源氏物語 和歌一覧 795首:原文対訳対応・検索用

登場人物のモデル 源氏物語
和歌一覧
795首
原文全文

 
 源氏物語の和歌一覧。
 現代語訳と歌い手を併記、対応関係を示し、本文と通じさせた。
 795首中221首が光る源氏の和歌、紫式部による約130名の歌物語。

 

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 巻別目次人物別内訳(別ページ)、各巻別内訳(別ページ)

 

 以下多少の駄文、現状の言語解釈態度・はじめより我々はという日本的な学問理論的態度への苦言が続くので、興味も時間もない人は、上の目次から飛んでほしい。

 

 

 

 原文と訳文は、高千穂大名誉教授・渋谷栄一氏による定家本校訂文と訳。それを当サイトで統合してレイアウトを整えた。
 訳は通説的立場の一例なので、疑問のある所は自分で考える必要がある。

 

 歌の心にあたる歌詞(客観的で厳密な対句)を赤、巻名の歌詞を緑(対にされており巻を象徴する歌の心)、古の心(狭義は転生・霊的理解、広義は引歌)にあたる歌詞を橙にした。この区分は貫之の仮名序「古の事歌の心をも知れる人、わずかに一人二人」に基づくもの。

 

 24巻・胡蝶の361が滝廉太郎『花』で参照される(その2番の曙はそれと対をなし、当然の古の心)。

 

 画像は研究室の紫式部。

 

紫式部in研究室

 

 現状の理解は客観的対句の理解に全く欠き、目先の文言だけ見て理解したことにしているため、赤と緑の色づけだけでも画期的研究成果と思う。
 が、それが認められることは、早くても数十年単位でないだろう。

 

 「影」を光とする一致した通説のあからさまな曲解を、過ちと認めることもないだろう(これが曲解でないなら、この世に曲解は存在しない)。
 自分から過ちを潔く認めないのも日本流。
 どんなに無理でも、上位の有無を言わせない外圧ない限り、言を左右にし続ければ押し通せる(それが仕事、あるいは忠義?)と思う。
 

 理の無理解。摂理・天道に対する謙虚さの欠如。その子供レベルの規範の実在を認めない。大和のような国の威信めいた国策がことごとく理性的と言いがたく頓挫する理由がここにある。
 理は自分達の理屈ではない。自分達で決めれば正解になると思う傲慢な人達の理論・解釈はことごとく背理している。それについて国家的に無理解。

 

 和歌の「影」は基本面影(物心両面の投影)。
 それが字義に忠実で、当時の先例(大和物語)でもある(①月のおもしろかりけるに…月はめぐりていでくれど影にも人は見えずぞありける ②山の井に行きて影を見れば、わがありしかたちにもあらず)。

 そうした影の心象性・非実体性の文学的表現を理解できない、即物的で縦割りで自分達本位の学界が意味を取り違えてきた過ぎず、辞書や教育者はさらにそれを受け売りしているに過ぎない。

 

 影=光とする用例などない。自分達の頭の中にしかない。

 こうして自分達本位で字義を曲げるのが、曲解で背理。

 そのロジックは常に後発文献(自説)を根拠にする循環論法。自分達の観念論を当時の普通と思い、論述を重ねるうちに事実と混同して強化していく。それで理知的な貫之が女を装ったとか奇天烈なことを言い出す。これが日本的全体主義。

 

 一国のみが知的基盤の世界観では、世界的知的バックグラウンドを持つ人の心を理解することはできない。自分達目線に矮小化して考える。それが源氏に限らない古文の理解。
 国の根本的古典(竹取・伊勢は源氏絵合で源氏側でディベートされ勝利する)を大した内容でなく当時の普通と吹聴する人が、教育者にも少なからずいる国を他に知らない。奈良の九九表で昔の人は凄かったというのは、馬鹿にしているのだろうか。

  

 古典を知的に重んじる国が先進国。

 エリート層は、古の文字・文学に通じるのが学問的先進国。
 しかしそういう文化を感じない。目先の知識を詰め込んでトップレベルと思っている(これが本来のをかしとあはれ)。

 そうした受験生的認識の集大成で、国家的根本問題とは向き合わず、いらぬ問題を次々作り出し、頑張ってる感を出す為政に結実している。

 

 日本が大国であったことはない。学問でも経済でも。有史来、先進国文化を享受し、天道天命から自分達の社会に合うよう改変してきた。世界的スタンダードとは違う。むしろ受け入れやすいよう本質を曲げるのが本質。受け入れやすいことを物事の本質と思う。
 唯一大国の根拠とする経済も、米国の資本主義思想防壁として不沈空母化しただけで、その壁が崩れた直後日本の経済ははじけ飛び一貫して低迷を続け、米国はそれ以降一貫して超長期上昇トレンドで何十倍も時価総額を上げてきたことを、マクロ的理解力ある人は謙虚に受け止めなければならない。

 すぐ貧富の拡大を言うのも、自国全体が隣国同様のじり貧なだけで、全体主義的な自分達が良い訳ではない。

 近代・合理化は自分達のものではない、自分達で理論を考えてこなかった。F15をF15Jにしたようなもの。根本で与えられた力。根本理論は考えてない。根本的には今の考え方で問題ないと思ってるから。

 

 

 そうして外国の目が入らない分野で合理的分析力・読解力が働いていると思えるか。

 私には古文読解の在り方は、日本の政治態度そのままと思う。つまりいかにもまともに見せるが、根本的問題ほど全く向き合わず、不都合な部分は言を左右にして押し通す。
 その象徴が、かな和歌理論根本の伊勢物語の在五初出63段の「けぢめ見せぬ心」。通説(大系・全集・集成)はこれを「分け隔てしない心」とする。業平の歌集たるもので著者は業平を思慕したのだという当初の間抜けた前提を維持するため。肝心の文面に根拠がなく根拠は自分達の解釈、それを事実と混同し、文言を曲げて押し通す、この循環論法が日本の国語教育理論の根本にある。

 この国の言語認識は無法。学者は隣国よろしく世襲権力正当化を良識と思う。だから内実が空っぽの世襲と官僚が自分達は特別で何でもできると思う。

 

 学ぶとは、言われるまま覚えることではない。それは学問のためにある。学問は疑問と問題を解決するためにある。世間的評価のため・それは問題ないと言うために問うのではない。

 明治以降、昭和焦土化を経てなおそれを学ばず、問題を自分達にではなく常に外に見て思考様式に進歩がない。よって解決できない。世界も大差ないという。だったらその程度でいい。

 

 古に通じようとする人は、観光だけではない先進国経験を求められたい。その経験ある人は一目置ける(官僚系ハーバードは実質観光)。

 なぜ国外に通じない人が、世界的古典の核心を解説できる道理があるか。それは無神論者が聖書を解説した気になっているようなもの。

 だから「幻」一字で幻術士とする、失笑レベルの即物的曲解の通説が大真面目にまかり通っている。

 

 日本は霊的理解の先進国ではない。むしろ幼稚。なのでその自覚もない。大真面目な幻術士解釈はまさにその一例。

 霊的理解が進んでるのは米国(次に英国)。理論トップ層にハーバード医学部長やイェールの医師など国家的トップドクターがいる。日本には東大救命医師がいたが本流ではなく(生え抜きだとまず存在しえないので特別な配剤)、理論的には英国系かつ皇室推し。

 ハーバードには神学部があるが、東大に神学部があると危ういと思わないか。そこでなされるであろう立論動機・使命感の違いが、国家的精神理解のレベルの違いを象徴している(使命・宿命・天命などの理解)。

 

 つまり何のために個々の刹那の人生はあるのかという根源的な問いに、どれほど向き合ってきたのかの違い。それは国のため、全体(勤務先)のためだというのが、最近までの日本流。
 即物的技術論ばかりで、自前の精神論が根性論の国に緻密な精神理論など望むべくもない。それが幻術士解釈。源氏最後の幻巻は幻術士巻か。ありえない。
 ありえないことをありえないと思えない、それどころか正とする。これが何でもありにできると思う無法で末法、つまり末期(終末)。
 それはもう立ちいかない。押し通すことはできない。社会情勢でそれを感じないか。感じなければもうそれで結構。摂理(法の支配)はそういうもの。
 そしてそれは日本伝統社会が編み出した良識によるのではない。日本の伝統権力保守層はうるさがるが、あらがうことはできない。守るとか守りきるといっても守れない。それらは言葉も左右にして守れない。それらが守るのは自分達。社会全体ではない。言葉はともかくそう行動して、結果もそうなっているだろう。なんちゃって近代国家化以降も、行動原理は国とり合戦のままでいるだけ。だからそれらにとって議論はどうでもよくて、ただ力関係で決まる。

 

 

 


 

 795首は著者一人で勅撰歌集(千首程度)に匹敵、加えて自身の歌集と日記合わせて百首以上ある。これは万葉の柿本人麻呂・山部赤人クラス(なお万葉も、源氏物語同様、多数人の寄せ集めではなく別格の二人の師弟が立てた体系的歌集(男女と四季)と見なければ通らない。学説は後の時代の家持が編纂したと配置の意味を理解できずにみなすが、これが古文学界を支配する後を優先し、自分達の矮小化させた観念論で上書き定義していく本末転倒理論)。

 和歌根本の万葉や伊勢物語の後の世の人定に従わせる全く筋の通らない認定が、他人事で放置され続ける以上、源氏の文言解釈もその延長にある。

 日本古文学説の論理展開は、西洋化の波を免れ、肝心ほど旧来の頓珍漢な説を押し通すことが目につく。これをドグマという(自らは判断できないが、議論は尽くされ真っ当な正しい答えと思っているところが、戦中と同じ構図)。

 勅撰歌集(=公文書=国や公的組織の文書)はほぼ常に妥当で大きく間違っているはずなどなく、それに反する個人の私文書(つまり当サイトのような内容)は間違っていると思う大政翼賛会レベル。これが日本的知的認識の基本線。これを刑事訴訟法の理論(もちろん輸入概念)で「予断」といい、こうした典型的な旧時代的思考様式が、東洋の根本的な学問理論的弱さの根本にあることを、ここまで読んだ方は身に付けてほしい。

 

 本物語の枢要概念の「幻」一字が「幻術士」されて通用しているありえなさ(尋ねゆく幻もがなつてにても魂のありかをそこと知るべく)。

 

 夢幻の世界をたよりにしてでも魂を尋ねに行こうと思う。それが「つて」は人づてのつてだから、「幻」一字で幻術士という奇天烈な理屈。これが即物。即物的理解で心を解せず、反動で字義を曲げる曲解。「つて」を「たより」にすれば通るものを、あえて「幻」を術士にするありえなさ。そんな人物など文脈で一切出て来ていない。それをありえないと思えないありえなさ。これが末法。自分達で決めれば何でも法になり正しくできると思う、それが無法。

 長恨歌長恨歌というが、そちらは「道士」としかない。それとも何か、「道」とは「幻術」か。現状の解釈はそうではないか。道をおさめました。はいそれは幻術です。なめてるのか。全体主義的・暗記主義的に思い込んで文脈の独自性を考えない。幻術で亡き妻の思いが慰められるか。馬鹿にするにもほどがある。

 無神論者が本気でバイブルの詩句を解説できると思う類。

 

 彼女の最も近い心の人が最も説明できると思うのではなく、最も権威ある学界が最も良く説明できると思う。それが日本的理解。豊富な男女関係と対極にありそうな人が何の心を解説できるか。

 現役世代には暗記主義思考が叩き込まれて軌道修正不可能と思うので、これからの世代の人は、学説ではなくどこまでも著者の表現に忠実に読解して欲しい。他文献漁りでなく源氏の文脈を網羅的に挙げるのが筋。

 

 そのためには、国内の読解力は戦艦大和的な誇大な思い込みで構成されており(品詞分解的な理論よろしく当人達には緻密な代物だが)、外に出そうとすると直ちに破綻する滑稽なレベルにあると受け入れること。今なお国家的見立てが、当初の安易な見立ての根本的問題を直視せず、言を左右にし続けているともわからない、傲慢に何も問題ないとするなら、この国は沈没して何も問題ない。

 一つ知的先進国との大きな違いとして、古典を知的に軽んじていることがある。日本の学界教育界はどれほどの実績を根拠にか、自分達が上かのような論評が何度となく目につき、そうした社会上層の浅薄な態度が、連合国元帥に知的に六歳と言わしめたと思う。

 

 さて、紫式部は観音の化身、その作源氏は不磨大典の聖典(canon:規準・絶対正義)の如く扱われ、つまり女性では名実ともに別格の最高実力者。伊勢125段209首、大和173段295首の系譜。枕草子319段36首、平家13巻100首、土佐日記55日60首、奥の細道44段66首。

 

 内実・実力を重んじるのが実力者(貫之は仮名序で上流貴族の家持を無視、貴族的地位を和歌の実力と考えないことを明言)。それを王道の論理で通す。

 王道とは些末ではない骨太の理解。

 語尾活用や掛詞縁語や他人の用例の羅列は骨太ではない。不要に丸め、みだりに補い、肝心で曲げる。

 それが月影と幻の即物的通説解釈(月光・幻術士)。これらは紫式部の物語の象徴的フレーズで、その解釈は上の骨抜き要素を漏れなく体現している。

 

 自分達の解説に都合の良い、底の浅い偶像を一方的に正解設定(「けぢめ見せぬ心」の「在五」で誰とでも分け隔てなく寝る業平を思慕した著者で、理知的な貫之が業平を賛美し女を装った等の狂気じみた通説)。その理論の根本に据えた妙な偶像を絶対化・教化するための大政翼賛会的教育研究。だから「女もしてみむ」で貫之が女を装ったという文脈に全く根拠がない珍解釈が通説となり(貫之は仮名序で女を装っておらず、古今上位20人中女性は2人のみ)、そういう発想で、月影を月光と曲げ、心を解せない徹底した即物性、暗記教育的思い込みで「幻」一字を幻術士とみなしている。

 紫式部を象徴する歌詞、「月影」は基本、面影(心象の投影)。高次には幻影、物理的には月の陰影。月光(可視光線)説は影の非実体性を解せない即物的な学者達による誤った定義。和歌は心を種とする。

 源氏297番歌の「月影」は源氏のこととされており(しかし光自体ではなくその面影)、よって紫式部集1の「雲がくれにし夜はの月影」も好きな人の面影。詞書の「ほのかにて」も、ほのかに人知れず抱いた恋心でしかない(なおこれは独自説で類説はない)。時間的僅少性・視覚的不分明性とする諸説全て的外れ。前提の見立てがおかしいから無理にこねることになる。

 紫式部集先頭でめぐり逢った「はやうよりわらは友だちなりし人」は友達だから同性と思い込む。筒井筒も多分知らない。肝心の枕詞「めぐり逢ひて」を字余り以上に説明できない。不都合だから説明しない。源氏唯一の「めぐり逢」、男女の運命的恋歌も引かない。月がめぐりの縁語など肝心の文脈と全く関係ない。

 

 紫式部は至宝。その和歌は不滅の宝石。
 とある心の光で真価を発揮する。

 

 

目次
 
歌合計795首・巻平均14.72首

 
   
1 桐壺 9   19 薄雲 10   37 横笛 8
2 帚木 14   20 朝顔 13   38 鈴虫 6
3 空蝉 2   21 乙女 16   39 夕霧 26
4 夕顔 19   22 玉鬘 14   40 御法 12
5 若紫 25   23 初音 6   41 26
                雲隠
6 末摘花 14   24 胡蝶 14   42 匂兵部卿 1
7 紅葉賀 17   25 8   43 紅梅 4
8 花宴 8   26 常夏 4   44 竹河 24
9 24   27 篝火 2   45 橋姫 13
10 賢木 33   28 野分 4   46 椎本 21
11 花散里 4   29 行幸 9   47 総角 31
12 須磨 48   30 藤袴 8   48 早蕨 15
13 明石 30   31 真木柱 21   49 宿木 24
14 澪標 17   32 梅枝 11   50 東屋 11
15 蓬生 6   33 藤裏葉 20   51 浮舟 22
16 関屋 3   34 若菜上 24   52 蜻蛉 11
17 絵合 9   35 若菜下 18   53 手習 28
18 松風 16   36 柏木 11   54 夢浮橋 1

 
各巻別の歌手内訳一覧
 

※須磨明石が中核、空蝉2首・関屋3首は空蝉で著者の投影。第三部の最初と最後は薫1首で対になり、薫を拒絶するための物語。

 巻名のみ『雲隠』は、紫式部集1「雲隠れにし夜半の月影」及び匂宮巻冒頭「光隠れたまひにし後かの御影」から特別な意味があると見たい。つまり光る君と並ぶ藤壺の輝く日の宮と対比して、その光は月の光。かつめぐり逢ひての相手は紫式部一生の思い出となった筒井筒的幼馴染、その淡い思い出(ほのかにて)。

源氏物語~和歌数の推移

源氏物語和歌:登場人物の分布と割合

 第一部・第二部第三部の内訳のグラフは別ページに掲載。源氏の世の第一部と第二部と死後の第三部では歌の人物は完全に別物。

 


贈答の分類と対応の程度

 

 贈答の分類を併記すると共に、和歌の対応の有無とその質を三段階の線の太さで視覚化した。市販の本では困難な本文との即座のリンクと合わせ、各歌の意義と対応が一見して分かり、物語とその肝心の和歌の味わいも理解も、各段に深まるものと思う。ここでは統計分析を示す。

 

 

贈答歌の割合
  典型 付加要素和歌 合計 全体
割合
典型
割合
単独 代作
贈歌 278 47 3     328 41% 35%
答歌 273 3 12     288 36% 34%
独詠 106     1 3 110 14% 13%
唱和 60     4 5 69 9% 8%
  717         795 100% 90%

 

 

贈答歌の対応の程度
分類 歌数/割合 和歌間の文字数
即答 308首/39%  40字未満
応答 213首/27%  40~100字未満
対応 165首/20%  ~400~1000字+対応文言
単体 109首/14% 独詠・返事ない単独贈歌

※即答と応答の境界(即答限界)として「かやうの御返しを、思ひまはさむもねぢけたれば、疾きばかりをぞ」(玉鬘)がある。

 100字を超えると「心乱れて久しうなれば情けなし」(尼君) 「御返り聞こえ伝へにくげに思ひたれば」(八宮長女〕などとなる。
 


 基本的に作中和歌のほとんど(86%)が贈答歌で相手がいる。これが女性らしさで、和歌は平安貴族社会のコミュニケーションツールと説明されるが、それは男女関係と女性的用法によるもの。物語中で源氏が歌を詠んだ相手上位20人中、男は3人のみ(頭中将、冷泉院、蛍宮)。貫之の土佐日記60首は独詠が基本で、それ以外は勝手に合いの手を打つ類。男が女子に和歌を送る物語は竹取伊勢に端を発するが、これは日本文学史のリーディングケースで(男女関係を安易に美化せず貴族皇族の滑稽さを全力で表した革新性。それが京の伝統的知的態度)、万葉も古今も基本独詠、男女関係は贈答、唱和は宴会芸(公的仕事・仕事での合いの手・媚びへつらい)という基本線がある。源氏物語でもこの基本線は再現されているものの、女子が多く、また女子の唱和は家庭的(つまり私的)という特性があり、この対比が男女で公私の重みが逆転していることを示す。

 紫式部の公のハレの場の歌は和泉式部に遠く及ばないという公的な説が一部にあるようだが、これがまさに因縁(難癖×宿縁)。及ばないといっても、そんな歌はかな和歌の重んずるところでは全くない(古今最大配分は恋と四季)。これは若紫と宴席で調子に乗って呼びかけ、道長もいる中で彼女に無視された公任(紫式部日記:「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ」とうかがひたまふ。源氏に似るべき人も見えたまはぬに、かの上はまいていかでものしたまはむと聞きゐたり)。仕事の付き合いは和泉に遠く及ばないと公にけなしてくる公任。そんな百害あって一利もないことが得意な女性はない。本心ではない建前や愛想(おじさんの好み)では遠く及ばないと言われても、そういう仕事でも接待カラオケでも校歌でもない。おじさんに好まれようとも思ってない。日記でも勘違いおじさんの相手は無理という文脈(相手できるのは、肩書で調子に乗らない人)。この因縁はここで解く。
 

和歌一覧

  原文
(定家本)
現代語訳
(渋谷栄一)
 

桐壺 9首

  内訳:4(桐壺帝)、2(祖母北の方=桐壺母)、1×3(桐壺更衣=光る源氏の母、靫負命婦=帝の使者、左大臣=葵と頭中将の父)
  →【逐語分析
1
贈:
限りとて
 別るる道の
 悲しきに
 いかまほしきは
 命なりけり
〔桐壺更衣→桐壺帝〕人の命には限りがあるものと、今、別れ路に立ち、悲しい気持ちでいますが、
 わたしが行きたいと思う路は、生きている世界への路でございます。
2
宮城野の
 露吹きむすぶ
 風の音に
 小萩がもとを
 思ひこそやれ
〔桐壺帝→祖母北の方〕宮中の萩に野分が吹いて露を結ばせたり散らそうとする風の音を聞くにつけ、
 幼子の身が思いやられる
3

 声の限りを
 尽くしても
 長き夜あかず
 ふる涙かな
〔靫負命婦=帝の使者〕鈴虫が声をせいいっぱい鳴き振るわせても
 長い秋の夜を尽きることなく流れる涙でございますこと
4
いとどしく
 の音しげき
 浅茅生
 露置き添ふる
 雲の上
〔祖母北の方:桐壺母〕ただでさえ虫の音のように泣き暮らしておりました荒れ宿に
 さらに涙をもたらします内裏からのお使い人よ
5
荒き風
 ふせぎし蔭の
 枯れしより
 小萩がうへぞ
 静心なき
〔祖母北の方:桐壺母→帝〕荒い風を防いでいた木が枯れてからは
 小萩の身の上が気がかりでなりません
6
尋ねゆく
 もがな
 つてにても
 魂のありか
 そこと知るべく
〔桐壺帝〕亡き更衣を探し行ける幻術士がいてくれればよいのだがな、【幻=夢】づてにでも
 魂のありかをどこそこと知ることができるように
7
雲の上
 涙にくるる
 秋の月
 いかですむらむ
 浅茅生の宿
〔桐壺帝〕雲の上の宮中までも涙に曇って見える秋の月だ
 ましてやどうして澄んで見えようか、草深い里で
8
いときなき
 初元結ひに
 長き世を
 契る心は
 結びこめつや
〔桐壺帝〕幼子の元服の折、末永い仲を
 そなたの姫との間に結ぶ約束はなさったか
9
結びつる
 心も深き
 元結ひに
 濃き
 色し褪せずは
〔左大臣〕元服の折、約束した心も深いものとなりましょう
 その濃いの色さえ変わらなければ
 
 

帚木(ははきぎ) 14首

  内訳:3(源氏)、2×2(空蝉:伊予介の後妻つまり人妻、見そめたりし人=夕顔:頭中将愛人・玉鬘母)、1×9(左馬頭:源氏と頭中将と雨夜の品定め(女性体験談と批評)をする人物、殿上人:左馬頭の体験談に出てくる人物、頭中将、藤式部丞:雨夜の品定めに加わった一員、女×3)
  →【逐語分析
10
手を折りて
 あひ見しことを
 数ふれば
 これひとつやは
 君が憂きふし
〔左馬頭〕 あなたとの結婚生活を指折り【あなたと会って色々見てきたことを】(△連れ添ってきた間にあったことを:全集)数えてみますと
 この一つだけがあなたの嫌な点なものか
11
憂きふし
 心ひとつに
 数へきて
 こや君が手を
 別るべきをり
〔女=左馬頭の愛人①〕 あなたの辛い仕打ちを胸の内に堪えてきましたが
 今は別れる時なのでしょうか
12
琴の音
 月もえならぬ
 宿ながら
 つれなき人を
 ひきやとめける
〔殿上人〕 琴の音色も月も素晴らしいお宅ですが
 薄情な方を引き止めることができなかったようですね
13
木枯に
 吹きあはすめる
 笛の音
 ひきとどむべき
 言の葉ぞなき
〔女=左馬頭の愛人②〕 冷たい木枯らしに合うようなあなたの笛の音を
 引きとどめる術をわたしは持ち合わせていません
14
山がつの
 垣ほ荒るとも
 折々に
 あはれはかけよ
 撫子の露
〔見そめたりし人=夕顔:頭中将愛人〕 山家の垣根は荒れていても時々は
 かわいがってやってください撫子の花を
15
咲きまじる
 色はいづれと
 分かねども
 なほ常夏に
 しくものぞなき
〔頭中将〕 庭にいろいろ咲いている花はいずれも皆美しいが
 やはり常夏の花のあなたが一番美しく思われます
16
うち払ふ
 袖も露けき
 常夏に
 あらし吹きそふ
 秋も来にけり
〔見そめたりし人=夕顔〕 床に積もる塵を払う袖も涙に濡れている常夏の身の上に
 さらに激しい風の吹きつける秋までが来ました
17
ささがにの
 ふるまひしるき
 夕暮れに
 ひるま過ぐせと
 いふがあやなさ
〔藤式部丞〕 蜘蛛の動きでわたしの来ることがわかっているはずの夕暮に
 蒜が臭っている昼間が過ぎるまで待てと言うのは訳がわかりません
18
逢ふことの
 夜をし隔てぬ
 仲ならば
 ひる間も何か
 まばゆからまし
〔かしこき女=藤式部丞の愛人〕 逢うことを一夜も置かずに毎晩逢っている夫婦仲ならば
 蒜の臭っている昼間に逢ったからといってどうして恥ずかしいことがありましょうか
19
つれなきを
 恨みも果てぬ
 しののめに
 とりあへぬまで
 おどろかすらむ
〔源氏〕 あなたの冷たい態度に恨み言を十分に言わないうちに夜もしらみかけ
 鶏までが取るものも取りあえぬまであわただしく鳴いてわたしを起こそうとするのでしょうか
20
身の憂さを
 嘆くにあかで
 明くる
 とり重ねてぞ
 音もなかれける
〔空蝉〕 わが身の辛さを嘆いても嘆き足りないうちに明ける夜は
 鶏の鳴く音に取り重ねて、わたしも泣かれてなりません
21
贈:
見し夢を
 逢ふありやと
 嘆くまに
 目さへあはでぞ
 ころも経にける
〔源氏→空蝉〕 夢が現実となったあの夜以来、再び逢える夜があろうかと嘆いているうちに
 目までが合わさらないで眠れない夜を幾夜も送ってしまいました
22
帚木
 心を知らで
 園原の
 道にあやなく
 惑ひぬるかな
〔源氏〕近づけば消えるという帚木のような、あなたの心も知らないで
 近づこうとして、園原への道に空しく迷ってしまったことです
23
数ならぬ
 伏屋に生ふる
 名の憂さに
 あるにもあらず
 消ゆる帚木
〔空蝉〕 しがない境遇に生きるわたしは情けのうございますから
 見えても触れられない帚木のようにあなたの前から姿を消すのです
 
 

