平家物語の原文全文。語り本系の12巻+灌頂巻(約36万字)の全テキスト一括取得、ブラウザでの横断検索、各章への迅速なアクセスを目的にしている。
内容は、主流の高野本(大系・全集)と対をなす米沢本(全注釈)を底本として適宜校訂したもので、一般読者や学校塾等の参考用。疑問があれば諸本で照合されたい。
現代の代表的諸本(大系・全集・全注釈・集成)は文章は同じ所でも表記はそれぞれ異なるので、語幹や前後の特有語から検索してほしい。なおもちろん、高校教科書は基本は理論的参照にはたえない(博士主体で執筆していれば別)。それは子供に合わせ記述レベルを落としているからという意味ではない。
学士修士博士は個人的違いもあるが、類型的には中高大のような思考様式の隔たりがあり(高校・大学が売りの人の言動を想起されたい)、余裕ある家庭に生まれながら試験や地位金銭を目標にするのは、人生では失策、国家では愚策。メジャーなプロスポーツと同じで中高大の小手先早成は小物化推進策。世界的第一人者は所属組織で有名になるのではなく、周りと同じ発想をするからでもない。ビジョン・パーパスと言っても認識が社是国是のお題目と変わらない。これが古来古文が矮小化されてきた構図。自分達の理解ではそうだからそう、民主=投票で思考が止まり続け、なぜか先進と思う。この意味で、すぐにそこまで必要ないと思いたがる国は実は学を全く重視していない。学と言う時、論語以来大人の学問が本来で、子供的手習学習とは違う(君子小人の対比)。
連合国元帥の6歳発言も、口先で着服に汲々とする為政の無様な有様から無理からぬと思わないか。そのビジョンの違いが国立公園に高級ホテル誘致やらマイ何とかと、月やアルテミスという国家プロジェクトの違いに象徴される。それは知的な底と層の薄さにより、それは古の無知と軽視、安易な歴史観による。
見出し章立て区分は大系全集に即し先に記し、次に全注釈の表記違いを/で併記、異題を()で括った。必要に応じその他の本の題を[]で併記。ただし巻一の「清水寺炎上」は全注釈の「清水炎上」を優先した。この場合、清水寺というのはナンセンス。まして語り本というのに。
巻 | 語り本系の構成(目安) |
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第一 | 祇園精舎、殿上闇討、鱸(すずき)、禿髪、吾身栄花、祗王、二代后、額打論、清水炎上、東宮立、殿下乗合、鹿谷、俊寛沙汰、願立、御輿振、内裏炎上 |
第二 | 座主流、一行阿闍梨之沙汰、西光被斬、小教訓、少将乞請、教訓状、烽火之沙汰、大納言流罪、阿古屋之松、大納言死去、徳大寺之沙汰、山門滅亡1-堂衆合戦、山門滅亡2、善光寺炎上、康頼祝言、卒都婆流【柿本人麻呂と山部赤人】、蘇武 |
第三 | 赦文、足摺、御産、公卿揃、大塔建立、頼豪、少将都帰、有王、僧都死去、颷/辻風、医師問答、無文、燈炉之沙汰、金渡、法印問答、大臣流罪、行隆之沙汰、法皇被流、城南之離宮 |
第四 | 厳島御幸、還御、源氏揃、鼬之沙汰、信連、競、山門牒状、南都牒状、永僉議、大衆揃、橋合戦、宮御最期、若宮出家、通乗之沙汰、鵼(ぬえ)、三井寺炎上 |
第五 | 都遷、月見【待宵の小侍従】、物怪之沙汰、早馬、朝敵揃、咸陽宮、文覚荒行、勧進帳、文覚被流、福原院宣、富士川、五節之沙汰、都帰、奈良炎上 |
第六 | 新院崩御、紅葉、葵前、小督、廻文、飛脚到来、入道死去、築島、慈心房、祇園女御、嗄声、横田河原合戦 |
第七 | 清水冠者、北国下向、竹生島詣、火打合戦、願書、倶梨迦羅落、篠原合戦、実盛、玄肪、木曾山門牒状、返牒、平家山門連署、主上都落、維盛都落、聖主臨幸、忠度都落、経正都落、青山之沙汰、一門都落、福原落【はるばる来ぬ・都鳥】 |
第八 | 山門御幸、名虎、緒環、太宰府落、征夷将軍院宣、猫間、水島合戦、瀬尾最期、室山、鼓判官、法住寺合戦 |
第九 | 生ずきの沙汰、宇治川先陣、河原合戦、木曾最期、樋口被討罰、六ヶ度軍、三草勢揃、三草合戦、老馬、一二之懸、二度之懸、坂落、越中前司最期、忠度最期、重衡生捕、敦盛最期、知章最期、落足、小宰相身投 |
第十 | 首渡、内裏女房、八島院宣、請文、戒文、海道下【蝉丸、唐衣きつつなれにし】、千手前、横笛、高野巻、惟盛出家、熊野参詣、惟盛入水、三日平氏、藤戸、大嘗会之沙汰 |
第十一 | 逆櫓、勝浦、嗣信最期、那須与一、弓流、志度合戦、鶏合・壇浦合戦、遠矢、先帝身投、能登殿最期、内侍所都入、剣【あまの村雲の剣、草薙の剣】、一門大路渡、鏡【天岩戸】、文之沙汰、副将被斬、腰越、大臣殿被斬、重衡被斬 |
第十二 | 大地震、紺掻之沙汰、平大納言被流、土佐房被斬、判官都落、吉田大納言沙汰、六代、泊瀬六代、六代被斬 |
灌頂巻 | 女院出家、大原入、大原御幸、六道之沙汰、女院死去 |
→【概要:巻第一】
→【各章検討:祇園精舎】
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕す。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱异、唐の祿山、これらは皆、旧主先皇の政にも従はず、楽しみを極め、諫めをも思ひ入れず、天下の乱れんことを悟らずして、民間の愁ふる所を知らざりしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。
近く本朝をうかがふに、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、これらは猛き心も奢れる事も、皆とりどりにこそありしかども、まぢかくは六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申しし人の有様、伝へ承るこそ、心も言葉も及ばれね。
その先祖を尋ぬれば、桓武天皇第五の皇子、一品式部卿葛原親王九代の後胤、讃岐守正盛が孫、刑部卿忠盛朝臣の嫡男なり。かの親王の御子、高視王、無官無位にして失せ給ひぬ。その御子、高望王の時、初めて平の姓を賜はつて、上総介になり給ひしより、たちまちに王氏を出でて人臣に連なる。その子鎮守府の将軍義茂、後には国香と改む。国香より正盛に至るまで六代は、諸国の受領たりしかども、殿上の仙籍をばいまだ許されず。
→【各章検討:殿上闇討】
しかるに忠盛、いまだ備前守たりし時、鳥羽院の御願得長寿院を造進して、三十三間の御堂を建て、一千一体の御仏を据ゑ奉る。供養は天承元年三月十三日なり。勧賞には闕国を給ふべき由仰せ下されける。折節、但馬国のあきたりけるをぞ賜ひける。上皇なほ御感のあまりに、内の昇殿を許さる。忠盛三十六にて初めて昇殿す。
雲の上人これをそねみ憤り、同じき年の十一月二十三日、五節豊明の節会の夜、忠盛を闇討ちにせんとぞ擬せられける。忠盛、この由を伝へ聞いて、「我、右筆の身にあらず、武勇の家に生まれて、今不慮の恥に逢はん事、家のため、身のため心うかるべし。詮ずる所、身を完うして君に仕へむといふ本文あり」とて、かねて用意をいたす。
参代の始めより、大きなる鞘巻を用意し、束帯の下にしどけなげに差し、火のほのぐらき方に向かつて、やはらこの刀を抜き出だし、鬢にひき当てられたりけるが、余所よりは、氷などのやうにぞ見えける。諸人目をすましけり。其の上忠盛の郎等、もとは一門たりし平大工助貞光が孫、進の三郎大夫家房が子に、左兵衛尉家貞といふ者あり。薄青の狩衣の下に、萌黄縅の腹巻を着、弦袋つけたる太刀脇挟んで、殿上の小庭にかしこまつてぞ候ひける。
貫首以下、怪しみをなして、「うつほ柱より家、鈴の綱の辺に、布衣の者の候ふは何者ぞ。狼藉なり。とうとうまかり出でよ」と、六位をもつて言はせければ、家貞かしこまつて申しけるは、「相伝の主備前守殿、今夜闇討ちにせられ給ふべきよし承つて、そのならん様を見んとて、かくて候ふなり。えこそ出づまじう候へ」とて、またかしこまつてぞ候ひける。これらを由なしとや思はれけん、その夜の闇討ちなかりけり。
忠盛また御前の召しに舞はれけるに、人々拍子をかへて、「伊勢へいじはすがめなりけり」とぞ囃されける。かけまくもかたじけなく、この人々は柏原天皇の御末とは申しながら、中頃は都の住まひもうとうとしく、地下にのみ振舞なつて、伊勢国に住国深かりしかば、その国の器物に言寄せて伊勢平氏とぞ囃されける。その上、忠盛の目のすがまれたりけるによつてこそ、かやうには囃されけるなれ。
忠盛いかにすべきやうもなくして、御遊もいまだ終はらざる先に、ひそかに御前をまかり出でらるるとて、紫宸殿の御後にして、かたへの殿上人の見られける所にて、主殿司を召して、横だへ差されたりける刀を、預けおきてぞ出でられける。
家貞、待ち奉つて、「さていかが候ひつるやらん」と申しければ、かうとも言はまほしうは思はれけれども、言ひつるほどならば、やがて殿上までも切りのぼらんずるつらだましひにてある間、「別のことなし」とぞ答へられける。
五節には、「白薄様、こぜんじの紙、巻上の筆、巴かいたる筆の管」なんど、様々かやうにおもしろき事をのみこそ歌ひ舞はるるに、中頃太宰権帥季仲卿といふ人ありけり。あまりに色の黒かりしかば、見る人、黒帥とぞ申しける。この人いまだ蔵人頭なりし時、御前の召に舞はれけるに、人々拍子をかへて、「あなくろくろ、黒き頭かな。いかなる人の漆塗りけん」とぞ囃されける。また花山院の前太政大臣忠雅公、いまだ十歳と申しし時、父中納言忠宗卿に後れ給ひて、みなし子にておはしけるを、故中御門藤中納言家成卿、その時はいまだ播磨守にておはしけるが、婿にとつて、はなやかにもてなされしかば、これも五節には、「播磨よねは木賊か、椋の葉か、人の綺羅を磨くは」とぞ囃されける。
「上古にはかやうの事どもありしかども、事出で来ず。末代いかがあらんずらん、おぼつかなし」とぞ人々申し合はれける。
案のごとく、五節果てにしかば、卿殿上人、一同に訴へ申されけるは、「それ雄剣を帯して公宴に列し、兵仗を賜つて宮中を出入するは、みなこれ格式の礼を守る、綸命よしある先規なり。しかるを忠盛朝臣、或いは相伝の郎従と号して、布衣の兵を殿上の小庭に召し置き、或いは腰の刀を横だへ差いて、節会の座に連なる。両条希代いまだ聞かざる狼藉なり。ことすでに重畳せり。罪科最も逃れがたし。はやく殿上の御札を削つて、闕官停任行はるべき」と、一同に訴へ申されければ、上皇大きに驚かせ給ひて、忠盛を御前へ召して御尋ねあり。
陳じ申されけるは、「まづ郎等小庭に祗候のよし、全く覚悟つかまつらず。ただし近日人々相たくまるる旨、仔細あるかの間、年来の家人、ことを伝へ聞くかによつて、その恥を助けんがために、忠盛には知らせずして、ひそかに参候の条、力及ばざる次第なり。もしその咎あるべくは、かの身を召し進ずべきか。次に刀の事は、主殿司に預け置きをはんぬ。これを召し出だされ、刀の実否によつて、咎の左右あるべきか」と申されたりければ、「この儀もつとも然るべし」とて、この刀を召し出だいて叡覧あるに、上は鞘巻の黒う塗つたりけるが、なかは木刀に銀箔をぞ押したりける。
「当座の恥辱を逃がれんがために、刀を帯するよ由あらはすといへども、後日の訴訟を存知して、木刀を帯しける用意のほどこそ神妙なれ。弓箭にたづさはらんほどの者のはかりごとには、もつともかうこそあらまほしけれ。かねて又郎等小庭に祗候のこと、且つうは武士の郎等のならひなり。忠盛が咎にはあらず」とて、かへつて叡感にあづかつし上は、あへて罪科の沙汰もなかりけり。
→【各章検討:鱸】
その子どもはみな諸衛佐になる。昇殿せしに、殿上のまじはりを人嫌ふに及ばず。
その頃忠盛、備前国より都へ上りたりけるに、鳥羽院、「明石の浦はいかに」と仰せければ、忠盛、
♪1
有明の 月も明かしの 浦風に
浪ばかりこそ よると見えしか
と申したりければ、御感ありけり。やがてこの歌をば、金葉集にぞ入れられける。
忠盛、また仙洞に最愛の女房を持つて通はれけるが、ある時この女房の局に、つまに月いだしたる扇をとり忘れて出でられたりければ、かたへの女房達、「これはいづくよりの月影ぞや、いでどころおぼつかなし」など笑ひ合はれければ、かの女房、
♪2
雲居より ただもりきたる 月なれば
おぼろげにては 言はじとぞ思ふ
と詠みたりければ、いとど浅からずぞ思はれける。薩摩守忠度の母これなり。似るを友とかやの風情にて、忠盛もすいたりければ、かの女房も優なりけり。
かくて忠盛、刑部卿になつて、仁平三年正月十五日、歳五十八にて失せ給ひしかば、清盛嫡男たるによつて、その跡を継ぐ。保元元年七月に、宇治の左府、世を乱り給ひし時、安芸守とて味方にて勲功ありしかば、播磨守にうつつて、同じき三年に太宰大弐になる。次に平治元年十二月、信頼卿が謀反の時も、味方にて賊徒を討ち平らげ、勲功ひとつにあらず、恩賞これ重かるべしとて、次の年正三位に叙せられ、うち続き宰相、衛府督、検非違使別当、中納言、大納言に経上がつて、あまつさへ丞相の位にいたる。左右を経ずして、内大臣より太政大臣従一位に上がる。大将にはあらねども、兵仗を賜はつて随身を召し具す。
牛車輦車の宣旨をかうぶつて、乗りながら宮中を出入す。ひとへに執政の臣のごとし。「太政大臣は一人に師範として、四海に儀刑せり。国を治め道を論じ、陰陽をやはらげ治む。その人にあらずは、すなはち闕けよ」といへり。則闕の官とも名づけられたり。その人ならではけがすべき官ならねども、入道相国は一天四海を掌のうちに握り給ひし上は、仔細に及ばず。
そもそも平家かやうに繁昌することは、熊野権現の御利生とぞ聞こえし。
その故は、清盛公いまだ安芸守たりしとき、伊勢国安濃の津より、船にて熊野へ参られけるに、大きなる鱸の船へをどり入つたりければ、先達申しけるは、「これはめでたき御事なり。急ぎ参るべし」と申しければ、さしも十戒を保つて、精進潔斎の道なれども、「昔、周の武王の船にこそ、白魚は躍り入つたるなれ。」とて、調味して我が身食ひ、家の子郎等どもに至るまで食はせらる。その故にや吉事のみうちつづいて、太政大臣まで極めさせ給ひ、子孫の官途も龍の雲にのぼるよりはなほ速やかなり。九代の先蹤を越え給ふこそめでたけれ。
→【各章検討:禿髪】
かくて清盛公、仁安三年十一月十一日、年五十一にて病に冒され、存命のためにすなはち出家入道す。法名は浄海とこそ名乗られけへ。その故にや、宿病たちどころに癒えて天命を全うす。
人の思ひ付く事は、吹く風の草木を靡かすごとし。世のあまねく仰げる事も、降る雨の国土を潤すに同じ。六波羅殿の御一家の公達とだに言ひてしかば、華族も英雄も、肩を並べ、おもてを向かふ者なし。
また入道相国の小姑、平大納言時忠卿宣ひけるは、「この一門にあらざらん者は、皆人非人たるべし」とぞ宣ひける。さればいかなる人も、この一門に結ぼれんとぞしける。烏帽子のためやうよりはじめて、衣紋のかきやうに至るまで、六波羅様とだに言ひてしかば、一天四海の人皆これを学ぶ。
いかなる賢王賢主の御政、摂政関白の御成敗をも、世にあまされたるほどのいたづら者などの、かたはらに寄り合ひて、なにとなう誹り傾け申す事は常のならひなれども、この禅門世ざかりのほどは、いささかゆるがせに申す者なし。
その故は入道相国のはかりごとに、十四五六の童を三百人揃へて、髪をかぶろに切りまはし、赤き直垂を着せて召し使はれけるが、京中に満ち満ちて往反しけり。おのづから平家の御事をあしざまに申す者あれば、一人聞きいださぬほどこそありけれ、余党にふれめぐらし、かの家に乱入し、資材雑具を追捕し、その奴をからめて、六波羅殿へ率て参る。
されば目に見、心に知るといへども、言葉にあらはして申す者なし。六波羅殿のかぶろとだに言ひてしかば、道を過ぐる馬車も、皆よきてぞ通りける。禁門を出入すといへども、姓名を尋ねらるるに及ばず。京師の長吏、これがために目をそばむと見えたり。
→【各章検討:吾身栄花】
我が身の栄華を極むるのみならず、一門ともに繁昌して、嫡子重盛、内大臣左大将、次男宗盛、中納言右大将、三男知盛、三位の中将、嫡孫維盛、四位少将、すべて一門の公卿十六人、殿上人三十四人、諸国の受領、衛府、諸司、都合六十余人なり。世にはまた人なくぞ見えられける。
昔、奈良帝の御時、神亀五年、朝家に中衛大将をはじめおかれ、大同四年に中衛を近衛と改められしよりこの方、兄弟左右に相並ぶ事、わづかに三四箇度なり。
文徳天皇の御時は、左に良房右大臣の左大将、右に良相大納言の右大将、これは閑院左大臣冬嗣の御子なり。
朱雀院の御宇には、左に実頼小野宮殿、右に師輔九条殿、貞信公の御子なり。
後冷泉院の御時は、左に教通大二条殿、右に頼宗堀河殿、御堂関白の御子なり。
二条の院の御宇には、左に基房松殿、右に兼実月輪殿、法性寺殿の御子なり。
これ皆、摂籙の臣の御子息、凡人にとつてはその例なし。殿上のまじはりをだに嫌はれし人の子孫にて、禁色、雑袍をゆり、綾羅錦繍を身にまとひ、大臣の大将になつて兄弟左右に相並ぶ事、末代とは言ひながら、不思議なりし事どもなり。
そのほか、御娘八人おはしき。皆とりどりに幸ひ給へり。
一人は桜町の中納言成範卿の北の方にておはすべかりしが、八歳の年約束ばかりにて、平治の乱れ以後、ひき違へられて、花山院の左大臣殿の御台盤所にならせ給ひて、公達あまたましましけり。そもそもこの成範卿を桜町の中納言と申しけることは、すぐれて心すき給へる人にて、常は吉野の山を恋ひ、町に桜を植ゑ並べ、その内に屋をたてて住み給ひしかば、来る年の春ごとに、見る人、桜町とぞ申しける。桜は咲いて七箇日に散るを、名残を惜しみ、天照御神に祈り申されければにや、三七日まで名残ありけり。君も賢王にてましませば、神も神徳を輝かし、花も心ありければ、二十日の齢を保ちけり。
一人は后に立たせ給ふ。二十二にて皇子御誕生あつて、皇太子に立ち、位に即かせ給ひしかば、院号かうぶらせ給ひて、建礼門院とぞ申しける。入道相国の御娘なる上、天下の国母にてましませば、とかう申すに及ばず。
一人は六条の摂政殿の北の政所にならせ給ふ。これは高倉院御在位の御時、御母代とて、准三后の宣旨をかうぶり、白河殿とて、おもき人にてましましけり。
一人は普賢寺殿の北の政所にならせ給ふ。
一人は七条の修理大夫信隆卿に相具し給へり。
一人は冷泉大納言隆房卿の北の方。
また安芸国厳島の内侍が腹に一人おはしけるは、後白河法皇へ参らせ給ひて、女御のやうでぞましましける。
そのほか九条院の雑仕常葉が腹に一人、これは花山院殿の上臈女房にて、廊の御方とぞ申しける。
日本秋津島はわづかに六十六か国、平家知行の国三十余箇国、すでに半国に越えたり。そのほか荘園、田畠、いくらといふ数を知らず。
綺羅充満して、堂上花のごとし。軒騎群集して、門前市をなす。楊州の黄金、荊州の珠、呉郡の綾、蜀江の錦、七珍万宝、ひとつとして欠けたる事なし。歌堂舞閣の基、魚龍爵馬のもて遊びもの、恐らくは、帝闕も仙洞も、これには過ぎじとぞ見えし。
→【各章検討:二代后】
昔より今に至るまで、源平両氏朝家に召し使はれて、王化に随はず、おのづから朝権を軽んずるものには、互ひに戒めを加へしかば、世の乱れはなかりしに、保元に為義斬られ、平治に義朝誅せられて後は、末々の源氏ども或いは流され、或いは失はれて、今は平家の一類のみ繁昌して、頭をさしいだす者なし。いかならん末の世までも、何事かあらんとぞ見えし。
されども鳥羽院御晏駕の後は、兵革うち続き、死罪、流刑、闕官、停任、常に行はれて、海内も静かならず、世間もいまだ落居せず。なかんづく永暦、応報の頃よりして、院の近習者をば、内より御戒めあり。内の近習者をば院より戒めらるる間、上下恐れをののいてやすい心もなし。ただ深淵に臨んで薄氷を踏むに同じ。
主上上皇、父子の御間に、何事の御隔てかあるべきなれども、思ひのほかの事どもありけり。これも世澆季に及んで、人梟悪を先とする故なり。主上、院の仰せを常は申し返させおはしましける中に、人耳目を驚かし、世もて大きに傾け申す事ありけり。
故近衛院の后、太皇太后宮と申ししは、大炊御門の右大臣公能公の御娘なり。先帝に後れ奉らせ給ひて後は、九重のほか、近衛河原の御所にぞ移り住ませ給ひける。
前の后の宮にて、かすかなる御有様にて渡らせ給ひしが、永暦の頃ほひは御歳二十三にもやならせましましけん、御盛りも少し過ぎさせおはしますほどなり。されども天下第一の美人の聞こえましましければ、主上色にのみそめる御心にて、ひそかに高力士に詔じて、外宮にひき求めしむるに及んで、この大宮の御艶書あり。
大宮あへて聞こし召しも入れず。主上ひたすらはやほにあらはれて、后御入内あるべき由、右大臣家に宣旨を下さる。この事天下においてことなる勝事なれば、公卿詮議あつて、各意見を言ふ。
「まづ異朝の先蹤をとぶらふに、震旦の則天皇后は、唐の太宗の后、高宗皇帝の継母なり。太宗崩御の後、高宗の后に立ち給ふ事あり。それは異朝の先規たる上、別段の事なり。我が朝には、神武天皇よりこの方人皇七十余代に及ぶまで、いまだ二代の后に立たせ給へる例を聞かず」と諸卿一同に申されけり。
上皇もしかるべからざる由、こしらへ申させ給へども、主上仰せなりけるは、「天子に父母なし。我、十善の戒功によつて、万乗の宝位を保つ。これほどの事などか叡慮に任せざるべき」とて、やがて御入内の日、宣下せられける上は、力及ばせ給はず。
大宮かくと聞こし召されけるより、御涙に沈ませおはします。
「先帝に後れ参らせに久寿の秋のはじめ、同じ野原の露とも消え、家をも出で世をも遁れたりせば、今かかる憂き耳をば聞かざらまし」とぞ、御歎きありける。
父の大臣こしらへ申させ給ひけるは、「『世に従はざるをもつて狂人とす』と見えたり。すでに詔命を下さる。仔細を申すに所なし。ただすみやかに参らせ給ふべきなり。もし皇子御誕生ありて、君も国母と言はれ、愚老も外祖と仰がるべき瑞相にてもや候ふらん。これひとへに愚老を助けさせまします御孝行の御至りなるべし」と、やうやうにこしらへ申させ給へども、御返事もなかりけり。
大宮その頃なにとなき御手習ひのついでに、
♪3
うきふしに しづみもやらで 河竹の
よにためしなき 名をや流さん
世にはいかにしてもれけるやらん、あはれにやさしきためしにぞ人々申し合はれける。
すでに御入内の日にもなりしかば、父の大臣、供奉の上達部、出車の儀式など、心ことにだしたて参らせさせ給ひけり。大宮物憂きき御出で立ちなれば、とみにも奉らず。はるかに夜もふけ、小夜も半ばになりて後、御車に助け乗せられさせ給ひけり。御入内の後は、麗景殿にぞましましける。ひたすら朝政をすすめ申させ給ふ御様なり。
かの紫宸殿の皇居には、賢聖の障子を立てられたり。伊尹、第伍倫、虞世南、太公望、甪里先生、季勣、司馬、手長、足長、馬形の障子、鬼の間、李将軍が姿をさながら写せる障子もあり。尾張守小野道風が、七廻賢聖の障子と書けるも理とぞ見えし。かの清涼殿の画図の御障子には、昔金岡が書きたりし遠山の在明の月もありとかや。故院のいまだ幼主にてましませしそのかみ、何となき御手まさぐりのついでに、かきくもらかさせ給ひたりしが、ありしながらに少しも違はぬを御覧じて、先帝の昔もや御恋しう思し召されけん、
♪4
思ひきや うき身ながらに めぐりきて
同じ雲居の 月を見んとは
その間の御仲らひ、言ひしらずあはれにやさしき御事なり。
→【各章検討:額打論】
さるほどに、永万元年の春の頃より、主上御不予の御事と聞こえさせ給ひしが、同じき夏の初めにもなりしかば、ことのほかに重らせ給ふ。これによつて、大蔵大輔伊吉兼盛が娘の腹に、今上一の宮の二歳にならせ給ふがましましけるを、太子に立て参らさせ給ふべしと聞こえしほどに、同じき六月二十五日、にはかに親王の宣旨下されて、やがてその夜受禅ありしかば、天下何となく慌てたる様なりけり。
その時の有職の人々申し合はれけるは、まづ本朝に、童帝の例を尋ぬるに、清和天皇九歳にして、文徳天皇の御譲りを受けさせ給ふ。それはかの周公旦の成王に代はり、南面にして、一日万機の政を治め給ひしになぞらへて、外祖忠仁公、幼主を扶持し給へり。これぞ摂政の始めなる。
鳥羽院五歳、近衛院三歳にて践祚あり。かれをこそ、いつしかなれと申ししに、これは二歳にならせ給ふ。先例なし。物騒がしともおろかなり。
さるほどに、同じき七月二十七日、上皇つひに崩御なりぬ。御歳二十三。つぼめる花の散れるがごとし。玉の簾、錦の帳のうち、みな御涙にむせばせおはします。やがてその夜、香隆寺の丑寅、蓮台野の奥、船岡山に納め奉る。御葬送の夜、延暦、興福両寺の大衆、額打論といふ事をし出だして、互ひに狼藉に及ぶ。
一天の君崩御なつて後、御墓所へ渡し奉る時の作法は、南北二京の大衆ことごとく供奉して、御墓所のめぐりに我が寺々の額を打つ事あり。まづ聖武天皇の御願、争ふべき寺なければ、東大寺の額を打つ。次に淡海公の御願とて興福寺の額を打つ。北京には、興福寺に迎へて、延暦寺の額を打つ。次に天武天皇の御願、教待和尚、智証大師草創とて園城寺の額を打つ。
然るを、山門の大衆いかが思ひけん、先例を背いて、東大寺の次、興福寺の上に、延暦寺の額を打つ間、南都の大衆、とやせまし、かうやせましと、詮議する所に、ここに興福寺の西金堂衆、観音房、勢至房とて、聞こえたる大悪僧二人ありけり。観音房は黒糸縅の腹巻に、白柄の長刀、茎短にとり、勢至房は萌黄縅の鎧着、黒漆の太刀持つて、二人つと走りいで、延暦寺の額を切って落とし、散々にうちわり、「うれしや水、なるは滝の水、日は照るとも、絶えずとうたへ」とはやしつつ、南都の衆徒の中へぞ入りにける。
→【各章検討:清水炎上】
山門の大衆、狼藉をいたさば手向ひすべき所に、心深う狙ふ方もやありけん、一言も出ださず。帝隠れさせ給ひて後は、心なき草木までも、みな愁へたる色にこそあるべきに、この騒動のあさましさに高きも賤しきも、肝魂を失つて、四方へ皆退散す。
同じき二十九日の午の刻ばかり、山門の大衆おびたたしう下落すと聞こえしかば、武士、検非違使、西坂本に行き向つて防ぎけれども、事ともせず、押し破つて乱入す。また何者の申し出だしたりけるやらん、「一院、山門の大衆に仰せて、平家追討せらるべし」と聞こえしかば、軍兵内裏に参じて四方の陣頭を警護す。平氏の一類、皆六波羅に馳せ参る。一院も急ぎ六波羅へ御幸なる。清盛公その時はいまだ大納言にておはしけるが、大きに恐れ騒がれけり。
小松殿、「何によつてか、ただ今さる御事候ふべき」と鎮め申されけれども、兵ども騒ぎののしる事おびたたし。山門の大衆六波羅へは寄せずして、そぞろなる清水寺に押し寄せて、仏閣僧房一宇も残さず焼き払ふ。これは去んぬる御葬送の夜の会稽の恥を雪めんがためとぞ聞こえし。清水寺は興福寺の末寺たるによつてなり。
清水寺焼けたりける朝、「や、観音火坑変成池はいかに」と、札に書いて、大門の前にたてたりけば、次の日また、「歴劫不思議力及ばず」と、返しの札をぞ打つたりける。
衆徒かへり上りければ、一院も急ぎ六波羅より還御なる。重盛卿ばかりぞ、御送りには参られける。父の卿は参られず。なほ用心の為めかとぞ見えし。
重盛卿、御送りより帰られたりければ、父の大納言宣ひけるは、「さても一院の御幸こそ大きに恐れおぼゆれ。かねても思し召しより、仰せらるる旨のあればこそ、かうは聞こゆらめ。それにも打ち解け給ふまじ」と宣へば、
重盛卿申されけるは、「この事ゆめゆめ御気色にも、御言葉にも出ださせ給ふべからず。人に心つけ顔に、なかなか悪しき御事なり。これにつけても、よくよく叡慮にそむかせ給はで、人のために御情をほどこさせましまさば、神明三宝加護あるべし。さらんにとつては、御身の恐れ候ふまじ」とて立たれければ、
「重盛卿はゆゆしうおほやうなるものかな」とぞ、父の卿も宣ひける。
一院還御の後、御前にうとからぬ近習者達あまた候はれけるに、「さても不思議の事を申し出だしたるものかな。つゆも思し召しよらぬものを」と仰せければ、院中のきり者に西光法師といふ者あり。折節御前近う候ひけるが、進み出でて、「『天に口なし、人をもつて言はせよ』と申す。平家もつてのほかに過分に候ふ間、天の御いましめにや」とぞ申しける。
人々、「このこと由なし。壁に耳有り。恐ろし恐ろし」とぞ、各申しあはれける。
→【各章検討:東宮立】
さるほどに、その年は諒闇なりければ、御禊、大嘗会も行はれず。建春門院、その時はいまだ東の御方と申しける。その御腹に、一院の宮のましましけるを、太子に立て参らさせ給ふべしと聞こえしほどに、同じき十二月二十七日、にはかに親王の宣旨かうぶらせ給ふ。
明くれば改元ありて、仁安と号す。
同じき年の十月八日の日、去年親王の宣旨かうぶらせ給ひし皇子、東三条にて東宮にたたせ給ふ。東宮は御伯父六歳、主上は御甥三歳、昭穆に相叶はず。
ただし寛和二年に、一条院七歳にて御即位あり。三条院十一歳にて東宮に立たせ給ふ。先例なきにしもあらず。主上は二歳にて御譲りを受けさせ給ひ、わづか五歳と申しし二月十九日、御位をすべつて、新院とぞ申しける。
いまだ御元服もなくして、太上天皇の尊号あり。漢家本朝、これや始めならん。
仁安三年三月二十日、新帝大極殿にして御即位あり。この君の位につかせ給ひぬるは、いよいよ平家の栄華とぞ見えし。また国母建春門院と申すは、入道相国の北の方、八条の二位殿の御妹なり。また平大納言時忠卿と申すも、この女院の御兄にてましませば、内の御外戚なり。内外につけての執権の臣とぞ見えし。
その頃の叙位除目と申すも、ひとへにこの時忠卿のままなりけり。楊貴妃が幸ひし時、楊国忠が栄えしがごとし。世のおぼえ、時の綺羅めでたかりき。入道相国天下の大小事を宣ひ合はせられければ、時の人、平関白とぞ申しける。
→【各章検討:祗王】
入道相国、天下を掌のうちににぎり給ひし間、世の誹りをも憚らず、人のあざけりをも顧みず、不思議の事をのみし給へり。例へば、その頃京に聞こえたる白拍子の上手、妓王、妓女とておととひあり。とぢといふ白拍子が娘なり。
しかるに姉の妓王をば入道相国寵愛せられけり。妹の妓女をも、世の人もてなす事なのめならず。とぢにもよき屋造つて取らせ、毎月に百石百貫を送られたりければ、家内富貴して楽しい事なのめならず。
そもそもわが朝に白拍子の始まりける事は、昔、鳥羽の院の御宇に、島の千歳、和歌の前、これら二人が舞ひ出だしたりけるなり。はじめは水干に立烏帽子、白鞘巻をさいて舞ひければ、男舞とぞ申しける。しかるを中頃より烏帽子刀をのけられて、水干ばかり用ゐたり。さてこそ白拍子とは名付けけれ。
京中の白拍子ども、妓王が幸ひのめでたきやうを聞いて、羨む者もあり、嫉む者もあり。羨む者どもは、「あなめでたの妓王御前の幸ひや。同じ遊女とならば、誰も皆あのやうでこそありたけれ。いかさまにも妓といふ文字を名に付いて、かくはめでたきやらん。いざや我等も付いてみん」とて、或いは妓一、妓二にと付き、或いは妓福、妓徳など付く者もありけり。嫉む者どもは、「なんでふ名により、文字にはよるべき。幸ひはただ前世の生まれつきでこそあんなれ」とて、付かぬ者も多かりけり。
かくて三年といふに、また白拍子の上手一人出で来たり。加賀国の者なり。名をば仏とぞ申しける。歳十六とぞ聞こえし。京中の上下これを見て、昔より多くの白拍子は見しかども、かかる舞の上手はいまだ見ずとて、世の人もてなすことなのめならず。
仏御前申しけるは、「我、天下に聞こえたれども、当時めでたう栄えさせ給ふ、平家太政入道殿へ召されぬ事こそ本意なけれ。遊び者のならひ、何か苦しかるべき。推参してみん」とて、ある時、西八条殿へぞ参りたる。人参つて、「当時都に聞こえ候ふ仏御前が参つて候ふ」と申しければ、入道、「なんでふ、さやうの遊び者は、人の召しにてこそ参れ、さうなう推参するやうやある。その上、妓王があらん所は、神ともいへ、仏ともいへ、かなふまじきぞ。とうとうまかり出でよ」とぞ宣ひける。
仏御前は、すげなう言はれ奉つて、すでに出でんとしけるを、妓王、入道殿に申しけるは、「遊び者の推参は、常のならひでこそ候へ。その上歳もいまだ幼う候ふなるが、たまたま思ひ立つて参つて候ふを、すげなう仰せられて、帰させせ給はんこそ不憫なれ。いかばかり恥づかしう、かたはらいたくも候ふらん。我がたてし道なれば、人の上ともおぼえず。たとひ舞を御覧じ、歌をこそ聞こし召さずとも、ただ理を曲げて、召し返いて御対面ばかり候へ」と申しければ、
入道相国、「いでいで、わごぜがあまりにいふ事なれば、見参して帰さん」とて、使ひをたてて、召されけり。
仏御前は、すげなう言はれ奉つて、既に車に乗つて出でんとしけるが、召されて帰り参りたり。入道やがて出で逢ひ対面して、「今日の見参はあるまじかりつるを、妓王が何と思ふやらん、あまりに申しすすむる間、かやうに見参しつ。見参する上ではいかでか声をも聞かであるべき。今様ひとつ歌へかし」と宣へば、仏御前、「承り候ふ」とて、今様ひとつぞ歌うたる。
♪5
君をはじめて見る折は 千代も経ぬべし姫小松
御前の池なる亀岡に 鶴こそ群れゐて游ぶめれ
と、押し返し押し返し、三遍歌ひすましたりければ、見聞の人々、みな耳目を驚かす。入道もおもしろげに思ひ給ひて、「わごぜは、今様は上手にてありけるかな。この定では舞も定めて良かるらん。一番見ばや、鼓打ち召せ」とて召されけり。打たせて一番舞うたりけり。仏御前は、髪姿よりはじめて、みめ容貌うつくしく、声良く節も上手なり。なじかは舞ひも損ずべき。心も及ばず舞ひすましたりければ、入道相国舞にめで給ひて、仏に心をうつされけり。
仏御前、「こはなにごとにて候ふぞや。もとよりわらはは推参の者にて、すでに出だされ参らせ候ひしを、妓王御前の申し状によつてこそ、召しかへされても候へ。かやうに召しおかれなば、妓王御前の思ひ給はん心のうち、はづかしう候ふべし。はやはや暇を賜はつて、出ださせおはしませ」と申しければ、入道相国、「すべてその儀あるまじ。ただし妓王があるをはばかるか。その儀ならば妓王をこそ出ださめ」と宣へば、
仏御前、「これまたいかでかさる事候ふべき。もろともに召しおかれんだにも心うく候ふべきに、妓王御前を出だされ参らせて、わらはが一人召しおかれなば、いとど心うう候ふべき。おのづから後までも忘れぬ御事ならば、召されてまたは参るとも、今日は暇を賜はらん」とぞ申しける。入道、「なんでうその儀あるまじ。妓王とうとうまかり出でよ」と、御使重ねて三度までこそ立てられけれ。
妓王はもとより思ひまうけたる道なれども、さすが昨日今日とは思ひもよらず。急ぎ出づべき由、しきりに宣ふ間、掃きのごひ、塵拾はせ、出づべきにこそ定まりけれ。一樹のかげに宿りあひ、同じ流れを結ぶだに、別れはかなしき習ひぞかし。ましてこの三年が間住みなれし所なれば、名残も惜しう悲しくて、かひなき涙ぞこぼれける。さてしもあるべき事ならねば、今はかうとて既に出でんとしけるが、なからん跡の忘れ形見にもとや思ひけん、障子に泣く泣く一首の歌をぞ書き付けける。
♪6
もえ出づる もかるるも同じ 野辺の草
いづれか秋に あはではつべき
さて車に乗つて宿所に帰り、障子の内に倒れ伏し、ただ泣くよりほかの事ぞなき。母や妹これを見て、「いかにやいかに」と問ひけれども、妓王とかうの返事にも及ばず、具したる女に尋ねてぞ、さる事ありとも知りてげる。さるほどに毎月送られける百石百貫をもおし止められて、今は仏御前のゆかりの者どもぞ、はじめて楽しみ栄えける。
京中の上下、この由を伝へ聞いて、「まことや妓王こそ、暇賜はつて出でたんなれ。いざ見参して游ばん」とて、或いは文をつかはす者もあり、或いは使者を立つる人もあり。妓王、さればとて今さら人に対面して遊びたはむるべきにもあらねば、文を取り入るる事もなく、まして使ひをあひしらふまでもなかりけり。これにつけても悲しくて、いとど涙にのみぞ沈みける。かくて今年も暮れぬ。
明くる春の頃、入道相国、妓王がもとへ使者を立てて、「いかに妓王、その後は何事かある。さては仏御前があまりにつれづれげに見ゆる。何か苦しかるべき、参つて今様をも歌ひ、舞などをも舞うて、仏慰めよ」とぞ宣ひける。妓王とかうの御返事にも及ばず、涙を押さへて伏しにけり。入道重ねて、「なにとて妓王は、ともかうも返事をば申さぬぞ。参るまじきか。参るまじくはそのやうを申せ。浄海もはからふ旨あり」とぞ宣ひける。
母とぢこれを聞くに悲しくて、いかなるべしともおぼえず。泣く泣く教訓しけるは、「なにとて妓王はともかうも御返事をば申さで、かやうにしかられ参らせんよりは」といへば、
妓王涙をおさへて申しけるは、「参らんと思ふ道ならばこそ、やがて参るとも申さめ。参らざらんもの故に、なにと御返事をば申すべしともおぼえず。このたび召さんに参らずは、はからふ旨ありと仰せらるるは、都のほかへ出ださるるか、さらずは命を召さるるか、これ二つにはよも過ぎじ。たとひ都を出ださるるとも、歎く道にあらず。たとひ命を召さるるとも惜しかるべき我が身かは。一度憂きものに思はれ参らせて、二たび面をむかふべきにもあらず」とて、なほ御返事も申さざりけるを、
母とぢかさねて教訓しけるは、「いかに妓王御前、天が下にすまん人は、ともかうも入道殿の仰せをば、そむくまじきことにてあるぞ。男女の縁宿世、いまにはじめぬ事ぞかし。千年万年と契れども、やがて離るる仲もあり。あからさまとは思へども、ながらへはつる事もあり。世に定めなきものは、男女のならひなり。それにわごぜは、この三年まで思はれ参らせたれば、有り難き事にこそ候へ。召さんに参らねばとて、命を失はるるまではよもあらじ。都の外へぞ出だされんずらん。たとひ都を出ださるるとも、わごぜ達は歳若ければ、いかならん岩木のはざまにても、過ごさん事やすかるべし。但し我が身年老い、齢傾いて、都の外へぞ出だされんずらん。ならはぬ鄙の住まひこそもかねて思ふも悲しけれ。ただ我をば都の内にて住みはてさせよ。それぞ今生後生の孝養にてあらんずる」といへば、妓王憂しと思ふ道なれども、親の命を背かじと、泣く泣くまた出でたちける、心の中こそ無慚なれ。
一人参らんはあまりに物憂しとて、妹の妓女をも相具しけり。その外白拍子二人、総じて四人、一つ車にとり乗つて、西八条殿へぞ参じたる。先々召されつる所へは入れられず、遥かに下がりたる所に、座敷しつらうてぞ置かれたる。
妓王、「こはされば何事ぞや。我が身に過つ事はなけれども、棄てられ奉るだにあるに、座敷をさへ下げらるる事の心憂さよ。いかにせん」と思ふに、知らせじと押さふる袖の隙よりも、あまりて涙ぞこぼれける。
仏御前これを見て、あまりに哀れに思ひければ、「あれはいかに、日ごろ召されぬ所にても候はばこそ、これへ召され候へかし。さらずはわらはに暇をたべ。出でて参らせん」と申しければ、入道「すべてその儀あるまじ」と宣ふ間、力及ばで出でざりけり。
入道やがて出で逢ひ、対面し給ひて、妓王が心の中を知り給はず、「いかにその後は何事かある。さては舞も見たけれども、それは次の事。今様をも歌へかし」とぞ宣ひける。妓王、参るほどでは、ともかくも入道殿の仰せをば、背くまじと思ひければ、落つる涙を押さへて、今様一つぞ歌うたる。
♪7
仏も昔は凡夫なり 我等もつひには仏なり
いづれも仏性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ
と、泣く泣く二返歌うたりければ、その座になみゐ給へる平家一門の公卿殿上人、諸大夫、侍に至るまで、みな感涙をぞ流されける。
入道もおもしろげに思ひ給ひて、「時にとつては神妙にも申したり。さては舞も見たけれども、今日はまぎるる事出で来たり。この後は召さずとも常に参つて、今様をもうたひ、舞などをも舞うて、仏なぐさめよ」とぞ宣ひける。
妓王、涙をおさへて出でにけり。「母の命を背かじと、つらき道におもむいて、二度憂き目を見つる事の心憂さよ。かくてこの世にあるならば、また憂き目をも見んずらん。今はただ身を投げんと思ふなり」といへば、妹の妓女これをきいて、「姉身を投げば、我もともに身を投げん」といふ。
母とぢこれを聞くに悲しくて、泣く泣くまた重ねて教訓しけるは、「いかに妓王御前、さやうの事あるべしとも知らずして、教訓して参らせつる事の心うさよ。まことにわごぜの恨むるも理なり。ただしわごぜが身を投げば、妹の妓女もともに身を投げんと言ふ。二人の娘後れなん後、年老い衰えたる母、命生きても何にかはせんなれば、我もともに身を投げんと思ふなり。いまだ死期も来たらぬ親に身を投げさせん事は、五逆罪にやあらんずらん。この世は仮の宿りなり。恥ぢても恥ぢでもなにならず。ただ長き世の闇こそ心憂けれ。今生でこそあらめ、後生でだに悪道へ赴かんずる事の悲しさよ」と、さめざめとかき口説きければ、
妓王、涙を押さへて、「一旦憂き恥を見つる心憂さにこそ、身を投げんとは申したれ。げにもさやうに候はば、五逆罪疑ひなし。さらば自害をば思ひとどまり候ひぬ。かくて都にあるならば、また憂き目を見んずらん。今はただ都のほかへ出でん」とて、妓王二十一にて尼になり、嵯峨の奥なる山里に、柴の庵を結び、念仏してこそゐたりけれ。
妹の妓女これを聞いて、「姉身を投げば、我もともに身を投げんとこそ契りしか。まして世をいとはんに、誰かは劣るべき」とて、十九にて様をかへ、姉と一所に籠りゐて、後生を願ふぞあはれなる。
母とぢこれを聞いて、「若き娘どもだに、様をかふる世の中に、年老い衰へたる母、白髪を付けても何にかはせん」とて、四十五にて髪を剃り、二人の娘もろともに、一向専修に念仏して、ひとへに後生をぞ願ひける。
かくて春過ぎ夏たけぬ。秋の初風吹きぬれば、星合の空を眺めつつ、天の戸渡る梶の葉に、思ふ事書く頃なれや。夕日の影の西の山の端に隠るるを見ても、日の入り給ふ所は、西方浄土にてあんなり。いつか我等もかしこに生まれて、ものも思はで過ごさんずらんと、かかるにつけても過ぎにし方の憂き事ども思ひ続けて、ただ尽きせぬものは涙なり。
黄昏時も過ぎぬれば、竹の編み戸を閉ぢふさぎ、灯火かすかにかきたてて、親子三人念仏してゐたる所に、竹の編み戸を、ほとほとと打ちたたく者出できたり。
その時尼ども肝を消し、「あはれ、これは、いふかひなき我等が念仏してゐたるを妨げんとて、魔縁の来たるにてぞあるらん。昼だにも人も訪ひ来ぬ山里の、柴の庵のうちなれば、夜更けて誰かは尋ぬべき。わづかに竹の編み戸なれば、開けずとも押し破らんことやすかるべし。なかなかただ開けて入れんと思ふなり。それに情をかけずして、命を失ふものならば、年頃たのみ奉る弥陀の本願を強く信じて、隙なく名号を唱へ奉るべし。声を尋ねて迎へ給ふなる聖衆の来迎にてましませば、などか引摂なかるべき。相構へて念仏怠り給ふな」と互ひに心を戒めて、竹の編み戸を開けたれば、魔縁にてはなかりけり。仏御前ぞ出で来たる。
妓王、「あれはいかに、仏御前と見奉るは、夢かやうつつか」と言ひければ、
仏御前涙を押さえて、「かやうの事申せば、すべて事新しう候へども、申さずはまた思ひ知らぬ身ともなりぬべければ、始めよりして、ありのままに申すなり。もとよりわらはも推参の者にて、出だされ参らせ候ひしを、妓王御前の申し状によつてこそ、召しかへされても候ふに、女のかひなき事、我が身を心に任せずして、おしとどめられ参らせし事、心憂くこそ候ひしか。わごぜの出だされ給ひしを見しにつけても、いつか我が身の上ならんと思ひしかば、嬉しとはさらに思はず。障子にまた、『いづれか秋に逢はで果つべき』と書きおき給ひし筆の跡、げにもとおぼえ候ひしぞや。いつぞやまた召され参らせて、今様歌ひ給ひしにも、思ひ知られてこそ候ひしか。その後は在所をいづくとも知り参らせざりつるに、かやうに様をかへ、一所にと承つて後は、あまりに羨ましくて、常は暇を申ししかども、入道殿さらに御用ひましまさず。つくづくものを案ずるに、娑婆の栄華は夢の夢、楽しみ栄えて何かせん。人身は受け難く、仏教には逢ひ難し。このたび泥梨に沈みなば、多生曠劫をば隔つとも、浮かび上がらん事難かるべし。年の若きを頼むべきにあらず。老少不定の境なり。出づる息の入るをも待つべからず。かげろふ稲妻よりもなほはかなし。一旦の楽しみにほこつて、後生を知らざらん事の悲しさに、今朝紛れ出でて、かくなつてこそ参りたれ」とて、かづいたる衣をうちのけたるを見れば、尼になつてぞ出で来たる。
「かやうにさまをかへて参りたれば、日頃のとがをば許し給へ。『許さん』とだに仰せられば、もろともに念仏して、一つ蓮の身とならん。それにもなほ心ゆかずは、これよりいづちへも迷ひ行き、いかならん苔の莚、松が根にも倒れ伏し、命のあらん限りは念仏して、往生の素懐を遂げん」とて、袖を顔におしあてて、さめざめとかき口説けば、
妓王涙を押さへて、「わごぜのこれほどまで思ひ給はんとは夢にも知らず、憂き世の中の性なれば、身の憂きとこそ思ふべきに、ともすればわごぜの事のみ恨めしく、往生の素懐遂げん事かなふべしともおぼえず。今生も後生も、なまじひにし損じたる心地にてありつるに、かやうに様をかへておはしたれば、日頃の咎は、露塵ほども残らず、今は往生疑ひなし。このたび素懐を遂げんこそ、なによりもまた嬉しけれ。わらはが尼になりしをこそ、世に有り難き事のやうに人もいひ、我が身も思ひしが、今わごぜの出家に比ぶれば、事の数にもあらざりけり。されどもそれは世を恨み、身を恨みてなりしかば、様をかふるも理なり。但しわごぜは恨みもなし、歎きもなし。今年はわづかに十七にこそなる人の、これほどまで穢土をいとひ、浄土を願はんと、深く思ひ入り給ふこそ、まことの大道心とはおぼえ候ひしか。嬉しかりける善知識かな。いざもろともに願はん」とて、四人一所に籠りゐて、朝夕仏前に花香を供へ、余念なく願ひけるが、遅速こそありけれ、四人の尼どもみな往生の素懐を遂げけるとぞ聞こえし。
さればかの後白河法皇の長講堂の過去帳にも、妓王、妓女、仏、とぢ等が尊霊と、四人一所に入れられけり。あはれなりし事どもなり。
→【各章検討:殿下乗合】
さるほどに、嘉応元年七月十六日、一院御出家あり。御出家の後も万機の政をしろしめされければ、院、内、分く方なし。院中に近う召しつかはれける公卿、殿上人、上下の北面に至るまで、官位俸禄、皆身に余るばかりなり。されども人の心の習ひにて、なほ飽き足らず、「あつぱれ、その人の失せたらば、その国は飽きなん。その人の滅びたらば、その官にはなりなん」など、うとからぬどちは、寄り合ひ寄り合ひ囁きけり。
一院も内々仰せなりけるは、「昔より代々の朝敵を平らぐる者多しと言へども、いまだかやうの事なし。貞盛、秀郷が将門を討ち、頼義が貞任、宗任を滅ぼし、義家が武衡、家衡を攻めたりしにも、勧賞行はれし事、わづか受領には過ぎざりき。いま清盛が、かく心のままに振る舞ふ事こそ然るべからね。これも世季になつて、王法の尽きぬる故なり」と仰せなりけれども、ついでなければ御誡めもなし。
平家もまた別して朝家を恨み奉る事もなかりしほどに、世の乱れ初めける根本は、去んじ嘉応二年十月十六日、小松殿の次男、新三位中将資盛、その時はいまだ越前守とて、生年十三になられけるが、雪ははだれに降つたりけり。枯野の景色まことに面白かりければ、若侍ども三十騎ばかり召し具して、蓮台野や紫野、右近馬場に打ち出でて、鷹どもあまた据ゑさせ、鶉、雲雀を追つ立て追つ立て、ひねもすに狩り暮らし、薄暮に及んで六波羅へこそ帰られけれ。
その時の御摂籙は松殿にてぞましましけるが、東洞院の御所より御参内ありけり。郁芳門より入御あるべきにて、東洞院を南へ、大炊御門を西へ御出なる。資盛朝臣、大炊御門猪熊にて、殿下の御出に鼻つきに参り合ふ。
御供の人々、「何者ぞ、狼藉なり。御出のなるに、乗り物より降り候へ降り候へ」といらでけれども、あまりに誇り勇み、世を世ともせざりける上、召し具したる侍ども、みな二十より内の若者どもなれば、礼儀骨法わきまへたる者一人もなし。殿下の御出ともいはず、一切下馬の礼儀にも及ばず、駆け破つて通らんとする間、暗さは暗し、つやつや太政入道の孫とも知らず、また少々は知つたれどもそら知らずして、資盛朝臣をはじめとして、侍どもみな馬よりとつて引き落とす。すこぶる恥辱に及びけり。
資盛朝臣、はふはふ六波羅へおはして、祖父の相国禅門にこの由訴へ申されければ、太政入道大きに怒つて、「たとひ殿下なりとも、浄海があたりをばはばかり給ふべきに、幼き者に左右なう恥辱を与へられけるこそ遺恨の次第なれ。かかる事よりして、人には欺かるるぞ。この事思ひ知らせ奉らでは、えこそあるまじけれ。殿下を恨み奉らばやと思ふはいかに」と宣へば、
重盛卿申されけるは、「これは少しも苦しう候ふまじ。頼政、光基など申す源氏どもに欺かれて候はんには、まことに一門の恥辱にても候ふべし。重盛が子供とてさ候はんずる者の殿の御出に参りあうて、乗り物より降り候はぬ事こそ、尾籠に候へ」とて、その時、事に逢ひたる侍ども皆召し寄せて、「自今以後も汝等よくよく心得べし。あやまつて殿下へ無礼の由を申さばやと思へ」とて帰られけり。
その後入道、小松殿には仰せられも合はせずして、片田舎の侍どもの、こはらかにて入道の仰せよりほかはまた恐ろしき事なしと思ふ者ども、難波、瀬尾を始めとして、都合六十余人召し寄せ、「来二十一日、主上御元服の御定めのために、殿下御出あるべかんなり。いづくにても待ち受け奉り、前駈御随身どもが髻切つて、資盛が恥すすげ」とこそ宣ひけれ。兵どもかしこまり承つて罷り出づ。
殿下これをば夢にも知ろしめされず、主上明年御元服、御加冠拝官の御定めのために、御直廬しばらく御座あるべきにて、常の御出より引きつくろはせ給ひて、今度は待賢門より入御あるべきにて、中御門を西へ御出なる。猪熊堀河の辺に、六波羅の兵ども、混甲三百余騎、待ちうけ奉り、殿下を中に取り籠め参らせて、前後より一度に、鬨をどつとぞ作りける。前駈御随身どもが、今日を晴れと装束いたるを、あそこに追つかけ、ここに追つつめ、散々に陵礫して、一々に髻を切る。随身十人がうち、右府生武基が髻をも切られてんげり。その中に藤蔵人大夫隆教が髻を切るとて、「これは汝が髻と思ふべからず、主の髻と思ふべし」と、言ひ含めてぞ切つてんげる。
その後は御車のうちへも、弓の弭つき入れなどして、簾かなぐり落とし、御牛の鞦、胸当切り放ち、かく散々にし散らして、悦びの鬨を作り、六波羅へ参りたりければ、入道、「神妙なり」とぞ宣ひける。
御車ぞひには、因幡のさい使ひ、鳥羽の国久丸といふをのこ、下﨟なれども情ある者にて、やうやうにしつらひ、御車つかまつて、中御門の御所へ還御なし奉る。束帯の御袖にて御涙を押さへつつ、還御の儀式のあさましさ申すもなかなかおろかなり。
大織冠、淡海公の御事はあげて申すに及ばず、忠仁公、昭宣公よりこの方、摂政関白のかかる御目に合はせ給ふ事、いまだ承り及ばず。これこそ平家の悪行の始めなれ。
小松殿大きに騒いで、その時行き向かうたる侍どもみな召し寄せて、みな勘当せらる。
「たとひ入道いかなる不思議を下知し給ふとも、など重盛に夢をば見せざりけるぞ。およそは資盛奇怪なり。『栴檀は二葉よりかうばし』とこそ見えたれ。すでに十二三にならんずる者の、今は礼儀を存知してこそ振舞ふべきに、かやうに尾籠を現じて、入道の悪名をたつ。不孝の至り、汝一人にありけり」とて、しばらく伊勢国へ追つ下さる。さればこの大将をば、君も臣も御感ありけりとぞ聞こえし。
→【各章検討:鹿谷】
これによつて、主上御元服の御定めはその日は延びさせ給ひて、同じき二十五日、院の殿上にてぞ御元服の御定めはありける。摂政殿さても渡らせ給ふべきならねば、同じき十一月九日、兼宣旨をかうぶり、十四日太政大臣にあがらせ給ふ。やがて同じき十七日、喜び申しありしかども、世間は苦々しうぞ見えし。
さるほどに今年も暮れて、嘉応も三年になりにけり。正月五日、主上御元服あつて、同じき十三日、朝覲のために、院の御所法住寺殿へ行幸なる。法皇、女院待ちうけ参らつさせ給ひて、初冠の御粧ひもいかばかりらうたく思し召されけん。入道相国の御娘、女御に参らせ給ひけり。御歳十五歳、法皇御猶子の儀なり。
その頃妙音院太政のおほい殿、大将を辞し申させ給ふ事ありけり。時に徳大寺大納言実定卿、その仁に当たり給ふ由聞こゆ。また花山院中納言兼雅卿も所望あり。そのほか故中御門藤中納言家成卿の三男、新大納言成親卿もひらに申されけり。
院の御気色よかりければ、様々の祈りを始めらる。八幡に百人の僧を籠めて、信読の大般若を七日読ませられたりける最中に、高良の大明神の御前なる橘の木に、男山の方より、山鳩三つ飛び来たつて、くひあひてぞ死ににける。
「鳩は八幡大菩薩の第一の使者なり。宮寺にかかる不思議なし」とて、時の検校、匡清法印この由内裏へ奏聞したりければ、神祇官にして御占あり。重き御慎みとうらなひ申す。ただしこれは君の御慎みにはあらず、臣下の慎みとぞ申しける。
新大納言に恐れをもいたさず、昼は人目のしげければ、夜な夜な歩行にて、中御門烏丸の宿所より、賀茂の上の社へ、七夜続けて参られけり。七夜に満ずる夜、宿所に下向して、苦しさにちとまどろみたりける夢に、賀茂の上の社へ参りたるとおぼしくて、御宝殿の御戸押し開き、ゆゆしう気高げなる御声にて、
♪8
桜花 賀茂の川風 うらむなよ
ちるをばえこそ とどめざりけれ
新大納言これになほ恐れをもいたされず、賀茂の上の社に、御宝殿の御後ろなる、杉の洞に壇をたて、ある聖をこめて、吒幾爾の法を百日行はせられける最中に、雷おびたたしうなつて、かの大杉に落ちかかり、雷火もえあがつて、宮中すでにあやふく見えければ、宮人ども多く走り集まつてこれをうち消す。
さてかの外法行ひける聖を追出せんとするに、「我、当社に百日参篭の心ざしあり。今日は七十五日になる。まつたく出づまじ」とてはたらかず。
この由を社家より内裏へ奏聞しければ、ただ「法にまかせよ」と宣旨を下さる。その時神人白杖をもつてかの聖がうなじをしらげ、一条大路より南へ追つこしてんげり。神は非礼をうけ給はずと申すに、この大納言、非分の大将を祈り申されければにや、かかる不思議も出で来にけり。
その頃の叙位除目と申すは、院、内の御ぱからひにもあらず、摂政関白の御成敗にも及ばず、ただ一向平家のままにてありければ、徳大寺、花山院もなり給はず、入道相国の嫡男小松殿、大納言の右大将にてましましけるが、左に移りて、次男宗盛、中納言にておはせしが、数輩の上﨟を超越して、右に加はられけるこそ、申すはかりもなかりしか。
中にも徳大寺殿は、一の大納言にて、花族英雄、才学雄長、家嫡にてましましけるが、平家の次男宗盛卿に大将を越えられ給ひぬるこそ遺恨の次第なれ。「定めてご出家などもやあらんずらん」と、人々内々ささやきあはれけれども、しばらく世のならんやうを見んとて、大納言を辞して籠居とぞ聞こえし。
新大納言成親卿宣ひけるは、「徳大寺、花山院に越えられたらんはいかがせん。平家の次男宗盛卿に越えられぬるこそ、遺恨の次第なれ。いかにもして平家を滅ぼし、本望をとげん」と宣ひけるこそ恐ろしけれ。
父の卿はわづかに中納言までこそ至られしか。その末子にて位正二位、官大納言にあがり、大国あまた賜はつて、子息所従朝恩に誇れり。何の不足にかかかる心つかれけん、ひとへに天魔の所為とぞ見えし。平治には越後中将とて、信頼卿に同心の間、すでに誅せらるべかりしを、小松殿やうやうに申して、首をつぎ給へり。然るにその恩を忘れて、外人もなき所に兵具をととのへ、軍兵を語らひおき、その営みのほかは他事なし。
東山の麓、鹿の谷といふ所は、後ろは三井寺に続いて、ゆゆしき城郭にてぞありける。それに俊寛僧都の山荘あり。かれに常はよりあひよりあひ、平家滅ぼすべき謀をぞめぐらしける。
