海人の住む かたをかくてぞ 見るべかりける |
〔紫上〕独り都に残って 嘆いていた時よりも、 海人が住んでいる 干潟を絵に描いていたほうが よかったわ |
277 答 |
憂きめ見し その折よりも 今日はまた 過ぎにしかたに かへる涙か |
〔源氏〕辛い思いをした あの当時よりも、 今日はまた 再び過去を思い出して いっそう涙が流れて来ます |
278 唱:贈 |
伊勢の海の 深き心を たどらずて ふりにし跡と 波や消つべき |
〔平内侍=左方。主張〕伊勢物語の【海のように】 深い心を 訪ねないで 単に古い物語だからといって 価値まで落としめてよいものでしょうか |
279 唱:答 |
雲の上に 思ひのぼれる 心には 千尋の底も はるかにぞ見る |
〔大弐の典侍=右方。否認〕雲居の宮中に 【思い】上った正三位の 心から見ますと 伊勢物語の千尋の心も 遥か下の方に見えます【千尋→業平の噂。伊勢73】 |
280 唱:答 |
みるめこそ うらふりぬらめ 年経にし 伊勢をの海人の 名をや沈めむ |
〔斎宮:左方・伊勢斎宮・梅壺の抗弁 ×藤壺:通説〕ちょっと見た目には 古くさく見えましょうが 昔から名高い 伊勢物語【伊勢の無名の昔男】の 名を【底の浅い業平の名で】落としめることができましょうか |
上記和歌を藤壺の作とするのが通説だが、一般的見解では藤壺の和歌はこの和歌以外は全て源氏との贈答歌のみだから(全集6・608~609p。つまり藤壺は基本的に源氏にしか和歌を詠まない)、その人定は、単なる想定ではなく藤壺たる強い根拠を要する。 そして本和歌は絵合せの最後で伊勢物語を擁護する和歌だが(絵合せにおける和歌対決は伊勢物語のものしかない)、伊勢物語を出したのは伊勢斎宮陣営であり、さらに伊勢斎宮陣営がこの絵合せに勝利する。そうした文脈と和歌の内容及び伊勢概数の歌数から、本巻の主役は一貫して前伊勢斎宮(通称秋好中宮)である。 これらのことから、伊勢物語を擁護する「宮」は梅壺こと前斎宮でしかありえず、藤壺中宮説は漫然とした誤読という他ない。 通説の問題は、絵合せでの唱和的和歌連続で、後見裁定役の藤壺が即座に返しトリを務め、それを乱りがはしく争うとするが、あまりに藤壺を軽んじて解釈が自分達本位で場当たりに過ぎ、だから文言を曲げて対応する(「乱りがはしく」を取りとめもなくと骨抜きにするのは、人として底の浅い評しかない業平を絶対賛美していると思い込む抜けた通説に異を唱える和歌の意味・問題提起を解せないから。狭い世界の狭量な学者には対象の頭が悪い方が御しやすい。それが古今以来の業平認定)。 さらに自分達の唱和定義を拡大解釈し、漫然と別異の三方と捉え(左右藤壺とし左右左と見ない)、これは宿木巻の薫の唱和と同様、薫が媚びたと明示された文脈なのに薫帝薫とせず、帝に続く配列から薫帝夕霧であろうとする認定と全く同じ問題(通説によれば第三部で夕霧は2首しかなく、想定で夕霧認定するのは見当違い)。 |
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281 贈 |
身こそかくし めの外なれ そのかみの 心のうちを 忘れしもせず |
〔朱雀院〕わが身はこのように 内裏の外におりますが あの当時の 気持ちは 今でも忘れずにおります |
282 答 |
しめのうちは 昔にあらぬ 心地して 神代のことも 今ぞ恋しき |
〔斎宮〕内裏の中は 昔とすっかり変わってしまった 気がして 神にお仕えしていた昔のことが 今は恋しく思われます |
280の歌は原文では「宮」による。これを通説は藤壺中宮と解するが、しかしそれではこの絵合せを後見した藤壺の判定を女達は全く無視して大騒ぎすることになり(乱りがはしく争い)、加えて藤壺の判定への不服を彼女の子・冷泉帝に上訴するのも、光と並ぶ輝く日の宮(藤壺)をないがしろにするにもほどがある。だからこの宮は藤壺ではなく前斎宮と解する他ない。斎宮なら何の問題なく通る。ではなぜ藤壺とされているかというと、恐らく直前の宮が藤壺で、目先に囚われ全体を俯瞰して見れないからと思う。この巻の最初に出てくる宮は斎宮である。
絵合の巻の主役(各巻でメインの女性が一人いる)は、前伊勢斎宮が梅壺に入る冒頭からも、最初と最後の和歌が斎宮と朱雀の贈答歌であることからも、この斎宮であることは明白である。その伊勢斎宮が伊勢物語の和歌対決で何も発言しないのはずれているし、トリをとるのは伊勢斎宮こそ相応しい。彼女は常に伊勢物語とのリンクを象徴している(六条御息所(≒二条の后)の娘というのもそう)。
伊勢斎宮を梅壺に入れたのは、伊勢物語121段・通称「梅壷」を受けた以外ない(伊勢物語で壷がでてくるるのは梅壷のみ)。それに掛けて伊勢物語を論じている。だから絵合巻の絵合せでの和歌も、伊勢物語に関する3首(278~280)しかない。つまりこの絵合巻は伊勢物語について争い、異論を打ち負かすことが肝心の命題である。
この絵合は三月十日(藤壺御前)、二十日頃(冷泉御前)のもので、三月三十日の天徳内裏歌合を明確に受けたものである。よって絵合でも、和歌の対決こそ肝心である。つまり和歌の対決がない他の物語(竹取vs宇津保、正三位vs)は全て前座。