空蝉(うつせみ) 2首

  内訳:1×2(源氏、空蝉)
  →【逐語分析
24
贈:
空蝉
 身をかへてける
 のもとに
 なほ人がらの
 なつかしきかな
〔源氏〕 あなたは蝉が殻を脱ぐように、衣を脱ぎ捨てて逃げ去っていったが
 その木の下でやはりあなたの人柄が懐かしく思われますよ
25
答:
空蝉
 羽に置く露の
 隠れて
 忍び忍びに
 濡るる袖かな
〔空蝉〕空蝉の羽に置く露が木に隠れて見えないように
 わたしもひそかに、涙で袖を濡らしております
 
 

夕顔 19首

  内訳:11(源氏)、4(夕顔)、2(空蝉)、1×2(中将の君=女房、軒端荻=空蝉の継娘)
  →【逐語分析
26
心あてに
 それかとぞ見る
 白露の
 そへたる
 夕顔
〔夕顔〕 当て推量に貴方さまでしょうかと思います
 白露の光を加えて美しい夕顔の花は
27
寄りてこそ
 それかとも見め
 たそかれに
 ほのぼの見つる
 夕顔
〔源氏〕もっと近寄ってどなたかとはっきり見ましょう
 黄昏時にぼんやりと見えた美しい花の夕顔を
28
咲く花に
 移るてふ名は
 つつめども
 折らで過ぎ憂き
 今朝の
〔源氏〕 美しく咲いている花のようなそなたに心を移したという評判は憚られますが
 やはり手折らずには素通りしがたい今朝の朝顔の花です
29
霧の
 晴れ間も待たぬ
 気色にて
 花に心を
 止めぬとぞ見る
〔中将の君〕 朝霧の晴れる間も待たないでお帰りになるご様子なので
 朝顔の花に心を止めていないものと思われます
30
優婆塞が
 行ふ道を
 しるべにて
 来むも深き
 契り違ふな
〔源氏〕 優婆塞が勤行しているのを道しるべにして
 来世にも深い約束に背かないで下さい
31
前の
 契り知らるる
 身の憂さに
 行く末かねて
 頼みがたさよ
〔夕顔〕 前世の宿縁の拙さが身につまされるので
 来世まではとても頼りかねます
32
いにしへ
 かくやは人の
 惑ひけむ
 我がまだ知らぬ
 しののめの道
〔源氏〕昔の人もこのように恋の道に迷ったのだろうか
 わたしには経験したことのない明け方の道だ
33
山の端の
 心
も知らで
 行く月
 うはの空にて
 影や絶えなむ
〔夕顔〕 山の端をどことも知らないで随って行く月は
 途中で光が消えてしまうのではないでしょうか
34
夕露に
 紐とく花

 玉鉾の
 たよりに見えし
 縁にこそありけれ
〔源氏〕 夕べの露を待って花開いて顔をお見せするのは
 道で出逢った縁からなのですよ
35
ありと
 見し
 うは露は
 たそかれ時の
 そら目なりけり
〔夕顔〕 光輝いていると見ました夕顔の上露は
 たそがれ時の見間違いでした
36
見し人の
 煙を雲と
 眺むれば
 べの
 むつましきかな
〔源氏〕 契った人の火葬の煙をあの雲かと思って見ると
 この夕方の空も親しく思われるよ
37
問はぬをも
 などかと問は
 ほどふるに
 いかばかりかは
 思ひ乱るる
〔空蝉〕お見舞いできませんことをなぜかとお尋ね下さらずに月日が経ましたが
 わたしもどんなにか思い悩んでいます
38
空蝉
 世は憂きものと
 知りにしを
 また言の葉に
 かかる命よ
〔源氏〕あなたとのはかない仲は嫌なものと知ってしまいましたが
 またもあなたの言の葉に期待を掛けて生きていこうと思います
39
ほのかにも
 軒端の
 ばずは
 露のかことを
 何にかけまし
〔源氏〕 一夜の逢瀬なりとも軒端の荻を結ぶ契りをしなかったら
 わずかばかりの恨み言も何を理由に言えましょうか
40
ほのめかす
 風につけても
 下
 半ばは霜に
 むすぼほれつつ
〔軒端荻〕 ほのめかされるお手紙を見るにつけても霜にあたった下荻のような
 身分の賤しいわたしは、嬉しいながらも半ばは思い萎れています
41
泣く泣くも
 今日は我が
 下紐
 いづれの世にか
 とけてるべき
〔源氏〕泣きながら今日はわたしが結ぶ袴の下紐【紐帯=絆】を
 いつの世にかまた再会して心打ち解けて下紐を解いて【それと分かって】逢うことができようか
42
逢ふまでの
 形見ばかりと
 しほどに
 ひたすら袖の
 朽ちにけるかな
〔源氏〕再び逢う時までの形見の品ぐらいに思って持っていましたが
 すっかり涙で朽ちるまでになってしまいました
43
蝉の羽も
 たちかへてける
 夏衣
 かへすを見ても
 ねは泣かれけり
〔空蝉〕 蝉の羽の衣替えの終わった後の夏衣は、
 返してもらっても自然と泣かれるばかりです
44
過ぎにしも
 今日別るるも
 二道に
 行く方知らぬ
 秋の暮かな
〔源氏〕亡くなった人も今日別れて行く人もそれぞれの道に
 どこへ行くのか知れない秋の暮れだなあ
 
 

若紫 25首

  内訳:12(源氏)、5(尼君=紫祖母:北山の尼君(全集))、2×2(少納言乳母:うち1首北山の尼君の侍女(全集)、僧都=尼君兄:北山の僧都(全集))、1×4(聖=北山の聖(全集)、藤壺、下仕へ=女、紫上=藤壺姪)
  →【逐語分析
45
生ひ立たむ
 ありかも知らぬ
 若草を
 おくらす露ぞ
 消えむ
そらなき
〔尼君=紫祖母:北山の尼君〕 これからどこでどう育って行くのかも分からない若草のようなあなたを
 残してゆく露のようにはかないわたしは死ぬに死ねない思いです
46
初草
 生ひ行く末も
 知らぬまに
 いかでか露の
 消えむ
とすらむ
〔ゐたる大人=北山の尼君の侍女(全集)or少納言乳母(渋谷)〕
  初草のように若い姫君のご成長も御覧にならないうちに
 どうして尼君様は先立たれるようなことをお考えになるのでしょう
47
初草
 若葉の上を
 見つるより
 旅寝の袖も
 露ぞ乾かぬ
〔源氏〕初草のごときうら若き少女を見てからは
 わたしの旅寝の袖は恋しさの涙の露ですっかり濡れております
48
枕結ふ
 今宵ばかりの
 露けさを
 深山の苔に
 比べざらなむ
〔尼君〕 今晩だけの旅の宿で涙に濡れていらっしゃるからといって
 深山に住むわたしたちのことを引き合いに出さないでくださいまし
49
吹きまよふ
 深山おろしに
 夢さめて
 涙もよほす
 滝の音かな
〔源氏〕 深山おろしの懺法の声に煩悩の夢が覚めて
 感涙を催す滝の音であることよ
50
さしぐみに
 袖ぬらしける
 山水に
 澄める心は
 騒ぎやはする
〔僧都=尼君兄〕 不意に来られてお袖を濡らされたという山の水に
 心を澄まして住んでいるわたしは驚きません
51
宮人に
 行きて語らむ
 山桜
 風よりさきに
 来ても見るべく
〔源氏〕大宮人に帰って話して聞かせましょう、この山桜の美しいことを
 風の吹き散らす前に来て見るようにと
52
優曇華の
 花待ち得たる
 心地して
 深山桜
 目こそ移らね
〔僧都〕 三千年に一度咲くという優曇華の花の
 咲くのにめぐり逢ったような気がして、深山桜には目も移りません
53
奥山の
 松のとぼそを
 まれに開けて
 まだ見ぬ花の
 顔を見るかな
〔聖〕 奥山の松の扉を珍しく開けましたところ
 まだ見たこともない花のごとく美しいお顔を拝見致しました
54
夕まぐれ
 ほのかに花の
 色を見て
 今朝は
 立ちぞわづらふ
〔源氏〕 昨日の夕暮時にわずかに美しい花を見ましたので
 今朝は霞の空に立ち去りがたい気がします
55
まことにや
 花のあたりは
 立ち憂きと
 むる空の
 気色をも見む
〔尼君〕 本当に花の辺りを立ち去りにくいのでしょうか
 そのようなことをおっしゃるお気持ちを見たいものです
56
面影は
 身をも離れず
 山
 心の限り
 とめて来しかど
〔源氏〕 あなたの山桜のように美しい面影はわたしの身から離れません
 心のすべてをそちらに置いて来たのですが
57
嵐吹く
 尾の上の
 
散らぬ間を
 心とめける
 ほどのはかなさ
〔尼君〕激しい山風が吹いて散ってしまう峰の桜に
 その散る前にお気持ちを寄せられたような頼りなさに思われます
58
あさか山
 くも人を
 思はぬに
 など山の井の
 かけ
離るらむ
〔源氏〕 浅香山のように浅い気持ちで思っているのではないのに
 どうして山の井に影が宿らないようにわたしからかけ離れていらっしゃるのでしょう
59
汲み初めて
 くやしと聞きし
 山の井の
 浅
きながらや
 を見るべき
〔尼君〕 うっかり薄情な人と契りを結んで後悔したと聞きました浅い山の井のような
 浅いお心のままではどうして孫娘を差し上げられましょう
60
見てもまた
 逢ふ夜まれなる
 のうちに
 やがて紛るる
 我が身ともがな
〔源氏〕 お逢いしても再び逢うことの難しい夢のようなこの世なので
 夢の中にそのまま消えてしまいとうございます
61
世語りに
 人や伝へむ
 たぐひなく
 憂き身を覚めぬ
 になしても
〔藤壺〕 世間の語り草として語り伝えるのではないでしょうか
 この上なく辛い身の上を覚めることのない夢の中のこととしても
62
贈:
いはけなき
 鶴の一声
 聞きしより
 葦間になづむ
 舟ぞえならぬ
〔源氏→尼君〕 かわいい鶴の一声を聞いてから
 葦の間を行き悩む舟はただならぬ思いをしています
63
手に摘みて
 いつしかも見む
 
 根にかよひける
 野辺の
〔源氏〕 手に摘んで早く見たいものだ
 紫草にゆかりのある野辺の若草を
64
あしわかの
 浦に
みるめは
 かたくとも
 こは立ちながら
 かへるかは
〔源氏〕若君にお目にかかることは難しかろうとも
 和歌の浦の波のようにこのまま立ち帰ることはしません
65
寄る
 心も知らで
 わかの浦に
 玉藻なびかむ
 ほどぞ浮きたる
〔少納言の乳母〕 和歌の浦に寄せる波に身を任せる玉藻のように
 相手の気持ちをよく確かめもせずに従うことは頼りないことです
66
朝ぼらけ
 霧立つ空の
 まよひにも
 行き過ぎがたき
 妹が門かな
〔源氏→忍びて通ひたまふ所〕 曙に霧が立ちこめた空模様につけても
 素通りし難い貴女の家の前ですね
67
ちとまり
 のまがきの
 過ぎうくは
 草のとざしに
 さはりしもせじ
〔よしある下仕へ=女(通説)〕 霧の立ちこめた家の前を通り過ぎ難いとおっしゃるならば
 生い茂った草が門を閉ざしたことぐらい何でもないでしょうに
68
ねは見ねど
 あはれとぞ思ふ
 武蔵野の
 露分けわぶる
 草のゆかり
〔源氏〕 まだ一緒に寝てはみませんが愛しく思われます
 武蔵野の露に難儀する紫のゆかりのあなたを
69
かこつべき
 ゆゑを知らねば
 おぼつかな
 いかなる草の
 ゆかり
なるらむ
〔紫上〕 恨み言を言われる理由が分かりません
 わたしはどのような方のゆかりなのでしょう
 
 

末摘花(すえつむはな) 14首

  内訳:9(源氏)、2(末摘花)、1×3(頭中将、侍従の君=末摘花の乳母子、大輔命婦=末摘花方に出入りする帝付き女房)
  →【逐語分析
70
もろともに
 大内
 出でつれど
 入る方見せぬ
 いさよひの
〔頭中将〕ご一緒に宮中を退出しましたのに
 行く先を晦ましてしまわれる十六夜の月のようですね
71
里わかぬ
 かげをば見れど
 ゆく
 いるさの
 誰れか尋ぬる
〔源氏〕 どの里も遍く照らす月は空に見えても
 その月が隠れる山まで尋ねて来る人はいませんよ
72
いくそたび
 君がしじまに
 まけぬらむ
 ものな言ひそと
 言はぬ頼みに
〔源氏→末摘花〕 何度あなたの沈黙に負けたことでしょう
 ものを言うなとおっしゃらないことを頼みとして
73
代答
鐘つきて
 とぢめむことは
 さすがにて
 答へまうきぞ
 かつはあやなき
〔侍従の君=女君(末摘花)の御乳母子〕
 鐘をついて論議を終わりにするようにもう何もおっしゃるなとはさすがに言いかねます。
 ただお答えしにくいのが、何ともうまく説明できないのです
74
言はぬをも
 言ふにまさると
 知りながら
 おしこめたるは
 苦しかりけり
〔源氏〕何もおっしゃらないのは口に出して言う以上なのだとは知っていますが、
 やはりずっと黙っていらっしゃるのは辛いものですよ
75
夕霧の
 るるけしきも
 まだ見ぬに
 いぶせさそふる
 宵の雨かな
〔源氏〕 夕霧が晴れる気配をまだ見ないうちに、
 さらに気持ちを滅入らせる宵の雨まで降ることよ。
76
れぬ夜の
 月待つ里を
 思ひやれ
 同じ心に
 眺めせずとも
〔末摘花(通説)or侍従代作(全集)〕
 雨雲の晴れない夜の月を待っている人を思いやってください。
 わたしと同じ気持ちで眺めているのでないにしても
77
贈:
日さす
 軒の垂氷は
 解けながら
 などかつららの
 結ぼほるらむ
〔源氏→末摘花〕 朝日がさしている軒のつららは解けましたのに
 どうしてあなたの心は氷のまま解けないでいるのでしょう
78
降りにける
 頭の雪を
 見る人

 劣らず濡らす
 かな
〔源氏〕 老人の白髪頭に積もった雪を見ると
 その人以上に、今朝は涙で袖を濡らすことだ
79
唐衣
 君が心の
 つらければ
 袂はかくぞ
 そぼちつつのみ
〔姫君:末摘花〕 あなたの冷たい心がつらいので
 わたしの袂は涙でこんなにただもう濡れております
80
独:贈
なつかし
 色ともなしに
 何にこの
 すゑつむ花
 に触れけむ
〔源氏〕 格別親しみを感じる花でもないのにどうしてこの
 末摘花のような女に手をふれることになったのだろう
81
独:答
紅の
 ひと花
 うすくとも
 ひたすら朽す
 名をし立てずは
〔大輔の命婦〕 紅色に一度染めた衣は色が薄くても
 どうぞ悪い評判をお立てなさることさえなければ……
82
逢はぬ夜
 へだつるなかの
 手に
 重ねていとど
 見もし見よとや
〔源氏〕 逢わない夜が多いのに間を隔てる衣とは
 ますます重ねて見なさいということですか
83
紅の
 花
ぞあやなく
 うとまるる
 梅の立ち枝は
 なつかし
けれど
〔源氏〕 紅の花はわけもなく嫌な感じがする
 梅の立ち枝に咲いた花は慕わしく思われるが
 
 

紅葉賀(もみじのが) 17首

  内訳:9(源氏)、3(源典侍)、2×2(藤壺、頭中将)、1(王命婦)
  →【逐語分析
84
もの思ふに
 立ち舞ふべくも
 あらぬ身の
 うちりし
 心知りきや
〔源氏〕つらい気持ちのまま立派に舞うことなどはとてもできそうもないわが身が
 袖を振って舞った気持ちはお分りいただけましたでしょうか
85
唐人の
 袖振ることは
 遠けれど
 立ち居につけて
 あはれとは見き
〔藤壺〕 唐の人が袖振って舞ったことは遠い昔のことですが
 その立ち居舞い姿はしみじみと拝見いたしました
86
いかさまに
 昔結べる
 契り
にて
 この世にかかる
 なかの隔てぞ
〔源氏〕 どのように前世で約束を交わした縁で
 この世にこのような二人の仲に隔てがあるのだろうか
87
見ても思ふ
 ぬはたいかに
 嘆くらむ
 こや世の人の
 まどふてふ闇
〔王命婦〕 御覧になっている方も物思をされています、
 御覧にならないあなたは、またどんなにお嘆きのことでしょう。
 これが世の人が言う親心の闇というものでしょうか
88
よそへつつ
 るに心は
 なぐさまで
 露けさまさる
 撫子の花
〔源氏〕 思いよそえて見ているが、気持ちは慰まず、
 涙を催させる撫子の花の花であるよ
89
袖濡るる
 露のゆかりと
 思ふにも
 なほ疎まれぬ
 大和撫子
〔藤壺〕 袖を濡らしている方の縁と思うにつけても、
 やはり疎ましくなってしまう大和撫子です
90
君し来ば
 手なれの
 刈り飼はむ
 盛り過ぎたる
 下葉なりとも
〔源典侍〕 あなたがいらしたならば良く手馴れた馬に秣を【Vラインに】刈ってやりましょう、
 盛りを過ぎた下草であっても
91
笹分けば
 やとがめむ
 いつとなく
 なつくめる
 森の木隠れ
〔源氏〕笹を分けて入って逢いに行ったら人が注意しましょう、
 いつでもたくさんの馬を手懐けている森の木陰では
92
立ち濡るる
 しもあらじ
 東屋
 うたてもかかる
 雨そそきかな
〔源典侍〕誰も訪れて来て濡れる人もいない東屋に、
 嫌な雨垂れが落ちて来ます
93
妻は
 あなわづらはし
 東屋
 真屋のあまりも
 馴れじとぞ思ふ
〔源氏〕 人妻はもう面倒です、
(東屋の、真屋の軒先に立ち馴れるように:全集×)あまり親しくなるまいと思います
(東屋の真屋のあまり=吾づまやーまや=人妻)
94
つつむめる
 名や漏り出でむ
 引きかはし
 かくほころぶる
 中の
〔頭中将〕 隠している浮名も洩れ出てしまいましょう、引っ張り合って
 破れてしまった二人の仲の衣から
95
隠れなき
 ものと知る知る
 夏
 着たるを薄き
 心とぞ見る
〔源氏〕この女との仲まで知られてしまうのを承知の上でやって来て
 夏衣を着るとは、何と薄情で浅薄なお気持ちかと思いますよ
96
みても
 いふかひぞなき
 たちかさね
 引きてかへりし
 のなごりに
〔源典侍〕恨んでも何の甲斐もありません、次々とやって来ては
 帰っていったお二人の波の後は
97
荒らだちし
 に心は
 騒がねど
 寄せけむ磯を
 いかがみぬ
〔源氏〕荒々しく暴れた波――頭中将には驚かないが、
 それを寄せつけた磯――あなたをどうして恨まずにはいられようか
98
なか絶え
 かことや負ふと
 危ふさに
 はなだの
 取りてだに見ず
〔源氏〕あなた方の仲が切れたらわたしのせいだと非難されようかと思ったが、
 この縹の帯などわたしには関係ありません
99
君にかく
 引き取られぬる
 なれば
 かくて絶えぬる
 なかとかこたむ
〔頭中将〕あなたにこのように取られてしまった帯ですから、
 こんな具合に仲も切れてしまったものとしましょうよ
100
尽きもせぬ
 心の闇に
 暮るるかな
 雲居に人を
 見るにつけても
〔源氏〕 尽きない恋の思いに何も見えない、
 はるかに高い地位につかれる方を仰ぎ見るにつけても
 
 

花宴(はなのえん) 8首

  内訳:4(源氏)、2(朧月夜=右大臣の娘)、1×2(藤壺、右大臣)
  →【逐語分析
101
おほかたに
 花の姿を
 見ましかば
 つゆも心の
 おかれましやは
〔藤壺〕何の関係もなく花のように美しいお姿を拝するのであったなら
少しも気兼ねなどいらなかろうものを
102
贈:
深き夜の
 あはれを知るも
 入る月の
 おぼろけならぬ
 契りとぞ思ふ
〔源氏→朧月夜〕趣深い春の夜更けの情趣をご存知でいられるのも
前世からの浅からぬ御縁があったものと存じます
103
憂き身世に
 やがて消えなば
 尋ねても
 草のをば
 問はじとや思ふ
〔朧月夜〕不幸せな身のまま名前を明かさないでこの世から死んでしまったなら
野末の草の原まで尋ねて来ては下さらないのかと思います
104
いづれぞと
 露のやどりを
 分かむまに
 小笹が
 風もこそ吹け
〔源氏〕どなたであろうかと家を探しているうちに
世間に噂が立ってだめになってしまうといけないと思いまして
105
贈:
世に知らぬ
 心地こそすれ
 有明の
 月のゆくへを
 空にまがへて
〔源氏→朧月夜〕今までに味わったことのない気がする
有明の月の行方を途中で見失ってしまって
106
贈:
わが宿の
 花しなべての
 色ならば
 何かはさらに
 君を待たまし
〔右大臣:朧月夜父→源氏〕わたしの邸の藤の花が世間一般の色をしているのなら
どうしてあなたをお待ち致しましょうか
107

 いる
さの山に
 惑ふかな
 ほの見し
 影や見ゆると
〔源氏〕月の入るいるさの山の周辺でうろうろと迷っています
かすかに見かけた有明の月をまた見ることができようかと
108
いる
 方ならませば
 張の
 なき空に
 迷はましやは
〔朧月夜〕本当に深くご執心でいらっしゃれば
たとえ月が出ていなくても迷うことがありましょうか
 
 

葵 24首

  内訳:13(源氏)、4(六条御息所うち1首・葵への憑依生霊)、2×2(源典侍、大宮=葵の母)、1×3(紫上、頭中将、朝顔)
  →【逐語分析
109
影をのみ
 御手洗川
 つれなきに
 身の憂きほどぞ
 いとど知らるる
〔六条御息所〕今日の御禊にお姿をちらりと見たばかりで
そのつれなさにかえって我が身の不幸せがますます思い知られる
110
はかりなき
 千尋の底の
 海松ぶさの
 生ひゆくすゑは
 我のみぞ見む
〔源氏〕限りなく深い海の底に生える海松のように
豊かに成長してゆく黒髪はわたしだけが見届けよう
111
千尋とも
 いかでか知らむ
 定めなく
 満ち干る潮の
 のどけからぬに
〔紫上〕千尋も深い愛情を誓われてもどうして分りましょう
満ちたり干いたり定めない潮のようなあなたですもの
112
はかなしや
 人のかざせる
 ゆゑ
 神の許し
 今日を待ちける
〔源典侍〕あら情けなや、他の人と同車なさっているとは
神の許す今日の機会を待っていましたのに
113
かざしける
 心ぞあだに
 おもほゆる
 八十氏人に
 なべて逢ふ日を
〔源氏〕そのようにおっしゃるあなたの心こそ当てにならないものと思いますよ
たくさんの人々に誰彼となく靡くものですから
114
悔しくも
 かざしけるかな
 名のみして
 人だのめなる
 草葉ばかりを
〔源典侍〕ああ悔しい、葵に逢う日を当てに楽しみにしていたのに
わたしは期待を抱かせるだけの草葉に過ぎないのですか
115
袖濡るる
 恋路とかつは
 知りながら
 おりたつ田子の
 みづからぞ憂き
〔六条御息所〕袖を濡らす恋路とは分かっていながら
そうなってしまうわが身の疎ましいことよ
116
浅みにや
 人はおりたつ
 わが方は
 身もそぼつまで
 深き恋路
〔源氏〕袖が濡れるとは浅い所にお立ちだからでしょう
わたしは全身ずぶ濡れになるほど深い泥(こひじ)――恋路に立っております
117
贈:
嘆きわび
 空に乱るる
 わが魂を
 結びとどめよ
 したがへのつま
〔六条御息所生霊in葵→源氏〕悲しみに堪えかねて抜け出たわたしの魂を
結び留め【よ わたしが従えるあなたの妻】てください、下前の褄を結んで
118
のぼりぬる
 煙はそれと
 わかねども
 なべて雲居の
 あはれなるかな
〔源氏〕空に上った煙は雲と混ざり合ってそれと区別がつかないが
おしなべてどの雲もしみじみと眺められることよ
119
限りあれば
 薄墨衣
 浅けれど
 涙ぞ
 淵となしける
〔源氏〕きまりがあるので薄い色の喪服を着ているが
涙で袖は淵のように深く悲しみに濡れている
120
人の
 あはれと聞くも
 けきに
 後るる
 思ひこそやれ
〔六条御息所〕人の世の無常をこの菊の花の聞くにつけ涙がこぼれますが
先立たれなさってさぞかしお袖を濡らしてとお察しいたします
121
とまる身も
 消えしもおなじ
 
 心置くらむ
 ほどぞはかなき
〔源氏〕生き残った者も死んだ者も同じ露のようにはかない世に
心の執着を残して置くことはつまらないことです
122
雨となり
 しぐる
る空の
 浮
 いづれの方と
 わきて眺めむ
〔頭中将〕妹が時雨となって降る空の浮雲を
どちらの方向の雲と眺め分けようか
123
見し人の
 雨となりにし
 居さへ
 いとど時雨
 かき暮らすころ
〔源氏〕妻が雲となり雨となってしまった空までが
ますます時雨で暗く泣き暮らしている今日この頃だ
124
草枯れの
 まがきに残る
 撫子
 別れし秋の
 かたみとぞ見る
〔源氏〕草の枯れた垣根に咲き残っている撫子の花を
秋に死別れたお方の形見と思って見ています
125
今も見て
 なかなか
 朽たすかな
 垣ほ荒れにし
 大和撫子
〔大宮=葵の母〕ただ今見てもかえって袖を涙で濡らしております
垣根も荒れはてて母親に先立たれてしまった撫子なので
126
わきてこの
 暮こそ
 露けけれ
 もの思ふ
 あまた経ぬれど
〔源氏〕とりわけ今日の夕暮れは涙に袖を濡らしております
今までにも物思いのする秋はたくさん経験してきたのですが
127
霧に
 立ちおくれぬ
 と聞きしより
 しぐるる空も
 いかがとぞ思ふ
〔朝顔〕秋霧の立つころ、先立たれなさったとお聞き致しましたが
それ以来時雨の季節につけいかほどお悲しみのことかとお察し申し上げます
128
なき魂ぞ
 いとど悲しき
 し床の
 あくがれがたき
 心ならひに
〔源氏〕亡くなった人の魂もますます離れがたく悲しく思っていることだろう
共に寝た床をわたしも離れがたく思うのだから
129
君なくて
 塵つもりぬる
 常夏の
 露うち払ひ
 いく夜寝ぬらむ
〔源氏〕あなたが亡くなってから塵の積もった床に
涙を払いながら幾晩独り寝をしたことだろうか
130
贈:
あやなくも
 隔てけるかな
 夜をかさね
 さすがに馴れし
 
〔源氏→紫上〕どうして長い間何でもない間柄でいたのでしょう
幾夜も幾夜も馴れ親しんで来た仲なのに
131
あまた
 今日改めし
 色
 着ては
 ふる心地する
〔源氏〕何年来も元日毎に参っては着替えをしてきた晴着だが
それを着ると今日は涙がこぼれる思いがする
132
新しき
 ともいはず
 ふるものは
 ふりぬる人の
 なりけり
〔大宮=葵の母〕新年になったとは申しても降りそそぐものは
年古りた母の涙でございます
 