ある夜、法皇も御幸なる。故少納言入道信西の子息、浄憲法印も御供つかまつり、その夜の酒宴にこのよしを仰せ合はせられたりければ、法印、「あなあさまし。人あまた承り候ひぬ。ただ今もれ聞こえて、天下の御大事に及び候ひなんず」と申しければ、大納言気色かはりて、さつとたたれけるが、御前に候ひける瓶子を狩衣の袖にかけてひきたふされたりけるを、法皇叡覧あつて、「あれはいかに」と仰せければ、大納言たちかへつて、「平氏たふれ候ひぬ」とぞ申されける。
法皇もゑつぼに入らせおはしまして、「者ども参つて猿楽つかまつれ」と仰せければ、平判官康頼つと参つて、「ああ、あまりに平氏の多う候ふに、もて酔ひて候ふ」と申す。
俊寛僧都、「さてそれをば、いかがつかまつるべき」と申しければ、西光法師、「首をとるにしかず」とて、瓶子の首をとつてぞ入りにける。浄憲法印、あまりのあさましさにつやつやものも申されず。かへすがへすも恐ろしかりし事どもなり。
与力の輩誰誰ぞ。近江中将入道蓮浄、俗名成正、法勝寺の執行俊寛僧都、山城守基兼、式部大輔雅綱、平判官康頼、宗判官信房、新平判官資行、摂津国の源氏多田蔵人行綱を始めとして、北面の輩多く与力してげり。
→【各章検討:俊寛沙汰 鵜川軍】
そもそもこの俊寛僧都と申すは、京極大納言雅俊卿の孫、木寺の法印寛雅には子なりけり。祖父大納言させる弓矢をとる家にはあらねども、あまりに腹あしき人にて、三条の坊門京極の宿所の前をば、人をもやすく通さず。常は中門にたたずみ、歯をくひしばり、いかつてのみぞおはしける。
かかる人の孫なればにや、この俊寛も僧なれども、心もたけく、おごれる人にて、よしなき謀叛にもくみしけるにこそ。
新大納言成親卿、は多田蔵人行綱を呼うで、「御辺をば一方の大将にたのむなり。この事しおほせつるものならば、国をも荘をも所望によるべし。まづ弓袋の料に」とて、白布五十反贈られたり。
安元三年三月五日、妙音院殿、太政大臣に転じた給へるかはりに、小松殿、大納言定房卿を越えて、内大臣になり給ふ。やがて大饗行はる。大臣の大将めでたかりき。尊者には大炊御門の右大臣経宗公とぞ聞こえし。一の上こそ先途なれども、父宇治の悪左府の御例そのはばかりあり。
北面は上古にはなかりけり。白河院の御時、はじめおかれてよりこの方、衛府どもあまた候ひけり。為俊、盛重、童より今犬丸、千手丸とて、これらは左右なき切者にてぞありける。鳥羽院の御時も、季教、季頼父子ともに、朝家に召し使はれ、伝奏する折もありけりと聞こえしかども、この御時の北面の輩は、もつてのほかに過分にて、公卿殿上人をもことともせず、礼儀礼節もなし。下北面より上北面にあがり、上北面より殿上の交はりを許さるる者も多かりけり。
かくのみ行はれし間、おごれる心どもつきて、よしなき謀叛にもくみしてんげるにこそ。中にも故少納言入道信西のもとに召し使ひしける師光、成景といふ者あり。師光は阿波国の在庁、成景は京の者、熟根いやしき下﨟なり。健児童もしは恪勤者などにて、院にも召し使はれける。さかざかしかりしによつて、師光は左衛門尉、成景は右衛門尉とて、二人一度に靱負尉になりぬ。
信西ことにあひし時、二人ともに出家して、左衛門入道西光、右衛門入道西敬とて、これらは出家の後も、院の御倉あづかりにてぞありける。
かの西光が子に師高といふ者あり。これも左右なき切者にて、検非違使、五位尉まで経あがりて、安元元年十二月二十九日、追儺の除目に、加賀守にぞなされける。国務を行ふ間、非法非礼を張行し、神社仏寺、権門勢家の荘領を没頭して、散々のことどもにてぞありける。たとひ召公が跡を隔つといふとも、穏便の政を行ふべかりしに、かく心のままにふるまふ間、同じき二年の夏の頃、国司師高が弟近藤判官師経を加賀の目代に補せらる。
目代下著のはじめ、国府の辺に鵜川といふ山寺あり。寺僧どもが折節湯をわかいてあびけるを、乱入しおひあげ、我が身あび、雑人どもおろし、馬洗ひなどしけり。寺僧怒りをなして、「昔よりこの所は、国方の者の入部することなし。すみやかに先例にまかせて、入部の押妨をとどめよ」とぞ申しける。
「先々の目代は不覚でこそいやしまれたれ。当目代は、すべてその儀あるまじ。ただ法にまかせよ」といふほどこそありけれ、寺僧どもは国方の者を追出せんとす。国方の者どもは、ついでをもつて乱入せんとす。うちあひ、張り合ひしけるほどに、目代師経が秘蔵したりける馬の足をぞ打ち折りける。その後は互に弓箭兵仗を帯して、射あひ、切りあひ、数刻戦ふ。目代かなはじとや思ひけん、夜に入りてひきしりぞく。
その後当国の在庁ども一千余人もよほし集めて、鵜川におし寄せて坊舎一宇も残さずみな焼き払ふ。鵜川といふは、白山の末寺なり。このこと訴へんとて、すすむ老僧誰誰ぞ。智釈、学明、宝台坊、正智、学音、土佐の阿闍梨ぞ進みける。白山三社八院の大衆、ことごとくおこりあひ、都合その勢二千余人、同じき七月九日の暮れ方に、目代師経が舘近うこそ押し寄せたれ。今日は日暮れぬ。明日の戦と定めて、その日は寄せでゆらへたり。
露吹き結ぶ秋風は、射向けの袖をひるがへし、雲居を照らす稲妻は、甲の星を輝かす。目代かなはじとや思ひけん、夜逃げにして京へ上る。
明くる卯の刻に押し寄せて、鬨をどつとぞつくりける。城の内には音もせず。人を入れて見せければ、「みな落ちて候ふ」と申す。大衆力及ばで引きしりぞく。
さらば山門へ訴へんとて、白山中宮の神輿をかざり奉て、比叡山へふりあげ奉る。同じき八月十二日の午の刻ばかり、白山中宮の神輿、すでに比叡山東坂本に着かせ給ふと申すほどこそありけれ、北国の方より、雷おびたたしく鳴つて、都をさして鳴り上る。白雪降つて地を埋み、山上洛中おしなべて、常盤の山の梢まで、みな白妙になりにけり。
→【各章検討:願立】
神輿をば、客人の宮へ入れ奉る。客人と申すは白山妙理権現にておはします。申せば父子の御中なり。まづ沙汰の成否は知らず、生前の御悦び、ただこのことにあり。浦島が子の七世の孫にあへりしにも過ぎ、胎内の者の霊山の父を見しにも超えたり。三千の衆徒くびすを継ぎ、七社の神人袖をつらぬ。時々刻々の法施祈念、言語道断のことどもにてぞありける。
さるほどに山門の大衆、国司加賀守師高を流罪に処せられ、目代近藤判官師経を禁獄せらるべきよし、奏聞度々に及ぶといへども、御裁断なかりければ、さも然るべき公卿殿上人は、「あはれ、とくして御裁許あるべきものを。昔より山門の訴訟は他に異なり。大蔵卿為房、太宰権帥季仲は、さしも朝家の重臣たりしかども、山門の訴訟によつて流罪せられにき。いはんや師高などはことの数にてやはあるべき、仔細にや及ぶべき」と申しあはれけれども、「大臣は禄を重んじていさめず、小臣は罪に恐れて申さず」といふことなれば、おのおの口を閉ぢ給へり。
「賀茂川の水、双六の賽、山法師、これぞわが御心にかなはぬもの」と、白河院も仰せなりけるとかや。鳥羽院の御時も、越前の平泉寺を山門へ付けられけることは、当山を御帰依あさからざるによつて、「非をもつて理とす」と宣下せられてこそ、院宣をばくだされしか。
されば江帥匡房卿の申されしやうに、「神輿を陣頭へふり奉つて訴へ申さんには、君はいかが御ぱからひ候ふべき」と申されければ、「げにも山門の訴訟は黙しがたし』とぞ仰せける。
去んじ嘉保二年三月二日、美濃守、源義綱朝臣、当国新立の庄をたふす間、山の久住者円応を殺害す。これによつて日吉の社司、延暦寺の寺官、都合三十余人、申文を捧げて陣頭へ参じたりけるを、後二条の関白殿、大和源氏中務権少輔頼春に仰せて、これを防がせらるる。
頼春が郎等、矢を放つ。やにはに射殺さるる者八人、傷をかうぶるもの十余人、社司、諸司、四方へ散りぬ。山門の上綱等仔細を奏聞のために、おびたたしう下落すと聞こえしかば、武士、検非違使、西坂本に行きむかつて、みな追つ回す。
山門には、御裁断遅々の間、七社の神輿を根本中堂へふりあげ奉る。その御前へにて信読の大般若を七日読みて関白殿を呪詛し奉る。結願の導師には、仲胤法印、その時はいまだ仲胤供奉と申ししが、高座にのぼり鐘うち鳴らし、表白の言葉にいはく、「我等が菜種の二葉よりおほしたて給へる神達、後二条の関白殿に、鏑矢ひとつ放ちあて給へ。大八王子権現」と高らかにこそ祈誓したりけれ。やがてその夜不思議のことありけり。八王子の御殿より、鏑矢の声いでて、王城をさして鳴つてゆくとぞ、人の夢には見えたりける。
その朝、関白殿の御所の御格子をあげけるに、ただ今山より取つてきたるやうに、露に濡れたる樒一枝、立つたりけるこそ不思議なれ。やがて後二条の関白殿、山王の御咎めとて、重き御病をうけさせ給ひしかば、
母上大殿の北政所、おほきに御嘆きあつて、御様をやつし、いやしき下﨟のまねをして、日吉の社へ参らせ給ひて、七日七夜が間、祈り申させおはします。あらはれての御祈りには、百番の芝田楽、百番のひとつ物、競馬、流鏑馬、相撲、おのおの百番、百座の仁王講、百座のの薬師講、いつちやく手半の薬師百体、等身の薬師一体、ならびに釈迦、阿弥陀の像、おのおの造立供養せられけり。
また御心中に三つの御立願あり。御心のうちのことなれば、人いかで知り奉るべき。それに不思議なりしことは、七日に満ずる夜、八王子の御社にいくらもありける参人どもの中に、陸奥国よりはるばるとのぼつたりける童御子、夜半ばかりににはかに絶え入りにけり。
はるかにかき出だして祈りければ、やがて立つて舞ひかなづ。人奇特の思ひをなしてこれを見る。半時ばかり舞うて後、山王おりさせ給ひて、やうやうの御託宣こそ恐ろしけれ。
「衆生確かに承れ。大殿の北政所、今日七日、我が御前に籠らせ給ひたり。御立願三つあり。
まづ一つには、今度殿下の寿命を助けさせおはしませ。さも候はば、下殿に候ふ諸々のかたは人にまじはつて、一千日が間、朝夕宮仕ひ申さんとなり。大殿の北政所にて、世を世とも思し召さで過ごさせ給ふ御心に、子を思ふ道に迷ひぬれば、いぶせき事も忘られて、あさましげなるかたは人にまじはつて、一千日が間、朝夕宮仕ひ申さんと仰せらるるこそ、まことにあはれに思し召せ。
二つには、大宮の波止殿より八王子の御社まで、回廊作つて参らせんとなり。三千人の大衆、降るにも照るにも、社参の時、いたはしうおぼゆるに、回廊作られたらんは、いかにめでたからん。
三つには、今度殿下の寿命を助けさせ給はば、八王子の御社にて、毎日法華問答講退転なく行はすべしとなり。
この御願どもは、いづれもおろかならねども、せめてはかみ二つは、さなくともありなん。法華問答講こそ、まことにあらまほしうは思し召せ。ただし、今度の訴訟は、無下に安かりぬべき事にてありつるを、御裁許なくして神人宮仕射殺され、衆徒多く傷をかうむつて、泣く泣く参つて訴へ申す事の心憂ければ、いかならん世までも忘るべしとも思し召さず。すなはち彼等に当たる所の矢は、しかしながら和光垂跡の御膚にたつたるなり。実虚はこれを見よ」とて、かたぬいだるを見れば、左の脇の下、大きなる土器の口ほど、穿げのいてぞ見えたりける。
「これがあまりに心憂ければ、いかに申すとも始終の事はかなふまじ。法華問答講一定あるべくは、三年が命を延べて奉らん。それを不足に思し召さば力及ばず」とて、山王あがらせ給ひけり。
母上はこの御立願の事、人にもかたらせ給はねば、誰漏らしぬらんと、少しも疑ふ方もましまさず。御心のうちのことどもを、ありのままに御託宣ありければ、いよいよ心肝にそうて、ことに尊く思し召し、「たとひ一日片時で候ふとも、ありがたくこそ候ふべきに、まして三年が命を延べて給はらん事こそ、然るべう候へ」とて、泣く泣く御下向ありけり。
急ぎ都へ帰らせ給ひて後、殿下の領、紀伊国に田中の庄といふ所を、八王子の御社へ永代寄進せらる。されば今の世に至るまで、八王子の御社にて、毎日に法華問答講退転なしとぞ承る。
かかりしほどに、後二条の関白殿御病かろませ給ひて、もとのごとくにならせ給ふ。上下喜び合はれしほどに、三年の過ぐるは夢なれや、永長二年になりにけり。
六月二十一日、また後二条の関白殿、御髪の際にあしき御瘡いでさせ給ひて、うち臥させ給ひしが、同じき二十七日、御歳三十八にて、つひに隠れさせ給ひぬ。御心のたけさ、理の強さ、さしもゆゆしき人にておはせしかども、まめやかにことの急にもなりしかば、御命を惜しませ給ひけり。まことに惜しかるべし。四十にだに満たせ給はで、大殿に先だち参らせ給ふこそかなしけれ。必ず父を先立つべしといふことはなけれども、生死の掟にしたがふならひ、万徳円満の世尊、十地究竟の大士達も、力及ばぬ次第なり。慈悲具足の山王、利物の方便にてましませば、御咎めなかるべしともおぼえず。
→【各章検討:御輿振】
さるほどに、山門の大衆、国司加賀守師高を流罪に処せられ、目代近藤判官師経を禁獄せらるべきよし、奏聞度々に及ぶといへども、御裁許なかりければ、日吉の祭礼をうちとどめ、安元三年四月十三日の辰の一点に、十禅寺権現、客人、八王子、三社の神輿を飾り奉つて、陣頭へ振り奉る。
下がり松、きれ堤、賀茂の河原、ただす、梅ただ、柳原、東北院の辺に、しら大衆、神人、宮仕、専当みちみちて、いくらといふ数を知らず。
神輿一条を西へ入らせ給ふに、御神宝天に輝いて、日月地に落ち給ふかと驚かる。これによりて源平両家の大将軍に仰せて、四方の陣頭を固めて、大衆防ぐべきよし仰せ下さる。平家には小松の内大臣の左大将重盛公、その勢三千余騎にて、大宮面の陽明、待賢、郁芳、三つの門を固め給ふ。弟宗盛、知盛、重衡、伯父頼盛、教盛、経盛などは、西南の門を固め給ふ。
源氏には大内守護の源三位頼政、渡辺の省、授を宗として、都合その勢三百余騎、北の門、縫殿の陣を固め給ふ。所は広し、勢は少なし、まばらにこそ見えたりけれ。
大衆、無勢たるによつて、北の門、縫殿の陣より神輿を入れ奉らんとす。頼政さる人にて、急ぎ馬より下り、甲を脱ぎ、手水うがひをして、神輿を拝し奉らる。兵どももみなかくのごとし。大衆の中へ使者を立てて、いひ送る旨あり。その使は渡辺の長七唱とぞ聞こえし。唱その日の装束には、きぢんの直垂に、小桜を黄にかへいたる鎧着て、赤銅作りの太刀をはき、二十四さいたる白羽の矢負ひ、滋籐の弓脇に挟み、甲をば脱いで、高紐にかけ、神輿の御前にかしこまつて申しけるは、
「衆徒の御中へ源三位殿の申せと候ふ。今度山門の御訴訟、理運の条もちろんに候ふ。御成敗遅々こそ、余所にても遺恨におぼえ候へ。神輿入れ奉らん事、仔細に及ばず。ただし頼政無勢に候ふ。その上あけて入れ奉る陣より入らせ給ひて候はば、山門の大衆は、目だり顔しけりなど、京童が申し候はんこと、後日の難にや候はんずらん。あけて入れ奉らば、宣旨に背くに似たり。また防ぎ奉らば、年来医王山王に首を傾けたる身が、今日より後、長く弓矢の道に別れ候ひなんず。かれといひこれといひ、傍ら難治のやうに候ふ。東の陣頭をば小松殿大勢で固められ候ふ。その陣より入らせ給ふばうや候ふらん」と言ひ送りたりければ、唱がかくいふにせかれて、神人、宮仕しばらくゆらへたり。
若大衆どもは、「なんでふその儀あるべき。ただこの陣より神輿を入れ奉れ」といふやから多かりけれども、老僧の中に、三塔一の詮議者と聞こえし摂津竪者豪運、進み出でて申しけるは、
「もつともさいはれたり。我等神輿を先だて参らせて、訴訟をいたさば、大勢の中をうち破つてこそ、後代の聞こえもあらんずれ。就中、この頼政の卿は、六孫王よりこの方源氏嫡嫡の正統、弓矢をとつてもいまだその不覚を聞かず。およそは武芸にも限らず、歌道にもまたすぐれり。近衛院ご在位の御時、当座の御会ありしに、『深山の花』といふ題を出だされたりけるを、人々みなよみわづらひたりしに、この頼政卿、
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深山木の その梢とも 見えざりし
桜は花に あらはれにけり
といふ名歌つかまつて御感にあづかるほどのやさ男に、いかが時に臨んで情けなう恥辱をば与ふべき。この神輿かへし奉れや」と、詮議したりければ、数千人の大衆、先陣より後陣まで、みな「もつとも、もつとも」とぞ同じける。
さて神輿かき返し奉り、東の陣頭、待賢門より入れ奉らんとしけるに、狼藉たちまちに出で来て、武士ども散々に射奉る。十禅師の神輿にも、矢どもあまた射たてけり。
神人、宮仕射殺され、衆徒多く傷をかうぶつて、をめき叫ぶ声梵天までも聞こえ、堅牢地陣も驚くらんとぞおぼえける。大衆神輿をば陣頭に振りすて奉り、泣く泣く本山へぞ帰りのぼりける。
→【各章検討:内裏炎上】
夕べに及んで、蔵人左少弁兼光に仰せて、院の殿上にて、にはかに公卿詮議ありけり。
去んぬる保安四年四月に神輿入洛の時は、座主に仰せて、赤山の社へ入れ奉る。また保延四年七月に神輿入洛の時は、祇園の別当に仰せて、祇園の社へ入れ奉る。今度は保延の例たるべしとて、祇園の別当権大僧都澄憲に仰せて、秉燭に及んで祇園の社へ入れ奉らる。神輿に立つ所の矢をば、神人してこれを抜かせらる。
山門の大衆、日吉の神輿を陣頭へ振り奉ること、永久よりこの方、治承までは六箇度なり。されども毎度に武士を召してこそ防がせらるるに、神輿射奉ることは、これ初めとぞ承る。
「霊神怒りをなせば、災害ちまたに満つと言へり。恐ろし恐ろし」とぞ各宣ひあはれける。
同じき十四日の夜半ばかり、山門の大衆、またおびたたしう下落すと聞こえしかば、主上は腰輿に召して、院の御所法住寺殿へ行幸なる。中宮は、御車に奉つて、他所へ行啓あり。
小松の大臣は、直衣に矢負うて供奉せらる。嫡子権亮少将維盛は、束帯に平やなぐひ負うて参られけり。関白殿をはじめ奉て、太政大臣以下の卿相雲客、我も我もと供奉せらる。そのほか京中の上下、禁中の貴賎、騒ぎののしることおびたたし。
されども山門には、神輿に矢立ち、神人、宮仕射殺され、衆徒多く傷をかうぶりたりしかば、大宮、二宮以下、講堂、中堂、すべて諸堂一宇も残さず焼き払つて、山野にまじはるべき由、三千一同に詮議しけり。これによつて大衆の申す所、御計らひあるべしと聞こえしほどに、山門の上綱等、仔細を衆徒にふれんとて、登山すと聞こえしかば、大衆おこつて、西坂本より、みな追つ返す。
平大納言時忠卿、その時はいまだ左衛門督にておはしけるが、上卿にたつ。大講堂の庭に三塔会合して、上卿をとつてひつぱらんとす。「しや冠をうち落とせ、その身をからめて、湖に沈めよ」などぞ申しける。
時忠卿、すでにかうと見えられし時、懐より小硯畳紙取り出だし、「しばらくしづまられ候へ。衆徒の御中へ申すべき事あり」とて、思ふ事を一筆書いて大衆の中へ遣はす。
これをあけて見るに、「衆徒の濫悪をいたすは魔縁の所業なり。明王の制止を加ふるは、善逝の加護なり」とぞ書かれたる。大衆これを見てひつぱるに及ばず。みな「もつとも、もつとも」と同じて、谷々におり、坊々へぞ入りにける。一紙一句をもつて、三塔三千の憤りをやすめ、公私の恥をのがれ給ひける時忠卿こそゆゆしけれ。山門の大衆は、発向の乱りがはしきばかりかと思ひたれば、理も存知したりけりとぞ、人々感じあはれける。
同じき二十日、花山院権中納言忠親卿を上卿にて、国司加賀守師高を闕官せられて、尾張の井戸田へ流さる。目代近藤判官師経をば禁獄せらる。
また十三日、神輿射奉し武士六人獄定せらる。これらはみな小松殿の侍なり。
同じき四月二十八日の亥の刻ばかり、樋口富小路より火出で来て、京中多く焼けにけり。折節巽の風はげしく吹きければ、車輪のごとくなるほむらが三町五町を隔てて、乾の方へ筋かへに飛び越え焼けゆけば、恐ろしなどもおろかなり。
或いは具平親王の千種殿、或いは北野天神の紅梅殿、橘逸成のはひ松殿、鬼殿、高松殿、鴨居殿、東三条、冬嗣の大臣の閑院殿、昭宣公の堀河殿、これをはじめて、昔今の名所三十余箇所、公卿の家だにも十六箇所まで焼けにけり。そのほか殿上人、諸大夫の家家はしるすに及ばず。はては大内に吹きつけて、朱雀門よりはじめて、応天門、会昌門、大極殿、豊楽院、諸司八省、朝所、一時がうちに、みな灰燼の地とぞなりにける。家家の日記、代々の文書、七珍万宝さながら塵灰となりぬ。その間の費えいかばかりぞ。
人の焼け死ぬる事数百人、牛馬の類数を知らず。これただごとにあらず。山王の御咎めとて、比叡山より、大きなる猿どもが、二三千おり下り、てんでに松火をともいて、京中を焼くとぞ、人の夢には見えたりける。
大極殿は清和天皇の御宇、貞観十八年にはじめて焼けたりければ、同じき十九年正月三日、陽成院の御即位は豊楽院にてぞありける。元慶元年四月九日、事始めあつて、同じき二年十月八日の日ぞ造り出だされたりける。後冷泉院の御宇、天喜五年二月二十六日、また焼けにけり。治暦四年八月十七日に、事始めありしかども、いまだ造りも出だされずして、後冷泉院崩御なりぬ。後三条院の御宇、延久四年四月十五日に造り出だされて、文人詩を奉り、伶人楽を奏して、遷幸なし奉る。
今は世季になりて、国の力もみな衰へたれば、その後はつひに造られず。
→【概要:巻第二】
→【各章検討:座主流】
治承元年五月五日、天台座主明雲大僧正、公請を停止せらるる上、蔵人を御使ひにて、如意輪のご本尊を召し返いて、護持僧を改易せらる。すなはち使庁の使をつけて、今度神輿内裏へ振りふり奉る衆徒の張本を召されけり。
加賀国に座主の御坊領あり。国司師高これを停廃の間、その宿意によつて、大衆を語らひ訴訟をいたさる。すでに朝家の御大事に及ぶよし、西光法師父子が讒奏によつて、法皇おほきに逆鱗ありけり。「ことに重科に行はるべし」と聞こゆ。明雲は法皇の御気色悪しかりければ、院鑰を返し奉つて、座主を辞し申されけり。
同じき十一日、鳥羽院の七の宮、覚快法親王、天台座主にならせ給ふ。これは青蓮院の大僧正行玄の御弟子なり。
同じき十二日、先座主所職を停めらるる上、検非違使二人をつけて、井に蓋をし、火に水をかけて、水火の責めに及ぶ。これによつて、大衆なほ参洛すと聞こえしかば、京中また騒ぎあへり。
同じき十八日、太政大臣以下の公卿十三人参代して、陣の座につき、先の座主罪科のこと議定あり。
八条中納言長方卿、その時はいまだ左大弁の宰相にて、末座に候はれけるが、申されけるは、「法家の勘状に任せて、死罪一等を減じて、遠流せらるべしとは見えて候へども、先座主明雲大僧正は顕密兼学して、浄行持律の上、大乗妙経を公家に授け奉り、菩薩浄戒を法皇に保たせ奉る御経の師、御戒の師。重科に行はれんこと、冥の照覧量りがたし。還俗遠流をなだめらるべきか」と、はばかるところもなう申されたりければ、当座の公卿、みな長方の議に同ずと申し合はれけれども、明雲は法皇の御憤り深ければ、なほ遠流に定めらる。
太政入道もこのこと申さんとて、院参せられたりけれども、法皇御風の気とて御前へも召され給はねば、本意なげにて退出せらる。僧を罪する習にて、度縁を召し返し、還俗せさせ奉り、大納言大輔藤井の松枝といふ俗名をこそつけられけれ。
この明雲と申すは、村上天皇第七の皇子、具平親王より六代の御末、久我大納言顕通卿の御子なり。まことに無双の碩徳、天下第一の高僧にておはしければ、君も臣も尊み給ひて、天王寺、六勝寺の別当をもかけ給へり。されども陰陽頭安部泰親が申しけるは、「さばかんの智者の、明雲と名乗り給ふこそ心得ね。上に日月の光をならべ、下に雲あり」とぞ難じける。
仁安元年二月二十日の日、天台座主にならせ給ふ。
同じき三月十五日、御拝堂あり。中堂の宝蔵を開かれけるに、種々の重宝の中に、方一尺の箱あり。白い布にて包まれたり。一生不犯の座主、かの箱を開いて見給ふに、黄紙に書ける文一巻あり。伝教大師、未来の座主の名字を、かねて記し置かれたり。わが名のある所まで見て、その奥をば見ず。元のごとく巻き返して置かるるならひなり。さればこの僧正も、さこそはおはしけめ。かかる貴き人なれども、先世の宿業をば免れ給はず。あはれなりし事どもなり。
同じき二十一日、配所伊豆国と定めらる。人々やうやうに申されけれども、西光法師父子が讒奏によつて、かやうには行はれけるなり。やがて今日都の内を追ひ出ださるべしとて、追立の官人、白河の御坊に行き向つて追ひ奉る。僧正泣く泣く御坊を出でつつ、粟田口の辺、一切経の別所へ入らせおはします。
山門には、「所詮、我等が敵、西光法師父子にすぎたる者なし」とて、彼等父子が名字を書いて、根本中堂におはします十二神将のうち、金毘羅大将の左の御足の下にふませ奉り、「十二神将、七千夜叉、時刻ををめぐらさず、西光法師父子が命を召し取り給へや」と、をめき叫んで呪詛しけるこそ、聞くも恐ろしけれ。
同じき二十三日、一切経の別所より、配所へおもむき給ひけり。さばかんの法務の大僧正ほどの人を、追立の欝使が先にけたてさせて、今日を限りに都を出でて、関の東へおもむかれけん心の中、推し量られてあはれなり。大津の打出の浜にもなりしかば、文殊楼の軒端のしろじろとして見えけるを、ふた目とも見給はず、袖を顔におしあてて涙にむせび給ひけり。
山門には宿老碩徳多しといへども、澄憲法印、その時はいまだ僧都にておはしけるが、あまりに名残を惜しみ奉り、粟津まで送り参せて、それより暇申して帰られけるに、僧正心ざしの切なることを感じて、年来孤心中に秘せられたりし一心三観の血脈相承を授けらる。この法は釈尊の附属、波羅奈国の馬鳴比丘、南天竺の竜樹菩薩より次第に相伝し来たれるを、今日の情に授けらる。
さすがに我が朝は粟散辺地の境、濁世末代とはいひながら、澄憲これを附属して、法衣の袂を押さへつつ、都へ帰りのぼられけん心の中こそ貴けれ。
さるほどに山門には大衆おこつて詮議す。
「そもそも義真和尚よりこの方、天台座主はじまつて五十五代に至るまで、いまだ流罪の例を聞かず。つらつらことの心を案ずるに、延暦の頃ほひ、皇帝は帝都を立て、大師は当山によぢ上つて、四明の教法をこの所にひろめ給ひしよりこの方、五障の女人跡絶えて、三千の浄侶居をしめたり。峰には一乗読誦年旧りて、麓には七社の霊験日新たなり。かの月氏の霊山は、往生の東北、大聖の幽窟なり。この日域の叡岳も帝都の鬼門にそばだつて護国の霊地なり。代々の賢王智臣、この所に壇場を占む。末代ならんからに、いかでか当山に傷をば付くべき。こは心憂し」とて、をめき叫んで言ふほどこそありけれ、満山の大衆、残りとどまる者もなく、みな東坂本へ降り下る。
→【各章検討:一行阿闍梨之沙汰】
十禅師権現の御前にて、大衆また詮議す。
「そもそも我等粟津へ行き向かつて、貫首をば奪ひとどめ奉るべし。ただし追立の欝氏、領送使あんなれば、左右なう取り得奉らんことありがたし。山王大師の御力のほかはまた頼む事なし。まことに別の仔細なく、取り得奉るべくは、ここにてまづ我等にしるしをみせ給へ」とて、老僧ども肝胆をくだいて祈念しけり。
ここに無動寺本師乗円律師が童に、鶴丸とて生年十八歳になりけるが、心身を苦しめ、五体に汗を流いて、にはかに狂ひ出でたり。
「我十禅師権現乗り居させ給へり。末代といふとも、いかでか我が山の貫首をば、他国へは移さるべき。生生世世に心うし。さらんにとつては、我この麓に跡をとどめても何にかはせん」とて、左右の袖を顔に押し当てて、さめざめと泣きければ、大衆これを怪しんで、「まことに十禅師権現の御託宣にておはしまさば、我等しるしを参らせん。少しも違へずもとの主に返し給べ」とて、老僧ども四五百人、てんでに持つたる数珠どもを、十禅師権現の大床かの上へぞ投げ上げたる。
かの物狂ひ走りまはり、拾ひ集め、少しもたがへず一々にもとの主にぞ配りける。大衆神明の霊験新たなる事の貴さに、みな掌を合はせて、随喜の感涙をぞもよほしける。
「その儀ならば、ゆき向かつて奪ひとどめ奉れや」といふほどこそありけれ、雲霞のごとくに発向す。
あるひは志賀唐崎の浜路に歩み続ける大衆もあり。あるひは山田矢ばせの湖上に船おし出だす衆徒もあり。
これを見てさしもきびしげなりつる追立ての欝使、領送使、散散にみな逃げ去りぬ。
大衆国分寺へ参り向かふ。まづ座主おほきに騒いで、「『勅勘の者は月日の光にだに当たらず』とこそ承れ。いかに況んや、時刻をめぐらさず、急ぎ追つくださるべしと、院宣、宣旨のなりたるに、少しもやすらふべからず。衆徒とうとう帰り上り給ふべし」とて、端近くゐ出でて宣ひけるは、「三台槐門の家を出でて、四明幽渓の窓に入りしよりこの方、広く円宗の教法を学して、顕密両宗を学びき。ただ我が山の興隆をのみ思へり。また国家を祈り奉る事もおろそかならず。衆徒を育む心ざしも深かりき。両所三聖も定めて照覧し給ふらん。身にあやまつ事なし。無実の罪によつて、遠流の重科かうむれば、世をも人をも神をも仏をも、恨み奉る事なし。これまでとぶらひ来たり給ふ衆徒の芳志こそ、報じ尽くしがたけれ」とて、香染の御衣の袖しぼりもあへさせ給はねば、大衆もみな鎧の袖をぞ濡らしける。
すでに御輿さし寄せて、「とうとう召さるべう候へ」と申しければ、「昔こそ三千の衆徒の貫首たりしが、今はかかる流人の身となつて、いかでかやんごとなき修学者、智恵深き大衆達にはかき捧げられては上るべき。たとひ上るべきなりとも、藁沓などいふ物しばり履いて、同じやうに歩み続いてこそ上らめ」とて、乗り給はず。
ここに西塔の住侶、戒浄坊の阿闍梨祐慶といふ悪僧あり。丈七尺ばかりありけるが、黒皮縅の鎧の、大荒目に黄金まぜたるを、草摺長に着なし、甲をば脱いで、法師ばらに持たせつつ、白柄の薙刀杖につき、大衆の中をおし分けおし分け、先座主のおはしましける所につつと参り、大の眼を見いからかし、「その御心でこそ、かかる御目にも合はせ給ひ候へ。とうとう召さるべう候ふ」と申しければ、先座主恐ろしさに急ぎ乗り給ふ。大衆取り得奉る嬉しさに、いやしき法師ばらにはあらで、やんごとなき修学者どもがかき捧げ奉り、をめき叫んで上りけるに、人はかはれども、祐慶はかはらず、前輿かいて、輿の轅も薙刀の柄も砕けよと取るままに、さしもさがしき東坂、平地を行くがごとくなり。
大講堂の庭に御輿かき据ゑて、大衆また詮議す。
「そもそも我等粟津に行き向かつて、貫首をば奪ひとどめ奉りぬ。ただし勅勘をかうむつて流罪せられ給ふ人を、取り留めて貫首に用ひ申さん事、いかがあるべかるらん」と詮議す。
戒浄坊の阿闍梨祐慶、また先のごとく進み出でて詮議しけるは、「それ当山は日本無双の霊地、鎮護国家の道場なり。山王の御威光盛んにして、仏法王法牛角なり。されば衆徒の意趣に至るまで並びなく、いやしき法師ばらまでも世もつて軽しめず。況んや智恵高貴にして、三千の貫首たり。徳行重うして一山の和尚たり。罪無くして罪をかうむる。これより山上洛中の憤り、興福、園城の嘲りにあらずや。この時顕密の主を失つて、数輩の学侶、蛍雪の勤め怠ること心憂かるべし。所詮、祐慶張本に称ぜられ、禁獄流罪にも及び、頭を刎ねられん事、今生の面目、冥途の思ひ出なるべし」とて、双眼より涙をはらはらと流しければ、大衆もみな「もつとももつとも」とぞ同じける。それよりしてぞ、祐慶はいかめ房とはいはれける。その弟子に恵慶律師をば、時の人、小いかめ房とぞ申しける。
先座主をば東塔の南谷、妙光坊に入れ奉る。時の横災をば権化の人ものがれ給はざりけるにや。昔大唐の一行阿闍梨は、玄宗皇帝の護持僧にてましましけるが、玄宗の后楊貴妃に名をたち給へり。昔も今も、大国も小国も、人の口のさがなさは、あとかたもなき事なりしかども、その疑ひによつて、果羅国へ流されさせ給ふ。
件の国へは三つの道あり。輪地道とて御幸道、幽地道とて雑人の通ふ道、暗穴道とて重科の者をつかはす道なり。されば、かの一行阿闍梨は大犯の人なればとて、暗穴道へぞつかはしける。
七日七夜が間、月日の光も水して行く所なり。冥冥として人もなく、行歩に前途迷ひ、森森として山深し。ただ澗谷に鳥の一声ばかりにて、苔の濡れ衣ほしあへず、無実の罪によつて遠流の重科かうむる事を、天道憐れみ給ひて、九曜のかたちを現じつつ、一行阿闍梨を守り給ふ。時に一行右の指を食ひきつて、左の袂に九曜のかたちを写されけり。和漢両朝に真言の本尊たる九曜の曼荼羅これなり。
→【各章検討:西光被斬】
さるほどに山門の大衆、先座主取りとどむる由、法皇聞こし召して、いとど安からず思し召す所に、西光法師申しけるは、「山門の大衆、発向のみだりがはしき訴へつかまつること、今に始めずと申しながら、今度はもつてのほかに候ふ。これを御いましめ候はでは、世は世でも候ふまじ。よくよく御いましめ候ふべし」とぞ申しける。
ただ今我が身の滅びんずる事をもかへりみず、山王大師の神慮にもはばからず、かやうに申して宸襟を悩まし奉る。讒臣は国を乱るといへり。まことなるかな。叢蘭茂からんとすれども、秋風これを破り、王者明らかならんとすれば、讒臣これを闇うすとも、かやうの事をや申すべき。執事の別当成親卿以下、近習の人々に仰せて、山攻めらるべし、と聞こえしかば、山門の大衆、「さのみ王地にはらまれて、詔命を対捍せんも恐れなり」とて、内々院宣にしたがひ奉る衆徒もありなど聞こえしかば、先座主は妙光坊におはしけるが、大衆二心ありと聞き給ひて、「またいかなる目にか逢はんずらん」と宣ひけるが、されども流罪のさたはなかりけり。
さるほどに、新大納言は山門の騒動によつて、私の宿意をばしばらく押さへられけり。そも内議支度は様々なりしかども、義勢ばかりで、この謀叛かなふべしとも見えざりければ、さしも頼まれたりつる多田蔵人行綱、この事無益なりと思ふ心ぞ付きにける。
弓袋の料にとて送られたりける布どもをば、直垂、帷子に裁ち縫ひ、家子、郎等どもに着せつつ、目うちしばだたいてゐたりけるが、つらつら平家の繁盛する有様を見るに、当時たやすう傾け難し。もしこのこと洩れぬるほどならば、行綱まづ失はれなんず。他人の口より洩れぬさきに返り忠して、命生かうど思ふ心ぞ付きにける。
同じき五月二十九日の小夜更け方に、入道相国の西八条の亭に行いて、「行綱こそ申すべき事あつて、これまで参つて候へ」と、言ひ入れたりければ、入道、「常にも参らざる者の参じたるはなにごとぞ、あれ聞け」とて、主馬判官盛国を出だされたり。
「人伝てには申すまじき事なり」といふ間、さらばとて、入道みづから中門の廊にぞ出でられたる。
「夜ははるかに更けぬらんに、ただ今なにごとぞ」と宣へば、「昼は人目のしげう候ふ間、夜にまぎれ参つて候ふ。このほど院中の人々の兵具を整へ、軍兵を召され候ふをば、何事とか聞こし召されて候ふ」と申しければ、入道、「いさとよ、それは法皇の山攻めらるべしとこそ聞け」と、いと事もなげにぞ宣ひける。
行綱近寄り小声になつて、「その儀では候はず。一向当家の御上とこそ承り候へ」。入道、「さてそれをば法皇も知ろしめされたるか」。「仔細にや及び候ふ。執事の別当成親卿の軍兵召され候ふも、院宣とてこそ催され候へ」。
俊寛がと申して、康頼がかう申して、西光がと振る舞うてなど、始めよりありのままにはさし過ぎて言ひ散らし、「暇申して」とて出でければ、その時入道大声をもつて侍ども呼びののしり給ふ事、聞くもおびたたし。
行綱はなまじひなる事申し出でて、証人にや引かれんずらんと恐ろしさに、人も追はぬに取り袴し、大野に火を放ちたる心地して、急ぎ門外へぞ逃げ出でける。
その後、筑後守貞能を召して、「当家傾けんと欲する謀叛の輩、京中に満ち満ちたんなり。一門の人々にも触れ申せ。侍ども催せ」と宣へば、馳せまはつて催す。右大将宗盛、三位中将知盛、頭中将重衡、左馬頭行盛以下の人々、甲冑弓箭を帯して、我も我もと馳せつどふ。そのほか侍ども雲霞のごとくに馳せ集まる。その夜のうちに入道相国の西八条の亭には、兵六七千騎もあるらんとこそ見えたりけれ。
明くれば六月一日なり。いまだ暗かりけるに、入道相国、検非違使安倍資成を召して、「きつと院の御所へ参れ。大膳大夫信成を呼び出だいて申さんずる事はよな。『新大納言成親卿以下、近習の人々、この一門を滅ぼして天下を乱らんとする企てあり。召し取つて、尋ね沙汰つかまつるべし。それをば君も知ろしめさるまじう候ふ』と申すべし」とぞ宣ひける。
資成急ぎ御所に馳せ参り、信成呼び出だいてこの由申すに、色を失ひ、御所へ参つてこのよし奏聞しければ、「あははや、内々これらが謀りし事の洩れにけるよ」と思し召すに、あさまし。さるにても、「こはなにごとぞ」とばかり仰せられて、分明の御返事もなかりけり。
資成急ぎ帰つて、このよし申しければ、入道、「さればこそ行綱は真をいひけれ。このこと告げ知らせずは、浄海安穏にてやあるべき」とて、筑後守貞能、飛騨守景家に謀叛の輩、捕ふべき由下知せらる。
よつて二百余騎、三百余騎、あそこここに押し寄せ押し寄せ一々に皆からめとる。
入道相国、まづ雑色をもつて新大納言成親の宿所へ、「きつと立ち寄り給へ。申し合はすべきことあり」と、宣ひ遣はされたりければ、大納言我が身の上とはつゆ知らず、「あはれ、これは法皇の山攻めらるべき御結構のあるを、申しなだめられんずるにこそ。御憤り深げなり。いかにもかなふまじきものを」とて、ない清げなる法衣たをやかに着なし、あざやかなる車に乗り、侍三人召し具して、雑色牛飼にいたるまで、常よりも引き繕はれたり。そも最後とは後にこそ思ひ知られけれ。
西八条近うなつて見給へば、四五町に軍兵ども満ち満ちたり。
「あなおびたたし、こは何事やらん」と、胸うち騒がれけれども、門前にて車より降り、門の内へ指し入つて見給へば、内にも兵ども隙はざ間もなうぞ満ち満ちたる。中門の口には恐ろしげなる者ども、あまた待ちうけ奉り、大納言をとつて引つ張り、「縛むべう候ふやらん」と申しければ、入道簾中より見出でて、「あるべうもなし」と宣へば、侍ども十四五人立ち囲みて大納言を縁の上へ引き上せ奉り、一間なる所に押し込めてんげり。
大納言は夢の心地して、つやつやものもおぼえ給はず。供なりつる侍ども、大勢に押し隔てられて散り散りになりぬ。雑色牛飼色を失ひ、牛車を捨てて、みな逃げ去りぬ。
さるほどに、近江中将入道蓮浄、法勝寺の執行俊寛僧都、山城守基兼、式部大夫正綱、平判官康頼、宗判官信房、新平判官資行も、囚はれて出で来たり。
西光法師このよしを聞いて、我が身の上とや思ひけん、鞭をうつて院の御所法住寺殿へ馳せ参る。平家の兵ども道にて行きあひ、「西八条殿より召さるるぞ。きつと参れ」と言ひければ、「これは奏すべき事あつて、院の御所へ参る。やがてこそかへり参らめ」と言ひければ、「につくい入道が、何事をか奏すべかんなるぞ」とて馬より取つて引き落とし、ちうに括つて西八条殿へさげて参る。日の始めより権現与力の者なりければ、ことに強ういましめて、坪の内にぞひつすゑたる。
入道相国、大床に立つてしばしにらまへ、「あなにくや、当家傾けうどする奴がなれる姿よ。しやつここへ引き寄せよ」とて、軒の際へ引き寄せさせ、物はきながら、しや頬をむずむずとぞ踏まれける。
「もとより己等がやうなる下﨟のはてを、君の召しつかはせ給ひて、なさるまじき官職をなしたび、父子ともに過分の振舞ひをすると見しにあはせて、あやまたぬ天台座主流罪に申し行ひ、あまつさへこの一門滅ぼすべき謀叛に与してんげるなり。ありのままに申せ」とこそ宣ひけれ。
西光もとより勝れたる大剛の者なりければ、ちとも色も変ぜず、わろびれたる気色もなく、居なほり、あざわらつて、「さ候ふ。院中に召し使はるる身なれば、執事の別当成親卿の院宣とて催されしに与せずと申すべきやうなし。それは与したり。ただし耳に留まる事をものたまふものかな。他人の前は知らず、西光が聞かんずる所で、さやうの事をばえこそのたまふまじけれ。
そもそも御辺は、故刑部卿忠盛の嫡子にておはせしかども、十四五までは出仕もし給はず。故中御門の藤中納言家成卿の辺に立ち入り給ひしをば、京童部は例の高平太とこそ言ひしか。しかるを保延の頃、海賊の張本三十余人からめ進ぜられたりし賞に、四品して四位の兵衛佐と申ししをだに、時の人は過分とこそ申しあはれしか。
殿上の交じはりをだに嫌はれし人の子孫にて、太政大臣までなりあがつたるや過分なるらん。侍品の者の、受領検非違使に至る事、先例、傍例なきにあらず。なじかは過分なるべき」と、はばかる所もなう申したりければ、入道相国あまりに怒り、しばしは物をも宣はず。
ややあつて入道宣ひけるは、「しやつが首さうなうきるな。よくよく糺問して事の仔細を尋ね問ひ、その後河原へ引き出だして、首を刎ね候へ」とぞ宣ひける。
松浦太郎重俊承つて、足手をはさみ、様々にしていため問ふ。西光もとよりあらがひ申さざりける上、糺問は厳しかりけり。残り無うこそ申しけれ。白状四五枚に記せられて、やがて「しやつが口を裂け」とて、口を裂かれ、五条西朱雀にして、つひに斬られにけり。
嫡子加賀守師高闕官せられ、尾張の井戸田へ流されたりしを、同国の住人小胡麻の郡司維季に仰せて討たせらる。次男近藤判官師経、獄より引き出だして、六条河原で誅せられ、その弟左衛門尉師平、郎等三人をも同じく首を刎ねられけり。
これらは皆いふかひなき者の秀でて、いろふまじき事にいろひ、あやまたぬ天台座主流罪に申し行ひ、果報や尽きにけん、山王大師の神罰冥罰を立ち所にかうむつて、かかる憂き目にあへりけり。
→【各章検討:小教訓】
新大納言成親卿は一間なる所に押し込められ、汗水になりつつ、「あはれこれは日頃のあらまし事の、洩れ聞こえけるにこそ。誰洩らしぬらん。定めて北面の輩の中にぞあるらん」など、思はじ事なう、案じ続けて居給ひたりける所に、後ろの方より足音の高らかにしければ、あははや我が命失はんとて、武士どもの参るにこそと思ひて、待ち給ふ所に、さはなくて、入道相国、足音高らかに踏みならし、大納言のおはしける後ろの障子を、さつと開かれたり。素絹の衣の短からかなるに、白き大口ふみくくみ、聖柄の刀おしくつろげてさすままに、大納言をしばしにらまへ奉て、「そもそも御辺は、平治にも、すでに誅せらるべかりしを、内府が身にかへて申し請け、首を継ぎ奉しはいかに。何の遺恨を以て、この一門滅ぼすべき御結構は候ひける。恩を知るを人と言ふぞ。恩を知らざるをば畜生とこそ言へ。しかれども当家の運命尽きざるによつて、これまで迎へ奉る。日頃の御結構の次第、直に承らん」とぞ宣ひける。
大納言、「まつたくさること候はず。いかさまに人の讒言にてぞ候ふらん。よくよく御尋ね候ふべし」とぞ申されける。その時入道大きに怒つて、「人やある、人やある」と召されければ、貞能つと参りたり。
「西光めが白状参らせよ」と宣へば、もつて参りたり。入道これを取つて、押し返し押し返し二三遍読み聞かせ、「あなにくや、この上をば何とか陳ずべかんなるぞ」とて、大納言の顔にさつとなげかけ、障子をちやうどたててぞ出でられける。
入道、なほ腹を据ゑかねて、経遠、兼康と召す。難波次郎、瀬尾太郎参りたり。「あの男とつて庭へ引き落とせ」と宣へば、これらさうなうもし奉らず。「小松殿の御気色、いかが候はんやらん」と申しければ、入道、「よしよし、己等は、内府が命を重んじて、入道が仰せをば軽うじけるごさんなれ。力及ばず」と宣へば、二人の者ども、悪しかりなんとや思ひけん、立ちあがり、大納言の左右の御手をとつて庭へ引き落とし奉る。
その時入道心地よげにて、「とつてふせてをめかせよ」とぞ宣ひける。二人の者ども、大納言の左右の耳に口をあて、「いかさまにも御声の出づべう候ふ」とささやいて、引き臥せ奉れば、二声三声ぞをめかれける。その体、冥途にて、娑婆世界の罪人を、或いは業の秤にかけ、或いは浄頗梨の鏡に引きむけて、罪の軽重に任せつつ、阿防羅刹が呵責すらんも、これには過ぎじとぞ見えし。
蕭樊囚はれて、韓彭葅醢されたり、鼂錯戮をうけ、周魏罪せらる。たとへば、蕭何樊噲、韓信、彭越、これらは皆高祖の忠臣たりしかども、小人の讒によつて、禍敗の恥を受くとも、かやうの事をや申すべき。
新大納言は、我が身のかくなるにつけても、子息丹波少将成経以下、幼き人々のいかなる憂き目にかあふらんと、思ひやるにもおぼつかなし。さばかり暑き六月に、装束をだにもくつろげず、暑さも堪へがたければ、胸もせきあぐる心地して、汗も涙もあらそひてぞ流れける。さりとも小松殿は思し召し放たじものをと思はれけれども、誰して申すべしともおぼえ給はず。
小松殿は、例の善悪に付けて、騒ぎ給はぬ人にておはしければ、その後はるかにほど経て後、嫡子権亮少将維盛を、車の尻に乗せつつ、衛府四五人、随身二三人召し具して、まことに大様げにておはしたりければ、入道を始め参らせて、一門の人々皆思はずげにぞ見給ひける。大臣中門の口にて、御車より下り給ふ所に、貞能つと参り、「これほどの御大事に、何とて軍兵をば一人も召し具せられ候はぬやらん」と申しければ、大臣、「大事とは天下の大事をこそいへ、かやうの私事を大事といふやうやある」と宣へば、兵杖を帯したりける兵ども、皆そぞろいてぞ見えたりける。
「そも大納言をばいづくに置かれたるやらん」とて、ここかしこの障子を引きあけ引きあけ見給ふに、ある障子の上に、蜘蛛手結うたる所あり。ここやらんとてあけられたれば、大納言おはしけり。涙にむせびうつぶして、目も見あげ給はず。「いかにや」と宣へば、その時見つけ奉て、うれしげに思はれたる気色、地獄にて罪人どもが地蔵菩薩を見奉るらんもかくやとおぼえてあはれなり。
「何事にて候ふやらん。かかる憂き目にあひ候ふ。さて渡らせ給へば、さりともとこそ頼み参らせて候へ。平治にもすでに誅せらるべく候ひしを、御恩をもつて首をつがれ参らせ、正二位の大納言に昇り、歳すでに四十に余り候ふ。御恩こそ、生生世世にも報じ尽くしがたう候へども、今度も同じくはかひなき命をたすけさせおはしませ。さも候はば、身の暇をたまはつて出家入道つかまつり、高野、粉川にも篭りゐて、一筋に後世菩提の勤めを営み候はん」と申されければ、
小松殿、「まことにさこそ思し召し候ふらめ。さ候へばとて御命失ひ奉るまではよも候はじ。たとひさ候ふとも、重盛かうて候へば、御命にはかはり参らすべし。」とて出でられけり。
その後、大臣、父の禅門の御前におはして、「あの大納言が首刎ねられん事、よくよく御はからひ候ふべし。先祖修理大夫顕季、白河院に召し使はれてよりこの方、家にその例なき正二位の大納言にあがり、当時無双の御いとほしみ、やがて首を刎ねられん事、しかるべうも候はず。ただ都の外へ出だされたらんに事足り候ひなんず。
北野の天神は、時平の大臣の讒奏にて、憂き名を西海の波に流し、西宮の大臣は、多田満仲の讒言によつて、恨みを山陽の雲に寄す。おのおの無実なりしかども流罪せられ給ひにき。これ皆延喜、安和の帝の御僻事とぞ申し伝へたる。上古なほかくのごとし。況んや末代においてをや。賢王なほ御誤りあり、況んや凡人に於いてをや。すでに召し置かれぬる上は、急ぎ失はれずとても何の恐れか候ふべき。
『刑の疑はしきをば軽んぜよ。功の疑はしきをば重んぜよ』とこそ見えて候へ。事新らしき申し事にては候へども、重盛かの大納言が妹に相具して候ふ。維盛また婿なり。かやうに親しうなつて候へば、申すとや思し召され候ふらん。その儀では候はず。ただ世のため、家のため、君のための事を思つて申し候ふ。
一年故少納言入道信西が執権の時に相当たつて、我が朝には嵯峨皇帝の御時、右兵衛督藤原仲成を誅せられてよりこの方、保元までは、君二十五代の間、行はれざりし死罪を初めて取り行ひ、宇治の悪左府の死骸を掘り起こいて、実検せられてし事など、あまりなる御政とこそおぼえ候ひしか。
されば古の人も、『死罪を行へば、海内に謀叛の輩絶えず』とこそ申し伝へて候へ。この詞について、中二年あつて、平治にまた世乱れて、信西が埋まれたりしを掘り起こし、首を刎ねて大路を渡され候ひき。保元に申し行ひし事のいくほどなく、はや身の上にむかはりにきと思へば、恐ろしうこそ候へ。これはさせる朝敵にもあらず。方々恐れあるべし。御栄華残る所なければ、思し召す事あるまじけれども、子々孫々までも繁盛こそあらまほしう候へ。父祖の善悪は、必ず子孫に及ぶと見えて候ふ。
『積善の家には余慶あり、積悪の門には余殃とどまる』とこそ承れ。いかさまにも今夜首を刎ねられん事、しかるべくも候はず」と申されければ、入道げにもとや思はれけん、死罪は思ひとどまり給ひぬ。
その後大臣中門に出でて、侍どもに宣ひけるは、「仰せなればとて、あの大納言左右なく失ふべからず。入道殿腹のたちのままに、ものさわがしき事し給ひて、後には必ず悔やみ給ふべし。僻事して我恨むな」と宣へば、兵ども皆舌を振るひ恐れをののく。
「さても今朝、経遠、兼康が、あの大納言に情無うあたりけるこそ、返す返すも奇怪なれ。など重盛が返り聞かんずる所をば恐れざりけるぞ。片田舎の侍どもは、皆かかるぞとよ」と宣へば、難波も瀬尾も、ともに恐れ入りたりけり。大臣はかやうに宣ひて、小松殿へぞ帰られける。
さるほどに大納言の侍ども、急ぎ中御門烏丸の宿所に帰り参つて、この由かくと申したりければ、北の方以下の女房達、声々にをめき叫び給ひけり。
「少将殿をはじめ参らせて、幼き人々も、皆取られさせ給ふべきとこそ聞こえ候へ。急ぎいづ方へも忍ばせ給へ」と申しければ、北の方、「今はこれほどの身になつて、残りとどまる身とても、安穏にて何にかはせん。ただ同じ一夜の露とも消えん事こそ本意なれ。さても今朝を限りと知らざりける事の悲しさよ」とて、臥しまろびてぞ泣かれける。
すでに武士どもの近づく由聞こえしかば、かくてまた恥ぢがましう、うたてき目を見んも、さすがなればとて、十になり給ふ女子、八歳の男子、一車に取り乗せて、いづちを指すともなくやり出だす。さてしもあるべき事ならねば、大宮を上りに、北山の辺雲林院へぞおはしける。その辺なる僧房におろし置き奉り、送りの者どもは、身の捨てがたさに暇申して帰りにけり。今はいとけなき人々ばかり残りゐて、またこととふ人もなくしておはしける。北の方の心のうち、推し量られてあはれなり。
暮れゆく影を見給ふにつけても、大納言の露の命、この夕べを限りなりと思ひやるにも消えぬべし。
女房、侍多かりけれども、物をだにとり調めず、門をだに推しもたてず。馬どもは厩になみ立ちたれども、草飼ふ者一人もなし。
夜明くれば、馬車門に立ちなみ、賓客座に連なつて、遊び戯れれ、舞ひをどり、世を世とも思ひ給はず、近きあたりの者どもは、物をだに高く言はず、おぢ恐れてこそ昨日までもありしに、夜の間にかはる有様、盛者必衰の理は目の前にこそ顕れけれ。「楽しみつきて悲しみ来たる」と書かれたる江相公の筆の跡、今こそ思ひ知られけれ。
→【各章検討:少将乞請】
丹波の少将成経は、その夜しも院の御所法住寺殿に上伏しして、いまだ出でられざりけるに、大納言の侍ども、急ぎ御所に馳せ参り、少将殿呼び出だし奉り、この由申しければ、「などや宰相のもとより、今まで知らせざるらん」と宣ひも果てぬに、宰相殿よりとて御使あり。この宰相と申すは、入道相国の御弟、宿所は六波羅の惣門の内におはしければ、門脇の宰相とぞ申しける。丹波の少将には舅なり。
「何事にて候ふやらん。西八条殿より、きつと具し奉れと候ふ」と、宣ひつかはされたりければ、少将このこと心得て、近習の女房呼び出だし奉り、泣く泣く申されけるは、「ゆふべ何となう世の物騒がしう候ひしを、例の山法師の下りかなど、よそに思ひて候へば、はや成経が身の上にて候ひけり。ゆさり大納言斬らるべう候ふなれば、成経とても同罪にてぞ候はんずらん。今一度御前へ参つて、君をも見参せたく存じ候へども、かかる身にまかりなつて候へば、はばかり存じ候ふ」と申されたりける。
女房たち急ぎ御前へ参つて、このよし奏聞せられければ、法皇「さればこそ。今朝の入道が使にはや御心得あり。さるにてもこれへこれへ」と御気色ありければ、少将御前へ参れたり。法皇御涙を流させ給ひて、仰せ下さるる旨もなし。少将も涙にむせびで、申しあげらるることもなし。
さてしもあるべき事ならねば、ややあつて少将御前をまかり出でられけるを、法皇後ろをはるかに御覧じおくつて、「ただ末代こそ心うけれ。これが限りにてまたも御覧ぜぬ事もやあらんずらん」とて、御涙せきあへさせ給はず。少将御所をまかり出でけるに、院中の人々、少将の袖をひかへ袂にすがり、涙を流し、袖を濡らさぬはなかりけり。
舅の宰相のもとへ出でられたれば、北の方は近う産すべき人にておはしけるが、今朝よりこの嘆きをうちそへて、すでにも命も消え入る心地ぞせられける。少将御所をまかり出でられつるより、流るる涙つきせぬに、北の方の有様を見給ひては、いとどせん方なげにぞ見えられける。
少将の乳母に六条といふ女房あり。「御乳に参りはじめ候ひて、君をちの中より抱き上げ奉り、おほしたて参せてよりこの方、月日の重なるにしたがつて、我が身の年のゆくをば歎かずして、君のおとなしうならせ給ふことをのみよろこび候ひ、あからさまとは思へども、今年は二十一年、離れ参らせ候はず。院内へ参らせ給ひて、遅う出でさせ給ふだにも、心苦しう思ひ参らせ候ひつるに、つひにいかなる御目に合はせ給ふべきやらん」とて泣く。
少将、「いたうな歎いそ。宰相さておはすれば、さりとも命ばかりは乞ひ請け給はんずらん」と、やうやうに慰め置き給へども、人目も恥ぢず、泣き悶えけり。
さるほどに西八条殿より使しきなみにありければ、宰相、「出で向かうてこそ、ともかくもならめ」とて出でられければ、少将も宰相の車の尻に乗つてぞ出でられける。保元、平治よりこの方、平家の人々、楽しみ栄えのみあつて、うれへ嘆きはなかりしに、この宰相ばかりこそ、よしなき婿ゆゑに、かかる嘆きをせられけれ。
西八条近うなつて、まづ案内を申されたりければ、「少将をば門の内へは入れらるべからず」と宣ふ間、その辺なる侍のもとに下ろしおき奉り、宰相ばかりぞ門の内へは参れける。少将をば、いつしか武士どもうち囲んで、きびしう守護し奉る。さしも頼まれたりつる宰相殿には離れ給ひぬ。少将の心のうち、さこそはたよりなかりけめ。
宰相、中文にゐ給ひたれども、入道出でもあはれず、ややあつて宰相、源大夫判官季貞をもつて申されけるは、「かやうによしなき者に親しうなり候ひて、返す返す悔しみ候へども、かひも候はず。相具せさせて候ふ者の、このほどなやむこと候ふなるが、今朝よりこの嘆きをうちそへて、すでに命もたえ候ひなんず。教盛かうて候へば、なじかは僻事せさせ候ふべき。少将をばしばらく教盛に預けさせおはしませ」と申されければ、季貞参つてこの由を申す。
入道、「あはれ例の宰相がものに心得ぬよ」とて、とみに返事もし給はず。
ややあつて入道宣ひけるは、「『新大納言成親卿は、この一門滅ぼして天下を乱らんとする企てあり。この少将といふは、すでにかの大納言が嫡子なり。うとうもなれ、親しうもなれ、えこそ申しなだむまじけれ。もしこの謀叛遂げましかば、御辺とても穏しうてやはおはすべき』といふべし」とこそ宣ひけれ。
季貞帰り参り、宰相殿にこの由を申す。宰相世にも本意なげにて、重ねて申されけるは、「保元、平治よりこの方、度々の合戦にも、御命にはかはり参らせんとこそ存じ候ひしか。この後も荒き風をばまづ防ぎ参せ候ふべし。たとひ教盛こそ年老いて候ふとも、若き子どもあまた候へば、一方の御固めにも、などかならでは候ふべき。それに少将しばらく預からうど申すを、御赦しないは一向教盛を二心あるものと思し召され候ひけるにこそ。これほどに後ろめたう思はれ参せては、世にあつても何かはし候ふべき。今はただ身のいとまを給はつて、出家入道つかまつり、いかならん片山里にも籠りゐて、一筋に後世菩提の勤めを営み候はん。
よしなき浮世のまじはりなり。世にあればこそ望みもあれ、望みのかなはねばこそ恨みもあれ。如かじ憂き世を厭ひ、まことの道に入りなんは」とぞ宣ひける。
季貞参つて、「宰相殿ははや思し召しきつて候ふぞ。ともかく好き様に御ぱからひ候へ」と申しければ、その時入道大きに驚き、「さればとて、出家入道まではあまりにけしからず。その儀ならば、少将をばしばらく御辺に預け奉るといふべし」とこそ宣ひけれ。
季貞帰り参つて、宰相殿にこの由を申す。宰相、「あはれ人の子をば持つまじかりけるものかな。我が子の縁に結ぼほれざらんには、これほどまで心をば砕かじものを」とて出でられけり。
少将、宰相殿待ちうけ奉つて、「さていかが候ひつる」と申されければ、