左右対決の構図にしているが、竹取伊勢を推す伊勢斎宮陣営に源氏の日記がついて勝利するため、ネームバリューの重みがわかる人が見れば左しか勝ちようがないことはわかる。さらに万事ぼかす源氏で最後に左が勝ったと明言しているので、結局何が言いたいかわからない論文風の物語論をしたいのではない。ありえない説がが通用している、それを面前で論破することは状況が許さないが、最後には打ち負かされるべきものである(よって書面で残す)という趣旨である。
280の歌の訳では「年経にし伊勢をの海人の名」を「昔から名高かった伊勢物語の名」とするが、「伊勢物語」という呼称は、この源氏物語の絵合以前に確認されていない。つまりこの解釈自体が根拠のない思い込みを前提にした循環論法。直前の業平の有名と、伊勢の無名の男(海人)の名との対比を解せず無視した誤り。しかしこの意味は誰も解せておらず、訳を提供された渋谷教授は原文と通説的な訳の無償公開が目的で、個別の解釈で自説を唱えることを目的にしていないだろうから、教授個人の問題ではない。しかし肝心ほど細部は無視して(解せないから)、どうでも良い所で細部をつついて旧来の安易な思い込みで押し通す手法は、万葉以来のことで普通である。
当時からの支配的通説の、浅はかな在五(業平)の物語という定義を否定するため、伊勢の海の深い心・伊勢物語と再定義するこそ絵合の本旨。だから上記の歌の後で乱りがはしく争っている。これは現実での著者の問題提起が受け入れられず、反発を生んだことの反映と見る。
絵合は文献中「伊勢物語」呼称が初出する歴史的意義を有する巻(竹取も竹取物語とはしていない)。それに加えて、著者は貫之と伊勢の御をセットで用いるところ、竹取は貫之の写本とセットにされている。
前斎宮は伊勢物語を擁護する左方(平典侍)のボスで、彼女の歌が絵合巻における絵合せ中に一首も存在しないというのは無理(そもそも絵合は、上述の通り歌合と密接不可分の概念)。論争の最後に前斎宮のトリの歌と見ると何の無理もない。
このような一連の前斎宮の文脈でも、上述した藤壺の立場からも、280の「宮」は藤壺ではなく前斎宮と解するのが妥当である。
このように伊勢を擁護する趣旨から、279の「思ひのぼれる心」とは、対比された「伊勢の海の深き心」を全く理解できない「はじめより我はと思ひ上が」る「あさはかなる若人」の論評で、280の「年経りにし伊勢をの海人の名」とは、有名な業平の名と対比させた、無名の昔男(文屋)の名のことである(小町と並ぶのは古今の構成上文屋しかないのは古今を読み込んだら自明)。
280直前には「在五中将の名をば、え朽たさじとのたまはせて、宮」とあるが、これが在五の物語だという一般への反論として、業平の名で無名の昔男の名を貶めるなとした。絵を買い漁る中将陣営は帝の御前で敗北させ、著者は業平を認めていないことを表した。その象徴こそ初の「伊勢物語」定義。物語終盤の総角で「在五が物語」とあるが、これは源氏がいなくなり、あさはかなる若人しかいなくなった時の話で、著者がこの議論は「いといたう秘めさせ」たことも反映している。
学者や一般が業平をどれだけ挙げて評価しようが関係ない。著者がそれに従って書いているわけではないし、貫之は伊勢の歌を業平のものと認めてもない。
伊勢の歌を業平と認定したのは、大して意味もわからない貴族その他で、貫之は業平認定を断固拒絶している。
弁解の余地のない証拠(大した意味)を示そう。
古今で文屋小町敏行のみ先頭連続(秋下・恋二・物名)、業平を敏行で崩す恋三。これは解釈で左右できない客観的な配置。この人選と分野選定に意味を見れないのはただの和歌の完全素人。文屋8貫之9=下に立たむこと堅く。業平53・63=伊勢63段在五。在五はもちろん蔑称。「在五」初出の伊勢63段も、在五を「けぢめ見せぬ心」と非難し、その後も道に外れた言動を非難し続け、それを主人公で業平を讃えた物語と言い続けるなら、権威を盲目的に礼賛して言葉と道理を曲げることに加担している。
文屋なら全て無理なく通り、業平には無理筋しかない。だから訳もわからず業平認定に従ってきた人は文屋を断固無視するか、その訳のわからなさを披露して嘲笑してきた。36歌仙(主流)と中古36歌仙(異端)。これは今でも和歌理解の根本にかかわる問題。
古今時代に伊勢物語の歌が業平のものとされたは、下級役人の作と認められなかったから。しかし上流貴族が源氏並の作品を残した例はない。万葉の家持からして乗っ取り。それらには下々のものを当然のように我が物として収奪する習わしがあっても、自らを無名にする動機も地方を取り上げる動機もない。ここでの絵合の左右も、勝利する左方が身分が下に描かれている「梅壺の御方には、平典侍、侍従の内侍、少将の命婦。右には、大弐の典侍、中将の命婦、兵衛の命婦」。もちろんこれは渚の院の上中下に掛けた大中小。「右」は頭中将(=中納言)の娘の弘徽殿で一貫して中将性を持たせている。これでその意味はないというのは、よほどのわからずやでないと無理だろう。