 

賢木(さかき) 33首

  内訳:16(源氏)、5(藤壺)、4(六条御息所)、2(朧月夜)、1×6(斎宮の女別当、親王=兵部卿宮:藤壺兄:紫父、王命婦=藤壺付女房、紫上、朝顔、頭中将)
  →【逐語分析
133
神垣は
 しるしの杉も
 なきものを
 いかにまがへて
 折れ
〔六条御息所〕ここには人の訪ねる目印の杉もないのに
どうお間違えになって折った榊なのでしょう
134
少女子が
 あたりと思へば
 葉の
 香をなつかしみ
 とめてこそ折れ
〔源氏〕少女子がいる辺りだと思うと
榊葉が慕わしくて探し求めて参ったのです
135
暁の
 別れはいつも
 露けきを
 こは世に知らぬ
 秋の空かな
〔源氏〕明け方の別れにはいつも涙に濡れたが
今朝の別れは今までにない涙に曇る秋の空ですね
136
おほかたの
 秋の別れ
 悲しきに
 鳴く音な添へそ
 野辺の松虫
〔六条御息所〕ただでさえ秋の別れというものは悲しいものなのに
さらに鳴いて悲しませてくれるな野辺の松虫よ
137
八洲もる
 国つ御神
 心あらば
 飽かぬ別れの
 をことわれ
〔源氏→斎宮〕大八洲をお守りあそばす国つ神もお情けがあるならば
尽きぬ思いで別れなければならないわけをお聞かせ下さい
138
代答
国つ神
 空にことわる
 らば
 なほざりごとを
 まづや糾さむ
〔斎宮の女別当〕国つ神がお二人の仲を裁かれることになったならば
あなたの実意のないお言葉をまずは糺されることでしょう
139
そのかみを
 今日はかけじと
 忍ぶれど
 心のうちに
 ものぞ悲しき
〔六条御息所〕昔のことを今日は思い出すまいと堪えていたが
心の底では悲しく思われてならない
140
振り捨てて
 今日は行くとも
 鈴鹿川
 八十瀬の波に

 袖は濡れじや
〔源氏〕わたしを振り捨てて今日は旅立って行かれるが、鈴鹿川を
渡る時に袖を濡らして後悔なさいませんでしょうか
141
鈴鹿川
 八十瀬の波に
 濡れ
濡れず
 伊勢まで誰れか
 思ひおこせむ
〔六条御息所〕鈴鹿川の八十瀬の波に袖が濡れるか濡れないか
伊勢に行った先まで誰が思いおこしてくださるでしょうか
142
行く方を
 眺め
もやらむ
 この秋は
 逢坂山を
 霧な隔てそ
〔源氏〕あの行った方角を眺めていよう、今年の秋は
逢うという逢坂山を霧よ隠さないでおくれ
143
蔭ひろみ
 頼みし松
 枯れにけむ
 下葉散りゆく
 年の暮かな
〔親王=兵部卿宮:藤壺兄(全集注釈) ×蛍宮(全集巻末認定)〕
木蔭が広いので頼りにしていた松の木は枯れてしまったのだろうか
その下葉が散り行く今年の暮ですね
144
さえわたる
 池の鏡の
 さやけきに
 見なれし影
 見ぬぞ悲しき
〔源氏〕氷の張りつめた池が鏡のようになっているが
長年見慣れたそのお姿を見られないのが悲しい
145
年暮れ
 岩井の水も
 こほりとぢ
 見し人影
 あせもゆくかな
〔王命婦=藤壺付女房〕年が暮れて岩井の水も凍りついて
見慣れていた人影も見えなくなってゆきますこと
146
心から
 かたがた袖を
 濡らすかな
 明くと教ふる
 声につけても
〔朧月夜〕自分からあれこれと涙で袖を濡らすことですわ
夜が明けると教えてくれる声につけましても
147
嘆きつつ
 わが世はかくて
 過ぐせとや
 胸のあくべき
 時ぞともなく
〔源氏〕嘆きながら一生をこのように過ごせというのでしょうか
胸の思いの晴れる間もないのに
148
逢ふことの
 かたきを今日に
 限らずは
 今幾をか
 嘆きつつ経む
〔源氏〕お逢いすることの難しさが今日でおしまいでないならば
いく転生にわたって嘆きながら過すことでしょうか
149
長き
 恨みを人に
 残しても
 かつは心を
 あだと知らなむ
〔藤壺〕未来永劫の怨みをわたしに残したと言っても
そのようなお心はまた一方ですぐに変わるものと知っていただきたい
150
浅茅生の
 のやどりに
 君をおきて
 四方の嵐ぞ
 静心なき
〔源氏〕浅茅生に置く露のようにはかないこの世にあなたを置いてきたので
まわりから吹きつける世間の激しい風を聞くにつけ気ががりでなりません
151
風吹けば
 まづぞ乱るる
 色変はる
 浅茅
 かかるささがに
〔紫上〕風が吹くとまっ先に乱れて色変わりするはかない浅茅生の露の上に
糸をかけてそれを頼りに生きている蜘蛛のようなわたしですから
152
かけまくは
 かしこけれども
 そのかみ
 秋思ほゆる
 木綿欅かな
〔源氏〕口に上して言うことは恐れ多いことですけれど
その昔の秋のころのことが思い出されます
153
そのかみ
 いかがはありし
 木綿欅
 心にかけて
 しのぶらむゆゑ
〔斎院=朝顔〕その昔どうだったとおっしゃるのでしょうか
心にかけて偲ぶとおっしゃるわけは
154
九重に
 隔つる
 雲の上の
 をはるかに
 思ひやるかな
〔藤壺〕宮中には霧が幾重にもかかっているのでしょうか
雲の上で見えない月をはるかにお思い申し上げますことよ
155
影は
 見し世の秋に
 変はらぬを
 隔つる霧
 つらくもあるかな
〔源氏〕月のは昔の秋と変わりませんのに
隔てる霧のあるのがつらく思われるのです
156
木枯の
 吹くにつけつつ
 待ちし間に
 おぼつかなさの
 ころも経にけり
〔朧月夜〕木枯が吹くたびごとに訪れを待っているうちに
長い月日が経ってしまいました
157
あひ見ずて
 しのぶるころ
 涙をも
 なべての空の
 時雨とや
〔源氏〕お逢いできずに恋い忍んで泣いている涙の雨までを
ありふれた秋の時雨とお思いなのでしょうか
158
別れにし
 今日は来れども
 し人に
 行き逢ふほどを
 いつと頼まむ
〔源氏〕故院にお別れ申した日がめぐって来ましたが、雪は降っても
その人にまた行きめぐり逢える時はいつと期待できようか
159
ながらふる
 ほどはけれど
 行きめぐり
 今日はその世に
 逢ふ心地して
〔藤壺〕生きながらえておりますのは辛く嫌なことですが
一周忌の今日は、故院の在世中に出会ったような思いがいたしまして
160
月のすむ
 雲居をかけて
 慕ふとも
 この世の闇に
 なほや惑はむ
〔源氏〕月のように心澄んだ御出家の境地をお慕い申しても
なおも子どもゆえのこの世の煩悩に迷い続けるのであろうか
161
おほふかたの
 きにつけては
 厭へども
 いつかこの世
 背き果つべき
〔藤壺〕世間一般の嫌なことからは離れたが、子どもへの煩悩は
いつになったらすっかり離れ切ることができるのであろうか
162
ながめかる
 海人のすみかと
 見るからに
 まづしほたるる
 松が浦島
〔源氏〕海人が住む松が浦島という、
物思いに沈んでいらっしゃるお住まいかと存じますと何より先に涙に暮れてしまいます
163
ありし世の
 なごりだになき
 浦島
 立ち寄る波の
 めづらしきかな
〔藤壺〕昔の俤さえないこの松が浦島のような所に
立ち寄る波も珍しいのに、立ち寄ってくださるとは珍しいですね
164
それもがと
 今朝開けたる
 初
 劣らぬ君が
 ひをぞ見る
〔頭中将〕それを見たいと思っていた今朝咲いた花に
劣らないお美しさのわが君でございます
165
時ならで
 今朝咲く
 夏の雨に
 しをれにけらし
 ふほどなく
〔源氏〕時節に合わず今朝咲いた花は夏の雨に
萎れてしまったらしい、美しさを見せる間もなく
 
 

花散里(はなちるさと) 4首

  内訳:2(源氏)、1×2(花散里方女房=中川の女、麗景殿女御=桐壺帝女御=花散里姉)
  →【逐語分析
166
をちかへり
 えぞ忍ばれぬ
 ほととぎす
 ほの語らひし
 宿の垣根に
〔源氏〕昔にたちかえって懐かしく思わずにはいられない、ほととぎすの声だ
 かつてわずかに契りを交わしたこの家なので
167
ほととぎす
 言問ふ声は
 それなれど
 あなおぼつかな
 五月雨の空
〔若やかなるけしきども=女房:中川の女(全集)〕
ほととぎすの声ははっきり分かりますが
どのようなご用か分かりません、五月雨の空のように
168
橘の香
 なつかし
 ほととぎす
 花散る里
 たづねてぞとふ
〔源氏〕昔を思い出させる橘の香を懐かしく思って
ほととぎすが花の散ったこのお邸にやって来ました
169
人目なく
 荒れたる宿
 橘の
 花
こそ軒の
 つまとなりけれ
〔麗景殿女御〕訪れる人もなく荒れてしまった住まいには
軒端の橘だけがお誘いするよすがになったのでした
 
 

須磨 48首

  内訳:28(源氏)、3(紫上)、2×6(花散里、朧月夜、藤壺、六条御息所、右近の将監の蔵人(集成:右近尉)=前右近将督(集成:前右近尉)= 全集:右近将監で同一認定)、1×5(大宮、王命婦、良清、民部大輔=全集:惟光、五節)
  →【逐語分析
170
鳥辺山
 燃えし
 まがふやと
 海人の塩焼く
 浦見にぞ行く
〔源氏〕あの鳥辺山で火葬にした妻の煙に似てはいないかと
海人が塩を焼く煙を見に行きます
171
亡き人の
 別れやいとど
 隔たらむ
 となりし
 雲居ならでは
〔大宮〕亡き娘との仲もますます遠くなってしまうでしょう
娘が煙となった都の空から居なくなってしまうのでは
172
身はかくて
 さすらへぬとも
 君があたり
 去らぬ
 は離れじ
〔源氏〕たとえわが身はこのように流浪しようとも
鏡に映った影はあなたの元を離れずに残っていましょう
173
別れても
 だにとまる
 ものならば
 を見ても
 慰めてまし
〔紫上〕お別れしてもせめて影だけでもとどまっていてくれるものならば
鏡を見て慰めることもできましょうに
174
月影の
 宿れる袖は
 せばくとも
 とめても見ばや
 あかぬ光を
〔花散里〕月のが映っているわたしの袖は狭いですが
そのまま留めて置きたいと思います、見飽きることのない光を
175
行きめぐり
 つひにすむべき
 月影の
 しばし雲らむ
 空な眺めそ
〔源氏〕大空を行きめぐって、ついには澄むはずの月のですから
しばらくの間曇っているからといって悲観なさいますな
176
逢ふなき
 涙の河
 沈みしや
 るる澪の
 初めなりけむ
〔源氏〕あなたに逢えないことに涙を流したことが
流浪する身の上となるきっかけだったのでしょうか
177
涙河
 浮かぶ水泡も
 消えぬべし
 れて後の
 をも待たずて
〔朧月夜〕涙川に浮かんでいる水泡も消えてしまうでしょう
生きながらえて再びお会いできる日を待たないで
178
見しはなく
 あるは悲しき
 の果てを
 背きしかひも
 なくなくぞ経る
〔藤壺〕お連れ添い申した院は亡くなられ、生きておいでの方は悲しいお身の上の世の末を
出家した甲斐もなくわたしは泣きの涙で暮らしています
179
別れしに
 悲しきことは
 尽きにしを
 またぞこの
 憂さはまされる
〔源氏〕父院にお別れした折に悲しい思いを尽くしたと思ったはずなのに
またもこの世のさらに辛いことに遭います
180
ひき連れて
 葵かざしし
 そのかみ
 思へばつらし
 賀茂の瑞垣
〔右近の将監の蔵人〕お供をして葵を頭に挿した御禊の日のことを思うと
御利益がなかったのかとつらく思われます、賀茂の神様
181
憂き世をば
 今ぞ別るる
 とどまらむ
 名をば糺の
 にまかせて
〔源氏〕辛い世の中を今離れて行きます、後に残る
噂の是非は、糺の神にお委ねして
182
亡き影や
 いかが見るらむ
 よそへつつ
 眺むる月も
 雲隠れぬる
〔源氏〕亡き父上はどのように御覧になっていらっしゃることだろうか
父上のように思って見ていた月の光も雲に隠れてしまった
183
いつかまた
 春の都の
 花
を見む
 時失へる
 山賤にして
〔源氏→冷泉(藤壺と源氏の子)〕いつ再び春の都の花盛りを見ることができましょうか
時流を失った山賤のわが身となって
184
代答
咲きてとく
 散るは憂けれど
 ゆく春は
 花の都
 立ち帰り見よ
〔王命婦:春宮の代作〕咲いたかと思うとすぐに散ってしまう桜の花は悲しいけれども
再び都に戻って来て春の都を御覧ください
185
生ける世の
 別れを知らで
 契りつつ
 を人に
 限りけるかな
〔源氏〕生きている間にも生き別れというものがあるとは知らずに
命のある限りは一緒にと信じていましたことよ
186
惜しからぬ
 に代へて
 目の前の
 別れをしばし
 とどめてしがな
〔紫上〕惜しくもないわたしの命に代えて、今のこの
別れを少しの間でも引きとどめて置きたいものです
187
唐国に
 名を残しける
 人よりも
 行方知られぬ
 家をやせむ
〔源氏〕唐国で名を残した人以上に
行方も知らない侘住まいをするのだろうか
188
故郷を
 峰の霞は
 隔つれど
 眺むる空は
 同じ雲
〔源氏〕住みなれた都の方を峰の霞は遠く隔てているが
わたしが悲しい気持ちで眺めている空は都であの人が眺めているのと同じ空なのだ
189
松島
 海人の苫屋も
 いかならむ
 須磨浦人
 しほたるるころ
〔源氏→藤壺:入道の宮〕私の帰りを待っていらっしゃる出家されたあなた様はいかがお過ごしでしょうか
わたしは須磨の浦で涙に泣き濡れております今日このごろです
190
こりずまの
 のみるめの
 ゆかしきを
 焼く海人
 いかが思はむ
〔源氏→朧月夜=尚侍〕性懲りもなくお逢いしたく思っていますが
あなた様はどう思っておいででしょうか
191
垂るる
 ことをやくにて
 松島
 年ふる海人
 嘆きをぞつむ
〔藤壺〕涙に濡れているのを仕事として
出家したわたしも嘆きを積み重ねています
192
浦にたく
 海人だにつつむ
 恋なれば
 くゆる煙よ
 行く方ぞなき
〔朧月夜=尚侍君〕須磨の浦の海人でさえ人目を隠す恋の火ですから
人目多い都にいる思いはくすぶり続けて晴れようがありません
193
贈:
浦人
 潮くむ袖に
 比べ見よ
 波路へだつる
 夜の衣を
〔紫上=姫君→源氏〕あなたのお袖とお比べになってみてください
遠く波路を隔てた都で独り袖を濡らしている夜の衣と
194
うきめかる
 伊勢をの海人
 思ひやれ
 藻塩垂るてふ
 須磨にて
〔六条御息所〕辛く淋しい思いを致してます伊勢の人を思いやってくださいまし
やはり涙に暮れていらっしゃるという須磨の浦から
195
伊勢島や
 潮干の潟に
 漁りても
 いふかひなきは
 我が身なりけり
〔六条御息所〕伊勢の海の干潟で貝取りしましても
何の生き甲斐もないのはこのわたしです
196
伊勢人の
 波の上
 漕ぐ小舟にも
 うきめは刈らで
 乗らましものを
〔源氏〕伊勢人が波の上を漕ぐ舟に一緒に乗ってお供すればよかったものを
須磨で浮海布など刈って辛い思いをしているよりは
197
海人がつむ
 なげきのなかに
 塩垂れて
 いつまで須磨
 眺め
〔源氏〕海人が積み重ねる投げ木の中に涙に濡れて
いつまで須磨の浦にさすらっていることでしょう
198
贈:
荒れまさる
 軒のしのぶを
 眺めつつ
 しげくも露の
 かかる袖かな
〔花散里→源氏〕荒れて行く軒の忍ぶ草を眺めていますと
ひどく涙の露に濡れる袖ですこと
199
恋ひわびて
 泣く音にまがふ
 浦波は
 思ふ方より
 風や吹くらむ
〔源氏〕恋いわびて泣くわが泣き声に交じって波音が聞こえてくるが
それは恋い慕っている都の方から風が吹くからであろうか
200

 恋しき人の
 列なれや
 旅の空飛ぶ
 声の悲しき
〔源氏〕初雁は恋しい人の仲間なのだろうか
旅の空を飛んで行く声が悲しく聞こえる
201
かきつらね
 昔のことぞ
 思ほゆる
 はその世の
 友ならねども
〔良清〕次々と昔の事が懐かしく思い出されます
雁は昔からの友達であったわけではないのだが
202
心から
 常世を捨てて
 鳴く
 雲のよそにも
 思ひけるかな
〔民部大輔=惟光(全集)〕自分から常世を捨てて旅の空に鳴いて行く雁を
ひとごとのように思っていたことよ
203
常世出でて
 旅の空なる
 がねも
 列に遅れぬ
 ほどぞ慰む
〔前右近将督〕常世を出て旅の空にいる雁も
仲間に外れないでいるあいだは心も慰みましょう
204
見るほどぞ
 しばし慰む
 めぐりあはむ
 月の都
 遥かなれども
〔源氏〕見ている間は暫くの間だが心慰められる
また廻り逢おうと思う月の都は、遥か遠くではあるが
205
憂しとのみ
 ひとへにものは
 思ほえで
 左右にも
 濡るる袖かな
〔源氏〕辛いとばかり一途に思うこともできず
恋しさと辛さとの両方に濡れるわが袖よ
206
琴の音に
 弾きとめらるる
 綱手
 たゆた
 君知るらめや
〔五節:筑紫の五節(全集)〕琴の音に引き止められた綱手縄のように
ゆらゆら揺れているわたしの心をお分かりでしょうか
207
ありて
 引き手の綱
 たゆたはば
 うち過ぎましや
 須磨
〔源氏〕わたしを思う心があって引手綱のように揺れるというならば
通り過ぎて行きましょうか、この須磨の浦を
208
山賤の
 庵に焚ける
 しばしばも
 言問ひ来なむ
 恋ふる里人
〔源氏〕賤しい山人が粗末な家で焼いている柴のように
しばしば便りを寄せてほしいわが恋しい都の人よ
209
いづ方の
 雲路に我も
 迷ひなむ
 月の見るらむ
 ことも恥づかし
〔源氏〕どの方角の雲路にわたしも迷って行くことであろう
月が見ているだろうことも恥ずかしい
210
友千鳥
 諸声に鳴く
 暁は
 ひとり寝覚の
 床も頼もし
〔源氏〕友千鳥が声を合わせて鳴いている明け方は
独り寝覚めて泣くわたしも心強い気がする
211
いつとなく
 大宮人
 恋しきに
 桜かざしし
 今日も来にけり
〔源氏〕いつと限らず大宮人が恋しく思われるのに
桜をかざして遊んだその日がまたやって来た
212
故郷を
 いづれの春か
 行きて見む
 うらやましきは
 帰るがね
〔源氏〕ふる里をいつの春にか見ることができるだろう
羨ましいのは今帰って行く雁だ
213
あかなくに
 の常世を
 立ち別れ
 花の都に
 道や惑はむ
〔頭中将〕まだ飽きないまま雁は常世を立ち去りますが
花の都への道にも惑いそうです
214
近く
 飛び交ふ鶴も
 空に見よ
 我は春日の
 曇りなき身ぞ
〔源氏〕雲の近くを飛びかっている鶴よ、雲上人よ、はっきりとご照覧あれ
わたしは春の日のようにいささかも疚しいところのない身です
215
たづかなき
 居にひとり
 音をぞ鳴く
 翼並べし
 友を恋ひつつ
〔頭中将〕頼りない雲居にわたしは独りで泣いています
かつて共に翼を並べた君を恋い慕いながら
216
知らざりし
 大海の原に
 流れ来て
 ひとかたにやは
 ものは悲しき
〔源氏〕見も知らなかった大海原に流れきて
人形に一方ならず悲しく思われることよ
217
八百よろづ
 神
もあはれと
 思ふらむ
 犯せる罪の
 それとなければ
〔源氏〕八百万の神々もわたしを哀れんでくださるでしょう
これといって犯した罪はないのだから
 
 

明石 30首

  内訳:17(源氏)、6(明石)、3(明石入道)、2(紫上)、1×2(朱雀帝、五節)
  →【逐語分析
218
贈:
風や
 いかに吹くらむ
 思ひやる
 袖うち濡らし
 波間なきころ
〔紫上→源氏〕須磨の浦ではどんなに激しく風が吹いていることでしょう
心配で袖を涙で濡らしている今日このごろです
219
海にます
 の助けに
 かからずは
 潮の八百会に
 さすらへなまし
〔源氏〕海に鎮座まします神の御加護がなかったならば
潮の渦巻く遥か沖合に流されていたことであろう
220
贈:
遥かにも
 思ひやるかな
 知らざりし
 よりをちに
 伝ひして
〔源氏→紫上〕遥か遠くより思いやっております
知らない浦からさらに遠くの浦に流れ来ても
221
あはと見る
 路の島の
 あはれさへ
 残るくまなく
 澄める夜の月
〔源氏〕ああと、しみじみ眺める淡路島の悲しい情趣まで
すっかり照らしだす今宵の月であることよ
222
一人寝は
 君も知りぬや
 つれづれと
 思ひ明かし
 さびしさを
〔明石入道〕独り寝はあなた様もお分かりになったでしょうか
所在なく物思いに夜を明かしている明石の浦の心淋しさを
223
旅衣
 うら悲しさに
 明かしかね
 草の枕は
 夢も結ばず
〔源氏〕旅の生活の寂しさに夜を明かしかねて
安らかな夢を見ることもありません
224
をちこちも
 知らぬ雲居
 眺めわび
 かすめし宿の
 梢をぞ訪ふ
〔源氏〕何もわからない土地にわびしい生活を送っていましたが
お噂を耳にしてお便りを差し上げます
225
眺むらむ
 同じ雲居
 眺むるは
 思ひも同じ
 思ひなるらむ
〔明石入道〕物思いされながら眺めていらっしゃる空を同じく眺めていますのは
娘もきっと同じ気持ちだからなのでしょう
226
いぶせくも
 にものを
 悩むかな
 やよやいかに
 問ふ人もなみ
〔源氏〕悶々として心の中で悩んでおります
いかがですかと尋ねてくださる人もいないので
227
思ふらむ
 のほどや
 やよいかに
 まだ見ぬ人の
 聞きか悩まむ
〔明石〕思って下さるとおっしゃいますが、その真意はいかがなものでしょうか
まだ見たこともない方が噂だけで悩むということがあるのでしょうか
228
秋の夜の
 月毛の駒よ
 我が恋ふる
 雲居を翔れ
 時の間も見む
〔源氏〕秋の夜の月毛の駒よ、わが恋する都へ天翔っておくれ
束の間でもあの人に会いたいので
229
むつごとを
 りあはせむ
 人もがな
 憂き世の
 なかば覚むやと
〔源氏〕睦言を語り合える相手が欲しいものです
この辛い世の夢がいくらかでも覚めやしないかと
230
明けぬ夜に
 やがて惑へる
 心には
 いづれを
 わきてらむ
〔明石〕闇の夜にそのまま迷っておりますわたしには
どちらが夢か現実かと区別してお話し相手になれましょう
231
しほしほと
 まづぞ泣かるる
 かりそめの
 みるめは海人の
 すさびなれども
〔源氏〕あなたのことが思い出されて、さめざめと泣けてしまいます
かりそめの恋は海人のわたしの遊び事ですけれども
232
うらなくも
 思ひけるかな
 契りしを
 より波は
 越えじものぞと
〔紫上〕固い約束をしましたので、何の疑いもなく信じておりました
末の松山のように、心変わりはないものと
233
このたびは
 立ち別るとも
 塩焼く
 煙は同じ
 方になびかむ
〔源氏〕今はいったんお別れしますが、藻塩焼く
煙が同じ方向にたなびいているようにいずれは一緒に暮らしましょう
234
かきつめて
 海人のたく
 思ひにも
 今はかひなき
 恨みだにせじ
〔明石〕あれこれと何とも悲しい気持ちでいっぱいですが
今は申しても甲斐のないことですから、お恨みはいたしません
235
なほざりに
 頼め置くめる
 一ことを
 尽きせぬ音にや
 かけて偲ばむ
〔明石〕軽いお気持ちでおっしゃるお言葉でしょうが
その一言を悲しくて泣きながら心にかけて、お偲び申します
236
逢ふまでの
 かたみに契る
 中の緒

 調べはことに
 変はらざらなむ
〔源氏〕今度逢う時までの形見に残した琴の中の緒の調子のように
二人の仲の愛情も、格別変わらないでいて欲しいものです
237
うち捨てて
 立つも悲しき
 浦波の
 名残いかにと
 思ひやるかな
〔源氏〕あなたを置いて明石の浦を旅立つわたしも悲しい気がしますが
後に残ったあなたはさぞやどのような気持ちでいられることかお察しします
238
年経つる
 苫屋も荒れて
 憂き波の
 返る方にや
 身をたぐへまし
〔明石〕長年住みなれたこの苫屋も、あなた様が立ち去った後は荒れはてて
つらい思いをしましょうから、いっそ打ち返す波に身を投げてしまおうかしら
239
寄る波に
 立ちかさねたる
 旅
 しほどけしとや
 人の厭はむ
〔明石〕ご用意致しました旅のご装束は寄る波の
涙に濡れていまので、お厭いになられましょうか
240
かたみにぞ
 換ふべかりける
 逢ふことの
 日数隔てむ
 中の
〔源氏〕お互いに形見として着物を交換しましょう
また逢える日までの間の二人の仲の、この中の衣を
241
世をうみ
 ここらしほじむ
 身となりて
 なほこの岸を
 えこそ離れね
〔明石入道〕世の中が嫌になって長年この海浜の汐風に吹かれて暮らして来たが
なお依然として子の故に此岸を離れることができずにおります
242
都出でし
 春の嘆きに
 劣らめや
 年経る浦を
 別れぬる秋
〔源氏〕都を立ち去ったあの春の悲しさに決して劣ろうか
年月を過ごしてきたこの浦を離れる悲しい秋は
243
わたつ
 しなえうらぶれ
 蛭の児の
 脚立たざりし
 年は経にけり
〔源氏〕海浜でうちしおれて落ちぶれながら蛭子のように
立つこともできず三年を過ごして来ました
244
宮柱
 めぐりあひける
 時しあれば
 別れし春の
 恨み残すな
〔朱雀帝〕こうしてめぐり会える時があったのだから
あの別れた春の恨みはもう忘れてください
245
贈:
嘆きつつ
 明石浦に
 朝霧の
 立つやと人を
 思ひやるかな
〔源氏→明石〕お嘆きになりながら暮らしていらっしゃる明石の浦には
嘆きの息が朝霧となって立ちこめているのではないかと思いやっています
246
須磨の浦に
 心を寄せし
 舟人の
 やがて朽たせる
 を見せばや
〔五節〕須磨の浦で好意をお寄せ申した舟人が
そのまま涙で朽ちさせてしまった袖をお見せ申しとうございます
247
帰りては
 かことやせまし
 寄せたりし
 名残に
 干がたかりしを
〔源氏〕かえってこちらこそ愚痴を言いたいくらいです、ご好意を寄せていただいて
それ以来涙に濡れて袖が乾かないものですから
 