宰相、「入道あまりに怒り、教盛にはつひに対面もし給はず。かなふまじき由をしきりに宣ひつれば、出家入道まで申したればにやらん、その儀ならばしばらく教盛に預くるとは宣ひつれども、始終はよかるべしともおぼえず」と宣へば、
少将、「さては成経は御恩をもつてしばしの命の延び候はんずるにこそ。さて父で候ふ大納言が事をば、何とか聞こし召され候ふぞ」と申されければ、
宰相、「いさとよ、御辺のことをこそ、やうやうに申しつれ、それまでは思ひもよらず」と宣へば、
少将涙をはらはらと流いて、「命のをしう候ふも、父をいま一度見ばやと思ふためなり。ゆふさり大納言斬られ候はんずるにおいては、成経とても命いきても何にかはし候ふべき。ただ一所でいかにもなるやうに申してたばせ給ふべうや候ふらん」と申されければ、
宰相世にも苦しげにて、「いさとよ、御辺の事をこそやうやうに申しつれ。それまでは思ひもよらねども、けさ内大臣のやうやうに申されつれば、それもしばらくはよきやうにこそ聞け」と宣へば、
少将聞きもあへ給はず、泣く泣く手を合はせてぞよろこばれける。
子ならざらん者は、誰かただ今我が身の上をさしおいて、これほどまでは喜ぶべき。まことの契りは親子の中にぞありける。子をば人の持つべかりけるものかなと、やがて思ひ返されけり。
さて今朝のごとくに同車して帰られけり。宿所には女房達死にたる人の生き返りたる心地して、さしつどひて皆喜び泣きをぞせられける。
→【各章検討:教訓状】
太政入道は、人々かやうに戒めおきても、なほ心ゆかずや思はれけん、すでに赤地の錦の直垂に、黒糸縅の腹巻の白金物打つたる胸板攻め、先年安芸守たりし時、神拝のついでに霊夢をかうむつて、厳島の大明神よりうつつに給はられたりし白銀の蛭巻したる小長刀、常の枕を離たず立てられたりしを脇にはさみ、中門の廊にぞ出でられたる。その気色ゆゆしうぞ見えし。
「貞能」と召す。筑後守貞能、木蘭地の直垂に、緋縅の鎧着て、御前へにかしこまつて候ふ。
入道宣ひけるは、「いかに貞能、この事いかが思ふ。保元に平右馬助をはじめとして、一門半ば過ぎて新院の御方に参りにき。一の宮の御事は、故刑部卿殿の養ひ君にてましまししかば、かたがた見離し参らせがたかりしかども、故院の御遺誡にまかせて御方にて先を駆けたりき。これひとつの奉公なり。次に平治元年十二月、信頼、義朝が院内をとり奉つて、大内に立て籠つて、天下暗闇となつたりしにも、入道随分身を捨てて、凶徒を追ひ落とし、経宗、惟方を召しいましめしに至るまで、君の御為に、すでに命を失はんとする事度々に及ぶ。されば人何と申すとも、七代までこの一門をばいかでか捨てさせ給ふべき。それに成親といふ無用のいたづらもの、西光といふ下賤の不当人めが申すことに付かせ給ひて、この一門滅ぼすべき由の法皇の御結構こそ遺恨の次第なれ。この後も讒奏する者あらば、当家追討の院宣を下されつとおぼゆるぞ。朝敵となつて後はいかに悔ゆとも益あるまじ。しばらく世をしづめんほど、法皇をば鳥羽の北殿へ移し参らするか、しからずはこれへまれ御幸をなし参らせんと思ふはいかに。その儀ならば、北面の輩どもの中より、矢をもひとつ射んずらん。侍どもにその用意せよと触るべし。およそは入道、院がたの奉公思ひ切つたり。馬に鞍置かせよ。着背長取り出だせ」とぞ宣ひける。
主馬判官盛国、急ぎ小松殿へ馳せ参つて、「世ははやかう候ふ」と申しければ、大臣聞きもあへず、「あははや、成親卿が頭はねられたるな」と宣へば、「その儀にては候はねども、入道殿音着背長を召され候ふ上、侍ども皆うつたつて、ただ今法住寺殿へ寄せんと出でたち候ふ。法皇をばしばらく鳥羽の北殿へ移し参すせうどは候へども、内々は鎮西の方へ流し参らせうどは擬せられ候へ」と申しければ、大臣、いかでかさることあるべきとは思はれけれども、今朝の禅門の気色、さるものぐるはしき事もやあるらんとて、西八条殿へぞおはしたる。
門前にて車より降り、門の内へさし入つて見給ふに、入道、腹巻を着給ふ上は、一門の卿相雲客数十人、おのおの色々の直垂に、思ひ思ひの鎧着て、中門の廊二行に着せられたり。そのほか諸国の受領、衛府、諸司なんどは縁にゐこぼれ、庭にもひしと並みゐたり。旗竿どもひきそばめひきそばめ、馬の腹帯をかため、甲の緒をしめ、ただ今皆打つたたんずるけしきどもなるに、小松殿烏帽子直衣に、大文の指貫のそばとつて、ざやめき入り給へば、ことの外にぞ見えられける。
入道ふし目になつて、あはれ例の内府が、世をへうするやうに振る舞ふかな。大きに諫めばやとこそは思はれけれども、さすが子ながらも、内には五戒を保つて、慈悲を先とし、外には五常をみだらず、礼儀を正しうし給ふ人なれば、あの姿に腹巻を着て向はんこと、さすが面ばゆう、はづかしうや思はれけん、障子を少し引きたてて、腹巻の上に、素絹の衣をあわてぎに着給ひたりけるが、胸板の金物の少しはづれて見えけるを、隠さうど衣の胸をしきりに引きちがへ引きちがへぞし給ひける。
大臣は舎弟宗盛卿の座上に着き給ふ。入道宣ひ出す旨もなし、大臣も申し上げらるる事もなし。ややあつて入道宣ひけるは、「成親卿が謀叛は事の数にもあらず、一向法皇の御結構にてありけるぞや。しばらく世をしづめんほど、法皇をば鳥羽の北殿へ移し奉るか、しからずはこれへまれ、御幸をなし参らせんと思ふはいかに」と宣へば、大臣聞きあへず、はらはらとぞ泣かれける。入道、いかにいかにとあきれ給ふ。
ややあつて大臣涙をおさへて申されけるは、「この仰せ承り候ふに、御運ははや末になりぬとおぼえ候ふ。人の運命の傾かんとては、必ず悪事を思ひ立ち候ふなり。また御有様を見参らせ候ふに、さらにうつつともおぼえ候はず。さすがわが朝は、辺地粟散の境とは申しながら、天照大神の御子孫国の主として、天児屋根尊の御末、朝の政を司らせ給ひしよりこの方、太政大臣の宦に至る人の甲冑をよろふ事、礼儀を背くにあらずや。なかんずく御出家の御身なり。それ三世の諸仏、解脱幢相の法衣を脱ぎ捨てて、たちまちに甲冑をよろひ、弓箭を帯しましまさん事、内にはすでに破戒無慙の罪を招くのみならず、外には仁義礼智信の法にも背き候ひなんず。かたがた恐れある申し事にては候へども、心の底に旨趣を残すべきにあらず。
まづ世に四恩候ふ。天地の恩、国王の恩、父母の恩、衆生の恩これなり。その中に最も重きは朝恩なり。普天の下、王地にあらずといふ事なし。されば彼の頴川の水に耳を洗ひ、首陽山に蕨を折りし賢人も、勅令背き難き礼儀をば存知すとこそ承れ。何ぞ況んや、先祖にもいまだ聞かざつし太政大臣を極めさせ給ふ。いはゆる重盛が無才愚闇の身をもつて、蓮府槐門の位に至る。しかのみならず、国郡半ばは一門の所領となり、田園ことごとく一家の進止たり。これ希代の朝恩にあらずや。今これらの莫大の御恩を思し召し忘れて、みだりがはしく君をかたぶけ参らつさせ給はんこと、天照大神、正八幡宮の神慮にも背き候ひなんず。
日本はこれ神国なり。神は非礼をうけ給はず。しかれば君の思し召し立つ所、道理半ばなきにあらず。中にもこの一門は代々の朝敵を平らげて、四海の逆浪をしづむる事は、無双の忠なれども、その賞に誇る事は、傍若無人とも申しつべし。
聖徳太子十七箇条の御憲法に、『人皆心あり。心おのおの執あり。彼を是し我を非し、我を是し彼を非す。是非の理、誰かよく定むべき。あひともに賢愚なり。環のごとくにして端なし。ここをもつて、たとひ人怒るといふとも、還つて我が咎を恐れよ』とこそ見えて候へ。しかれども当家の運命尽きざるによつて、謀叛すでに露はれさぬ。その上仰せ合はせらるる成親卿召しおかれぬる上は、たとひ君いかなる不思議を思し召し立たせ給ふとも、何の恐れか候ふべき。所当の罪科行はるる上は、退いて事の由を陳じ申させ給ひて、君の御ためには、いよいよ奉公の忠勤を尽くし、民のためには、ますます撫育の哀憐をいたさせ給はば、神明の加護に預かつて、仏陀の冥慮に背くべからず。神明仏陀感応あらば、君も思し召し直すこと、などか候はざるべき。君と臣とを双ぶるに、親疎分く方なし。道理と僻事をならべんに、いかでか道理につかざるべき。
→【各章検討:烽火之沙汰】
これは君の御理にて候へば、かなはざらんまでも、法住寺殿を守護し参らせ候ふべし。
そのゆゑは、重盛はじめ叙爵より、今大臣の大将に至るまで、しかしながら君の御恩ならずといふ事なし。その恩の重き事を思へば、千顆万顆の玉にも超え、その恩の深き色を案ずれば、一入再入の紅にもなほ過ぎたらん。しからば院中へ参り籠り候ふべし。その儀にて候はば、重盛が身に代はり、命にかはらんと契りたる侍ども少々候ふらん。これらを召し具して法住寺殿を守護し候はば、さすがもつてのほかの御大事でこそ候はんずらめ。
かなしきかな、君の御ために奉公の忠をいたさんとすれば、迷廬八万の頂よりもなほ高き父の恩たちまちに忘れんとす。いたましきかな、不孝の罪を逃れんとすれば、君の御ためにはすでに不忠の逆臣ともなりぬべし。進退維れ谷れり。是非いかにも弁へがたし。
申し請くる所の詮は、ただ重盛が首を召され候へ。院中をも守護し参らすべからず、院参の御伴をも仕るべからず。
昔の蕭何は大功かたへに踰ゆるによつて、官大相国に至り、剣を帯し沓を履きながら殿上へ昇る事を許されしかども、叡慮に背く事ありしかば、高祖重う戒めて深う罪せられにき。かやうの先蹤を思ふにも、富貴といひ、、栄華といひ、朝恩といひ、重職といひ、かたがた極めさせ給ひぬれば、御運の尽きん事も難かるべきにも候はず。
『富貴の家には禄位重畳せり。再び実なる木は、その根必ず労む』と見えて候ふ。心細うこそ候へ。いつまでか命生きて、乱れん世をも見候ふべき。ただ末代に生をうけて、かかる憂き目にあひ候ふ重盛が果報のほどこそ拙う候へ。ただ今も侍一人に仰せ付けられて、御坪の内に引き出だされて、重盛が頭の刎ねられん事は、いとやすきほどの御事でこそ候はんずらめ。これをおのおの聞き給へや」とて、直衣の袖も絞るばかりに涙を流し、かき口説かれければ、その座にいくらもなみゐ給へる人々、心あるも心なきも、みな鎧の袖をぞ濡らされける。
入道、頼みきつたる内府は、かやうに宣ふ。力もなげで、「いやいやそれまでも思ひも寄りさうず。悪党どもの申す事につかせ給ひて、僻事などや出で来んずらんと思ふばかりでこそ候へ」と宣へば、
大臣、「たとひいかなる僻事出で来候ふとも、君をば何とかし参させ給ふべき」とて、ついたつて中門に出で、侍どもに宣ひけるは、「汝等よくよく承らずや。今朝よりこれに候ひて、かやうの事どもをも申ししづめんとは存じつれども、あまりにひた騒ぎに見えつる間、帰りつるなり。院参の御供においては、重盛が頭の刎ねられたらんを見てつかまつれ。さらば人参れ」とて、小松殿へぞ帰られける。
大臣主馬の判官盛国を召して、「重盛こそ天下の大事を別して聞き出だしたれ。我と思はんずる者どもは、急ぎ物の具して参れと披露せよ」と宣へば、馳せ回つて披露す。おぼろげにても騒ぎ給はぬ人の、かやうの披露のあれば、別の仔細あることにこそとて、兵どももの具して、我も我もと馳せ参る。淀、羽束瀬、宇治、岡屋、日野、勧修寺、醍醐、小栗栖、梅津、桂、大原、志津原、芹生の里に溢れゐたりける兵ども、或いは鎧着ていまだ甲を着ぬもあり、或いは矢負うていまだ弓を持たぬもあり。片鐙踏まずにて、あわて騒いで馳せ参る。
小松殿に騒ぐことありと聞こえしかば、西八条に数千騎ありける兵ども、入道にはかうとも申しも入れず、ざやめきつれて、皆小松殿へぞ馳せたりける。少しも弓箭に携はるほどの者の、一人ももるるはなかりけり。
その時入道おおきに驚きて、筑後守貞能を召して、「内府は何と思うて、これをば呼び取るやらん。これにていひつるやうに、浄海がもとへ討手などや向けんずらん」と宣へば、貞能涙をはらはらと流いて、「人も人にこそよらせ給ひ候へ。いかでかただ今さる御事候ふべき。これにて申させ給ひつる事ども、皆はや御後悔ぞ候ふらん」と申しければ、入道、内府に仲違うては、悪しかりなんとや思はれけん、法皇迎へ参せんずる事も、はや思ひ留まり、腹巻脱ぎ置き、素絹の衣に袈裟うちかけて、いと心にもおこらぬ念誦してこそおはしけれ。
さるほどに、小松殿には盛国承つて、着到付けけり。馳せ参じたる兵ども、一万余騎とぞ記しける。
着到披見の後、大臣中門に出でて、侍どもに宣ひけるは、「日ごろの契約を違へず、参りたるこそ神妙なれ。異国にもさる例あり。周の幽王褒娰といへる最愛の后を持ち給へり。天下第一の美人なり。されどもこの后、幽王の御心にかなはざりける事は、褒娰笑みを含まずとて、すべて笑ふ事をし給はず、異国の習ひには、天下に兵革起こるとき、所々に火を挙げ、太鼓を打つて兵を召す謀あり。これを烽火と名づく。
ある時天下にに兵乱起こつて、所々に烽火を上げたりければ、后これを御覧じて、『あなおびたたし、火もあれほど多かりけりな』とて、その時はじめて笑ひ給へり。一度笑めば百の媚びありけん。幽王これを嬉しき事にし給ひて、その事となく、常に烽火をあげ給ふ。諸侯来たるに讐なし、讐なければすなはち去んぬ。かやうにすること度々に及べば、参る者もなかりけりず。
ある時隣国より凶賊起こつて、幽王の都を攻めけるに、烽火を上ぐれども、例の后の火に習ひて、兵も参らず。その時都傾いて、幽王終に滅びにけり。さてかの后は野干なつて走り失せけるぞ恐ろしき。
かやうの事がある時は、自今以後もこれより召さんには、みなかくのごとく参るべし。重盛不思議の事を聞き出だして召ししつるなり。されどもこの事聞きなほしつ、僻事にてありけり。さらばとう帰れ」とて、皆返されけり。実にはさせる事をも聞き出だされざりけれども、今朝父を諫め申されつる詞にしたがひ、我が身に勢のつくか付かぬかのほどをも知り、また父子戦をせんとにはあらねども、かうして入道大相国の謀叛の心も、やはらぎ給ふかとの謀とぞ聞こえし。
君、君たらずといふとも、臣もつて臣たらずんばあるべからず。父、父たらずといへども、子もつて子他乱場あるべし。君のためには忠あつて、父のためには孝あり。文宣王の宣ひけるに違はず。君もこの由聞こし召して、「今に始めぬ事なれども、内府が心のうちこそはづかしけれ。怨をば恩をもつて報ぜられたり」とぞ仰せける。
「果報こそめでたくて、大臣の大将にいたらめ。容儀帯佩人に勝れ、才智才覚さへ世に超えたるべしやは」とぞ、時の人々感じ合はれける。「国に諫むる臣あれば、その国必ずやすく、家に諫むる子あれば、その家必ず正しといへり。上古にも末代にも、ありがたかりし大臣なり。
→【各章検討:大納言流罪】
六月二日、新大納言成親卿をば、公卿の座へ出だし奉つて、御物参らせたりけれども、胸せき塞がつて、御箸をだにも立てられず。御車を寄せて、とうとうと申せば、心ならずぞ乗り給ふ。見回せば、軍兵ども、前後左右にうち囲んだり。我が方様の者は一人もなし。いかにもして今一度小松殿に見え奉らばやと思はれけれども、それもかなはず。「たとひ重科をかうむつて遠国へ行く者も、人一人身にそへぬ事やある」とて、車の中にてかきくどかれければ、守護の武士どもも皆鎧の袖をぞ濡らしける。
西の朱雀を南へ行けば、大内山をも今はよそにぞ見給ひける。年ごろ見慣れ奉りし雑色、牛飼ひに至るまで、涙を流し袖を濡らさぬはなかりけり。まして都に残り留まり給ふ北の方、幼き人々の心の中、推し量られてあはれなり。鳥羽殿を過ぎ給ふにも、この御所へ御幸なりしには、一度も御伴にははづれざりしものをとて、我が山荘洲浜殿とてありしをも、余所に見てこそ通られけれ。鳥羽の南の門に出でて、舟遅しとぞ急がせける。
「こはいづちへとて行くらん。同じう失はるべくは、都近きこの辺にてもあれかし」と宣ひけるこそ、せめてのことなれ。近うそひ奉つたる武士を、「誰そ」と問へば、「難波次郎経遠」と名のり申す。「もしこのほどに我が方さまの者やある。尋ねて参らせよ。舟に乗らぬ先に言ひおくべき事あり」と宣へば、その辺を走りまはつて尋ねけれども、我こそ大納言殿の御方と申す者一人もなし。
「さりとも我が世にありし時は、したがひつきたりし者ども、一二千人もありつらんに、今はよそにてだにこの有様を見送る者のなかりける悲しさよ」とて、泣かれければ、たけきもののふどもも、皆鎧の袖をぞ濡らしける。ただ身にそふ物とては、つきせぬ涙ばかりなり。
熊野詣で、天王寺詣でなどには、二つ瓦の三つ棟に造つたる船にのり、次の船二三十艘漕ぎ連ねてこそありしに、今はけしかるかきすゑ屋形船に大幕ひかせ、見も馴れぬ兵どもに具せられて、今日を限りに都を出でて、波路遥かに赴かれけん、心の内、推し量られてあはれなり。
その日は摂津国大物の浦に着き給ふ。新大納言、死罪に行はるべかりし人の、流罪になだめられける事は、ひとへに小松殿のやうやうに申されけるによつてなり。
同じき三日、大物の浦へは京より御使ひありとて、ひしめきけり。新大納言「これにて失へとにや」と聞き給へば、さはなくして、備前の児島へ流すべしとの御使ひなり。
また小松殿より御文あり。「いかにもして、都近き片山里にも置き奉らばやと、さしも申しつる事のかなはざりける事こそ世にあるかひも候はねども、さりながらいづくの浦にもおはせよ、我が命のあらん限り訪ひ奉るべし」とぞ宣ひける。
難波がもとへも、「あひ構へて、よくよくいわはり奉れ。御心にばし違ふな」など宣ひ遣はし、旅のよそほひ、こまごまと沙汰し送られたり。
新大納言はさしもかたじけなう思し召されける君にも離れ参らせ、つかの間もさり難う思はれける北の方、幼き人々にも別れ果てて、「こはいづちへとて行くらん。ふたたび故郷にかへつて、妻子を相見る事もあり難し。一年山門の訴訟によつて、すでに流されしをも、君惜しませ給ひて、西の七条より召し返されぬ。さればこれは君の御戒めにもあらず、こはいかにしつる事どもぞや」と、天に仰ぎ地に伏して、泣き悲しめどもかひぞなき。
明くれば、舟おし出だいて下り給ふに、道すがらもただ涙にのみむせびで、ながらふべしとはおぼえねども、さすが露の命は消えやらず、跡の白波隔つれば、都は次第に遠ざかり、日数やうやう重なれば、遠国はすでに近づきぬ。備前の児島に漕ぎ寄せて、民の家のあさましげなる柴の庵に入れ奉る。島のならひ、後ろは山、前は海、磯の松風、波の音、いづれもあはれは尽きせず。
→【各章検討:阿古屋之松】
新大納言一人にも限らず、警めをかうむる輩おほかりき。近江中将入道蓮浄佐渡国、山城守基兼伯耆国、式部大夫正綱播磨国、宗判官信房阿波国、新平判官資行は美作国とぞ聞こえし。
折節入道相国は、福原の別業におはしけるが、同じき二十日、摂津左衛門盛澄を使者にて、門脇殿のもとへ、「丹波少将、急ぎこれへたび候へ。尋ぬべき事あり」と宣ひ遣はされたりければ、宰相、「さらばただありし時、ともかくもなりたりせばいかがせん。今さらまた物を思はせんずらん悲しさよ」とて、下り給ふべき由宣へば、少将泣く泣く出で立たれけり。
女房たちは、「かなはぬものゆゑに、なほもただ宰相の申されよかし」ともだえこがれ給ひけり。宰相、「存ずるほどの事は申しつ。今は世を捨てつるよりほかは、何事をか申すべき。さりながらいづくの浦にもおはせよ、我が命のあらん限りはとぶらひ奉るべし」とぞ宣ひける。
少将は今年三つになり給ふ幼き人を持ち給へり。日ごろは若き人にて、公達などの事もさしもこまやかにおはせざりしかども、今はの時にもなりしかば、さすがに心にやかかられけん、「幼き者を今一度見ばや」とこそ宣ひけれ。乳母抱き参りたり。少将膝の上に置き、髪かきなで、涙をはらはらと流いて、「あはれ汝七歳にならば男になし、君へ参らせんとこそ思ひしに、されども今はいふかひなし。もし不思議に命生きておひたちたらば、法師になつて、我が後の世をよく弔へよ」とぞ宣ひける。
いまだいとけなき心に、何事をか聞き分け給ふべきなれども、うちうなづき給へば、少将をはじめ参らせて、母上乳母の女房、その座にいくらもなみゐ給へる人々、心あるも心なきも、みな袖をぞ濡らされける。
福原の御使ひ、今夜鳥羽まで出でさせ給ふべき由申しければ、少将、「いくほども延びざらんものゆゑに、今宵ばかりは都のうちにて明かさばや」と宣ひけれども、かなふまじき由をしきりに申しければ、力及び給はず、その夜鳥羽へぞ出でられける。
同じき二十二日、少将福原へ下り着き給ひたりければ、入道相国、備中国の住人瀬尾太郎兼康に仰せて、備中国へぞ流されける。兼康は宰相の返り聞き給はん所を恐れて、道すがらもやうやうにいたはり慰め奉る。されども、少将慰み給ふ事もなし。夜昼ただ仏の御名をのみ唱へて、父の事をぞ祈られける。
さるほどに新大納言は、備前の児島におはしけるを、預かりの武士難波次郎経遠、「これはなほ船着き近うて悪しかりなん」とて、地へ渡し奉り、備前備中のさかひ、庭瀬の郷、有木の別所といふ山寺に置き奉る。備中の瀬尾と有木の別所との境、わづかに五十町に足らざる所なりければ、少将さすがそなたの風もなつかしうや思はれけん、ある時兼康を召して、「これより大納言殿の御渡りあんなる有木の別所とかやへはいかほどの道ぞ」と問ひ給へば、兼康すぐに知らせ奉つては、悪しかりなんとや思ひけん、「片道十二三日候ふ」と申す。
その時少将涙をはらはらと流いて、「日本は昔三十三箇国にてありけるを、中ごろ六十六箇国には分けられたんなり。さいふ備前備中備後も、もとは一国にてありけるなり。また東に聞こゆる出羽陸奥も、昔は六十六郡が一国なりしを、十二郡を割き分かつて後、出羽の国とは立てられたんなり。されば実方の中将奥州へ流されし時、当国の名所、阿古屋の松を見ばやとて、国の内を尋ね参りけるに、尋ねかねてすでにむなしく帰りける道にて、老翁の一人行きあひたり。
中将、『やや御辺は旧き人とこそ見奉れ。当国の名所、阿古屋の松といふ所や知りたる』と問ふに、『まつたく当国の内には候はず、出羽国にや候ふらん』と申しければ、『さては汝も知らざりけり。世末になつて、国の名所をも、はや呼び失ひたるにこそ』とて、すでに過ぎんとし給へば、老翁中将の袖をひかへて、『あはれ、君は、
♪10
みちのくの 阿古屋の松に 木がくれて
いづべき月の 出でもやらぬか
といふ歌の心をもつて、当国の名所、阿古屋の松とは御尋ね候ふか。それは昔両国が一国なりし時、詠み侍る歌なり。十二郡を割き分かつて後は、出羽国にや候ふらん』と申しければ、さらばとて実方の中将も、出羽国に越えてこそ、阿古屋の松をば見たりけれ。
筑紫の大宰府より都へ腹赤の使ひの上るこそ、歩路十五日とは定めたれ。すでに十三日と申すは、ほとんど鎮西へ下向ござんなれ。遠しといふとも、備前備中の境、両三日にはよも過ぎじ。近いを遠う申すは、父大納言殿の御渡りあんなる所を、成経に知らせじとてこそ申すらめ」とて、その後は恋しけれども問ひ給はず。
→【各章検討:大納言死去】
さるほどに法勝寺の執行俊寛僧都、平判官康頼、この少将、相具して、三人薩摩方鬼界が島へぞ流されける。かの島へは都を出でて、多くの波路をしのぎてはるばるとゆく所なり。おぼろげにては舟も通はず、島にも人まれなり。
おのづから人はあれども、いふ詞も聞き知らず。しきりに毛生ひつつ、色黒うして牛のごとし。衣裳なければ人も似ず。男は烏帽子もせず、女は髪もさげざりけり。食する物もなければ、ただ殺生をのみ先とす。しづが山田を返さねば、米穀の類もなく、園の桑を採らざれば、絹帛の類もなかりけり。島の中には高山あり。とこしなへに火燃え、硫黄といふもの満ち満てり。かるがゆゑに硫黄が島とも名付けたり。雷常に鳴り上がり、鳴り下がり、麓には雨しげし。一日片時人の命の堪へてあるべきやうもなし。
さるほどに、新大納言は少しくつろぐこともやと思はれけるが、子息丹波少将成経もはや薩摩方鬼界が島へ流されぬと聞いて、「今は何をか期すべき」とて、便りに付けて、小松殿へ出家の心ざし候ふ由申されたりければ、法皇へ伺ひ申して、御免ありけり。やがて出家し給ひぬ。栄華の袂を引きかへて、憂き世をよそに墨染めの袖にぞやつれ給ひける。
さるほどに、大納言の北の方は、都の北雲林院の辺に忍ばれけるが、さらぬだに住み馴れぬ所は物憂きに、いとどしのばれければ、過ぎ行く月日も明かしかね、暮らしわづらふ様なりけり。女房、侍多かりけれども、或いは世を恐れ、或いは人目をつつむほどに、問ひとぶらふ者一人もなし。
されどもその中に源左衛門尉信俊といふ侍一人、情けある者にて、常はとぶらひ奉る。ある時北の方、信俊を召して、「まことやこれには、備前の児島におはしけるが、このほど聞けば、有木の別所とかやにおはすなり。いかにもして、今一度はかなき筆の跡をも奉り、御音信をも聞かばやと思ふはいかに」と宣へば、
信俊涙をはらはらと流いて、「幼少の時より御憐れみをかうぶつて、片時も離れ参らせ候はず。召され参らせ候ひし御声も耳にとどまり、諫められ参らせ候ひし御言葉も肝に銘じて、忘るる事も候はず。西国へ御下りの時も、御伴つかまつるべう候ひしかども、六波羅より赦されなければ、力及ばず。今度はたとひいかなる憂き目にも逢ひ候へ、御文を給はつて下り候はん」と申しければ、北の方なのめならず喜び、やがて書いてぞ賜うだりける。若君、姫君も面々に御文あり。
信俊この御文どもを給はつて、はるばると備前国有木の別所へ尋ね下る。預かりの武士難波次郎経遠にこの由を言ひ入れたりければ、心ざしのほどを感じて、やがて見参に入たりける。大納言入道殿は、ただ今も都の事を宣ひ出だして、歎きしづみでおはしける所に、「京より信俊が参つて候ふ」と申しければ、その時起き上がり、「いかにやいかにや、夢かうつつか、これへこれへ」とぞ宣ひける。信俊、御そば近う参つて御有様を見奉るに、まづ御すまひの心うさはさる事にて、墨染めの御袂を見奉るにぞ、目もくれ心も消えておぼえける。
北の方の仰せかうむつし次第、こまごまと語り申して、御文取り出でて奉る。これを開けて見給ふに、水茎の跡は涙にかきくれて、そこはかとは見えねども、「幼き人々のあまりに恋ひ悲しみ給ふ有様、我が身も尽きせぬ物思ひに堪へ忍ぶべうもなし」など書かれたれば、「日ごろの恋ひしさは事の数ならず」とぞ悲しみ給ふ。
かくて四五日も過ぎしかば、信俊、「これに候ひて、最後の御有様をも見参らせん」と申しければ、預かりの武士かなふまじき由を申す間、大納言入道力及び給はず。「さらばとう上れ」とこそ宣ひけれ。
御返事書いて賜うだりければ、信俊これを給はつて、「またこそ参り候はめ」とて、いとま申して出でければ、「汝がまた来んたびを待ち尽くべしともおぼえぬぞ。あまりにしたはしくおぼゆるに、しばししばし」と宣ひて、たびたびよびぞ返されける。
さてしもあるべき事ならねば、信俊涙をおさへつつ、都へ帰り上りけり。
北の方に、返事取り出だして奉る。これを開けて見給ふに、文の奥に御髪の一房ありけるを、二目とも見給はず。はや御様かへさせ給ひてけりとおぼしくて、形見こそなかなか今はあだなれとて、引きかづいてぞ臥し給ふ。若君、姫君もをめき叫び給ひけり。
さるほどに、大納言入道殿をば、同じき八月十九日、備前備中の境、吉備の中山といふ所にてつひに失ひ奉る。その最期の有様やうやうに聞こえけり。はじめは酒に毒を入れて勧めけれども、かなはざりければ、二丈ばかりありける岸の下に菱を植ゑて、突き落とし奉れば、菱に貫かつてぞ失せられける。無下にうたてき事どもなり。例少なうぞ聞こえし。
さるほどに、大納言の北の方、都北山雲林院の辺に忍ばれけるが、はやこの世に無き人と聞き給ひて、「今は何をか期すべき」とて、菩提院といふ寺におはして様をかへ、形のごとくの仏事いとなみ給ふぞあはれなる。
この北の方と申すは、山城守敦方の娘、後白河法皇の御思ひ人、無双の美人にておはしけるを、この大納言有り難き寵愛の人にて、下し給はられたりけるとかや。若君、姫君も、面々に花を手折り、閼伽の水を掬びて、父の後世をとぶらひ給ふぞあはれなる。かくて時移り事去つて、世のかはり行く有様は、ただ天人の五衰に異ならず。
→【各章検討:徳大寺之沙汰】
ここに徳大寺の大納言実定卿は、平家の次男宗盛卿に大将を超えられて、しばらく世のならんやうを見んとて、大納言を辞して籠居しておはしけるが、「出家せん」と宣へば、御内の上下皆歎き悲しびあへりけり。
ここに藤蔵人大夫重兼といふ諸大夫あり。諸事に心得たる人にておはしけるが、ある月の夜、実定卿ただ独り南面の御格子挙げさせ、月にうそぶいておはしけるに、藤蔵人参りたり。
大納言「誰そ」と宣へば、「重兼候ふ」。「夜は遥かにふけぬらんに、いかにただ今何事ぞ」と宣へば、「今夜はあまりに月冴え、よろづ心の澄むままに参つて候ふ」。大納言、「神妙なり。何とやらん、世に徒然なるに」とぞ宣ひける。
その後、昔今の物語りどもし給ひて後、大納言宣ひけるは、「つらつら平家の繁盛する有様をみるに、入道相国の嫡子重盛、次男宗盛、左右の大将にてあり。やがて三男知盛、嫡孫維盛もあるぞかし。彼もこれも次第にならば、他家の人々、いつ大将に当たりつくべしともおぼえず。されば終の理、出家せん」とぞ宣ひける。
藤蔵人涙をはらはらと流いて、「君の御出家候ひなば、御内の上下、皆まどひ者となり候ひなんず。重兼こそ、めづらしき事を案じ出だして候へ。たとへば安芸の厳島をば、平家なのめならず崇めうやまはれ候ふ。御参り候へかし。かの社には内侍とて、優なる舞姫ども多く候ふ。一七日ばかり御参籠候はば、めづらしく思ひ参らせてももてなし参らせ候はんずらん。『何事の御祈誓に御参り候ふぞ』と尋ね申し候はば、ありのままに仰せ候ふべし。さて御下向の時、宗徒の内侍一両人都まで召し具せさせ給ひて候はば、定めて西八条殿へぞ参り候はんずらん。入道相国尋ね申され候はば、ありのままにぞ申し候はんずらん。入道は極めて物めでし給ふ人にて、しかるべきはからひもあんぬとおぼえ候ふ。あはれ御参り候へかし」と申しければ、大納言、「これこそ思ひ寄らざりつれ。やがて参ん」とて、にはかに精進はじめつつ、厳島へぞ参られける。
げにも優なる舞姫ども多かりけり。「当社へは、我等が主の、平家の公達こそ、御参り候ふに、この御参りこそめづらしう思ひ参らせ候へ。何事の御祈誓に御参り候ふぞ」と尋ね申しければ、「我はこれ大将を人に超えられて、その祈りのためなり」と仰せける。一七日御参籠ありけるに、夜昼つきそひ奉てもてなし奉る。七日が内に神楽し、風俗、催馬楽歌はれけり。舞楽三箇度までありけり。
さて御下向の時、宗徒の内侍十余人、船をしたてて、一日路送り奉る。あまりに名残惜しきに、今一日路、今二日路と宣ひて、都までこそ具せられけれ。徳大寺の亭へ入れさせおはしまし、やうやうにもてなし、さまざまの引き出物を賜うで帰されけり。内侍ども、「これまで上りたらんずるに、いかでか我等が主の平家へ参らであるべき」とて、西八条殿へぞ参りたる。
入道やがて出であひ対面して、「いかに内侍どもは、何事の列参ぞ」「徳大寺殿の厳島へ御参り候ふほどに、我等が船をしたてて、一日路送り参らせて候へば、あまりに名残惜しきに、今一路、今二日路と仰せられて、これまで召し具せられて候ふ」と申す。入道、「いかに徳大寺は何事の祈誓に厳島へは参られけるやらん」と問はれければ、「大将の御祈りのためとこそ仰せ侍りつれ」と申しければ、その時入道大きにうちうなづき、「あないとほし。王城にさしもあらたなる霊仏霊社のいくらもましますをさしおいて、浄海が崇め奉る厳島まではるばると参られけるこそいとほしけれ。これほどに切ならん上は」とて、嫡子重盛内大臣の左大将にておはしけるを辞せさせ奉り、次男宗盛大納言の右大将にておはしけるを超えさせて、徳大寺を左大将にぞなされける。あはれかしこき策かな。
新大納言も、かやうの策をばし給はで、由なき謀叛興して、我が身も子孫も、滅びぬるこそうたてけれ。
→【各章検討:山門滅亡1 堂衆合戦】
さるほどに、法皇は三井寺の公顕僧正を御師範として、真言の秘法を伝授せさせおはしますが、大日経、金剛頂経、蘇悉地経、この三部の秘経を受けさせ給ひて、九月四日、三井寺にて御灌頂あるべきと聞こゆ。山門の大衆憤り申しけるは、「御灌頂音受戒は、みな当山にして遂げさせまします事先規なり。なかについて山王の化導は、受戒灌頂のためなり。しかるを今三井寺にて遂げさせおはしまさば、寺を一向焼き払ふべし」とぞ申しける。
法皇、「これ無益なり」とて、御加行を結願して、思し召し留らせ給ひけり。さりながらもなほ御本意なればとて、公顕僧正を召し具し、天王寺へ御幸なつて、五智光院を建て、亀井の水を五瓶の智水として、仏法最初の霊地にてぞ、伝法灌頂をば遂げさせましましける。
山門の騒動をしづめんがために、三井寺にて御灌頂はなかりしかども、山門には堂衆、学生不快の事出で来て、合戦度々に及ぶ。毎度に学侶うち落とされて、山門の滅亡、朝家の大事とぞ見えし。堂衆といふは、学生の所従なりける童部の法師になりたるや、もしは中間法師原にてもやありけん。金剛寿院の座主覚尋権僧正治山の時より、三塔に結番して、夏衆と号して、仏に花参らせし者どもなり。近年行人とて、大衆をも事ともせず振る舞ひしが、かく度々の戦に打ち勝ちぬ。
堂衆等師主のの命を背いて合戦を企つ、速やかに誅罰せらるべき由、公家に奏聞し、武家に触れ訴ふ。これによつて、入道相国院宣を承つて、紀伊国の住人、湯浅権守宗重以下、畿内の兵二千余人、大衆に差し添へて堂衆を攻めらる。堂衆日ごろは東陽坊にありけるが、これを聞いて、近江国三箇の庄に下向して、あまたの勢を率してまた登山し、早尾坂に城郭を構へてたて籠る。
九月二十日の辰の一点に、大衆三千人、官軍二千余人、都合その勢五千余人、早尾坂に押し寄せて、鬨をどつとぞ作りける。今度はさりともとこそ思ひつるに、大衆は官軍を先立てんとす。官軍は大衆を先立てんと争ふほどに、心々になつて、はかばかしうも戦はず。城の内より石弩はづし懸けたりければ、大衆、官軍数を尽くいて打たれにけり。堂衆に語らふ悪党といふは、諸国の窃盗、強盗、山賊、海賊等なりけり。欲心熾盛にして死生知らずの奴ばらなれば、我一人と思ひ切つて戦ふほどに、今度もまた学生戦ひ負けにけり。
→【各章検討:山門滅亡2】
その後は山門いよいよ荒れ果てて、十二禅衆のほかは、止住の僧侶もまれなり。谷々の講演摩滅して、堂々の行法も退転す。修学の窓を閉ぢ、座禅の床を空しうせり。四教五時の春の花もにほはず、三諦即是の秋の月も曇れり。
三百余歳の法燈をかかぐる人もなく、六時不断の香の煙も絶えやしにけん。堂舎高く聳えて、三重の構へを青漢の内にさしはさみ、棟梁遥かに秀でて、四面の垂木を白霧の間に懸けたりき。されども今は供仏を嶺の嵐に任せ、金容を紅瀝に湿し、夜の月燈をかかげて、軒の隙より漏り、暁の露、珠を垂れて、蓮座のよそほひを添ふとかや。
それ末代の俗に至つては、三国の仏法も次第に衰微せり。遠く天竺に仏跡をとぶらへば、昔仏の法を説き給ひし竹林精舎、給狐独園も、このごろは虎狼野干のすみかとなつて、礎のみや残るらん。白鷺池には水絶えて、草のみ深くしげれり。
退凡下乗の卒塔婆も苔のみ埋みて傾きぬ。震旦にも天台山、五台山、白馬寺、玉泉も、今は住侶なきさまに荒れ果てて、大小乗の法門も、箱の底にや朽ちぬらん。我が朝にも南都の七大寺荒れ果てて、八宗九宗も跡絶え、愛宕、高雄も、昔は堂塔軒を並べたりしかども、一夜のうちに荒れ果てて、天狗の住みかとなり果てぬ。さればにや、さしもやんごとなかりつる天台の仏法も、治承の今に及んで、滅び果てぬるにや。心ある人の歎き悲しまぬはなかりけり。何者のしわざにやありけん、離山しける僧の坊の柱に、一首の歌をぞ書き付けける。
♪11
祈り来し 我が立つ杣の 引きかへて
人なき峰と なりやはてなむ
これは伝教大師、当山草創の昔、阿耨多羅三藐三菩提の仏達に祈り申されし事を思ひ出でて詠みたりけるにや。いとやさしうぞ聞こえし。
八日は薬師の日なれども、南無と唱ふる声もせず、卯月は垂迹の月なれども、幣帛を捧ぐる人もなく、緋の玉垣神さびて、注連縄のみや残るらん。
→【各章検討:善光寺炎上】
その頃信濃国善光寺炎上の事ありけり。かの如来と申すは、昔、中天竺舎衛国に五種の悪病発つて、親疎多く滅びにしかば、月蓋長者が致請によつて、竜宮城より閻浮檀金を得て、仏、目蓮長者、心を一にして、鋳顕し奉る一𢷡手半の弥陀の三尊、三国無双の霊像なり。仏滅度の後、中天竺に留まらせ給ふ事、五百余歳。されども仏法東漸の理にて、百済国に移らせ給ひて、一千歳の後、百済の帝斉明王、我が朝の欽明天皇の御宇に当つて、かの国よりこの国へ移らせ給ひて、摂津国難波の浦にて星霜を送らせおはします。常に金色の光を放ち給ひければ、これによつて年号を金光と号す。
同じき三年三月上旬に、信濃国の住人大海本太善光、都へ上り、如来に逢ひ奉て、昼は善光、如来を負ひ奉り、夜は善光、如来に負はれ奉り、信濃国へ下り、水内郡に安置し奉てよりこの方、星霜すでに五百八十余歳、炎上これ始めとぞ承る。「王法尽きんとては、仏法まづ亡ずと言へり。さればにや、さしもやんごとなかりつる霊寺、霊山多く滅びぬる事、王法の末になりぬる先表やらん」とぞ人申しける。
→【各章検討:康頼祝言】
さるほどに、鬼界が島の流人ども、露の命草葉の末にかかつて、惜しむべしとにはあらねども、丹波少将の舅平宰相の領、肥前国鹿瀬の庄より、衣食を常に送られければ、それにてぞ俊寛僧都も康頼も命を生きては過ごしける。康頼は流されし時、周防の室積にて出家してんげれば、法名は性照とこそ付きたりけれ。出家はもとより望みなりければ、
♪12
つひにかく 背きはてける 世の中を
とく捨てざりし ことぞ悔しき
丹波少将と康頼入道は、もとより熊野信心の人々にておはしければ、「この島の内に、三所権現を勧請し奉つて、帰洛のことを祈り申さばや」といふに、俊寛は、天性不信第一の人にて、これを用ゐず。
二人は同じ心にて、もし熊野に似たる所もやあると、島の内を尋ぬるに、或いは林塘の妙なるあり、紅錦繍のよそほひ品々に、或いは雲嶺のあやしきあり、碧羅綾の色ひとつにあらず。山のけしき、樹の木立に至るまで、ほかよりなほ勝れたり。南を望めば、海漫々として、雲の波、煙の浪深く、北を顧みれば、また山岳の峨峨たるより、百尺の滝水みなぎり落ちたり。滝の音ことに凄まじく、松風神さびたるすまひ、飛滝権現のおはします那智の御山にさも似たりけり。さてこそやがて、そこをば那智の御山とは名づけけれ。この峰は本宮、かれは新宮、これはそんじやうその王子、かの王子など、王子王子の名を申して、康頼入道先達にて、丹波少将あひ具しつつ、日ごとに熊野詣での真似をして、帰洛のことをぞ祈りける。
「南無権現金剛童子、願はくは憐れみを垂れさせおはしまして、我等を故郷へ返し入れさせ給ひて、妻子どもを今一度見せしめ給へ」とぞ祈りける。日数積もつて、裁ちかふべき浄衣もなければ、麻の衣を身にまとひ、沢辺の水を垢離かいては、岩田川の清き流れと思ひやり、高き所に上つては、発心門とぞ観じける。
康頼入道、参るたびごとには、三所権現の御前へにて祝言を申すに、御幣紙もなければ、花を手折つて捧げつつ、
「維当れる歳次、治承元年丁酉、月の並び十月二月、日の数三百五十余箇日、吉日良辰を撰び、掛けまくも忝く、日本第一大霊験、熊野三所権現、飛滝大薩埵の教令、宇豆の広前にして、信心の大施主、羽林藤原成経、並びに沙弥性照、一心清浄の誠を致し、三業相応の心ざしを抽でて、謹んで以て敬白す。
夫れ証誠大菩薩は、済度苦海の教主、三身円満の覚王なり。或いは東方浄瑠璃医王の主、衆病悉除の如来なり。或いは南方補堕落能化の主、入重玄門の大士、若王子は娑婆世界の本主、施無畏者の大士、頂上の仏面を現じて、衆生の所願を満て給へり。是に依つて、上一人より下万民に至るまで、或いは現世安穏の為、或いは後生善所の為に、朝には浄水を掬んで煩悩の垢を雪ぎ、夕べには深山に向かつて宝号を唱ふるに、感応懈る事なし。
峨峨たる嶺の高きをば、神徳の高きに喩へ、嶮嶮たる谷の深きをば、弘誓の深きに準へて、雲を分きて登り、露を凌いで下る。ここに利益の地を憑まずんば、争か歩みを嶮難の路に運ばん。権現の徳を仰がずんば、何ぞ必ずしも幽遠の境にましまさん。仍つて証誠大権現、飛滝大菩埵、青蓮慈悲の眸を相並べ、佐小鹿の御耳を振り立てて、我等が無二の丹誠を知見して、一一の懇志を納受し給へ。然れば則ち、結、早玉の両所権現、各々機に随つて、有縁の衆生を導き、無縁の群類を救はんが為に、七宝荘厳の栖を捨てて、八万四千の光を和らげ、六道三有の塵に同ず。故に定業亦能転、求長寿得長寿の礼拝袖を連ね、幣帛礼奠を捧ぐること暇なし。忍辱の衣を重ね、覚道の花を捧げて、神殿の床を動かし、信心の水を清し、利生の池を湛へたり。
神明納受し給はば、所願何ぞ成就せざらん。仰ぎ願はくは、十二所権現、利生の翅を双べ、遥かに苦海の空に翔けり、左遷の愁へを歇めて、速かに帰洛の本懐を遂げしめ給へ。再拝」
とぞ、康頼祝言をば申しける。
→【各章検討:卒都婆流】
丹羽少将成経、平判官康頼、常は三所権現の御前に参り、通夜する折もありけり。
ある夜二人通夜して、夜もすがら今様をこそ歌ひけれ。康頼入道、暁方苦しさに、ちとまどろみたる夢に、沖の方より白帆掛けたる小舟一艘漕ぎ寄せて、紅の袴着たりける女房達、二三十人渚にあがり、鼓を打ち、声を調へて、
♪13
よろづの仏の願よりも 千手の誓ひぞ頼もしき
枯れたる草木も忽ちに 花咲き実生るとこそ聞け
と三返歌ひすまして、かき消すやうにぞ失せにける。康頼入道夢さめて後、奇異の思ひをなして申しけるは、「これはいかさま竜神の化現とおぼえたり。三所権現の内に、西の御前と申すは、本地千手観音にておはします。竜神はすなはち千手の二十八部衆のその一なれば、もつて御納受こそ頼もしけれ」。
またある夜、二人通夜して同じくまどろみたりける夢に、沖の方より吹き来る風の、二人が袂に木の葉を二つ吹きかけたり。何となうこれを取つて見たりければ、御熊野の栴の葉にてぞありける。かの二つの栴の葉に、一首の歌を虫食ひにこそしたりけれ。
♪14
ちはやぶる 神に祈りの しげければ
などか都へ 帰らざるべき
康頼入道、故郷の恋しさの余りに、せめての謀にや、千本の卒都婆をつくり、阿字の梵字、年号、月日、仮名実名、二首の歌をぞ書き付けける。
♪15
薩摩方 沖の小島に 我ありと
親には告げよ 八重の潮風
♪16
思ひやれ しばしと思ふ 旅だにも
なほふるさとは 恋しきものを
これを浦に持ち出でて、「南無帰命頂礼、梵天、帝釈、四大天王、堅牢地神、往生の鎮守諸大明神、別しては熊野権現、安芸の厳島大明神、せめては一本なりとも、都へ伝へてたべ」とて、沖つ白波の、寄せては返るたびごとに、卒都婆を海にぞ浮かべける。
卒都婆は造り出だすにしたがつて、海に入れければ、日数積もれば卒都婆の数も積もりにけり。その思ふ心や便りの風ともなりたりけん、また神明仏陀もや送らせ給ひたりけん、千本の卒都婆の中に一本、安芸国厳島の大明神の御前の渚に打ち寄せたり。
ここに康頼入道がゆかりありける僧の、もししかるべき便りもあらば、かの島へ渡つて、その行方をも聞かんとて、西国修行に出でたりけるが、まづ厳島へぞ参りける。ここに宮人とおぼしくて、狩衣装束なる俗一人よりあうたり。この僧何となう物語りをしけるほどに、「それ和光同塵の利生さまざまなりといへども、この御神はいかなりける因縁をもつて、海漫の鱗に縁をば結ばせ給ふらん」と問ひ奉る。宮人こたへけるは、「これはよな、娑竭羅竜王の第三の姫宮、胎蔵界の垂迹なり」。この島へ御影向ありし始めより、済度利生の今に至るまで、深甚奇特の事をぞ語りける。
さればにや、八社の御殿甍を並べ、社はわだづ海のほとりなれば、潮の満干に月ぞ澄む。潮満ちくれば、大鳥居、緋の玉垣、瑠璃のごとし。潮引きぬれば、夏の夜なれども、御前の白洲に霜ぞ置く。いよいよ尊くおぼえてゐたりけるが、やうやう日暮れ、月さし出でて、潮の満ちけるに、そこはかとなき藻屑どもの中に、卒都婆の姿の見えけるを、何となうこれを取り見たりければ、「沖の小島に我あり」と、書き流せる言の葉なり。文字をば彫り入れ、刻み付けたりければ、波にも洗はれず、あざあざとしてぞ見えたりける。
あな不思議とて、これを取つて、笈の肩にさして都へ上り、康頼入道が老母の尼公、妻子どもの、一条の北、紫野といふ所に忍び住みけるに、これを見せたりければ、「さらば、この卒都婆が、唐土の方へもゆられ行かず、何しにこれまで伝ひ来て、今さらものを思はすらん」とぞ悲しみける。
遥かの叡聞に及んで、法皇これを叡覧あつて、「あな無慙、いまだこの者どもが命の生きてあるにこそ」とて、御涙を流させ給ふぞかたじけなき。これを小松の大臣のもとへ送らせ給ひたりければ、父の禅門に見せ奉り給ふ。
柿本人麻呂は、島がくれ行く舟を思ひ、山部赤人は、葦辺の田鶴をながめ給ふ。住吉の明神は、かたそぎの思ひをなし、三輪の明神は、杉立てる門を指す。昔、素盞嗚尊、三十一字のやまと歌をはじめ置き給ひしよりこの方、諸々の神明仏陀も、かの詠吟をもて、百千万端の思ひを述べ給ふ。
→【各章検討:蘇武】
入道も岩木ならねば、さすがあはれげにぞ宣ひける。入道相国憐れみ給ふ上は、京中の上下、老いたるも若きも、鬼界が島の流人の歌とて、口ずさまぬはなかりけり。さても千本まで作つたる卒都婆なれば、さこそは小さうもありけめ。薩摩方よりはるばると都まで伝はりけるこそ不思議なれ。
あまりに思ふ事はかく験あるにや。
古、漢王、胡国を攻められけるに、始めは李少卿を大将軍にて、三十万騎を向けらる。漢の戦ひ弱くして、胡国の戦ひ勝ちにけり。兵多く打ち滅ぼされて、その中に大将軍李少卿、胡王のために生け捕にせらる。次に蘇武を大将軍にて、五十万騎を向けらる。今度もまた漢の戦ひ弱くして、胡の兵勝ちにけり。兵六千余人生け捕りにせらる。その中に大将軍蘇武を始めとして、六百三十余人すぐり出だし、一々に片足を切つて追つ放す。即ち死ぬる者もあり、ほど経て死ぬる者もあり。
その中に蘇武は一人死なざりけり。片足無き身となつて、山に登つては木の実を拾ひ、里に出でては根芹を摘む。秋は田面の落穂拾ひなどしてぞ露の命を過ごしける。田にいくらもありける雁ども、蘇武に見馴れて恐れざりければ、これ等は皆我が故郷へ通ふ者ぞかしと懐かしさに思ふ事を一筆書いて、「これ相構へて漢王に得させよ」と言ひ含めて、雁の翅に結び付けてぞ放ちける。
かひがひしくも田の面の雁、秋は必ず塞路より都へ来たる者なれば、漢の昭帝上林苑に御遊ありしに、夕ざれの空薄曇り、何となう物あはれなりける折節、一行の雁飛び渡る。その中に雁一つ飛びさがつて、おのが翅に結ひ付けたる玉章を、食ひきつてぞ落としける。
官人これを取つて、帝へ参らせたりければ、披いて叡覧あるに、「昔は巌窟の洞に籠められて、三春の愁歎を送り、今は曠田の畝に捨てられて、胡狄の一足となれり。たとひ屍は胡の地に散らすと雖も、魂は二度君辺に仕へん」とぞ書いたりける。それよりしてぞ、文をば雁書ともいひ、雁札ともまた名付けける。
今度は漢の戦ひ強くして、胡国の戦破れにけり。味方戦ひ勝ちぬと聞こえしかば、蘇武は曠野の中より這ひ出でて、「これこそ古の蘇武よ」と名乗る。片足無き身となつて、十九年の間星霜を送り迎へ、輿にかかれて、旧里へぞ帰りける。
蘇武は十六の歳、胡国へ向けられたりけるが、帝より賜はつたりける旗をば何としてか持ちたりけむ、この十九年の間巻いて身を離たず持ちたりけるを、今取り出でて帝に奉る。君も臣も感嘆なのめならず。蘇武は君のため大功ならびなかりしかば、大国あまた給はつて、その上、典属国といふ司を下されけるとぞ聞こえし。
李少卿は、胡国に留まつてつひに帰らず。いかにもして、漢朝へ帰らんとのみ歎きけれども、胡王許さねば力及ばず。漢王これをば夢にも知り給はず、李少卿は君のため不忠なる者なればとて、空しくなれる二親が屍を掘り起こして鞭たせらる。李少卿この由を伝へ聞いて、恨み深うぞなりにける。さりながらもなほ故郷を恋ひつつ、まつたく不忠なき由を、一巻の書に作つて、漢王へ参らせたりければ、「さては不憫の事ごさんなれ」とて、はかなくなれる父母が屍を掘り起こして鞭たせられたりける事をぞ、悔しみ給ひける。
漢家の蘇武は、書を雁の翅に付けて旧里へ送り、本朝の康頼は、波の便りに歌を故郷へ伝ふ。かれは一筆のすさみ、これは二首の歌、かれは上代、これは末代、胡国鬼界が島、境を隔てて、世々はかはれども、風情は同じ風情、有り難かりし事どもなり。
→【概要:巻第三】
→【各章検討:赦文】
治承二年正月一日、院の御所には拝礼行はれて、四日の日朝覲の行幸ありけり。何事も例にかはりたることはなけれども、去年の夏、新大納言成親卿以下、近習の人々多く流し失はれし事、法皇御憤りいまだやまず。されば、世の政をも物憂く思し召されて、御心よからぬ事にてぞありける。太政入道も、多田蔵人行綱が告げ知らせ奉て後は、君をも御うしろめたきことに思ひ奉り、上には事なきやうなれども、下には用心して、苦笑ひてのみぞありける。
正月七日、彗星東方に出づ。蚩尤旗とも申す。また赤気とも申す。
同じき十八日、光をます。
さるほどに、入道相国の御娘、建礼門院、その時はいまだ中宮と聞こえさせ給ひしが、御悩とて、雲の上、天が下の歎きにてぞありける。諸寺に御読経始まり、諸社へ官幣使を立てらる。陰陽術を極め、医家薬をつくす。されども御悩ただにも渡らせ給はず、御懐任とぞ聞こえし。主上は今年十八、中宮は二十二にならせ給ふ。しかれどもいまだ皇子も姫宮も出で来させ給はず。「あはれとくして皇子御誕生あれかし」とて、平家の人々は、ただ今皇子御誕生のあるやうにいさみ喜び合はれけり。他家の人々も、「平氏の繁昌折を得たり。皇子御誕生疑ひなし」とぞ申し合はれける。
御懐妊定まらせ給ひしかば、入道相国、有験の高僧貴僧に仰せて、大法秘法を修し、星宿仏菩薩に付けて、皇子御誕生とのみ祈誓せらる。
六月一日、中宮御着帯ありけり。仁和寺の御室守覚法親王、急ぎ御参内あつて、孔雀経の法をもつて御加持あり。天台座主覚快法親王、寺の長吏円慶法親王、同じう参らせ給ひて、変成男子の法を修せらる。
かかりしほどに、中宮は月の重なるにしたがうて、御身を苦しうせさせ給ふ。一度笑めば百の媚びありけん、漢の李夫人、昭陽殿の病の床もかくやとおぼえ、唐の楊貴妃、梨花一枝春の雨を帯び、芙蓉の風にしをれ、女郎花の露おもげなるよりも、なほいたはしき御様なり。かかる御悩の折節に合はせて、こはき御物の怪ども、取り入り奉る。神子、明王の縛にかけて、霊顕れたり。ことには讃岐院の御霊、宇治の悪左府の御憶年、新大納言成親卿の死霊、西光法師が悪霊、鬼界が島の流人どもの生霊などぞ申しける。
これによつて、生霊をも死霊をもなだめらるべしとて、その頃まづ讃岐院の御追号あつて崇徳天皇と号す。宇治の悪左府、贈官贈位おこなはれて、太政大臣従一位を贈らる。勅使は少内記惟基とぞ聞こえし。件の墓所は、大和国添上郡、川上村、般若野の五三昧なり。保元の秋、掘り起こして捨てられし後は、死骸路のほとりの土となつて、年年にただ春の草のみ茂れり。今勅使尋ね来つて宣命を読みけるに、亡魂いかにうれしと思しけん。
怨霊は昔もかく恐ろしき事どもなり。されば早良の廃太子をば、崇道天皇と号し、井上内親王をば、皇后の職位に復す。これ皆悪霊をなだめられし策とぞ聞こえし。冷泉院の御物苦はしうましまし、花山法皇の、十善の帝位をすべらせ給ひしは、元方民部卿が霊とかや。三条院の御目も御覧ぜざりしは、寛算供奉が霊なり。
門脇の宰相、かやうの事どもを伝へ聞き給ひて、小松殿に申されけるは、「今度中宮御産の御祈りさまざまに候ふなり。何と申すとも、非常の赦に過ぎたるほどの事あるべしともおぼえ候はず。中にも鬼界が島の流人ども召し帰されたるほどの功徳善根、いかでか候ふべき」と申されければ、
小松殿、父の禅門の御前におはして、「あの丹波少将がことを、門脇の宰相あまりに歎き申すが不憫に候ふ。今度中宮御悩の御事、承り及ぶごとくんば、成親卿が死霊など聞こえ候ふ。大納言が死霊をなだめんと思し召さんにつけても、生きて候ふ少将をこそ召し帰され候はめ。人の思ひをやめさせ給はば、思し召す事もかなひ、人の願ひをかなへさせましまさば、御願もすなはち成就して、御産平安、皇子御誕生あつて、家門の栄華いよいよ盛んに候ふべし」など申されければ、
入道相国、日ごろよりことのほかに和らぎて、「さてさて、俊寛僧都、康頼法師が事はいかに」と宣へば、
「それも同じうは召しこそ帰され候はめ。もし一人もとどめられんは、なかなか罪業たるべう候ふ」と申されければ、
入道相国、「康頼法師が事もさる事なれども、俊寛は随分入道が口入をもつて人となつたるものぞかし。それに所しもこそ多けれ、東山鹿谷、我が山庄によりあひて、奇怪の振舞どもがありけんなれば、俊寛をば思ひもよらず」とぞ宣ひける。
小松殿帰りて、舅の宰相呼び奉て、「少将はすでに赦免候はんずるぞ。御心やすう思し召され候へ」と申されければ、宰相聞きもあへ給はず、泣く泣く手を合はせてぞ喜ばれける。
「下り候ひし時も、これほどの事など申し請けざらんと思ひたりげにて、涙を流し候ひしが不憫に候ふ」とぞ申されける。小松殿、「まことにさこそは思し召され候ふらめ。子は誰とてもかなしければ、よくよく申し候はん」と入り給ひぬ。
→【各章検討:足摺】
さるほどに鬼界が島の流人ども、召し帰さるべき事定められて、入道相国の赦文書いて下されけり。御使ひすでに都をたつ。宰相あまりの嬉しさに、御使ひに私の使ひを添へてぞ下されける。夜を昼にし急ぎくだれとありしかども、心にまかせぬ海路なれば、波風を凌いでゆくほどに、都をば七月下旬に出でたれども、長月二十日頃にぞ、鬼界が島には着きにける。
御使ひは丹左衛門尉基康といふ者なり。急ぎ船より上がり、「これに都より流され給ひし丹波少将成経、平判官康頼入道殿やおはす」と、声々にぞ尋ねける。二人の人々は、例の熊野詣でしてなかりけり。俊寛一人ありけるが、これを聞いて、「あまりに思へば夢やらん、また天魔波旬の、我が心をたぶらかさんとて言ふやらん、さらにうつつともおぼえぬものかな」とて慌てふためき、走るともなく、倒るるともなく、急ぎ御使ひの前に行き向かつて、「これこ都より流されたる俊寛よ」と名乗り給へば、雑色が首にかけさせたる布袋より、入道相国の赦文取り出だいて奉る。
これを開きて見給ふに、「重科は遠流に免ず。早く帰洛の思ひをなすべし。今度中宮御産の御祈りによつて、非常の赦行はる。しかる間鬼界が島の流人、少将成経、康頼法師二人赦免」とばかり書かれて、俊寛といふ文字はなし。礼紙にぞあるらんとて、礼紙を見るにも見えず。奥より端へ読み、端より奥へ読みけれども、二人とばかり書かれて、三人とは書かれず。
さるほどに少将や康頼入道も出で来たり。少将の取つて見るにも、康頼法師が読みけるにも、二人とばかり書かれて、三人とは書かれざりけり。夢にこそかかる事はあれ、夢かと思ひなさんとすればうつつなり、うつつかと思へばまた夢のごとし。その上二人の人々のもとへは、都より言付けたる文どもいくらもありけれども、俊寛僧都のもとへは、事問ふ文一つもなし。されば我がゆかりの者どもは、みな都の内に跡をとどめずなりにけりと思ひやるにも忍び難し。
「そもそも我等三人は同じ罪、配所も同じ所なり。いかなれば赦免の時、二人は召し帰されて、一人ここに残るべき。平家の思ひ忘れかや、執筆の誤りか、こはいかにしつる事どもぞや」と、天に仰ぎ地に伏して、泣き悲しめどもかひぞなき。
僧都少将のたもとにすがり、「俊寛がかやうになるといふも、御辺んの父、故大納言殿のよしなき謀叛のゆゑなり。さればよその事と思ひ給ふべからず。許されなければ、都までこそかなはずとも、この舟に乗せて、せめて九国の地までつけてたべ。おのおののこれにおはしつるほどこそ、春は燕、秋は田の面の雁のおとづるるやうに、おのづから故郷の事をも伝へ聞きつれ。今より後は、いかにしてか聞くべき」とて、もだえこがれ給ひけり。
