源氏物語・幻巻の和歌26首を抜粋一覧化し、現代語訳と歌い手を併記、原文対訳の該当部と通じさせた。
内訳:19(源氏)、2(中将君=源氏に仕える女房)、1×5(蛍兵部卿宮、明石、花散里、夕霧、導師)※最初と最後
即答 | 12首 | 40字未満 |
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応答 | 6首 | 40~100字未満 |
対応 | 2首 | ~400~1000字+対応関係文言 |
単体 | 6首 | 単一独詠・直近非対応 |
※分類について和歌一覧・総論部分参照。
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上下の句に分割したバージョン。見やすさに応じて。
なお、付属の訳はあくまで通説的理解の一例なので、訳が原文から離れたり対応していない場合、より精度の高い訳を検討されたい。
原文 (定家本校訂) |
現代語訳 (渋谷栄一) |
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564 贈 |
わが宿は 花もてはやす 人もなし 何にか春の たづね来つらむ |
〔源氏〕わたしの家には 花を喜ぶ 人もいませんのに どうして春が 訪ねて来たのでしょう |
565 答 |
香をとめて 来つるかひなく おほかたの 花のたよりと 言ひやなすべき |
〔蛍兵部卿宮:源氏弟〕梅の香を求めて 来たかいもなく ありきたりの 花見と おっしゃるのですか |
566 独 |
憂き世には 雪消えなむと 思ひつつ 思ひの外に なほぞほどふる |
〔源氏〕つらいこの世からは 姿を消してしまいたいと 思いながらも 心外にも まだ月日を送っていることだ |
567 独 |
植ゑて見し 花のあるじも なき宿に 知らず顔にて 来ゐる鴬 |
〔源氏〕植えて眺めた 花の主人も いない宿に 知らない顔をして 来て鳴いている鴬よ |
568 独 |
今はとて 荒らしや果てむ 亡き人の 心とどめし 春の垣根を |
〔源氏〕いよいよ 出家するとなるとすっかり荒れ果ててしまうのだろうか 亡き人が 心をこめて作った 春の庭も |
569 贈 |
なくなくも 帰りにしかな 仮の世は いづこもつひの 常世ならぬに |
〔源氏〕泣きながら 帰ってきたことです、 この仮の世は どこもかしこも 永遠の住まいではないので |
570 答 |
雁がゐし 苗代水の 絶えしより 映りし花の 影をだに見ず |
〔明石〕雁がいた 苗代水が なくなってからは そこに映っていた花の 影さえ見ることができません |
571 贈 |
夏衣 裁ち替へてける 今日ばかり 古き思ひも すすみやはせぬ |
〔花散里〕夏の衣に 着替えた 今日だけは 昔の思いも 思い出しませんでしょうか |
572 答 |
羽衣の 薄きに変はる 今日よりは 空蝉の世ぞ いとど悲しき |
〔源氏〕羽衣のように 薄い着物に変わる 今日からは はかない世の中が ますます悲しく思われます |
573 贈 |
さもこそは よるべの水に 水草ゐめ 今日のかざしよ 名さへ忘るる |
〔中将君:源氏に仕える女房〕いかにも よるべの水も古くなって 水草が生えていましょう 今日の插頭の 名前さえ忘れておしまいになるとは |
574 答 |
おほかたは 思ひ捨ててし 世なれども 葵はなほや 摘みをかすべき |
〔源氏〕だいたいは 執着を捨ててしまった この世ではあるが この葵はやはり 摘んでしまいそうだ |
575 贈 |
亡き人を 偲ぶる宵の 村雨に 濡れてや来つる 山ほととぎす |
〔源氏〕亡き人を 偲ぶ今宵の 村雨に 濡れて来たのか、 山時鳥よ |
576 答 |
ほととぎす 君につてなむ ふるさとの 花橘は 今ぞ盛りと |
〔夕霧〕時鳥よ、 あなたに言伝てしたい 古里の 橘の花は 今が盛りですよと |
577 独 |
つれづれと わが泣き暮らす 夏の日を かことがましき 虫の声かな |
〔源氏〕することもなく 涙とともに日を送っている 夏の日を わたしのせいみたいに鳴いている 蜩の声だ |
578 独 |
夜を知る 蛍を見ても 悲しきは 時ぞともなき 思ひなりけり |