 

澪標(みおつくし) 17首

  内訳:9(源氏)、3(明石)、1×5(宣旨の娘=明石姫君乳母、紫上、花散里、惟光、斎宮)
  →【逐語分析
248
かねてより
 隔てぬ仲と
 ならはねど
 別れ惜し
 ものにぞありける
〔源氏〕以前から特に親しい仲であったわけではないが
別れは惜しい気がするものであるよ
249
うちつけの
 別れ惜し
 かことにて
 思はむ方に
 慕ひやはせぬ
〔宣旨の娘=明石姫君乳母〕口から出まかせの別れを惜しむことばにかこつけて
恋しい方のいらっしゃる所に行きたいのではありませんか
250
いつしかも
 うちかけむ
 をとめ子が
 世を経て撫づる
 岩の生ひ先
〔源氏〕早くわたしの手元に姫君を引き取って世話をしてあげたい
天女が羽衣で岩を撫でるように幾千万年も姫の行く末を祝って
251
ひとりして
 撫づる
 ほどなきに
 覆ふばかりの
 蔭をしぞ待つ
〔明石〕わたし一人で姫君をお世話するには行き届きませんので
大きなご加護を期待しております
252
思ふどち
 なびく方には
 あらずとも
 われぞ煙に
 先立ちなまし
〔紫上〕愛しあっている同士が同じ方向になびいているのとは違って
わたしは先に煙となって死んでしまいたい
253
誰れにより
 世を山に
 行きめぐり
 絶えぬ涙に
 浮き沈む身ぞ
〔源氏〕いったい誰のために憂き世を海や山にさまよって
止まることのない涙を流して浮き沈みしてきたのでしょうか
254
松や
 時ぞともなき
 蔭にゐて
 何のあやめも
 いかにわくらむ
〔源氏〕海松は、いつも変わらない蔭にいたのでは、
今日が五日の節句の
 五十日の祝とどうしてお分りになりましょうか
255
数ならぬ
 み島隠れに
 鳴く鶴を
 今日もいかに
 問ふ人ぞなき
〔明石〕人数に入らないわたしのもとで育つわが子を
今日の五十日の祝いはどうしているかと尋ねてくれる人は他にいません
256
水鶏だに
 おどろかさずは
 いかにして
 荒れたる宿
 入れまし
〔花散里〕せめて水鶏だけでも戸を叩いて知らせてくれなかったら
どのようにしてこの荒れた邸に月の光を迎え入れることができたでしょうか
257
おしなべて
 たたく水鶏
 おどろか
 うはの空なる
 もこそ入れ
〔源氏〕どの家の戸でも叩く水鶏の音に見境なしに戸を開けたら
わたし以外の月の光が入って来たら大変だ
258
住吉の
 松こそものは
 かなしけれ
 代のことを
 かけて思へば
〔惟光〕住吉の松を見るにつけ感慨無量です
昔のことがを忘れられずに思われますので
259
荒かりし
 波のまよひに
 住吉の
 をばかけて
 忘れやはする
〔源氏〕あの須磨の大嵐が荒れ狂った時に
念じた住吉の神の御神徳をどうして忘られようぞ
260
みをつくし
 恋ふるしるしに
 ここまでも
 めぐり逢ひける
 えには深し
〔源氏〕身を尽くして恋い慕っていた甲斐のあるここで
めぐり逢えたとは、宿縁は深いのですね
261
数ならで
 難波のことも
 かひなきに
 などみをつくし
 思ひそめけむ
〔明石〕とるに足らない身の上で、何もかもあきらめておりましたのに
どうして身を尽くしてまでお慕い申し上げることになったのでしょう
262
露けさの
 昔に似たる
 旅衣
 田蓑の島の
 名には隠れず
〔源氏〕涙に濡れる旅の衣は、昔、海浜を流浪した時と同じようだ
田蓑の島という名の蓑の名には身は隠れないので
263
降り乱れ
 ひまなき空に
 亡き人の
 天翔るらむ
 宿ぞ悲しき
〔源氏〕雪や霙がしきりに降り乱れている中空を、亡き母宮の御霊が
まだ家の上を離れずに天翔けっていらっしゃるのだろうと悲しく思われます
264
消えがてに
 ふるぞ悲しき
 かきくらし
 わが身それとも
 思ほえぬ世に
〔斎宮〕消えそうになく生きていますのが悲しく思われます
毎日涙に暮れてわが身がわが身とも思われません世の中に
 
 

蓬生(よもぎう) 6首

  内訳:3(末摘花)、2(源氏)、1(侍従)
  →【逐語分析
265
絶ゆまじ
 筋を頼みし
 玉かづら
 思ひのほかに
 かけ離れぬる
〔末摘花〕あなたを絶えるはずのない間柄だと信頼していましたが
思いのほかに遠くへ行ってしまうのですね
266
玉かづら
 絶え
てもやまじ
 行く道の
 手向の
 かけて誓はむ
〔侍従〕お別れしましてもお見捨て申しません
行く道々の道祖神にかたくお誓いしましょう
267
亡き人を
 恋ふる袂の
 ひまなきに
 荒れたる軒の
 しづくさへ添ふ
〔末摘花〕亡き父上を恋い慕って泣く涙で袂の乾く間もないのに
荒れた軒の雨水までが降りかかる
268
尋ねても
 我こそ訪はめ
 道もなく
 深き
 もとの心を
〔源氏〕誰も訪ねませんがわたしこそは訪問しましょう
道もないくらい深く茂った蓬の宿の姫君の変わらないお心を
269
藤波の
 うち過ぎがたく
 見えつるは
 松こそ宿
 しるしなりけれ
〔源氏〕松にかかった藤の花を見過ごしがたく思ったのは
その松がわたしを待つというあなたの家の目じるしであったのですね
270
年を経て
 待つしるしなき
 わが宿
 花のたよりに
 過ぎぬばかりか
〔末摘花〕長年待っていた甲斐のなかったわたしの宿を
あなたはただ藤の花を御覧になるついでにお立ち寄りになっただけなのですね
 
 

関屋 3首

  内訳:2(空蝉)、1(源氏)
  →【逐語分析
271
行くと来と
 せき止めがたき
 涙をや
 絶えぬ清水と
 人は見るらむ
〔空蝉〕行く時も帰る時にも逢坂の関で、せきとめがたく流れるわたしの涙を
絶えず流れる関の清水と人は見るでしょう
272
わくらばに
 行き逢ふ道を
 頼みしも
 なほかひなしや
 潮ならぬ海
〔源氏〕偶然に近江路でお逢いしたことに期待を寄せていましたが
それも効ありませんね、やはり潮海ではないから
273
坂の
 関やいかなる
 なれば
 しげき嘆きの
 仲を分くらむ
〔空蝉〕逢坂の関は、いったいどのような関なのでしょうか
こんなに深い嘆きを起こさせ、人の仲を分けるのでしょう
 
 

絵合(えあわせ) 9首

  内訳:3(斎宮)、2(朱雀院)、1×4(紫上、源氏、大弐典侍、平内侍)
  →【逐語分析
274
れ路に
 添へし小櫛を
 かことにて
 けき仲と
 やいさめし
〔朱雀院〕別れの御櫛を差し上げましたが、それを口実に
あなたとの仲を遠く離れたものと神がお決めになったのでしょうか
275
るとて
 かに言ひし
 一言も
 かへりてものは
 今ぞ悲しき
〔斎宮〕別れの御櫛をいただいた時に仰せられた一言が
帰京した今となっては悲しく思われます
276
一人ゐて
 嘆きしよりは
 海人の住む
 かたをかくてぞ
 るべかりける
〔紫上〕独り都に残って嘆いていた時よりも、海人が住んでいる
干潟を絵に描いていたほうがよかったわ
277
憂きめ
 その折よりも
 今日はまた
 過ぎにしかたに
 かへる涙か
〔源氏〕辛い思いをしたあの当時よりも、今日はまた
再び過去を思い出していっそう涙が流れて来ます
278
:贈
伊勢の海の
 深き心を
 たどらずて
 ふりにし跡と
 波や消つべき
〔平内侍:左方。主張〕伊勢物語の【海のように】深い心を訪ねないで
単に古い物語だからといって価値まで落としめてよいものでしょうか
279
:答
雲の上に
 思ひのぼれる
 心には
 千尋の底も
 はるかにぞ見る
〔大弐の典侍:右方。否認〕雲居の宮中に【思い】上った正三位の心から見ますと
伊勢物語の千尋の心も遥か下の方に見えます【千尋→業平の噂。伊勢73】
280
:答
みるめこそ
 うらふりぬらめ
 年経にし
 伊勢をの海人の

 名
をや沈めむ
〔斎宮:左方・伊勢斎宮・梅壺の抗弁 ×藤壺:通説〕
ちょっと見た目には古くさく見えましょうが昔から名高い
伊勢物語【伊勢の無名の昔男】の名を【底の浅い業平の名で】落としめることができましょうか
281
身こそかく
 めの
外なれ
 そのかみ
 うち
 忘れしもせず
〔朱雀院〕わが身はこのように内裏の外におりますが
あの当時の気持ちは今でも忘れずにおります
282
しめのうち
 昔にあらぬ
 地して
 代のことも
 今ぞ恋しき
〔斎宮〕内裏の中は昔とすっかり変わってしまった気がして
神にお仕えしていた昔のことが今は恋しく思われます
 
 

松風(まつかぜ) 16首

  内訳:4×3(明石尼君、明石、源氏)、1×4(明石入道、冷泉帝、※頭中将=旧大系・全集本巻一首のみ別人扱い、左大弁)
  →【逐語分析
283
行く先を
 はるかに祈る
 別れ路に
 堪へぬは老いの
 涙なりけり
〔明石入道〕姫君の将来がご幸福であれと祈る別れに際して
堪えきれないのは老人の涙であるよ
284 もろともに
 都は出で来
 このたびや
 ひとり野中の
 道に惑はむ
〔明石尼君〕ご一緒に都を出て来ましたが、今度の旅は
一人で都へ帰る野中の道で迷うことでしょう
285 いきてまた
 あひ見むことを
 いつとてか
 限りも知らぬ
 世をば頼まむ
〔明石〕京へ行って生きて再びお会いできることをいつと思って
限りも分からない寿命を頼りにできましょうか
286
かの岸に
 心寄りにし
 海人舟の
 背きし方に
 漕ぎ帰るかな
〔明石尼君〕彼岸の浄土に思いを寄せていた尼のわたしが
捨てた都の世界に帰って行くのだわ
287
いくかへり
 行きかふ秋を
 過ぐしつつ
 浮木に乗りて
 われ帰るらむ
〔明石〕何年も秋を過ごし過ごしして来たが
頼りない舟に乗って都に帰って行くのでしょう
288
身を変へて
 一人帰れる
 山里に
 聞きしに似たる
 松風ぞ吹く
〔明石尼君〕尼姿となって一人帰ってきた山里に
昔聞いたことがあるような松風が吹いている
289
里に
 見し世の友を
 恋ひわびて
 さへづることを
 誰れか分くらむ
〔明石〕故里で昔親しんだ人を恋い慕って弾く
田舎びた琴の音を誰が分かってくれようか
290
住み馴れし
 人は帰り
 たどれども
 清水は宿の
 主人顔なる
〔明石尼君〕かつて住み慣れていたわたしは帰って来て、昔のことを思い出そうとするが
遣水はこの家の主人のような昔ながらの音を立てています
291
いさらゐは
 はやくのことも
 忘れじを
 もとの主人
 面変はりせる
〔源氏〕小さな遣水は昔のことも忘れないのに
もとの主人は姿を変えてしまったからであろうか
292
契りし
 変はらぬ琴の
 調べにて
 絶えぬ心の
 ほどは知りきや
〔源氏〕約束したとおり、琴の調べのように変わらない
わたしの心をお分かりいただけましたか
293
変はらじと
 契りしことを
 頼みにて
 の響きに
 音を添へしかな
〔明石〕変わらないと約束なさったことを頼みとして
松風の音に泣く声を添えて待っていました
294
月のすむ
 川のをちなる
 なれば
 桂の影は
 のどけかるらむ
〔冷泉帝〕月が澄んで見える桂川の向こうの里なので
月の光をゆっくりと眺められることであろう
295
久方の
 光に近き
 名のみして
 朝夕霧も
 晴れぬ山
〔源氏〕桂の里といえば月に近いように思われますが
それは名ばかりで朝夕霧も晴れない山里です
296
めぐり来て
 手に取るばかり
 さやけきや
 路の島の
 あはと見し
〔源氏〕都に帰って来て手に取るばかり近くに見える月は
あの淡路島を臨んで遥か遠くに眺めた月と同じ月なのだろうか
297

 しばしまがひし
 月影
 すみはつる
 のどけかるべき
〔頭中将=認定内訳注意※〕浮雲に少しの間隠れていた月の光【しばし見紛えた月影】も
今は澄みきっているようにいつまでものどかでありましょう
298
の上の
 すみかを捨てて
 半の
 いづれの谷に
 かげ隠しけむ
〔左大弁〕まだまだご健在であるはずの故院はどこの谷間に
お姿をお隠しあそばしてしまわれたのだろう
 
 

薄雲(うすぐも) 10首

  内訳:5(源氏)、3(明石)、1×2(乳母=宣旨の娘:明石姫君乳母、紫上)
  →【逐語分析
299
深み
 深の道は
 晴れずとも
 なほ文かよへ
 跡絶え
ずして
〔明石〕雪が深いので奥深い山里への道は通れなくなろうとも
どうか手紙だけはください、跡の絶えないように
300
間なき
 吉野の
 訪ねても
 心のかよふ
 跡絶え
めやは
〔乳母=宣旨の娘:明石姫君乳母〕雪の消える間もない吉野の山奥であろうとも必ず訪ねて行って
心の通う手紙を絶やすことは決してしません
301
末遠き
 二葉の松に
 引き別れ
 いつか木高き
 かげを見るべき
〔明石〕幼い姫君にお別れしていつになったら
立派に成長した姿を見ることができるのでしょう
302
生ひそめし
 根も深ければ
 武隈の
 松に小松の
 千代をならべむ
〔源氏〕生まれてきた因縁も深いのだから
いづれ一緒に暮らせるようになりましょう
303
舟とむる
 遠方人
 なくはこそ
 明日帰り来む
 夫と待ち見め
〔紫上〕あなたをお引き止めするあちらの方がいらっしゃらないのなら
明日帰ってくるあなたと思ってお待ちいたしましょうが
304
行きて見て
 明日もさね来む
 なかなかに
 遠方人
 心置くとも
〔源氏〕ちょっと行ってみて明日にはすぐに帰ってこよう
かえってあちらが機嫌を悪くしようとも
305
入り日さす
 峰にたなびく
 薄雲
 もの思ふ袖に
 色やまがへる
〔源氏〕入日が射している峰の上にたなびいている薄雲は
悲しんでいるわたしの喪服の袖の色に似せたのだろうか
306
贈:
君もさは
 あはれを交はせ
 人知れず
 わが身にしむる
 秋の夕風
〔源氏→斎宮〕あなたもそれでは情趣を交わしてください、誰にも知られず
自分ひとりでしみじみと身にしみて感じている秋の夕風ですから
307
漁りせし
 忘られぬ
 篝火
 身の浮舟や
 ひ来にけむ
〔明石〕あの明石の浦の漁り火が思い出されますのは
わが身の憂さを追ってここまでやって来たのでしょうか
308
浅からぬ
 したの思ひを
 知らねばや
 なほ篝火
 は騒げる
〔源氏〕わたしの深い気持ちを御存知ないからでしょうか
今でも篝火のようにゆらゆらと心が揺れ動くのでしょう
 
 

朝顔 13首

  内訳:8(源氏)、3(朝顔:斎院)、1×2(源典侍、紫上)
  →【逐語分析
309
人知れず
 の許しを
 待ちし間に
 ここらつれなき
 世を過ぐすかな
〔源氏〕誰にも知られず賀茂の神のお許しを待っていた間に
長年つらい世を過ごしてきたことよ
310
なべて世の
 あはればかりを
 問ふからに
 誓ひしことと
 やいさめむ
〔朝顔:斎院〕一通りのお見舞いの挨拶をするだけでも
誓ったことに背くと賀茂の神がお戒めになるでしょう
311
見し折の
 つゆ忘られぬ
 朝顔
 花の盛りは
 過ぎやしぬらむ
〔源氏〕昔拝見したあなたがどうしても忘れられません
その朝顔の花は盛りを過ぎてしまったのでしょうか
312
秋果てて
 霧の籬に
 むすぼほれ
 あるかなきかに
 移る朝顔
〔朝顔:斎院〕秋は終わって霧の立ち込める垣根にしぼんで
今にも枯れそうな朝顔の花のようなわたしです
313
いつのまに
 蓬がもとと
 むすぼほれ
 雪降る里と
 荒れし垣根ぞ
〔源氏〕いつの間にこの邸は蓬が生い茂り
雪に埋もれたふる里となってしまったのだろう
314
年経れど
 この契りこそ
 られね
 とか
 ひし一
〔源典侍〕何年たってもあなたとのご縁が忘れられません
親の親――わたしはあなたの祖母、とかおっしゃった一言がございますもの
315
身を変へて
 後も待ち見よ
 この世にて
 るる
 ためしありやと
〔源氏〕来世に生まれ変わった後まで待って見てください
この世で子が親を忘れる例があるかどうかと
316
つれなさを
 昔に懲りぬ
 心こそ
 人のつらきに
 添へてつらけれ
〔源氏〕昔のつれない仕打ちに懲りもしないわたしの心までが
あなたがつらく思う心に加わってつらく思われるのです
317
あらためて
 何かは見えむ
 人のうへに
 かかりと聞きし
 心変はり
〔朝顔:斎院〕今さらどうして気持ちを変えたりしましょう
他人ではそのようなことがあると聞きました心変わりを
318
氷閉ぢ
 石間の水は
 行きなやみ
 空澄む月の
 ぞ流るる
〔紫上〕氷に閉じこめられた石間の遣水は流れかねているが
空に澄む月の光はとどこおりなく西へ流れて行く
319
かきつめて
 昔恋しき
 雪もよに
 あはれを添ふる
 鴛鴦の浮
〔源氏〕何もかも昔のことが恋しく思われる雪の夜に
いっそうしみじみと思い出させる鴛鴦の鳴き声であることよ
320
とけて寝ぬ
 寝
覚さびしき
 冬の夜に
 むすぼほれつる
 夢の短さ
〔源氏〕安らかに眠られずふと寝覚めた寂しい冬の夜に
見た夢の何とも短かかったことよ
321
亡き人を
 慕ふ心に
 まかせても
 見ぬ三つの
 瀬にや惑はむ
〔源氏〕亡くなった方を恋慕う心にまかせてお尋ねしても
その姿も見えない三途の川のほとりで迷うことであろうか
 
 

乙女/少女 16首

  内訳:5(夕霧)、3(源氏)、1×8(朝顔、雲居雁、五節、朱雀院、蛍兵部卿、冷泉帝、斎宮、紫上)
  →【逐語分析
322
かけきやは
 川瀬の波も
 たちかへり
 君が禊の
 のやつれを
〔源氏〕思いもかけませんでした再びあなたが禊をなさろうとは(渋谷)
賀茂の川瀬の波が 立ち返るように御禊の日が巡ってきたのに、
斎院の御禊ならぬ(全集)
喪服(藤衣)にやつれておられ(旧大系)ることを
323

 着しは昨日と
 思ふまに
 今日は禊の
 瀬にかはる世を
〔朝顔:斎院〕喪服を着たのはつい昨日のことと思っておりましたのに
 もう今日はそれを脱ぐ禊をするとは、何と移り変わりの早い世の中ですこと
324
さ夜中に
 友呼びわたる
 雁が音に
 うたて吹き添ふ
 荻の上風
〔夕霧〕真夜中に友を呼びながら飛んでいく雁の声に
さらに悲しく吹き加わる荻の上を吹く風よ
325
くれなゐの
 に深き
 袖の色を
 浅緑にや
 言ひしをるべき
〔夕霧〕真っ赤な血の涙を流して恋い慕っているわたしを
浅緑の袖の色だと言ってけなしてよいものでしょうか
326
いろいろに
 身の憂きほどの
 知らるるは
 いかに染めける
 中の衣
〔雲居雁〕色々とわが身の不運が思い知らされますのは
どのような因縁の二人なのでしょう
327
霜氷
 うたてむすべる
 明けぐれの
 空かきくらし
 降るかな
〔夕霧〕霜や氷が嫌に張り詰めた明け方の
空を真暗にして降る涙の雨だなあ
328
贈:
にます
 豊岡姫
 宮人も
 わが心ざす
 しめを忘るな
〔夕霧→藤典侍〕天にいらっしゃる豊岡姫に仕える宮人も
わたしのものと思う気持ちを忘れないでください
329
乙女子
 さびぬらし
 つ袖
 古き世の友
 よはひ経ぬれば
〔源氏〕少女だったあなたも神さびたことでしょう
天の羽衣を着て舞った昔の友も長い年月を経たので
330
かけて言へば
 今日のこととぞ
 思ほゆる
 日蔭の霜の
 袖にとけし
〔五節〕五節のことを言いますと、昔のことが今日のことのように思われます
日蔭のかずらを懸けて舞い、お情けを頂戴したことが
331
贈:
日影にも
 しるかりけめや
 少女子
 天の羽袖に
 かけし
心は
〔夕霧→藤典侍〕日の光にはっきりとおわかりになったでしょう
あなたが天の羽衣も翻して舞う姿に思いをかけたわたしのことを
332
鴬の
 さへづる
声は
 昔にて
 睦れし花の
 蔭ぞ変はれる
〔源氏〕鴬の囀る声は昔のままですが
馴れ親しんだあの頃とはすっかり時勢が変わってしまいました
333
九重を
 霞隔つる
 すみかにも
 春と告げくる
 鴬の
〔朱雀院:源氏の異母兄〕宮中から遠く離れた仙洞御所にも
春が来たと鴬の声が聞こえてきます
334
いにしへを
 吹き伝へたる
 笛竹に
 さへづる鳥の
 音さへ変はらぬ
〔兵部卿=源氏の異母弟:蛍兵部卿〕昔の音色そのままの笛の音に
さらに鴬の囀る声までもちっとも変わっていません
335
鴬の
 昔を恋ひて
 さへづる
 木伝ふ花の
 色やあせたる
〔冷泉帝:源氏と藤壺の子〕鴬が昔を慕って木から木へと飛び移って囀っていますのは
今の木の花の色が悪くなっているからでしょうか
336
心から
 春まつ園は
 わが宿の
 紅葉
 つてにだに見よ
〔斎宮〕お好みで春をお待ちのお庭では、せめてわたしの方の
紅葉を風のたよりにでも御覧あそばせ
337
に散る
 紅葉は軽し
 の色を
 岩根の
 かけてこそ見め
〔紫上〕風に散ってしまう紅葉は心軽いものです、春の変わらない色を
この岩にどっしりと根をはった松の常磐の緑を御覧になってほしいものです
 
 

玉鬘(たまかずら) 14首

  内訳:3×2(玉鬘、源氏)、2×2(玉鬘乳母、二人①②)、1×4(大夫の監、兵部の君、右近、末摘花)
  →【逐語分析
338
唱:贈
舟人も
 たれを恋ふとか
 大島の
 うらがなしげに
 声の聞こゆる
〔二人①=玉鬘乳母:太宰少弐の妻。×姉妹(通説)〕舟人も誰を恋い慕ってか大島の浦に
悲しい声が聞こえます
339
唱:答
来し方も
 行方も知らぬ
 沖に出でて

 あはれいづくに
 恋ふらむ
〔二人②=玉鬘。cf.343 ×姉妹(通説)〕来た方角もこれから進む方角も分からない沖に出て
ああどちらを向いて女君を恋い求めたらよいのでしょう
340
にもし
 心違はば
 松浦なる
 鏡の神
 かけて誓はむ
〔大夫の監:玉鬘求婚田舎男〕姫君のお心に万が一違うようなことがあったら、どのような罰も受けましょうと
松浦に鎮座まします鏡の神に掛けて誓います
341
年を経て
 祈る
 ひなば
 鏡の神
 つらしとや見む
〔玉鬘乳母:太宰少弐の妻(全集)〕長年祈ってきましたことと違ったならば
鏡の神を薄情な神様だとお思い申しましょう
342
唱:贈
浮島を
 漕ぎ離れても
 行く方や
 いづく泊りと
 知らずもあるかな
〔兵部の君:太宰少弐の娘(全集)〕浮き島のように思われたこの地を漕ぎ離れて行きますけれど
どこが落ち着き先ともわからない身の上ですこと
343
唱:答
行く先も
 見えぬ波路に
 舟出して

 風にまかする
 身こそ浮きたれ
〔玉鬘〕行く先もわからない波路に舟出して
風まかせの身の上こそ頼りないことです
344
憂きことに
 胸のみ騒ぐ
 響きには
 の灘も
 さはらざりけり
〔玉鬘乳母:太宰少弐の妻(全集)〕嫌なことに胸がどきどきしてばかりいたので
それに比べれば響の灘も名前ばかりでした
345
二本の
 杉のたちどを
 尋ねずは
 古野辺に
 君を見ましや
〔右近:玉鬘侍女・夕顔の乳母娘〕二本の杉の立っている長谷寺に参詣しなかったなら
古い川の近くで姫君にお逢いできたでしょうか
346
瀬川
 はやくのことは
 知らねども
 今日の逢ふ
 身さへ流れぬ
〔玉鬘〕昔のことは知りませんが、今日お逢いできた
嬉し涙でこの身まで流れてしまいそうです
347
知らずとも
 尋ねて知ら
 三島江に
 生ふる三稜
 は絶えじを
〔源氏〕今はご存知なくともやがて聞けばおわかりになりましょう
三島江に生えている三稜のようにわたしとあなたは縁のある関係なのですから
348
数ならぬ
 三稜や何の
 なれば
 憂きにしもかく
 根をとどめけむ
〔玉鬘〕物の数でもないこの身はどうして
三稜のようにこの世に生まれて来たのでしょう
349
恋ひわたる
 身はそれなれど
 玉かづら
 いかなる
 尋ね来つらむ
〔源氏〕ずっと恋い慕っていたわが身は同じであるが【玉鬘のような】その娘は
どのような縁でここに来たのであろうか
350
着てみれば
 恨みられけり
 唐衣
 しやりてむ
 袖を濡らして
〔末摘花〕着てみると恨めしく思われます、この唐衣は
お返ししましょう、涙で袖を濡らして
351
さむと
 言ふにつけても
 片敷の
 夜の衣
 思ひこそやれ
〔源氏〕お返ししましょうとおっしゃるにつけても独り寝の
あなたをお察しいたします
 