少将、「まことにさこそは思し召され候ふらめ。我等が召し帰さるる嬉しさはさる事にて候へども、御有様見置き奉るに、行くべき空もおぼえ候はず。この舟にうち乗せ奉て、上りたうは候へども、許されもなきに、三人ながら島の内を出でたりなど聞こえ候はば、なかなか悪しう候ひなんず。その上都の御使ひもかなふまじき由を申す。成経まづまかり上り候て、人々にもよくよく申し合はせ、入道相国の気色をもうかがひ、迎へに人を奉らん。そのほどは日ごろおはしつるやうに思ひなして待ち給へ。命はいかにも大切の事なれば、たとひこのせをこそ漏れさせ給ふとも、つひにはなどか赦免なくて候ふべき」など、やうやうに慰めおき給へども、堪へしのぶべうも見え給はず。
さるほどに、纜解いて舟出ださんとしければ、僧都舟にのつては下りつ、下りては乗つつ、あらまし事をぞし給ひける。少将の形見には夜の衾、康頼入道が形見には、一部の法華経をぞとどめける。
すでに纜解いて舟押し出だせば、僧都綱に取りつき、腰になり、脇になり、丈の立つまではひかれて出づ。丈も及ばずなりければ、僧都舟に取りつき、「さていかにおのおの、俊寛をばつひに捨てはて給ふか。日ごろの情けも今は何ならず。許されなければ都までこそかなはずとも、せめてはこの船に乗せて九国の地まで」と、口説かれけれども、都の御使ひ、「いかにもかなひ候ふまじ」とて、取りつき給ひつる手を引きのけて、船をばつひに漕ぎ出だす。
僧都せんかたなさに、渚に上がり倒れ伏し、幼き者の乳母や母を慕ふやうに足摺をして、「これ乗せて行け、具して行け」とて、をめき叫べども、漕ぎ行く船のならひにて、跡は白波ばかりなり。いまだ遠からぬ船なれども、涙にくれて見えざりければ、僧都高き所に走り上がり、沖の方をぞ招きける。かの松浦小夜姫が唐土船を慕ひつつ、ひれふりけんも、これには過ぎじとぞ見えし。
船も漕ぎ隠れ、日も暮るれども、僧都あやしのふしどへも帰らず、波に足うちあらはせ、露にしをれて、その夜はそこにぞ明かしける。さりとも少将は情け深き人なれば、よきやうに申す事もやと、頼みをかけて、その瀬に身をも投げざりし心のうちこそはかなけれ。昔早離、速離が、海岸山にはなたれたりけん悲しみも、今こそ思ひ知られけれ。
→【各章検討:御産】
さるほどに、二人の人々は、鬼界が島を出でて、肥前国鹿瀬の庄にぞ着き給ふ。宰相、都より人を下し、「年内は波風もはげしう、道の間もおぼつかなう候へば、春になつて上られ候へ」とありしかば、少将、鹿瀬の庄にて年を暮らす。
さるほどに同じき十一月十二日の寅の刻より、中宮御産の気ましますとて、京中六波羅ひしめきあへり。御産所は六波羅池殿にてありければ、法皇も御幸なる。関白殿をはじめ奉て太政大臣以下の卿相雲客、すべて世に人と数へられ、官加階に望みをかけ、所帯所職を帯するほどの人の、一人ももるるはなかりけり。
先例も女御、后、御産の時に臨んで、大赦行はるる事ありけり。大治二年九月十一日、待賢門院御産の時、大赦ありき。今度もその例とて、重科の輩多く許されけるなかに、この俊寛僧都一人、赦免なかりけるこそうたてけれ。
今度御産平安、皇子御誕生あるならば、八幡、平野、大原野などへ行啓あるべき由、御立願あり。全玄法印承つて、これを敬白す。
神社は太神宮をはじめ奉て、二十余箇所、仏寺は東大寺、興福寺以下十六箇所に御誦経あり。御誦経の御使ひは、宮の侍の中に、有官の輩これを勤む。狂紋の狩衣に帯剣したる者どもが、色々の御誦経物、御剣御衣を持ちつづいて、東の台より、南庭をわたつて、西の中門に出づ。めでたかりし見物なり。
小松の大臣は、例の善悪につきてさわぎ給はぬ人にておはしければ、その後はるかにほど経て後、嫡子権亮少将維盛以下公達の車どもやりつづけさせ、色々の御衣四十領、銀剣七つ、広蓋に置かせ、御馬十二匹ひかせて参り給ふ。寛弘に上東門院御産の時、御堂との御馬参らせられしその例とぞ聞こえし。大臣は中宮の御兄にておはしける上、とりわき父子の御契りなれば、御馬参らせ給ふも理なり。五条の大納言邦綱卿も、御馬二匹進ぜらる。「心ざしの至りか、徳のあまりか」とぞ人申しける。なほ伊勢よりはじめ奉て、安芸の厳島にいたるまで、七十余箇所へ神馬を立てらる。内裏にも寮の御馬に四手つけて、数十匹ひつたてたり。
仁和寺の御室守覚法親王は孔雀経の法、天台座主覚快法親王は七仏薬師の法、寺の長吏円慶法親王は金剛童子の法、そのほか五大虚空蔵、六観音、一字金輪、五壇の法、六字加輪、八字文殊、普賢延命に至るまで、残る所なう修せられけり。護摩の煙御所中に満ち、鈴の音雲を響かし、修法の声身の毛よだつて、いかなる御物の怪なりとも何面をむかふべしとも見えざりけり。なほ仏所の法印に仰せて、御身等身の七薬師並びに五大尊の像をつくりはじめらる。
しかれども、中宮はひまなくしきらせ給ふばかりにて、御産もとみになりやらず。入道相国、二位殿、胸に手を置いて、「こはいかがせん、いかにせん」とぞあきれ給ふ。人のもの申しけれども、ただ「ともかうも、よきやうによきやうに」とばかりぞ宣ひける。
「あはれじ浄海、戦の陣ならば、さりともこれほどまでは臆せじものを」とぞ、後には宣ひける。
御験者には、房覚、性運両僧正、春堯法印、豪禅、実全両僧都、おのおの僧伽の句どもあげ、本寺本山の三宝、年来所持の本尊達、せめふせせめふせもまれけり。まことにさこそはとおぼえてたつとかりける中に、折節法皇は、新熊野へ御幸なるべきにて、御精進のついでなりけるが、錦帳近くに御座あつて、千手経を打ち上げ打ち上げあそばされけるにぞ、今ひときは事かはつて、さしもをどりくる御神子どもが縛も、しばらくうちしづめける。
法皇仰せなりけるは、「たとひいかなる御物の怪なりとも、この老法師がかくて候はんに、いかでか近づき奉るべき。なかんずく今あらはるる所の怨霊は、皆我が朝恩をもつて人となつたる者のぞかし。たとひ報謝の心をこそ存ぜずとも、いかでか豈に障碍をなすべきや。すみやかにまかり退き候へ」とて、
「女人生産し難からん時に臨んで、邪魔遮障し、苦しみ忍び難からんにも、心をいたして大悲呪を称誦せば、鬼神退散して、安楽に生ぜん」とあそばいて、皆水晶の御数珠おしもませ給へば、御産平安のみならず、皇子にてこそましましけれ。
本三位中将重衡卿、その時はいまだ中宮亮にておはしけるが、御簾の中よりつと出でて、「御産平安、皇子御誕生候ふぞ」と高らかに申されたりければ、法皇をはじめ参らせて、関白松殿、太政大臣以下の卿相雲客、おのおのの助修、数輩の御験者、陰陽頭、典薬頭、すべて堂上堂下一同にあつとどよめきあへる声、門外までどよめきて、しばしはしづまりもやらざりけり。入道相国嬉しさのあまりに、声を上げてぞ泣かれける。喜び泣きとはこれをいふべきにや。
小松の大臣、急ぎ中宮の御方へ参らせ給ひて、金銭九十九文、皇子の御枕に置き、「天をもつては父とし、地をもつては母と定め給ふべし。御命は方士東方朔が齢を保ち、御心には天照大神入りかはらせ給へ」とて、桑の弓、蓬の矢をもつて、天地四方を射させらる。
→【各章検討:公卿揃】
御乳には、前右大将宗盛卿の北の方と定められたりしが、去んぬる七月に難産をして失せ給ひしかば、平大納言時忠卿の北の方、御乳に参らせ給ひけり。後には帥典侍とぞ申しける。法皇やがて還御、門前に御車をたてられたり。入道相国うれしさのあまりに、砂金一千両、富士の綿二千両、法皇へ進上せらる。しかるべからずとぞひと申しける。
今度の御産に勝事あまたあり。まづ法皇の御験者。次に后の御産の時御殿の棟より甑を転ばかす事ありけり。皇子御誕生には南へ落とし、皇女誕生には北へ落とすを、これは北へ落としたりければ、急ぎとりあげ、落としなほしたりけれども、なほ悪しき事にぞ人申しける。をかしかりしは、入道相国のあきれざま、めでたかりしは小松の大臣の振る舞ひ、本意なかりしは、前右大将宗盛卿の最愛の北の方におくれ給ひて、大納言、大将両職を辞して、籠居せられし事、兄弟ともに出仕あらば、いかにめでたからん。
次に七人の陰陽師を召して、千度の御祓ひつかまつる。その中に、掃部頭時晴といふ老者あり。所従なども乏少なりけるが、人多く参りつどひ、たかんなを混み、稲麻竹葦のごとし。「役人ぞ、あけられ候へ」とて、押し分け押し分け参るほどに、いかがはしたりけん、右の沓を踏み脱がれぬ。そこにてちと立ちやすらふが、冠をさへ突き落とされて、さばかんの砌に、束帯正しき老者が髻はなつてねり出でたりければ、若き公卿殿上人はこらへずして、一度にどつとぞ笑ひ給へり。陰陽師などいふは、反陪とて足をもあだにふまずとこそ承れ。それにかかる不思議のありけるを、その時は何ともおぼえざりけれども、後にこそ思ひ合はする事ども多かりけれ。
御産によつて六波羅へ参らせ給ふ人々、関白松殿、太政大臣妙音院、左大臣大炊御門、右大臣月輪殿、内大臣小松殿、左大将実定、源大納言定房、三条大納言実房、五条大納言邦綱、藤大納言実国、按察使資賢、中御門中納言宗家、花山院中納言兼雅、源中納言雅頼、権中納言実綱、藤中納言資長、池中納言頼盛、左衛門督時忠、別当忠親、左宰相中将実家、右宰相の中将実宗、新宰相中将通親、平宰相教盛、六角宰相家通、堀河宰相頼定、左大弁宰相長賢、右大弁三位俊経、左兵衛督重範、右兵衛督光能、皇太后大夫朝方、左京大夫脩範、太宰大弐親信、新三位実清、以上三十三人、右大弁のほかは直衣なり。不参の人々には、花山院前太政大臣忠雅公、大宮大納言隆季卿以下十余人、後日に布衣着して、入道相国の西八条の亭へ参りむかはれけるとぞ聞こえし。
→【各章検討:大塔建立】
御修法の結願に勧賞ども行はる。仁和寺の御室は東寺修造せらるべし。並びに後七日の御修法、大元の法、灌頂興行せらるべき由仰せ下さる。御弟子覚成僧都、法印になさる。座主の宮は二品並びに牛車の宣旨を申させ給ふ。御室ささへ申させ給ふによつて、御弟子方法眼円良法印になさる。そのほかの勧賞どもは毛挙にいとまあらずとぞ聞こえし。
入道相国、この御娘、后に立たせ給ひしかば、あはれとくして、皇子御誕生あれかし、位につけ奉て、夫婦ともに外祖父、外祖母と仰がれんと願はれけるが、我が崇め奉る厳島に申さんとて、月詣でをはじめて、祈り申されければ、中宮やがて御懐妊あつて、思ひのごとく皇子御誕生ましましけるこそめでたけれ。
そもそも平家、安芸の厳島を、信じはじめられけることをいかにといふに、清盛公いまだ安芸守たりし時、安芸国をもつて、高野の大塔修理せよとて、渡辺の遠藤六郎頼方を雑掌につけられて、六年に修理をはんぬ。
修理をはつて後、清盛高野へ参り、大塔をがみ、奥の院へ参られけるに、いづくよりきたるともなき老僧の、眉には霜をたれ、額に浪をたたみ、白髪なるが、かせ杖のふたまたなるにすがつて、出で来給へり。この僧何となき物語をしけるほどに、「それ我が山は、昔より今に至るまで、密宗をひかへて退転なし。天下にまたも候はず。大塔すでに修理をはり候ひたり。それにつき候うては、越前の気比の宮と安芸の厳島は、両界の垂迹で候ふが、気比の宮はさかえたれども、厳島はなきがごとくに荒れ果てて候ふ。あはれ同じくは、このついでに奏聞して修理せさせ給へかし。さだにも候はば、官加階は天下に肩をならぶる人もあるまじきぞ」とて立たれけり。
この老僧のゐ給へる所に、異香すなはち薫じたり。人をつけて見せ給へば、三町ばかりは見え給ひて、その後はかき消つやうに失せ給ひぬ。これただ人にあらず、大師にてましましけりと、いよいよたつとくおぼえて、娑婆世界の思ひ出にとて、高野の金堂に曼荼羅をかかれけるが、西曼荼羅をば経明法印といふ絵師にかかせらる。東曼荼羅をば清盛かかんとて、自筆にかかれけるが、八葉の中尊の宝冠をばいかが思はれけん、我が頭の血を出だいて、かかれけるとぞ聞こえし。
その後都へ上り院参して、この由を奏聞し、なほ任をのべて、安芸の厳島を修理せらる。鳥居を立てかへ、社社を作りかへ、百八十間の廻廊を作られけり。修理をはつて後、清盛厳島へ参り通夜せられたりける夢に、御宝殿の御戸おしひらき、びんづら結うたる天童の出でて、「汝この剣をもつて、朝家の御かためたるべし」とて、白銀のひるまきしたる小長刀を賜はるといふ夢を見て、さめて後見給へば、うつつに枕上にぞたつたりける。
さて大明神御託宣あつて、「汝知れりや忘れりや。ある聖をもつていはせし事は。ただし悪行あらば、子孫まではかなふまじきぞ」とて、大明神あがらせ給ひぬ。めでたかりし事どもなり。
→【各章検討:頼豪】
白河院御在位の時、京極の大殿の御娘、后に参らせ給ひけり。賢子の中宮とて、御最愛ありしかば、主上この后の御腹に、皇子誕生あらまほしう思し召して、その頃三井寺に、有験の僧と聞こえし頼豪阿闍梨を召して、「汝、この后の御腹に、皇子御誕生祈り申せ。御願成就せば、所望は請ふによるべし」と仰せくださる。
頼豪かしこまり承つて、三井寺に帰り、肝胆をくだきて祈り申しければ、中宮やがて御懐妊あつて、承保元年十二月十六日、御産平安、皇子御誕生ありけり。
主上なのめならず御感あつて、頼豪阿闍梨を召して、「さて汝が所望はいかに」と仰せければ、三井寺に戒壇建立の由を奏聞す。「一階僧正などをも申すべきかとこそ思し召しつるに、これこそ存の外の所望なれ。およそ皇子御誕生あつて、祚をつがしめん事、海内無為を思ふためなり。今汝が所望を達せば、山門憤つて、世上もしづかなるべからず。両門ともに合戦せば、天台の仏法滅びなんず」とて、聞こし召しも入れざりけり。
頼豪、口惜しき事なりとて、急ぎ三井寺に帰つて、干死にせんとす。主上、なのめならず驚かせ給ひて、江帥匡房卿、その時はいまだ美作守と聞こえしを召して、「汝は頼豪に師檀の契りあんなり。行いてこしらへてみよ」と仰せければ、かしこまり承つて、三井寺に行きむかひ、頼豪阿闍梨が宿房に行いて、勅諚趣き仰せ含めんとするに、もつてのほかにふすぼつたる持仏堂に立て籠り、恐ろしげなる声して、「天子には戯れの言葉なし。綸言汗のごとしとこそ承れ。これほどの所望かなはざらんにおいては、我が祈り出だし奉る皇子なれば、取り奉て魔道へこそ行かんずらめ」とて、遂に対面もせざりけり。
美作守帰り参りて、この由奏聞せられければ、主上なのめならず御歎きありけり。
頼豪遂に干死にに死ににけり。
さるほどに皇子御悩つかせ給ひて、さまざまの御祈りどもありけれども、かなふべしとも見えさせ給はず。白髪なる老僧の、錫杖もつたるが、常は皇子の御枕にたたずみ、人々の夢にも見え、幻にもたちけり。恐ろしなどもおろかなり。
さるほどに、承暦元年八月六日、皇子御歳四歳にて遂に隠れさせ給ひぬ。敦文親王これなり。
主上なのめならず御歎きあつて、その時山門に西京の座主、良信大僧正、その時はいまだ円融坊の僧都と聞こえしを内裏へ召して、「こはいかせん」と仰せければ、
「いつもかやうの御願は、我が山の力でこそ成就することで候へ。されば九条右丞相師輔公、慈慧僧正に契り申させ給ひしによつてこそ、冷泉院の皇子御誕生は候ひしか。安いほどの御事候ふ」とて、山門に帰つて、百日肝胆をくだきて祈り申しければ、中宮やがて百日のうちに御懐妊あつて、承暦三年七月九日、御産平安、皇子御誕生ありけり。堀河天皇これなり。怨霊は昔もかく恐ろしき事どもなり。今度さしもめでたき御産に、大赦行はれたりといへども、この俊寛僧都一人、赦免なかりけるこそうたてけれ。
同じき十二月八日、皇子東宮にたたせ給ふ。傅には小松の内大臣、大夫には池中納言頼盛卿とぞ聞こえし。
→【各章検討:少将都帰】
さるほどに今年も暮れぬ、治承も三年になりにけり。
同じき正月下旬に、丹波少将成経、肥前国鹿瀬の庄を立つて、都へとは急がれけれども、余寒なほはげしくて、海上もいたくあれければ、浦伝ひ島伝ひして、如月十日頃にぞ、備前の児島に着き給ふ。それより父大納言の住み給ひける所に尋ね入りて見給へば、竹の柱、ふりたる障子などに、書き置き給へる筆のすさびを見給ひてこそ、「あはれ人の形見には、手跡に過ぎたるものぞなき。書き置き給はずは、いかでかこれを見るべき」とて、康頼入道と二人、読うでは泣き、泣いては読む。
「安元三年七月二十日出家。同じき二十六日信俊下向」と書かれたり。さてこそ、源左衛門督信俊が参りたりけるとも知られけれ。そばなる壁には、「三尊来迎便りあり、九品往生疑ひなし」とも書かれたり。
この形見を見給ひてこそ、さすが欣求浄土の望みもおはしけりと、限りなき歎きの中にも、いささか頼もしげには宣ひけれ。
その墓を尋ねて見給へば、松の一村ある中に、かひがひしう壇を築きたる事もなし。土の少し高き所に少将袖かき合はせ、いきたる人に物を申すやうに、泣く泣くかきくどいて申されけるは、「遠き御守りとならせおはしましたる事をば、島にてもかすかに伝へ承り候ひしかども、心に任せぬ憂き身なれば、急ぎ参る事も候はず。成経かの島へ流されて後の頼りなさ、一日片時の命もありがたうこそ候ひしに、さすが露の命は消えやらで二年を送つて、召し返さるる嬉しさは、さることにて候へども、まさしうこの世に渡らせ給ふを見参らせても候はばこそ、命の長きかひも候はめ。これまでは急がれつれども、今より後は急ぐべしともおぼえず」とて、かきくどいてぞ泣かれける。
まことに存生の時ならば、大納言入道殿こそ、いかにとも宣ふべきに、生を隔てたる習ひほど、恨めしかりける事はなし。苔の下には誰か答ふべき。ただ嵐に騒ぐ松の響きばかりなり。
その夜は康頼入道と二人、墓のめぐりを行道し、明けぬれば新しう壇築き、釘抜きせさせ、前に仮屋作り、七日七夜が間念仏申し経書いて、結願には大きなる卒都婆を立て、「過去聖霊、出離生死、証大菩提」と書いて、年号月日の下には、「孝子成経」と書かれたれば、しづ山がつの心なきも、「子に過ぎたる宝なし」とて、涙を流し袖を濡らさぬはなかりけり。
年去り年来たれども、忘れがたきは撫育の昔の恩、夢のごとく幻のごとし。尽くし難きは恋慕の今の涙なり。三世十方の仏陀の聖衆も憐れみ給ひ、亡魂尊霊もいかに嬉しと思しけん。
「今しばらく念仏の功をも積むべう候へども、都に待つ人どもも心もとなう候ふらん。またこそ参り候はめ」とて、亡者に暇申しつつ、泣く泣くそこをぞ立たれける。草のかげにても名残惜しくや思はれけん。
同じき三月十六日、少将鳥羽へあかうぞ着き給ふ。故大納言殿の山庄、洲浜殿とて鳥羽にあり。住み荒らして年経にければ、築地はあれども蓋もなく、門はあれども扉もなし。庭に立ち入り見給へば、人跡絶えて苔深し。池の辺を見まはせば、秋の山の春風に、白波しきりに折りかけて、紫鴛白鴎逍遥す。興ぜし人の恋しさに、ただ尽きせぬ物は涙なり。家はあれども、らんもん破れ、蔀、遣戸も絶えてなし。
「ここには大納言殿のとこそおはせしか。この妻戸をばかうこそ出で入り給ひしか。あの木をば、自らこそ植ゑ給ひしか」などいひて、言葉につけても、ただ父の事を恋しげにこそ宣ひけれ。弥生中の六日なれば、花はいまだ名残あり。楊梅桃李の梢こそ、折知り顔に色々なれ。昔の主はなけれども、春を忘れぬ花なれや。
少将、花の下に立ち寄つて、
♪17
桃李不言春幾暮 煙霞無跡昔誰栖
(桃李言はず春幾くか暮れぬる、煙霞跡無し昔誰か栖みけん)
♪18
ふるさとの はなのものいふ よなりせば
いかに昔の 事をとはまし
このふるき詩歌を口ずさみ給へば、康頼入道も、折節あはれにおぼえて、墨染めの袖をぞ濡らしける。暮るるほどとは待たれけれども、あまりに名残惜しくて、夜更くるまでこそおはしけれ。ふけゆくままには、荒れたる宿のならひとて、ふるき軒の板間より、漏る月影ぞくまもなき。鶏籠の山明けなんとすれども、家路はさらに急がれず。
さてしもあるべき事ならねば、「迎へに乗物ども遣はして待つらんも心なし」とて、少将泣く泣く洲浜殿を出でつつ、都へ帰り入り給ひける。人々の心のうち、さこそはうれしうも、またあはれにもありけめ。康頼入道が迎へにも乗物ありけれども、今さら名残の惜しきにとて、それには乗らず、少将の車の尻に乗つて、七条河原までゆく。それより行き別れけるが、なほ行きもやらざりけり。
花の下の半日の客、月の前の一夜の友、旅人が一村雨の過ぎゆくに、一樹の陰に立ち寄りて、別るる名残も惜しきぞかし。況んやこれは憂かりし島のすまひ、船の中、波の上、一業所感の身なれば、先世の芳縁も浅からずや思ひ知られけん。
少将は舅平宰相の宿所へ立ち入り給ふ。
少将の母上、霊山におはしけるが、昨日より宰相の宿所におはして待たれけり。少将の立ち入り給ふ姿を、ただ人目見て、「命あれば」とばかりぞ宣ひける。ひきかづいてぞ臥し給ふ。宰相の内の女房、侍ども差しつどひて、皆喜び泣きをぞしける。まして北の方は、乳母の女房が心中いかばかりか嬉しかりけん。
六条は尽きぬ物思ひに黒かりし髪も皆白くなり、北の方はさしもはなやかにうつくしうおはせしかども、疲れくろみて、その人とも見え給はず。
少将の流されし時、三歳で別れ給ひし若君、今はおとなしうなつて、髪結ふほどなり。その御そばに、三つばかんなる幼き人のおはしけるを、少将、「あれはいかに」と宣へば、六条、「これこそ」とばかり申して、涙を流しけるにこそ、さては下りし時、心苦しげなる有様を見置きしが、事故なう育ちけるよと、思ひ出でてもかなしかりけり。
少将はもとのごとく院に召しつかはれて、宰相中将にあがり給ふ。
康頼入道は、東山雙林寺に、我が山庄のありければ、それに落ち着いて、まづかうぞ思ひ続けける。
♪19
ふるさとの 軒の板間に 苔むして
思ひしほどは もらぬ月かな
やがてそこに籠居して、憂かりし昔を思ひ続け、宝物集といふ物語を書きけるとぞ聞こえし。
→【各章検討:有王】
さるほどに、鬼界が三人流されたりし流人、二人は召し帰されて都へ上り、今一人残されて、憂かりし島の島守となりにけるこそうたてけれ。
僧都の、幼うより不憫にして、召しつかはれける童あり。名をば有王とぞ申しける。鬼界が島の流人ども、今日すでに都へ入ると聞こえしかば、鳥羽まで行き向かつて見けれども、我が主は見え給はず。「いかに」と問へば、「それはなほ罪深しとて、島に残されぬ」と聞いて、心うしなども愚かなり。常は六波羅辺にただずみて聞きけれども、いつ赦免あるべしとも、聞き出ださず。
僧都の御娘の忍びておはしける所へ参りて、「この瀬にも漏れさせ給ひて、御上りも候はず。今はいかにもしてかの島へ渡つて、御行方を尋ね参らせんとこそ思ひなつて候へ。御文給ひ候はん」と申しければ、姫御前、なのめならず喜びて、やがて書いてぞ賜うだりける。
暇を請ふとも、よも許さじとて、父にも母にも知らせず、唐土船の纜は、卯月五月に解くなれば、夏衣たつを遅くや思ひけん、弥生の末に都を立つて、多くの波路を凌ぎつつ、薩摩方へぞ下りける。薩摩よりかの島へ渡る船津にて、人怪しみ、着たる物を剥ぎ取りなどしけれども、少しも後悔せず。姫御前の御文ばかりぞ人に見せじとて、髻結ひの中には隠したりける。
さて商人船に乗りて、件の島へ渡つて見るに、都にてかすかに伝へ聞きしは、事の数ならず。田もなし。畑もなし。村もなし。里もなし。おのづから人はあれども、いふ言葉をも聞きしらず。
もしかやうの者も、我が主の御行方知り奉る事もやと、「物申さう」といへば、「何事」と答ふ。「これに都より流されさせ給ひたりし、法勝寺の執行の御坊と申す人の御行末や知つたる」と問ふ。法勝寺とも、執行とも、知つたらばこそ返事もせめ、頭を振つて知らぬといふ。
その中にある者が心得て、「いさとよ、さやうの人は三人ここにありしが、二人は召し帰されて都へ上りぬ。いま一人残されて、かしこここに迷ひ行けども、ゆくへをも知らず」とぞいひける。
山の方のおぼつかなさに、遥かに分け入り、峰によぢ、谷に下れども、白雲跡を埋みて、往来の道も定かならず。青嵐を破つて、その面影も見えざりけり。山にては遂に尋ねも逢はず。海の辺について尋ぬるに、沙頭に印を刻む鴎、興の白洲にすだく浜千鳥のほかは、跡とふ者もなかりけり。
ある朝磯の方より、蜻蛉などのやうに痩せ衰へたる者、よろぼひ出で来たり。もとは法師にてありけりとおぼえて、髪は天さまに生ひあがり、よろづの藻屑取り付けて、おどろを戴きたるがごとし。節あらはれて皮ゆたひ、身に着たる物は、絹布の分も見えず。片手には荒海布を拾ひ持ち、片手には網人に魚をもらうて持ち、歩むやうにはしけれども、はかもゆかず、よろよろとしてぞ出で来たる。
「都にて多くの乞丐人見しかども、かかる者はいまだ見ず。『諸阿修羅等居在大海辺』とて、修羅の三悪四趣は深山大海の辺にありと、仏の説き置き給ひたれば、知らず、我餓鬼道に尋ね来るか」と思ふほどに、かれもこれも次第に歩み近づく。
もしかやうの者にても、我が主の御ゆくへ知り奉る事もやと、「物申さう」といへば、「何事」と答ふ。
「これに都より流され給ひたりし法勝寺の執行俊寛僧都と申す人の御行方や知つたる」と問ふ。童こそ見忘れたれども、僧都はいかでか忘るべきなれば、「これこそそよ」と宣ひもあへず、手に持てる物を投げ捨て、沙ごの上にぞ倒れ伏す。さてこそ我が主の御行方とも知りてんげれ。
僧都やがて消え入り給ふを、有王膝の上にかきのせ奉て、「有王が参つて候ふ。多くの波路を凌ぎて、はるばるとこれまで参りたる甲斐もなく、いかにやがて憂き目を見せんとは、せさせ給ひ候ふぞ」と、さめざめとかきくどきければ、
僧都少し人心地出で来、助け起こされ、「まことに汝が多くの波路を凌ぎて、はるばるとこれまで参りたるこそ神妙なれ。ただ明けても暮れても、都の事をのみ思ひゐたれば、恋しき者どもの面影は夢に見る折もあり、また幻に立つ時もあり。身も痛みつかれよわつて後は、夢もうつつも思ひ分かず。されば汝が来たれるをもただ夢とのみこそおぼゆれ。もしこの事の夢なりせば、覚めての後はいかがせん」。
有王、「うつつにて候ふなり。この御有様にても、今まで御命の生きさせ給ひたるこそ、不思議にはおぼえ候へ」と申しければ、
「さればこそ、去年少将や判官入道が迎ひの時、その瀬に身をも投ぐべかりしを、由なき少将の、『今一度、都の音信をもまてかし』など慰め置きしを、愚かにもしやと頼みつつ、ながらへんとはせしかども、この島には人の食物絶えて無き所なれば、身に力のありしほどは、山に上つて硫黄といふ物を掘り、九国より通ふ商人に逢ひ、食物にかへなどせしかども、日にそへて弱り行けば、今はそのわざもせられず。かやうに日ののどかなる時は、磯に出で、網人釣人に手をすり、膝をかがめて、魚をもらひ、塩干の時は貝を拾ひ、荒海布をとり、磯の苔に露の命をかけてこそ、今日までもながらへたれ。さらでは憂き世を渡るよすがをば、いかにしつらんとか思ふらん」。
僧都、「ここにて何事も言はばやとは思へども、いざ我が家へ」と宣へば、有王、あの御有様にても、家を持ち給へる不思議さよと思ひて行くほどに、松の一村ある中に、より竹を柱にし、蘆を結ひ、桁梁にわたし、上にも下にも、松の葉をひしととりかけたれば、雨風たまるべうも見えず。
もとは法勝寺の寺務職にて、八十余箇所の庄務をつかさどられしかば、棟門、平門の中にして、四五百人の所従眷属に囲繞せられておはせし人の、まのあたりかかる憂き目にあはせ給ふことの不思議なれ。業にさまざまあり。順現、順生、順後業といへり。僧都一期が間、身に用ゐる所、大伽藍の寺物仏物ならずといふ事なし。さればかの信施無慚の罪によつて、今生ではや感ぜられけりとぞ見えたりける。
→【各章検討:僧都死去】
僧都、うつつにてありけりと思ひ定めて、「そもそも去年少将や判官入道迎への時も、これらが文といふ事のなかりしが、今汝が便りにも、音信のなきはかうともいはざりしか」と宣へば、有王涙に咽びて、うつぶして、しばしは御返事にも及ばず。
ややあつて起き上がり、涙をおさへて申しけるは、「君の西八条へ御出で候ひし時、追捕の官人参つて資財雑具を追捕し、御内の人どもからめ取り、御謀叛の次第を尋ねとひ、皆失ひはて候ひき。北の方は幼き人を隠しかね参らさせ給ひ、鞍馬の奥に忍びて御渡り候ひしに、この童ばかりこそ時々参つて、御宮仕へつかまつり候ひしか。いづれも御歎きの愚かなる事は候はざりしかども、幼き人はあまりに恋ひ参らさせ給ひて、参り候ふたびごとには、『有王よ、我鬼界が島とかやへ具して参れ』とて、むつからせ候ひしが、過ぎ候ひし二月、疹痘と申す事に失せさせおはしまし候ひぬ。北の方はその御歎きと申し、これの御事と申し、ひとかたならぬ御思ひに、思し召し沈ませ給ひしが、同じき三月二日、遂にかくれさせ給ひ候ひぬ。今は姫御前ばかりこそ、奈良の姥御前の御もとに忍びて御渡り候へ。それより御文給はつて参つて候へ」とて、取り出だして奉る。
僧都これをあけて見給ふに、有王が申すに違はず書かれたり。奥には、「などや三人流されてまします人の、二人は召し帰されて候ふに、今一人残されて、今まで御上りも候はぬぞ。あはれ尊きも卑しきも、女の身ほど口惜しかりける事は候はず。男の身にてだに候はば、渡らせ給ふ島へも、などか参らで候ふべき。この童を御伴にて急ぎ上らせ給へ」とぞ書かれたる。
「有王これ見よ。この子が文の書きやうのはかなさよ。おのれをともにて、急ぎ上れと書いたる事のうらめしさよ。俊寛が心に任せたる憂き身ならば、何とてかこの島にて三年の春秋をば送るべき。今年は十二になるとこそ思ふに、これほどにはかなくては、いかでか人にも見え、宮仕ひをもして、身をもたすくべきか」とて泣かれけるにぞ、人の親の心はやみにあらねども、子を思ふ道に迷ふほども知られける。
「この島へ流されて後は、暦もなければ、月日のかはりゆくをも知らず。ただおのづから花の散り、葉の落つるを見ては、三年の春秋をわきまへ、蝉の声麦秋を送れば夏と思ひ、雪の積もるを冬と知る。白月黒月のかはりゆくを見ては、三十日をわきまへ、指を折つて算ふれば、今年は六つになると思ふ幼き者も、はや先立ちけるござんなれ。西八条へ出でし時、この子が『我も行かん』としたひしを、『やがて帰らうずるぞ』と慰め置きしが、今のやうにおぼゆるぞや。それを限りと思はましかば、今しばらくもなどか見ざらん。親となり子となり、夫婦の縁の結びも、みなこの世一つに限らぬ契りぞかし。などされば、それらがさやうに先立ちけるを、今まで夢幻にも知らざりけるぞ。人目も知らず、いかにもして、命をいかうど思ひしも、これらを今一度見ばやと思ふためなり。今は生きても何かせん。姫が事こそ心苦しけれども、それは生き身なれば、歎きながらも過ごさんずらん。さのみながらへて、おのれに憂き目を見せんも、我が身ながらつれなかるべし」とて、おのづから食事を留め、ひとへに弥陀の名号を唱へ、臨終正念をぞ祈られける。
有王渡つて二十三日と申すに、僧都、庵の中にて、遂に終はり給ひぬ。歳三十七とぞ聞こえし。
有王空しき姿に取りつき、天に仰ぎ地に臥し、心の行くほど泣き飽いて、「やがて後世の御伴つかまつるべう候へども、この世には姫御前ばかりこそ渡らせ給ひ候へ。後世とぶらひ参らすべき人も候はず。しばしながらへて、後世を弔ひ参らせん」とて、ふしどを改めず、庵をきりかけ、松の枯れ枝、蘆の枯葉を取り覆ひ、藻塩の煙となし奉り、荼毘事終はりにければ、白骨を拾ひ首にかけ、また商人船の便りに九国の地へぞ着きにける。
その後都へ上り、僧都の御娘の忍んでおはしける所へ参つて、ありし様、はじめよりこまごまと語り申す。
「なかなか御文を御覧じてこそ御思ひはまさらせ給ひて候ひしか。硯も紙もなければ、御返事にも及ばず、思し召され候ひし御事、さながら空しうやみ候ひにき。今は生々世々を送り、多生曠劫をば隔つとも、いかでか御声をも聞き、御姿をも見参らさせ給ふべき」と申しければ、
姫御前、伏しまろび、声も惜しまず泣かれける。やがて十二の歳尼になり、奈良の法華寺に行ひすまして、父母の後世を弔ひ給ふぞ哀れなる。
有王は俊寛僧都の遺骨を首にかけ、高野へ上り、奥の院に納めつつ、蓮華台にて法師になり、諸国七道修行して、主の後世をぞ弔ひける。かやうに人の思ひ歎きのつもりぬる、平家の末こそ恐ろしけれ。
→【各章検討:颷】
さるほどに、同じき五月十二日の午の刻ばかり、京中に辻風おびたたしう吹いて、人屋多く顛倒す。風は中御門京極より起こつて、坤の方へ吹いてゆくに、棟門、平門吹き抜いて、四五町吹きもてゆく。桁、長押、柱などは虚空に散在す。檜皮、葺板の類、冬の木の葉の風に乱るるがごとし。おびたたしう鳴りどよむ音、かの地獄の業風なりとも、これには過ぎじとぞ見えし。
ただ舎屋の破損するのみならず、命を失ふ者も多し。牛馬の類、数をしらず打ち殺さる。「これただ事にあらず。御占あるべし」とて、神祇官にして御占あり。「いま百日の内に、禄を重んずる大臣のつつしみ、別しては天下の大事、並びに仏法王法ともに傾いて、兵革相続すべし」とぞ、神祇官、陰陽寮ともに占ひ申しける。
→【各章検討:医師問答】
小松の大臣、かやうの事どもを伝へ聞き給ひて、よろづ心細くや思はれけん、その頃熊野参詣の事ありけり。
本宮証誠殿の御前にて、しづかに法施参らせて、夜もすがら敬白せられけるは、
「親父入道相国の体を見るに、悪逆無道にして、ややもすれば君を悩まし奉る。重盛長子として、しきりに諫めを致すといへども、身不肖の間、彼もつて服膺せず。その振舞を見るに、一期の栄華なほ危し。枝葉連続して、親を顕し、名を上げん事難し。
この時に当たつて、重盛いやしくも思へり。なまじひに列して、世に浮沈せん事、あへて良民孝子の法にあらず。如かじ、名を遁れ身を退いて、今生の名望を投げ捨てて、来世の菩提を求めんには。ただし凡夫薄地、是非に惑へるが故に、心ざしをなほ恣にせず、南無権現金剛童子、願はくは、子孫繁栄絶えずして、仕へて朝廷に交はるべくんば、入道の悪心を和らげて、天下の安全を得しめ給へ。
栄耀また一期を限つて、後昆恥に及ぶべくんば、重盛が運命を縮めて、来世の苦輪を助け給へ。両箇の求願、ひとへに冥助を仰ぐ」
と、肝胆をくだきて祈念せられければ、燈籠の火のやうなる物の、大臣の御身より出でて、ばつと消ゆるがごとくして失せにけり。
人あまた見奉りけれども、恐れてこれを申さず。
大臣下向の時、岩田川を渡られけるに、嫡子権亮少将維盛以下の公達、浄衣の下に薄色の衣を着て、夏の事なれば、何となく川の水に戯れ給ふほどに、浄衣の濡れて衣に移つたるが、ひとへに色のごとくに見えけるを、
筑後守貞能これを見とがめて、「何と候ふやらん、あの御浄衣の、世にいまはしきやうに見えさせましまし候ふ。急ぎ召し替へらるべくや候ふらん」と申しければ、大臣、「我が所願すでに成就しにけり。あへてその浄衣改むべからず」とて、岩田川より別して熊野へ喜びの奉幣をぞたてられける。人あやしと思へども、なほその心をば得ざりけり。
しかるにこの公達、ほどなくやがて、まことの色を着給ひけるこそ不思議なれ。
大臣また下向の時、幾ばくの日数を経ずして、病つき給ひぬ。権現すでに御納受あるにこそとて、療治をもし給はず。祈祷をもいたされず。
その頃宋朝よりすぐれたる名医渡つて、本朝にやすらふ事ありけり。折節入道相国は、福原の別業におはしけるが、越中前司盛俊を使者で、小松殿へ宣ひ遣はされけるは、「所労いよいよ大事なる由、その聞こえあり。かねてはまた宋朝よりすぐれたる名医渡れり。折節これを喜びとす。よつて彼を召し請じて、医療を加へしめ給へ」とぞ宣ひ遣はされたりける。
小松殿助け起こされ、盛俊を御前へ召して対面あり。
「まづ『医療の事、かしこまつて承り候ひぬ』と申すべし。ただし汝も承れ。延喜の帝は、さばかんの賢王にて渡らせ給ひしかども、異国の相人を都のうちへ入れられたりしことをば、末代までも賢王の御誤り、本朝の恥とこそ見えたれ。況んや重盛ほどの凡人が、異国の医師を王城へ入れん事、国の恥にあらずや。
漢の高祖は、三尺の剣をひつ提げて天下を治めしかども、淮南の黥布を討つし時、流矢に当つて傷をかうぶる。后呂大后、良医を迎へて見せしむるに、医のいはく、『この傷治すべし。ただし五十斤の金を与へば治せん』といふ。高祖宣はく、『我まもりのつよかつしほどは、多くの戦ひに逢うて傷をかうぶりしかども、その痛みなし。運すでに尽きぬ。命はすなはち天に在り、扁鵲と雖も、何の益かあらん。しからばまた金を惜しむに似たり』とて、五十斤の金を医師に与へながら、遂に治せざりき。
先言耳に在り、今もつて甘心す。重盛いやしくも九卿に列して三台に昇る。その運命を謀るに、もつて天心にあり。何ぞ天心を察せずして、愚かに医療を労しうせんや。所労もし定業たらば、医療を加ふるとも益なからんか。また非業たらば、療治を加へずとも、助かる事を得べし。
かの耆婆が医術及ばずして、大覚世尊、滅度を跋提河の辺に唱ふ。これすなはち定業の病、療さざることを示さんがためなり。治するは仏体なり。療するは耆婆なり。定業なほ医療に拘るべう候はば、豈に釈尊入滅あらんや。定業また治すること堪へざる旨明らけし。
しかれば重盛が身、仏体にあらず、名医また耆婆に及ぶべからず。たとひ四部の書を鑑みて、百療に長ずといふとも、いかでか有待の穢身を救療せん。たとひ五経の説を詳かにして、衆病を療すといふとも、いかでか豈に先世の業病を治せんや。もしかの医術によつて存命せば、本朝の医道なきに似たり。医術効験なくんば、面謁所詮なし。なかんづく本朝鼎臣の外相をもつて、異朝浮遊の来客にまみえん事、かつうは国の恥、かつうは道の凌遅なり。たとひ重盛命は亡ずといふとも、いかでか国の恥を思ふ心を存ぜざらん。この由を申せ」とこそ宣ひけれ。
盛俊泣く泣く福原へ馳せ下り、この由を申しければ、入道相国、「国の恥を思ふ大臣、上古にもいまだ聞かず。まして末代にあるべしともおぼえず。日本に相応せぬ大臣なれば、いかさまにも今度失せなんず」とて、急ぎ都へのぼられけり。
七月二十八日、小松殿出家し給ひぬ。法名は浄蓮とこそつき給へ。やがて八月一日、臨終正念に住して失せ給ひぬ。御歳四十三。
世は盛りとこそ見えつるに、あはれなりし事どもなり。
「さしも入道相国の、横紙を破られつるも、この人のやうやうになだめ宣ひつればこそ、世も穏しかりつれ。今より後、天下にいかばかりの事か出で来んずらん」とて、上下みな嘆きあひ、悲しみあはれけり。
また前右大将宗盛卿の方ざまの人々は、「世はただ今大将殿へ参りなんず」とて、勇み喜び合はれけり。
人の親の子を思ふならひは、おろかなるが、先立つだにもかなしきぞかし。況んやこれは当家の棟梁、当世の賢人にておはしければ、恩愛の別れ、家の衰微、悲しんでもなほ余りあり。されば世には良臣を失ひつる事を歎き、家には武略の廃れぬることを悲しむ。
およそはこの大臣、文章麗しうして、心に忠を存じ、才芸優れて、言葉に徳くを兼ね給へり。
→【各章検討:無文】
すべてこの大臣は、天性不思議の人にて、行く末の事をもかねて悟り給ひけるにや。
去んぬる四月七日の夜の夢に、見給ひたりけることこそ不思議なれ。たとへば、ある浜路をはるばると歩み行き給ふほどに、かたはらに大きなる鳥居のありけるを、大臣夢の内に、「あれはいかなる御鳥居やらん」と問ひ給へば、「春日大明神の御鳥居なり」とぞ申しける。人多く群衆したり。その中より大きなる法師の首を一つ太刀の先に貫き、高く差し上げたるを、大臣、「何者ぞ」と宣へば、「平家太政入道殿の悪行超過せるによつて、当社大明神の召し取らせ給ひて候ふ」と申すとおぼえて夢覚めぬ。
当家は保元平治よりこの方、度々の朝敵を平らげ、勧賞身に余り、帝祖、太政大臣に至り一族の昇進六十余人。二十余年のこの方は、楽しみ栄え、またたちならぶ人もなかりつるに、入道の悪行によつて、当家の運命の末になるにこそと思し召して、御涙を咽ばせ給ふ。
折節妻戸をほとほとと打ち叩く。大臣、「何者ぞ、あれ聞け」と宣へば、「瀬尾の太郎兼康が参つて候ふ。今夜あまりに不思議の事を見候うて、申し上げんがために、夜の明くるが遅くおぼえて参つて候ふ。御前の人をのけられ候へ」とて、人遥かにをのけて対面あり。今夜見たりける夢を一々に語り申したりければ、大臣の御覧ぜられける夢に少しもたがはず。さてこそ、瀬尾太郎兼康は、「神にも通じたる者にてありけれ」と、大臣も感じ給ひけり。
その朝嫡子権亮少将維盛、院へ参るとて出で立たれけるを、大臣呼び奉て、「人の親のかやうの事申すは、をこがましけれども、御辺は人の子にはすぐれて見え給へり。貞能少将に酒進めよ」と宣へば、筑後守貞能御酌に参る。
「これをば少将にこそとらせたけれども、親より先にはよも飲み給はじ」とて、三度承けて、その後少将に差さる。少将また三度うけ給ふ時、「貞能少将に引き出物せよ」と宣へば、かしこまり承つて、錦の袋に入りたる御太刀を一つ取りて参つたり。「いかさまこれは当家に伝はれる小烏といふ太刀やらん」と嬉しう思うて見給ふ所に、さはなくして、大臣葬の時用ふる無文の太刀といふ物なり。
その時少将もつてのほかに気色かはつて見え給へば、大臣涙をはらはらと流いて、「それは貞能が咎にはあらず。大臣葬の時帯く無文の太刀なり。日ごろは入道殿いかにもなり給はば、重盛帯いて供せんとこそ思ひしかども、今は重盛、入道殿に先立ち奉らんずれば、御辺にたぶぞかし」とぞ宣ひける。
少将これを聞き給ひて、その日は出仕もし給はず、引きかづいてぞ臥し給ふ。その後大臣熊野へ参り下向し、いくばくの日数を経ずして、病ついて失せ給ひけるにこそ、げにもと思ひ知られけれ。
→【各章検討:燈炉之沙汰】
またこの大臣は(滅罪生善の志深うおはしければ)当来の浮沈を歎き、六八弘誓の願に準へて、東山の麓に、六八四十八間に精舎をたて、一間に一つづつ、四十八の燈籠を懸けられたりければ、九品の台、目の前に輝き、光耀鸞鏡を琢いて、浄土の砌に臨むかと疑はれ、毎月十四日十五日を定めて大念仏ありしに、当家他家の人々のもとより、色白うみめ好く壮んなる女房を請じて、一間に六人づつ、四十八間に二百八十八人、尼衆と定め、大臣行道に交はり、かの両日が間は、一心不乱の称名の声退転なし。
まことに光明引摂の悲願も、この所に影向を垂れ、摂取不捨光も、かの大臣を照らし給ふらんとぞ見えし。
十五日の日中を結願として、大臣西に向かひ、手を合はせ、「九品安養教主弥陀善逝、三界六道の衆生をあまねく済度し給へ」と、回向発願し給へば、見る人慈悲心をおこし、聞く者、感涙をぞ催しける。それよりしてぞ、この大臣をば燈籠の大臣とは申しける。
→【各章検討:金渡】
またこの大臣は滅罪生善の志深うおはしければ、「我が朝にはいかなる大善根をし置きたりとも、子孫相続いて、後生を弔はん事も有り難し。他国にいかなる善根をもして、後世を弔はればや」とて、安元の頃ほひ、鎮西より妙典といふ船頭を召しのぼせ、人を遥かにのけて対面あり。
黄金を三千五百両召し寄せて、「汝は大正直の者にてあんなれば、五百両をば汝に賜ぶ。三千両をば宋朝へ渡し、千両をば育王山の僧に引き、二千両をば帝へ参らせて、田代を育王山へ申し寄せて、我が後世を弔はせよ」とぞ宣ひける。
妙典これを給はつて、万里の煙浪を凌ぎつつ、大宋国へぞ渡りける。育王山の芳丈仏照禅師徳光に逢ひ奉て、この由申しければ、随喜感嘆して、千両を育王山の僧に引き、二千両をば帝へ参らせて、小松殿の申されつるやうをつぶさに奏聞せられければ、帝も大きに感じ思し召して、五百町の田代を、育王山へぞ寄せられける。
されば日本の大臣、平朝臣重盛公の後生善所と祈る事、今に絶えずとぞ承る。
→【各章検討:法印問答】
入道相国、小松殿には後れ給ひぬ。よろづ心細くや思はれけん、福原へ馳せ下り、閉門してこそおはしけれ。
同じき十一月七日の夜戌の刻ばかり、大地おびたたしう動いて、やや久し。
陰陽頭安倍泰親、急ぎ内裏へ馳せ参じ、「今度の地震、占文の指す所、その慎み軽からず候ふ。当道三経の中に、坤儀経の説を見候ふに、年を得ては年を出でず、月を得ては月を出でず、日を得ては日を出でず。もつてのほかに火急に候ふ」とてはらはらと泣きければ、伝奏の人も色を失ふ。君も叡慮を驚かせおはします。
若き公卿殿上人は、「けしからぬ泰親がただ今の泣きやうかな。何事のあるべきぞ」と笑ひ合はれける。
されどもこの泰親は、晴明五代の苗裔を承けて、天文は淵源を極め、推条掌を指すがごとし。一事も違はざりければ、さすの神子とぞ申しける。雷の落ちかかりたりしかども、雷火のために狩衣の袖は焼けながら、その身はつつがなかりけり。上代にも末代にも、有り難かりし泰親なり。
同じき十四日、入道相国、この日ごろ福原の別業におはしけるが、何とか思ひなられたりけん、数千騎の軍兵をたなびいて、都へ帰り入り給ふ由聞こえしかば、京中何と聞き分けたる事はなけれども、上下騒ぎ合へり。
また何者の申し出だしたりけるやらん、「入道相国、朝家を恨み奉るべし」といふ披露をなす。
関白殿も、内々聞こし召さるる旨もやありけん、急ぎ御参内あつて、「今度入道の入洛は、ひとへに基房滅ぼすべき結構にて候ふなり。つひにいかなる憂き目に逢ふべきにて候ふやらん」と、奏せさせ給へば、主上聞こし召して、「そこにいかなる目にもあはんは、ひとへに我が逢ふにてこそあらんずらめ」とて、竜顔より御涙を流させ給ふぞかたじけなき。
まことに天下の御政治は、主上摂録の御ぱからひにてこそあるに、これはいかにしつる事どもぞや。
天照大神、春日大明神の神慮のほども量り難し。
同じき十五日、入道相国朝家を恨み奉るべき事必定と聞こえしかば、法皇おほきに驚かせ給ひて、故少納言信西の子息静憲法印を御使ひにて、入道相国のもとへつかはす。
仰せ下されけるは、「近年、朝廷静かならずして、人の心もととのほらず。世間もいまだ落折せぬさまになりゆく事を、惣別に付けて嘆き思し召せども、さて某にあれば、万事頼み思し召されてこそあるに、たとひ天下をしづむるまでこそなからめ、嗷々なる体にて、あまつさへ朝家をうらむべしなど聞こし召すは何事ぞ」と仰せ下さる。
静憲法院、入道相国の亭へ向かふ。
入道対面もし給はず。
朝より夕べに及ぶまで待たれけれども、無音なりければ、さればこそと無益に思ひて、源大夫判官季貞をもつて、勅諚の趣いひ入れさせ、「暇申して」とて出でられければ、その時入道、「法印呼べ」とて出でられたり。
呼び返して、「やや法印御房、浄海が申す所は僻事か。まづ内府が身まかりぬる事、当家の運命をはかるにも、入道随分悲涙を押さへてこそまかり過ぎ候ひしか。御辺の心にも推察し給へ。保元以後は、乱逆打ち続いて、君安い御心も渡らせ給はざりしに、入道はただ大方を執り行ふばかりでこそ候へ。内府こそ手を下ろし身を砕きて、度々の逆鱗をばやすめ参らせ候ひしか。そのほか臨時の御大事、朝夕の政務、内府ほどの功臣は、有り難うこそ候ふらめ。これをもつて古を案ずるに、唐の太宗は、魏徴におくれて哀しみのあまりに、『昔の殷宗は夢の中に良弼を得、今の朕は覚めての後賢臣を失ふ』といふ碑文をみづから書いて、廟に立ててだにこそ哀しみ給ひけるなれ。わが朝にも、まぢかくは候ひし事ぞかし。
顕頼民部卿逝去したりしをば、故院ことに御歎きあつて、八幡の行幸延引し、御遊なかりき。すべて臣下の卒するをば、代々の帝みな御嘆きある事でこそ候へ。されば親よりもなつかしう子よりもむつかしきをば君と臣との仲と申す事では候ふらめ。
されども内府が中陰に、八幡の御幸あつて御遊ありき。御歎きの色一事をもこれを見ず。たとひ内府が忠をこそ思し召し忘れさせ給ふとも、などか入道が哀しみをば御憐れみなくては候ふべき。たとひ入道が哀しみをこそ御憐れみなくとも、などか内府が忠をば思し召し忘れさせ給ふべき。父子ともに叡慮に背き候ひぬる事、今において面目を失ふ。これひとつ。
次に越前国をば、子々孫々まで御変改あるまじき由御約束候うて、賜はつて候ひしを、内府におくれ候うて後、やがて召し帰され候ふは、なんの過怠にて候ふやらん。これひとつ。
次に中納言闕の候ひしを、二位中将の余りに所望候ひしを、入道随分執り申ししかども、つひに御承引なくして、関白の息をなさるる事はいかに。たとひ入道いかなる非拠申し行ふとも、一度はなどか聞こし召し入れざるべき。申し候はんや、家嫡といひ、位階といひ、理運左右に及ばぬことを引きちがへさせ給ふ御事は、本意なき御はからひとこそ存じ候へ。これひとつ。
次に新大納言成親卿以下近習の人々、鹿の谷によりあひて、謀叛の企のありし事、全く私の計略にあらず。しかしながら君御許容あるによつてなり。ことあたらしう候へども、七代までこの一門をば、いかでか捨てさせ給ふべき。それに入道七旬に及んで、余命いくばくならぬ一期の中にだにも、ややもすればほろぼすべき由御はからひ候ふ。申し候はんや、子孫あひ続いで朝家に召しつかはれん事有り難し。およそ老いて子を失ふは、枯木の枝無きに異ならず。今はほどなき憂き世に、心を費しても何にかはせんなれば、いかでもありなんとこそ思ひなつて候へ」とて、且つうは腹立し、且つうは落涙し給へば、法印恐ろしうも、またあはれにもおぼえて、汗水になり給ひぬ。
この時はいかなる人も、一言の返事には及びがたき事ぞかし。その上我が身も近習の仁にて、鹿の谷によりあひたりし事をばまさしう見聞かれしかば、ただ今もその人数とて召しやこめられんずらんと思はれけるに、竜の髭を撫で、虎の尾を踏む心地はせられけれども、法印もさる恐ろしき人にて、ちつとも騒がず申されけるは、
「まことに度々の御奉公浅からず候ふ。一旦恨み申させまします旨、そのいはれ候ふ。官位といひ、俸禄といひ、御身にとつてはことごとく満足す。されば功の莫大なるを、君御感あるでこそ候へ。しかるに近臣事を乱り、君御許容ありと申すことは、謀臣の凶害にてぞ候ふらん。
およそ耳を信じて目を疑ふは、俗の常の弊なり。小人の浮言を重うして、朝恩の他に異なるに、君をかたぶけ参らさせ給はん事、冥顕につけてその恐れ少からず候ふ。およそ天心は蒼々として測り難し。叡慮定めてその議でぞ候ふらん。下として上に逆ふる事、豈に人臣の礼たらんや。よくよく御思惟候ふべし。所詮、この趣をこそ披露つかまつり候はめ」とて立ちければ、
その座にいくらもなみゐ給へる人々、「あな恐ろし。入道のあれほど怒り給ふに、ちつとも騒がず、返事うちしてたたるるよ」とて、法印を誉めぬ人こそなかりけれ。
→【各章検討:大臣流罪】
法印御所に帰り参つて、この由奏聞せられければ、法皇も道理至極して、重ねて仰せ下さるる旨もなし。
同じき十六日、入道相国この日頃思ひ立ち給へる事なれば、関白殿をはじめ奉て、太政大臣以下の公卿四十三人が官職を停めて、皆追つ籠めらる。中にも関白殿をば太宰帥に遷して、鎮西へとぞ聞こえし。
「かからん世には、とてもかくてもありなん」とて、鳥羽の辺、古川といふ所にて御出家あり。御歳三十五。
「礼儀よくしろしめして、曇りなき鏡にてましましつるものを」とて、世の惜しみ奉ることなのめならず。
はじめは日向国と定められたりしが、遠流の人の道にて出家したるをば、約束の国へはつかはさぬ事なれば、これは御出家の間、備前国府の辺、いばさまといふ所に留め奉る。
大臣流罪の例は、左大臣曾我赤兄、右大臣豊成、左大臣魚名、右大臣菅原、かけまくもかたじけなき今の北野の天神の御事なり。左大臣高明公、内大臣藤原伊周公に至るまで、その例すでに六人、されども摂政関白流罪の例はこれはじめとぞ承る。
故中殿の御子、二位中将基通は、入道の婿にておはしければ、大臣関白になし奉り給ふ。去んぬる円融院の御宇、天禄三年十一月一日、一条の摂政謙徳公失せ給ひしかば、御弟堀河関白忠義公、その時は従二位の中納言にておはしき。その御弟法興院の大入道兼家公、その時は大納言の右大将にておはしましければ、忠義公は御弟に越えられさせ給ひたりしかども、今また超え返して、内大臣正二位に上がり給ふ。
内覧の宣旨かうぶらせ給ひしをこそ、人耳目をおどろかしたる御精進とは申ししか。これはそれにはなほ超過せり。非参議二位中将より、大中納言を経ずして、大臣摂政になる事、これはじめ。普賢寺殿の御事なり。上卿の宰相、大外記、大夫史に至るまで、皆あきれたるさまにてぞ候ひける。
太政大臣師長は、司を停めて、東の方へ流され給ふ。
去んぬる保元には父悪左大臣殿の縁座によつて、兄弟四人流罪せられ給ひにき。御兄右大将兼長、御弟左の中将隆長、範長禅師三人は、帰洛を待たずして、配所にてつひに失せ給ひぬ。これは土佐の畑にて九かへりの春秋を送り迎へ、長寛二年八月に召し帰されて、本位に復す。
次の年正二位して、仁安元年十月に、前中納言より権大納言にあがり給ふ。折節大納言あかざりければ、員の外にぞ加へられける。大納言六人になること、これはじめ。また前中納言より権大納言にあがる事も、後山階の大臣躬守公、宇治大納言隆国卿のほかはいまだ承り及ばず。
管弦の道に達し、才芸優れてましましければ、次第の精進滞らず、太政大臣まできはめさせ給ひて、またいかなる罪の報いにや、重ねて流され給ふらん。
保元の昔は、南海土佐へ遷され、治承の今は、また東関尾張国とかや。
もとより罪なうして配所の月を見んといふ事をば、心あるきはの人の願ふことなれば、大臣あへて事ともし給はず。かの唐の太子の賓客白楽天、潯陽の江のほとりにやすらひ給ひけん、その古を思ひやり、鳴海潟、汐路遥かに遠見して、常は朗月を望み、浦風に嘯き、琵琶を弾じ、和歌を詠じ、なほざりがてらに、月日を送らせ給ひけり。
ある時当国第三の宮熱田の明神に参詣ありて、その夜神明法楽のために、琵琶を弾き朗詠し給へども、所本より無智の境なれば、情を知れる者なし。邑老、村女、漁人、野叟、頭をうなだれ、耳を聳つといへども、さらに清濁をわかつて、呂律を知る事なし。されども瓠巴琴を弾ぜしかば、魚鱗躍りほとばしり、虞公歌を発せしかば梁塵動き揺るぐ。ものの妙をきはむる時には、自然に感を催す理なれば、諸人身の毛よだつて、満座奇異の思ひをなす。
やうやう深更に及んで、風香調のうちには、花芬馥の気を含み、流泉の曲の間には、月清明の光を争ふ。
「願はくは今生世俗文字の業、狂言綺語の誤りをもつて」といふ朗詠をして、秘曲をひき給ひしかば、神明感応に堪へずして、宝殿おほきに震動す。「平家の悪行なかりせば、今この瑞相をばいかでか拝むべき」とて、大臣感涙をぞ流されける。
按察大納言資賢卿、子息右近衛少将兼讃岐守源資時、ふたつの官を停めらる。参議皇太后宮権大夫兼右兵衛督藤原光能、大蔵卿右京大夫兼伊予守高階泰経、蔵人左少弁兼中宮権大進藤原基親、三官ともに停めらる。
なかにも「按察大納言、子息右近衛少将、孫の右少将雅賢、これ三人をばやがて今日都の中を追ひ出ださるべし」とて、上卿には藤大納言実国、博士判官中原範貞に仰せて、やがてその日都の中を追ひ出ださる。
大納言宣ひけるは、「三界広しと雖も、五尺の身置き所なし。一生程無しといへども、一日暮らし難し」とて、夜中に九重の中を紛れ出でて、八重立つ雲のほかへぞおもむかれける。
かの大江山や、生野の道にかかりつつ、丹波国村雲といふ所にぞ、しばしはやすらひ給ひける。それよりつひには尋ね出だされて、信濃国とぞ聞こえし。
→【各章検討:行隆之沙汰】
また、前関白松殿の侍に、江大夫判官遠成といふ者あり。これも平家に快からざりけるが、六波羅よりからめとらるべしと聞こえしほどに、子息江左衛門督家成うち具して、南をさして落ちゆきけるが、稲荷山にうち上り、馬より下りて、親子言ひ合はせけるは、「そもそもこれより東国へ落ち下り、流人前右兵衛佐殿を頼まばやとは思へども、それも当時は勅勘の身にて、身一つをだにかなひがたうおはすなり。その上日本国に、平家の庄園ならぬ所やある。また年来住みなれたる所を人に見せんも恥ぢがましかるべし。六波羅より召す使ひあらば、腹かき切つて死なんには如かじ」とて、河原坂の宿所へ取つて返す。
案のごとく源大夫判官季貞、摂津判官盛澄、都合その勢三百余騎、河原坂の宿所へ押し寄せて、鬨をどつとぞ作りける。江大夫判官、縁に立ち出で大音声をあげて、「六波羅ではこのやうを申させ給へ」とて、館に火かけ焼き上げ、父子ともに腹かき切つて、焔の中にて焼け死にぬ。
そもそも上下かやうに多く亡損することをいかにといふに、前の殿の御子三位中将殿と、当時関白にならせ給ふ二位中将殿と、中納言御相論の由とぞ聞こえし。さらば関白殿御一所こそ、いかなる御目にもあはせ給ふべきに、四十余人の人々の、事に逢ふべきやは。