〔源氏〕夜になったことを知って 光る螢を見ても 悲しいのは 昼夜となく 燃える亡き人を恋うる思いであった |
579 独 |
七夕の 逢ふ瀬は雲の よそに見て 別れの庭に 露ぞおきそふ |
〔源氏〕七夕の 逢瀬は雲の上の 別世界のことと見て その後朝の別れの庭の 露に悲しみの涙を添えることよ |
580 贈 |
君恋ふる 涙は際も なきものを 今日をば何の 果てといふらむ |
〔中将君:源氏に仕える女房〕ご主人様を慕う 涙は際限も ないものですが 今日は何の 果ての日と言うのでしょう |
581 答 |
人恋ふる わが身も末に なりゆけど 残り多かる 涙なりけり |
〔源氏〕人を恋い慕う わが余命も少なく なったが 残り多い 涙であることよ |
582 独 |
もろともに おきゐし菊の 白露も 一人袂に かかる秋かな |
〔源氏〕一緒に 起きて置いた菊のきせ綿の 朝露も 今年の秋は わたし独りの袂にかかることだ |
583 独 |
大空を かよふ幻 夢にだに 見えこぬ魂の 行方たづねよ |
〔源氏〕大空を 飛びゆく幻術士よ、 夢の中にさえ 現れない亡き人の魂の 行く方を探してくれ |
584 独 |
宮人は 豊明といそぐ 今日 日影も知らで 暮らしつるかな |
〔源氏〕宮人が 豊明の節会に夢中になっている 今日 わたしは日の光〔影〕も知らないで 暮らしてしまったな |
585 独 |
死出の山 越えにし人を 慕ふとて 跡を見つつも なほ惑ふかな |
〔源氏〕死出の山を 越えてしまった人を 恋い慕って行こうとして その跡を見ながらも やはり悲しみにくれまどうことだ |
586 独 |
かきつめて 見るもかひなし 藻塩草 同じ雲居の 煙とをなれ |
〔源氏〕かき集めて 見るのも甲斐がない、 この手紙も 本人と同じく雲居の 煙となりなさい |
587 贈 |
春までの 命も知らず 雪のうちに 色づく梅を 今日かざしてむ |
〔源氏〕春までの 命もあるかどうか分からないから 雪の中に 色づいた紅梅を 今日は插頭にしよう |
588 答 |
千世の春 見るべき花と 祈りおきて わが身ぞ雪と ともにふりぬる |
〔導師〕千代の春を 見るべくあなたの 長寿を祈りおきましたが わが身は降る雪と ともに年ふりました |
589 独 |
もの思ふと 過ぐる月日も 知らぬまに 年もわが世も 今日や尽きぬる |
〔源氏〕物思いしながら 過ごし月日のたつのも 知らない間に 今年も自分の寿命も 今日が最後になったか |
巻名の「幻」が源氏本文にあるのは、桐壺と幻の二首のみ。この2か所にしかない。かつ文脈も歌詞も完全にパラレル(愛する亡き人を回想する内容)。
「尋ねゆく幻もがなつてにても 魂のありかをそこと知るべく」(桐壺6・桐壺帝)
「雲居を渡る雁の翼もうらやましくまぼられたまふ。
大空をかよふ幻夢にだに 見えこぬ魂の行方たづねよ」(幻583・源氏)
通説はこの二首の「幻」をどちらも幻術士とするが、もしそうなら幻巻は幻術士巻になるが、それでいいのだろうか。
最初と最後は全体と大意を象徴であるから、この幻の解釈は源氏の和歌理解を象徴し、源氏は古文の象徴でもあるから、現状の和歌理解全体を象徴している。貫之にいう古の事ばかりで心が抜け落ちている。心は考えるまでもなく感じるところ。「幻」一字で幻術士。ありえるだろうか。いやありえない。
桐壺巻で楊貴妃で魂を尋ねとあるから長恨歌と同じ文脈だとされるようだが、引用と応用の区別がない集団の誤謬。そもそも「幻」自体長恨歌になく、あるのは「夢」と「方士」「道士」(仙術使い)。つまり幻術士解釈は、言葉を即物的に見て「幻」の方向を真逆に取り違えた曲解。ここでの「幻夢」は夢幻と同様に解すべきものであり、また源氏本文(夕顔・藤浦葉・幻)には霊能力と無縁の僧の「導師」が存在する。
そうして自分達で作り出した幻術で魂のありか(所在・実在)と魂の行方を知るべくしている、という訳のわからなさで通用できてしまうことも問題(幻術で見るのは実体ではない)。こうして和歌の解釈は肝心ほど即物的で奇天烈になる。
なお、訳を付している渋谷教授は、源氏物語全体の定家本原文及び通説的現代語訳のウェブでの公開を目的とされていると思われるので、渋谷教授個人の訳出の問題ということでは全くない。