 

初音 6首

  内訳:2×2(源氏、明石)、1×2(紫上、明石姫君)
  →【逐語分析
352
薄氷
 解けぬる池の
 鏡
には
 世に曇りなき
 影ぞ
並べる
〔源氏〕薄い氷も解けた池の鏡のような面には
世にまたとない二人の影が並んで映っています
353
曇りなき
 池の鏡

 よろづ代を
 すむべき影ぞ
 しるく見えける
〔紫上〕一点の曇りのない池の鏡に幾久しくここに
住んで行くわたしたちの影がはっきりと映っています
354
月を
 にひかれて
 る人に
 今日
 初音聞かせよ
〔明石〕長い年月を子どもの成長を待ち続けていました
わたしに今日はその初音を聞かせてください
355
ひき別れ
 れども
 
 立ちし
 根を忘れめや
〔明石姫君〕別れて何年も経ちましたがわたしは
生みの母君を忘れましょうか
356
めづらしや
 のねぐらに
 木づたひて
 谷の古巣
 へる
〔明石〕何と珍しいことか、花の御殿に住んでいる鴬が
谷の古巣を訪ねてくれたとは
357
ふるさとの
 春の梢に
 ね来て
 世の常ならぬ
 を見るかな
〔源氏〕昔の邸の春の梢を訪ねて来てみたら
世にも珍しい紅梅の花が咲いていたことよ
 
 

胡蝶 14首

  内訳:4×2(若き人々:秋好中宮(斎宮)方女房/侍女、源氏)、2(玉鬘)、1×4(蛍兵部卿宮=源氏異母弟、紫上、斎宮、岩漏る中将:柏木(通説))
  →【逐語分析
358
風吹けば
 波の花さへ
 色見えて
 こや名に立てる
 山吹の崎
〔若き人々〕風が吹くと波の花までが色を映して見えますが
これが有名な山吹の崎でしょうか
359
春の池や
 井手の川瀬に
 かよふらむ
 岸の山吹
 そこも匂へり
〔若き人々〕春の御殿の池は井手の川瀬まで通じているのでしょうか
岸の山吹が水底にまで咲いて見えますこと
360
亀の上の
 山も尋ねじ
 のうちに
 老いせぬ名をば
 ここに残さむ
〔若き人々〕蓬莱山まで訪ねて行く必要もありません
この舟の中で不老の名を残しましょう
361
春の日の
 うららに
さして
 ゆく
 棹のしづくも
 花ぞ散り
ける
〔若き人々〕春の日のうららかな中を漕いで行く舟は
棹のしずくも花となって散ります
362
紫の
 ゆゑに心を
 しめたれば
 淵に身投げ
 名やは惜しけき
〔蛍兵部卿宮〕ゆかりのある方に思いを懸けていますので
淵に身を投げても名誉は惜しくもありません
363
淵に身を
 投げ
つべしやと
 この春は
 のあたりを
 立ち去らで見よ
〔源氏〕淵に身を投げるだけの価値があるかどうか
この春の花の近くを離れないでよく御覧なさい
364
園の
 胡蝶をさへや
 下草に
 秋待つ虫は
 うとく見るらむ
〔紫上〕花園の胡蝶までを下草に隠れて
秋を待っている松虫はつまらないと思うのでしょうか
365
胡蝶にも
 誘はれなまし
 心ありて
 八重山吹を
 隔てざりせば
〔斎宮〕胡蝶にもつい誘われたいくらいでした
八重山吹の隔てがありませんでしたら
366
贈:
思ふとも
 君は知らじな
 わきかへり
 岩漏る水に
 色し見えねば
〔柏木(全集)=岩漏る中将→玉鬘〕
こんなに恋い焦がれていてもあなたはご存知ないでしょうね
 
湧きかえって
岩間から溢れる水には色がありませんから
367
ませのうちに
 根深く植ゑし
 竹の子の
 おのが世々にや
 生ひわかるべき
〔源氏〕邸の奥で大切に育てた娘も
それぞれ結婚して出て行くわけか
368
今さらに
 いかならむ
 若竹の
 生ひ
始めけむ
 根をば尋ねむ
〔玉鬘〕今さらどんな場合にわたしの
実の親を探したりしましょうか
369
橘の
 薫りし袖

 よそふれば
 変はれる身とも
 思ほえぬかな
〔源氏〕あなたを昔懐かしい母君と比べてみますと
とても別の人とは思われません
370
袖の香
 よそふるからに
 橘の
 身
さへはかなく
 なりもこそすれ
〔玉鬘〕懐かしい母君とそっくりだと思っていただくと
わたしの身までが同じようにはかなくなってしまうかも知れません
371
贈:
うちとけて
 寝も見ぬものを
 若草の
 ことあり顔に
 むすぼほるらむ
〔源氏→玉鬘〕気を許しあって共寝をしたのでもないのに
どうしてあなたは意味ありげな顔をして思い悩んでいらっしゃるのでしょう
 
 

蛍 8首

  内訳:3(玉鬘)、2×2(蛍兵部卿宮、源氏)、1(花散里)
  →【逐語分析
372
鳴く
 聞こえぬ虫の
 思ひだに
 人のつには
 ゆるものかは
〔蛍兵部卿宮:源氏弟〕鳴く声も聞こえない螢の火でさえ
人が消そうとして消えるものでしょうか
373
はせで
 身をのみ焦がす
 こそ
 言ふよりまさる
 思ひなるらめ
〔玉鬘〕声には出さずひたすら身を焦がしている螢の方が
口に出すよりもっと深い思いでいるでしょう
374
今日さへや
 引く人もなき
 水隠れに
 生ふる菖蒲
 根の泣かれ
〔蛍兵部卿宮〕今日までも引く人もない水の中に隠れて生えている菖蒲の根のように
相手にされないわたしはただ声を上げて泣くだけなのでしょうか
375
あらはれて
 いとど浅くも
 見ゆるかな
 菖蒲もわかず
 泣かれける根の
〔玉鬘〕きれいに見せていただきましてますます浅く見えました
わけもなく泣かれるとおっしゃるあなたのお気持ちは
376
その
 すさめぬ草と
 名に立てる
 汀の菖蒲
 今日や引きつる
〔花散里〕馬も食べない草として有名な水際の菖蒲のようなわたしを
今日は節句なので、引き立てて下さったのでしょうか
377
鳰鳥に
 影をならぶる
 若
 いつか菖蒲
 引き別るべき
〔源氏〕鳰鳥のようにいつも一緒にいる若駒のわたしは
いつ菖蒲のあなたに別れたりしましょうか
378
思ひあまり
 昔の跡を
 訪ぬれど

 に背ける
 子ぞたぐひなき
〔源氏〕思いあまって昔の本を捜してみましたが
親に背いた子供の例はありませんでしたよ
379
古き跡を
 訪ぬれど
げに
 なかりけり
 この世にかかる
 の心は
〔玉鬘〕昔の本を捜して読んでみましたが、おっしゃるとおり
ありませんでした。この世にこのような親心の人は
 
 

常夏 4首

  内訳:1×4(源氏、玉鬘、近江君、中納言君)
  →【逐語分析
380
撫子の
 とこなつかしき
 色を見ば
 もとの垣根
 人や尋ねむ
〔源氏〕撫子の花の色のようにいつ見ても美しいあなたを見ると
母親の行く方を内大臣は尋ねられることだろうな
381
山賤の
 ほに生ひし
 撫子の
 もとの根ざしを
 誰れか尋ねむ
〔玉鬘〕山家の賤しい垣根に生えた撫子のような
わたしの母親など誰が尋ねたりしましょうか
382
草若み
 常陸の浦の
 いかが崎
 いかであひ見む
 田子の浦波
〔近江君→女御=弘徽殿女御〕未熟者ですが、いかがでしょうかと
何とかしてお目にかかりとうございます
383
代答
常陸なる
 駿河の海の
 須磨の
 立ち出でよ
 筥崎の松
〔中納言の君〕常陸にある駿河の海の須磨の浦に
お出かけくだい、箱崎の松が待っています
 
 

篝火(かがりび) 2首

  内訳:1×2(源氏、玉鬘)
  →【逐語分析
384
篝火
 たちそふ恋の
 こそ
 世には絶えせぬ
 炎なりけれ
〔源氏〕篝火とともに立ち上る恋の煙は
永遠に消えることのないわたしの思いなのです
385
行方なき
 空に消ちてよ
 篝火
 たよりにたぐふ
 とならば
〔玉鬘〕果てしない空に消して下さいませ
篝火とともに立ち上る煙とおっしゃるならば
 
 

野分(のわき) 4首

  内訳:1×4(明石、玉鬘、源氏、夕霧)
  →【逐語分析
386
おほかたに
 荻の葉過ぐる
 の音も
 憂き身ひとつに
 しむ心地して
〔明石〕ただ普通に荻の葉の上を通り過ぎて行く風の音も
つらいわが身だけにはしみいるような気がして
387
吹き乱る
 のけしきに
 女郎花
 しをれ
しぬべき
 心地こそすれ
〔玉鬘〕吹き乱す風のせいで女郎花は
萎れてしまいそうな気持ちがいたします
388
下露に
 なびかましかば
 女郎花
 荒きには
 しをれざらまし
〔源氏〕下葉の露になびいたならば
女郎花は荒い風には萎れないでしょうに
389
贈:
騒ぎ
 むら雲まがふ
 夕べにも
 るる間なく
 られぬ君
〔夕霧→雲居雁〕風が騒いでむら雲が乱れる夕べにも
片時の間もなく忘れることのできないあなたです
 
 

行幸(みゆき) 9首

  内訳:4(源氏)、1×5(冷泉帝、玉鬘、大宮=頭中将母、末摘花、頭中将)
  →【逐語分析
390
雪深
 小塩山
 たつ雉の
 古き跡をも
 今日は尋ねよ
〔冷泉帝〕雪の深い小塩山に飛び立つ雉のように
古例に従って今日はいらっしゃればよかったのに
391
小塩山
 深雪積もれる
 松原に
 今日ばかりなる
 跡やなからむ
〔源氏〕小塩山に深雪が積もった松原に
今日ほどの盛儀は先例がないでしょう
392
うちきらし
 朝ぐもりせし
 行幸には
 さやかに空の
 やは見し
〔玉鬘〕雪が散らついて朝の間の行幸では
はっきりと日の光は見えませんでした
393
あかねさす
 は空に
 らぬを
 などて行幸
 目をきらしけむ
〔源氏〕日の光は曇りなく輝いていましたのに
どうして行幸の日に雪のために目を曇らせたのでしょう
394
贈:
ふたかたに
 言ひもてゆけば
 玉櫛笥
 わが身はなれぬ
 懸子なりけり
〔大宮→玉鬘〕どちらの方から言いましてもあなたはわたしにとって
切っても切れない孫に当たる方なのですね
395
わが身こそ
 みられけれ
 唐衣
 君が袂に
 馴れずと思へば
〔末摘花〕わたし自身が恨めしく思われます
あなたのお側にいつもいることができないと思いますと
396
唐衣
 また唐衣
 唐衣

 かへすがへす
 唐衣なる
〔源氏〕唐衣、また唐衣、唐衣
いつもいつも唐衣とおっしゃいますね
397
めしや
 沖つ玉
 かづくまで
 磯がくれける
 海人の心よ
〔頭中将〕恨めしいことですよ。玉裳を着る
今日まで隠れていた人の心が
398
よるべなみ
 かかる渚に
 うち寄せて
 海人も尋ねぬ
 屑とぞ見し
〔源氏〕寄る辺がないので、このようなわたしの所に身を寄せて
誰にも捜してもらえない気の毒な子だと思っておりました
 
 

藤袴 8首

  内訳:3(玉鬘)、1×5(夕霧、柏木、髭黒、蛍兵部卿宮、左兵衛督)
  →【逐語分析
399
同じ野の
 にやつるる
 藤袴
 あはれはかけよ
 かことばかりも
〔夕霧〕あなたと同じ野の露に濡れて萎れている藤袴です
やさしい言葉をかけて下さい、ほんの申し訳にでも
400
尋ぬるに
 はるけき野辺の
 ならば
 薄紫や
 かことならまし
〔玉鬘〕尋ねてみて遥かに遠い野辺の露だったならば
薄紫のご縁とは言いがかりでしょう
401
妹背山
 深き道をば
 尋ねずて
 緒絶の橋に
 踏み迷ひけるよ
〔柏木〕実の姉弟という関係を知らずに
遂げられない恋の道に踏み迷って文を贈ったことですよ
402
惑ひける
 道をば知らず
 妹背山
 たどたどしくぞ
 誰も踏み見し
〔玉鬘〕事情をご存知なかったとは知らず
どうしてよいか分からないお手紙を拝見しました
403
贈:
数ならば
 厭ひもせまし
 長月に
 命をかくる
 ほどぞはかなき
〔髭黒→玉鬘〕人並みであったら嫌いもしましょうに、九月を
頼みにしているとは、何とはかない身の上なのでしょう
404
日さす
 を見ても
 玉笹の
 葉分けの霜を
 消
たずもあらなむ
〔蛍兵部卿宮:源氏弟→玉鬘〕朝日さす帝の御寵愛を受けられたとしても
霜のようにはかないわたしのことを忘れないでください
405
贈:
忘れなむ
 と思ふもものの
 悲しきを
 いかさまにして
 いかさまにせむ
〔左兵衛督→玉鬘〕忘れようと思う一方でそれがまた悲しいのを
どのようにしてどのようにしたらよいものでしょうか
406
心もて
 に向かふ
 葵だに
 おく霜を
 おのれやは
〔玉鬘→蛍宮〕自分から光に向かう葵でさえ
朝置いた霜を自分から消しましょうか
 
 

真木柱(まきばしら) 21首

  内訳:4×2(源氏、玉鬘)、3(鬚黒:不細工な男)、2×2(木工の君=髭黒方女房、冷泉帝)、1×6(真木柱、鬚黒北の方、中将の御許、蛍兵部卿宮、近江の君=玉鬘と腹違い姉妹問題児、夕霧)
  →【逐語分析
407
おりたちて
 汲みは見ねども
 渡り
 人の瀬とはた
 契らざりしを
〔源氏〕あなたと立ち入った深い関係はありませんでしたが、三途の川を渡る時、
他の男に背負われて渡るようにはお約束しなかったはずなのに
408
みつせ
 渡らぬさきに
 いかでなほ
 涙の澪の
 泡と消えなむ
〔玉鬘〕三途の川を渡らない前に何とかしてやはり
涙の流れに浮かぶ泡のように消えてしまいたいものです
409
贈:
心さへ
 空に乱れし
 雪もよに
 ひとり冴えつる
 片敷の袖
〔鬚黒(不細工な男)→玉鬘〕心までが中空に思い乱れましたこの雪に
独り冷たい片袖を敷いて寝ました
410
ひとりゐて
 焦がるる胸の
 苦しきに
 思ひあまれる
 炎とぞ見し
〔木工の君=髭黒方女房〕北の方が独り残されて、思い焦がれる胸の苦しさが
思い余って炎となったその跡と拝見しました
411
憂きことを
 思ひ騒げば
 さまざまに
 くゆる煙ぞ
 いとど立ちそふ
〔鬚黒〕嫌なことを思って心が騒ぐので、あれこれと
後悔の炎がますます立つのだ
412
今はとて
 宿かれぬとも
 馴れ来つる
 真木の柱
 われを忘るな
〔真木柱〕今はもうこの家を離れて行きますが、わたしが馴れ親しんだ
真木の柱はわたしを忘れないでね
413
馴れきとは
 思ひ出づとも
 何により
 立ちとまるべき
 真木の柱
〔鬚黒北の方:真木柱母〕長年馴れ親しんで来た真木柱だと思い出しても
どうしてここに止まっていられましょうか
414
浅けれど
 石間の水
 澄み果てて
 宿もる君や
 かけ離るべき
〔中将の御許〕浅い関係のあなたが残って、邸を守るはずの北の方様が
出て行かれることがあってよいものでしょうか
415
ともかくも
 岩間の水
 結ぼほれ
 かけとむべくも
 思ほえぬ世を
〔木工の君〕どのように言われても、わたしの心は悲しみに閉ざされて
いつまでここに居られますことやら
416
贈:
深山木に
 羽うち交はし
 ゐる鳥の
 またなくねたき
 春にもあるかな
〔蛍兵部卿宮:源氏異母弟→玉鬘〕深山木と仲よくしていらっしゃる鳥が
またなく疎ましく思われる春ですねえ
417
などてかく
 灰あひがたき
 紫を
 心
に深く
 思ひそめけむ
〔冷泉帝〕どうしてこう一緒になりがたいあなたを
深く思い染めてしまったのでしょう
418
いかならむ
 色とも知らぬ
 紫を
 心
してこそ
 人は染めけれ
〔玉鬘〕どのようなお気持ちからとも存じませんでした
この紫の色は、深いお情けから下さったものなのですね
419
九重に
 霞隔てば
 梅の
 ただ香ばかり
 匂ひ来じとや
〔冷泉帝〕幾重にも霞が隔てたならば、梅の花の香は
宮中まで匂って来ないのだろうか
420
香ばかり
 風にもつてよ
 の枝に
 立ち並ぶべき
 匂ひなくとも
〔玉鬘〕香りだけは風におことづけください
美しい花の枝に並ぶべくもないわたしですが
421
かきたれて
 のどけきころの
 春雨に
 ふるさと人を
 いかにぶや
〔源氏〕降りこめられてのどやかな春雨のころ
昔馴染みのわたしをどう思っていらっしゃいますか
422
眺めする
 軒の雫に
 袖ぬれて
 うたかた人を
 ばざらめや
〔玉鬘〕物思いに耽りながら軒の雫に袖を濡らして
どうしてあなた様のことを思わずにいられましょうか
423
思はずに
 井手の中道
 隔つとも
 言はでぞ恋ふる
 山吹の花
〔源氏〕思いがけずに二人の仲は隔てられてしまったが
心の中では恋い慕っている山吹の花よ
424
同じ
 かへりしかひの
 見えぬかな
 いかなる人か
 手ににぎるらむ
〔源氏→玉鬘〕せっかくわたしの所でかえった雛が見えませんね
どんな人が手に握っているのでしょう
425
代答
隠れて
 数にもあらぬ
 かりの子を
 いづ方にかは
 取り隠すべき
〔鬚黒:玉鬘の夫〕巣の片隅に隠れて子供の数にも入らない雁の子を
どちらの方に取り隠そうとおっしゃるのでしょうか
426
沖つ
 よるべ波
路に
 漂はば
 棹さし寄らむ
 泊り教へよ
〔近江の君〕沖の舟さん。寄る所がなくて波に漂っているなら
わたしが棹さして近づいて行きますから、行く場所を教えてください
427
よるべなみ
 風の騒がす
 人も
 思はぬ方に
 磯伝ひせず
〔夕霧〕寄る所がなく風がもてあそんでいる舟人でも
思ってもいない所には磯伝いしません
 
 

梅枝(うめがえ) 11首

  内訳:3(源氏)、2×2(蛍兵部卿宮、夕霧)、1×4(朝顔、柏木、弁少将=柏木弟:後の紅梅大納言、雲居雁)
  →【逐語分析
428
花の香
 散りにし
 とまらねど
 うつらむ袖に
 浅くしまめや
〔朝顔:前斎院〕花の香りは散ってしまった枝には残っていませんが、
香を焚きしめた袖には深く残るでしょう
429
花の
 いとど心を
 しむるかな
 人のとがめむ
 をばつつめど
〔源氏〕花の枝にますます心を惹かれることよ
人が咎めるだろうと隠しているが
430
鴬の
 声にやいとど
 あくがれむ
 心しめつる
 のあたりに
〔蛍兵部卿宮:源氏異母弟〕鴬の声にますます魂が抜け出しそうです
心を惹かれた花の所では、
431
色も香も
 うつるばかりに
 この春は
 咲く宿を
 かれずもあらなむ
〔源氏〕色艶も香りも移り染まるほどに、今年の春は
花の咲くわたしの家を絶えず訪れて下さい
432
鴬の
 ねぐらの
 なびくまで
 なほ吹きとほせ
 夜半の笛竹
〔柏木〕鴬のねぐらの枝もたわむほど
夜通し笛の音を吹き澄まして下さい
433
心ありて
 風の避くめる
 の木に
 とりあへぬまで
 吹きや寄るべき
〔夕霧〕気づかって風が避けて吹くらしい梅の花の木に
むやみに近づいて笛を吹いてよいものでしょうか
434
霞だに
 月ととを
 隔てずは
 ねぐらの鳥も
 ほころびなまし
〔弁少将:柏木弟:後の紅梅大納言〕霞でさえ月と花とを隔てなければ
ねぐらに帰る鳥も鳴き出すことでしょう
435
花の香を
 えならぬ袖に
 うつしもて
 ことあやまりと
 妹やとがめむ
〔蛍兵部卿宮〕この花の香りを素晴らしい袖に移して帰ったら
女と過ちを犯したのではないかと妻が咎めるでしょう
436
めづらしと
 故里
 待ちぞ見む
 花の錦を
 着て帰る君
〔源氏〕珍しいと家の人も待ち受けて見ましょう
この花の錦を着て帰るあなたを
437
つれなさは
 憂きの常に
 なりゆくを
 忘れ
 にことなる
〔夕霧〕あなたの冷たいお心は、つらいこの世の習性となって行きますが
それでも忘れないわたしは世間の人と違っているのでしょうか
438
限りとて
 忘れがたきを
 るるも
 こやになびく
 心なるらむ
〔雲居雁〕もうこれまでだと、忘れないとおっしゃるわたしのことを忘れるのは
あなたのお心もこの世の習性の人心なのでしょう
 
 

藤裏葉(ふじのうらば) 20首

  内訳:7(夕霧)、4(頭中将)、2(雲居雁)、1×7(柏木、藤典侍=惟光娘=夕霧愛人、雲居雁乳母、夕霧乳母、源氏、朱雀院、冷泉帝)
  →【逐語分析
439
わが宿の
 藤の色濃き
 たそかれに
 尋ねやは来ぬ
 春の名残を
〔かの大臣=内大臣:かつての頭中将〕わたしの家の藤の花の色が濃い夕方に
訪ねていらっしゃいませんか、逝く春の名残を惜しみに
440
なかなかに
 折りやまどはむ
 藤の
 たそかれ時の
 たどたどしくは
〔夕霧〕かえって藤の花を折るのにまごつくのではないでしょうか
夕方時のはっきりしないころでは
441
紫に
 かことはかけむ
 藤の
 まつより過ぎて
 うれたけれども
〔内大臣:かつての頭中将〕紫色のせいにしましょう、藤の花の
待ち過ぎてしまって恨めしいことだが
442
いく返り
 露けき春を
 過ぐし来て
 紐解
 折にあふらむ
〔夕霧〕幾度も湿っぽい春を過ごして来ましたが
今日初めて花の開くお許しを得ることができました
443
たをやめの
 にまがへる
 藤の
 見る人からや
 色もまさらむ
〔柏木〕うら若い女性の袖に見違える藤の花は
見る人の立派なためかいっそう美しさを増すことでしょう
444
浅き名を
 言ひ流しける
 河口
 いかがらしし
 の荒垣
〔雲居雁〕軽々しい浮名を流したあなたの口は
どうしてお漏らしになったのですか
445
りにける
 岫田の
 河口
 浅きにのみは
 おほせざらなむ
〔夕霧〕浮名が漏れたのはあなたの父大臣のせいでもありますのに
わたしのせいばかりになさらないで下さい
446
贈:
とがむなよ
 忍びにしぼる
 手もたゆみ
 今日あらはるる
 袖のしづくを
〔夕霧→雲居雁〕お咎め下さいますな、人目を忍んで絞る手も力なく
今日は人目にもつきそうな袖の涙のしずくを
447
何とかや
 今日のかざしよ
 かつ見つつ
 おぼめくまでも
 なりにけるかな
〔夕霧〕何と言ったのか、今日のこの插頭は、目の前に見ていながら
思い出せなくなるまでになってしまったことよ
448
かざしても
 かつたどらるる
 草の名は
 桂を折りし
 人や知るらむ
〔藤典侍=惟光娘・夕霧愛人〕頭に插頭してもなおはっきりと思い出せない草の名は
桂を折られたあなたはご存知でしょう
449

 若
 にても
 濃き紫の
 色とかけきや
〔夕霧〕浅緑色をした若葉の菊を
濃い紫の花が咲こうとは夢にも思わなかっただろう
450
より
 名立たる園の
 なれば
 き色わく
 もなかりき
〔女君の大輔乳母=雲居雁乳母〕二葉の時から名門の園に育つ菊ですから
浅い色をしていると差別する者など誰もございませんでした
451
なれこそは
 岩守るあるじ
 見し人の
 行方は知るや
 宿の真清
〔夕霧〕おまえこそはこの家を守っている主人だ、お世話になった人の
行方は知っているか、邸の真清水よ
452
亡き人の
 影だに見えず
 つれなくて
 心をやれる
 いさらゐの
〔雲居雁〕亡き人の姿さえ映さず知らない顔で
心地よげに流れている浅い清水ね
453
そのかみの
 老木はむべも
 朽ちぬらむ
 植ゑし小
 苔生ひにけり
〔内大臣:かつての頭中将〕その昔の老木はなるほど朽ちてしまうのも当然だろう
植えた小松にも苔が生えたほどだから
454
いづれをも
 蔭とぞ頼む
 双葉より
 根ざし交はせる
 末々
〔男君の御宰相の乳母=夕霧乳母、宰相の君(全集)〕
どちら様をも蔭と頼みにしております、二葉の時から
互いに仲好く大きくおなりになった二本の松でいらっしゃいますから
455
色まさる
 籬の
 折々
 袖うちかけし
 秋を恋ふらし
〔源氏〕色濃くなった籬の菊も折にふれて
袖をうち掛けて昔の秋を思い出すことだろう
456
紫の
 雲にまがへる
 の花
 濁りなき世の
 星かとぞ見る
〔内大臣:かつての頭中将〕紫の雲と似ている菊の花は
濁りのない世の中の星かと思います
457
秋をへて
 時雨ふりぬる
 里人も
 かかる紅葉
 折をこそ見ね
〔朱雀院〕幾たびの秋を経て、時雨と共に年老いた里人でも
このように美しい紅葉の時節を見たことがない
458
世の常の
 紅葉とや見る
 いにしへ
 ためしにひける
 庭の錦を
〔冷泉帝〕世の常の紅葉と思って御覧になるのでしょうか
昔の先例に倣った今日の宴の紅葉の錦ですのに
 
 