去年讃岐院御追号あつて崇徳天皇と号し、宇治の悪左府贈官位行はれたりしかども、世間はなほ苦々しうぞ見えし。「およそはこれにも限るまじかんなり。入道相国の心に天魔入りかはつて、よろづ腹をすゑかね給ふ」と聞こえしかば、京中の上下、「いかなる憂き目にか逢はんずらん」とて恐れをののく。
その頃前左少弁行隆と申ししは、故中山中納言顕時卿の長男なり。二条院の御代には、弁官に加はつて、ゆゆしかしりかども、この十余年は官をもとどめられて、夏冬の衣がへにも及ばず、朝暮のざんもまれなり。あるかなきかの体にておはしけるを、入道相国、使者をもつて、「きつと立ち寄り給へ。申し合はすべき事あり」と宣ひ遣はされたりければ、行隆、「この二十余年は官をもとどめられて、何事にもまじはらざりつるものを。いかさま讒言する人のあるにこそ」とて、おほきに恐れさわがれけり。北の方以下の女房達、声々にをめき叫び給ひけり。
されども、西八条どのより、使ひしきなみにありしかば、行隆、「出で向かつてこそ、ともかうもならめ」とて、人に車借りて出でられたれば、思ひたるに似ず、入道やがて出で合ひ対面して、「御辺の父の卿は、入道大小事を申し合はせし人なり。そのゆかりでおはすれば、おろそかに思ひ奉らず。年来籠居の事もいたはしう存ずれども、法皇の御政務の上は力及ばず。今は出仕し給へ。官途の事も申し沙汰つかまつらん。さらばとう帰られよ」とて入り給ひぬ。帰られたれば、宿所には女房達死にたる人の生き返りたる心地して、さしつどひて皆喜び泣きをぞせられける。
その後源大夫判官季貞をもつて、知行し給ふべき庄園状あまた遣はさる。出仕の料にとて、牛車雑色牛飼ひ、清げに沙汰し遣はさる。まづさぞあるらんとて、百疋百両に米を積みてぞ送られける。
行隆手の舞ひ、足の踏みどもおぼえ給はず、「こは夢かや夢か」とぞ驚かれける。
同じき十七日、五位の侍中に補せられて、左少弁になり返らる。今年五十一、今さら若やぎ給ひけり。ただ片時の栄華とぞ見えし。
→【各章検討:法皇被流】
同じき十一月二十日、法住寺殿には、軍兵四面をうち囲む。
「平治に信頼が三条殿をしたりしやうに、御所にひをかけ、人をば皆焼き殺さるべし」と聞こえしかば、局の女房、女童に至るまで、物をだにうちかづかず、我先に我先にとぞ逃げ出でける。
さて御車を寄せて、「とうとう」と申せば、法皇叡慮を驚かさせおはしまし、「成親、俊寛がやうに、遠き国、遥かの島へも遷しやられんずるにこそ。御咎あるべしとも思し召さず。主上さて渡らせ給へば、政務に口入するばかりなり。それもさあるまじくは、自今以後さらでこそあらめ」と仰せければ、
前右大将宗盛卿、涙をはらはらと流いて、「その儀では候はず。『しばらく世をしづめんほど、鳥羽の北殿へ御幸をなし参らせよ』と、父の禅門申し候ふ」と申されたりければ、
「さらば宗盛やがて御伴つに候へ」と仰せければ、父の禅門の気色に恐れをなして参られず。
「これにつけても、兄の内府には、事の外に劣りたるものかな。一年もかかる御目にあふべかりしを、内府が身にかへて制し留めてこそ、今日までも御心安かりつれ。今は諫むる者なしとて、かやうに振る舞ふにこそあんなれ。行く末とても頼もしうも思し召さず」とて、御涙せきあへさせ給はず。
さておん車にめされけり。公卿殿上人、一人も供奉せられず。北面の下﨟、さては金行といふ御力者ばかりなり。御車の尻には、尼ぜ一人参られけり。この尼ぜと申すは、やがて法皇の御乳の人、紀伊の二位の事なり。七条を西へ、朱雀を南へ御幸なし奉る。心なきあやしの賤の男、「あはれ法皇の流されさせましますぞや」とて涙を流し、袖を濡らさぬはなかりけり。
「去んぬる七日の夜の大地震も、かかるべかりける先表にて、十六洛叉の底までもこたへ、堅牢地神の驚きさわぎ給ふらんも理かな」とぞ人申しける。
さて鳥羽殿へ御幸なつて、御前に人一人も候はざりけるに、大膳大夫信業がただ一人、何としてか紛れ入りたりけん、御前近う候ひけるを召して、「我はゆふさり失はれなんずと思し召す。御行水をめさばやと思し召すはいかがせん」と仰せければ、さらぬだに信業今朝より肝魂も身にそはず、あきれたるさまにて候ひけるに、この仰せ承るかたじけなさに、狩衣の玉襷あげ、水汲み入れ、小柴垣こぼち、大床のつか柱破りなどして、形のごとくの御湯しいだいて参らせけり。
また静憲法印、入道相国の西八条の亭におはしまして、「今朝より法皇の鳥羽殿へ御幸なつて候ふなるに、御前に人一人も候はぬ由承つて、余りにあさましくおぼえ候ふ。何か苦しう候ふべき。静憲ばかりは御許されをかうぶつて、参らばや」と申されければ、入道相国いかが思はれけん。「御坊は事あやまつまじき人なり。とうとう」とて許されけり。
法印なのめならずに喜び、急ぎ鳥羽殿へ参り、門前にて車より降り、門の内へさしいり給ふに、折しも法皇は御経を打ち上げ打ち上げあそばされけるに、御声もことにすごうぞ聞こえさせましましける。
法印のつと参られたれば、あそばされける御経に、御涙のはらはらとかからせ給ふを見参らせて、法印あまりの哀れさに、裘代の袖を顔に押し当てて、泣く泣く御前へぞ参られける。
御前には尼ぜ一人候はれけるが、「やや法印の御坊、君は昨日の朝、法住寺殿で、供御聞こし召して後は、よべもけさも聞こし召さず。長き夜すがら、御寝もならず、御命もすでに危くこそ見えさせおはしませ」と申されければ、法印涙をおさへて申されけるは、「何事も限りある事で候へば、平家世を取つて二十余年、されども悪行法に過ぎて、すでに滅び候ひなんず。されば天照大神、正八幡宮も、君をばいかでか捨て参らせ給ふべき。中にも君の御頼みある日吉山王七社、一乗守護の御誓ひいまだ改まらずんば、かの法華の八軸にたちかけつてこそ、君をば護り参らさせ給ふらめ。されば政務は君の御代となり、凶徒は水の泡と消え失せ候ひなん」と申されければ、法皇この言葉に少し慰ませおはします。
主上は関白の流され給ひ、臣下の多く亡損する事をこそ御歎きありつるに、法皇の鳥羽殿へ御幸なりぬる由聞こし召して、つやつや供御も聞こし召さず、御悩とて常は夜のおとどにのみ入らせおはします。御前に候はせ給ふ女房達、后の宮をはじめ参らせて、いかなるべしとも思し召さず。
法皇の鳥羽殿へ御幸なつて後、内裏には臨時の御神事とて、清涼殿の石灰の壇にして、主上夜ごとに伊勢大神宮をぞ御拝ありける。これは一向法皇の御祈りのためなり。
二条院は、さばかんの賢王にて渡らせ給ひしかども、「天子に父母なし」とて法皇の仰せをも常は申し返させおはしましければにや、継体の君にてもましまさず。されば御譲りを受けさせ給ひし六条院も、安元二年七月十七日、御歳十三にてかくれさせ給ひぬ。あさましかりし事どもなり。
→【各章検討:城南之離宮】
「百行の中には、孝行をもつて先とす。明王は孝をもつて天下を治む」といへり。されば「唐堯は老い衰へたる母を貴み、虞舜はかたくななる父を敬ふ」と見えたり。かの賢王聖主の先規を追ひましましけん、叡慮のほどこそめでたけれ。
その頃内裏より鳥羽殿へ、ひそかに御書あり。
「かからん世には、雲居に跡を留めてもなににかはし候ふべき。寛平の昔をも訪ひ、花山の古をも尋ねて、山林流浪の行者ともなりぬべうこそ候へ」とあそばされたりければ、法皇の御返事には、「さな思し召され候ひそ。さて渡らせ給へばこそ、一つの頼みにても候へ。跡なく思し召しならせ給ひなん後は、何の頼みか候ふべき。ただ愚老がともかくもならんやうを御覧じはてさせ給ふべうや候ふらん」と、あそばされたりければ、主上この御返事を竜顔に押し当てさせ給ひて、いとど御涙に沈ませおはします。
君は船、臣は水、水よく船を浮かべ、水また船を覆し、臣よく君を保ち、臣また君を覆す。保元平治の頃は、入道相国、君を保ち奉るといへども、安元、治承の今はまた、君をなみし奉る。史書の文に違はず。
大宮の大相国、三条の内大臣、葉室の大納言、中山の中納言も失せられぬ。今古き人とては、成頼、親範ばかりなり。
この人々も、「かからん世には、朝に仕へ身を立て、大中納言を経ても何にかはせん」とて、いまだ壮んなつし人々の、家を出で世を遁れ、民部卿入道親範は大原の霜に伴ひ、宰相入道成頼は、高野の霧に交はりて、一向後世菩提のほか他事なし。
昔も商山の雲に隠れ、頴川の月に心をすます人もありけんなれば、これ豈に博覧清潔にして、世を遁れたるにあらずや。
中にも高野におはしける宰相入道成親、かやうの事を伝へ聞き給ひて、「あはれ心とうも世をば遁れたるものかな。かくて聞くも同じ事なれども、まのあたり立ちまじはつて見ましかば、いかに心憂からん。保元平治の乱をこそあさましと思ひつるに、この後天下にいかばかりの事か出で来んずらん。雲分けても登り、山を隔てても入りなばや」とぞ宣ひける。げに心あらんほどの人の、跡を留むべき世とも見えざりけり。
同じき二十三日、天台座主覚快法親王、しきりに御辞退ありしかば、前座主明雲大僧正、還着し給ふ。入道相国はかく散々にし散らされたりしかども、御娘中宮にておはします、関白殿も婿なり、よろず心安うや思はれけん、「政務は一向主上の御ぱからひたるべし」とて、福原へこそ下られけれ。
前右大将宗盛卿、急ぎ参内して、この由奏聞せられたりければ、主上は、「法皇の譲りましましたる世ならばこそ。ただ執柄にいひ合はせて、宗盛ともかくもはからへ」とて、聞こし召しも入れざりけり。
さるほどに、法皇は城南の離宮にして、冬も半ば過ごさせ給へば、野山の嵐の声のみはげしくて、寒庭の月ぞさやけき。庭には雪降り積もれども、跡踏み付くる人もなく、池にはつらら閉ぢ重なつて、群れゐし鳥も見えざりけり。
大寺の鐘の声、遺愛寺の聞きを驚かし、西山の雪の色、香炉峯の望みを催す。夜の霜に寒けき砧の響き、かすかに御枕に伝ひ、暁氷をきしる車の跡、遥かに門前に横たはれり。巷を過ぐる行人、征馬の忙はしげなる気色、浮世を渡る有様も思し召し知られてあはれなり。
「宮門を守る蛮夷の、夜昼警衛をつとむるも、先の世のいかなる契りにて、今縁を結ぶらん」と、仰せなりけるぞかたじけなき。およそ物に触れ、事にしたがつて、御心をいためしめずといふ事なし。さるままには、かの折々の御遊覧、所々の御参詣、御賀のめでたかりし事ども、思し召し続けて、懐旧の御涙おさへがたし。
年去り年来たつて、治承も四年になりにけり。
→【概要:巻第四】
→【各章検討:還御】
治承四年正月一日、鳥羽殿には、相国もゆるさず、法皇も恐れさせましましければ、元日元三の間、参入する人もなし。されどもその中に故少納言入道信西の子息、桜町中納言成範卿、その弟左京大夫脩範ばかりぞ、許されては参られける。
同じき二十日、東宮御袴着、並びに御味魚始めとて、めでたき事どもありしかども、法皇は鳥羽殿にて、御耳の余所にぞ聞こし召す。
二月二十一日、主上ことなる御つつがも渡らせ給はぬを、押し下ろし奉て、東宮践祚あり。これも入道相国、よろづ思ふさまなるが致す所なり。「時よくなりぬ」とてひしめきあへり。内侍所、神璽、宝剣渡し奉る。
上達部陣に集まつて、古き事ども先例に任せて行ひしに、左大臣殿陣に出でて、御位譲りの事ども仰せしを聞いて、心ある人々涙を流し、心をいたましめずといふことなし。
我と御位をまうけの君に譲り奉り、藐姑射の山の中もしづかになど思し召す先々だにも、あはれは多き習ひぞかし。況んやこれは、御心ならず押し下ろされさせましましけん哀れさ、申すもなかなかおろかなり。伝はれる御宝物ども品々、司々請け取つて、新帝の皇居五条の内裏へ渡し奉る。閑院殿には、火の影かすかに、鶏人の声も留まり、滝口の問籍も絶えにしかば、古き人々、めでたき祝ひの中にも、今さら哀れにおぼえて、涙を流し袖を濡らさぬはなかりけり。
新帝今年三歳、「あはれいつしかなる譲位かな」と時の人々ささやきあはれけり。
平大納言時忠卿は、内の御乳母、帥典侍の夫たるによつて、「今度の譲位いつしかなりと、たれかかたぶけ申すべき。異国には、周の成王三歳、晋の穆帝二歳、我が朝には、近衛院三歳、六条院二歳、これ襁褓の中に包まれて、衣帯を正しうせざつしかども、或いは摂政負うて位に即き、或いは母后抱いて朝に臨むと見えたり。後漢の孝殤皇帝は、生まれて百日といふに践祚あり。天子位を踏む先蹤、和漢かくのごとし」と申されければ、
その時の有職の人々、「あな恐ろし、ものな申されそ。さればそれらはよき例どもかや」とぞ、つぶやき合はれける。
東宮位に即かせ給ひしかば、入道相国、夫婦ともに外祖父、外祖母とて、准三后の宣旨をかうぶり、年官年爵を給はつて、上日の者を召し使ふ。絵かき花つけたる侍ども出で入つて、ひとへに院宮のごとくにてぞありける。出家の後も栄耀はなほ尽きせずとぞ見えし。出家の人の准三后の宣旨をかうぶる事は、法興院の大入道殿兼家公の御例なり。
同じき三月上旬に、上皇、安芸の厳島へ御幸なるべしと聞こえけり。「帝王位をすべらせ給ひて、諸社の御幸の始めには、八幡、賀茂、春日なんどへこそならせ給ふに、はるばると安芸国までの御幸はいかに」と人不審をなす。
ある人の申しけるは、「白河院は熊野へ御幸、後白河は日吉の社へ御幸なる。すでに知んぬ、叡慮にありと申す事を。御心中に深き御立願あり。その上この厳島をば、平家なのめならずに崇め敬ひ給ふ間、上には平家に御同心、下には法皇のいつとなく鳥羽殿に押し籠められて渡らせ給へば、入道相国の心も和らぎ給ふかとの御祈念のため」とぞ聞こえし。
山門の大衆憤り蜂起して、「石清水、賀茂、春日へ御幸ならずは、我が山の山王へこそ御幸はなるべけれ。安芸国までの御幸はいつの習ひぞや。その儀ならば、神輿を振り下し奉て、御幸を留め奉れ」とぞ申しける。これによつてしばらく御延引ありけり。入道相国やうやうになだめ宣へば、山門の大衆静まりぬ。
同じき十七日、厳島御幸の御門出とて、入道相国の北の方、二位殿の宿所、八条大宮へ御幸なる。その日やがて厳島の御神事始めらる。その日の暮れ方に殿下より唐の御車、移しの馬なんど参らせらる。
あくる十八日、入道相国の亭へ入らせおはします。前右大将宗盛卿を召して、「明日厳島御幸の御ついでに、鳥羽殿へ参つて、法皇の御見参に入らばやと思し召すは、相国禅門に知らせずしては悪しかりなんや」と仰せければ、宗盛卿、涙をはらはらと流いて、「なんでふ事か候ふべき」と奏せられたりければ、「さらば宗盛今夜鳥羽殿へ参つて、その様を申せかし」と仰せければ、かしこまり承つて、いそぎ鳥羽殿へ参つて、この由奏聞せられければ、法皇あまりに思し召す御事にて、「こは夢やらん」とぞ仰せける。
同じき十九日、大宮大納言隆季卿、いまだ夜深う参つて、御幸催されけり。この日ごろ聞こえさせ給ひつる厳島御幸をば、西八条の亭よりすでに遂げさせおはします。弥生も半ば過ぎぬれど、霞に曇る有明の月はなほ朧なり。越路をさして帰る雁の、雲居におとづれゆくも、折節あはれに聞こし召す。いまだ夜のうちに鳥羽殿へ御幸なる。
門前にて御車より降りさせおはしまし、門の内へさし入らせ給ふに、人まれにして木ぐらく、ものさびしげなる御住まひ、まづあはれにぞ思し召す。春すでに暮れなんとす。夏木立にもなりにけり。梢の花色おとろへて、宮の鶯声老いたり。
去年の正月六日、朝覲のために法住寺殿へ行幸ありしには、楽屋に乱声を奏し、諸卿列に立つて、諸衛陣を引き、院司の公卿参り向かつて、幔門を開き、掃部寮莚道をしき、正しかりし儀式、一事もなし。
今日はただ夢とのみぞ思し召す。成範中納言、御気色申されたりければ、法皇寝殿の階隠の間へ御幸なつて、待ち参らさせ給ひけり。
上皇は今年二十、明け方の月の光にはえさせ給ひて、玉体もいとど美うぞ見えさせましましける。御母儀故建春門院に、いたく似参らさせ給ひたりしかば、法皇はまづ故女院の御事思し召し出でて、御涙せきあへさせ給はず。両院の御座、近くしつらはれたり。御問答は人承るに及ばず。御前には尼ぜばかりぞ候はれける。
やや久しく御物語りせさせ給ひ、はるかに日たけて後、御暇申させ給ひて、鳥羽の草津より御船に召されけり。上皇は法皇の離宮の故亭、幽閑寂寞の御住まひ、御心苦しう御覧じおかせ給へば、法皇はまた上皇の旅泊行宮の波の上、船の中の御有様、おぼつかなくぞ思し召されける。まことに宗廟、八幡、賀茂などをさしおかせ給ひて、はるばると安芸国までの御幸をば、神明もなどか御納受なかるべき。御願成就疑ひなしとぞ見えたりける。
→【各章検討:還御】
同じき二十六日、厳島へ御参着、入道相国の最愛の内侍が宿所、御所になる。中二日御逗留あつて、経会、舞楽行はる。結願の導師には、公顕僧正とぞ聞こえし。
高座に登り鐘打ち鳴らし、表白の詞にいはく、「九重の都を出でさせ給ひ、八重の汐路を分きもつて、はるばるとこれまで参らせ給ひたる御事のかたじけなさよ」と高らかに申されたりければ、君も臣もみな感涙をぞ催されける。大宮、客人をはじめ参らせて、社々、所々へ御幸なる。大宮より五町ばかり、山をまはつて、滝の宮へ参らせ給ふ。公顕僧正の歌を詠うで、拝殿の柱に書き付けられけるとかや。
♪20
雲居より 落ちくる滝の 白糸に
契りを結ぶ 事ぞうれしき
神主佐伯景広、加階上の五位、国司藤原有綱、品上げられて、加階従下四品、院の殿上許さる。座主尊水、法眼になさる。神慮も動き、入道相国の心も和らぎ給ひぬらんとぞ見えし。
同じき二十九日、上皇御船飾つて還御なる。折節波風烈しかりければ、御船漕ぎ戻させ、その日は厳島のうち、ありの浦といふ所に留まらせ給ふ。上皇、「大明神の御名残惜しみに、歌つかまつれ人々」と仰せければ、隆房の少将、
♪21
立ち帰る 名残もありの 浦なれば
神も恵を かくるしら波
その夜の夜半ばかりに風もをさまり、波も穏しかりければ、御舟ども漕ぎ出ださせ、その日は備後国敷名の泊に着かせ給ふ。この所は去んぬる応保の頃ほひ、一院御幸の時、国司藤原為成が作つたりける御所のありけるを、入道相国、御設けにしつらはれたりしかども、上皇それへは御幸もならず。
「今日は卯月一日、衣更へといふ事のあるぞかし」とて、おのおの都の事を宣ひ出だし、ながめやり給ふほどに、岸に色深き藤の、松の枝に咲きかかりけるを、上皇叡覧あつて、「あの花折りにつかはせ」と仰せければ、大宮大納言隆季卿承つて、左史生中原康定がはしぶねに乗つて、折節御前を漕ぎ通りけるを召して、折りにつかはす。藤の花を松の枝に付けながら、折つて参りたり。
「心ばせあり」など仰せられて、御感ありけり。
「この花にて歌つかまつれ。おのおの」と仰せければ、隆季の大納言、
♪22
千年へむ 君が齢に 藤波の
松の枝にも かかりぬるかな
それより備前国児島の泊に着かせ給ふ。
五日天晴れて、海上ものどけかりければ、御所の御船を始め参らせて、人々の船どもみな漕ぎ出だす。雲の波、煙の波を分けしのがせ給ひて、その日は播磨国山田の浦に着かせ給ふ。それより御輿に召して福原へ入らせおはします。供奉の人々、今一日もさきに都へとくと急がれけれども、六日、一日御逗留あつて、福原の所々みな歴覧ありけり。池中納言頼盛卿の山庄、あら田まで御覧ぜらる。
七日、福原を立たせ給ふとて、入道相国の家の賞行はる。入道相国の養子、丹波守清邦、正下の五位、同じき入道の孫、越前少将は四位の従上とぞ聞こえし。その日寺井に着かせ給ふ。
八日都へ入らせ給ふに、御迎ひの公卿殿上人、鳥羽の草津まで御迎ひに参られけり。還御の時は鳥羽殿へは御幸もならず、すぐに入道相国の西八条の亭へぞ入らせおはします。
同じき四月二十二日、新帝の御即位あり。大極殿にて行はるべかりしかども、一年炎上の後はいまだ作りも出だされず。
「大極殿なからん上は、太政官の庁にて行はるべきものを」と公卿詮議ありしかども、その時の九条殿申させ給ひけるは、「太政官の庁は、凡人の家にとらば、公文所体の所なり。大極殿なからん上は、紫宸殿にてこそ御即位はあるべけれ」と申させ給へば、紫宸殿にてぞありける。
「去んじ康保四年十一月十一日、冷泉院の御即位、紫宸殿にてありしは、主上御邪気によつて大極殿への行幸かなはざりし故なり。その例いかがあるべからむ。ただ後三条院の延久の佳例に任せて、太政官の庁にて行はるべきものを」と人々申し合はれけれども、その時の九条殿の御計らひの上は、左右に及ばず。
東宮践祚ありしかば、中宮は弘徽殿より仁寿殿へ遷つて、やがて高御座へ参らせ給ふ。平家の人々みな出仕せられける中に、小松殿の公達は、去年大臣薨ぜられにしかば、色にて籠居せられけり。
→【各章検討:源氏揃】
蔵人権佐定長、今度の御即位に違乱なく、めでたきやうを、厚紙十枚ばかりに記いて、入道相国の北の方、八条の二位殿へ参らせたりければ、笑みを含みてぞ喜ばれける。かやうにはなやかに、めでたき事どもありしかども、世間はなほ苦々しうぞ見えし。
その頃一院第二の皇子以仁王と申ししは、御母はは加賀大納言季成卿の御娘なり。三条高倉にましましければ、高倉宮とぞ申しける。去んじ永万元年十二月十五日、御年十五にて、忍びつつ、近衛河原の大宮の御所にて、ひそかに御元服ありけり。
御手跡厳しうあそばし、御才覚勝れてましましければ、太子にもたち、位にもつかせ給ふべきに、故建春門院の御そねみによつて、押し籠められさせ給ひけり。花の下の春の遊びには、紫毫を揮つて手づから御作を書き、月の前の秋の宴には、玉笛を吹いてみづから雅音を操り給ふ。
かくして明かし暮らさせ給ふほどに、治承四年には、御歳三十にぞならせましましける。
その頃近衛河原に候ひける源三位入道頼政、ある夜密かにこの宮の御所に参つて、申しけることこそ恐ろしけれ。「そもそも君は天照大神四十八世の御末、神武天皇よりこのかた人皇七十八代に当たらせ給ふ。しかれば太子にも立ち、位にもつかせ給ふべきに、宮にて渡らせ給ふ御事をば、心うしとは思し召され候はずや。つらつら当世の体を見候ふに、上はしたがうたる様に候へども、内々平家をそねまぬ者や候。御謀叛起こさせ給ひて、平家を滅ぼし、法皇のいつとなく、鳥羽殿に押し籠められて渡らせ給ふ御心をも休め参らせ、君も位につかせ給ふべし。
これひとへに御孝行の御至りにてこそ候はんずれ。もし思し召し立たせ給ひて、令旨を下ださせ給ふものならば、喜びをなして馳せ参らんずる源氏どもこそ、国々に多う候へ」とて申し続く。
「まづ京都には、出羽前司光信が子供、伊賀守光基、出羽判官光長、出羽蔵人光重、出羽冠者光能。熊野には、故六条判官為義が末子十郎義盛とて隠れて候ふ。摂津国には多田蔵人行綱こそ候へども、新大納言成親卿の謀叛の時、同心しながら返り忠したる不当人にて候へば、申すに及ばず。
さりながらその弟多田次郎朝実、手嶋冠者高頼、太田太郎頼基。
河内国には、武蔵権守入道義基、子息石川判官代義兼。
和国には、宇野七郎親治が子供、太郎有治、次郎清治、三郎成治、四郎義治。
近江国には、山本、柏木、錦古里。
美濃、尾張には、山田次郎重広、川辺太郎重直、泉太郎重光、浦野四郎重遠、安食次郎重頼、その子の太郎重資、木田三郎重長、開田判官代重国、矢島先生重高、その子の太郎重行。
甲斐国には、逸見冠者義清、その子の太郎清光、武田太郎信義、加賀美次郎遠光、同じき小次郎長清、一条次郎忠頼、板垣三郎兼信、逸見兵衛有義、武田五郎信光、安田三郎義定。
信濃国には、大内太郎維義、岡田冠者親義、平賀冠者盛義、その子の四郎義信、故帯刀先生義賢が次男、木曾冠者義仲。
伊豆国には流人前右兵衛佐頼朝。
常陸国には、信太三郎先生義教、佐竹冠者正義、その子の太郎忠義、同じく三郎義宗、四郎高義、五郎義季、陸奥国には故左馬頭義朝が末子九郎冠者義経、これみな六孫王の御苗裔、多田新発意満仲が後胤なり。
朝敵を平らげ、宿望みをとぐる事は、源平いづれ勝劣なかりしかども、保元、平治よりこの方、雲泥交はりを隔て、主従の礼にもなほ劣れり。国は国司に従ひ、庄は預所に使はれ、公事雑事に駆り立てられて、安い心も候はず。君もし思し召したたせ給ひて、令旨賜うづるほどならば、国々の源氏ども、夜を日についで馳せ上り、平家を滅ぼさん事、時日をめぐらすべからず。入道も年こそよつて候へども、子どもあまた候へば、引き具して参り候ふべし」とぞ申したる。
宮はこの事いかがせんと思し召しわづらはせ給ひて、しばしは御承引もなかりけるが、阿古丸大納言宗通卿の孫、備後前司季通が子、少納言維長と申ししは、勝れたる相人なりければ、時の人、相少納言とぞ申しける。
その人この宮を見参らせて、「位につかせ給ふべき相まします。天下之事思し召し放たせ給ふべからず」と申しける上、今三位入道も、かやうに勧め申されければ、「さてはしかるべき天照大神の御告げやらん」とて、ひしひしと思し召し立たせ給ひけり。
まづ熊野に候ふ十郎義盛を召して、蔵人になさる。行家と改名して、令旨の御使ひに東国へこそ下されけれ。
同じき四月二十八日に都をたつて、近江国よりはじめて、美濃、尾張の源氏どもに触れ催し次第に触れて行くほどに、五月十日、伊豆の北条に下りつき、流人前兵衛佐殿に令旨奉り、信太三郎先生義教は、兄なればとらせんとて、常陸国信太の浮島へ下る。
木曽の冠者義仲は、甥なれば賜ばむとて、山道へぞ赴きける。
その頃の熊野の別当湛増は、平家に重恩の身なりしが、何としてか洩れ聞いたりけん、「新宮十郎義盛こそ高倉宮の令旨賜はつて、すでに謀叛を起こすなれ。那智新宮の者どもは、定めて源氏の方人をぞせんずらん。湛増は平家の御恩を天山にかうぶりたれば、いかでか背き奉るべき。那智新宮の者どもに矢一つ射掛けて、その後都へ仔細を申さん」とて、混甲一千余人、新宮の港へ発向す。
新宮には鳥井の法眼、高坊の法眼、侍には宇為、鈴木、水屋、亀甲、那智には執行法眼以下、都合その勢二千余人、鬨作り、矢合はせして、「源氏の方にはとこそ射れ」「平家の方にはかうこそ射れ」と、矢叫びの声の退転もなく、鏑の鳴りやむ隙もなく、三日がほどこそ戦うたれ。されどもおぼえの法眼湛増は家の子郎等多く討たせ、我が身手負ひ、からき命を生きつつ、本宮へこそ逃げ上りけれ。
→【各章検討:鼬之沙汰】
さるほどに法皇は、「成親、俊寛がやうに、遠き国遥かの島へも遷されんずるや」と仰せけれども、城南の離宮にして、今年は二年にならせ給ふ。
同じき五月十二日の午の刻ばかりに、鳥羽殿には鼬おびたたしう走り騒ぐ。法皇大きに驚かせ給ひて、御占形を遊ばいて、近江守仲兼が、その頃はいまだ鶴蔵人と召されけるを召して、「これもつて陰陽頭安倍泰親がもとへ行き、きつと勘へさせて、勘状を取つて参れ」とぞ仰せける。仲兼これを給はつて、陰陽頭安倍泰親がもとへ行く。
折節宿所にはなかりけり。白河なる所へといひければ、それへ尋ね行いて、勅定の趣仰すれば、きつと勘へて、やがて勘状を参らせけり。
仲兼これを取つて鳥羽殿に参り、門より参らうどすれば、守護の武士ども許さず。案内は知つたり、築地を越え、大床の下を這うて、切り板より、泰親が勘状をこそ参らせけれ。法皇これを開いて叡覧あれば、「いま三日が仲の御喜び、並びに御歎き」とぞ申したる。法皇、「これほどの御身になつても、御喜びはしかるべし。またいかなる御目に合はせ給ふべきやらん」とぞ仰せける。
同じき十三日前右大将宗盛卿、法皇の御事をたりふし申されければ、入道相国やうやうに思ひ直つて、法皇をば鳥羽殿を出だし奉り、都へ御幸なし奉り、八条烏丸の美福門院の御所へ入れ奉る。いま三日が中の御喜びとは、泰親これをぞ申しける。
かかりける所に、熊野の別当湛増、飛脚をもつて、高倉宮の御謀叛の由都へ申したりければ、前右大将宗盛卿大きに騒いで、入道相国、折節福原におはしけるに、この由申されたりければ、聞きもあへず、やがて都に馳せ上り、是非に及ぶべからず。高倉宮からめ取つて、土佐の畑へ流せ」とこそ宣ひけれ。
上卿は三条大納言実房、職事には頭弁光雅とぞ聞こえし。ぶしには源大夫判官兼綱、出羽判官光長承つて、都合その勢三百余騎、宮の御所へぞ向かひける。
この源大夫判官と申すは、三位入道の次男なり。しかるをこの人数に入れられけるは、高倉宮の御謀叛を三位入道勧め申したりしとは、平家いまだ知らざりけるによつてなり。
→【各章検討:信連】
宮は五月十五夜の雲間の月をながめさせ給ひ、何の行方も思し召し寄らざりけるに、三位入道の使者とて、文持つて忙はしげに出で来たつたり。
宮の御乳母子、六条佐大夫宗信これを取つて御前へ参り、開いて見るに、「君の御謀叛すでに顕はれさせ給ひて、土佐の畑へ遷し参らすべしとて、官人どもが別当宣を承つて、御迎ひに参り候ふ。急ぎ御所を出でさせ給ひて、三井寺へ入らせおはしませ。入道もやがて参り候はん」とぞ書いたりける。
宮はこの事いかがせんと思し召しわづらはせ給ふ所に、宮の侍に長兵衛尉信連といふ者あり。
「ただ別のやう候ふまじ。女房装束に出でさせ給へ」と申しければ、「この儀もつともしかるべし」とて、重ねたる御衣に、御髪を乱り、市女笠をぞ召されける。六条助大夫宗信、傘持つて御供つかまつる。鶴丸といふ童、袋に物入れていただいたり。青侍が女を迎へて行くやうに出で立たせ給ひて、高倉を北へ落ちさせ給ふに、大きなる溝のありけるを、物軽う越えさせ給へば、道行き人が見参らせて、「はしたなの女房の溝の越えやうや」とて、あやしげに見参らせければ、いとど足早にぞ過ぎさせおはします。
長兵衛尉信連をば御所の留守にぞ置かれける。女房たちの少々おはしけるをば、かしこここへ立ち忍ばせて、見苦しき物あらば、取りしたためんとて見るほどに、宮のさしも御秘蔵ありける小枝と聞こえし御笛を、ただ今しも常の御枕に取り忘れさせ給ひたるをぞ、たちかへつても取らまほしうは思し召す、信連これを見つけ、「あなあさまし。君のさしも御秘蔵ある恩笛を」と申して、五町が内に追つて着いて参らせたり。
宮、なのめならず御感あつて、「我死なば、この笛をば御棺に入れよ」とぞ仰せける。「やがて御供に候へ」と仰せければ、
信連申しけるは、「ただ今あの御所へ、官人どもが御迎ひに参り候ふなるに、御前に一人も候はざらんは、無下にうたてしうおぼえ候ふ。信連があの御所に候ふとは、上下みな知られたる事にて候ふに、今夜候はざらんは、『それもその夜逃げたりけり』などいはれん事、弓矢取る身には、仮にも名こそ惜しう候へ。官人どもにしばらくあひしらひ候ひて、一方打ち破つて、やがて参り候はん」とて、走り帰る。
長兵衛尉がその夜の装束には、薄青の狩衣の下に、萌黄縅の腹巻を着て、衛府の太刀をはいたりける。
参上面の総門をも、片倉面の小門をも、ともに開いて待ちかけたり。
案のごとく、源大夫判官兼綱、出羽判官光長、都合その勢三百余騎、十五日の夜の子の刻に、宮の御所へぞ押し寄せたる。源大夫の判官は、存ずる旨ありとおぼえて、遥かの門前に控へたり。
出羽判官光長は、乗りながら門の内に討ち入り、庭に控へ、大音声を揚げて、「そもそも君の御謀叛すでに露はれさせ給ひ、土佐の畑へ遷し参らせんとて、官人どもが別当宣を承り、御迎ひに参つて候ふ。とうとう御出で候へ」と申しければ、
信連大床に立つて、「これは当時は御所でも候はず、御物詣でに候ふぞ。何事ぞ、事の仔細を申されよ」といひければ、出羽判官、「なんでふこの御所ならでは、いづくへか渡らせ給ふべかんなるぞ。その儀ならば、下部ども参つて捜し奉れ」とぞ申しける。
長兵衛尉重ねて、「物もおぼえぬ官人どもが申しやうかな。馬に乗りながら、門の内へ参るだにも奇怪なるに、あまつさへ『下部ども参つて捜し奉れよ』とは、いかに申すぞ。左兵衛尉長谷部信連が候ふぞ。近う寄つて過ちすな」とぞ申したる。
庁の下部の中に、金武といふ大力の剛の者、長兵衛に目をかけて、大床の上へ飛び上る。これを見て同隷十四五人ぞ続いたる。信連これを見て、狩衣の帯紐引つ切つて捨つるままに、衛府の太刀なれど、身をば心得て作らせたるを抜き合はせて、散々にこそ振舞うたれ。敵はは大太刀、大長刀で振舞へども、信連が衛府の太刀に切りたてられて、嵐に木の葉の散るやうに、庭へざつとぞ下りたりける。
五月十五夜の雲間の月の、顕はれ出でて明かかりけるに、敵は無案内なり、信連は案内者なり、あそこの面道に追つかけてははたと切り、ここの詰まりに追つ詰めてはちやうど切る。
「いかに宣旨の御使ひをばかうはするぞ」と言ひければ、「宣旨とは何ぞ」とて、太刀ゆがめば躍りのき、推し直し踏み直し、たちどころによき者ども十四五人ぞ切り伏せたる。
その後太刀の先三寸ばかりうち折れて、腹を切らんと腰を探れども、鞘巻落ちてなかりければ、力及ばず。大手を広げて、高倉面の小門より走り出でんとする所に、大長刀持つたる男一人寄り合うたり。
信連長刀にのらんと飛んでかかりけるが、乗り損じて、股を縫ひ様に貫かれ、心はたけく思へども、大勢の中に取り籠められて、生け捕りにこそせられけれ。
その後御所を捜せども、宮は渡らせ給はず。信連ばかりからめて、六波羅へ生け捕つて率て参る。
入道相国簾中にゐ給へり。前右大将宗盛卿大床に立つて、信連を大庭にひつ据ゑさせ、「まことにわ男は『宣旨の御使』と名乗れば、『宣旨とは何ぞ』とて切つたるなるか。庁の下部ども多く刃傷殺害したんなり。よくよく糾問して、事の仔細を尋ね問へ。その後河原に引き出だいて首を刎ね候へ」とぞ宣ひける。
信連少しも騒がず、あざ笑つて申しけるは、「このほど夜な夜なあの御所を、物が窺ふと承つて候へども、なんでふ事のあるべきと思ひあなづつて、用心もつかまつらぬ所に、夜陰に鎧うたる者どもが、二三百騎うち入つて候ふを、『何者ぞ』と問ひ候へば、『宣旨の御使』と申す。窃盗、強盗、山賊、海賊など申す奴ばらは、或いは『公達の入らせ給ひたるぞ』、或いは『宣旨の御使ぞ』など、名乗り申すとかねがね承り候ふ間、『宣旨とは何ぞ』とて切つたる候ふ。およそは信連、物の具をも思ふ様につかまつり、鉄よき太刀を持つて候はんには、官人どもをばよも一人も安穏では帰し候はじ。その上、宮の御在所は知り参らせ候ふ。たとひ知り参らせ候ふとも、侍ほんの者の申さじと思ひ切つてん事を糾問に及んで申すべしやは」とて、その後はものも申さず。
いくらも並みゐたりける平家の侍ども、「あつぱれ剛の者かな。これをこそ一人当千の兵ともいふべけれ」と申しければ、その中にある人の申しけるは、「あれが高名は今に始めぬ事ぞかし。千年所にありし時、大番衆の者どもの留めかねたりし強盗六人に、ただ一人追つかかり、二条堀河の辺にて、四人切り伏せ、二人生け捕つて、その時なされたりし左兵衛尉ぞかし。あたら男の斬られんずることの無慚さよ」と惜しみ合へりければ、入道相国いかが思はれけん、「さらば、な斬つそ」とて、伯耆の日野へぞ流されける。
平家滅び源氏の世になつて、東国へ下り、梶原平三景時について、事の根元一々に申したりければ、鎌倉殿、「神妙なり」と感じ思し召して、能登国に御恩かうぶりけるとぞ聞こえし。
→【各章検討:競】
さるほどに、宮は高倉を北へ、近衛を東へ、賀茂川を渡らせ給ひて、如意山へ入らせおはします。
昔、浄御原の天皇の今だ東宮の御時、賊徒に襲はれさせ給ひて、吉野山へ入らせ給ひけるにこそ、乙女の姿をば仮らせ給ひけるなれ。今この宮の御有様も、それには少しも違はせ給ふべからず。知らぬ山路を、夜もすがら分け入らせ給ふに、いつ習はしの御事なれば、御脚より出づる血は、砂ごを染めて紅のごとし。夏草の茂みが中の露けさも、さこそは所せう思し召されけめ。
かくして暁方に三井寺へ入らせおはします。
「かひなき命の惜しさに、衆徒を頼んで入御あり」と仰せければ、大衆大きに畏まり喜んで、法輪院に御所をしつらひ、それへ入れ奉て、形のごとくの供御したてて参らせけり。
明くれば十六日、高倉宮の御謀叛起こさせ給ひて失せさせ給ひぬと申すほどこそありけれ、京中の騒動なのめならず。法皇これを聞こし召して、「鳥羽殿を御出であるは御喜びなり。並びに御歎きと泰親が勘状を参らせたるは、これを申しける」とぞ仰せける。
(今三日か内の御喜びとは法皇の鳥羽殿を出ださせ給ふ御事並びに御歎きとは泰親これを考へ申すなりける。さるほどに高倉の宮こそ御謀叛起こさせ給ひて、三井寺へ落とさせましますぞやとて京中六波羅ひしめけり。)
そもそも源三位入道頼政、年ごろ日ごろもあればこそありけめ、今年いかなる心にて謀叛をば起こされけるぞといふに、平家の次男宗盛卿、不思議の事をのみし給へり。されば人の世にあればとて、すずろにいふまじき事を言ひ、すまじき事をもするは、よくよく思慮あるべき事なり。
たとへば、三位入道の嫡子伊豆守仲綱のもとに、九重に聞こえたる名馬あり。鹿毛なる馬の、乗り、走り、心むき、またあるべしともおぼえず、並びなき逸物、名をば木の下とぞ言はれける。
宗盛卿使者を立てて、「聞こえ候ふ名馬を賜はつて、見候はばや」と宣ひつかはされたりければ、伊豆守の返事には、「さる馬は持つて候ひつれども、このほどあまりに乗り疲らかして候ひつる間、しばらく労らせんがために、田舎へ遣はして候ふ」と申されければ、「さらんには力及ばず」とて、その後は沙汰もなかりしを、多く並みゐたりける平家の侍ども、「あはれその馬は一昨日までは候ひし」「昨日も候ひつる」「今朝も庭乗りし候ひつるものを」と申しければ、
「さては惜しむごさんなれ。憎し。乞へ」とて、侍して乞はさせ、文などして遣はし、一日が内に五六度七八度など乞はれければ、三位入道これを聞き、伊豆守に向かつて宣ひけるは、「たとひ金をまろめたる馬なりとも、それほど人の乞はうずるに惜しむべきやうやある。すみやかにその馬六波羅へ遣はせ」とこそ宣ひけれ。
伊豆守力及ばで、一首の歌を書き添へて、六波羅へ遣はす。
♪23
恋しくば 来ても見よかし 身にそふる
かげをばいかが はなちやるべき
宗盛卿、まづ歌の返事をばし給はで、「あはれ馬や。馬はまことによい馬でありけり。されども余りに主が惜しみつるが憎きに、やがて主が名乗りを金焼にせよ」とて、仲綱といふ金焼をして、厩に立てられけり。
客人来たつて、「聞こえ候ふ名馬を見候はばや」と申しければ、「その仲綱めに鞍置いて引き出せ」「仲綱め打て」「乗れ」なんどぞ宣ひければ、
伊豆守この由を伝へ聞き給ひて、「身にかへて思ふ馬なれども、権威について取らるるだにあるに、あまつさへ仲綱が馬ゆゑ天下の笑はれぐさとならんずる事こそ安からね」と大きに憤られければ、
三位入道これを聞いて伊豆守に向かつて、「なんでふ事のあるべきと思ひあなづつて、平家の人どもが、かやうの痴れ事をするにこそあんなれ。その儀ならば、命生きても何にかはせん。便宜を窺ふでこそあらめ」とて、私には思ひも立たず、高倉宮を勧め申したりけるとぞ、後には聞こえし。
これにつけても、天下の人、小松の大臣の御事をぞ偲び申しける。
ある時、小松殿参内のついでに、中宮の御方へ参らせ給ひたりけるに、八尺ばかりありける蛇の、大臣の指貫の左の輪を這ひ回りけるを、重盛騒がば、女房達も騒ぎ、中宮も驚かせ給ひなんずと思し召し、左の手に蛇の尾を押さへ、右の手で頭を取り、直衣の袖の中へ引き入れ、ちつとも騒がず、つい立つて、「六位や候ふ、六位や候ふ」と召されければ、伊豆守、その頃は今だ衛府の蔵人でおはしけるが、「仲綱」と名のつて参られたるに、この蛇を賜ぶ。
給はつて弓場殿を経て、殿上の小庭に出でつつ、御倉の小舎人を招いて、「これ給はれ」と言はれければ、大きに頭をふつて逃げ去りぬ。力及ばで、我が郎等競の滝口を召してこれを賜ぶ。賜はつて捨ててんげり。
その朝、小松殿よりよい馬に鞍置いて、伊豆守のもとへ遣はすとて、「さても昨日の振舞ひこそ、優に候ひしか。これは乗一の馬で候ふ。夜陰に及んで、陣外より傾城のもとへ通はれん時、用ひらるべし」とて遣はさる。
伊豆守、大臣の御返事なれば、「御馬畏まつて給はり候ひぬ。昨日の御振舞ひは、還城楽にこそ似て候ひしか」とぞ申されける。
いかなれば、小松殿は、かやうに優なるためしもおはせしぞかし、この宗盛卿は、さこそなからめ、あまつさへ惜しむ馬乞ひ取つて、天下の大事に及びぬるこそうたてけれ。
さるほどに、同じき十六日の夜に入つて、源三位入道頼政、嫡子伊豆守仲綱、次男源大夫判官兼綱、六条蔵人仲家、その子蔵人太郎仲光以下、都合その勢三百余騎、館に火かけ焼き上げて、三井寺へこそ参られけれ。
ここに三位入道の年ごろの侍に、渡辺源三滝口競といふ者あり。
馳せ後れて留まりたりけるを、前右大将宗盛卿、競を召して、「など汝は、相伝の主、三位入道が供をばせで留まつたるぞ」と宣へば、競かしこまつて申しけるは、「自然の事候はば、真つ先かけて命を奉らんと日ごろは存じて候ひつれども、何と思はれ候ひけるやらん、今度はかうとも仰せられ候はず候。」
「そもそも朝敵頼政法師に同心せんとや思ふ。またこれにも兼参の者ぞかし。先途後栄を存じて、当家に奉公致さうとや思ふ。ありのままに申せ」とこそ宣ひけれ。
競涙をはらはらと流いて、「たとひ相伝の好しみ候ふとも、いかんが朝敵となれる人に同心ををばつかまつり候ふべき。殿中に奉公致さうずる候ふ」と申しければ、「さらば奉公せよ。頼政法師がしけん恩には、ちとも劣るまじきぞ」とて入り給ひぬ。
朝より夕べに及ぶまで、「競はあるか」「候ふ」「あるか」「候ふ」とて伺候す。
日もやうやう暮れければ、大将出でられたり。畏まつて申しけるは、「三位入道殿は、三井寺にと聞こえ候ふ。定めて討手向けられ候はんずらん。心憎うも候はず。三井寺法師、さては渡辺の親しい奴ばらこそ候ふらめ、まかり向かつてえり討ちなどもつかまつるべきにて候ふが、乗つて事にあふべき馬を持つて候ひつるを、親しい奴めに盗まれて候ふ。御馬一匹下し預かるべうや候ふらん」と申しければ、大将、「もつともさるべし」とて、白葦毛なる馬の、煖廷とて秘蔵せられたりけるに、よい鞍置いて競に賜ぶ。
競屋形に帰つて、「はや日の暮れよかし、煖廷にうち乗つて三井寺へ馳せ参り、入道殿の真つ先かけて討ち死にせん」とぞ申しける。
日もやうやう暮れければ、妻子どもをばかしこここに立ち忍ばせて、三井寺へと出で立ちける心の中こそ無慚なれ。狂紋の狩衣の菊綴ぢ大ほきらかにしたるに、重代の着背長、緋縅の鎧に星白の甲の緒をしめ、いか物作りの太刀をはき、二十四さいたる大中黒の矢負ひ、滝口の骨法忘れじとや、鷹の羽で作いだりける的矢一手ぞさし添へたる。滋籐の弓もつて、煖廷にうち乗り、乗りかへ一騎うち具し、舎人男に持楯脇挟ませ、屋形に火かけ焼き上げて、三井寺へこそ馳せたりけれ。
六波羅には、競が屋形より火出で来たりとてひしめきけり。
宗盛卿急ぎ出でて、「競はあるか」と尋ねらるれば、「候はず」と申す。
「すは奴めを手延べにして、たばかられぬるは。あれ追つかけて討て、者ども」と宣へども、競は勝れたる強弓精兵、矢継ぎ早の手だれなり。「二十四さいたる矢では、まづ二十四人は射殺されなんず。音なせそ」とて、続く者こそなかりけれ。
ただ今しも三井寺には競が沙汰ありけり。
渡辺党、「競を召し具すべう候ひつるものを。六波羅に残り留まつて、いかなるうき目にかあひ候ふらん」と申しければ、三位入道、を知つて、「よもその者無台に囚へからめられはせじ。入道に心ざし深き者なり。見よ、ただ今参らうずるぞ」と宣ひも果てねば、競つつと参りたり。「さればこそ」とぞ宣ひける。
競かしこまつて申しけるは、「伊豆守殿の木の下が代はりに、六波羅の煖廷をこそ取つて参つて候へ。参らせ候はん」とて奉る。
伊豆守なのめならず喜び給ひて、やがて尾髪を切り、金焼きをして、その夜六波羅へ遣はし、夜半ばかり門の内へぞ追ひ入れたり。厩にいつて、馬どもと噛ひ合ひければ、その時舎人驚き合ひ、「煖廷が参つて候ふ」と申す。宗盛卿急ぎ出でて見給へば、「昔は煖廷、今は平宗盛入道」といふ金焼をこそしたりけれ。
大将、「安からぬ競めを斬つて捨つべかりけるものを、手延べにしてたばかられぬる事こそやすからね。今度三井寺へ寄せたらんずる人々は、いかにもして競めを生け捕りにせよ。鋸で首を切らんずるに」とて躍り上がり躍り上がり怒られけれども、煖廷が尾髪も生ひず、金焼もまた失せざりけり。
→【各章検討:山門牒状】
さるほどに、三井寺には貝、鐘鳴らいて、大衆詮議す。
「そもそも近日世上の体を案あんずるに、仏法の衰微、王法の牢籠、まさにこの時に当たれり。今度清盛入道が暴悪を戒めずは、いづれの日をか期すべき。宮ここに入御の御事、正八幡宮の衛護、新羅大明神の冥助にあらずや。天衆地類も影向を垂れ、仏力神力も降伏を加へまします事などなどかなかるべき。そもそも北嶺は円宗一味の学地、南都は夏﨟得度の戒場なり。牒奏の所語らはんに、などか与せざるべき」と、一味同心に詮議して、山へも奈良へも牒状をこそつかはしけれ。
まづ山門への状にいはく、
園城寺牒す、延暦寺の衙
殊に合力を致して当寺の破滅を助けられんと思ふ状
右入道浄海、恣に仏法を滅し、王法を乱らんと欲す。愁嘆極まりなき処に、去んぬる十五日の夜、一院第二の王子、窃かに入寺せしめ給ふ。ここに院宣と号して、出だし奉るべき由、責めありと雖も、出だし奉こと能はず。仍つて官軍を放ち遣はすべき旨その聞こえあり。当時の破滅、正にこの時に当たれり。諸衆何ぞ愁嘆せざらんや。就中延暦、園城両寺は、門跡二つに相分かると雖も、学する所は、これ円頓一味の教門に同じ。譬へば鳥の左右の翼のごとく、また車の二つの輪に似たり。一方闕けんに於いては、いかでかその嘆きなからんや。てへれば殊に合力を致して、当寺の破滅を助けられば、はやく年来の遺恨を忘れ、住山の昔に復せん。衆徒の詮議かくのごとし。仍つて牒送件のごとし。
治承四年五月十八日 大衆等
と書いたりける。
→【各章検討:南都牒状】
山門の大衆この状を披見して、「こはいかに、当山末寺でありながら、『鳥の左右の翼のごとし、また車の二つの輪に似たり』と、抑へて書く条奇怪なり」とて、返牒も送らず。その上入道相国、天台座主明雲大僧正に、衆徒を静めらるべき由宣ひければ、座主急ぎ登山して、大衆を静め給ふ。かかりし間に、宮の御方へは不定の由をぞ申しける。
また入道相国、近江米二万石、北国の織延絹三千疋、山門へ往来のために寄せらる。これを谷々峰々に引かれけるに、にはかの事ではあり、一人してあまた取る大衆もあり、また手を空しうして、一つも取らぬ衆徒もあり。何者のしわざにやありけん、落書をぞしたりける。
♪24
山法師 おりのべ衣 うすくして
恥をばえこそ かくさざりけれ
また絹にもあたらぬ大衆のよみたりけるやらん、
♪25
おりのべを 一きれも得ぬ 我らさへ
うす恥をかく 数に入るかな
また南都への状にいはく、
園城寺牒す、興福寺の衙
殊に合力を致し当寺の破滅を助けられんと乞ふ状
右仏法の殊勝なる事は、王法を守らんがため、王法また長久なる事は、即ち仏法に依る。爰に入道前太政大臣平朝臣清盛公、法名浄海、恣に国威を窃かにし、朝政を乱り、内に就け外に就け、恨みをなし、歎きをなす間、今月十五日の夜、一院第二の王子、不慮の難を遁れんがために、俄かに入寺せしめ給ふ。爰に院宣と号して出だし奉るべき旨、責めありと雖も、衆徒一向之を惜しみ奉る。仍つてかの禅門武士を当寺に入れんと欲す。仏法と云ひ、王法と云ひ、一時に正に破滅せんと欲す。昔、唐の会昌天子軍兵を以て仏法を滅す時、清涼山の衆、合戦を致し之を妨ぐ。王権なほかくのごとし。いかに況んや謀反八逆の輩に於いてをや。誰の人か匡正いすべけんや。就中南京は例なくて、罪無き長者を配流せらる。今度に非ずんば、いづれの日か会稽を遂げん。願はくは衆徒内には仏法の破滅を助け、外には悪逆の伴類を退けば、同心の至り本懐に足んぬべし。衆徒の詮議かくのごとし。仍つて牒送件のごとし。
治承四年五月十八日 大衆等
とぞ書いたりける。
南都の大衆この状を披見して、一味同心に詮議して、やがて返牒をこそ送りけれ。
その返牒にいはく、
興福寺牒す、園城寺の衙
来牒一紙に載せられたり。右入道浄海が為に、貴寺の仏法を滅せんとする由の事。
牒す。玉泉、玉花両家の宗義を立つと雖も、金章金句同じく一代の教文より出でたり。南京北京共に以て如来の弟子たり。自寺他寺互ひに調達が魔障を伏すべし。そもそも清盛入道は平氏の糟糠、武家の塵芥なり。祖父正盛、蔵人五位の家に仕へて、諸国の受領の鞭を執る。大蔵卿為房、加州刺史の古、検非所に補し、修理大夫顕季、播磨大守たつし昔、厩の別当職に任ず。然るを親父忠盛、昇殿を許されし時、都鄙の老少、皆蓬壺の瑕瑾を惜しみ、内外の英豪、各馬台の讖文に泣く。忠盛青雲の翼を刷ふと雖も、世の民なほ白屋の種を軽んず。名を惜しむ青侍、その家を望む事なし。
然るを去んじ平治元年十二月、太上天皇、一戦の功を感じて、不次の賞を授け給ひしより以来、高く相国に上り、兼ねて兵仗を賜はる。男子或いは台階を辱うし、或いは羽林に連なる。女子或いは中宮職に備はり、或いは准后の宣を蒙る。群れ弟庶子、皆棘路に歩み、その孫かの甥、尽く竹符を割く。加之九州を統領し、百司を進退して、皆奴婢僕従となす。一毛心に違へば、王侯と雖も之を捕らへ、片言耳に逆へば、公卿と雖も之を捕ふ。これによつて、或いは一旦の身命を延べんが為、或いは片時の凌蹂を遁れんと思ひて、万乗の聖主、なほ面諂の媚びを作し、重代の家君、却つてて膝行の礼を致す。代々相伝の家領を奪ふと雖も、上宰も恐れて舌を巻き、宮々相承の庄園を取ると雖も、権威に憚つて言ふものなし。勝つに乗る余り、去年の冬十一月、太上皇の棲を追捕し、博陸公の身を推し流す。叛逆の甚しい事、誠に古今に絶えたり。
その時我等、須らく賊衆に行き向かつて、その罪を問ふべしと雖も、或いは神慮に相憚るにより、或いは綸言と称するによつて、鬱陶を押へ、光陰を送る間、重ねて軍兵を起こし、一院第二の親王宮を打ち囲む処に、八幡三所、春日大明神、窃かに影向を垂れ、仙蹕を捧げ奉り、貴寺に送り付けて、新羅の扉に預け奉る。王法尽きざる旨著らけし。随つて、貴寺身命を捨てて守護し奉る条、含識の類、誰か随喜せざらん。その時我等遠域に在つて、その情を感ずる処に、清盛公、なほ勇気を皷して貴寺に入らんとする由、風かに承り及ぶを以て、兼ねて用意を致す。
十八日辰の一点に大衆を催し、諸寺に牒奏し、末寺に下知し、軍士を得て後、案内を達せんと欲するの処に、青鳥飛び来たつて芳翰を投ぐ。数日の鬱念一時に解散す。かの唐家清涼、一山の苾蒭、なほ武宗の官兵を返す。況んや和国南北両門の衆徒、何ぞ謀臣の邪類を掃はざらん。よく梁園左右の陣を固めて、宜しく我等が進発の告げを待つべし。状を察して疑殆を作すこと莫かれ。以て牒送件のごとし。
治承四年五月二十一日、大衆等
とぞ読み上げたる。
→【各章検討:永僉議】
三井寺には貝、鐘鳴らいて、また大衆詮議す。
「そもそも山門は心変はりしつ。南都はいまだ参らず。この事延びては悪しかりなん。いざや六波羅に押し寄せて、夜討ちにせん。その儀ならば、老少二手に分かつて、まづ老僧どもは、如意が峰よりからめ手へ向かふべし。足軽ども四五百人先立て、白河の在家に火をかけて焼きあげば、在京人六波羅の武士、『あはや事出で来たり』とて、馳せ向かはんずらん。その時岩坂、桜本にひつかけひつかけ、しばし支へて戦はん間に、大手は伊豆守を大将軍にて、大衆悪僧ども六波羅に押し寄せ、風上に火かけ一揉み揉うで攻めんに、などか太政入道、焼き出だいて、討たざるべき」とぞ詮議しける。
この中に平家の祈りしける一如房の阿闍梨真海、弟子同宿数十人引き具して、詮議の庭に進み出でて申しけるは、
「かう申せば、平家の方人とや思し召され候ふらん。たとひさ候ふとも、いかが衆徒の義を破り、我が寺の名をも惜しまでは候ふべき。昔は源平左右に争ひて、朝家の御固めたりしかども、近頃は源氏の運傾き、平家世を取つて二十余年、天下に靡かぬ草木も候はず。されば内々の館の有様どもも、小勢にてはたやすう攻め落とし難し。さればよくよく外に謀をめぐらし、勢を催し、後日に寄せさせ給ふべうや候ふらん」と、ほどを延ばさんがために、長々とぞ詮議したりける。
ここに乗円房の阿闍梨慶秀といふ老僧あり。
衣の下に腹巻を着、大きなる打ち刀前だれに差しほらし、白柄の長刀杖に突き、詮議の庭に進み出でて申しけるは、「証拠を外に引くべからず。まづ我が寺の本願、天武天皇いまだ東宮の御時、大友皇子に襲はれさせ給ひて、吉野の奥へ逃げ籠らせ給ひたりけるが、大和国宇多郡を過ぎさせ給ひけるには、その勢はつか十七騎。されども伊賀、伊勢うち越え、美濃、尾張の軍兵を以て、大友皇子を滅ぼして、つひに位に即かせ給ひき。『窮鳥懐に入る。人倫是を憐れむ』といふ本文あり。自余は知らず、慶秀が門徒に於いては、今夜六波羅に押し寄せて討ち死にせよや」とぞ詮議しける。
円満院大輔源覚、進み出でて申しけるは、「詮議はし多し。ただ夜のふくるに。急げや急げ」とぞ申しける。
→【各章検討:大衆揃】
からめ手に向かふ老僧どもの大将軍には、源三位入道頼政、乗円坊阿闍梨慶秀、律成坊阿闍梨日胤、帥法印禅智、禅智が弟子義宝、禅水を始めとして、都合その勢一千人、てんでに松明持つて、如意が峰へぞ向ひける。
大手の大将軍には、嫡子伊豆守仲綱、次男源大夫判官兼綱、六条蔵人仲家、その子蔵人太郎仲光。
大衆には円満院大輔源光、律成坊伊賀公、法輪院鬼佐渡、成喜院荒土佐、これらは力の強さ、弓矢打ち物とつては、いかなる鬼にも神にも合はうどいふ、一人当千の兵なり。
平等院には、因幡堅者荒大夫、角六郎房、島阿闍梨、筒井法師に卿阿闍梨、悪少納言、北の院に金光院六天狗、式部大輔、能登、加賀、佐渡、備後等なり。松井肥後、証南院筑後、賀屋筑前、大矢俊長、五智院但馬、乗円房の阿闍梨慶秀が房人、六十人のうち、加賀光乗、刑部春秀、法師ばらには、一来法師に如かざりき。
堂衆には、筒井浄妙明秀、小蔵尊月、尊永、慈慶、楽住、かなこぶしの玄永、武士には渡辺省、播磨次郎。授薩摩兵衛、長七唱、競滝口、与右馬允、続源太、清、勧を先として、都合その勢一千五百余人、三井寺をこそうつ立ちけれ。
寺には宮入らせ給ひて後は、大関、小関掘り切つて、逆茂木引いたれば、堀に橋渡し、逆茂木引き除くるなどしけるほどに、時刻遥かに推し移つて、関路の鶏鳴き合へり。
伊豆守、「ここで鶏鳴いては六波羅へは白昼にこそ寄せんずれ」と宣へば、円満院大輔源覚、また先のごとくに進み出でて、
「昔、秦の昭王の御時、孟嘗君召し禁められたりしに、后の御助けによつて、兵三千人を引き具して逃げ免れけるに函谷関に至りぬ。鶏の鳴かぬほどは関の戸を開くことなし。かの孟嘗君が三千人の客の中に、てんかつといふ兵あり。鶏の鳴く真似を有り難くしければ、鶏鳴ともいはれけり。かの鶏鳴、高き所に走りあがり、鶏の鳴く真似をゆゆしうしたりければ、関路の鶏聞き伝へて皆鳴きぬ。その時関守鳥のそら音にばかされて、関の戸を開けてぞ通しける。さればこれも敵の謀にや鳴かすらん。ただ寄せよや」とぞ申しける。
かかりしほどに、五月の短夜なれば、ほのぼのとこそ明けにけれ。
伊豆守宣ひけるは、「夜討ちにこそさりともと思ひつれ、昼戦にはいかにもかなふまじ。あれ呼び返せや」とて、からめ手は如意が峰より呼び返す。大手は松坂より引つ返す。若大衆ども、「これは一如阿闍梨が長詮議にこそ夜は明けたれ。その坊きれ」とて押し寄せて、坊を散々に切り、ふせく所の弟子、同宿数十人討たれぬ。
我が身手負ひ、はふはふ六波羅へ参つて、この由訴へ申しけれども、六波羅には軍兵数万騎馳せ集まつて騒ぐ事もなかりけり。
同じき二十三日の暁、宮は、「山門は心変はりしつ、南都はいまだ参らず。この寺ばかりではかなふまじ」とて、三井寺を出でさせ給ひて、南都へ落ちさせおはします。
この宮は蝉折、小枝と聞こえし漢竹の笛を二つ持ち給へり。
かの蝉折と申すは、昔、鳥羽院の御時、金を千両宋朝の御門へ参らせ給ひたりければ、返報とおぼしくて、生きたる蝉のごとくに、節のついたる笛竹を、一節参らつさせ給ひけり。「これほどの重宝をいかでか左右なうは彫らすべき」とて、三井寺の大進僧正覚宗に仰せて、壇上に立て、七日加持して、彫らせ給へる御笛なり。
ある時高松中納言実衡卿参つて、この御笛を吹かれけるに、世の常の笛のやうに思ひ忘れて、膝より下に置かれたりければ、笛やとがめけん、その時蝉折れにけり。さてこそ蝉折とは召されけれ。