若菜上 24首

  内訳:6(源氏)、3(紫上)、2×3(朱雀院、朧月夜、柏木)、1×9(斎宮、玉鬘、女三宮、明石尼君、明石姫君、明石、明石入道、夕霧、小侍従)
  →【逐語分析
459
さしながら
 昔を今に
 伝ふれば
 玉の小櫛
 神さびにける
〔斎宮〕挿したまま昔から今に至りましたので
玉の小櫛は古くなってしまいました
460
さしつぎに
 見るものにもが
 万世を
 黄楊の小櫛
 神さぶるまで
〔朱雀院〕あなたに引き続いて姫宮の幸福を見たいものです
千秋万歳を告げる黄楊の小櫛が古くなるまで
461
若葉さす
 野辺の小松
 き連れて
 もとの岩根を
 祈る今日かな
〔玉鬘〕若葉が芽ぐむ野辺の小松を引き連れて
育てて下さった元の岩根を祝う今日の子の日ですこと
462
小松
 末の齢に
 かれてや
 野辺の若菜
 年を摘むべき
〔源氏〕小松原の将来のある齢にあやかって
野辺の若菜も長生きするでしょう
463
目に近く
 移れば変はる
 の中を
 行く末遠く
 頼みけるかな
〔紫上〕眼のあたりに変われば変わる二人の仲でしたのに
行く末長くとあてにしていましたとは
464
:答
命こそ
 ゆともえめ
 定めなき
 の常ならぬ
 仲の契りを
〔源氏〕命は尽きることがあってもしかたのないことだが
無常なこの世とは違う変わらない二人の仲なのだ
465
中道を
 隔つるほどは
 なけれども
 心乱るる
 今朝のあは雪
〔源氏〕わたしたちの仲を邪魔するほどではありませんが
降り乱れる今朝の淡雪にわたしの心も乱れています
466
はかなくて
 うはの空にぞ
 消えぬべき
 風にただよふ
 春のあは雪
〔女三宮〕頼りなくて中空に消えてしまいそうです
風に漂う春の淡雪のように
467
背きにし
 このに残る
 心こそ
 入る山路の
 ほだしなりけれ
〔朱雀院〕捨て去ったこの世に残る子を思う心が
山に入るわたしの妨げなのです
468
背く世
 うしろめたくは
 さりがたき
 ほだしをしひて
 かけな離れそ
〔紫上〕お捨て去りになったこの世が御心配ならば
離れがたいお方を無理に離れたりなさいますな
469
年月を
 なかに隔てて
 坂の
 さも塞きがたく
 落つる
〔源氏〕長の年月を隔ててやっとお逢いできたのに
このような関があっては堰き止めがたく涙が落ちます
470
のみ
 塞きとめがたき
 清水にて
 ゆき逢ふ道は
 はやく絶えにき
〔朧月夜〕涙だけは関の清水のように堰き止めがたくあふれても
お逢いする道はとっくに絶え果てました
471
沈みしも
 忘れぬものを
 こりずま
 身も投げつべき
 宿の藤
〔源氏〕須磨に沈んで暮らしていたことを忘れないが
また懲りもせずにこの家の藤の花に、淵に身を投げてしまいたい
472
身を投げ
 淵もまことの
 淵ならで
 かけじやさらに
 こりずま
〔朧月夜〕身を投げようとおっしゃる淵も本当の淵ではないのですから
性懲りもなくそんな偽りの波に誘われたりしません
473
身に近く
 秋や来ぬらむ
 見るままに
 青葉の山も
 移ろひにけり
〔紫上〕身近に秋が来たのかしら、見ているうちに
青葉の山のあなたも心の色が変わってきたことです
474
:答
水鳥の
 青羽は色も
 変はらぬを
 萩の下こそ
 けしきことなれ
〔源氏〕水鳥の青い羽のわたしの心の色は変わらないのに
萩の下葉のあなたの様子は変わっています
475
老の
 かひある浦に
 立ち出でて
 しほたるる海人
 誰れかとがめむ
〔明石尼君〕長生きした甲斐があると嬉し涙に泣いているからと言って
誰が出家した老人のわたしを咎めたりしましょうか
476
しほたるる
 海人
路の
 しるべにて
 尋ねも見ばや
 浜の苫屋を
〔明石姫君〕泣いていらっしゃる尼君に道案内しいただいて
訪ねてみたいものです、生まれ故郷の浜辺を
477
を捨てて
 明石の浦に
 住む人も
 心の
 はるけしもせじ
〔明石〕出家して明石の浦に住んでいる父入道も
子を思う心の闇は晴れることもないでしょう
478
贈:
出でむ
 暁近く
 なりにけり
 今ぞ見し
 夢語りする
〔明石入道→明石〕日の出近い暁となったことよ
今初めて昔見た夢の話をするのです
479
いかなれば
 に木づたふ
 鴬の
 をわきて
 ねぐらとはせぬ
〔柏木〕どうして、花から花へと飛び移る鴬は
桜を別扱いしてねぐらとしないのでしょう
480
深山木に
 ねぐら定むる
 はこ鳥も
 いかでか
 色に飽くべき
〔夕霧〕深山の木にねぐらを決めているはこ鳥も
どうして美しい花の色を嫌がりましょうか
481
よそに見て
 折らぬ嘆きは
 しげれども
 なごり恋しき
 の夕かげ
〔柏木→女三宮〕よそながら見るばかりで手折ることのできない悲しみは深いけれども
あの夕方見た花の美しさはいつまでも恋しく思われます
482
代答
いまさらに
 色にな出でそ
 山
 およばぬ枝に
 心かけきと
〔小侍従:女三宮乳母子〕今さらお顔の色にお出しなさいますな
手の届きそうもない桜の枝に思いを掛けたなどと
 
 

若菜下 18首

  内訳:4×2(柏木、源氏)、2×3(明石尼君、紫上、女三宮)、1×4(明石姫君、中務の君=紫付女房、六条御息所の死霊in紫上、朧月夜)
  →【逐語分析
483
恋ひわぶる
 人のかたみと
 手ならせば
 なれよ何とて
 鳴く音なるらむ
〔柏木〕恋いわびている人のよすがと思ってかわいがっていると
どういうつもりでそんな鳴き声を立てるのか
484
誰れかまた
 心を知りて
 住吉の
 神
代を経たる
 にこと問ふ
〔源氏〕わたしの外に誰がまた昔の事情を知って住吉の
神代からの松に話しかけたりしましょうか
485
住の江
 いけるかひある
 渚とは
 年経る尼も
 今日や知るらむ
〔明石尼君〕住吉の浜を生きていた甲斐がある渚だと
年とった尼も今日知ることでしょう
486
昔こそ
 まづ忘られね
 住吉の
 神のしるし

 見るにつけても
〔明石尼君〕昔の事が何よりも忘れられない
住吉の神の霊験を目の当たりにするにつけても
487
住の江
 松に夜深く
 置く霜は
 掛けたる
 木綿鬘かも
〔紫上〕住吉の浜の松に夜深く置く霜は
神様が掛けた木綿鬘でしょうか
488
人の
 手に取りもたる
 榊葉に
 木綿かけ添ふる
 深き夜
〔明石姫君〕神主が手に持った榊の葉に
木綿を掛け添えた深い夜の霜ですこと
489
祝子が
 木綿うちまがひ
 置く霜は
 げにいちじるき
 神のしるし
〔中務の君=紫付女房〕神に仕える人々の木綿鬘と見間違えるほどに置く霜は
仰せのとおり神の御霊験の証でございましょう
490
起きてゆく
 も知られぬ
 明けぐれ
 いづくの露の
 かかる袖なり
〔柏木〕起きて帰って行く先も分からない明けぐれに
どこから露がかかって袖が濡れるのでしょう
491
明けぐれ
 に憂き身は
 消えななむ
 夢なりけりと
 見てもやむべく
〔女三宮〕明けぐれの空にこの身は消えてしまいたいものです
夢であったと思って済まされるように
492
悔しくぞ
 摘み犯しける
 葵草
 の許せる
 かざしならぬに
〔柏木〕悔しい事に罪を犯してしまったことよ
神が許した仲ではないのに
493
もろかづら
 落葉を何に
 拾ひけむ
 名は睦ましき
 かざしなれども
〔柏木〕劣った落葉のような方をどうして娶ったのだろう
同じ院のご姉妹ではあるが
494
贈:
わが身こそ
 あらぬさまなれ
 それながら
 そらおぼれする
 なり
〔六条御息所死霊in紫上→源氏〕わたしはこんな変わりはてた身の上となってしまったが
知らないふりをするあなたは昔のままですね
495
消え止まる
 ほどやは経べき
 たまさかに
 
 かかるばかりを
〔紫上〕露が消え残っている間だけでも生きられましょうか
たまたま蓮の露がこうしてあるほどの命ですから
496
契り置かむ
 この世ならでも
 葉に
 ゐる
 心隔つな
〔源氏〕お約束して置きましょう、この世ばかりでなく来世に蓮の葉の上に
玉と置く露のようにいささかも心の隔てを置きなさいますな
497
夕露に
 袖濡らせとや
 ひぐらし
 鳴くを聞く聞く
 起きて行くらむ
〔女三宮〕夕露に袖を濡らせというつもりで、ひぐらしが鳴くのを
聞きながら起きて行かれるのでしょうか
498
待つ里も
 いかが聞くらむ
 方がたに
 心騒がす
 ひぐらしの声
〔源氏〕わたしを待っているほうでもどのように聞いているでしょうか
それぞれに心を騒がすひぐらしの声ですね
499
海人の世を
 よそに聞かめや
 須磨の浦に
 藻塩垂れしも
 誰れならなくに
〔源氏〕出家されたことを他人事して聞き流していられましょうか
わたしが須磨の浦で涙に沈んでいたのは誰ならぬあなたのせいなのですから
500
海人舟に
 いかがは思ひ
 おくれけむ
 明石の浦に
 いさりせし君
〔朧月夜〕尼になったわたしにどうして遅れをおとりになったのでしょう
明石の浦に海人のようなお暮らしをなさっていたあなたが
 
 

柏木 11首

  内訳:3(夕霧)、2(柏木)、1×6(女三宮、源氏、一条御息所=柏木妻の母、大臣=かつての頭中将:柏木父、弁の君=柏木弟:後の紅梅大納言、簾内女房×通説落葉宮:柏木妻後に夕霧妻)
  →【逐語分析
501
今はとて
 燃えむ
 むすぼほれ
 絶えぬ思ひ
 なほや残らむ
〔柏木〕もうこれが最期と燃えるわたしの荼毘の煙もくすぶって
空に上らずあなたへの諦め切れない思いがなおもこの世に残ることでしょう
502
立ち添ひて
 消えやしなまし
 憂きことを
 思ひ乱るる
 比べに
〔女三宮〕わたしも一緒に煙となって消えてしまいたいほどです
辛いことを思い嘆く悩みの競いに
503
行方なき
 空の
 なりぬとも
 思ふあたりを
 立ちは離れじ
〔柏木〕行く方もない空の煙となったとしても
思うお方のあたりは離れまいと思う
504
贈:
誰が世にか
 種は蒔きしと
 人問はば
 いかが岩根の
 松は答へむ
〔源氏→女三宮〕いったい誰が種を蒔いたのでしょうと人が尋ねたら
誰と答えてよいのでしょう、岩根の松は
505
時しあれば
 変はらぬ色に
 匂ひけり
 片枝枯れにし
 宿の桜も
〔夕霧〕季節が廻って来たので変わらない色に咲きました
片方の枝は枯れてしまったこの桜の木にも
506
この春は
 柳の芽にぞ
 玉はぬく
 咲き散る花の
 行方知らねば
〔一条御息所:柏木妻の母〕今年の春は柳の芽に露の玉が貫いているように泣いております
咲いて散る桜の花の行く方も知りませんので
507
の下の
 雫に濡れて
 さかさまに
 霞の衣
 着た
る春かな
〔かつての頭中将=大臣:柏木父〕木の下の雫に濡れて逆様に
親が子の喪に服している春です
508
亡き人も
 思はざりけむ
 うち捨てて
 夕べの
 君着たれとは
〔夕霧=大将の君〕亡くなった人も思わなかったことでしょう
親に先立って父君に喪服を着て戴こうとは
509
恨めしや
 霞の衣
 誰れ着よ
 春よりさきに
 花の散りけむ
〔紅梅=弁の君:柏木弟〕恨めしいことよ、墨染の衣を誰が着ようと思って
春より先に花は散ってしまったのでしょう
510
ことならば
 馴らしの枝に
 ならさなむ
 葉守の神
 許しありきと
〔夕霧→?:一条宮の簾内で応接する女房達〕
同じことならばこの連理の枝のように親しくして下さい
葉守の神の亡き方のお許があったのですからと
511
柏木
 葉守の神
 まさずとも
 人ならすべき
 宿の梢か
〔女房達「少将の君といふ人をして」 ×落葉宮:旧大系・全集,御息所の歌ではあるまい:新大系〕
柏木に葉守の神はいらっしゃらなくても
みだりに人を近づけてよい梢でしょうか
 
 

横笛 8首

  内訳:2(夕霧)、1×6(朱雀院=源氏異母兄、女三宮=朱雀娘、源氏、落葉宮=柏木妻、一条御息所=落葉の母、柏木)
  →【逐語分析
512
を別れ
 入りなむ道は
 おくるとも
 同じところを
 君も尋ねよ
〔朱雀院〕この世を捨ててお入りになった道はわたしより遅くとも
同じ極楽浄土をあなたも求めて来て下さい
513
憂き世には
 あらぬところの
 ゆかしくて
 背く山路に
 思ひこそ入れ
〔女三宮=朱雀娘〕こんな辛い世の中とは違う所に住みたくて
わたしも父上と同じ山寺に入りとうございます
514
憂き節も
 忘れずながら
 呉竹の
 こは捨て難き
 ものにぞありける
〔源氏〕いやなことは忘れられないがこの子は
かわいくて捨て難く思われることだ
515
ことに出でて
 言はぬも言ふに
 まさるとは
 人に恥ぢたる
 けしきをぞ見る
〔夕霧〕言葉に出しておっしゃらないのも、おっしゃる以上に
深いお気持ちなのだと、慎み深い態度からよく分かります
516
深き夜の
 あはればかりは
 聞きわけど
 ことより顔に
 えやは弾きける
〔落葉宮:柏木妻〕趣深い秋の夜の情趣はぞんじておりますが、
靡き顔に琴をお弾き申したでしょうか
517
露しげき
 むぐらの宿
 いにしへ
 秋に変はらぬ
 虫の声かな
〔一条御息所:落葉の母〕涙にくれていますこの荒れた家に昔の
秋と変わらない笛の音を聞かせて戴きました
518
横笛
 調べはことに
 変はらぬ
 むなしくなりし
 こそ尽きせね
〔夕霧〕横笛の音色は特別昔と変わりませんが
亡くなった人を悼む泣き声は尽きません
519
竹に
 吹き寄る風の
 ことならば
 末の世長き
 に伝へなむ
〔柏木〕この笛の音に吹き寄る風は同じことなら
わたしの子孫に伝えて欲しいものだ
 
 

鈴虫 6首

  内訳:3(源氏)、2(女三宮)、1(冷泉院)
  →【逐語分析
520
葉を
 同じ台と
 契りおきて
 露の分かるる
 今日ぞ悲しき
〔源氏〕来世は同じ蓮の花の中でと約束したが
その葉に置く露のように別々でいる今日が悲しい
521
隔てなく
 宿
 契りても
 君が心や
 住まじとすらむ
〔女三宮〕蓮の花の宿を一緒に仲好くしようと約束なさっても
あなたの本心は悟り澄まして一緒にとは思っていないでしょう
522
おほかたの
 をば憂しと
 知りにしを
 ふり捨てがたき
 鈴虫
〔女三宮〕秋という季節はつらいものと分かっておりますが
やはり鈴虫の声だけは飽きずに聴き続けていたいものです
523
心もて
 草の宿りを
 厭へども
 なほ鈴虫
 ふりせぬ
〔源氏〕ご自分からこの家をお捨てになったのですが
やはりお声は鈴虫と同じように今も変わりません
524
の上を
 かけ離れたる
 すみかにも
 もの忘れせぬ
 の夜の月
〔冷泉院〕宮中から遠く離れて住んでいる仙洞御所にも
忘れもせず秋の月は照っています
525
月影は
 同じ居に
 見えながら
 わが宿からの
 ぞ変はれる
〔源氏〕月の【面影】は昔と同じく照っていますが【雲の中に見えながらも】
わたしの方がすっかり変わってしまいました
 
 

夕霧 26首

  内訳:12(夕霧)、7(落葉宮=柏木妻)、3(雲居雁=夕霧妻)、1×3(一条御息所=落葉母、少将君=一条姪、頭中将=柏木父、藤典侍=夕霧愛人)
  →【逐語分析
526
里の
 あはれを添ふる
 夕霧
 ち出でむ空も
 なき心地して
〔夕霧〕山里の物寂しい気持ちを添える夕霧のために
帰って行く気持ちにもなれずおります
527
賤の
 籬をこめて
 
 心そらなる
 人はとどめず
〔落葉宮:柏木妻・女二宮〕山里の垣根に立ち籠めた霧も
気持ちのない人は引き止めません
528
我のみや
 憂き世を知れる
 ためしにて
 れそふ袖の
 名
を朽たすべき
〔落葉宮:柏木妻〕わたしだけが不幸な結婚をした女の例として
さらに涙の袖を濡らして悪い評判を受けなければならないのでしょうか
529
おほかたは
 我衣を
 着せずとも
 朽ちにし袖の
 名
やは隠るる
〔夕霧〕だいたいがわたしがあなたに悲しい思いをさせなくても
既に立ってしまった悪い評判はもう隠れるものではありません
530
荻原や
 軒端の露
 そぼちつつ
 八重立つ
 分けぞ行くべき
〔夕霧〕荻原の軒葉の荻の露に濡れながら幾重にも
立ち籠めた霧の中を帰って行かねばならないのでしょう
531
分け行かむ
 草葉の露
 かことにて
 なほ濡衣を
 かけむとや思ふ
〔落葉宮:柏木妻〕帰って行かれる草葉の露に濡れるのを言いがかりにして
わたしに濡れ衣を着せようとお思いなのですか
532
贈:
魂を
 つれなき袖

 留めおきて
 わが心から
 惑はるるかな
〔夕霧→落葉宮〕魂をつれないあなたの所に置いてきて
自分ながらどうしてよいか分かりません
533
せくからに
 浅さぞ見えむ
 山川の
 流れての名を
 つつみ果てずは
〔夕霧→落葉宮〕拒むゆえに浅いお心が見えましょう
山川の流れのように浮名は包みきれませんから
534
代答
女郎花
 萎るる辺を
 いづことて
 一夜ばかりの
 宿を借りけむ
〔一条御息所:落葉の母〕女郎花が萎れている野辺をどういうおつもりで
一夜だけの宿をお借りになったのでしょう
535
秋の
 草の茂みは
 分けしかど
 仮寝の枕
 結びやはせし
〔夕霧〕秋の野の草の茂みを踏み分けてお伺い致しましたが
仮初の夜の枕に契りを結ぶようなことを致しましょうか
536
あはれをも
 いかに知りてか
 慰めむ
 あるや恋しき
 亡きや悲しき
〔雲居雁〕お悲しみを何が原因と知ってお慰めしたらよいものか
生きている方が恋しいのか、亡くなった方が悲しいのか
537
いづれとか
 分きて眺めむ
 消えかへる
 露も草葉の
 うへと見ぬ世を
〔夕霧〕特に何がといって悲しんでいるのではありません
消えてしまう露も草葉の上だけでないこの世ですから
538
里遠み
 小野の篠原
 わけて来て
 我も鹿こそ
 声も惜しまね
〔夕霧〕人里が遠いので小野の篠原を踏み分けて来たが
わたしも鹿のように声も惜しまず泣いています
539
藤衣
 露けき秋の
 山人は
 鹿の鳴く音に
 音をぞ添へつる
〔少将の君:一条御息所の姪〕喪服も涙でしめっぽい秋の山里人は
鹿の鳴く音に声を添えて泣いています
540
見し人の
 影澄み果てぬ
 池水に
 ひとり宿守る
 秋の夜の
〔夕霧〕あの人がもう住んでいないこの邸の池の水に
独り宿守りしている秋の夜の月よ
541
いつとかは
 おどろかすべき
 明けぬ夜の
 夢覚めてとか
 言ひしひとこと
〔夕霧〕いつになったらお訪ねしたらよいのでしょうか
明けない夜の夢が覚めたらとおっしゃったことは
542
答:

 泣く音を立つる
 小野山は
 絶えぬ
 音無の滝
〔落葉宮〕朝な夕なに声を立てて泣いている小野山では
ひっきりなしに流れる涙は音無の滝になるのだろうか
543
のぼりにし
 峰の
 たちまじり
 思はぬ方に
 なびかずもがな
〔落葉宮〕母君が上っていった峰の煙と一緒になって
思ってもいない方角にはなびかずにいたいものだわ
544
恋しさの
 慰めがたき
 形見にて
 にくもる
 玉の筥かな
〔落葉宮〕恋しさを慰められない形見の品として
涙に曇る玉の箱ですこと
545
贈:
怨みわび
 胸あきがたき
 冬の夜に
 また鎖しまさる
 関の岩門
〔夕霧→落葉宮〕怨んでも怨みきれません、胸の思いを晴らすことのできない冬の夜に
そのうえ鎖された関所のような岩の門です
546
馴るる身を
 恨むるよりは
 松島の
 海人の衣

 裁ちやかへまし
〔雲居雁〕長年連れ添って古びたこの身を恨んだりするよりも
いっそ尼衣に着替えてしまおうかしら
547
松島の
 海人の

 なれぬとて
 脱ぎ替へつてふ
 名を立ためやは
〔夕霧〕いくら長年連れ添ったからといって、わたしを見限って
尼になったという噂が立ってよいものでしょうか
548
契りあれや
 君を心に
 とどめおきて
 あはれと
 恨めしと聞く
〔大臣=かつての頭中将:柏木父〕前世からの因縁があってか、あなたのことを
お気の毒にと思う一方で、恨めしい方だと聞いております
549
何ゆゑか
 世に数ならぬ
 身ひとつを
 憂しとも
 かなしとも聞く
〔落葉宮:柏木妻〕どういうわけで、世の中で人数にも入らないわたしのような身を
辛いとも思い愛しいともお聞きになるのでしょう
550
数ならば
 身に知られまし
 世の憂さを
 人の
ためにも
 濡らす袖かな
〔典侍=藤典侍:夕霧愛人〕わたしが人数にも入る女でしたら夫婦仲の悲しみを思い知られましょうが
あなたのために涙で袖をぬらしております
551
人の世の
 憂きを
あはれと
 見しかども
 身にかへむとは
 思はざりしを
〔雲居雁:夕霧妻〕他人の夫婦仲の辛さをかわいそうにと思って見てきたが
わが身のこととまでは思いませんでした
 
 

御法(みのり) 12首

  内訳:3×2(紫上、源氏)、1×6(明石、花散里、明石姫君=紫養女、夕霧、頭中将、斎宮)
  →【逐語分析
552
惜しからぬ
 この身ながらも
 かぎりとて
 尽きなむ
 ことの悲しさ
〔紫上〕惜しくもないこの身ですが、これを最後として
薪【命の火種】の尽きることを思うと悲しうございます
553
こる
 思ひは今日を
 初めにて
 この世に願ふ
 ぞはるけき
〔明石〕仏道【行者の道→逝く道】への思いは今日を初めの日として
この世で願う【皆で会える法会は長く続くことでしょう】仏法のために千年も祈り続けられることでしょう
554
絶えぬべき
 御法ながらぞ
 頼まるる
 世々にと
 中の契り
〔紫上〕これが最後と思われます法会ですが、頼もしく思われます
生々世々にかけてと結んだあなたとの縁を
555
びおく
 契りは絶えじ
 おほかたの
 残りすくなき
 御法なりとも
〔花散里〕あなた様と御法会で結んだ御縁は未来永劫に続くでしょう
普通の人には残り少ない命とて、多くは催せない法会でしょうとも
556
おくと見る
 ほどぞはかなき
 ともすれば
 風に乱るる
 萩のうは
〔紫上〕起きていると見えますのも暫くの間のこと
ややもすれば風に吹き乱れる萩の上露のようなわたしの命です
557
ややもせば
 消えをあらそふ
 露の世
 後れ先だつ
 ほど経ずもがな
〔源氏〕どうかすると先を争って消えてゆく露のようにはかない人の世に
せめて後れたり先立ったりせずに一緒に消えたいものです
558
秋風に
 しばしとまらぬ
 露の世
 誰れか草葉の
 うへとのみ見む
〔明石姫君〕秋風に暫くの間も止まらず散ってしまう露の命を
誰が草葉の上の露だけと思うでしょうか
559
いにしへの
 秋
の夕べの
 恋しきに
 はと見えし
 明けぐれの夢
〔夕霧〕昔お姿を拝した秋の夕暮が恋しいのにつけても
御臨終の薄暗がりの中でお顔を見たのが夢のような気がする
560
いにしへの
 秋
さへ
 心地して
 濡れにし袖に
 ぞおきそふ
〔致仕の大臣=かつての頭中将〕昔の秋までが今のような気がして
涙に濡れた袖の上にまた涙を落としています
561
けさは
 昔とも
 おもほえず
 おほかた
 夜こそつらけれ
〔源氏〕涙に濡れていますことは昔も今もどちらも同じです
だいたい秋の夜というのが堪らない思いがするのです
562
枯れ果つる
 野辺を憂しとや
 亡き人の
 に心を
 とどめざりけむ
〔斎宮〕枯れ果てた野辺を嫌ってか、亡くなられたお方は
秋をお好きにならなかったのでしょうか
563
昇りにし
 雲居ながらも
 かへり見よ
 われ飽きはてぬ
 常ならぬ世に
〔源氏〕煙となって昇っていった雲居からも振り返って欲しい
わたしはこの無常の世にすっかり飽きてしまいました
 
 

幻 26首

  内訳:19(源氏)、2(中将の君②=源氏に仕える女房)、1×5(蛍兵部卿宮、明石、花散里、夕霧、導師)
  →【逐語分析
564
わが宿は
 もてはやす
 人もなし
 何にか春の
 たづね来つらむ
〔源氏〕わたしの家には花を喜ぶ人もいませんのに
どうして春が訪ねて来たのでしょう
565
香をとめて
 来つるかひなく
 おほかたの
 のたよりと
 言ひやなすべき
〔蛍兵部卿宮:源氏弟〕梅の香を求めて来たかいもなくありきたりの
花見とおっしゃるのですか
566
憂き世には
 雪消えなむと
 思ひつつ
 思ひの外に
 なほぞほどふる
〔源氏〕つらいこの世からは姿を消してしまいたいと思いながらも
心外にもまだ月日を送っていることだ
567
植ゑて見し
 花のあるじも
 なき宿に
 知らず顔にて
 来ゐる鴬
〔源氏〕植えて眺めた花の主人もいない宿に
知らない顔をして来て鳴いている鴬よ
568
今はとて
 荒らしや果てむ
 亡き人の
 心とどめし
 春の垣根を
〔源氏〕いよいよ出家するとなるとすっかり荒れ果ててしまうのだろうか
亡き人が心をこめて作った春の庭も
569
なくなく
 帰りにしかな
 
 いづこもつひの
 常ならぬに
〔源氏〕泣きながら帰ってきたことです、この仮の世は
どこもかしこも永遠の住まいではないので
570
がゐし
 苗代水の
 絶えしより
 映りし花の
 影をだに見ず
〔明石〕雁がいた苗代水がなくなってからは
そこに映っていた花の影さえ見ることができません
571
夏衣
 裁ち替へてける
 今日ばかり
 古き思ひも
 すすみやはせぬ
〔花散里〕夏の衣に着替えた今日だけは
昔の思いも思い出しませんでしょうか
572
羽衣
 薄きに変はる
 今日よりは
 空蝉の世ぞ
 いとど悲しき
〔源氏〕羽衣のように薄い着物に変わる今日からは
はかない世の中がますます悲しく思われます
573
さもこそは
 よるべの水に
 水草ゐめ
 今日のかざしよ
 名さへ忘るる
〔中将の君②:源氏に仕える女房〕いかにもよるべの水も古くなって水草が生えていましょう
今日の插頭の名前さえ忘れておしまいになるとは
574
おほかたは
 思ひ捨ててし
 世なれども
 はなほや
 摘みをかすべき
〔源氏〕だいたいは執着を捨ててしまったこの世ではあるが
この葵はやはり摘んでしまいそうだ
575
亡き人を
 偲ぶる宵の
 村雨に
 濡れてや来つる
 山ほととぎす
〔源氏〕亡き人を偲ぶ今宵の村雨に
濡れて来たのか、山時鳥よ
576
ほととぎす
 君につてなむ
 ふるさとの
 花橘
 今ぞ盛りと
〔夕霧〕時鳥よ、あなたに言伝てしたい
古里の橘の花は今が盛りですよと
577
つれづれ
 わが泣き暮らす
 夏の日を
 かことがましき
 虫の声かな
〔源氏〕することもなく涙とともに日を送っている夏の日を
わたしのせいみたいに鳴いている蜩の声だ
578
夜を知る
 蛍を見ても
 悲しきは
 時ぞともなき
 思ひなりけり
〔源氏〕夜になったことを知って光る螢を見ても悲しいのは
昼夜となく燃える亡き人を恋うる思いであった
579
七夕の
 逢ふ瀬は雲の
 よそに見て
 別れの庭に
 露ぞおきそふ
〔源氏〕七夕の逢瀬は雲の上の別世界のことと見て
その後朝の別れの庭の露に悲しみの涙を添えることよ
580
恋ふる
 涙
は際も
 なきものを
 今日をば何の
 果てといふらむ
〔中将の君②=源氏に仕える女房〕ご主人様を慕う涙は際限もないものですが
今日は何の果ての日と言うのでしょう
581
恋ふる
 わが身も末に
 なりゆけど
 残り多かる
 なりけり
〔源氏〕人を恋い慕うわが余命も少なくなったが
残り多い涙であることよ
582
もろともに
 おきゐし菊の
 白露も
 一人袂に
 かかる秋かな
〔源氏〕一緒に起きて置いた菊のきせ綿の朝露も
今年の秋はわたし独りの袂にかかることだ
583
大空を
 かよふ
 夢にだに
 見えこぬ魂の
 行方たづねよ
〔源氏〕大空を飛びゆく幻術士よ、夢の中にさえ
現れない亡き人の魂の行く方を探してくれ
584
宮人は
 豊明といそぐ
 今日
 日影も知らで
 暮らしつるかな
〔源氏〕宮人が豊明の節会に夢中になっている今日
わたしは日の光〔影〕も知らないで暮らしてしまったな
585
死出の山
 越えにし人を
 慕ふとて
 跡を見つつも
 なほ惑ふかな
〔源氏〕死出の山を越えてしまった人を恋い慕って行こうとして
その跡を見ながらもやはり悲しみにくれまどうことだ
586
かきつめて
 見るもかひなし
 藻塩草
 同じ雲居の
 煙とをなれ
〔源氏〕かき集めて見るのも甲斐がない、この手紙も
本人と同じく雲居の煙となりなさい
587
春までの
 命も知ら
 のうちに
 色づく梅を
 今日かざしてむ
〔源氏〕春までの命もあるかどうか分からないから
雪の中に色づいた紅梅を今日は插頭にしよう
588
の春
 見るべき花と
 祈りおきて
 わが身ぞ
 ともにふりぬる
〔導師〕千代の春を見るべくあなたの長寿を祈りおきましたが
わが身は降る雪とともに年ふりました
589
もの思ふと
 過ぐる日も
 知らぬまに
 年もわが
 今日尽きぬる
〔源氏〕物思いしながら過ごし月日のたつのも知らない間に
今年も自分の寿命も今日が最後になったか
 
 

匂兵部卿(におうひょうぶきょう) 1首

  内訳:1(薫=柏木の子=頭中将の孫)
  →【逐語分析
590
おぼつかな
 誰れに問はまし
 いかにして
 初めも果ても
 知らぬわが身ぞ
〔薫:柏木の子〕はっきりしないことだ、誰に尋ねたらよいものか
どうして初めも終わりも分からない身の上なのだろう
 
 

紅梅(こうばい) 4首

  内訳:2×2(紅梅大納言=按察使大納言=柏木弟、匂宮=匂兵部卿 =今上帝三宮)
  →【逐語分析
591
心ありて
 風の匂はす
 園の
 まづ鴬の
 はずやあるべき
〔紅梅大納言:柏木弟〕考えがあって風が匂わす園の梅に
さっそく鴬が来ないことがありましょうか
592
花の香
 誘はれぬべき
 身なりせば
 風のたよりを
 過ぐさましやは
〔匂宮:今上三宮〕花の香に誘われそうな身であったら
風の便りをそのまま黙っていましょうか
593
本つ
 へる君が
 袖触れ
 もえならぬ
 名をや散らさむ
〔紅梅大納言〕もともとの香りが匂っていらっしゃるあなたが袖を振ると
花も素晴らしい評判を得ることでしょう
594
花の香
 匂はす宿に
 めゆかば
 色にめづとや
 人の咎めむ
〔匂宮〕花の香を匂わしていらっしゃる宿に訪ねていったら
好色な人だと人が咎めるのではないでしょうか
 
 

竹河 24首

  内訳:5()、5(蔵人少将=夕霧の子)、2×3(宰相の君、藤侍従、鬚黒長女:通称大君)、1×8(内の人=簾中の女房(新大系)・玉鬘邸の侍女(全集)、鬚黒次女:中の君:内裏の君、大輔君:中の君方女房、中の君方童女、なれき=大君方童女、中将=中将の御許:大君方女房、※玉鬘:大君母vs中将の御許or大君侍女(通説)、内の人=うち:女房(新大系・集成)、大君侍女(全集))
  →【逐語分析
595
折りて見ば
 いとど匂ひも
 まさるやと
 すこし色めけ
 梅の初花
〔宰相の君と聞こゆる上臈:大君方女房〕手折ってみたらますます匂いも勝ろうかと
もう少し色づいてみてはどうですか、梅の初花
596
よそにては
 もぎ木なりとや
 定むらむ
 下に匂へる
 梅の初花
〔薫:柏木の子〕傍目には枯木だと決めていましょうが
心の中は咲き匂っている梅の初花ですよ
597
人はみな
 に心を
 移すらむ
 一人ぞ惑ふ
 春の夜の闇
〔蔵人少将:夕霧の子〕人はみな花に心を寄せているのでしょうが
わたし一人は迷っております、春の夜の闇の中で
598
をりからや
 あはれも知らむ
 梅の
 ただ香ばかりに
 移りしもせじ
〔内の人=簾中の女房(新大系)・玉鬘邸の侍女(全集)〕
時と場合によって心を寄せるものです
ただ梅の花の香りだけにこうも引かれるものではありませんよ
599
竹河
 橋うちいでし
 一
 深き心の
 底は知りきや
〔薫〕竹河の歌を謡ったあの文句の一端から
わたしの深い心のうちを知っていただけましたか
600
竹河
 夜を更かさじと
 いそぎしも
 いかなる
 思ひおかまし
〔藤侍従:玉鬘の子・薫のいとこ〕竹河を謡って夜を更かすまいと急いでいらっしゃったのも
どのようなことを心に止めておけばよいのでしょう
601
桜ゆゑ
 風に心の
 騒ぐかな
 思ひぐまなき
 と見る見る
〔負方の姫君=鬚黒長女:通称大君〕桜のせいで吹く風ごとに気が揉めます
わたしを思ってくれない花だと思いながらも
602
咲くと見て
 かつはりぬる
 なれば
 負くるを深き
 恨みともせず
〔御方の宰相の君=大君方女房〕咲いたかと見ると一方では散ってしまう花なので
負けて木を取られたことを深く恨みません
603
風に
 ことは世の常
 枝ながら
 移ろふ
 ただにしも見じ
〔右の姫君=鬚黒次女:中の君〕風に散ることは世の常のことですが、枝ごとそっくり
こちらの木になった花を平気で見ていられないでしょう
604
心ありて
 池のみぎはに
 落つる
 あわとなりても
 わが方に寄れ
〔大輔の君=中の君方女房〕こちらに味方して池の汀に散る花よ
水の泡となってもこちらに流れ寄っておくれ
605
大空の
 風にれども
 桜花
 おのがものとぞ
 かきつめて見る
〔勝方の童=中の君方の童女〕大空の風に散った桜の花を
わたしのものと思って掻き集めて見ました
606
桜花
 匂ひあまたに
 らさじと
 おほふばかりの
 袖はありやは
〔左のなれき=大君方の童女〕桜の花のはなやかな美しさを方々に散らすまいとしても
大空を覆うほど大きな袖がございましょうか
607
贈:
つれなくて
 過ぐる月日を
 かぞへつつ
 もの恨めしき
 暮の春かな
〔薫→藤侍従〕わたしの気持ちを分かっていただけずに過ぎてゆく年月を数えていますと
恨めしくも春の暮になりました
608
いでやなぞ
 数ならぬ身に
 かなはぬは
 人に負けじの
 なりけり
〔蔵人少将:夕霧の子〕いったい何ということか、物の数でもない身なのに
かなえることができないのは負けじ魂だとは
609
わりなしや
 強きによらむ
 勝ち負け
 一つに
 いかがまかする
〔中将=中将の御許:大君方女房(全集)〕無理なこと、強い方が勝つ勝負事を
あなたのお心一つでどうなりましょう
610
あはれとて
 手を許せかし
 生き死にを
 君にまかする
 わが身とならば
〔蔵人少将〕かわいそうだと思って、姫君をわたしに許してください
この先の生死はあなた次第のわが身と思われるならば
611
を見て
 春は暮らしつ
 今日よりや
 しげき嘆きの
 下に惑はむ
〔蔵人少将→大君(旧大系・全集)、玉鬘(渋谷)〕
花を見て春は過ごしました。今日からは
茂った木の下で途方に暮れることでしょう
612
代答
今日ぞ知る
 空を眺むる
 けしきにて
 に心を
 移しけりとも
〔玉鬘?=御前・尚侍の君:大君母※
?「中将御許」旧大系「中将のおもとの代作であろう」新大系・集成
「別の女房の作か」「大君の侍女」全集〕
今日こそ分かりました、空を眺めているようなふりをして
花に心を奪われていらしたのだと
613
あはれてふ
 常ならぬ
 一言
 いかなる人に
 かくるものぞは
〔鬚黒長女:通称大君〕あわれという一言も、この無常の世に
いったいどなたに言い掛けたらよいのでしょう
614
生ける
 死には心に
 まかせねば
 聞かでややまむ
 君が一言
〔蔵人少将〕生きているこの世の生死は思う通りにならないので
聞かずに諦めきれましょうか、あなたのあわれという一言を
615
手にかくる
 ものにしあらば
 藤の花
 松よりまさる
 色を見ましや
〔薫〕手に取ることができるものなら、藤の花の
松の緑より勝れた色を空しく眺めていましょうか
616
紫の
 色はかよへど
 藤の花
 心にえこそ
 かからざりけれ
〔藤侍従〕紫の色は同じだが、あの藤の花は
わたしの思う通りにできなかったのです
617
竹河
 その夜のことは
 思ひ出づや
 しのぶばかりの
 節はなけれど
〔内の人=うち:女房(新大系・集成)、大君侍女(全集)〕
竹河を謡ったあの夜のことは覚えていらっしゃいますか
思い出すほどの出来事はございませんが
618
流れての
 頼めむなしき
 竹河
 世は憂きものと
 思ひ知りにき
〔薫〕今までの期待も空しいとことと分かって
世の中は嫌なものだとつくづく思い知りました
 
 

橋姫 13首

  内訳:3×3(八の宮=源氏の異母弟、八宮長女=通称大君、薫=柏木の子)、2(柏木=頭中将の子)、1×2(八宮次女=若君=中君、冷泉院)
  →【逐語分析
619
うち捨てて
 つがひ去りにし
 水鳥の
 仮のこの世
 たちおくれけむ
〔八の宮:源氏の異母弟〕見捨てて去って行ったつがいでいた水鳥の
雁ははかないこの世に子供を残して行ったのだろうか
620
いかでかく
 巣立ちけるぞと
 思ふにも
 憂き水鳥の
 契りをぞ知る
〔八宮長女:姫君・通称大君〕どうしてこのように大きくなったのだろうと思うにも
水鳥のような辛い運命が思い知られます
621
泣く泣く
 羽うち着する
 君なく
 われぞ巣守に
 なりは果てまし
〔八宮次女:若君=中君〕泣きながらも羽を着せかけてくださるお父上がいらっしゃらなかったら
わたしは大きくなることはできなかったでしょうに
622
見し人も
 宿も煙に
 なりにしを
 何とてわが身
 消え残りけむ
〔八の宮〕北の方も邸も煙となってしまったが
どうしてわが身だけがこの世に生き残っているのだろう
623
世を厭ふ
 
 かよへども
 八重立つ雲を
 君や隔つる
〔冷泉院〕世を厭う気持ちは宇治山に通じておりますが
幾重にも雲であなたが隔てていらっしゃるのでしょうか
624
あと絶えて
 澄むとは
 なけれども
 世を宇治
 宿をこそ借れ
〔八の宮〕世を捨てて悟り澄ましているのではありませんが
世を辛いものと思い宇治山に暮らしております
625
おろしに
 耐へぬ木の葉の
 露よりも
 あやなくもろき
 わが涙かな
〔薫〕山颪の風に堪えない木の葉の露よりも
妙にもろく流れるわたしの涙よ
626
あさぼらけ
 家も見えず
 尋ね来し
 槙の尾
 こめてけり
〔薫〕夜も明けて行きますが帰る家路も見えません
尋ねて来た槙の尾山は霧が立ち込めていますので
627
雲のゐる
 峰のかけ
 秋
 いとど隔つる
 ころにもあるかな
〔八宮長女〕雲のかかっている山路を秋霧が
ますます隔てているこの頃です
628
橋姫
 心を汲みて
 高瀬さす
 棹のしづく
 ぞ濡れぬる
〔薫〕姫君たちのお寂しい心をお察しして
浅瀬を漕ぐ舟の棹の、涙で袖が濡れました
629
さしかへる
 宇治の河長
 朝夕の
 しづく
 朽たし果つらむ
〔八宮長女〕棹さして何度も行き来する宇治川の渡し守は朝夕の雫に
濡れてすっかり袖を朽ちさせていることでしょう
630
贈:
目の前に
 この世を背く
 君よりも
 よそに別るる
 ぞ悲しき
〔柏木→女三宮〕目の前にこの世をお背きになるあなたよりも
お目にかかれずに死んで行くわたしの魂のほうが悲しいのです
631
贈:
命あらば
 それとも見まし
 人知れぬ
 岩根にとめし
 松の生ひ末
〔柏木→女三宮〕生きていられたら、それをわが子だと見ましょうが
誰も知らない岩根に残した松の成長ぶりを
 
 

椎本(しいがもと) 21首

  内訳:5×3(匂宮=今上帝三宮、薫、八宮長女=通称大君)、4(八宮次女=中の君=中の宮)、2(八の宮=源氏の異母弟)
  →【逐語分析
632

 霞吹きとく
 声はあれど
 てて見ゆる
 遠方の白
〔八の宮:源氏の異母弟→薫〕山風に乗って霞を吹き分ける笛の音は聞こえますが
隔てて見えますそちらの白波です
633
代答
遠方こちの
 汀に
 つとも
 なほ吹きかよへ
 宇治の川
〔匂宮:今上三宮〕そちらとこちらの汀に波は隔てていても
やはり吹き通いなさい宇治の川風よ
634

 匂ふあたりに
 尋ね来て
 同じかざしを
 折りてけるかな
〔匂宮〕山桜が美しく咲いている辺りにやって来て
同じこの地の美しい桜を插頭しに手折ったことです
635
かざし折る
 花のたよりに
 賤の
 垣根を過ぎぬ
 春の旅人
〔八宮次女:中の君〕插頭の花を手折るついでに、山里の家は
通り過ぎてしまう春の旅人なのでしょう
636
われなくて
 草の庵は
 荒れぬとも
 このひとことは
 かれじとぞ思ふ
〔八の宮〕わたしが亡くなって草の庵が荒れてしまっても
この一言の約束だけは守ってくれようと存じます
637
いかならむ
 にかかれせむ
 長き
 契りむすべる
 草の庵は
〔薫〕どのような世になりましても訪れなくなることはありません
この末長く約束を結びました草の庵には
638
鹿鳴く
 秋の山里
 いかならむ
 小萩が露の
 かかる夕暮
〔匂宮→中の君〕牡鹿の鳴く秋の山里はいかがお暮らしでしょうか
小萩に露のかかる夕暮時は
639
代答
涙のみ
 りふたがれる
 山里
 籬に鹿
 諸声に鳴く
〔大君代作(中の君)〕涙ばかりで霧に塞がっている山里は
籬に鹿が声を揃えて鳴いております
640

 友まどはせる
 鹿の音を
 おほかたにやは
 あはれとも聞く
〔匂宮〕朝霧に友を見失った鹿の声を
ただ世間並にしみじみと悲しく聞いておりましょうか
641
色変はる
 浅茅を見ても
 墨染に
 やつるる
 思ひこそやれ
〔薫〕色の変わった浅茅を見るにつけても墨染に
身をやつしていらっしゃるお姿をお察しいたします
642
色変はる
 袖
をば露の
 宿りにて
 わが身ぞさらに
 置き所なき
〔八宮長女:通称大君〕喪服に色の変わった袖に露はおいていますが
わが身はまったく置き所もありません
643
秋霧の
 晴れぬ雲居に
 いとどしく
 この世をかり
 言ひ知らすらむ
〔薫〕秋霧の晴れない雲居でさらにいっそう
この世を仮の世だと鳴いて知らせるのだろう
644
君なくて
 岩のかけ道
 絶えしより
 をも
 なにとかは見る
〔八宮長女:通称大君〕父上がお亡くなりになって岩の険しい山道も絶えてしまった今
松の雪を何と御覧になりますか
645
奥山の
 葉に積もる
 とだに
 消えにし人を
 思はましかば
〔八宮次女:中の宮〕奥山の松葉に積もる雪とでも
亡くなった父上を思うことができたらうれしゅうございます
646
雪深き
 山
のかけはし
 君ならで
 またふみかよふ
 跡を見ぬかな
〔八宮長女:通称大君〕雪の深い山の懸け橋は、あなた以外に
誰も踏み分けて訪れる人はございません
647
つららとぢ
 駒ふみしだく
 川を
 しるべしがてら
 まづや渡らむ
〔薫〕氷に閉ざされて馬が踏み砕いて歩む山川を
宮の案内がてら、まずはわたしが渡りましょう
648
立ち寄らむ
 蔭と頼みし
 椎が本
 空しき床に
 なりにけるかな
〔薫〕立ち寄るべき蔭とお頼りしていた椎の本は
空しい床になってしまったな
649
唱:贈
君が折る
 峰の蕨と
 見ましかば
 知られやせまし
 春のしるしも
〔?八宮長女:大君〕父宮が摘んでくださった峰の蕨でしたら
これを春が来たしるしだと知られましょうに
650
唱:答
雪深き
 汀の小芹
 誰がために
 摘みかはやさむ
 親なしにして
〔?八宮次女:中の君〕雪の深い汀の小芹も誰のために摘んで楽しみましょうか
親のないわたしたちですので
651
つてに見し
 宿の桜を
 この春は
 隔てず
 りてかざさむ
〔匂宮〕この前は、事のついでに眺めたあなたの桜を
今年の春は霞を隔てず手折ってかざしたい
652
いづことか
 尋ねてらむ
 墨染に
 みこめたる
 宿の桜を
〔八宮次女:中君〕どこと尋ねて手折るのでしょう
墨染に霞み籠めているわたしの桜を
 
 

総角(あげまき) 31首

  内訳:12(薫=柏木の子)、7(匂宮=今上三宮)、5(八宮長女=通称大君)、4(八宮次女=中の君=中の宮)、1×3(宰相中将、衛門督、宮大夫)
  →【逐語分析
653
あげまき
 長き契りを
 結
びこめ
 同じ所に
 縒りもはなむ
〔薫〕総角に末長い契りを結びこめて
一緒になって会いたいものです
654
ぬきもへず
 もろき涙の
 玉の緒
 長き契りを
 いかがばむ
〔八宮長女:通称大君〕貫き止めることもできないもろい涙の玉の緒に
末長い契りをどうして結ぶことができましょう
655
山里の
 あはれ知らるる
 声々に
 とりあつめたる
 朝ぼらけかな
〔薫〕山里の情趣が思い知られます鳥の声々に
あれこれと思いがいっぱいになる朝け方ですね
656
鳥の音も
 聞こえぬ山と
 思ひしを
 世の憂きことは
 訪ね来にけり
〔八宮長女:女君〕鳥の声も聞こえない山里と思っていましたが
人の世の辛さは後を追って来るものですね
657
おなじ枝を
 分きてめける
 山姫
 いづれか深き
 色と問はばや
〔薫〕同じ枝を分けて染めた山姫を
どちらが深い色と尋ねましょうか
658
山姫
 むる心は
 わかねども
 移ろふ方や
 深きなるらむ
〔八宮長女〕山姫が染め分ける心はわかりませんが
色変わりしたほうに深い思いを寄せているのでしょう
659
女郎花
 咲ける大野を
 ふせぎつつ
 せばくや
 しめを結ふらむ
〔匂宮:今上三宮〕女郎花が咲いている大野に人を入れまいと
どうして心狭く縄を張り廻らしなさるのか
660
霧深き
 朝の原の
 女郎花
 を寄せて
 見る人ぞ見る
〔薫〕霧の深い朝の原の女郎花は
深い心を寄せて知る人だけが見るのです
661
しるべせし
 我やかへりて
 惑ふべき
 もゆかぬ
 明けぐれの
〔薫〕道案内をしたわたしがかえって迷ってしまいそうです
満ち足りない気持ちで帰る明け方の暗い道を
662
かたがたに
 くらす
 思ひやれ
 人やりならぬ
 に惑はば
〔八宮長女:通称大君〕それぞれに思い悩むわたしの気持ちを思ってみてください
自分勝手に道にお迷いならば
663
贈:
世の常に
 思ひやすらむ
 露深き
 の笹原
 分けて来つるも
〔匂宮→八宮次女:中君〕世にありふれたことと思っていらっしゃるのでしょうか
露の深い道の笹原を分けて来たのですが
664
小夜衣
 着て馴れきとは
 言はずとも
 かことばかり
 かけずしもあらじ
〔薫〕小夜衣を着て親しくなったとは言いませんが
いいがかりくらいはつけないでもありません
665
隔てなき
 心ばかり
 通ふとも
 馴れとは
 かけじとぞ思ふ
〔八宮長女:通称大君〕隔てない心だけは通い合いましょうとも
馴れ親しんだ仲などとはおっしゃらないでください
666
中絶えむ
 ものならなくに
 姫の
 片敷く
 夜半に濡らさむ
〔匂宮〕中が切れようとするのでないのに
あなたは独り敷く袖は夜半に濡らすことだろう
667
絶えせじの
 わが頼みにや
 宇治
 遥けきなかを
 待ちわたるべき
〔八宮次女:中君〕切れないようにとわたしは信じては
宇治橋の遥かな仲をずっとお待ち申しましょう
668
いつぞやも
 花の盛りに
 一目見し
 木のもとさへや
 は寂しき
〔宰相の中将=蔵人少将(全集):夕霧の子〕
いつだったか花の盛りに一目見た木のもとまでが
秋はお寂しいことでしょう
669
桜こそ
 思ひ知らすれ
 咲き匂ふ
 花も紅葉も
 常ならぬ世を
〔中納言=薫〕桜は知っているでしょう
咲き匂う花も紅葉も常ならぬこの世を
670
いづこより
 は行きけむ
 山里の
 紅葉の蔭は
 過ぎ憂きものを
〔衛門督=脇役〕どこから秋は去って行くのでしょう
山里の紅葉の蔭は立ち去りにくいのに
671
見し人も
 なき山里の
 岩垣に
 心長くも
 這へる葛かな
〔宮の大夫=脇役〕お目にかかったことのある方も亡くなった
山里の岩垣に気の長く這いかかっている蔦よ
672
はてて
 寂しさまさる
 木のもとを
 吹きな過ぐしそ
 峰の松風
〔匂宮〕秋が終わって寂しさがまさる木のもとを
あまり烈しく吹きなさるな、峰の松風よ
673
贈:
若草の
 ね見むものとは
 思はねど
 むすぼほれたる
 心地こそすれ
〔匂宮→女一の宮(明石中宮娘・匂同腹)〕若草のように美しいあなたと共寝をしてみようとは思いませんが
悩ましく晴れ晴れしない気がします
674
眺むる
 同じ雲居を
 いかなれば
 おぼつかなさを
 添ふる時雨ぞ
〔匂宮〕眺めているのは同じ空なのに
どうしてこうも会いたい気持ちをつのらせる時雨なのか
675
霰降る
 深山の里は
 朝夕に
 眺むる空も
 かきくらしつつ
〔八宮次女:中君〕霰が降る深山の里は朝夕に
眺める空もかき曇っております
676
さゆる
 汀の千鳥
 うちわびて
 鳴く音悲しき
 朝ぼらけかな
〔薫〕霜が冷たく凍る汀の千鳥が堪えかねて
寂しく鳴く声が悲しい、明け方ですね
677
暁の
 うち払ひ
 鳴く千鳥
 もの思ふ人の
 をや知る
〔八宮次女:中君〕明け方の霜を払って鳴く千鳥も
悲しんでいる人の心が分かるのでしょうか
678
かき曇り
 日かげも見えぬ
 奥山に
 をくらす
 ころにもあるかな
〔薫〕かき曇って日の光も見えない奥山で
心を暗くする今日このごろだ
679
くれなゐに
 落つる涙も
 かひなきは
 形見の色を
 染めぬなりけり
〔薫〕紅色に落ちる涙が何にもならないのは
形見の喪服の色を染めないことだ
680
おくれじと
 空ゆく月
 慕ふかな
 つひに住むべき
 この世ならねば
〔薫〕後れまいと空を行く月が慕われる
いつまでも住んでいられないこの世なので
681
恋ひわび
 死ぬる薬
 ゆかしきに
 雪の山にや
 跡を消なまし
〔薫〕恋いわびて死ぬ薬が欲しいゆえに
雪の山に分け入って跡を晦ましてしまいたい
682
来し方を
 思ひ出づるも
 はかなきを
 行く末かけて
 なに頼むらむ
〔八宮次女:中君〕過ぎ去ったことを思い出しても頼りないのに
将来までどうして当てになりましょう
683
行く末
 短きものと
 思ひなば
 目の前にだに
 背かざらなむ
〔匂宮〕将来が短いものと思ったら
せめてわたしの前だけでも背かないでほしい
 