この宮、笛の御器量たるによつて、御相伝ありけるとかや。されども、今を限りとや思し召されけん、金堂の弥勒に参らつさせ給ひけり。竜華の暁、値遇の御為かとおぼえて、あはれなりし事どもなり。
老僧どもは皆暇賜うで、留めさせおはします。しかるべき若大衆悪僧どもは参りけり。
三位入道の一類、渡辺党、三井寺の大衆引き具して、その勢一千五百余人とぞ聞こえし。
乗円房阿闍梨慶秀は、鳩の杖にすがつて、宮の御前に参り、老眼より涙をはらはらと流いて申しけるは、「いづくまでも御供つかまつるべきで候ふが、歳すでに八旬にたけて、行歩にかなひ難う候ふ。刑部房俊秀を参らせ候ふ。父は平治の合戦の時、故左馬頭義朝が手に候うて、六条河原で討ち死につかまつり候ひし、相模国の住人、山内須藤刑部丞俊通が子で候ふを、いささかゆかり候ふによつて、跡懐にておほしたてて候ふ。心の底までよくよく知つて候ふ。いづくまでも召し具せられ候へ」とて、涙をおさへて留まりぬ。
宮もあはれに思し召し、「いつの好みにかくは申すらん」とて、御涙せきあへさせ給はず。
→【各章検討:橋合戦】
さるほどに、宮は宇治と寺との間にて、六度まで御落馬ありけり。これは去んぬる夜、御寝のならざりしゆゑなりとて、宇治橋三間引きはづし、平等院に入れ奉て、しばらく御休息ありけり。
都には、「すはや、高倉宮こそ南都へ落ちさせ給ふなれ。追つかけて討ち奉れ」とて、大将軍には、左兵衛督知盛、頭中将重衡、左馬頭行盛、薩摩守忠度、侍大将には、上総守忠清、その子上総太郎判官忠綱、飛騨守景家、その子飛騨太郎判官景高、高橋判官長綱、河内判官秀国、武蔵三郎左衛門有国、越中次郎兵衛尉盛継、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清を先として、都合その勢二万八千余騎、木幡山うち越えて、宇治橋の爪にぞ押し寄せたる。
敵平等院にと見てんげれば、鬨をつくること三箇度なり。宮の御方にも同じう鬨の声をぞ合はせたる。
先陣が、「橋を引いたぞ、過ちすな。橋を引いたぞ、謬ちすな」とどよみけれども、後陣はこれを聞きつけず、我先にと進むほどに、先陣二百余騎押し落とされ、水に溺れて失せにけり。
橋の両方の爪にうつ立つて矢合はせす。宮の御方には、大矢俊長、五智院但馬、渡辺省、授、続源太が射ける矢ぞ、鎧もかけず、楯もたまらず通りける。源三位入道頼政は、長絹の鎧直垂に、科皮縅の鎧なり。今日を最後とや思はれけん、わざと甲は着給はず。嫡子伊豆守仲綱は、赤地の錦の直垂に、黒糸縅の鎧なり。弓を強う引かんがために、これも甲は着ざりけり。
ここに五智院但馬、大長刀の鞘をはづいて、ただ一人橋の上にぞ進んだる。平家の方にはこれを見て、「あれ射とれや」とて、差しつめ引きつめ散々に射けれども、但馬少しも騒がず、上がる矢をばついくぐり、下がる矢をば跳り越え、向かつて来るをば長刀で切つて落とす。敵も味方も見物す。それよりしてこそ、『矢切りの但馬』とは言はれけれ。
堂衆の中に、筒井浄妙明秀は、褐の直垂に黒皮縅の鎧着て、五枚甲の緒をしめ、黒漆の太刀をはき、二十四差いたる黒ぼろの矢負ひ、塗籠籐の弓に、好む白柄の大長刀取りそへて、橋の上にぞ進んだる。大音声を揚げて、「遠からん者は音にも聞き、近からん人は目にも見給へ。三井寺には隠れなし。堂衆の中に筒井浄妙明秀といふ一人当千の兵ぞや。我と思はん人々は寄り合へや。見参せん。」とて、二十四の矢を差しつめ引きつめ散々に射る。やにはに敵十二人射殺し、十一人に手負うせたれば、箙に一つぞ残つたる。
弓をばからと投げ捨て、箙も解いて捨ててんげり。貫脱いで跣になり、橋の行桁をさらさらさらと走り渡り、人は恐れて渡らねども、浄妙房が心地には、一条二条の大路とこそ振舞うたれ。長刀で向かふ敵五人薙ぎふせ、六人に当たる敵に逢うて、長刀中より打ち折つて捨ててんげり。
その後太刀を抜いて戦ふに、敵は大勢なり、蜘蛛手、かくなは、十文字、とんばうがへり、水車、八方すかさず切つたりけり。やにはに敵八人切りふせ、九人に当たる敵が甲の鉢に、あまりに強う打ち当てて、目貫の本よりちやうど折れ、くつと抜けて、川へざぶとぞ入りにける。頼む所は腰刀、死なんとのみぞ狂ひける。
ここに乗円房阿闍梨慶秀が召し使ひける一来法師といふ大力の剛の者、浄妙坊が後ろに続いて戦ひけるが、行桁は狭し、そば通るべきやうはなし。浄妙房が甲の手先に手を置いて、「悪しう候ふ、浄妙房」とて、肩をづんど跳り越えてぞ戦ひける。一来法師つひに討ち死にしてんげり。
浄妙房は這ふ這ふ帰つて、平等院の門の前なる芝の上に物の具脱ぎ捨て、矢目を数へたりければ六十三、裏かく矢は五所、されども大事の手ならねば、所々に灸治し、頭からげ、浄衣着て、弓切り杖に突き、平足駄履き、阿弥陀仏申して、奈良の方へぞまかりける。
浄妙房が渡りたるを手本にして、三井寺の大衆、渡辺党、走り続き走り続き、我も我もと行桁をぞ渡りける。或いは分捕りして帰る者もあり、或いは痛手負うて腹かき切り、川へ飛び入る者もあり。橋の上の戦、火出づるほどにぞ戦ひける。
これを見て平家の方の侍大将上総守忠清、大将軍の御前に参つて、「あれ御覧候へ。橋の上の戦、手いたう候ふ。今は川を渡すべきで候ふが、折節五月雨の頃、水まさつて候ふ。渡さば馬人多く失せ候ひなんず。いかがつかまつり候ふべき。淀、一口へや向かひ候ふべき。また河内路へや廻り候ふべき。」と申す所に、
下野国の住人足利又太郎忠綱、進み出でて申しけるは、「淀、一口、河内路へは、天竺、震旦の武士を召して向けられ候はんずるか。それも我らこそ承つて向かひ候はんずれ。目にかけたる敵を討たずして、宮を南都へ入れ参らせ候ひなば、吉野、十津川の勢ども馳せ集まつて、いよいよ御大事でこそ候はんずらめ。
武蔵と上野の境に利根川と申し候ふ大河候ふ。秩父、足利仲を違ひ、常は合戦をつかまつり候ひしに、大手は長井の渡り、搦め手は古河杉の渡りより寄せ候ひしに、上野国の住人新田入道、足利に語らはれて、杉の渡りより寄せんとて、設けたりける舟どもを、秩父が方より皆破られて、申し候ひしは、『ただ今ここを渡さずは、長き弓矢の疵なるべし。水に溺れて死なば死ね。いざ渡さう』とて、馬筏を作つて渡せばこそ渡しけめ、坂東武者の習ひ、敵を目にかけ、川を隔つる戦に、淵瀬嫌ふやうやある。この川の深さ早さ、利根川にいくほどの劣り優りはよもあらじ。続けや殿ばら」とて、真つ先にこそ打ち入れけれ。
続く人々、大胡、大室、深須、山上、那波太郎、佐貫広綱四郎大夫、小野寺禅師太郎、辺屋子四郎、郎等には、切生六郎、宇夫方次郎、田中宗太をはじめとして、三百余騎ぞ続きける。
足利大音声を揚げて、「強き馬をば上手に立てよ、弱き馬をば下手になせ。馬の足の及ばうほどは、手綱をくれて歩ませよ。撥まば掻い繰つて泳がせよ。下がらう者をば、弓の弭に取り付かせよ。手を取り組み、肩を並べて渡すべし。馬の頭沈まば引きあげよ。いつたう引いて引つかづくな。鞍壺によく乗り定まつて、鐙を強う踏め。水しとまば、三頭の上に乗りかかれ。馬には弱う、水には強うあたるべし。川中で弓引くな。敵射るとも相引きすな。常に錣を傾けよ。いつたう傾けて、手へん射さすな。かねに渡いて押し落とさるな。水にしなうて渡せや渡せ。」と掟てて、三百余騎、一騎も流さず、向かへの岸へざつとぞ打ち上げたる。
→【各章検討:宮御最期】
足利がその日の装束には、朽葉の綾の直垂に、赤縅の鎧着て、高角打つたる甲の緒をしめ、金作りの太刀をはき、二十四さいたる切斑の矢負ひ、滋籐の弓持つて、連銭葦毛なる馬に、柏木にみみづく打つたる金覆輪の鞍置いてぞ乗つたりける。
鐙ふんばり立ち上がり、大音声を揚げて、「昔、朝敵将門を滅ぼして、勧賞かうぶつて、名を後代に揚げたりし、俵藤太秀郷に十代の後胤、下野国の住人、足利太郎俊綱が子、また太郎忠綱、生年十七歳。かやうに無官無位なる者の、宮に向かひ参らせて弓を引き矢を放つ事、天の恐れ少なからず候へども、ただし弓も矢も、冥加のほども平家の御身の上にこそ候ふらめ。三位入道殿の御方に、我と思はん人々は、寄り合へや。見参せん」とて、平等院の門の内へ、攻め入り攻め入り戦ひけり。
大将軍左兵衛尉知盛、これを見給ひて、「渡せや渡せ」と下知せられければ、二万八千余騎、皆うち入れて渡しけり。さばかり早き宇治川の、馬や人に塞かれて、水は上にぞ湛へたる。自らはづるる水には、何もたまらず流れにけり。雑人どもは馬の下手に取り付き取り付き渡りければ、膝より上を濡らさぬ者も多かりけり。
いかがしたりけん、伊賀、伊勢両国の官兵等、馬筏押し破られて、六百余騎こそ流れたれ。萌黄、緋縅、赤縅、色々の鎧の、浮きぬ沈みぬ揺られけるは、神南備山の紅葉ばの峰の嵐にに誘はれて、竜田川の秋の暮れ、堰にかかりて流れもやらぬに異ならず。
その中に緋縅の鎧着たる武者三人、網代に流れかかつて、浮きぬ沈みぬ揺られけるを、伊豆守見給ひて、かうぞ詠じ給ひける。
♪26
伊勢武者は みなひをどしの 鎧着て
宇治の網代に 懸かりぬるかな
黒田後平四郎、日野十郎、乙部弥七とて、これらは皆伊勢国の住人なり。中にも日野十郎は古兵にてありければ、弓の弭を岩の狭間にねぢ立てて、かき上がり、二人の者どもを引き上げて、助けけるとぞ聞こえし。
大勢みな渡し、平等院の門の内へ攻め入り攻め入り戦ひけり。この紛れに宮をば南都へ先立たせ参らせ、三位入道の一類、渡辺党、三井寺の大衆、残り留まつて防ぎ矢射給ふ。
三位入道は、七十にあまつて戦して、弓手の膝口を射させ、痛手なれば、心静かに自害せんとて、平等院の門の内へ引き退く所に、兵襲そひかかりければ、次男源大夫判官兼綱、紺地の錦の直垂に唐綾縅の鎧着て、白葦毛なる馬に、金覆輪の鞍置いて乗つたりけるが、父を延ばさんがと、返し合はせ返し合はせ防ぎ戦ふ。
上総太郎判官が射ける矢に、源大夫判官、内甲を射させてひるむ所に、上総守が童、次郎丸といふ大力の剛の者、源大夫の判官に押し並べてひつくんでどうど落つ。源大夫判官は、内甲も痛手なれども、聞こゆる大力なりければ、次郎丸をとつて押さへて首を掻き、立ち上がらんとする所に平家の兵ども十四五騎落ち重なつて、つひに兼綱をうつてんげり。伊豆守仲綱も散々に戦ひ、痛手あまた負ひ、平等院の釣殿にて自害す。その首をば、下河辺藤三郎清親取つて、大床の下へぞ投げ入れたる。
六条の蔵人仲家、その子蔵人太郎仲光も、散々に戦ひ、分捕りあまたして、遂に討ち死にしてんげり。この仲家と申すは、故帯刀先生義賢が嫡子なり。しかるを父討たれて後、孤児にてありしを、三位入道養子にして、不憫にし給ひしかば、日ごろの契約を違へじとや、一所で死ににけるこそ無慚なれ。
三位入道、渡辺長七唱を召して、「我が首討て」と宣ひければ、主の生け首討たん事の悲しさに、「つかまつらうともおぼえ候はず。御自害候はば、その後こそ賜はり候はめ」と申しければ、げにもとて、西に向かひ手を合はせ、高声に十念唱へ給ひて、最後の詞ぞあはれなる。
♪27
埋もれ木の 花さくことも なかりしに
身のなる果てぞ 悲しかりける
これを最後の詞にて、太刀の先を腹に突き立て、うつぶさまに貫かつてぞ失せにける。その時に歌詠むべうはなかりしかども、若うよりあながちに好いたる道なれば、最後の時も忘られず。その首をば長七唱とつて、大勢の中に紛れ出でて、石に括り合はせ、宇治川の底の深き所に沈めてんげり。
競滝口をば、平家の侍どもいかにもして生け捕りにせんとうかがひけれども、競も先に心得て散々に戦ひ、痛手あまた負ひ、腹掻き切つてぞ死ににける。
円満院大輔源覚は、今は宮も遥かに延びさせ給ひぬらんとや思ひけん、大太刀、大長刀左右に持つて、敵の中を打ち破り、宇治川へ飛んで入り、物の具ひとつも捨てず、向かへの岸に渡り着き、高き所にのぼり上がり、大音声を揚げて、「いかに平家の公達、これまでは御大事か、よう」といひ捨てて、三井寺へこそ帰りけれ。
飛騨守景家は、古兵にてありければ、宮ははや南都へ先立たせ給ひぬらんとや思ひけん、戦をばせず、混甲五百余騎、鞭鐙を合はせておつかけ奉る。案のごとく、宮は三十騎ばかりで落ちさせ給ひけるを、光明山の鳥居の前にておつつき奉り、雨の降るやうに射参らせければ、いづれの矢とは知らねども、宮の左の御側腹に矢一筋立ちければ、御馬より落ちさせ給ひて、御首取られさせ給ひけり。御供申したる鬼佐渡、荒土佐、荒大夫、理智城房伊賀公、刑部俊秀、いつのために命をば惜しむべきとて、をめき叫んで、一所で討ち死にしてんげり。
その中に宮の御乳母子、六条助大夫宗信は、敵は続く、馬は弱し、贄野の池へ飛んで入り、萍顔に取り覆ひ、ふるひゐたれば、敵は前をうち過ぎぬ。
しばらくあつて、兵どもの四五百騎、ざざめいて打ち帰りける中に、浄衣着たる死人の首もないを蔀の本にかいて出できたるを、誰やらんと見奉れば、宮にてぞましましける。「我死なば、この笛をば御棺に入れよ」と仰せける、小枝と聞こえし御笛も、いまだ御腰に差されたり。
走り出でて、取りも付き参らせばやと思へども、恐ろしければそれもかなはず。敵みな帰つて後、池より上がり、濡れたる物どもしぼり着て、泣く泣く都へ上つたりければ、憎まぬ者こそなかりけれ。
さるほどに、南都の大衆七千余人、甲の緒をしめ、宮の御迎へに参りけるが、先陣木津に進み、後陣はいまだ興福寺の南大門にぞゆらへたる。宮ははや光明山の鳥居の前にて討たれさせ給ひぬと聞こえしかば、大衆力及ばず、涙をおさへて留まりぬ。今五十町ばかり待ちつけさせ給はで、討たれさせ給ひける宮の、御運のほどこそうたてけれ。
→【各章検討:若宮出家】
平家の人々は、宮並びに三位入道の一類、渡辺党、三井寺の大衆、都合五百余人が首、太刀長刀の先に貫き、高くさし上げ、夕べに及んで六波羅へ帰り参る。兵ども勇みののしる事おびたたし。
その中に源三位頼政入道の首は、長七唱がとつて宇治川の深き所に沈めてければ、見えざりけり。子どもの首をばあそこここよりみな尋ね出だされたり。
中にも宮の御首をば、年ごろ参りよる人もなかりしかば、誰見知り参らせたる人もなし。先年典薬頭定成こそ、御療治のために召されたりしかば、それぞ見知り参らせたるらんとて召されけれども、現所労とて参らず。また宮の常に召されける女房とて、六波羅へ尋ね出だされたり。さしも浅からず思し召して御子うみ参らせんなんどして、御最愛ありしかば、いかでか見損じ奉るべき。ただ一目見参らせて、袖を顔に当てて涙を流されけるにこそ、宮の御首とは知りてんげれ。
この宮は、腹々に御子の宮達あまた渡らせ給ひけり。八条女院に、伊予守盛教が娘、三位局と申しける女房の腹に、七歳の若宮、五歳の姫宮おはしましけり。
入道相国の弟、池中納言頼盛卿をもつて、八条女院へ申されけるは、「この宮の御子の宮達のあまた渡らせ給ひ候ふなり。姫宮の御事は申すに及ばず、若宮をば、とうとう出だし参らせ給へ」と申されたりければ、
女院の御返事には、「かくと聞こえし暁、御乳の人などが心をさなう具し奉て失せにけるにや、まつたくこの御所には渡らせ給はず」とぞ仰せければ、
頼盛卿帰り参つて、この由を入道相国に申されければ、「なんでふその御所ならでは、いづくへか渡らせ給ふべかんなる。その儀ならば、武士参つて捜し奉れ」とぞ宣ひける。
この中納言は、女院の御乳母、宰相殿と申す女房にあひ具して、常は参り通はれければ、日頃はなつかしうこそ思し召しけるに、この宮の御事申しに参られたれば、今はいつしか疎ましうぞ思し召されける。
若宮、女院に申させ給ひけるは、「これほどの御大事に及び候ふ上は、終に遁れ候ふまじ。とうとう出ださせおはしませ」と申させ給ひければ、女院御涙を流させ給ひて、「人の七つ八つはいまだ何事をも聞き分かぬほどぞかし。それに我ゆゑ、かかる大事の出で来たるを、かたはらいたく思して、かやうに仰せらるることよ。由なかりける人を、この六七年手ならして、今日はかかるうき目を見るよ」とて、御涙せきあへさせ給はず。
頼盛卿、若宮の御事申しに重ねて参られたれば、女院力及ばせ給はで、終に宮を出だし参らさせ給ひけり。御母三位局、今を限りの御別れなれば、さこそは御名残惜しうも思し召されけめ。さてしもあるべき事ならねば、泣く泣く御衣着せ参らせ、御髪かきなでて、出だし参らせ給ふも、ただ夢とのみぞ思はれける。
女院をはじめ参らせて、局の女房、女童に至るまで、涙を流し袖を濡らさぬはなかりけり。
頼盛卿、若宮請け取り参らせ、御車に乗せ奉て、六波羅へ渡し奉る。
前右大将宗盛卿、この宮を見参らせて、父の禅門の御前におはして、「前世の事にや候ふらん、この宮を見奉るにあまりにいとほしう思ひ参らせ候ふ。何か苦しう候ふべき、この宮の御命をば、宗盛に賜び候へ」と申されければ、入道いかが思はれけん、「さらばとうとう御出家せさせ奉れ」とぞ宣ひける。
宗盛卿、この由を八条の女院へ申されければ、女院、「何のやうもあるべからず、ただとうとう」とて、御出家せさせ奉り給ふ。釈氏に定まらせ給ひしかば、法師になし参らせて、仁和寺の御室の御弟子になし参らさせ給ひけり。後には東寺の一の長者、安井宮の大僧正道尊と申ししは、この宮の御事なり。
→【各章検討:通乗之沙汰】
また奈良にも御一所ましましけるをば、御乳母讃岐守重秀が御出家せさせ奉り、具し奉て、北国へ落ち下りたりしを、木曾義仲上洛の時、主にし参らせんとて、還俗せさせ奉り、具し奉て、都へ上りたりければ、木曾が宮とも申しけり。また還俗の宮とも申しけり。
後には嵯峨の辺、野依に渡らせ給ひしかば、野依の宮とも申しけり。
昔、通乗といつし相人あり。宇治殿、二条殿をば、「君三代の関白、ともに御年八十」と申したりしも違はず。帥の内大臣をば、「流罪の相まします」と申したりしも違はず。また聖徳太子の、崇峻天皇を、「横死の相まします」と申させ給ひたりしが、馬子の大臣に殺されさせ給ひぬ。必ず相人としもあらねども、上古にはかうこそめでたかりしか。これは相少納言が不覚にはあらずや。
中ごろ、兼明親王、具平親王と申ししは、前中書王、後中書王とて、ともに賢王、聖主の皇子にて渡らせ給ひしかども、つひに位にも即かせ給はず。されどもいつかは御謀叛起こさせ給ひたりし。
また後三条の院第三の皇子、輔仁親王と申ししは、御才覚すぐれてましましければ、白河院いまだ東宮の御時、「御位の後はこの宮を位に即け参らさせ給へ」と、後三条院、御遺詔ありしかども、白河院いかが思し召されけん、つひに位にも即け参らさせ給はず。せめての御事にや、輔仁親王の御子の宮の皇子に、源氏の姓を授け参らさせ給ひて、無位より一度に三位に叙して、やがて中将になし参らさせ給ふ。一世の源氏、無位より三位する事、嵯峨皇帝の御子、陽成院の大納言定卿のほかは、いまだ承り及ばず。花園左大臣有仁公の御事なり。
さるほどに、高倉宮の御謀叛の間、調伏の法承つて行はれける高僧達に、勧賞ども行はる。
前右大将宗盛卿の子息、侍従清宗三位して、三位侍従とぞ申しける。今年十二歳、父の卿はこの齢では、兵衛佐にてこそおはせしか。これはたちまちに上達部に上がり給ふ事、一の人の公達のほかは、これ始めとぞ承る。
さるほどに、「源以仁、頼政父子追討の賞」とぞ除書にはありける。源以仁とは高倉宮を申しけり。まさしい太上法皇の皇子を討ち奉るだにあるに、あまつさへ凡人になし奉るぞあさましき。
→【各章検討:鵼】
そもそも源三位入道頼政と申すは、摂津守頼光に五代、三河守頼綱が孫、兵庫守仲政が子なりけり。保元の合戦の時も、味方にて先を駆けたりしかども、させる賞にもあづからず。また平治の逆乱にも、親類を捨てて参じたりしかども、恩賞これおろそかなりき。大内守護にて、年久しうありしかども、昇殿をば許されず。年たけ齢かたぶいて後、述懐の和歌一首詠うでこそ、昇殿をばしたりけれ。
♪28
人知れず 大内山の 山守は
木隠れてのみ 月を見るかな
この歌によつて昇殿許され、正下四位にてしばらくありしが、三位を心にかけつつ、
♪29
のぼるべき たよりなき身は 木の本に
しゐを拾ひて 世を渡るかな
さてこそ三位はしたりけれ。
やがて出家して、源三位入道頼政とて、今年は七十五にぞなられける。
この人一期の高名とおぼえし事は、仁平の頃ほひ、近衛院御在位の御時、主上夜な夜な怯えさせ給ふ事ありけり。有験の高僧、貴僧に仰せて、大法秘法を修せられけれどもその験なし。御悩は丑の刻ばかんの事なるに、東三条の森の方より、黒雲ひとむら立ち来たつて、御殿の上に覆へば、必ず怯えさせ給ひけり。これによつて公卿詮議ありけり。
去んぬる寛治の頃ほひ、堀川院御在位の時、しかのごとく主上怯え魂極らせ給ふ事ありけり。その時の将軍義家朝臣、南殿の大床に候はれけるが、御悩の刻に及んで、鳴弦する事三箇度の後、高声に「前陸奥国守源義家」と名乗つたりければ、聞く人身の毛よだつて、御悩必ずおこたらせ給ひけり。しかればすなはち先例に任せて武士に仰せて警護あるべしとて、源平両家の兵どもの中を選ぜられけるに、頼政をぞ選び出だされたる。その時はいまだ兵庫頭とぞ申しける。
頼政申されけるは、「昔より朝家に武士を置かるる事は、逆反の者を退け、違勅の者を滅ぼさんがためなり。目にも見えぬ変化の者つかまつれと仰せ下さるる事、いまだ承り及ばず」と申しながら、勅宣なれば召しに応じて参内す。
頼政頼みきつたる郎等、遠江国の住人、猪早太に、ほろのかざきり作いだる矢負はせて、ただ一人ぞ具したりける。我が身はふたへの狩衣に、山鳥の尾をもつてはいだりける鋒矢二筋、滋籐の弓に取りそへて、南殿の大床に祗候す。
頼政矢ふたつ手挟みける事は、雅頼卿その時はいまだ左少弁にておはしけるが、「変化の物つかまつらんずる仁んは頼政ぞ候ふ」と選び申されたる間、一の矢にて変化の物射損ずるほどならば、二の矢には、雅頼の弁のしや首の骨を射んとなり。
案のごとく、日ごろ人の申すに違はず、御悩の刻限に及んで、東三条の森の方より、黒雲ひとむら立ち来たつて、御殿の上にたなびいたり。頼政きつと見上げたれば、雲の中に怪しき物の姿あり。
これを射損ずる程ならば、世にあるべしとは思はれざりけり。さりながら矢取つてつがひ、南無八幡大菩薩と心の中に祈念して、よつぴいてひようど放つ。手ごたへして、はたと当たる。「えたりや、おう」と、矢叫びをこそしたりけれ。猪早太つと寄り、落つる所を取つておさへ、続けざまに九刀ぞ刺いたりける。
その時上下てんでに火をともいて、これを御覧じ見給ふに、頭は猿、骸は狸、尾は蛇、手足は虎の姿にて、鳴く声鵺にぞ似たりける。
恐ろしなどもおろかなり。主上御感のあまりに獅子王と申す御剣を下されけり。
宇治の左大臣殿これを給はり、次いで頼政にたばんとて、御前の階を半らばかり下りさせ給ふ所に、頃は卯月十日あまりの事なれば、雲居に郭公二声三声おとづれて通りければ、左大臣殿、
♪30
ほととぎす 名をも雲居に あぐるかな
と仰せられかけたりければ、頼政右の膝をつき、左の袖をひろげて、月を少し側目にかけつつ、
♪31
ゆみはり月の いるに任せて
とつかまつり、御剣を給はりてまかり出づ。「弓矢取つても並び無き上、歌道にも勝れれたり」とぞ、君も臣も御感ありける。
さてかの変化の物をば、うつほ舟に入れて流されけるとぞ聞こえし。
また去んぬる応保の頃ほひ、二条院御在位の御時、鵺といふ化鳥禁中に鳴いて、しばしば宸襟を悩まし奉る事ありけり。先例に任せて、頼政をぞ召されける。頃は五月二十日あまり、まだ宵の事なるに、鵺ただ一声おとづれて、二声とも鳴かざりけり。目指すとも知らぬ闇ではあり、姿形も見えざれば、矢つぼをいづくとも定めがたし。
頼政はかりごとに、まづ大鏑取つてつがひ、鵺の声しつる内裏の上へぞ射上げたる。鵺、鏑の音に驚いて、虚空にしばしひひめいたり。次に小鏑とつてつがひ、ひいふつと射切つて、鵺と鏑と並べて前にぞ落としたる。禁中ざざめいて、頼政に御衣をかづけさせおはします。今度は大炊御門の右大臣公能公これを給はり、ついで頼政にたばんとて、「昔の養由は、雲の外の雁を射き。今の頼政は、雨の中に鵺を射たり」とぞ感ぜられける。
♪32
五月闇 名をあらはせる 今宵かな
と仰せられかけたりければ、頼政、
♪33
たそかれ時も 過ぎぬと思ふに
とつかまつり、御意を肩にかけてまかり出づ。その後、伊豆国給はり、子息仲綱受領になし、我が身三位して、丹波の五箇庄、若狭のとう宮川を知行して、さておはすべかりし人の、よしなき謀反起こいて、宮をも失ひ参らせ、我が身も子孫も滅びぬるこそうたてけれ。
→【各章検討:三井寺炎上】
日頃は山門の大衆こそ、発向のみだりがはしきうつたへつかまつるに、今度はいかが思ひけん、穏便を存じて音もせず。しかるを南都、三井寺同心して、或いは宮請け取り参らせ、或いは宮の御迎へに参る条、これもつて朝敵なり。
されば奈良をも三井寺をも攻めらるべしとぞ聞こえける。まづ三井寺を攻めらるべしとて、同じき五月二十七日、大将軍には左兵衛督知盛、副将軍には薩摩守忠度、都合その勢一万余騎、園城寺へ発向す。寺にも堀掘り、かいだてかき、さかもぎひいて、待ちかけたり。卯の刻より矢合はせして、一日戦ひ暮らす。ふせく所の大衆以下の法師原、三百余人討たれぬ。
夜戦になつて、暗さは暗し、官軍寺中に攻め入つて火を放つ。
焼くる所、本覚院、成喜院、真如院、花園院、普賢堂、大宝院、青竜院、教待和尚の本坊、並びに本尊等、八間四面の大講堂、鐘楼、経蔵、灌頂堂、護法善神の社壇、新熊野の御宝殿、すべて堂舎塔廟六百三十七宇、大津の在家千八百五十三宇、智証の渡し給へる一切経七千余巻、仏像二千余体、たちまちに煙となるこそ悲しけれ。
諸天五妙の楽しみも、この時長く尽き、竜神三熱の苦しみも、いよいよ盛んなるらんとぞ見えし。
それ三井寺は、近江の擬大領が私の寺たりしを、天武天皇に寄せ奉て、御願となす。本仏もかの帝の御本尊、しかるを精進の弥勒と聞こえ給ひし教待和尚、百六十年行うて、大師に附属し給へり。覩史天上摩尼宝殿より天降り、遥かに竜華の暁とこそ聞きつるに、こはいかにしつる事どもぞや。大師この所を伝法灌頂の霊跡として、井花水の水を掬び給ひし故にこそ、三井寺とは名付けたれ。
かかるめでたき聖跡なれども今は何ならず。顕密須臾に滅びて、伽藍さらに跡もなし。三密道場もなければ、鈴の声も聞こえず。一夏の花もなければ、閼伽の音もせざりけり。宿老碩徳の名師は行学に怠り、受法相承の弟子はまた経教に別れんだり。寺の長吏円慶法親王は、天王寺の別当をも留めらる。そのほか僧綱十三人闕官せられ、みな検非違使に預けらる。悪僧は筒井浄妙明秀に至るまで三十余人流されけり。
「かかる天下の乱れ、国土の騒ぎ、ただ事ともおぼえず、平家の世の末になりぬる先表やらん」とぞ、人申しける。
→【概要:巻第五】
→【各章検討:都遷】
治承四年六月三日、福原へ御幸なるべしと聞こゆ。この頃都遷りあるべしと聞こえしかども、忽ちに今明のほどとは思はざりしものをとて、京中の上下騒ぎ合へり。あまつさへ三日と定められたりしが、今一日引き上げて、二日になりにけり。
二日の卯の刻に、行幸の御輿を寄せたりければ、主上は今年三歳、いまだいとけなうましましければ、何心なうぞ召されける。主上幼しう渡らせ給ふ時の御同輿には、母后こそ参らせ給ふに、これはその儀なし。御乳母帥典侍殿ばかりぞ、ひとつ御輿には参られける。中宮、一院、上皇も御幸なる。摂政殿をはじめ奉つて、太政大臣以下の卿相雲客、我も我もと供奉せらる。平家太政入道を始めて、一門の人々皆参られけり。
三日、福原へ入らせ給ふ。入道相国の御弟、池中納言頼盛卿の山荘、皇居になる。
四日、頼盛、家の賞とて正二位し給ふ。九条殿の御子、右大将良通卿、加階越えられさせ給ひけり。摂録の臣の御子息、凡人の次男に加階越されさせ給ふ事、これ初めとぞ承る。
さるほどに、入道相国やうやう思ひ直つて、法皇をば鳥羽の北殿を出だし参らせて、都へ御幸なし奉られたりしかども、高倉宮の御謀叛によつて、大きに憤り、また福原へ御幸なし奉り、四面に端板して、口ひとつあけたる内に、三間の板屋を造つて押し込め奉る。守護の武士には、原田大夫種直ばかりぞ候ひける。人のたやすう参り通ふべきやうもなければ、童部などは、籠の御所とぞ申しける。聞くもいまいましう、あさましかりし事どもなり。
法皇、「今は世の政治を知ろしめさばやとは、つゆも思し召し寄らず。ただ山々寺々修行して、御心のままに慰まばや」とぞ仰せける。
「平家悪行においては、去んぬる安元よりこの方、ことごとく極めぬ。関白流し奉て、我が婿を関白になし、多くの卿相、或いは流し、或いは失ひ、法皇を城南の離宮に押し籠め奉り、あまつさへ第二の皇子高倉宮伐ち奉つる。今残る所の都遷りなれば、かやうにし給ふにや」とぞ人申しける。
都遷りはこれ先蹤なきにあらず。
神武天皇と申すは、地神五代の帝、彦波瀲武鸕鷀草不葺合尊第四の王子、御母は玉依姫、海神の娘なり。神代十二代の跡を受け、人代百王の帝祖なり。
辛酉の年、日向国宮崎郡にして、皇王の宝祚を継ぎ、五十九年といひし己未の年十月に東征して、豊葦原中津国に留まり、この頃大和国と名付けたる、畝傍の山を点じて、帝都を建て、橿原の地を切り払つて、宮室を造り給へり。これを橿原宮と名付けたり。それよりこの方、代々の帝王、都を他国他所へ遷さるる事、三十度に余り四十度に及べり。
神武天皇より景行天皇まで十二代は、大和国郡々に都を建てて、他国へは遂に遷されず。
然るを成務天皇元年に、近江国に遷して、志賀郡に都を建つ。
仲哀天皇二年に、長門国に遷して、豊浦郡に都を建つ。その国の彼の郡にして、帝隠れさせ給ひしかば、后神功皇后、御世を受け取らせ給ひ、女帝として、鬼界、高麗、契丹まで攻め従へさせ給ひけり。異国の戦を鎮めさせ給ひ、帰朝の後、筑前国三笠の郡にして皇子御誕生、その所をば、産の宮とぞ申しける。かけまくもかたじけなく八幡の御事なり。位に即かせ給ひては、応神天皇とぞ申しける。
その後神功皇后、大和国に遷して、磐余稚桜宮におはします。
応神天皇は、同じき国軽島豊明宮に住ませ給ふ。
仁徳天皇元年に、摂津国難波に遷つて、高津宮におはします。
履仲天皇二年に、また大和国に遷つて、十市の郡に都を建つ。
反正天皇元年に、河内国に遷して、柴籬宮に住ませ給ふ。
允恭天皇四十二年に、また大和国に帰つて、飛ぶ鳥の飛鳥宮におはします。
雄略天皇二十一年に、同じき国泊瀬朝倉に宮居し給ふ。
継体天皇五年に、山城国綴喜に遷して十二年、その後乙訓に宮居し給ふ。
宣化天皇元年に、また大和国に遷つて、檜隈廬入野宮にすませ給ふ。
孝徳天皇大化元年に、摂津国長柄に遷つて、豊崎宮におはします。
斉明天皇二年に、なほ大和国に遷つて、岡本宮に住ませ給ふ。
天智天皇六年に、近江国に遷つて、大津宮におはします。
天武天皇元年に、なほ大和国に帰つて、岡本南宮に住ませ給ふ。これを清見原の帝と申しき。
持統、文武二代の聖朝は、藤原宮におはします。
元明天皇より光仁天皇まで七代は、これ奈良の都に住ませ給ふ。
然るを桓武天皇、延暦三年十月に、奈良の京春日の里より、山城国長岡に遷つて、十年といつし正月に、大納言藤原小黒丸、参議左大弁紀古佐美、大僧都玄慶等を遣はして、当国葛野郡宇多村を見せらるるに、両人ともに奏していはく、「この地の体を見候ふに、左青龍、右白虎、前朱雀、後玄武、四神相応の地なり。もつとも帝都を定むるに足れり」と申す。よつて愛宕郡におはします賀茂大明神に、この由を告げ申させおはします。
延暦十三年十一月二十一日、長岡京より故郷へ遷されて、帝王は三十二代、星霜は三百八十余歳の春秋を送り迎ふ。
「代々の帝、国々所々へ、多くの都を遷されしかども、かくのごときの勝地はなし」と、桓武天皇ことに執し思し召して、大臣公卿、諸道の才人らに仰せて、長久なるべきやうとて、土にて八尺の人形を作り、黒鉄の鎧甲を着せ、同じう黒鉄の弓矢を持たせて、東山の嶺に西向きに立ててぞ埋まれける。
「末代といふとも、この国を他国へ遷す事あらば、守護神とならん」と誓ひつつ、御約束ありける。
されば天下に事出で来んとては、この塚必ず鳴動す。将軍が塚とて今にあり。
なかんづくこの都をば平安城と名付けて、平ら安き城と書けり。もつとも平家の崇むべき都ぞかし。
桓武天皇と申すは、平家の曩祖にておはします。先祖の君のさしも執し思し召しつる都を、させる故なうて、他国他所へ遷されけるぞあさましき。
嵯峨皇帝の御時、平城の先帝、尚侍の勧めによつて、すでにこの都を他国へ遷さんとせさせ給ひしを、大臣公卿諸国の人民背き申ししかば、遷されずしてやみにき。一天の君万乗の主だに遷し得給はぬ都を、入道相国人臣の身として、遷されけるぞあさましき。
旧都はあはれめでたかりつる都ぞかし。王城守護の鎮守は、四方に光をやはらげ、霊験殊勝の寺々は、上下に甍を並べたり。百姓万民わづらひなく、五畿七道も便りあり。されども今は辻々を皆掘り切つて、車などのたやすう行きかふ事もなく、たまさかに行く人は、小車に乗り、道を経てこそ通りけれ。軒を争ひし人の住まひ、日を経つつ荒れゆく。家々は賀茂川、桂川にこぼち入り、筏に組み浮かべ、資財雑具舟に積み、福原へとて運び下す。ただなりに、花の都、田舎になるこそ悲しけれ。
何者のしわざにやありけん、旧き都の内裏の柱に、二首の歌をぞ書き付けける。
♪34
百年を 四かへりまでに 過ぎ来にし
おたぎの里の 荒れや果てなん
♪35
開き出づる 花の都を ふり捨てて
風ふく原の 末ぞあやふき
同じき六月九日、新都の事初めあるべしとて、上卿には徳大寺の左大将実定卿、土御門の宰相中将通親卿、奉行の弁には、蔵人左少弁行隆、官人ども召し具して、摂津国和田の松原、西の野を点じて、九条の地を分けられけるに、一条より下五条まではその所あつて、それより下はなかりけり。
行事官帰り参つて、この由を奏聞す。「さらば播磨の印南野か、なほ摂津国の昆陽野か」なんど、公卿詮議ありしかども、事ゆくべしとも見えざりき。
旧都をばすでに浮かれぬ。新都はいまだ事ゆかず。ありとしある人は、皆身を浮き雲の思ひをなし、もとこの所に住む者は、地を失つて愁へ、今遷る人々は、土木のわづらひをのみ歎き合へり。
すべてただ夢のやうなつし事どもなり。土御門の宰相中将通親卿の申されけるは、「異国には『三条の広路を開いて、十二の通門を立つ』と見えたり。況んや五条まであらん都に、などか内裏を建てざるべき。かつがつまづ里内裏造らるべし」と議定あつて、五条大納言邦綱卿、臨時に周防国を賜はつて、造進せらるべき由、入道相国計らひ申されけり。
この邦綱卿と申すは、並びなき大福長者にてましましければ、大内造り出だされん事、左右に及ばねども、いかんが国の費え、民のわづらひなかるべき。まことにさしあたつたる天下の大事、大嘗会などの行はるべきをさしおいて、かかる世の乱れに、遷都、造内裏、少しも相応せず。
「古の賢き御代には、すなはち内裏に萱を葺き、軒をだにも整へず。煙の乏しきを見給ふ時には、限りある貢物をも許されき。これすなはち民を恵み、国を助け給ふによつてなり。楚、章華台を建てて黎民索け、秦、阿房殿を興いて、天下乱るといへり。茅茨剪らず、采椽削らず、舟車飾らず、衣服文なかりける世もありけんものを。されば唐の太宗の驪山宮を造つて、民の費えをやはばからせ給ひけん、遂に臨幸なくして、瓦に松生ひ、垣に蔦茂つて、やみにけるには相違かな」とぞ人申しける。
→【各章検討:月見】
六月九日、新都の事始め、八月十日上棟、十一月十三日遷幸と定めらる。旧き都は荒れゆけば、今の都は繁昌す。あさましかりつる夏も暮れ、秋にもすでになりにけり。秋もやうやう半ばになりゆけば、福原の新都にましましける人々、名所の月を見んとて、或いは源氏の大将の昔の跡を偲びつつ、須磨より明石の浦伝ひ、淡路の瀬戸をおし渡り、絵島が磯の月を見る。或いは白浦、吹上、和歌の浦、住吉、難波、高砂、尾上の月の曙を、ながめて帰る人もあり。旧都に残る人々は、伏見、広沢の月を見る。
その中に徳大寺の左大将実定卿は、旧き都の月を恋ひつつ、八月十日余りに、福原よりぞ上り給ふ。何事も皆変はり果てて、まれに残る家は、門前草深くして、庭上露しげし。蓬が杣、浅茅が原、鳥の臥し所と荒れ果てて、虫の声々恨みつつ、黄菊紫蘭の野辺とぞなりにける。
故郷の名残とては、近衛河原の大宮ばかりぞましましける。大将その御所へ参り、まづ随身をもつて惣門を叩かせらるれば、内より女の声にて、「誰そや、蓬生の露うち払ふ人もなき所に」ととがむれば、「福原より大将殿の御上り候ふ」と申す。「惣門は鑰の差されて候ふぞ。東面の小門より入らせ給へ」と申しければ、大将、さらばとて、東の門よりぞ参られける。
大宮は、御つれづれに、昔をや思し召し出でさせ給ひけん、南殿の御格子あげさせ、御琵琶遊ばされける所へ大将参られたり。「いかにやいかに。夢かやうつつか、これへこれへ」とぞ仰せける。源氏の宇治の巻には、優婆塞宮の御娘、秋の名残を惜しみつつ、琵琶を調めて夜もすがら心をすまし給ひしに、有明の月の出でけるを、なほたへずや思しけん、撥にて招き給ひけんも、今こそ思し召し知られけれ。
待宵の小侍従と申す女房も、この御所にぞ候はれける。そもそもこの女房を待宵と申しける事は、ある時御前より、「待宵、帰る朝、いづれかあはれはまされる」と仰せければ、かの女房、
♪36
待つ宵の ふけゆく鐘の 声聞けば
帰る朝の 鳥はものかは
と申したりけるゆゑにこそ、待宵とは召されけれ。大将この女房呼び出だし、昔今の物語どもし給ひて後、小夜もやうやうふけゆけば、旧き都の荒れゆくを、今様にこそ歌はれけれ。
♪37
ふるき都をきてみれば 浅茅が原とぞ荒れにける
月の光は隈なくて 秋風のみぞ身にはしむ
と、押し返し押し返し三反歌ひすまされたりければ、大宮をはじめ奉て、御所中の女房達、皆袖をぞ濡らされける。
さるほどに夜も明けければ、大将暇申しつつ、福原へこそ帰られけれ。ともに候ふ蔵人を召して、「侍従が何とやらん、あまりに名残惜しげに見えつるに、汝帰つて、ともかうも言うて来よ」と宣へば、蔵人走り帰り、かしこまつて、「これは大将殿の申せと候ふ」とて、
♪38
ものかはと 君が言ひけん 鳥の音の
今朝しもなどか 悲しかるらん
女房涙を押さへて、
♪39
待たばこそ ふけゆく鐘も つらからめ
あかぬ別れの 鳥の音ぞうき
蔵人走り帰つて、この由申したりければ、「さてこそ汝をば遣はしたれ」とて、大将大きに感ぜられけり。それよりしてこそ、物かはの蔵人とは召されけれ。
→【各章検討:物怪之沙汰】
都を福原へ遷されて後、平家の人々夢見も悪しう、常は心騒ぎのみして、変化の物ども多かりけり。
ある夜入道の臥し給ひたりける所に、一間に憚るほどの物の面出で来たつてのぞき奉る。入道ちつとも騒がず、ちやうど睨まへておはしければ、ただ消えに消え失せぬ。
岡の御所と申すは、新しう造られたりければ、しかるべき大木もなかりけるに、ある夜大木の倒るる音して、人ならば二三百人が声して、虚空にどつと笑ふ音しけり。いかさまこれは天狗の所為と言ふ沙汰にて、夜百人、昼五十人の番衆を揃へ、蟇目の番と名付けて、蟇目を射させられけるに、天狗のある方へ向かつて射た時は音もせず。またない方へ向いて射たる時は、どつと笑ひなどしけり。
またある朝入道相国帳台より出でて、妻戸を押し開き、坪の内を見給へば、死人の枯髑髏どもが、いくらといふ数を知らず、坪の内に満ち満ちて、寄り合ひ寄り退き、転び合ひ、転びのき、中なるは端へ転び出で、端なるは中へ転び入る。おびただしう、からめき合ひければ、入道相国、「人やある、人やある」と召されけれども、折節人も参らず。
かくして多くの髑髏ども一つに固まり合ひ、坪の内に憚るほどになつて、高さは十四五丈もあるらんとおぼゆるが、山のごとくになりにけり。かの一つの大頭に、生きたる人の眼のやうに、大の目どもが千万出で来て、入道相国をはたと睨まへて、またたきもせず。入道ちつとも騒がず、ちやうど睨まへて暫く立たれたりければ、かの大頭余りに強う睨まれ奉て、露霜などの日に当たつて消ゆるやうに、跡形もなくなりにけり。
その上入道相国、一の厩にたてて、朝夕ひまなくなで飼はれける馬の尾に、一夜のうちに鼠巣を食ひ子をぞ産んだりける。「これただごとにあらず、御占あるべし」とて神祇官にして七人の陰陽師に占はせらるれば、「重き御慎み」と占ひ申す。
この馬は、相模国の住人、大庭三郎景親が、東八箇国一の馬とて、入道大相国に参らせたりけるが、黒き馬の額白かりければ、名をば望月といはれけり。陰陽頭安倍泰親これを賜はつてげり。
昔も天智天皇の御時、寮の御馬の尾に、一夜のうちに鼠巣を食ひ、子を産みたりけるには、異国の凶賊蜂起したりとぞ、日本紀には見えたる。
また源中納言雅頼卿のもとに召し使はれける青侍が見たりける夢こそ恐ろしけれ。例えば大内の神祇官と思しき所に、束帯正しき上﨟達あまたおはして、議定のやうなる事のありしに、末座なる人の、平家の方人し給ひけると思しきを、その中より追つ立てらる。
かの青侍の夢の中に、「あれはいかなる上﨟にてましまし候ふやらん」と問ひ奉れば、「厳島の大明神」と答へ給ふ。その後座上にけだかげなる宿老のましましけるが、「この日頃平家のあづかりつる節刀をば、今は伊豆国の流人前右兵衛佐頼朝に賜ばんずるなり」と仰せける。その御そばになほ宿老のましましけるが、「その後は我が孫にも賜び候へ」と仰せらるると思しくて、これを次第に問ひ奉る。
「節刀を頼朝に賜ばうと仰せられつるは、八幡大菩薩、その後は我が孫にも賜び候へと仰せられつるは、春日大明神、かう申す老翁は武内の大明神」と答へ給ふとおぼしくて、夢さめぬ。
これを人に語るほどに、入道相国もれ聞いて、源大夫判官季貞をもつて雅頼卿のもとへ、「夢見の青侍急ぎこれへ賜び候へ。尋ぬべき事あり」と宣ひ遣はされたりければ、かの夢見たりける青侍やがて逐電してんげり。
その後雅頼卿、入道相国の亭におはして、「まつたくさる事候はず」と、陳じ申されたりければ、その後沙汰もなかりけり。
何より不思議なりし事には、清盛公いまだ安芸守たりし時、神陪のついでに霊夢をかうぶつて、厳島大明神よりうつつに賜はられたりし白銀の蛭巻したる小長刀、常の枕をはなたず立てられたりしが、ある夜俄かに失せにけるこそ不思議なれ。平家日頃は朝家の御固めにて、天下を守護せしかども、今は勅命にも背きぬれば、節刀をも召し返さるるにや、心細うぞ聞こえし。
中にも高野におはしける宰相入道成頼、この事どもを伝へ聞いて、「あははや平家の世はやうやう末になりぬるは。厳島の大明神の、平家の方人し給ひけるといふは、その謂はれあり。ただし沙羯羅竜王の第三の姫宮なれば、女神とこそ承れ。八幡大菩薩の『節刀を頼朝に賜ばう』と仰せられつるは理なり。春日大明神の『その後は我が孫にも賜び候へ』と仰せられけるこそ心得ね。ただしそれも平家滅び、源氏の世尽きなん後、大織冠の御末、執柄家の公達の天下の将軍になり給ふべきか」なんど宣ひける。
折節ある僧の来たりけるが申しけるは、「それ神明は、和光垂迹の方便、まちまちにましませば、ある時は俗体にも現じ、ある時はまた女神ともなり給ふ。まことに厳島の大明神は、三明六通の霊身にてましませば、俗体に現じ給はん事、かたかるべきにあらず」とぞ申しける。
うき世をいとひ、まことの道に入り給へば、ひとへに後世菩提の外は、世の営みあるまじき事なれども、善政を聞いては感じ、愁ひを聞いては歎く、これ皆人間のならひなり。
→【各章検討:早馬】
さるほどに、同じき九月二日、相模国の住人、大庭三郎景親、福原へ早馬をもつて申しけるは、「去んぬる八月十七日、伊豆国の流人前兵衛佐頼朝、舅北条四郎時政を遣はして、伊豆国の目代、和泉判官兼隆を、やまきが館にて夜討ちに討ち候ひぬ。その後土肥、土屋、岡崎を始めとして三百余騎、石橋山に立て籠つて候ふ所に、景親御方に心ざしを存ずる者ども一千余騎を引率して、押し寄せて攻め候ひしほどに、兵衛佐わづかに七八騎に討ちなされ、大童に戦ひなつて、土肥の椙山へ逃げ籠り候ひぬ。
畠山五百余騎で味方をつかまつる。三浦大介が子ども、三百余騎で源氏方をして、由井小壺の浦で攻め戦ふ。畠山戦に負けて武蔵国へ引き退く。その後畠山が一族、川越、稲毛、小山田、江戸、葛西、惣じて七党の兵ども、悉くおこりあひ、都合その勢二千余騎、三浦衣笠の城に押し寄せて、一日一夜攻め候ひしほどに、大介討たれ候ひぬ。子どもは皆九里浜の浦より舟にに乗つて、安房上総へ渡りぬ」とこそ、人申しけれ。
平家の人々、都遷りの事も、はや興冷めぬ。若き公卿殿上人は、「さらばとくして、事の出で来よかし。我先に討手に向かはう」など言ふぞはかなき。畠山庄司重能、小山田の別当有重、宇都宮左衛門朝綱、これらは大番役にて、折節在京したりけるが、畠山庄司重能申しけるは、「親しうなつて候ふなれば、北条は知り候はず。自余の輩は、世も朝敵の方人はつかまつり候はじ。ただ今聞こし召し直さんずるものを」と申しければ、「げにも」と言ふ人もあり、「いやいやただ今御大事に及びなんず」と囁く人ともありけるとかや。
入道相国いかられける様なのめならず、「就中かの頼朝は、去んぬる平治元年十二月、父義朝が謀叛によつて、すでに誅せらるべかりしが、池の禅尼あながちに歎き宣ひしかば、流罪に宥められたり。然るにその恩を忘れて、外人もなき所に、当家に向かつて弓を引き、矢を放つにこそあんなれ。その儀ならば、神明三宝もいかでか許し給ふべき。ただ今天の責めかうぶらんずる頼朝なり」とぞ宣ひける。
→【各章検討:朝敵揃】
それ我が朝に朝敵の始めを尋ぬるに、昔、神武帝の御宇四年、紀州名草の郡高雄の村に、一つの蜘蛛あり。身短く手足長うして、力人に勝れたり。人民多く損害せしかば、官軍発向して、宣旨を読みかけ、蔓の網を結んで、遂にこれを覆ひ殺す。
それよりこの方、野心を挿んで朝威を滅ぼさんとする輩、大石山丸、大山王子、山田石河、守屋大臣、蘇我入鹿、大友真取、文屋宮田、橘逸成、氷上川継、伊予親王、大宰少弐藤原博嗣、恵美押勝、早良太子、井上皇后、藤原仲成、平将門、藤原純友、安倍貞任宗任、前対馬守源義親、悪左府、悪衛門督に至るまで、その例すでに二十余人、されども一人として素懐を遂ぐる者なし。皆かばねを山野にさらし、頭を獄門に懸けらる。
この世こそ王位もむげに軽けれ。昔は宣旨を向かつて読みければ、枯れたる草木も忽ちに花開き実なり、飛ぶ鳥も従ひき。近き頃の事ぞかし。
延喜の帝、神泉苑へ行幸なつて、池の汀に鷺のゐたりけるを、六位を召して、「あの鷺取つて参れ」と仰せければ、いかでか捕らんとは思ひけれども、綸言なれば歩み向かふ。鷺、羽づくろひして立たんとす。「宣旨ぞ」と仰すれば、ひらんで飛び去らず。
これを取つて参りたりければ、「汝が宣旨に随つて参りたるこそ神妙なれ。やがて五位になせ」とて、鷺を五位にぞなされける。「今日より後は鷺の中の王たるべし」といふ札をあそばいて、首につけてぞ放たせ給ふ。全くこれは鷺の御料にはあらず、ただ王威のほどを知ろしめさんがためなり。
→【各章検討:咸陽宮】
また異国に先蹤をとぶらふに、燕の太子丹、秦の始皇帝に囚はれ奉て、戒めをかうぶる事十二年、燕丹涙を流して、「我故郷に老母あり。暇を給はつて、いま一度かれを見ん」とぞ歎きける。始皇帝嘲つて、「汝に暇賜ばん事は、馬に角生ひ、烏の頭の白うならんを待つべし」とこそ宣ひけれ。燕丹天に仰ぎ地に臥して、「願はくは馬に角生ひ、烏の頭を白くなしたべ。故郷に帰つて今一度母を見ん」とぞ祈りける。
かの妙音菩薩は、霊山浄土に詣して、不孝の輩を戒め、孔子、顔回は、支那震旦に出でて、忠孝の道を始め給ふ。冥顕の三宝、孝行の心ざしを憐れみ給ふ事なれば、馬に角生ひて宮中に来たり、烏の頭白くなつて、庭前の木に住みけり。始皇帝、烏頭馬角の変に驚き、綸言返らざる事を深く信じて、太子丹を宥めつつ、本国へこそ帰されけれ。
始皇なほ悔しみ給ひて、秦国と燕の境に楚国といふ国あり。大きなる川流れたり。かの川に渡せる橋をば楚国の橋といへり。始皇官軍を遣はして、燕丹が渡らん時、川中の橋を踏まば、落つるやうに認めて、太子丹を渡らせけるほどに、なじかはよかるべき、川中より落ち入りぬ。されどもちつとも水にも溺れず、平地をゆくがごとくにて、向かへの岸に渡り着く。こはいかにと思ひて、後ろを顧みたりければ、亀どもがいくらといふ数も知らず、水の上に浮かれ来て、甲を並べてぞ歩ませたりける。これも孝行の心ざしを、冥顕の憐れみ給ふによつてなり。
燕丹恨みを含みて、始皇帝に従はず。始皇官軍を遣はして、燕丹を滅ぼさるべしと聞こえしかば、燕丹大きに恐れをののき、荊軻といふ強者を語らつて大臣になす。荊軻また田光先生といふ強者を語らふ。先生申しけるは、「君は若く壮んなつし事を知ろしめしてかやうには頼み仰せらるるか。麒麟は千里を飛ぶといへども、老いぬれば駑馬にも劣れり。この身は年老いて、いかにもかなひ候ふまじ。詮ずる所、強者をこそ語らつて参らせめ」とて、すでに出でんとしければ、荊軻、「あなかしこ、この事人に披露すな」と言ひければ、「人に疑はれぬるに過ぎたる恥こそなけれ。この事洩れぬるものならば、まづ我の疑はれなんず」とて、荊軻が門前なる李の木に頭を突き当て、打ち砕きてぞ死ににける。
また樊於期といふ強者あり。これは秦国の者なりしが、始皇のために、親、伯叔、兄弟を滅ぼされて、燕国に逃げ籠る。秦皇四海に宣旨を下し、「樊於期が頭を進ませたらん者には、五百斤の金を与へん」と披露せらる。荊軻、樊於期がもとに行きて、「我聞く、汝が頭五百斤の金に報ぜられたんなり。汝が頭我に貸せ。取つて始皇帝に奉らん。喜んで叡覧を得られん時、剣を抜き胸を刺さんはやすかりなん」と言ひければ、樊於期、天に仰ぎ躍り上がり、大息ついて申しけるは、「我、始皇帝のために父、伯叔、兄弟を滅ぼされて、夜昼これを思ふに、骨髄に徹つて忍び難し。げにも始皇帝討つべからんにおいては、我が頭与へんこと、塵芥よりなほやすかりなん」とて、自ら頭を切つてぞ死ににける。
また秦舞陽といふ強者あり。これも秦国の者なりしが、十三の歳敵を討つて、燕国へ逃げ籠れり。彼が笑んで向かふ時は、みどり児も抱かれ、怒つて向かふ時は、大の男も絶入す。
彼を秦の都の案内者に語ろうて具してゆくに、ある片山の辺に宿したりける夜、その辺近き里に管弦をするを聞いて、調子をもつて本意の事を占ふに、敵の方は水なり、我が方は火なり。さるほどに、天も明けぬ。白虹日を貫いて通らず。「我が本意遂げん事有り難し」とぞ申しける。さりながら帰るべき道にあらねば、秦の都咸陽宮に至りぬ。
燕の指図ならびに樊於期が頭持つて参りたる由を奏聞す。臣下をもつて受け取らんとするに、「全く人伝てには参らせじ。直にこそ参らせめ」と言ひければ、さらばとて節会の儀を調へて、燕の使を召されけり。
咸陽宮は、都のめぐり一万八千三百八十里に積もれり。内裏をば地より三里高く築き上げて、その上にぞ建てたりける。長生殿あり、不老門あり。黄金をもつて日を作り、白銀をもつて月を作れり。真珠の砂、瑠璃の砂、黄金の砂を敷き満てり。四方には、高さ四十丈に鉄の築地を築き、殿の上にも同じう鉄の網をぞ張つたりける。これは冥途の使を入れじとなり。秋は田の面の雁、春は越路へ帰るにも、飛行自在の障りあれば、築地には雁門と名付けて、鉄の門を開けてぞ通しける。
その中に阿房殿とて、始皇の常は行幸なつて政道行はせ給ふ殿あり。高さは三十六丈、東西へ九町、南北へ五町、大床の下は五丈の幢を立てたるがなほ及ばぬほどなり。上は瑠璃の瓦をもつて葺き、下には金銀にて磨けり。
荊軻は燕の指図を持ち、秦舞陽は樊於期が頭を持つて、玉の階を登り上がる。あまりに内裏のおびたたしきを見て、秦舞陽わなわなと震ひければ、臣下怪しみて、「舞陽謀叛の心あり。刑人をば君の傍らに置かず。君子は刑人に近付かず。近づくはすなはち死を軽んずる道なり」と言へり。荊軻立ち返つて、「舞陽全く謀叛の心なし。ただ田舎の陋しきにのみならつて、皇居に馴れざるが故に心迷惑す」と言へり。その時臣下皆静まりぬ。
よつて王に近づき奉て、燕の指図並びに樊於期が頭を見参に入るる所に、指図の入りたる櫃の底に、氷のやうなる剣のありけるを、始皇帝御覧じて、やがて逃げんとし給ふ。荊軻王の御袖をむずと引かへ奉り、剣を胸にぞ差し当てたり。今はかうとぞ見えたりける。数万の軍兵、庭上に袖を連ぬといへども、救はんとするに力なし。ただこの君逆臣に犯され給はん事をのみ歎き悲しみ合へりけり。
始皇帝宣はく、「我に暫時の暇を得させよ。最愛の后の琴の音を、今一度聞かん」と宣へば、荊軻しばし犯し奉らず。始皇帝は三千人の后を持ち給へり。その中に花陽夫人とて、勝れたる琴の上手おはしき。およそこの后の琴の音を聞いては、猛きもののふの怒れる心も和らぎ、飛ぶ鳥も落ち、草木も揺るぐばかりなり。況んや今を限りの叡聞に備へんと、泣く泣く弾き給ひけん、さこそはおもしろかりけめ。荊軻首をうなだれ、耳を側てて、ほとんど謀臣の心もたゆみにけり。
后はじめてさらに一曲を奏す。
♪40
七尺の屏風は高くとも 躍らばなどか越えざらん
一条の羅綾は強くとも 曳かばなどか絶えざらん
とぞ弾き給ふ。
荊軻はこれを聞き知らず。始皇帝は聞き知つて、御袖をひつ切り、七尺の屏風を飛び越えて、銅の柱の陰へ逃げ隠れさせ給ひけり。荊軻怒つて、剣を投げかけ奉る。折節御前に番の医師の候ひけるが、薬の袋を投げ合はせたり。剣、薬の袋をかけられながら、口六尺の銅の柱を、半らまでこそ切つたりけれ。荊軻また剣も持たざれば、続いても投げず。王立ち帰つて、我が剣を召し寄せて、荊軻を八つ裂きにこそし給ひけれ。秦舞陽も討たれぬ。始皇やがて官軍を遣はして、燕丹を滅ぼさる。
蒼天許し給はねば、白虹日を貫いて通らず。秦の始皇は逃れて、燕丹遂に滅びにけり。「されば今の頼朝も、さこそはあらんずらめ」と、色代申す人々もありけるとかや。
→【各章検討:文覚荒行】
然るにかの頼朝は、去んぬる平治元年十二月、父義朝が謀叛によつてすでに誅せらるべかりしが、生年十四歳と申しし永暦元年三月二十日、伊豆の北条蛭が小島へ流されて、二十余年の春秋を送り迎ふ。そもそも兵衛佐頼朝、年来もあればこそありけめ、今年いかなる心にて謀叛をば起こされけるぞといふに、高雄の文覚上人の申し勧められけるによつてなり。
かの文覚と申すは、渡辺の遠藤左近将監茂遠が子に、遠藤盛遠とて、上西門院の衆なり。十九の年、道心おこし出家して、修行に出でんとしけるが、「修行といふはいかほどの大事ぞ、試いてみん」とて、六月の日の草も動がず照つたるに、片山の藪の中へ這入り、仰のけに伏し、虻ぞ、蚊ぞ、蜂蟻なんどいふ毒虫どもが、身にひしと取つ付きて、刺し食ひなどしけれども、ちつとも身を働かさず。七日までは起き上がらず、八日といふに起き上がつて、「修行といふはこれほどの大事か」と人に問へば、「それほどならんには、いかでか命も生くべき」といふ間、「さては安平ごさんなれ」とて、やがて修行にこそ出でにけれ。
熊野へ参り、那智籠りせんとしけるが、まづ行の試みに、聞こゆる滝にしばらく打たれんとて、滝本へこそ参りけれ。
頃は十二月十日余りの事なれば、雪降り積もり、氷柱凍て、谷の小川も音もせず。峰の嵐吹き凍り、滝の白糸垂氷となり、皆白妙におしなべて、四方の梢も見え分かず。然るに文覚滝壺に下りひたり、頚際つかつて、慈救の呪を満てけるが、二三日こそありけれ、四五日にもなりしかば、こらへずして浮かび上がりけり。数千丈みなぎり落つる滝なれば、なじかはたまるべき、ざつと押し落とされ、刀の刃のごとくに、さしも厳しき岩角の中を、浮きぬ沈みぬ、五六町こそ流れけれ。
時にうつくしげに鬢結うたる童子一人来たつて、文覚が左右の手をとり引き上げ給ふ。人奇特の思ひをなして、火を焚きあぶりなんどしければ、定業ならぬ命ではあり、文覚ほどなく生き出でぬ。
少し人心地出で来、大の眼を見いからかし、「我この滝に三七日打たれて、慈救の三落叉を満てうと思ふ大願あり。今日はわづか五日になる。いまだ七日だにも過ぎぬに、我をばここへ何者が取つて来たるぞ」と言ひければ、皆人身の毛よだつてもの言はず。また滝壺に帰りたつてぞ打たれける。
第二日と申すに、八人の童子来たつて、文覚が左右の手をとつて、引き上げんとし給ふに、散々につかみ合うて上がらず。
第三日と申すに、はかなくなりぬ。滝壺を穢さじとや、鬢結うたる天童、滝の上より降り下り、世に暖かに香ばしき御手をもつて、文覚が頂上より始めて、手足のつま先、掌に至るまで撫で下し給ふとおぼえて、文覚夢の心地して息出でぬ。
少し人心地出で来て、「いかなる人にてましませば、かくは憐れみ給ふらん」と問ひ奉る。
「我はこれ大聖不動明王の御使に、矜羯羅、制多迦といふ二童子なり。文覚無常の願を興し、勇猛の行を企つ。行いて力を合はせよと、明王の勅によつて来たれるなり」と答へ給ふ。
文覚声をいからして、「さて明王はいづくにましますぞ。」
「兜率天に」と答へて、雲居遥かに上がり給ひぬ。
文覚、「さればこそ、我が行をば大聖不動明王までも知ろしめされてありけり」と、掌を合はせてこれを拝し奉る。また滝壺に帰り立つてぞ打たれける。
その後はまことにめでたき瑞相どもありければ、吹き来る風も身にしまず、落ち来る水も湯のごとし。かくて三七日の大願終に遂げにけり。
那智に千日籠もりけり。大峯三度、葛城二度、高野、粉川、金峯山、白山、立山、富士の岳、伊豆、箱根、信濃戸隠、出羽羽黒、惣じて日本国残る所なく行ひまはり、さすがなほ故郷や恋しかりけん、都へ帰り上りたりければ、およそ飛ぶ鳥をも祈り落とすほどの、やいばの験者とぞ聞こえける。
→【各章検討:勧進帳】
その後文覚は、高雄といふ山の奥に行ひすましてぞゐたりける。
かの高雄に神護寺といふ山寺あり。昔称徳天皇の御時、和気清麻呂が建てたりし伽藍なり。久しく修造なかりしかば、春は霞にたち込めて、秋は霧にまじはり、扉は風に倒れて、落葉の下に朽ち、甍は雨露に侵されて、仏壇さらに露はなり。住持の僧もなければ、まれにさし入るものとては、ただ月日の光ばかりなり。
文覚これをいかにもして修造せんと思ふ大願を発し、勧進帳を捧げて、十方檀那を勧め歩きけるほどに、ある時院の御所法住寺殿へぞ参りける。御奉加あるべき由奏聞す。
御遊の折節にて、聞こし召しも入れざりければ、文覚はもとより不敵第一の荒聖ではあり、御前の骨ない様をば知らず、ただ人が申し入れぬぞと心得て、是非なく御坪の内に破り入り、大音声を揚げて、「大慈大悲の君にてまします。これほどの事などか聞こし召し入れざるべき」と勧進帳をひき広げ、高らかにこそ読うだりけれ。
沙弥文覚敬つて曰す。殊には貴賤道俗の助成を蒙つて、高雄山の霊地に一院を建立し、二世安楽の大利を勤行せんと請ふ勧進の状。
夫れ以みれば、真如広大なり。生仏の仮名を立つと雖も、法性随妄の雲厚く覆つて、十二因縁の峰にたなびいしより以来、本有心蓮の月の光幽かにして、未だ三徳四曼の大虚に顕れず。悲しきかな、仏日早く没して、生死流転の衢冥々たり。ただ色に耽り、酒に耽る。誰か狂象跳猿の迷ひを謝せん。徒らに人を謗じ、法を謗ず。是れ豈に閻羅獄卒の責めを免れんや。爰に文覚、適々俗塵を擺つて、法衣を飾ると雖も、悪行猶心に逞しうして、日夜に作り、善苗又耳に逆つて朝暮に廃る。痛ましいかな、再び三途の火坑に帰つて長く四生の苦輪を廻らん事を。是の故に牟尼の憲章千万軸、軸軸に仏種の因を明かす。随縁至誠の法、一つとして菩提の彼岸に到らずと云ふこと無し。
故に文覚、無常の観門に涙を落とし、上下の真俗を勧めて、上品蓮台に縁を結び、等妙覚王の霊場を建てんとなり。それ高雄は山堆うして鷲峯山の梢を表し、谷閑かにして商山洞の苔を鋪けり。岩泉咽んで布を引き、嶺猿叫んで枝に遊ぶ。人里遠うして囂塵なし。咫尺好うして信心のみあり。地形勝れたり。尤も仏天を崇むべし。奉加少しきなり、誰か助成せざらん。風に聞く。聚沙為仏塔の功徳忽ちに仏因を感ず。況んや一紙半銭の宝財に於てをや。願はくは建立成就して、金闕鳳暦御願円満、乃至都鄙遠近吏民緇疎、堯舜無為の化を歌ひ、椿葉再改の咲みを披かん。殊には又聖霊幽儀前後大小、速やかに一仏真門の台に至り、必ず三身万徳の月を翫ばん。仍つて勧進修行の趣、蓋し上て此くのごとし。
治承三年三月日 文覚
とこそ読み上げたれ。
→【各章検討:文覚被流】
折節御前には、妙音院の太政大臣殿、御琵琶かき鳴らし朗詠めでたうせさせおはします。按察大納言資賢卿、拍子取つて風俗、催馬楽歌はれけり。右馬頭資時、四位の侍従盛定和琴かき鳴らし、今様とりどりに歌はれけり。玉の簾、錦の帳の中までもざざめき渡つて、まことに面白かりければ、法皇も付歌せさせおはします。
それに文覚が大音声出で来て、調子も違ひ、拍子も皆乱れにけり。「何者ぞ。狼藉なり。そ首突け」と仰せ下さるるほどこそありけれ、院中のはやり男の者ども、進みける中に、資行判官といふ者進み出でて、「なんでう仔細を申すぞ。勅諚であるぞ。まかり出でよ」と言ひければ、「高雄の神護寺に庄を一所寄せられざらんほどは全く出づまじ」とて動かず。よつてそ首を突かうどしければ、勧進帳を取り直し、資行判官が烏帽子をはたと打つて打ち落とし、拳を握り、胸をばくと突いて、のつけに突き倒す。
資行判官は烏帽子打ち落とされて、おめおめと大床の上へ逃げ上がる。その後文覚、懐より馬の尾で柄巻いたる刀の、氷なんどのやうなるを抜き持つて、寄り来る者を突かうどこそ待ちかけたれ。左の手には勧進帳、右の手には刀を持つたりけるが、思ひもまうけぬ俄か事ではあり、左右の手に刀を持ちたるやうにぞ見えたりける。
公卿、殿上人も、「こはいかに、こはいかに」とあきれ給へれば、御遊もすでに荒れにけり。院中の騒動、なのめならず。
ここに信濃国の住人、安藤武者右宗、その時はいまだ当職にてありけるが、「何事ぞ」とて太刀を抜いて走り出でたり。文覚喜んでかかる。安藤武者、切つては悪しかりなんとや思ひけん、太刀のみねを取り直し、文覚が刀持つたる右のかひなをしたたかに打つ。打たれてちとひるむ所に、太刀を捨てて、「えたりや、おう」とぞ組んだりける。組まれながら文覚、安藤武者が右のかひなを突く。突かれしめたりけり。
互ひに劣らぬ大力ではあり、上になり下になり、転び合ひけるを、上下寄つて、かしこ顔に、文覚がはたらく所のぢやうを拷してげんり。
その後門外へ引き出だして、庁の下部に賜ぶ。賜はつて、ひつぱられて立ちながら、御所の方を睨まへ、大音声を揚げて、「奉加をこそし給はざらめ、あまつさへ文覚にこれほどまで辛き目を見せ給ひつれば、思ひ知らせ申さんずるものを。三界は皆火宅なり。王宮といへども、その難をば逃るべからず。たとひ十善の帝位に誇り給ふとも、黄泉の旅に出でなん後は、牛頭馬頭の責めをば免れ給はじものを」と、躍り上がり躍り上がりぞ申しける。
「この法師奇怪なり。禁獄せよ」とて禁獄せらる。資行判官は烏帽子打ち落とされて恥がましさに、しばしは出仕もせざりけり。安藤武者は文覚組んだる勧賞に、当座に一﨟を経ずして、右馬允にぞなされける。
その頃美福門院隠れさせ給ひて、大赦行はるる事あつて、文覚ほどなく赦されけり。
しばらくはいづくにても行ふべかりしが、また勧進帳を捧げて、十方檀那を勧めありきけるが、さらばただもなくして、「あつぱれこの世の中は、ただ今乱れて、君も臣もともに滅び失せんずるものを」など、かやうに恐ろしき事をのみ申し歩く間、「この法師都に置いてはかなふまじ。遠流せよ」とて、伊豆国へぞ流されける。
源三位入道の嫡子伊豆守仲綱、その時はいまだ当職にておはしけるが、その沙汰として、東海道より船にて下さるべしとて、伊豆国へ将てまかるに、放免両三人をぞ付けられける。
これらが言ひけるは、「庁の下部のならひ、かやうの事に付けてこそ、おのづからの依怙も候へ。いかに聖の御房、知人は持ち給はぬか。これほどの事に逢うて、遠国へ流され給ふに、土産粮料ごときのものをも乞ひ給へかし」と言ひければ、文覚笑つて、「法師は、さやうの要事をいふべき得意を持たず。ただし東山の辺に得意はある。いでさらば文をやらう」と言ひければ、怪しかる紙を尋ねて得させたり。
文覚大きに怒つて、「かやうの紙に物書くやうなし」とて投げ返す。さらばとて、厚紙を尋ねて得させたり。
文覚笑つて、「法師は物をえ書かぬぞ。さればおのれら書け」とて書かするやう、「文覚こそ、高雄の神護寺造立供養の志あつて勧めありき候ふほどに、所願をこそ成就せざらめ、あまつさへ遠流せられて、伊豆国へ流され候ふ。遠路の間で候へば、土産粮料ごときの物も大切に候ふ。この使に賜べ」と言ひければ、言ふやうに書いて、「さてたれ殿へと書き候はうぞ。」「清水の観音房へと書け。」「これは庁の下部をあざむくにこそ」といひければ、「さりとては、文覚は観音をこそ深く頼み奉つたれ。さらでは誰にかは用事をも言ふべき」とぞ申しける。
さるほどに伊勢国阿濃の津より舟にて下りけるが、遠江国天竜灘にて、俄かに大風吹き大波立ち、すでにこの舟をうち返さんとす。水手梶取ども、いかにもして助からんとしけれども、かなふべしとも見えざりければ、或いは観音の名号を唱へ、或いは最後の十念に及ぶ。されども文覚はちつとも騒がず、船底に高鼾かいてぞ臥したりけるが、すでにかうと見えし時、かつぱと起き、舟の舳に立つて、沖の方を睨まへ、大音声を揚げて、「竜王やある、竜王やある」とぞ呼うだりける。
「何とてかやうに大願興したる聖が乗つたる舟をば、あやまたうとはするぞ。ただ今天の責めかうぶらんずる竜神どもかな」とぞ申しける。
その故にや、波風ほどなく静まつて、伊豆国にぞ着きにける。文覚京を出でける日よりして、心の中に祈誓する事ありけり。「我都に帰りて、高雄の神護寺造立供養すべくは、死ぬべからず。その願むなしかるべくは、道にて我死ぬべし」とて、京より伊豆へ着きけるまで、折節順風なかりければ、浦伝ひ島伝ひして、三十一日が間は、一向断食にてぞありける。されども気力少しも衰へずして、行ひうちしてぞゐたりける。まことにただ人ともおぼえぬ事ども多かりけり。
→【各章検討:福原院宣】
当国の住人、近藤四郎国高に仰せて、名古屋が奥にぞ住まひける。兵衛佐殿へも常は参つて、御物語ども申しけるとぞ聞こえし。
ある時文覚、兵衛佐殿へ申しけるは、「平家には小松の大臣殿こそ、果報もめでたく、心も剛に、はかりごとも勝れてましまししか。平家の運命の末になるやらん、去年の八月薨ぜられぬ。今は源平の中には、わ殿ほど将軍の相持つたる人はなし。早々謀叛起こいて、日本国随へ給へ」と言ひければ、
兵衛佐殿、「思ひも寄らぬ事を宣ふ聖の御房かな。我はこれ池の禅尼に助けられ奉たれば、その恩を報ぜんがために、毎日法華経一部転読するよりほかは他事なし」とぞ宣へば、
文覚重ねて、「『天の与ふるを取らざれば却つてその咎を受く、時至つて行はざれば却つてその殃を受く』といふ本文あり。かやうに申せば、御辺の心をもかなびかんとて、申すとや思し召され候ふらん。その儀では候はず。御辺のために、志の深い様を見給へ」とて、懐より白い布に包んだる髑髏を一つ取り出だす。
兵衛佐殿、「あれはいかに」と宣へば、「これこそ御辺の父、故左馬頭殿の頭よ。平治の後、獄舎の前なる苔の下に埋もれて、後世弔ふ人もなかりしを、文覚存ずる旨あつて、獄守に請ひ、首にかけ、山々寺々修行して、この十余年が間弔ひ奉たれば、今は定めて一劫も浮かび給ひぬらん。されば故頭殿の御ためにも、奉公の者で候ふぞかし」と申されければ、兵衛佐殿、一定とはおぼえねども、父の頭と聞くなつかしさに、まづ涙をぞ流されける。
兵衛佐殿宣ひけるは、「そもそも頼朝勅勘を赦りずして、いかでか謀叛をば起こすべき」と宣へば、文覚、「それ安いほどの事なり。やがて上つて申しゆるし奉らん。」兵衛佐殿笑つて、「我が身も勅勘の身でありながら、人の事申さうど宣ふ聖の御房のあてがひ様こそ大きにまことしからね」と宣へば、
文覚大きに怒つて、「我が身の咎をゆりうど申さばこそ僻事ならめ、わ殿の事申さうは、なじかは僻事ならん。今の都福原の新都へ上るに、三日に過ぎまじ。院宣伺ふに、一日の逗留ぞあらんずらん。都合七日八日には過ぎまじ」とて、つき出でぬ。
名古屋に帰つて、弟子どもには、人に忍んで、伊豆の御山に七日参籠の志ありとてつき出でぬ。げにも三日といふに、福原の新都に上り着いて、前右兵衛督光能卿のもとに、いささかゆかりありければ、それに尋ね行きて、「『伊豆国の流人、前右兵衛佐頼朝こそ勅勘を赦され院宣を賜はらば、八箇国の家人ども催し集めて、平家を滅ぼし、天下をしづめん』と申し候へ。」
光能卿、「不知とよ、我が身も当時は三官ともにとどめられて、心苦しき折節なり。法皇も押し籠められて渡らせ給へば、いかがあらんずらん。さりながら伺うてこそ見め」とて、この由ひそかに奏聞せられたりければ、法皇大きに御感あつて、やがて院宣をぞ下されける。文覚喜んで首にかけ、また三日といふには、伊豆国へ下り着く。
兵衛佐殿はこの聖の御房のなまじひなる事申し出でて、頼朝またいかなる憂き目にあはんずらんと、思はじ事なう、案じ続けておはしける所に、八日といふ午の刻ばかりに下り着き、「院宣よ」とて奉る。
兵衛佐殿、院宣と聞くかたじけなさに、俄かに新しき烏帽子、浄衣着、手水うがひをして、院宣を三度拝して披かれけり。
頃の年より以降、平氏王化を蔑如して、政道に憚る事無し。仏法を破滅して、王法を乱らんとす。夫れ我が国は神国なり。宗庿相並んで神徳惟新たなり。故に朝廷開基の後、数千余歳の間、帝猷を傾け、国家を危めんとする者、皆以て敗北せずといふこと無し。然らば則ち、且つうは勅宣の旨趣に守つて、早く平氏の一類を誅して、朝家の怨敵を退け、譜代弓箭の兵略を継ぎ、累祖奉公の忠勤を抽んで、身を立て家を興すべし。者ば院宣此くのごとし。仍つて執達件のごとし。
治承四年七月十四日 前右兵衛督光能卿奉
謹上前右兵衛佐殿へ
とぞ書かれたる。この院宣をば錦の袋に入れて、石橋山の合戦の時も、首にかけられけるとぞ聞こえし。
→【各章検討:富士川】
さるほどに、福原には公卿詮議あつて、今一日も勢の着かぬ先に、急ぎ討手を下さるべしとて、大将軍には、小松権亮少将維盛、副将軍には薩摩守忠度、侍大将には上総守忠清を先として、都合その勢三万余騎、九月十八日に新都を立つて、十九日には旧都に着き、明くる二十日、東国へこそ打つ立たれけれ。
大将軍小松権亮少将維盛は、生年二十三、容儀帯佩絵に書くとも、筆も及び難し。重代の着背長、唐皮といふ鎧をば、唐櫃に入れて舁かせらる。
路中は、赤地の錦の直垂に、萌黄匂の鎧着て、連銭葦毛なる馬に、金覆輪の鞍を置き、乗り給へり。副将軍薩摩守忠度は、紺地の錦の直垂に、黒糸縅の鎧着て、黒き馬の太う逞しきに、鋳掛地の鞍を置いて乗り給へり。馬、鞍、鎧、甲、弓、矢、太刀、刀に至るまで、照り輝くほどに出で立たりしかば、目出かりし見物なり。
副将軍薩摩守忠度は、年来ある宮腹の女房のもとへ通はれけるが、ある時おはしたりける夜、この女房の局に、やんごとなき女房客人来たつて、小夜も遥かにふけゆくまで帰り給はず。忠度軒端にやすらひ、扇をあらく使はれければ、この女房、「野もせにすだく虫の音よ」と、優に口ずさみ給へば、忠度扇を使ひやみてぞ帰られける。
その後おはしたる夜、「何とていつぞや扇をば使ひやみしぞや」と問はれければ、「いさ、かしましなんど聞こえ候ひしほどに、さてこそやがて使ひやみて候ひしか」とぞ申されける。
その後、この女房のもとより薩摩守のもとへ小袖を一重遺るとて、千里の名残の惜しさに、一首の歌をぞ送られける。
♪41
あづま路の 草ばを分けん 袖よりも
たたぬ袂の 露ぞこぼるる
薩摩守の返事に、
♪42
別れ路を 何かなげかん 越えてゆく
関も昔の あとと思へば
関も昔の跡と詠める事は、先祖平将軍貞盛、将門追討のために、東国へ下向したりし事を思ひ出でて詠みたりけるにや。いとやさしうぞ聞こえし。
昔は朝敵を平らげんとて、外土へ向かふ将軍は、まづ参内して節刀を賜はる。宸儀南殿に出御して、近衛階下に陣をひき、内弁外弁の公卿参列して、中儀の節会を行はる。大将軍副将軍、各礼儀を正しうして、これを賜はる。承平、天慶の蹤跡も年久しうなつて、なぞらへ難しとて、今度は讃岐守平正盛が、前対馬守源義親追討のために、出雲国へ下向せし例とて、鈴ばかり賜はつて、皮の袋に入れ、雑色が首に懸けさせてぞ下られける。
古朝敵を滅ぼさんとて、都を出づる将軍は、まづ三つの存知あり。節刀を賜はる日家を忘れ、家を出づる時妻子を忘れ、戦場にして敵に戦ふ時身を忘る。されば今の平氏の大将軍維盛、忠度も、定めてかやうの事をば存知せられたりけん。あはれなりし事どもなり。
各九重の都を立つて、千里の東海へ赴かれける。平らかにして帰り上らん事も、まことに危き有様どもにて、或いは野原の露に宿をかり、或いは高嶺の苔に旅寝をし、山を越え川を重ね、日数経れば、十月十六日には、駿河国清見が関にぞ着き給ふ。都をば三万余騎で出でたれども、路次の兵召し具して、七万余騎とぞ聞こえし。
前陣は蒲原、富士川に進み、後陣はいまだ手越、宇津の谷に支へたり。
大将軍権亮少将維盛、侍大将上総守忠清を召して、「維盛が存知には、足柄の山打ち越え、ひろみへ出でて勝負をせん」とはやられけれども、上総守申しけるは、「福原を御立ち候ひし時、入道殿の御諚には、戦をば忠清に任させ給へとこそ仰せられ候ひつれ。伊豆、駿河の勢の参るべきだにもいまだ見え候はず。味方の御勢は七万余騎とは申せども、国々の駆り武者、馬も人も皆責め伏せて候ふ。坂東には草も木も、兵衛佐に随ひつきて候ふなれば、何十万騎か候ふらん。ただ富士川を前に当てて、味方の御勢を待たせ給ふべうもや候ふらん」と申しければ、力及ばでゆらへたり。
さるほどに、兵衛佐頼朝鎌倉を立つて、足柄の山打ち越えて、駿河国黄瀬川にこそ着き給へ。甲斐、信濃の源氏ども、馳せ来たつて一つになる。浮島が原にて勢揃へあり。都合その勢二十万騎とぞ記しける。
常陸源氏佐竹太郎が雑色、主の使に文持ちて都の方へ上りけるを、平家の侍大将上総守忠清、この文を奪ひ取つて見るに、女房のもとへの文なり。苦しかるまじとて、取らせてんげり。
「当時鎌倉に源氏の御勢は、いかほどあるぞ」と問ひければ、「下﨟は四五百千までこそ、物の数をば知つて候へ。それより上をば知らぬ候ふ。四五百千より多いやらう、少ないやらうは知り候はず。八日九日の道にはたと続いて、野も山も海も川も、皆武者で候ふ。昨日黄瀬川で人の申し候ひつるは、源氏の御勢二十万騎とこそ申し候ひつれ」と申しければ、
上総守、「あな心うや。大将軍の御心ののびさせ給ひたるほど、口惜しかりける事はなし。いま一日も先に討手を下させ給ひたらば、大庭兄弟、畠山が一族、などか参らで候ふべき。彼等だに参り候はば、坂東には靡かぬ草木も候ふまじ」と後悔すれども甲斐ぞなき。
大将軍権亮少将維盛、坂東の案内者とて、長井斎藤別当実盛を召して、「やや実盛、汝ほどの射手、八箇国にはいかほどあるぞ」と問ひ給へば、
斎藤別当あざ笑つて、「さ候へば、君は実盛を大箭と思し召され候ふか。わづかに十三束をこそつかまつり候へ。坂東に大矢と申すぢやうの者の十五束におとつて引くは候はず。弓の強さも、したたかなる者の五六人してはり候ふ。かやうの精兵どもが射候へば、鎧の二三領はたやすうかけず射通し候ふ。大名と申すぢやうの者の、五百騎におとつたるは候はず。馬に乗つて落つる事を知らず、悪所を馳すれど馬を倒さず。戦はまた親も討たれよ、子も討たれよ、死ぬれば乗り越え乗り越え戦ふ候ふ。西国の戦と申すは、すべてその儀候はず。親討たれぬればひき退き、仏事孝養し、忌みあけて寄せ、子討たれぬれば、その思ひ歎きに寄せ候はず。
兵糧米尽きぬれば、春は田作り、秋は刈り収めて寄せ、夏は暑しと言ひて厭ひ、冬は寒しと嫌ひ候ふ。坂東の戦と申すは、総てその儀候はず。甲斐信濃の源氏ども、案内は知つたり、富士の裾より、からめ手にや参り候はんずらん。かやうに申せば、大将軍の御心を臆せさせ参らせんとて、申すとや思し召され候ふらん。その儀では候はず。ただし戦は勢にはより候はず。策によるとこそ申し伝へて候へ」と申しければ、これを聞く兵ども、皆震ひわななき合へり。
さるほどに、同じき十月二十四日の卯の刻に、富士川にて、源平の矢合せとぞ定めける。
同じき二十三日の夜に入つて、平家の兵ども、源氏の陣を見渡せば、伊豆、駿河の人民百姓らが、戦に恐れて、或いは野に入り山に隠れ、或いは船にとり乗つて、海川に浮かび、営みの火の見えけるを、平家の兵ども、「げにも野も山も海も川も皆武者でありけり。いかがせん」とぞ慌てける。
その夜の夜中ばかり、富士の沼にいくらもありける水鳥どもが、何にかは驚きたりけん、一度にぱつと立ちける羽音の雷、大風などのやうに聞こえければ、平家の兵ども、「あはや、源氏の大勢の向かうたるは。斎藤別当が申しつるやうに、富士の裾より、からめ手へも定めて回るらん。取り籠められてはかなふまじ。ここを落ちて、尾張川、洲俣を防げや」とて、取る物も取りあへず、我先に我先にとぞ落ち行きける。
あまりに慌て騒いで、弓取る者は矢を知らず、矢取る者は弓を知らず、我が馬には人に乗られ、人の馬には我乗り、或いはつないだる馬に乗つて馳すれば杭を廻る事限りなし。その辺近き宿々より、遊君遊君、遊女ども召し集め、遊び酒盛りけるが、或いは頭蹴割られ、或いは腰踏み折られて、をめき叫ぶ事おびたたし。
同じき二十四日の卯の刻に、源氏の勢二十万騎、富士川に押し寄せて、天も響き大地もゆるぐばかりに、鬨をぞ三箇度作りける。
→【各章検討:五節之沙汰】
(平家の方には音もせず)城のうちには音もせず。人を入れて見せければ、或いは敵の忘れたる鎧取つて参る者もあり、或いは敵の捨て置きたる大幕取つて参る者もあり。
「城のうちには蝿だにも翔り候はず」と申す。
兵衛佐、急ぎ馬より降り、甲を脱ぎ、手水うがひをして、王城の方を伏し拝み、「これはまつたく頼朝が私の高名にはあらず。八幡大菩薩の御ぱからひなり」とぞ宣ひける。やがて、討つ取る所なればとて、駿河国をば一条次郎忠頼、遠江国をば安田三郎義定に預けらる。平家をばやがて続いても攻むべかりけれども、さすが後ろもおぼつかなしとて、駿河国より引き返して、相模国へぞ帰られける。
海道宿々の遊君遊女ども、「あないまいまし。戦には見逃げといふ事だにもいまいましき事にするに、これは聞き逃げし給へり」とて笑ひけり。落書ども多かりけり。都の大将軍をば宗盛といひ、討手の大将をば権亮といふ間、平家をひらやと詠みなして、
♪43
ひらやなる 宗盛いかに 騒ぐらん
柱と頼む 亮を落として
♪44
富士川の 瀬々の岩こす 水よりも
早くも落つる 伊勢へいじかな
また、富士川に上総守忠清が鎧捨てたりけるを詠める、
♪45
富士川に 鎧は捨てつ 墨染めの
衣ただきよ 後の世のため
♪46
忠清は 逃げの馬にぞ 乗りてける
上総しりがひ かけてかひなし
同じき十一月八日、大将軍権亮少将維盛、福原へ帰り上り給ふ。入道相国大きに怒つて、「維盛をば鬼界が島へ流すべし。上総守をば死罪に行へ」とぞ怒られける。
これによつて同じき九日、平家の侍、老少数百人参会して、忠清が死罪の事、いかがあるべきと評定す。主馬判官盛国進み出でて、「この忠清を日頃不覚人とは存じ候はず。あれが十六の歳とおぼえ候ふ。鳥羽殿の宝蔵に、五畿内一の強党二人逃げ籠つたりしを、よつてからめうど申す者一人も候はざりしに、この忠清ただ一人、白昼に築地を越え、はね入り、一人をば討ち取り、一人をば召し取つて、名を後代に上げたる者で候ふぞかし。今度の事は、ただごとともおぼえ候はず。これにつけても、よくよく兵乱の御慎み候ふべし」とぞ申しける。
同じき十日、除目行はれて、権亮少将維盛、右近衛中将に上がり給ふ。今度坂東へ討手に向かうたる討手の大将といへども、させるし出だしたることもなし。「これは、されば何の勧賞ぞや」とぞ人々囁き合はれける。
昔、平将軍貞盛、俵藤太秀郷、将門を追討のために、東へ下向したりしかども、朝敵たやすう滅び難かりしかば、公卿詮議あつて、宇治民部忠文、清原滋藤軍監といふ官を賜はつて下るほどに、駿河国清見が関に宿したりける夜、かの滋藤、漫々たる海上を遠見して、「漁舟の火の影は寒うして波を焼き、駅路の鈴の声は夜山を過ぐ」といふ唐歌を、高らかに口ずさみ給へば、忠文優におぼえて、感涙をぞ流されける。
さるほどに、貞盛、秀郷、将門をばつひに討ち取つて、その頭をもたせて上るほどに、駿河国清見が関にて行き逢ひたり。それより先後の大将軍うちつれて上洛す。
貞盛、秀郷に勧賞行はれける時、忠文、滋藤も勧賞あるべきかと公卿詮議あり。
九条右丞相師輔公、「今度坂東へ討手向かうたりといへども、朝敵たやすう滅び難かりし所に、この人々勅諚を承つて、関の東へ赴く時、朝敵すでに滅びたり。されば忠文、滋藤にもなどか勧賞なかるべき」と申させ給へども、その時の執柄小野の宮殿、「疑はしきをばなすことなかれと、礼記文に候ふ」とて、終になさせ給はず。
忠文これを口惜しき事に思うて、「小野の宮殿の御末をば、やつこに見なさん、九条殿の御末をば、いづれの世までも守護神とならん」と誓ひつつ、干死ににこそは死ににけれ。されば九条殿の御末は、めでたう栄えさせ給へども、小野の宮殿の御末には、しかるべき人もましまさず、今は絶え果て給ひけるにこそ。
入道の四男、頭中将重衡、左近衛権中将になり給ふ。
十一月十三日、福原には内裏造り出されて、主上御遷幸ありけり。大嘗会行はるべかりしが、大嘗会は十月の末、東河に御幸して御禊あり。大内の北の野に、斎場所を造つて、神服、神具を調ふ。大極殿の前、龍尾道の壇下に廻立殿を建て、御湯を召す。
同じき壇の並びに、大嘗宮を造つて、神膳を備ふ。宸宴あり、御遊あり、大極殿にて大礼あり、清暑堂にて御神楽あり、豊楽院にて宴会あり。然るをこの福原の新都には、大極殿もなければ、大礼行はるべきやうもなし。清暑堂もなければ、御神楽奏すべき所もなし。豊楽院もなければ、宴会も行はれず。
今年はただ新嘗会、五節ばかりであるべき由、公卿詮議あつて、なほ新嘗祭をば、旧都の神祇官にしてぞ遂げられける。
五節はこれ、浄御原の当初、吉野宮にして、月白く嵐冽しかりし夜、御心をすましつつ、琴を弾き給ひしに、神女天降り、五度袖を翻す。これぞ五節の初めなる。
→【各章検討:都帰】
今度の都遷りをば、君も臣もなのめならず御歎きありけり。
山、奈良を始めて、諸寺諸社に至るまで、然るべからざる由訴へ申しければ、さしも横紙を破らるる太政入道も、「さらば都還りあるべし」とて、同じき十二月二日、にはかに都返りありけり。
新都は北は山々にそひて高く、南は海近うして下れり。波の音常はかまびすしく、潮風はげしき所なり。されば新院、いつとなく御悩のみしげかりければ、急ぎ福原を出でさせおはします。
中宮、一院、上皇も御幸なる。摂政殿をはじめ奉り、太政大臣以下の卿相雲客、我も我もと上らせ給ふ。平家太政入道を始め奉り、一門の人々みな上られけり。
憂かりつる新都に、誰か片時も残るべき、我先にと上らせ給ふ。両院、六波羅、池殿へ御幸なる。行幸は五条内裏とぞ聞こえし。
去んぬる六月より屋ども少々こぼち下し、形のごとく取り立てられたりしかども、今また物狂はしうにはかに上られければ、何の沙汰にも及ばず、打ち捨て打ち捨て上られけり。
各宿所もなくして、八幡、賀茂、嵯峨、太秦、西山、東山の片ほとりについて、或いは御堂の廻廊、或いは社の拝殿なんに立ち宿つてぞ、然るべき人々はましましける。
そもそも今度の都遷りの本意をいかにといふに、「旧都は山、奈良近くして、いささかの事にも日吉の神輿、春日の神木などいうてみだりがはし。新都は山隔たり、江重なつて、ほどもさすが遠ければ、さやうの事かるまじ」とて、入道相国はからひ出だされけるとかや。
同じき二十三日、近江源氏の背きしを攻めんとて、大将軍には左兵衛督知盛、薩摩守忠度、都合その勢二万余騎で近江国へ発向す。山本、柏木、錦古里などいふあぶれ源氏ども攻め落とし、それよりやがて美濃、尾張へぞこえられける。
→【各章検討:奈良炎上】
都にはまた、「一年、高倉宮園城寺へ入御の時、或いは宮受け取り参らせ、或いは御迎ひに参る条、これもつて朝敵なり。されば奈良をも攻めらるべし」と聞こえしかば、南都の大衆、おびただしく蜂起す。
摂政殿より、「存知の旨あらば、幾度も奏聞にこそ及ばめ」と仰せ下されけれども、一切用ゐ奉らず。
有官の別当忠成を下されたりけるを、大衆起こつて、「乗物よりとつて引き落とせ、髻切れ」とひしめきければ、忠成色を失つて逃げ上る。次に右衛門督親雅を御使に下されたりけるを、これも「髻切れ」とひしめきければ、取るものも取りあへず逃げ上る。
南都にはまた大きなる鞠丁の玉を作つて、これこそ平大相国の首と名付けて、「打て、踏め」なんどぞ申しける。「言葉の漏れやすきは、災ひを招く媒なり。言葉の慎まざるは、敗れを取る道なり」と言へり。かけまくもかたじけなく、この入道相国と申すは、当今の外祖にておはします。それをかやうに申しける南都の大衆、およそは天魔の所為とぞ見えたりける。
入道相国、南都の狼藉をかつがつ鎮めんとて、瀬尾太郎兼康を、大和国の検非所に補せらる。
「相構へて、衆徒は狼藉を致すとも、汝等は致すべからず。物の具なせそ、弓箭な帯せそ」とて遣はされたりけるを、南都の大衆、かやうの内議をば知らずして、兼康が余勢六十余人からめ取つて、一々に首を斬り、猿沢の池の端にぞ懸け置いたりける。
入道相国大きに怒つて、「さらば南都をも攻めよや」とて、大将軍には、頭中将重衡、中宮亮通盛、都合その勢四万余騎で南都へ発向す。南都にも老少嫌はず七千余人、甲の緒をしめ、奈良坂、般若寺、二箇所の路を掘り切つて、掻い楯かき、逆茂木ひいて待ちかけたり。
平家四万余騎を二手に分かつて、奈良坂、般若寺、二箇所の城郭に押し寄せて、鬨をどつとぞ作りける。大衆は徒歩立ち打ち物なり。官軍は馬にて駆けまはし駆けまはし、あそこに追つかけ、ここに追つつめ、散々に攻めければ、防く所の大衆、数を尽くいて討たれにけり。
卯の刻より矢合はせして、一日戦ひ暮らす。夜に入りて、奈良坂、般若寺、二箇所の城郭ともに破れぬ。
落ちゆく衆徒の中に、坂の四郎永覚といふ悪僧あり。力の強さも、弓矢を取つても、打ち物とつても、七大寺十五大寺にも勝れたり。萌黄縅の腹巻の上に、黒糸縅の鎧を重ねてぞ着たりける。帽子甲に五枚甲の緒をしめ、左右の手には、茅の葉のやうに反つたる白柄の大長刀、黒漆の大太刀持つままに、同宿十余人前後左右に立て、手掻の門より打つて出でたり。これぞしばらく支へたる。多くの官兵、馬の脚薙がれて、討たれにけり。
されども官軍は大勢、入れかへ入れかへ攻めければ、永覚が前後に防ぐ所の同宿十余人討たれぬ。永覚独りたけけれども、後ろあばらになりにければ、南をさして落ちぞゆく。
夜戦になつて、暗さは暗し、頭中将重衡卿、般若寺の門の前にうつ立つて、「火を出だせ」と宣へば、播磨国の住人、福井庄の下司、次郎大夫友方といふ者、楯を割り松明にして、在家に火をぞ掛けたりける。
頃は十二月二十八日の夜なりければ、折節風は烈しし、火元は一つなれども、吹き迷ふ風に、多くの伽藍に吹きかけたり。恥をも思ひ、名をも惜しむほどの者は、奈良坂にて討ち死にし、般若寺にして討たれにけり。行歩に叶へる者は、吉野十津川の方へ落ちぞゆく。歩み得ざる老僧や、尋常なる修学者、稚児ども、女童べは、もしや助かると、大仏殿、山階寺の中へ、我先にとぞ逃げ入りける。大仏殿の二階の上には、千余人昇り上がり、敵の続くを上せじとて、橋をば引きてんげり。猛火はまさしう押し懸けたり。をめき叫ぶ声、焦熱、大焦熱、無間阿鼻の焔の底の罪人も、これには過ぎじとぞ見えし。
興福寺は淡海公の御願、藤氏累代の寺なり。東金堂におはします仏法最初の釈迦の像、西金堂におはします自然湧出の観世音、瑠璃を並べし四面の廊、朱丹をまじへし二階の廊、九輪空に輝きし二基の塔、忽ちに煙となるこそ悲しけれ。
東大寺は常在不滅、実報寂光の生身の御仏となずらへて、聖武皇帝、手づから身づから磨きたて給ひし金銅十六丈の盧舎那仏、烏瑟高くあらはれて、半天の雲に隠れ、白毫新たに拝まれ給ひし満月の尊容も、御髪は焼け落ちて大地にあり、御身はわき合ひて山のごとし。八万四千の相好は、秋の月早く五重の雲に隠れ、四十一地の瓔珞は、夜の星むなしく十悪の風に漂ふ。煙は中天に満ち満ちて、焔は虚空に隙もなし。
まのあたり見奉る者はさらに眼をあてず、遥かに伝へ聞く人は肝魂を失へり。
法相三論の法門聖教、すべて一巻も残らず。我が朝はいふに及ばず、天竺、震旦にもこれほどの法滅あるべしともおぼえず。優填大王の紫磨金を磨き、毘首羯磨が赤栴檀を刻んじも、わづかに等身の御仏なり。況んやこれは南閻浮提の中には、唯一無双の御仏、長く朽損の期あるべしとも思はざりけるに、今毒煙の塵にまじはつて、久しく悲しみを残し給へり。
梵釈四王、龍神八部、冥官冥衆も、驚き騒ぎ給ふらんとぞ見えし。法相擁護の春日大明神、いかなる事をか思しけん。されば春日野の露も色変はり、三笠の山の嵐の音、恨むる様にぞ聞こえける。焔の中にて焼け死ぬる人衆を記いたりければ、大仏殿の二階の上には一千七百余人、山階寺には八百余人、ある御堂には五百余人、ある御堂には三百余人、つぶさに記いたりければ、三千五百余人なり。戦場にして討たるる大衆千余人、少々は般若寺の門に切りかけらる。少々は首どももつて都へ上り給ふ。
同じき二十九日、頭中将重衡、南都滅ぼして北京へ帰り入り給ふ。入道相国ばかりこそ、憤りはれて喜ばれけれ。中宮、一院、上皇、なのめならず御歎きあつて、「悪僧をこそ滅すとも、多くの伽藍を破滅すべしや」とぞ御歎きありける。
もとは衆徒の首、大路を渡して、獄門の木にかけらる由、公卿詮議ありしかども、東大寺、興福寺の滅びぬる事のあさましさに何の沙汰にも及ばず。ここやかしこの溝や、堀の中にぞ捨て置きける。
聖武皇帝宸筆の御記文には、「我が寺興福せば、天下も興福すべし。我が寺衰微せば、天下も衰微すべし」とぞ遊ばされたる。されば天下の衰微せん事、疑ひなしとぞ見えたりける。
あさましかりつる年も暮れて、治承も五年になりにけり。
→【概要:巻第六】
→【各章検討:新院崩御】
治承五年正月一日、内裏には、東国の兵革、南都の火災によつて、朝拝停められ、主上出御もなし。物の音も吹き鳴らさず、舞楽も奏せず。
二日、殿上の宴酔もなし。吉野の葛も参らず、藤氏の公卿一人も参ぜられず。氏寺焼失によつてなり。男女うちひそめて禁中いまいましうぞ見えし。仏法王法ともに尽きぬる事ぞあさましき。
法皇仰せなりけるは、「四代の帝王、思へば子なり、孫なり。いかなれば万機の政務を停められて、年月を送らん」とぞ御歎きありける。
同じき五日、南都の僧綱等闕官ぜられ、公請を停止し、所職を没収せらる。衆徒は老いたるも若きも、或いは射殺され、切り殺され、或いは煙の内を出でず、炎にむせんで多く滅びにしかば、わづかに残る輩は山林にまじはつて跡を留むる者一人もなし。
されでもその中に興福寺の別当花林院僧正永円は仏像経巻の煙とたちのぼらせ給ふを見参らせて、あなあさましと心をくだかれけるよりして、病ついて終に失せ給ひぬ。この僧正は優にやさしき人にておはしけり。ある時ほととぎすの鳴くを聞いて、
♪47
聞くたびに めづらしければ 不如帰
いつもは 常の心地こそすれ
といふ歌を詠うでこそ、初音の僧正とは言はれ給ひけれ。
但し形の様にても御斎会はあるべきものをとて、僧名の沙汰ありしに、南都の僧綱等は闕官ぜられぬ。北京の僧綱をもつて行はるべきかと公卿詮議ありしかども、さればとて、南都をも捨てはてさせ給ふべきならねば、三論宗の学生生宝已講が勧修寺に忍びつつ、隠れゐたりけるを、召し出だして御斎会、形の如く行はる。
上皇は一昨年、法皇の鳥羽殿に押し籠められて渡らせ給ひし御事、去年高倉宮のうたれさせ給ひし御有様、さしもたやすからぬ天下の大事、都遷りなど申す事に、御悩つかせ給ひて、御煩はしう聞こえさせ給ひしが、東大寺、興福寺の滅びぬる由聞こしめして、御悩いとど重らせおはします。法皇なのめならず御歎きありけり。
同じき正月十四日、六波羅池殿にして新院遂に崩御なりぬ。
御宇十二年、徳政線万端、詩書仁義の廃れたる道を興し、理世安楽の絶えたる跡を継ぎ給ふ。三明六通の羅漢も免れ給はず、幻術変化の権者も遁れ給はぬ道なれば、有為無常の習ひなれども、理過ぎてぞおぼえける。
やがてその夜、東山の麓、清閑寺へ遷し奉り、夕べの煙にたぐへて、春の霞とのぼらせ給ひぬ。澄憲法印、御葬送に参りあはんとて、急ぎ山より下られけるが、はや空しき煙と立ちのぼらせ給ふを見参らせて、泣く泣くかうぞ詠じ給ひける。
♪48
常に見し 君が御幸を けふとへば
かへらぬ旅と 聞くぞ悲しき
またある女房の、帝隠れさせ給ひぬと承つて、泣く泣く思ひ続けけり。
♪49
雲の上に 行くすゑ遠く 見し月の
光消えぬと 聞くぞ悲しき
御歳二十一、内には十戒を保つて慈悲を先とし、外には五常を濫らせ給はず、礼儀を正しうせさせおはします。末代の賢王にてましましければ、世の惜しみ奉る事、月日の光を失へるがごとし。かやうに人の願ひもかなはず、民の果報もつたなき人間の境こそ悲しけれ。
→【各章検討:紅葉】
「(優にやさしう)人の思ひつき参らする事は、延喜、天暦の帝と申すとも、恐らくこれにはいかでまさらせ給ふべき」とぞ人申しける。大方賢王の名を挙げ、仁徳の行を施させまします事も、君御成人の後、清濁を分かたせ給ひての上の御事でこそあるに、この君は幼主の御時より、性を柔和に稟けさせおはします。
去んぬる承安の頃ほひ、御在位の初めつ方、御歳いまだ十歳ばかりにもやならせましましけん、あまりに紅葉を愛せさせ給ひて、北の陣に小山をつかせ、櫨、鶏冠木の色うつくしう紅葉ぢたるを植ゑさせ、紅葉の山と名付けて、ひねもすに叡覧あるに、なほ飽きたらせ給はず。
然るをある夜、野分はしたなう吹いて、紅葉みな吹き散らし、落葉すこぶる狼藉なり。殿守のとものみやつこ、朝ぎよめすとて、これをことごとく掃き捨ててんげり。残れる枝、散れる木の葉をばかき集めて、風すさまじかりける朝なれば、縫殿の陣にて酒あたためてたべける薪にこそしてんげれ。
奉行の蔵人、行幸より先にと急ぎ行いて見るに、跡方なし。
「いかに」と問へば、「しかじか」と答ふ。
「あなあさまし。さしも君の執し思し召されつる紅葉をかやうにしけるあさましさよ。知らず、汝ら禁獄、流罪にも及び、我が身もいかなる逆鱗にかあづからんずらん」と、思はじことなう案じ続けてゐたりける所に、主上いとどしく夜の御殿を出でさせもあへず、かしこへ行幸なつて紅葉を叡覧あるに、なかりければ、「いかに」と御尋ねありけり。
蔵人奏すべき方はなし。ありのままに奏聞す。天機ことに御快げにうち笑ませ給ひて、「『林間に酒を煖めて紅葉を焼く』といふ詩の心をば、それらには誰が教へけるぞや。やさしうもつかまつたるものかな」とて、返つて叡感にあづかつし上は、あへて勅勘なかりけり。
また去んぬる安元の頃ほひ、御方違への行幸のありしに、さらでだに鶏人暁を唱ふ声、明王の眠りを驚かすほどにもなりしかば、いつも御寝覚めがちにて、つやつや御寝もならざりけり。況んや冴ゆる霜夜の冽しきには、延喜の聖代、「国土の民どもが、いかに寒かるらん」とて、夜の御殿にして御衣を脱がせ給ひける事などまでも、思し召し出でて、我が帝徳の至らぬ事をぞ御歎きありける。
やや深更に及んで、程遠く人の叫ぶ声しけり。供奉の人々は聞きつけられざりけれども、主上は聞こし召して、「今叫ぶは何者ぞ。あれ見て参れ」と仰せければ、上臥ししたる殿上人、上日の者に仰すれば、走り散つて尋ねければ、ある辻に怪しの女童の、長持の蓋さげたるが、泣くにてぞありける。
「いかに」と問へば、「主の女房の、院の御所に候はせ給ふが、このほどやうやうにしてしたてられたりつる御装束を持つて参るほどに、ただ今男の二三人まうで来て、奪ひ取りまかりぬるぞや。今は装束があらばこそ、御所にも候はせ給はめ。またはかばかしう立ち宿らせ給ふべき親しい御方もましまさず。これを思ひ続くるに泣くなり」とぞ言ひける。
さてかの女童を具して参つて、この由奏聞しければ、主上聞こし召して、「あな無慚、何者のしわざにてかあるらん」とて、竜顔より御涙を流させ給ふぞかたじけなき。「堯の世の民は、堯の心の直ほなるをもつて心とする故に、みな直ほなり。今の世の民は、朕が心をもつて心とする故に、かだましき者朝にあつて罪を犯す。これ我が恥にあらずや」とぞ仰せける。
「さるにても取られつらん衣は、何色ぞ」と御尋ねありければ、しかじかの色と奏聞す。
建礼門院、その時はいまだ中宮にて渡らせ給ふ時なり。その御方へ、「さやうの色したる御衣や候ふ」と御尋ねありければ、先のより遥かに色うつくしきが参りたるを、件の女童にぞ賜はせける。
「いまだ夜深し。またさる女にもぞ逢ふ」とて、上日の者をつけて、主の女房の局まで送らせましますぞかたじけなき。されば、あやしの賤の男、賤の女に至るまで、ただこの君千秋万歳の宝算をぞ祈り奉る。
→【各章検討:葵前】
何よりもまたあはれなりし事には、中宮の御方に候はせ給ふ女房の召し使ひける上童、思はざるほか、竜顔に咫尺する事ありけり。ただ尋常白地にてもなくして、まめやかに御心ざし深かりければ、主の女房も召し使はず、かへつて主のごとくにぞ、いつきもてなしける。
「『そのかみ謡詠に言へる事あり。男を産んでも喜歓する事なかれ、女を産んでも悲酸する事なかれ。男はこれ侯にだも封ぜられず、女は妃たり』とて后に立つと言へり。かへつてこの人、女御后とももてなされ、国母せんゐんとも仰がれなんず。めでたかりける幸ひかな」とて、その名を葵前と申しければ、内々は葵女御などぞ囁き合はれける。
主上これを聞こし召して、その後は召されざりけり。これは御心ざしの尽きぬるにはあらず、ただ世の誹りをはばからせ給ふによつてなり。されば御ながめがちにて、つやつや供御も聞こし召さず、御悩とて常は夜の御殿にのみ入らせおはします。
その時の関白松殿、この由を承つて、申し慰め参らせんとて、急ぎ御参内あつて、「さやうに叡慮にかからせましまさん御事、なんでふ事か候ふべき。件の女房召され参らすべしとおぼえ候ふ。品を尋ねらるるに及ばず、基房やがて猶子につかまつり候はん」と奏せさせ給へば、主上仰せなりけるは、「いさとよ、そこにはからひ申す事もさる事なれども、位を退いて後は、ままさるためしもあるなり。まさしう在位の時、さやうの事は後代の誹りなるべし」とて、聞こし召しも入れざりけり。
関白殿力及ばせ給はず、御涙を押さへて御退出ありけり。その後主上、緑の薄様の匂ひことに深かりけるに、故語なれども、思し召し出でて、かうぞ遊ばされける。
♪50
しのぶれど 色に出でにけり わが恋は
ものや思ふと 人の問ふまで
冷泉少将隆房、これを賜はりついで、件の葵前に賜ばせたれば、これを取つてふ所に入れ、顔うちあかめ、「例ならぬ心地いできたり」とて、里へ帰り、うち臥す事五六日して、終にはかなくなりにけり。
「君が一日の恩のために、妾が百年の身を誤つ」とも、かやうの事をや申すべき。
「昔唐の太宗、鄭仁基が娘を元観殿に入れんとし給ひしを、魏徴、『かの娘已に陸氏が約せり』と諫め申ししかば、殿に入るる事をやめられたりしには、少しもたがはせ給はぬ御心ばへかな」とぞ人申しける。
→【各章検討:小督】
主上恋慕の御涙に思し召し沈ませ給ひたるを、申し慰め参らせんとて、中宮の御方より、小督殿と申す女房を参らせらる。
この女房と申すは、桜町中納言成範卿の御娘なり。無双の美人、有り難き琴の上手にてぞおはしましける。冷泉大納言隆房卿、いまだ少将なりし時、初めて見初めたりし女房なり。
始めは歌を詠み、文を尽くし給へども、玉章の数のみ積もつて、なびく気色もなかりしが、さすが情けに弱る心にや、遂にはなびき給ひけり。されども今は君へ召され参らせて、せん方もなく悲しくて、あかぬ別れの悲しさには、袖しほたれてほしあへず。
少将いかにもして、小督殿を今一度見奉る事もやと、その事となく常は参代せられけり。小督殿のおはしける局の辺、御簾の辺りを、かなたこなたへたたずみありき給へども、小督殿、「我君へ召され参らせぬる上は、少将いかにいふとても、言葉をもかはすべからず」とて、つての情けをだにもかけられず。
少将もしやと、一首の歌を書いて、小督殿のおはしける局の御簾の中へぞ投げ入れたる。
♪51
思ひかね 心はそらに 陸奥の
ちかの塩竃 ちかきかひなし
小督殿、やがて返事もせまほしうは思はれけれども、君の御ため、御後ろめたしとや思はれけん、手にだにとつて見給はず、やがて上童にとらせて、坪の内へぞ投げ出だす。少将情けなう恨めしけれども、さすが人もこそ見れと、そら恐ろしくて、急ぎ取つて懐に曳き入れて出でられけるが、なほ立ち帰つて、
♪52
玉章を いまは手にだに とらじとや
さこそ心に 思ひ捨つとも
今はこの世にてあひ見ん事もかたければ、生きて物を思はんより、ただ死なんとのみぞ願はれける。
入道相国、この由を伝へ聞いて、「中宮と申すも御娘なり、冷泉少将も聟なり。小督殿に、二人の聟をとられて、いやいや小督があらんほどは、世の中よかるまじ。いかにもして召し出だして失なはん」とぞ宣ひける。
小督殿、この由を聞き給ひて、「我が身の上はとにもかくにもありなん、君の御ため御心苦し」とて、ある夜内裏をば紛れ出でて、行方も知らずぞ失せられける。
主上なのめならず御歎きあつて、昼は夜の御殿にのみ入らせ給ひて、御涙に沈ませ給ふ。夜は南殿に出御なつて、月の光を御覧じてぞ、慰ませましましける。入道相国この由承つて、「さては君は、小督ゆゑに思し召し沈ませ給ひたんなり。さらんにとつては」とて、御介錯の女房をも参らせられず。参内し給ふ臣下をも嫉まれければ、入道の権威にはばかつて、参り通ふ人もなし。男女うちひそめて、禁中いまいましうぞ見えし。
頃は八月十日余り、さしも隈なき空なれども、主上は御涙に曇らせ給ひて、月の光も朧にぞ御覧じける。やや深更に及んで、「人やある、人やある」と召されけれども、御いらへ申す者もなし。
ややあつて、弾正大弼仲国、その夜しも御宿直に参つて、遥かに遠う候ひけるが、「仲国」と御いらへ申したりければ、「近う参れ。仰せ下さるべき旨あり」と仰せければ、何事やらんと思ひ、御前近う参じたれば、「汝もし小督が行方や知つたる」と仰せければ、「いかでか知り参らせ候ふべき」と申す。
「まことや小督は、嵯峨の辺に片折戸とかやしたる内にありと申す者のあるぞとよ。主が名は知らずとも、尋ねて参らせなんや」と仰せければ、仲国、「主が名を知り候はでは、いかでか尋ね逢ひ参らせ候ふべき」と申しければ、主上、げにもとて、御涙せきあへさせましまさず。
仲国つくづく物を案ずるに、まことや小督殿は、琴弾き給ひしぞかし。この月の明かさに、君の御事思ひ出で参らせ給ひて、琴弾き給はぬ事はよもあらじ。御前にて琴弾き給ひし時、仲国笛の役に召され参らせしかば、その琴の音は、いづくにても聞き知らんずるものを。嵯峨の在家いくほどかあるべき。うち参つて尋ねんに、などか聞き出ださざるべきと思ければ、「さ候はば、主が名は知り候はずとも、もしやと尋ね参らせ候はん。たとひ尋ねあひ参らせて候ふとも、御書など候はでは、うはの空とや思し召され候はんずらん。御書を賜はつて、参り候はん」と申しければ、主上、「まことにも」とて、御書あそばいて賜びにけり。
「やがて寮の御馬に乗つて行け」とぞ仰せける。
仲国、寮の御馬賜はつて、明月に鞭をあげ、そことも知らずぞあくがれける。
小鹿なくこの山里と詠じけん、嵯峨のあたりの秋の頃、さこそはあはれにもおぼえけめ。片折戸したる屋を見つけては、この中にもやおはすらんと、ひかへひかへ聞きけれども、琴弾く所もなかりけり。
御堂などへ参り給へる事もやと、釈迦堂を始めて、堂々見回れども、小督殿に似たる女房だにもなかりけり。
「むなしう帰り参りたらんは、参らざらんより、なかなか悪しかるべし。これよりいづちへも、迷ひ行かばや」とは思へども、いづくか王地ならぬ、身を隠すべき宿もなし。いかがせんと案じわづらふ。
「まことや、法輪はほど近ければ、月の光に誘はれて、参り給へる事もや」とそなたへ向いてぞ歩ませける。
亀山の辺り近く、松の一村ある方に、かすかに琴ぞ聞こえける。峰の嵐か松風か、尋ぬる人の琴の音か、おぼつかなくは思へども、駒をはやめて行くほどに、片折戸したる内に、琴をぞ弾きすまされたる。
ひかへてこれを聞きければ、少しもまがふべうもなき小督殿の爪音なり。楽は何ぞと聞きければ、夫を思うてこふとよむ、想夫恋といふ楽なりけり。
さればこそ、君の御こと思ひ出で参らせ給ひて、楽こそ多けれ、この楽を弾き給ふ事のやさしさよと思ひ、腰より横笛ぬき出だし、ちつと鳴らいて、門をほとほとと叩けば、琴をばやがて弾きやみ給ひぬ。
「内裏より仲国が御使ひに参つて候ふ。開けさせ給へ」とて、叩けども叩けども、とがむる者もなかりけり。
ややありて、内より人の出づる音しけり。嬉しう思ひて待つ所に、鎖をはづし、門を細目に開け、いたいけしたる小女房、顔ばかりさし出だいて、「これはさやうに内裏より御使ひなど賜はるべき所でも候はず。門たがへにてぞ候ふらん」と言ひければ、仲国返事せば門たてられ、鎖さされなんずとや思ひけん、是非なく押し開けてぞ入りにける。
妻戸の際なる縁にゐて、「何とてかやうの所に御渡り候ふやらん。君は御故に思し召し沈ませ給ひて、御命もすでに危くこそ見えさせましまし候へ。かやうに申すは、上の空とや思し召され候ふらん。御書を賜はつて参つて候ふ」とて、取り出だいて奉る。
ありつる女房とりついで、小督殿にぞ参らせける。これを開けて見給ふに、まことに君の御書にてぞありける。やがて御返事書きひき結び、女房の装束一重ねそへて出だされたり。
仲国、女房の装束をば肩にうちかけ申されけるは、「余の御使ひなどで候はんには、御返事の上は、申すに及び候はねども、内裏にて御琴遊ばされ候ひし時、仲国笛の役に召され参らせ候ひし奉公をば、いかばかりとか思し召され候ふらん。直の御返事を承らずして帰り参らん事、口惜しう候ふ」と申されければ、小督殿、げにもとや思はれけん、みづから返事し給ひけり。
「そこにも聞かせ給ひつらん。入道相国のあまりに恐ろしき事をのみ申すと聞きしがあさましさに、内裏をば密かに紛れ出でて、このほどはかかる住まひなれば、琴など弾く事もなかりしに、明日よりは大原の奥に思ひ立つ事の候へば、主の女房、今夜ばかりの名残を惜しみ、『今は夜も更けぬ、立ち聞く人もあらじ』などすすむる間、さぞな昔の名残もさすがゆかしくて、手なれし琴を弾くほどに、やすうも聞き出だされけりな」とて、御涙せきあへ給はねば、仲国も袖をぞしぼりける。
ややあつて、仲国涙を押へて申されけるは、「明日よりは大原の奥に思し召し立つ事と候ふは、御様などかへさせ給ふべきにや。さて君の御返事をば、何とかし参らせ給ふべき。ゆめゆめかなひ候ふまじ。こればし出だし参らすな」とて、ともに召し具したる馬部、吉上などとどめ置き、その屋を守護せさせ、我が身は寮の御馬にうち騎つて、内裏へ帰り参りたれば、夜はほのぼのとぞ明けにける。
今は入御にもなりぬらん、誰してか申すべきと思ひ、寮の御馬つながせ、ありつる女房の装束をば、はね馬の障子に投げかけて、南殿の方へ参るほどに、主上はいまだ夜部の御座にぞましましける。
「南に翔り北に嚮かふ 寒温を秋の雁に付け難し 東に出でて西に流る 只瞻望を暁の月に寓す」と、御心細げにうちながめさせ給ふ所に、仲国つと参りたり。小督殿の御返事をこそ参らせけれ。
主上なのめならずに御感あつて、「さらば汝やがて夕さり具して参れ」とぞ仰せける。入道相国のかへり聞き給はん所は恐ろしけれども、これまた綸言なれば、牛車、雑色、牛飼きよげに沙汰し、嵯峨へ行き向かひ、参るまじき由宣へども、とかくこしらへ奉て車に乗せ奉り、内裏へ参りたりければ、かすかなる所に忍ばせて、夜な夜な召されけるほどに、姫宮御一所出で来させ給ひけり。この姫宮と申すは、坊門の女院の御事なり。
入道相国、「小督が失せたりといふは、跡形もなき空事にてありけり」とて何としてかたばかり出だされたりけん、小督殿をとらへつつ、尼になしてぞおつぱなつ。出家はもとより望みなりけれども、心ならず尼になされ、歳二十三、濃き墨染に引きかへて嵯峨の辺にぞすまれける。むげにうたてき事どもなり。
かやうの事どもに御悩つかせ給ひて、遂に隠れありけるとかや。あさましかりし事どもなり。
法皇はうち続き御歎きのみぞしげかりける。
去んぬる永万には、第一の皇子二条院崩御なりぬ。
安元二年の七月には、御孫六条院隠れさせ給ひぬ。「天にすまば比翼の鳥、地にすまば連理の枝とならん」と天の川の星を指して、さしも御契り浅からざりし建春門院、秋の霧に侵されて、朝の露と消えさせ給ひぬ。
年月は隔つれども、昨日今日の御歎きのやうに思し召して、御涙のいまだ尽きせざるに、治承四年の五月には、第二の皇子高倉宮討たれさせ給ひぬ。現世後生たのみ思し召されつる新院さへ先立たせ給ひぬれば、とにかくにかこつ方なき御涙のみぞすすみける。
「悲しみの至つて悲しきは、老いて後、子に後れたるよりも悲しきはなし。恨みの至つて恨めしきは、若うして親に先立つよりも恨めしきはなし」と、かの朝綱相公の、子息澄明におくれて書きたりけん筆の跡、今こそ思し召し知られけれ。
かの一乗妙典の御読誦も怠らせ給はず、三密行法の御薫修も積もらせおはします。天下諒闇になりしかば、大宮人もおしなべて、花の袂ややつれけん。
→【各章検討:廻文】
入道相国は、かやうにいたく情なうあたり申されたりしかども、さすがそら恐ろしうや思はれけん、安芸国厳島の内侍が腹の姫君の、生年十七になり給ふを後白河法皇へ参らせらる。当家他家の公卿多く供奉して、ひとへに女御参りのごとくにてぞありける。
「上皇隠れさせ給ひて、わづか二七日だに過ぎざるに、然るべからず」とぞ人々囁き合はれける。
さるほどにその頃信濃国に、木曾冠者義仲といふ源氏ありと聞こえけり。故六条判官為義が次男、故帯刀先生義賢が子なり。
父義賢は、去んぬる久寿二年八月十二日、鎌倉の悪源太義平がために誅せらる。その時義仲二歳なりしを、母かかへて泣く泣く信濃へ越え、木曾中三権守兼遠がもとに行いて、「これいかにもして育てて、人になして見せ給へ」と言ひければ、兼遠請け取つて二十余年までかひがひしう養育す。やうやう長大するままに、力も世に勝れて強く、心も無双剛なりけり。
「馬の上、歩射、弓矢、打ち物取つてはすべて上古の田村、利仁、余五将軍、致頼、保昌、先祖頼光、義家朝臣といふとも、これにはいかでか勝るべき」とぞ人申しける。
ある時めのとの兼遠を呼うで、「そもそも兵衛佐頼朝は、東八ヶ国を打ちしたがへ、東海道より攻め上り、平家を追ひ落とさんとすなり。義仲も東山、北陸両道をしたがへて、今一日も先に平家を追ひ落とし、例へば、日本国両将軍といはればや」とほのめかしければ、兼遠大きに畏まり喜んで、「その料にこそ、君をばこの二十余年まで養育し奉て候へ。ことにかやうに仰せらるるこそ、八幡殿の御末ともおぼえさせ給へ」とて、やがて謀叛をくはたてけり。
兼遠に具せられて、常は都へ上り、平家の人々の振舞、有様どもをも見窺ひけり。
十三の歳、元服しけるにも、八幡へ参り、「我が四代の祖父、義家朝臣は、この御神の御子となつて、八幡太郎と号しき。且つうはその跡を追ふべし」とて、八幡大菩薩の御宝前にして、やがて髻とりあげ、木曾次郎義仲とこそ付きたりけれ。
兼遠、「まづ廻文候ふべし」とて、信濃国には、根井の小野太、滋野行親を語らふに背く事なし。これを始めて信濃一国の兵ども、みな従ひ付きにけり。上野国には、故帯刀先生義賢がよしみによつて、多胡郡の者ども、皆従ひつきにけり。