 

早蕨(さわらび) 15首

  内訳:5(薫=柏木の子)、4(八宮次女=中君)、2(弁=老尼=柏木乳母子)、1×4(阿闍梨、匂宮、大輔の君=中君方女房、いま一人=女房②)
  →【逐語分析
684
君にとて
 あまたの
 みしかば
 常を忘れぬ
 初なり
〔阿闍梨〕わが君にと思って毎年毎年の春に摘みましたので
今年も例年どおりの初蕨です
685
この
 誰れにか見せむ
 亡き人の
 かたみにめる
 峰の早蕨
〔八宮次女:中君〕今年の春は誰にお見せしましょうか
亡きお方の形見として摘んだ峰の早蕨を
686
折る人の
 心にかよふ
 なれや
 色には出でず
 下に匂へる
〔匂宮:今上三宮〕折る人の心に通っている花なのだろうか
表には現さないで内に匂いを含んでいる
687
見る人に
 かこと寄せける
 の枝を
 心してこそ
 折るべかりけれ
〔薫〕見る人に言いがかりをつけられる花の枝は
注意して折るべきでした
688
贈:
はかなしや
 霞の衣
 裁ちしまに
 のひもとく
 も来にけり
〔薫→中君〕早いものですね、霞の衣を作ったばかりなのに
もう花が綻ぶ季節となりました
689
見る人も
 あらしにまよふ
 山里に
 昔おぼゆる
 花の香
ぞする
〔中君〕花を見る人もいなくなってしまいましょうに、嵐に吹き乱れる山里に
昔を思い出させる花の香が匂って来ます
690
袖ふれ
 梅は変はらぬ
 匂ひにて
 根ごめ移ろふ
 宿やことなる
〔薫〕昔賞美された梅は今も変わらぬ匂いですが
根ごと移ってしまう邸は他人の所なのでしょうか
691
さきに立つ
 涙の川に
 身を投げ

 人におくれぬ
 命ならまし
〔弁=老尼・柏木の乳母子〕先に立つ涙の川に身を投げたら
死に後れしなかったでしょうに
692
身を投げ
 涙の川に
 沈みても
 恋しき瀬々に
 忘れしもせじ
〔薫:柏木の子〕身を投げるという涙の川に沈んでも
恋しい折々を忘れることはできまい
693
人はみな
 いそぎたつめる
 の浦に
 一人藻
 垂るる海人かな
〔弁=老尼〕人びとは皆準備に忙しく繕い物をしているようですが
一人藻塩を垂れて涙に暮れている尼の私です
694
塩垂るる
 海人
の衣に
 異なれや
 浮きたる波に
 濡るるわが
〔八宮次女:中君〕藻塩を垂れて涙に暮れるあなたと同じです
浮いた波に涙を流しているわたしは
695
ありふれば
 うれしき瀬にも
 逢ひけるを
 身を宇治川に
 投げてましかば
〔大輔の君=中君方女房〕生きていたので嬉しい事に出合いました
身を厭いて宇治川に投げてしまいましたら
696
過ぎにしが
 恋しきことも
 忘れねど
 今日はたまづも
 ゆく心かな
〔いま一人=中君方女房②〕亡くなった方を恋しく思う気持ちは忘れませんが
今日は何をさしおいてもまず嬉しく存じられます
697
眺むれば
 より出でて
 行く月も
 世に住みわびて
 にこそ入れ
〔八宮次女:中君〕考えると山から出て昇って行く月も
この世が住みにくくて山に帰って行くのだろう
698
しなてるや
 鳰の湖に
 漕ぐ舟の
 まほならねども
 あひ見しものを
〔薫〕しなてる琵琶湖の湖に漕ぐ舟のように
まともではないが一夜会ったこともあったのに
 
 

宿木(やどりぎ) 24首

  内訳:10(柏木の子)、5(八宮次女)、2×2(匂宮、今上帝)、1×5(夕霧(通説)=頭中将(夕霧息子)代作、落葉宮=継母の宮:六の君(夕霧六女)の継母、弁=老尼、按察使君:按察の君、按察使大納言=紅梅大納言)
  →【逐語分析
699
世の常の
 垣根に匂ふ
 花ならば
 心のままに
 折りて
見ましを
〕世間一般の家の垣根に咲いている花ならば
思いのままに手折って賞美すことができましょうものを
700
霜にあへず
 枯れにし園の
 菊なれど
 残りの色は
 あせずもあるかな
今上帝〕霜に堪えかねて枯れてしまった園の菊であるが
残りの色は褪せていないな
701
の間の
 色にや賞でむ
 置く露の
 消えぬにかかる
 見る見る
〔薫〕今朝の間の色を賞美しようか、置いた露が
消えずに残っているわずかの間に咲く花と思いながら
702
よそへてぞ
 見るべかりける
 白露の
 契りかおきし
 顔の
〔薫〕あなたを姉君と思って自分のものにしておくべきでした
白露が約束しておいた朝顔の花ですから
703
消えぬまに
 枯れぬる
 はかなさに
 おくるる
 なほぞまされる
〔八宮次女:中君〕露の消えない間に枯れてしまう花のはかなさよりも
後に残る露はもっとはかないことです
704
代贈:
大空の
 月だに宿る
 わが宿に
 待つ宵過ぎて
 見えぬ君かな
〔夕霧(通説)・頭中将(夕霧息子)代作→匂宮〕
大空の月でさえ宿るわたしの邸にお待ちする
宵が過ぎてもまだお見えにならないあなたですね
705
山里の
 の蔭にも
 かくばかり
 身にしむ秋の
 風はなかりき
〔八宮次女:中君〕山里の松の蔭でもこれほどに
身にこたえる秋の風は経験しなかった
706
代贈:
女郎花
 しをれぞまさる
 朝露の
 いかに置きける
 名残なるらむ
〔落葉宮=継母の宮代作(六の君)→匂宮〕
女郎花が一段と萎れています
朝露がどのように置いていったせいなのでしょうか
707
おほかたに
 聞かましものを
 ひぐらしの
 声恨めしき
 秋の暮かな
〔八宮次女:中君〕宇治にいたら何気なく聞いただろうに
蜩の声が恨めしい秋の暮だこと
708
うち渡し
 世に許しなき
 関川
 みなれそめけむ
 名こそ惜しけれ
〔按察の君=女三宮侍女〕いったいに世間から認められない仲なのに
お逢いし続けているという評判が立つのが辛うございます
709
深からず
 上は見ゆれど
 関川
 下の通ひは
 絶ゆるものかは
〔薫〕深くないように表面は見えますが
心の底では愛情の絶えることはありません
710
贈:
いたづらに
 分けつる道の
 露しげみ
 昔おぼゆる
 秋の空かな
〔薫→中君〕無駄に歩きました道の露が多いので
昔が思い出されます秋の空模様ですね
711
また人に
 馴れける袖の
 移り香

 わが身にしめて
 恨みつるかな
〔匂宮〕他の人に親しんだ袖の移り香か
わが身にとって深く恨めしいことだ
712
みなれぬる
 中の衣と
 頼めしを
 かばかりにてや
 かけ離れなむ
〔八宮次女:中君〕親しみ信頼してきた夫婦の仲も
この程度の薫りで切れてしまうのでしょうか
713
贈:
結びける
 契りことなる
 下紐
 ただ一筋に
 恨みやはする
〔薫→中君〕結んだ契りの相手が違うので
今さらどうして一途に恨んだりしようか
714
宿り木
 思ひ出でずは
 のもとの
 旅寝もいかに
 さびしからまし
〔薫:柏木の子〕宿木の昔泊まった家と思い出さなかったら
木の下の旅寝もどんなにか寂しかったことでしょう
715
荒れ果つる
 朽のもとを
 宿りき
 思ひおきける
 ほどの悲しさ
〔弁:尼君・柏木の乳母子〕荒れ果てた朽木のもとを昔の泊まった家と
思っていてくださるのが悲しいことです
716
に出でぬ
 もの思ふらし
 篠薄
 招く袂の
 露しげくして
〔匂宮〕外に現さないないが、物思いをしているらしいですね
篠薄が招くので、袂の露がいっぱいですね
717
秋果つる
 野辺のけしきも
 篠薄
 のめく風に
 つけてこそ知れ
〔八宮次女:中君〕秋が終わる野辺の景色も
篠薄がわずかに揺れている風によって知られます
718
すべらきの
 かざしに折る

 
 及ばぬ枝に
 袖かけてけり
〕帝の插頭に折ろうとして藤の花を
わたしの及ばない袖にかけてしまいました
719
よろづ世を
 かけて匂はむ
 なれば
 今日をも飽かぬ
 色とこそ見れ
今上帝〕万世を変わらず咲き匂う花であるから
今日も見飽きない花の色として見ます
720
君がため
 折れるかざし

 紫の
 に劣らぬ
 のけしきか
。某(旧大系) 、夕霧の歌か(新大系・全集等の近時通説=別人ありきの推測〕
主君のため折った插頭の花は
紫の雲にも劣らない花の様子です
721
世の常の
 色とも見えず
 居まで
 たち昇りたる
 波の
〔按察使大納言=紅梅〕世間一般の花の色とも見えません
宮中まで立ち上った藤の花は
722
貌鳥
 声も聞きしに
 かよふやと
 茂みを分けて
 今日ぞ尋ぬる
〔薫〕かお鳥の声も昔聞いた声に似ているかしらと
草の茂みを分け入って今日尋ねてきたのだ
 
 

東屋 11首

  内訳:5(薫=柏木の子)、2(浮舟母=中将の君)、1×4(八宮次女=中君、左近少将=浮舟求婚者、八宮三女=通称浮舟、弁=老尼)
  →【逐語分析
723
見し人の
 形代ならば
 身に添へて
 恋しき瀬々の
 なでものにせむ
〔薫〕亡き姫君の形見ならば、いつも側において
恋しい折々の気持ちを移して流す撫物としよう
724
みそぎ河
 瀬々に出ださむ
 なでもの
 身に添ふ影と
 誰れか頼まむ
〔八宮次女:中君〕禊河の瀬々に流し出す撫物を
いつまでも側に置いておくと誰が期待しましょう
725
しめ結ひし
 小萩が上も
 迷はぬに
 いかなる
 映る下葉ぞ
〔浮舟母:中将の君③〕囲いをしていた小萩の上葉は乱れもしないのに
どうした露で色が変わった下葉なのでしょう
726
宮城野の
 小萩がもとと
 知らませば
 も心を
 分かずぞあらまし
〔左近少将:浮舟求婚者〕宮城野の小萩のもとと知っていたならば
露は少しも心を分け隔てしなかったでしょうに
727
ひたぶるに
 うれしからまし
 の中に
 あらぬ所
 思はましかば
〔浮舟〕一途に嬉しいことでしょう
ここが世の中で別の世界だと思えるならば
728
憂きには
 あらぬ所
 求めても
 君が盛りを
 見るよしもがな
〔浮舟母:中将の君③〕憂き世ではない所を尋ねてでも
あなたの盛りの世を見たいものです
729
絶え果てぬ
 清水になどか
 亡き人
 面影をだに
 とどめざりけむ
〔薫〕涸れてしまわないこの清水にどうして亡くなった人の
面影だけでもとどめておかなかったのだろう
730
さしとむる
 葎やしげき
 東屋
 あまりほど降る
 雨そそきかな
〔薫〕戸口を閉ざすほど葎が茂っているためか
東屋であまりに待たされ雨に濡れることよ
731
形見ぞと
 見るにつけては
 朝露の
 ところせきまで
 濡るる袖かな
〔薫〕故姫君の形見だと思って見るにつけ
朝露がしとどに置くように涙に濡れることだ
732
宿り木は
 色変はりぬる
 秋なれど
 おぼえて
 澄める月かな
〔弁:尼君・柏木の乳母子〕宿木は色が変わってしまった秋ですが
昔が思い出される澄んだ月ですね
733
里の名も
 ながらに
 見し人
 面変はりせる
 閨の月影
〔薫:柏木の子〕里の名もわたしも昔のままですが
昔の人が面変わりしたかと思われる閨の月【の面影】です
 
 

浮舟 22首

  内訳:13(八宮三女=通称浮舟)、6(匂宮=今上帝三宮)、3(薫=柏木の子)
  →【逐語分析
734
贈:
まだ古りぬ
 物にはあれど
 君がため
 深き心に
 待つと知らなむ
〔浮舟→中の君(浮舟姉)〕まだ古木にはなっておりませんが、若君様のご成長を
心から深くご期待申し上げております
735
長き世
 頼めてもなほ
 悲しきは
 ただ明日知ら
 なりけり
〔匂宮〕末長い仲を約束してもやはり悲しいのは
ただ明日を知らない命であるよ
736
心をば
 嘆かざらまし
 のみ
 定めなき世
 思はましかば
〔浮舟〕心変わりなど嘆いたりしないでしょう
命だけが定めないこの世と思うのでしたら
737
世に知らず
 惑ふべきかな
 先に立つ
 も道を
 かきくらしつつ
〔匂宮〕いったいどうしてよいか分からない
先に立つ涙が道を真暗にするので
738
をも
 ほどなき袖に
 せきかねて
 いかに別れを
 とどむべき身ぞ
〔浮舟〕涙も狭い袖では抑えかねますので
どのように別れを止めることができましょうか
739
宇治橋
 長き契りは
 朽ちせじを
 ぶむ方に
 心騒ぐな
〔薫〕宇治橋のように末長い約束は朽ちないから
不安に思って心配なさるな
740
絶え間のみ
 世にはふき
 宇治橋
 朽ちせぬものと
 なほ頼めとや
〔浮舟〕絶え間ばかりが気がかりでございます宇治橋なのに
朽ちないものと依然頼りにしなさいとおっしゃるのですか
741
年経とも
 変はらむものか
 橘の
 小島の崎に
 契る心は
〔匂宮〕何年たとうとも変わりません
橘の小島の崎で約束するわたしの気持ちは
742
橘の
 小島
の色は
 変はらじを
 この浮舟
 行方知られぬ
〔浮舟〕橘の小島の色は変わらないでも
この浮舟のようなわたしの身はどこへ行くのやら
743
峰の
 みぎはの氷
 踏み分けて
 君にぞ惑ふ
 道は惑はず
〔匂宮〕峰の雪や水際の氷を踏み分けて
あなたに心は迷いましたが、道中では迷いません
744
降り乱れ
 みぎはに凍る
 よりも
 中にてぞ
 我は消ぬべき
〔浮舟〕降り乱れて水際で凍っている雪よりも
はかなくわたしは中途で消えてしまいそうです
745
眺めやる
 そなたの雲も
 見えぬまで
 さへ暮るる
 ころのわびしさ
〔匂宮→浮舟〕眺めやっているそちらの方の雲も見えないくらいに
空までが真っ暗になっている今日このごろの侘しさです
746
水まさる
 遠方の
 いかならむ
 晴れぬ長
 かき暮らすころ
〔薫→浮舟749〕川の水が増す宇治の里人はどのようにお過ごしでしょうか
晴れ間も見せず長雨が降り続き、物思いに耽っていらっしゃる今日このごろ
747
の名を
 わが身に知れば
 山城の
 宇治のわたりぞ
 いとど住み憂き
〔浮舟〕里の名をわが身によそえると
山城の宇治の辺りはますます住みにくいことよ
748
かき暮らし
 晴れせぬ峰の
 雲に
 浮きて世をふる
 身をもなさばや
〔浮舟→匂宮〕真っ暗になって晴れない峰の雨雲のように
空にただよう煙となってしまいたい
749
つれづれと
 身を知る雨
 小止まねば
 さへいとど
 みかさまさりて
〔浮舟→薫〕寂しくわが身を知らされる雨が小止みもなく降り続くので
袖までが涙でますます濡れてしまいます
750
贈:
波越ゆる
 ころとも知らず
 末の松
 待つ
らむとのみ
 思ひけるかな
〔薫→浮舟〕心変わりするころとは知らずにいつまでも
待ち続けていらっしゃるものと思っていました
751
いづくにか
 身をば捨てむと
 白雲の
 かからぬ山も
 泣く泣くぞ行く
〔匂宮〕どこに身を捨てようかと捨て場も知らない、白雲が
かからない山とてない山道を泣く泣く帰って行くことよ
752
嘆きわび
 身をば捨つとも
 亡き影に
 憂き名流さむ
 ことをこそ思へ
〔浮舟〕嘆き嘆いて身を捨てても亡くなった後に
嫌な噂を流すのが気にかかる
753
からをだに
 憂き世の中に
 とどめずは
 いづこをはかと
 君も恨みむ
〔浮舟〕亡骸をさえ嫌なこの世に残さなかったら
どこを目当てにと、あなた様もお恨みになりましょう
754
贈:
後にまた
 あひ見むことを
 思はなむ
 このの夢に
 心惑はで
〔浮舟→母:中将の君〕来世で再びお会いすることを思いましょう
この世の夢に迷わないで
755
贈:
鐘の音の
 絶ゆる響きに
 音を添へて
 わが尽きぬと
 君に伝へよ
〔浮舟→母:中将の君〕鐘の音が絶えて行く響きに、泣き声を添えて
わたしの命も終わったと母上に伝えてください
 
 

蜻蛉 11首

  内訳:7(薫=柏木の子)、1×4(匂宮=今上帝三宮、小宰相の君=明石中宮女房、女房・中将のおもと、弁の御許)
  →【逐語分析
756
忍び音や
 君も泣くらむ
 かひもなき
 死出の田長
 通はば
〔薫〕忍び音にほととぎすが鳴いていますが、あなた様も泣いていらっしゃいましょうか
いくら泣いても効のない方にお心寄せならば
757
橘の
 薫る
あたりは
 ほととぎす
 してこそ
 鳴くべかりけれ
〔匂宮〕橘が薫っているところは、ほととぎすよ
気をつけて鳴くものですよ
758
我もまた
 憂き古里を
 荒れはてば
 誰れ宿り木の
 蔭をしのばむ
〔薫〕わたしもまた、嫌なこの古里を離れて、荒れてしまったら
誰がここの宿の事を思い出すであろうか
759
あはれ知る
 心は人に
 おくれねど
 数ならぬ
 消えつつぞ経る
〔小宰相の君=明石中宮女房〕お悲しみを知る心は誰にも負けませんが
一人前でもない身では遠慮して消え入らんばかりに過ごしております
760
常なしと
 ここら世を見る
 憂きだに
 人の知るまで
 嘆きやはする
〔薫〕無常の世を長年見続けて来たわが身でさえ
人が見咎めるまで嘆いてはいないつもりでしたが
761
荻の葉に
 露吹き結ぶ
 秋風も
 夕べぞわきて
 にはしみける
〔薫〕荻の葉に露が結んでいる上を吹く秋風も
夕方には特に身にしみて感じられる
762
女郎花
 乱
るる野辺に
 混じるとも
 露のあだ名
 我にかけめや
〔薫〕女郎花が咲き乱れている野辺に入り込んでも
 露に濡れたという噂をわたしにお立てになれましょうか
763
花といへば
 こそあだなれ
 女郎花
 なべての露に
 れやはする
〔障子にうしろしたる人=女・中将君(旧大系):中将のおもと(全集)〕
花と申せば名前からして色っぽく聞こえますが
女郎花はそこらの露に靡いたり濡れたりしません
764
して
 なほこころみよ
 女郎花
 盛りの色に
 らず
〔弁のおもと〕旅寝してひとつ試みて御覧なさい
女郎花の盛りの色にお心が移るか移らないか
765
宿貸さば
 一夜はなむ
 おほかたの
 花にらぬ
 なりとも
〔薫:柏木の子〕お宿をお貸しくださるなら、一夜は泊まってみましょう
そこらの花には心移さないわたしですが
766
ありと見て
 手にはとられず
 見ればまた
 行方も知らず
 消えし蜻蛉
〔薫〕そこにいると見ても、手には取ることのできない
見えたと思うとまた行く方知れず消えてしまった蜻蛉だ
 
 

手習 28首

  内訳:12(八宮三女=通称浮舟)、8(中将=妹尼の娘婿)、7(妹尼=横川僧都の妹・小野の妹尼(全集))、1(薫=頭中将の孫)
  →【逐語分析
767
身を投げし
 涙の川の
 早き瀬を
 しがらみかけて
 誰れか止めし
〔浮舟〕涙ながらに身を投げたあの川の早い流れを
堰き止めて誰がわたしを救い上げたのでしょう
768
我かくて
 憂き世の中に
 めぐるとも
 誰れかは知らむ
 月の都
〔浮舟〕わたしがこのように嫌なこの世に生きているとも
誰が知ろうか、あの月が照らしている都の人で
769
あだし野の
 風になびくな
 女郎花
 我しめ結はむ
 道遠くとも
〔中将→浮舟〕浮気な風に靡くなよ、女郎花
わたしのものとなっておくれ、道は遠いけれども
770
代答
移し植ゑて
 思ひ乱れぬ
 女郎花
 憂き世を背く
 草の庵に
〔妹尼:横川僧都の妹〕ここに移し植えて困ってしまいました、女郎花です
嫌な世の中を逃れたこの草庵で
771
松虫の
 声を訪ねて
 来つれども
 また萩原の
 に惑ひぬ
〔中将→浮舟〕松虫の声を尋ねて来ましたが
再び萩原の露に迷ってしまいました
772
代答
秋の野の
 分け来たる
 狩衣
 葎茂れる
 宿にかこつな
〔妹尼〕秋の野原の露を分けて来たため濡れた狩衣は
葎の茂ったわが宿のせいになさいますな
773
代贈
深き夜の
 月をあはれと
 見ぬ人や
 山の端近き
 宿に泊らぬ
〔妹尼代作(浮舟)〕夜更けの月をしみじみと御覧にならない方が
山の端に近いこの宿にお泊まりになりませんか
774
山の端
 入るまで月を
 眺め見む
 閨の板間も
 しるしありやと
〔中将→浮舟〕山の端に隠れるまで月を眺ましょう
その効あってお目にかかれようかと
775
忘られぬ
 昔のこと
 竹の
 つらきふしにも
 音ぞ泣かれける
〔中将〕忘れられない昔の人のことやつれない人のことにつけ
声を立てて泣いてしまいました
776
の音に
 昔のこと
 偲ばれて
 帰りしほども
 袖ぞ濡れにし
〔妹尼〕笛の音に昔のことも偲ばれまして
お帰りになった後も袖が濡れました
777
はかなくて
 世に古川の
 憂き瀬には
 尋ねも行かじ
 二本の
〔浮舟〕はかないままにこの世につらい思いをして生きているわが身は
あの古川に尋ねて行くことはいたしません、二本の杉のある
778
答:
古川の
 杉
のもとだち
 知らねども
 過ぎにし人に
 よそへてぞ見る
〔妹尼〕あなたの昔の人のことは存じませんが
わたしはあなたを亡くなった娘と思っております
779
心には
 秋の夕べを
 分かねども
 眺むる袖に
 露ぞ乱るる
〔浮舟〕わたしには秋の情趣も分からないが
物思いに耽るわが袖に露がこぼれ落ちる
780
山里の
 秋の夜深き
 あはれをも
 もの思ふ人
 思ひこそ知れ
〔中将〕山里の秋の夜更けの情趣を
物思いなさる方はご存知でしょう
781
憂きものと
 思ひも知らで
 過ぐす身を
 もの思ふ人
 人は知りけり
〔浮舟〕情けない身の上とも分からずに暮らしているわたしを
物思う人だと他人が分かるのですね
782
なきものに
 身をも人をも
 思ひつつ
 捨ててしをぞ
 さらに捨てつる
〔浮舟〕死のうとわが身をも人をも思いながら
捨てた世をさらにまた捨てたのだ
783
限りぞと
 思ひなりにし
 の中を
 返す返す
 背きぬるかな
〔浮舟〕最期と思い決めた世の中を
繰り返し背くことになったわ
784
遠く
 漕ぎ離るらむ
 海人舟に
 乗り遅れじと
 急がるるかな
〔中将〕岸から遠くに漕ぎ離れて行く海人舟に
わたしも乗り後れまいと急がれる気がします
785
心こそ
 憂き世の
 離るれど
 行方も知らぬ
 海人の浮木を
〔浮舟〕心は厭わしい世の中を離れたが
その行く方もわからず漂っている海人の浮木です
786
木枯らしの
 吹きにし
 麓には
 立ち隠すべき
 蔭だにぞなき
〔妹尼〕木枯らしが吹いた山の麓では
もう姿を隠す場所さえありません
787
待つ人も
 あらじと思ふ
 里の
 梢を見つつ
 なほぞ過ぎ憂き
〔中将〕待っている人もいないと思う山里の
梢を見ながらもやはり素通りしにくいのです
788
贈:
おほかたの
 世を背きける
 君なれど
 厭ふによせて
 身こそつらけれ
〔中将→浮舟〕一般の俗世間をお捨てになったあなた様ですが
わたしをお厭いなさるのにつけ、つらく存じられます
789
かきくらす
 野山の
 眺めても
 降りにしことぞ
 今日も悲しき
〔浮舟〕降りしきる野山の雪を眺めていても
昔のことが今日も悲しく思い出される
790
山里の
 間の若菜
 摘
みはやし
 なほ生ひ先の
 頼まるるかな
〔妹尼〕山里の雪の間に生えた若菜を摘み祝っては
やはりあなたの将来が期待されます
791
深き
 野辺の若菜
 今よりは
 君がためにぞ
 年もむべき
〔浮舟〕雪の深い野辺の若菜も今日からは
あなた様のために長寿を祈って摘みましょう
792
袖触れ
 人こそ見えね
 花の香
 それかと匂ふ
 春のあけぼの
〔浮舟〕袖を触れ合った人の姿は見えないが、花の香が
あの人の香と同じように匂って来る、春の夜明けよ
793
見し人は
 影も止まらぬ
 水の上に
 落ち添ふ涙
 いとどせきあへず
〔薫〕あの人は跡形もとどめず、身を投げたその川の面に
いっしょに落ちるわたしの涙がますます止めがたいことよ
794
尼衣
 変はれる身にや
 ありし世の
 形見に袖を
 かけて偲ばむ
〔浮舟〕尼衣に変わった身の上で、昔の形見として
この華やかな衣装を身につけて、今さら昔を偲ぼうか
 
 

夢浮橋(ゆめのうきはし) 1首

  内訳:1(薫=頭中将の孫=柏木の子)
  →【逐語分析
795
贈:
法の師と
 尋ぬる道を
 しるべにて
 思はぬ山に
 踏み惑ふかな
〔薫→浮舟〕仏法の師と思って尋ねて来た道ですが、それを道標としていたのに
思いがけない山道に迷い込んでしまったことよ