平家末になりぬる折を得て、源氏年来の素懐を遂げんとす。
→【各章検討:飛脚到来】
木曾といふ所は、信濃にとつても南の端、美濃境なれば、都も無下に程近し。平家の人々、「東国の背くだにあるに、北国さへこはいかに」とて、大きに恐れ騒がれけり。
入道相国宣ひけるは、「思ふにその者信濃一国の者どもこそ随ひ付くといふとも、越後国には、余五将軍の末葉、城太郎助永、同じき四郎助茂、これら兄弟どもに多勢の者なり。仰せ下したらむずるに、たやすう討つて参らせなんず」と宣へば、「げにも」と申す人もあり、「いやいや、ただ今御大事に及びなんず」と、囁く人々もありけるとかや。
二月一日、除目行はれて、越後国の住人、城太郎助永、越後守に任ず。これは木曾追討せらるべき策とぞ聞こえし。
同じき七日、大臣公卿、家々にして尊勝陀羅尼、不動明王絵かき供養ぜらる。これは兵乱慎みのためとぞ聞こえし。
同じき九日、河内国石河郡に居住しける、武蔵権守入道義基、子息石川判官代義兼、これも平家を背いて、頼朝に心を通はして、東国へ落ち行くべしなど聞こえしかば、平家やがて討手を遣はす。
大将軍には源大夫判官季貞、摂津判官盛澄、都合その勢三千余騎で、河内国へ発向す。城の内には武蔵権守入道、子息石川判官代義兼を始めとして、その勢百騎ばかりには過ぎざりけり。
卯の刻より矢合して、一日戦ひ暮らす。
夜に入つて、義基法師討ち死にす。子息石川判官代義兼は痛手負うて生け捕りにこそせられけれ。
同じき十一日、義基法師が首、都へ上つて大路を渡さる。諒闇に賊首を渡さるる事、堀河院崩御の時、前対馬守義親が首を渡されし、その例とぞ聞こえし。
同じき十二日、鎮西より飛脚到来、宇佐大宮司公通が申しけるは、「九州の者ども、緒方三郎をはじめとして、臼杵、戸次、松浦党に至るまで、一向平家を背いて源氏に同心」の由申したりければ、「東国、北国の背くだにあるに、こはいかに」とて、手をうつてあさみ合へり。
同じき十六日、伊予国より飛脚到来す。去年の冬の頃より、伊予国の住人、河野四郎通清を始めとして、四国の者ども皆平家を背いて、源氏に同心の間、備後国の住人、額入道西寂は、平家に心ざし深かりければ、伊予国へおし渡り、道前道後の境高直城にて、河野四郎通清を討ち候ひぬ。子息河野四郎通信は、父が討たれける時、安芸国の住人、奴田次郎は母方の伯父なりければ、それへ越えてありあはず。河野通信、父を討たせて、「安からぬ事なり。いかにもして、西寂を討ち取らん」とぞ伺ひける。
額入道西寂、河野四郎通清を討つて後、四国の狼藉をしづめ、今年正月十五日に備後の鞆へ押し渡り、遊君、遊女ども召し集めて、遊びたはぶれ、酒盛りしけるが、先後も知らず、酔ひ臥したる所に、河野四郎思ひきつたる者ども、百余人あひ語らひて、ばつと押し寄す。西寂が方にも三百余人ありける者ども、俄か事なれば、思ひもまうけず、あわてふためきけるを、たてあふ者をば射ふせ切りふせ、まづ西寂を生け捕つて、伊予国へ押し渡り、父が討たれたる高直城へさげもてゆき、鋸で首を切つたりとも聞こえけり。またはつつけにしたりとも聞こえけり。
→【各章検討:入道死去】
その後四国の兵ども、皆河野四郎に従ひつく。また紀伊国の住人、熊野別当湛増も、平家重恩の身なりしが、それも背いて、源氏に同心の由聞こえけり。
「およそ東国、北国ことごとく背きぬ。南海、西海もかくのごとし。夷狄の蜂起耳を驚かし、逆乱の先表頻りに奏す。夷蛮忽ちに起れり。世はただ今失せなんず」とて、必ず平家の一門ならねども、心ある人々の歎き悲しまぬはなかりけり。
同じき二十三日、院の御所にて、俄かに公卿詮議あり。前右大将宗盛卿申されけるは、坂東へ討手は向かうたりといへども、させるしいだしたる事もなし。
今度は宗盛大将軍を承つて、向かふべき由申されければ、諸卿色代して、「ゆゆしう候ひなん」とぞ申されけり。公卿殿上人も武官に備はり、少しも弓箭に携はらんほどの人々は、宗盛卿を大将軍として、東国、北国の凶徒等を追討すべき由仰せ下さる。
同じき二十七日、前右大将宗盛卿、源氏追討のために、東国へすでに門出と聞こえし。
その夜半ばかりより、入道相国、違例の心地とて留まり給ひぬ。
明くる二十八日より、重病をうけ給へりとて、京中、六波羅、「すは、しつるは。さみつる事よ」とぞ囁きける。
入道相国、病づき給ひし日よりして、水をだに喉へ入れ給はず。身の内の熱きこと、火をふくがごとし。ふし給へる所、四五間が内へ入る者は、熱さ堪へ難し。ただ宣ふ事とては、「あたあた」とばかりなり。少しもただ事とも見えざりけり。比叡山より、千手井の水を汲み下し、石の舟に湛へて、それにて冷え給へば、水おびたたしく沸き上がつて、ほどなく湯にぞなりにける。
もしやと助かり給ふと、筧の水を撒かせたれば、石や鉄などの焼けたるやうに、水ほとばしつて寄りつかず。おのづからもあたる水は、ほむらとなつて燃えければ、黒煙殿中に満ち満ちて、炎渦巻いてあがりけり。
これや昔、法蔵僧都といひし人、閻王の請に趣いて、母の生所を訪ねしに、閻王憐れみ給ひて、獄卒を相副へて、焦熱地獄へつかはさる。鉄の門の内へさし入れば、流星などのごとくに、炎空へたちあがり、多百由旬に及びけんも、今こそ思ひ知られけれ。
入道相国の北の方、二位殿の夢に見給ひける事こそ恐ろしけれ。猛火おびたたしう燃えたる車を、門の内へやり入れたり。前後に立ちたるものは、或いは馬の面のやうなる物もあり、或いは牛の面のやうなる物もありけり。車の前には無といふ文字ばかり見えたる鉄の札をぞ立てたりける。
二位殿夢の心に、「あれはいづくよりぞ」と御尋ねあれば、「閻魔の庁より、平家入道殿の御迎ひに参つて候ふ」と申す。「さてその札は何といふ札ぞ」と問はせ給へば、「南閻浮提金銅十六丈の盧遮那仏、焼き滅ぼし給へる罪によつて、無間の底に沈み給ふべき由、閻魔の庁に御定め候ふが、無間の無をば書かれて、間の字をば未だ書かれぬなり」とぞ申しける。
二位殿夢さめて、汗水になりつつ、これを人々に語り給へば、聞く人皆身の毛よだちけり。霊仏、霊社へ金銀七宝を投げ、馬、鞍、鎧、甲、弓矢、太刀に至るまで、取り出で運び出だし、折られけれども、験もなかりけり。男女の公達、跡枕にさしつどひて、いかにせんと歎き悲しみ給へども、かなふべしとも見えざりけり。
同じき閏二月二日、二位殿あつう堪へ難けれども、入道相国の御枕によつて泣く泣く宣ひけるは、「御有様見奉るに、日にそへて頼み少なうこそ見えさせ給へ。この世に思し召すことあらば、少しもののおぼえさせ給ふ時、仰せられ置け」とぞ宣ひける。
入道相国、さしも日ごろはゆゆしげにおはせしかども、まことに苦しげにて、息の下にて宣ひけるは、「我、保元平治よりこの方、度々の朝敵を平らげ、勧賞身に余り、かたじけなくも一天の君の御外戚として丞相の位に至り、栄華子孫に及ぶ。今生の望みは、一事も残る所なし。ただし思ひ置く事とては、伊豆国の流人、前兵衛佐頼朝が頭を見ざりつるこそやすからね。我いかにもなりなん後は、堂塔をも建て、孝養をもすべからず。やがて討手を遣はし、頼朝が首を刎ねて、我が墓の前にかくべし。それぞ孝養にてあらんずる」と宣ひけるこそ罪深けれ。
もしや助かると、板に水をおきて、ふしまろび給へども、助かる心地もし給はず。
同じき四日、病に責められ、せめての事に板に水をいて、それにまろび給へども、助かる心地もし給はず。悶絶躃地して、遂ににあつち死にぞし給ひける。
馬車の馳せ違ふ音、天も響き大地も揺るぐほどなり。一天の君、万乗の主の、いかなる御事ましますとも、これには過ぎじとぞ見えし。今年は六十四にぞなり給ふ。老死にといふべきにはあらねども、宿運忽ちに尽き給へば、大法秘法の効験もなく、神明三宝の威光も消え、諸天も擁護し給はず。況んや凡慮においてをや。
命にかはり身にかはらんと忠を存ぜし数万の軍旅は、堂上堂下になみゐたれども、これは目にも見えず、力にもかかはらぬ無常の殺鬼をば、暫時も戦ひかへさず、また帰り来ぬ四手の山、三途河、黄泉中有の旅の空に、ただ一所こそおもむき給ひけめ。日頃作りおかれし罪業ばかりや獄卒となつて、迎へにも来たりけん。あはれなりし事どもなり。
さてしもあるべきならねば、同じき七日、愛宕にて煙になし奉り、骨をば円実法眼首にかけ、摂津国へ下り、経の島にぞ納めける。さしも日本一州に名をあげ、威をふるひし人なれども、身は一時の煙となつて、炎は空に立ちのぼり、かばねはしばしやすらひて、浜の砂にたはぶれつつ、むなしき土とぞなり給ふ。
→【各章検討:築島】
やがて葬送の夜、不思議の事あまたあり。
玉を磨き、金銀をちりばめて、作られたりし西八条殿、その夜俄かに焼けぬ。人の家の焼くるは常のならひなれども、あさましかりし事どのなり。何者のしわざにやありけん、放火とぞ聞こえし。
またその夜、六波羅の南にあたつて、人ならば二三十人が声して、「うれしや水、なる滝の水」といふ拍子をいだして舞ひ踊り、どつと笑ふ声しけり。
去んぬる正月には上皇隠れさせ給ひて、天下諒闇になりぬ。わづかに中一両月を隔てて、入道相国薨ぜられぬ。あやしの賤の男、賤の女に至るまでも、いかが愁へざるべき。これはいかさまにも、天狗の所為といふ沙汰にて、平家の侍の中に、はやりをの若者ども百余人、笑ふ声に付いて、尋ね行きて見れば、院の御所法住寺殿に、この二三年は院も渡らせ給はず、御所預かり、備前前司基宗といふ者あり、かの基宗が相知つたる者ども、二三十人、夜に紛れて来たり集まり、酒を飲みけるが、始めは、「かかる折節に音なせそ」とて飲むほどに、次第に飲み酔ひて、かやうに舞ひ踊りけるなり。
ばつと押し寄せ、酒に酔ひどもに三十人からめて、六波羅へ率て参り、前右大将宗盛卿のおはしける坪の内へぞひつ据ゑたる。事の仔細を尋ねよくよく尋ね給ひて、「げにもそれほどに酔ひたらん者を、左右なう截るべきべきやうなし」とて、みな許されけり。
人の失せぬる跡には、あやしの者も朝夕に鐘打ち鳴らし、例時、懺法読む事は、常の習ひなれども、この禅門の薨ぜられぬる後は、朝夕はただ、戦合戦のはかりことより外は他事なし。
およそは最後の所労の有様こそうたてけれ、まことはただ人ともおぼえぬ事ども多かりけり。
日吉の社へ参り給ひしにも、当家他家の公卿多く供奉して、「摂禄の臣の、春日御参詣、宇治入りなどいふとも、これにはいかでかまさるべき」とぞ人申しける。
また何事よりも福原の経の島築いて、今の世に至るまで、上下往来の船の、煩ひなきこそめでたけれ。かの島は去んぬる応保元年二月上旬に築き初められたりけるが、同じき年の八月に、俄かに大風吹き大波立つて、みなゆり失ひてき。また同じき三年三月下旬に、阿波民部重能を奉行にて築かせられけるが、人柱立てらるべしなんど、公卿詮議ありしかども、それは罪業なりとて、石の面に一切経を書いて、築かれたりける故にこそ、経の島とは名付けたれ。
→【各章検討:慈心房】
古い人の申しけるは、清盛公は悪人とこそ思へども、真は慈慧僧正の再誕なり。その故は、摂津国清澄寺といふ山寺あり。かの寺の住僧、慈心坊尊恵と申しけるは、もとは叡山の学侶、多年法華の持者なり。然るに道心を発し離山して、この寺に年月を送りければ、皆人これを帰依しけり。
去んぬる承安二年十二月二十二日の夜、脇息によりかかつて、法華経読み奉りけるに、丑の刻ばかり、夢ともなく、うつつともなく、年五十ばかりなる男の、浄衣に立烏帽子着て、鞋はばきしたるが、立文を持つて来たれり。尊恵「あれはいづくよりの人ぞ」と問ひければ、「閻魔王宮よりの御使なり。宣旨候ふ」とて立文を尊恵に渡す。
尊恵これを開きて見れば、
「啒請、閻浮提日本国摂津国清澄寺の聖、慈心坊尊恵、来たる二十六日閻魔羅城大極殿にして、十万人の持経者をもつて、拾万部の法華経を転読せらるべきなり。仍つて参勤せらるべし。閻王宣によつて啒請件のごとし。
承安二年十二月二十二日、閻魔の庁」
とぞ書かれたる。
尊恵いなみ申すべき事ならねば、左右なう領状の請文を書いて奉るとおぼえて、覚めにけり。
ひとへに死去の思ひをなして、院主の光影房にこの事を語る。皆人奇特の思ひをなす。尊恵口には弥陀の名号を唱へ、心には引摂の悲願を念ず。
やうやう二十五日の夜陰に及んで、常住の仏前に至り、例のごとく脇息に寄りかかつて念仏読経す。子の刻に及んで、眠り切なるが故に、住房に帰つてうち臥す。丑の刻ばかりに、また先のごとくに、浄衣装束なる男二人来たりて、「はやばや参らるべし」と勧むる間、閻王宣を辞せんとすれば、甚だその恐れあり。参詣せんとすれば、さらに衣鉢なり。この思ひをなす時、法衣自然に身に纏ひ肩にかかり、天より金の鉢下る。
二人の童子、二人の従僧、十人の下僧、七宝の大車、寺坊の前に現ず。尊恵なのめならず喜んで即時に車に乗り、従僧等西北に向かつて空を駆けつて、ほどなく閻魔王宮に至りぬ。
王宮の体を見るに、外郭渺渺として、その内曠曠たり。その内に七宝所成の大極殿あり。高広金色にして、凡夫のほむる所にあらず。
その日の法会終はつて後、請僧皆帰る時、尊恵南方の中門に立つて、遥かに大極殿を見渡せば、冥官冥衆皆閻魔法王の御前にかしこまる。尊恵「有り難き参詣なり。このついでに後生の事尋ね申さん」とて、大極殿へ参る。
その間に二人の童子蓋を指し、二人の従僧箱を持ち、十人の下僧列を引いて、やうやう歩み近付く時、閻魔法王、冥官冥衆悉く下り迎ふ。多聞、持国二人の童子に現じ、薬王菩薩、勇施菩薩二人の従僧に変ず。十羅刹女、十人の下僧に現じて、随逐給仕し給へり。
閻王問うて曰はく、「余僧皆帰り去んぬ。御房一人来たる事如何。」「後生の罪障尋ね申さんが為なり。」
閻王、「往生不往生は人の信不信にあり」と云々。また閻王冥官に勅して曰はく、「これ御房の作善の文箱、南方の宝蔵にあり。取り出だして一生の行、化他の碑文見せ奉れ。」
冥官承つて南方の宝蔵に行きて、一つの文箱を取りて参りたり。即ち蓋を開いて、これを悉く読み聞かす。
尊恵悲歎啼泣して、「ただ願はくは、我を哀愍して、出離生死の方法を教へ、証大菩提の直道を示し給へ」と泣く泣く申されければ、その時閻王、哀愍教化して、種々の偈を誦す。冥官筆を染めて、一々にこれを書く。
妻子王位財眷属 死去無一来相親
常随業鬼繋縛我 受苦叫喚無辺際
閻王、この偈を誦し畢はつて、すなはちかの文を尊恵に付属す。
尊恵なのめならずに喜び、「南閻浮提、大日本国の平大相国と申す人、摂津国和田の崎を点じて、四面十余町に屋をつくり今日の十万僧の会のごとく、持経者を多く啒請じて、坊ごとに一面に座につけ、念仏読経丁寧に勤行をいたされ候ふ」と申しければ、
閻王随喜感嘆して、「件の入道はただ人にはあらず、慈恵僧正の化身なり。天台の仏法護持のために日本に再誕す。かるが故に、我毎日にかの人を三度礼する文あり。すなはちこの文をもつてかの人に渡すべし。
敬礼慈恵大僧正 天台仏法擁護者
示現最初将軍身 悪業衆生同利益
尊恵これを賜はつて、大極殿の南方の中門を出づる時、官士等十余人、門外に立つて車に乗せ、前後に従ふ。また空を翔つて帰り来る。夢の心地していき出でぬ。尊恵これをもつて西八条へ参り、入道相国に参らせたりければ、なのめならず喜びてやうやうにもてなし、様々の引き出物ども賜うでその勧賞に律師になされけるとぞ聞こえし。
さてこそ清盛公をば「慈恵僧正の再誕なり」と人申しけれ。
→【各章検討:祇園女御】
またある人の申しけるは、清盛は忠盛が子にはあらず、まことには白河院の皇子なり。
その故は、去んぬる永久の頃ほひ、祇園女御と聞こえし幸人おはけり。件の女房のすまひ所は、東山の麓、祇園のほとりにてぞありける。白河院、常は御幸なりけり。
ある時殿上人一両人、北面少々召し具して、忍びの御幸ありしに、頃は五月二十日あまりのまだ宵の事なれば、目指すとも知らぬ闇ではあり、五月雨さへかきくらし、まことにいぶせかりけるに、件の女房の宿所近く御堂あり。御堂のかたはらに、光り物出で来たり。かしらは白銀の針をみがきたてたるやうにきらめき、左右の手とおぼしきをさしあげたるが、片手には槌のやうなる物を持ち、片手には光る物をぞ持ちたりける。
君も臣も、「あな恐ろし。これはまことの鬼とおぼゆる。手に持てる物は、聞こゆる打ち出の小槌なるべし。いかがせん」と騒がせおはします所に、忠盛、この頃はいまだ北面の下﨟にて供奉したりけるを召して、「この中には汝ぞあるらん。あの物射もとどめ、きりも留めなんや」と仰せければ、忠盛畏まり承つて、行き向かふ。
内々思ひけるは、「この者さしてたけき物とは見えず、狐狸などにてぞあるらん。これを射も殺し、切りも殺したらんは、無下に念なかるべし。生け捕りにせん」と思ひて、歩み寄る。
とばかりあつてはざつと光り、とばかりあつてはざつと光り、二三度しけるを、忠盛走り寄つてむずと組む。組まれて、「こはいかに」と騒ぐ。変化の物にてはなかりけり。はや人にてぞありける。
その時手ん手に火をともいて、これを御覧じ見給ふに、六十ばかりの法師なり。たとへば御堂の承仕法師でありけるが、御証しを参らせんとて、片手には手瓶といふ物に油を入れて持ち、片手には土器に火を入れてぞ持つたりける。雨はいにいて降る。濡れじとて、頭には小麦の藁を笠のやうにひき結びてかづいたり。土器の火に小麦の藁が輝いて、白銀の針のやうには見えけるなり。事の体一々にあらはれぬ。
「これを射も殺し、切りも殺したらんは、いかに念なからん。忠盛が振る舞ひやうこそ思慮深けれ。弓矢取る身はやさしかりけり」とて、その勧賞にさしも御最愛と聞こえし祇園女御を、忠盛にこそ賜うだりけれ。
さてかの女御、院の子をはらみ奉りしかば、「産めらん子、女子ならば朕が子にせん。男子ならば、忠盛が子にして、弓矢取る身にしたてよ」とぞ仰せける。すなはち男を産めり。
この事奏聞せんと伺ひけれども、然るべき便宜もなかりけるに、ある時白河院、熊野へ御幸なりける。
紀伊国いとが阪といふ所に、御輿かき据ゑさせ、暫く御休息ありけり。藪にぬかごといふ物のいくらもありけるを、忠盛袖にもり入れて、御前へ参り、
♪53
いもが子は はふほどにこそ なりにけれ
と申したりければ、院やがて御心得あつて、
♪54
ただもりとりて やしなひにせよ
とぞ付けさせましましける。それよりしてこそ我が子とはもてなされけれ。
この若君、余りに夜泣きをし給ひければ、院聞こし召されて、一首の御詠をあそばして下されけり。
♪55
夜なきすと ただもりたてよ 末の代に
きよくさかふる こともこそあれ
それよりしてこそ清盛とは名乗られけれ。
十二の歳、兵衛佐になる。十八の歳、四品して、四位兵衛佐と申ししを、仔細存知せぬ人は、「華族の人こそかうは」と申せば、鳥羽院も知ろしめされて、「清盛が華族は人に劣らじ」とこそ仰せけれ。
昔も、天智天皇はらみ給へる女御を大幟冠に給ふとて、「この女御の産めらん子、女子ならば朕が子にせん、男子ならば臣が子にせよ」と仰せけるに、すなはち男子を産み給へり。多武峯の本願定恵和尚これなり。
上代にもかかるためしありければ、末代にも平大相国、まことに白河院の御子にておはしければにや、さばかりの天下の大事、都遷りなどたやすからぬ事どもをも思ひたたれけるにこそ。
同じき閏二月二十日、五条大納言邦綱卿失せ給ひぬ。平大相国とさしも契り深くう、心ざし浅からざりし人なり。せめて契りの深さにや、同日に病つきて、同じ月に失せられける。
この大納言と申す葉、兼輔中納言より八代の末葉前右馬助盛国が子なり。蔵人だにならず、進士の雑色とて候はれしが、近衛院御在位の時、仁平の頃ほひ、内裏に俄かに焼亡出で来たり。主上南殿に出御ありしかども、近衛司一人も参らせられず。
あきれてたたせおはしましたる所に、邦綱腰輿をかかせて参り、「かやうの時は、かかる御輿にこそ召させ候へ」と奏しければ、主上これに召して出御ある。「何者ぞ」と御尋ねありければ、「進士の雑色、藤原邦綱」と名乗り申す。
「かかるさかさかしき者こそあれ、召し使はるべし」とその時の殿下、法性寺殿へ仰せ合はせられければ、御領あまた賜びなどして、召し使はれけるほどに、同じ帝の御代に、八幡へ行幸ありしに、人丁が酒に酔うて水にたふれ入り、装束を濡らし、御神楽に遅々したりけるに、この邦綱、「神妙にこそ候はねども、人丁が装束は持たせて候ふ」とて、一具取り出だされたりければ、これを着て御神楽ととのへ奏しけり。
ほどこそ少し推し移りけれども、歌の声もすみのぼり、舞の袖、拍子にあうて、面白かりけり。
物の身にしみて面白き事は、神も人も同じ心なり。昔天の岩戸を押し開かれけん神代のことわざまでも、今こそ思し召し知られけれ。
やがてこの邦綱の先祖に山陰中納言といふ人おはしき。その子に如無僧都とて智恵才覚身に余り、浄行持律の僧おはしけり。
去んぬる昌泰の頃ほひ、寛平法皇大井川へ御幸ありしに、勧修寺の内大臣高藤公の御子、冷泉大将貞国、小倉山の嵐に烏帽子川へ吹き入れられ、袖にて髻を押さへ、せんかたなくて立たれけるに、この如無僧都、三衣箱の中より烏帽子一つ取り出だされけるとかや。かの僧都は、父山陰中納言、太宰大弐になつて、鎮西へ下られける時、二歳なりしを、継母にくんで、あからさまに抱くやうにして海に落とし入れ、殺さんとしけるを、死ににけるまことの母、存生の時、桂の鵜飼ひが鵜の餌にせんとて、亀をとつて殺さんとしけるを、着給へる小袖を脱ぎ、亀に替へ放たれたりしが、その恩を報ぜんとて、この若君落ち入りける水の上に浮かれ来て、甲に乗せてぞ助けたりける。それは上代の事なれば、いかがありけん、末代に邦綱卿の高名有り難かりし事どもなり。
法性寺殿の御世に中納言になる。法性寺殿隠れさせ給ひて後、入道相国存ずる旨ありとて、この人に語らひより給へり。大福長者にておはしければ、何にても必ず毎日に一種をば、入道相国のもとへ送られけり。
「現世の得意、この人に過ぐべからず」とて、子息一人養子にして、清邦と名乗らせ、また入道相国の四男頭中将重衡はかの大納言の聟なり。
治承四年の五節は、福原にて行はれけるに、殿上人、中宮の御方へ推参ありしに、ある雲客の「竹湘浦に斑なり」といふ朗詠をせられたりければ、この大納言立ち聞きして、「あなあさまし、これは禁忌とこそ承れ。かかる事聞くとも聞かじ」とてぬき足して逃げ出でられぬ。
たとへばこの朗詠の心は、昔堯の帝に二人の姫宮ましましき。姉を娥黄といひ、妹をば女英といふ。ともに舜の帝の后なり。舜の帝隠れ給ひて、蒼梧の野辺へ送り奉り、煙となし奉る時、二人の后、名残を惜しみ奉り、湘浦といふ所にして慕ひつつ泣き悲しみ給ひしに、その涙岸の竹に懸かつて、斑にぞ染めたりける。その後も常にはかの所におはして、瑟を弾いて慰み給へり。今かの所を見れば、岸の竹は斑にて立てり。瑟を調べし跡には、雲たなびいて、ものあはれなる心を橘相公の賦に作れるなり。
この大納言は、させる文才詩歌さしてうるはしうはおはせざりしかども、かかるさかさかしき人にて、かやうの事までも聞きとがめられけるにこそ。大納言までは思ひもよらざりしを、母上賀茂大明神に歩みを運び、「願はくは我が子の邦綱一日でも候へ、蔵人頭へさせ給へ」と百日肝胆をくだいて祈り申されけるに、ある夜の夢に、檳榔の車を持ちて来て、我が家の車寄せに立つといふ夢を見て、これを人に語り給へば、「それは公卿の北の方にならせ給ふべきにこそ」と合はせたりければ、「我、年すでにたけたり。今さらさやうの振舞あるべしともおぼえず」と宣ひけるが、御子の邦綱、蔵人頭は事もよろし、正二位大納言に上がり給ふこそめでたけれ。
同じき二十二日、前右大将宗盛の卿院参して、院の御所を法住寺殿へ御幸なし奉るべきよし奏せらる。
かの御所は、去んぬる応保元年四月十五日に造り出だされて、新比叡、新熊野などもま近う勧請し奉り、山水木立に至るまで、思し召す様なりしが、この二三年は、平家の悪行によつて御幸もならず。御所の破壊したるを修理して、御幸なし奉るべき由奏せられたりければ、「何のやうもあるべからず、ただとうとう」とて、御幸なる。
まづ故建春門院の御方を御覧ずれば、岸の松、汀の柳、年経にけりとおぼえて、木高くなれるにつけても、太液の扶養、未央の柳、これに向かふに如何んが涙やすすまざらん。かの南内西宮の昔の跡、今こそ思し召し知られけれ。
三月一日、南都の僧綱本官に復して末寺庄園もとのごとく知行すべき由仰せ下さる。
同じき三日、大仏殿作り始めらる。事始めの奉行には、蔵人左少弁行隆とぞ聞こえし。この行隆、先年八幡へ参り、通夜せられたりける夢に、御宝殿の内より鬢結うたる天童の出でて、「これは大菩薩の御使なり。大仏殿奉行の時は、これを持つべし」とて、笏を賜はるといふ夢を見て、覚めて後見給へば、うつつにありけり。
「あな不思議、当時何事あつてか、大仏殿奉行に参るべし」とて、懐中して宿所へ帰り、深う納めて置かれたりけるが、平家の悪行によつて、南都炎上の間、この行隆弁の中に選ばれて、事始めの奉行に参られける宿縁のほどこそめでたけれ。
同じき三月十日、美濃国の目代、都へ早馬をもつて申しけるは、東国の源氏どもすでに尾張国まで攻め上り、道をふさぎ、人を通さぬ由申したりければ、やがて討手をさし遣はす。大将軍には、左兵衛督知盛、左中将清経、小松少将有盛、都合その勢三万余騎で発向す。
入道失せ給ひて後、わづかに五旬をだにも過ぎざるに、さこそ乱れたる世といひながら、あさましかりし事どもなり。源氏の方には、大将軍十郎蔵人行家、右兵衛佐の弟卿公義円、都合その勢六千余騎、尾張川を中に隔てて、源平両方に陣を取る。
同じき十六日の夜半ばかり源氏の勢六千余騎、川を渡いて、平家三万余騎が勢の中へをめいて懸け入る。
明くれば、十七日の寅の刻より矢合して、夜の明くるまで戦ふに、平家の方にはちつとも騒がず。
「敵は川を渡いたれば、馬、物の具も皆濡れたるぞ。それをしるしで討てや」とて、大勢の中に取り籠めて、「余すな、漏らすな」とて攻め給へば、源氏の勢残り少なに討ちなされ、卿公義円深入りして討たれにけり。
大将軍行家からき命生きて川より東へ引き退く。やがて川を渡いて、源氏を、追物射に射てゆくに、あそこここで返し合はせ返し合はせ防ぎけれども、敵は大勢、味方は無勢なり。かなふべしとも見えざりけり。
「水沢を後ろにすることなかれとこそいふに、今度の源氏の謀おろかなり」とぞ人申しける。
さるほどに、大将軍十郎蔵人行家、三河国にうち越えて、矢作川の橋を引き、垣楯かいて待ち懸けたり。平家やがて押し寄せ攻め給へば、こらへずしてそこをもまた攻め落とされぬ。
平家やがて続いて攻め給はば、三河、遠江の勢は従ひ付くべかりしに、大将軍左兵衛督知盛いたはりあつて、三河国より帰り上らる。
今度もわづかに一陣を破るといへども、残党を攻めねば、しいだしたる事なきがごとし。
平家は去去年小松大臣薨ぜられぬ。今年また入道相国失せ給ひぬ。運命の末になる事あらはなりしかば、年来恩顧の輩の外は、従ひ付く者なかりけり。東国は草も木も、皆源氏にぞなびきける。
→【各章検討:嗄声】
さるほどに越後国の住人、城太郎助永、越後守に任ずる朝恩のかたじけなさに、木曾追討のために都合その勢三万余騎、同じき六月十五日門出して、明くる十六日の卯の刻にすでにうつ立たんとしけるに、夜半ばかり、にはかに大風吹き、大雨くだり、雷おびたたしう鳴つて、天晴れて後、虚空に大きなる声のしはがれたるをもつて、「南閻浮提金銅十六丈の盧遮那仏焼き滅ぼし奉る平家の方人する者ここにあり。召し取れや」と、三声叫んでぞ通りける。
城太郎をはじめとして、これを聞く者、皆身の毛よだちけり。
郎等ども、「これほど恐ろしい天の告げの候ふに、ただ理を曲げて留まらせ給へ」と申しけれども、「弓矢取る者のそれによるべきやうなし」とて、明くる十六日卯の刻に城を出でて、わづかに十余町ぞ行いたりける。
黒雲ひとむら立ち来たつて、助永が上に覆ふとこそ見えてんげれ、俄かに身すくみ心ほれて落馬してんげり。輿にかき乗せ、館へ帰り、うち臥す事三時ばかりして遂に死ににけり。飛脚をもつてこの由都へ申したりければ、平家の人々、大きに騒がれけり。
同じき七月十四日改元あつて、養和と号す。
その日除目行はれて、筑後守貞能、筑前肥後両国を賜はつて、鎮西の謀叛平らげに西国へ発向す。その日非常の大赦行はれて、去んぬる治承三年に流され給ひし人々、みな都へ召し返さる。松殿入道殿下、備前国より御上洛。太政大臣妙音院、尾張国よりのぼらせ給ふ。安察大納言資賢卿は、信濃国より帰洛とぞ聞こえし。
同じき二十八日、妙音院殿御院参、去んぬる長寛の帰洛には御前の簀子にして賀王恩、還城楽を弾かせ給ひしに、養和の今の帰京には、仙洞にして秋風楽をぞ遊ばしける。いづれもいづれも風情折を思し召し寄らせ給ひけん御心のほどこそめでたけれ。
按擦大納言資賢卿も、その日院参せらる。法皇、「いかにや夢のやうにこそ思し召せ。ならはぬ鄙の住まひして、郢曲なども今は跡形あらじと思し召せども、今様一つあらばや」と仰せければ、大納言拍子取つて、「信濃にあんなる木曽路河」といふ今様を、これは見給ひたりし間、「信濃にありし木曽路河」と歌はれけるこそ、時にとつての高名なれ。
→【各章検討:横田河原合戦】
八月七日、官の庁にて大仁王会行はる。これは将門追討の例とぞ聞こえし。
九月一日、純友追討の例とて、黒鉄の鎧甲を伊勢太神宮へ参らせらる。勅使は祭主神祇権大副大中臣定隆とぞ聞こえし。都をたつて、近江国甲賀の駅より病つき、伊勢の離宮にして遂に死ににけり。
謀叛の輩調伏のために、五壇の法承つて行はれける降三世の大阿闍梨、大行事の彼岸所にて寝死にに死ぬ。神明も三宝も、御納受なしといふ事いちじるし。
また大元の法承つて修せられける安祥寺の実玄阿闍梨が御巻数を参らせたりけるを披見せられければ、平氏調伏の由注進したりけるぞ恐ろしき。
「こはいかに」と仰せければ、「朝敵調伏せよと仰せ下さる。当世の体を見候ふに、平家もつぱら朝敵と見え給へり。よつてこれを調伏す。何の咎や候ふべき」とぞ申しける。
「この法師奇怪なり。死罪か流罪か」とありしかども、大小事の怱劇にうち紛れて、その後沙汰もなかりけり。平家滅び源氏の世になつて、鎌倉殿この由を聞き給ひて、その勧賞に大僧正になされけるとぞ聞こえし。
同じき十二月二十四日、中宮院号かうぶらせ給ひて、建礼門院とぞ申しける。主上いまだ幼主の御時、母后の院号、これ始めとぞ承る。
さるほどに今年も暮れて養和も二年になりにける。
二月二十一日、太白昴星を侵す。天文要録にいはく、「太白昴星を侵せば、四夷起る」といへり。また、「将軍勅令をかうぶつて、国の境を出づ」とも見えたり。
三月十日、除目行はれて、平家の人々大略官加階し給ふ。
四月十五日、前権少僧都顕真、日吉の社にして如法に法華経一万部転読する事ありけり。御結縁のために法皇も御幸なる。何者の申し出だしたりけるやらん、「一院山門の大衆に仰せて、平家を追討せらるべし」と聞こえしほどに、軍兵内裏へ参つて、四方の陣頭を警固す。
平氏の一類、皆六波羅へ馳せ集まる。本三位中将重衡卿、法皇の御迎へに、その勢三千余騎で、日吉の社へ参向す。山門にまた聞こえけるは、「平家山攻めんとて、数万騎の勢を率して登山す」と聞こえしかば、大衆皆東坂本に降り下つて、「こはいかに」と詮議す。山上、洛中の騒動なのめならず。
供奉の公卿、殿上人も色を失ひ、北面の者の中には、余りに慌て騒いで、黄水吐く者も多かりけり。
本三位中将重衡卿、穴太の辺にて法皇迎へとり参らせて、還御なし奉る。
「かくのみあらんには、御物詣なども、今は御心にまかすまじき事やらん」とぞ仰せける。
誠は山門の大衆平家追討せんといふ事もなし。平家また山攻めんといふ事もなし。これ跡形なき事ごもなり。
「天魔のよく荒れたるにこそ」とぞ人申しける。
同じき四月二十日、臨時に二十二社に官幣あり。これは飢饉疾疫によつてなり。
五月二十七日に改元あつて、寿永と号す。
その日また越後国の住人城四郎助茂、越後守に任ず。兄助永逝去の間、不吉なりとて、頻りに辞し申しけれども、勅命なれば力及ばず。助茂を長茂と改名す。
同じき九月二日、城四郎長茂、木曾追討のために、越後、出羽、相津四郡の兵どもを引率して、都合その勢四万余騎、信濃国へ発向す。
同じき九日、当国横田河原に陣をとる。木曾は依田城にありけるが、これを聞いて、城を出でて馳せ向かふ。信濃源氏、井上九郎光盛が謀に、にはかに赤旗を七流れ作り、三千余騎を七手に分かち、あそこの峰、ここの洞より赤旗ども手ん手に差し上げて寄せければ、城四郎これを見て、「あはやこの国にも平家の方人する人ありけるは。力付きぬ」とて勇みののしる所に、次第にに近うなりければ、合図を定めて、七手が一つになり、赤旗どもをば切り捨て、かねて用意したりける白旗ざつと差し上げ、鬨をどつとぞ作りける。
越後の勢どもこれを見て、「敵何十万騎かあるらん、いかがせん」と色を失ひ、慌てふためき、或いは川へ追つぱめられ、或いは悪所に落とされて、助かる者は少なう、討たるる者ぞ多かりける。
城四郎が頼みきつたる越後の山太郎、相津の乗丹房なんどいふ一人当千の兵ども、そこにて皆討たれぬ。我が身手負ひ、からき命を生きつつ、川に伝うて越後国にひき退く。
同じき十六日、都には平家これをば事ともし給はず、前右大将宗盛卿、大納言に還着して、十月三日、内大臣になり給ふ。
同じき十七日、喜び申しありしに、公卿には花山院、中納言をはじめ奉つて、十二人、扈従してやり続けらる。蔵人頭以下の殿上人十六人前駆す。中納言四人、三位中将も三人までおはしき。東国、北国の源氏ども、すでに蜂のごとくに起こり合ひ、ただ今都へ攻め上らんとするに、かやうに波の立つやらん、風の吹くやらんも知らぬ体にて、はなやかなりし事ども、なかなかいふかひなうぞ見えたりける。
さるほどに寿永も二年になりにけり。節会以下常のごとし。内弁をば平家の内大臣宗盛公務めらる。
正月六日、主上朝覲のために、院の御所法住寺殿へ行幸なる。鳥羽院六歳にて、朝覲の行幸、その例とぞ聞こえし。
二月二十一日、宗盛公従一位し給ふ。やがてその日、内大臣をば上表せらる。兵乱慎みの故とぞ聞こえし。南都北嶺の大衆、熊野、金峰山の僧徒、伊勢太神宮の祭り主、神官に至るまで、一向平家を背いて、源氏に心を通はしけり。四方に宣旨をなしくだし、諸国に院宣を遣はせども、院宣、宣旨も皆平家の下知とのみ心得て、従ひつく者なかりけり。
→【概要:巻第七】
→【各章検討:清水冠者】
寿永二年三月上旬に、兵衛佐と木曾の冠者義仲、不快の事ありけり。
兵衛佐は木曾追討のためにその勢十万余騎で、信濃国へ発向す。木曾はその頃依田の城にありけるが、これを聞いて依田の城を出でて、信濃と越後の境、熊坂山に陣を取る。兵衛佐は同じき国、善光寺に着き給ふ。
木曾、乳母子の今井四郎兼平を使者で、兵衛佐のもとへ遣はす。
「いかなる仔細のあれば、義仲討たんとは宣ふなるぞ。御辺は東八箇国を討ち従へて、東海道より攻め上り、平家を追ひ落とさんとし給ふなり。義仲も東山北陸両道を従へて、今一日も先に平家を攻め落とさんとする事でこそああれ。何の故にか、御辺と義仲と仲を違うて、平家に笑はれんとは思ふべき。ただし十郎蔵人殿こそ御辺を恨むる事ありとて、義仲がもとへおはしたるを、義仲さへすげなうもてなし申さん事、いかんぞや候へば、うちつれ申したれ。まつたく義仲においては御辺に意趣思ひ奉らず」といひつかはす。
兵衛佐の返事には、「今こそさやうに宣へども、確かに頼朝討つべき由、謀叛の企てありと申す者あり。それにはよるべからず」とて、土肥、梶原を先として、すでに討手を差し向けらるる由聞こえしかば、木曾、真実意趣なき由をあらはさんがために、嫡子に清水冠者義重とて、生年十一歳になる小冠に、海野、望月、諏訪、藤沢などいふ、聞こゆる兵どもをつけて、兵衛佐のもとへ遣はす。
兵衛佐、「この上はまことに意趣なかりけり。頼朝いまだ成人の子を持たず。よしよし、さらば子にし申さん」とて、清水冠者を相具して、鎌倉へこそ帰られけれ。
→【各章検討:北国下向】
さるほどに、木曾、東山北陸両道を従へて、五万余騎の勢にて京へ攻め上る由聞こえしかば、平家は去年よりして、「明年は馬の草がひについて、戦あるべし」と披露せられたりければ、山陰山陽、南海西海の兵ども、雲霞のごとくに馳せ集まる。
東山道は近江、美濃、飛騨の兵どもは参りたれども、東海道は遠江より東は参らず、西は皆参りたり。北陸道は若狭より北の兵ども一人も参らず。
まづ木曾冠者義仲を追討して、その後兵衛佐頼朝を討たんとて、北陸道へ討手を遣はす。
大将軍には、小松三位中将維盛、越前三位通盛、但馬守経正、薩摩守忠度、三河守知度、淡路守清房、侍大将には、越中前司盛舜、上総大夫判官忠綱、飛騨大夫判官景高、高橋判官長綱、河内判官秀国、武蔵三郎左衛門有国、越中次郎兵衛盛嗣、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清を先として、以上大将軍六人、然るべき侍三百四十余人、都合その勢十万余騎、寿永二年四月十七日の辰の一点に、都を立つて北国へこそ赴きけれ。
片道を賜はつてければ、逢坂の関よりはじめて、路次にもつて逢ふ権門勢家の正税官物をも恐れず、一々に皆奪ひ取る。志賀、唐崎、三河尻、真野、高島、塩津、貝津の道のほとりを、次第に追捕して通りければ、人民こらへずして、山野に皆逃散す。
→【各章検討:竹生島詣】
大将軍維盛、通盛は進み給へども、副将軍経正、忠度、知度、清房などはいまだ近江国塩津、貝津に控へたり。その中にも経正は、詩歌管弦の道に長じ給へる人なれば、かかる乱れの中にも心をすまし、湖の端にうち出でて、遥かに沖なる島を見渡し、供に具せられたる藤兵衛有教を召して、「あれをばいづくといふぞ」と問はれければ、「あれこそ聞こえ候ふ竹生島にて候ふ」と申す。
「げにさる事あり。いざや参らん」とて、藤兵衛有教、安衛門守教以下、侍五六人召し具して小舟に乗り、竹生島へぞ参られける。
頃は卯月中の八日の事なれば、緑に見ゆる梢には、春の情けを残すかとおぼえ、函谷の鶯舌の声老いて、初音ゆかしき不如帰、折知り顔に告げ渡り、松に藤波咲き懸かつて、まことに面白かりければ、急ぎ船より下り、岸に上がつて、この島の景気を見給ふに、心も言葉も及ばれず。
かの秦王、漢武、或いは童男丱女を遣はし、或いは方士をして不死の薬を尋ね給ひしに、「蓬莱を見ずば、いなや帰らじ」と言ひて、いたづらに船の中にて老い、天水茫々として、求むる事を得ざりけん蓬莱洞の有様も、かくやありけんとぞ見えし。
ある経の中に、「閻浮提の内に湖あり。その中に金輪際より生ひ出でたる水晶輪の山あり。天女住む所」と言へり。すなはちこの島の事なり。
経正、明神の御前についゐ給ひつつ、
「夫れ大弁功徳天は、往古の如来、法身の大士なり。弁財、妙音の二天の名は格別なりといへども、本地一体にして衆生を済度し給ふ。一度参詣の輩は、所願成就円満すと承る。頼もしうこそ候へ」とて、しばらく法施参らせ給ふに、やうやう日暮れ、居待ちの月さしいでて、海上も照り渡り、社壇もいよいよ輝きて、まことに面白かりければ、常住の僧ども、「これは聞こゆる御事なり」とて、御琵琶を参らせたりければ、経正これを弾き給ふに、上玄、石上の秘曲には宮のうちも澄み渡り、明神感応に堪へずして、経正の袖の上に白龍現じて見え給へり。かたじけなく嬉しさの余りに、泣く泣くかうぞ思ひ続け給ふ。
♪56
ちはやぶる 神に祈りの かなへばや
しるくも色の あらはれにけり
されば朝の怨敵を目の前にて平らげ、凶徒をただ今攻め落とさんは疑ひなしと喜んで、また船にとり乗つて、竹生島をぞ出でられける。
→【各章検討:火打合戦】
木曾義仲、身柄は信濃にありながら、越前国火打が城をぞ構へける。かの城郭に籠る勢、平泉寺の長吏斎明威儀師、稲津新介、斎藤太、林六郎光明、富樫入道仏誓、土田、武部、宮崎、石黒、入善、佐美を初めとして、六千余騎こそ籠りけれ。火打もとより究竟の城郭なり、磐石そばだち巡つて、四方に峰を連ねたり。山を後ろにして山を前にあつ。
城郭の前には、能美川、新道川とて流れたり。二つの川の落合に大木を切つて逆茂木にひき、しがらみをおびたたしうかきあげたれば、東西の山の根に、水さしこうて、湖に向かへるがごとし。影南山を浸して青うして滉漾たり。波西日を沈めて、紅にして奫淪たり。
かの無熱地の底には金銀の砂を敷き、昆明池の渚には、徳政の舟を浮かべたり。火打が城の築池には、堤をつき、水を濁らして、人の心をたぶらかす。舟なくしてはたやすう渡すべきやうなかりければ、平家の大勢、向かへの山に宿して、いたづらに日数を送る。
城の内にありける平泉寺の長吏斎明威儀師、平家に心ざし深かりければ、山の根を廻つて消息を書き、蟇目の中に入れて、忍びやかに平家の陣へぞ射入れたる。
兵どもこれを取つて大将軍の御前に参り、披きて見るに、「かの湖は往古の淵にあらず。一旦山川を塞き上げて候ふ。夜に入りて足軽どもを遣はして、柵を切り落とさせ給へ。水はほどなく落つべし。馬の足ききよい所で候へば、急ぎ渡させ給へ。後ろ矢は射て参らせん。これは平泉寺の長吏斎明威儀師が申し状」とぞ書いたりける。
大将軍大きに喜び、やがて足軽どもを遣はして、柵を切り落とす。おびたたしうは見えつれども、げにも山川なれば、水はほどなく落ちにけり。平家の大勢、しばしの遅々にも及ばず、ざつと渡す。城の内の兵ども、しばし支へて防ぎけれども、敵は大勢なり、味方は無勢なりければ、かなふべしとも見えざりけり。
平泉寺の長吏斎明威儀師、平家について忠を致す。稲津新介、斎藤太、林六郎光明、富樫入道仏誓、ここを落ちて、なほ平家を背き、加賀国へひき退き、白山河内にひつこもる。平家やがて加賀国にうち越えて、林、富樫が城郭二箇所焼き払ふ。なに面を向かふべしとも見えざりけり。
近き宿々より飛脚を立てて、この由都へ申したりければ、大臣殿以下、残り留まり給ふ一門の人々勇み喜ぶ事なのめならず。
同じき五月八日、加賀国篠原にて勢揃へあり。軍兵十万余騎を二手に分かつて、大手搦め手へ向かはれけり。大手の大将軍は小松三位中将維盛、越前三位通盛、侍大将には越中前司盛俊をはじめとして、都合その勢七万余騎、加賀と越中の境なる砺波山へぞ向かはれける。搦め手の大将軍は薩摩守忠度、三河守知度、侍大将には武蔵三郎左衛門を先として、都合その勢三万余騎、能登、越中の境なる志保の山へぞかかられける。
木曾は越後の国府にありけるが、これを聞いて、五万余騎で馳せ向かふ。我が戦の吉例なればとて、七手に作る。まづ伯父の十郎蔵人行家、一万余騎で志保の山へぞ向かひける。仁科、高梨、山田次郎、七千余騎で北黒坂へ搦め手にさし遣はす。樋口次郎兼光、落合五郎兼行、七千余騎で南黒坂へ遣はしけり。
一万余騎をば砺波山の口、松永の柳原、茱萸の木林に引き隠す。今井四郎兼平、六千余騎、鷲の瀬をうち渡し、日宮林に陣をとる。木曾我が身一万余騎で、小野部の渡りをして、砺波山の北のはづれ、羽丹生に陣をぞ取つたりける。
→【各章検討:願書】
木曾宣ひけるは、「平家は定めて大勢なれば、砺波山うち越えて、広みへ出でて、かけあひの戦でぞあらんずらん。ただしかけあひの戦は、勢の多少による事なり。大勢かさにかけては悪しかりなん。まづ旗さしを先だてて、白旗さし上げたらば、平家これを見て『あはや、源氏の先陣は向かうたるは。定めて大勢にてぞあるらん。左右なう広みへうち出でて、敵は案内者、我等は無案内なり、取り籠められてはかなふまじ。この山は四方巌石であんなれば、搦め手よもまはらじ。しばらく下りゐて馬休めん』とて、山中にぞ下りゐんずらん。その時義仲しばらくあひしらふやうにもてなして、日を待ち暮らし、平家の大勢を倶梨伽羅が谷へ追ひ落とさうど思ふなり」とて、まづ白旗三十流れ先だてて、黒坂の上にぞうつ立てたる。
案のごとく、平家これを見て、「あはや、源氏の先陣は向かうたるは。定めて大勢なるらん。左右なう広みへうち出でなば、敵は案内者、我等は無案内なり、取り籠められては悪しかりなん。この山は四方巌石であんなり、搦め手よもまはらじ。馬の草飼ひ、水便ともによげなり。しばし下りゐて馬休めん」とて、砺波山の山中、猿の馬場といふ所にぞ下りゐたる。
木曾は羽丹生に陣取つて、四方をきつと見回せば、夏山の峰の緑の木の間より、朱の玉垣ほの見えて、かたそぎ造りの社あり。前には鳥居ぞ立つたりける。
木曾殿、国の案内者を召して、「あれをばいづれの宮と申すぞ。いかなる神を崇め奉るぞ。」
「あれは八幡でましまし候ふ。やがてこの所は八幡の御領で候ふ」と申す。
木曾殿大きに喜びて、手書きに具せられたる大夫房覚明を召して、「義仲こそ、幸ひに新八幡の御宝殿に近づき奉て、合戦をすでに遂げんとす。いかさまにも今度の戦には相違なく勝ちぬとおぼゆるぞ。さらんにとつては、且つうは後代のため、且つうは当時の祈祷にも、願書を一筆書いて参らせばやと思ふはいかに。」
覚明、「もつとも然るべう候ふ」とて、馬より下りて書かんとす。
覚明が体たらく、褐の直垂に黒皮縅の鎧着て、黒漆の太刀を佩き、二十四さいたる黒幌の矢負ひ、塗籠籐の弓脇に挟み、甲をば脱ぎ、高紐にかけ、箙より小硯畳紙取り出だし、木曾殿の御前に畏まつて願書を書く。あつぱれ文武二道の達者かなとぞ見えたりける。
この覚明と申すは、もとは儒家の者なり。蔵人道広とて、勧学院にありけるが、出家して最乗房信救とぞ名乗りける。常は南都へも通ひけり。一年高倉宮の園城寺へ入らせ給ひし時、牒状を山、奈良へ遣はしたりけるに、南都の大衆返牒をば、この信救にぞ書かせたりける。
「清盛は平氏の糟糠、武家の塵芥」と書いたりしを、太政入道大きに怒つて、「その信救法師めが、浄海を平氏の糠粕、武家の塵芥と書くべきやうはいかに。その法師めからめ取つて死罪に行へ」と宣ふ間、南都をば逃げて、北国へ落ち下り、木曾殿の手書きして、大夫房覚明とぞ名乗りける。
その願書に曰はく、
帰命頂礼、八幡大菩薩は、日域朝廷の本主、累世名君の曩祖なり。宝祚を守らんが為、蒼生を利せんが為に、三身の金容を顕して、三所の権扉を排き給へり。爰に頃年より以来、平相国といふ者あり、四海を管領して万民を悩乱せしむ。是既に仏法の怨、王法の敵なり。義仲苟くも弓馬の家に生まれて、纔かに箕裘の塵を継ぐ。彼の暴悪を按ずるに、思慮を顧みるに能はず。運を天道に任せ、身を国家に投ぐ。試みに義兵を起して凶器を退けんと欲す。然るを闘戦両家陣を合はすと雖も、士率未だ一致の勇を得ざる間、区区の心を怕れたる処に、今一陣旗を挙ぐる戦場にして、忽ちに三所和光の社壇を拝す。機感の純熟明らかなり。凶徒誅戮疑ひ無し。歓喜涙建れて、渇仰肝に染む。就中、曾祖父前陸奥国守義家朝臣、身を宗廟の氏族に帰附して、名を八幡太郎と号せしより来、門葉たる者の帰敬せずといふこと無し。義仲其の後胤として首を傾けて年久し。
今此の大功起こすこと、譬へば嬰児の蠡を以て巨海を測り、螳螂が斧を怒らかいて隆車に向かふが如し。然れども国の為、君の為にして之を起す。全く身の為、家の為にして之を起さず。志の至り、神感空に在り。憑しき哉、悦ばしき哉。伏して願はくは冥顕威を加へ、霊神力を合はせて、勝つことを一時に決し、怨を四方へ退け給へ。然らば則ち、丹祈冥慮に叶ひ、玄鑑加護を成すべくんば、先づ一つの瑞相を見せしめ給へ。
寿永二年五月十一日、源義仲敬て白す
と書いて、我が身を始めて十三人が上矢の鏑を抜き、願書に取り具して、大菩薩の御宝殿にぞ納めける。
頼もしきかな、大菩薩真実の心ざし二つなきをや遥かに照覧し給ひけん、雲の中より山鳩三つ飛び来たつて、源氏の白旗の上に翩翻す。
昔、神功皇后新羅を攻めさせ給ひしに、味方の戦ひ弱く、異国の戦こはくして、すでにかうと見えし時、皇后天に御祈誓ありしかば、霊鳩三つ飛び来たつて、楯の面に顕れて、異国の戦破れにけり。またこの人々の先祖頼義朝臣、貞任、宗任を攻め給ひしにも、味方の戦ひ弱くして凶賊の戦こはかりしかば、頼義朝臣、敵の陣に向かつて、「これはまつたく私の火にはあらず、神火なり」とて火を放つ。風忽ちに異賊の方へ吹きおほひ、貞任が館厨河の城焼けぬ。その後戦破れて貞任、宗任滅びき。
木曾殿かやうの先蹤を忘れ給はず、馬より下り、甲を脱ぎ、手水うがひをして、今この霊鳩を拝し給ひけん心の中こそ頼もしけれ。
→【各章検討:倶梨迦羅落】
さるほどに源平両方陣を合はす。陣のあはひわづか三町ばかりに寄せ合はせたり。
源氏も進まず、平家も進まず。
源氏の方より、精兵十五騎、楯の面に進ませて、十五騎が上矢の鏑を、平氏の陣へぞ射入れたる。平家また策とも知らず、十五騎を出だいて、十五の鏑を射返す。源氏三十騎を出だいて射さすれば、平家三十騎を出だいて三十の鏑を射返す。五十騎を出だせば五十騎を出だし合はせ、百騎を出だせば百騎を出だし合はせ、両方百騎づつ陣の面に進んだり。たがひに勝負をせんとはやりけれども、源氏の方より制して、勝負をばせさせず。
源氏はかやうにして日を暮らし、平家の大勢を、倶梨伽羅が谷へ追ひ落とさうと謀りけるを、少しも悟らずして、ともにあひしらひ、日を暮らすこそはかなけれ。
次第に暗うなりければ、北南より廻つつるからめ手の勢一万余騎、倶梨伽羅の堂の辺に廻り合ひ、箙の方立打ち叩き、鬨をどつとぞ作りける。平家後ろを顧みければ、白旗雲のごとくに差し上げたり。
「この山は四方巌石であんなれば、からめ手よもまはらじと思ひつるに、こはいかに」とぞ騒ぎ合へり。
さるほどに、木曾殿大手より鬨の声をぞ合はせ給ふ。松永の柳原、茱萸の木林に一万余騎ひかへたりける勢も、今井四郎が六千余騎で日宮林にあるけるも、同じく鬨の声をぞ作りける。
先後四万余騎がをめく声に、山も川も、ただ一度に崩るるとこそ聞こえけれ。
案のごとく平家次第に暗うはなる、先後より敵は攻め来たる、「きたなしや、返せや返せ」といふ輩多かりけれども、大勢の傾きたちぬるは、左右なうとつて返す事難ければ、倶梨伽羅が谷へ我先にとぞ落としける。
まつ先に進んだる者が見えねば、「この谷の底に道のあるにこそ」とて、親落とせば子も落とし、兄が落とせば弟も続く。主落とせば家の子郎等も落としけり。馬には人、人には馬が、落ち重なり落ち重なり、さばかり深き谷一つを平家の勢七万余騎でぞ埋めたりける。
巌泉血を流し、死骸岳をなせり。さればこの谷のほとりには、矢の穴、刀の傷残つて今にありとぞ承る。
平家の方には宗と頼まれたりける上総大夫判官忠綱、飛騨大夫判官景高、河内判官秀国も、この谷に埋もれて失せにけり。
備中国の住人、瀬尾太郎兼康といふ聞こゆる大力も、そこにて加賀国の住人、倉光次郎成澄が手にかかつて、生け捕りにせらる。越前国火打が城にて返り忠したりける平泉寺の長吏斎明威儀師も捕らはれぬ。木曾殿、「余りに憎きに、其の法師をばまづ斬れ」とて斬られにけり。
平氏の大将維盛、通盛、稀有の命生きて、加賀国へひき退く。七万余騎が中より、わづかに二千余騎ぞ逃れたりける。
明くる十二日、奥の秀衡がもとより木曾殿へ竜蹄二匹き奉る。やがてこれに鏡鞍置いて、白山の社へ神馬に立てらる。
木曾殿宣ひけるは、「今は思ふことなし。ただし十郎蔵人殿の志保の戦こそおぼつかなけれ。いざや行いてみん」とて、四万余騎が中より、馬や人をすぐつて、二万余騎で馳せ向かふ。
氷見の港を渡さんとするに、折節潮満ちて、深さ浅さを知らざりければ、鞍置き馬十匹ばかり追ひ入れたり。鞍爪ひたるほどに、相違なく向かひの岸へ着きにけり。「浅かりけるぞ、渡せや」とて、二万余騎の大勢皆うち入れて渡しけり。
案のごとく十郎蔵人行家、散々に駆けなされ、引き退いて馬の息休むる所に、木曾殿「さればこそ」とて、新手二万余騎を入れかへて、平家三万余騎が中へをめいて駆け入り、揉みに揉うで火出づるほどにぞ攻めたりける。平家の兵どもしばし支へて防きけれども堪へずして、そこをも遂に攻め落とさる。
平家の方には、大将軍三河守知度討たれ給ひぬ。これは入道相国の末子なり。侍ども多く滅びにけり。
木曾殿は志保の山うち越えて、能登の小田中新王の塚の前に陣を取る。
→【各章検討:篠原合戦】
(木曾殿やがて)そこにて諸社へ神領を寄せられける。白山へは横江、宮丸、菅生の社へは能美の庄、多田の八幡へは蝶屋の庄、気比の社へは飯原の庄を寄進す。平泉寺へは藤島七郷を寄せられけり。
一年石橋の合戦の時、兵衛佐殿射奉つし者ども都へ逃げ上つて、平家の方にぞ候ひける。宗徒の者には、俣野五郎景久、長井の斎藤別当実盛、伊藤九郎助氏、浮巣三郎重親、真下四郎重直、これらはしばらく戦のあらんまで休まんとて、日ごとに寄り合ひ寄り合ひ、巡酒をしてぞ慰みける。
まづ実盛がもとに寄り合ひたりける時、斎藤別当申しけるは、「つらつらこの世の中の有様を見るに、源氏の味方は強く、平家の御方は負け色に見えさせ給ひたり。いざ各木曾殿へ参らう」と申しければ、皆、「さんなう」とぞ同じける。
次の日、また浮巣三郎がもとに寄り合ひたりける時、斎藤別当、「さても昨日申しし事はいかに、各。」
その中に俣野五郎進み出でて申しけるは、「我等はさすが東国では皆人に知られて、名ある者でこそあれ。吉についてあなたへ参りこなたへ参らう事も見苦しかるべし。人をば知り参らせず、景久においては平家の味方でいかにもならう」と申しければ、斎藤別当あざ笑つて、「まことには各の御心どもをかな引き奉らんとてこそ申したれ。その上実盛も今度の戦に討ち死にせうど思ひきつて候ふぞ。ふたたび都へ帰るまじき由、人々にも申し置いたり。大臣殿へもこのやうを申しあげて候ふぞ」と言ひければ、皆またこの儀にぞ同じける。
さればその約束を違へじとや、当座にありし者ども、一人も残らず北国にて皆死ににけるこそ無慚なれ。
さるほどに、平家は人馬の息を休めて、加賀国篠原に陣を取る。
同じき五月二十一日辰の一点に、木曾殿、篠原に押し寄せて、鬨をどっと作る。
平家の方には、畠山庄司重能、小山田別当有重、去んぬる治承より今まで召し籠められたりしを、「汝らはふるい者どもなり。戦の様をも掟てよ」とて、今度北国へ向けられたり。
これら兄弟三百余騎で陣の面に進んだり。源氏の方より今井四郎兼平、三百余騎でうち向かふ。畠山、今井四郎、始めは互ひに五騎十騎づつ出だし合はせて勝負をせさせ、後には両方乱れ合うてぞ戦ひける。
五月二十一日の午の刻、草もゆるがず照らす日に、我劣らじと戦へば、遍身より汗出でて、水を流すに異ならず。今井が方にも兵多く滅びにけり。畠山、家の子郎等残り少なに討ちなされ、力及ばで引き退く。
次に平家の方より高橋判官長綱、五百余騎で進んだり。木曾殿の方より、樋口次郎兼光、落合五郎兼行、三百余騎で馳せ向かふ。しばし支へて戦ひけるが、高橋が勢は国々の駆り武者なれば、一騎も落ち合はず、我先にとぞ落ちゆきける。高橋心は猛う思へども、後ろあばらになりければ、力及ばで引き退く。
一騎落ちて行く所に、越中国の住人、入善小太郎行重、よい敵と目をかけ、鞭鐙を合はせて馳せ来たり、押し並べてむずと組む。
高橋、入善をつかうで、鞍の前輪に押し付け、「わ君は何者ぞ。名乗れ、聞かう」どいひければ、「越中国の住人、入善小太郎行重、生年十八歳」とぞ名乗る。
「あな無慚、去年後れたる長綱が子も、今年はあらば十八歳ぞかし。わ君ねぢ切つて捨つべけれども、助けん」とて許しけり。我が身も馬より下り、「しばらく味方の勢待たん」とて休みゐたり。
入善、「我をば助けたれども、あつぱれ敵や、いかにもして討たばや」と思ひゐたる所に、高橋うち解けて物語しけり。入善勝れたる早業の男で、刀を抜き飛んでかかり、高橋が内甲を二刀刺す。さるほどに、入善が郎等三騎、後れ馳せに馳せ来たつて落ち合うたり。高橋心は猛く思へども、運や尽きにけん、敵は数多あり、痛手は負うつ、そこにて遂に討たれにけり。
また平家の方より、武蔵三郎左衛門有国、三百余騎ばかりでをめいてかく。源氏の方より仁科、高梨、山田次郎、五百余騎で馳せ向かふ。しばし支へて戦ひけるが、有国が方の勢多く討たれぬ。
有国深入りして戦ふほどに、矢種皆射尽くして、馬をも射させ、徒立ちになり、打ち物抜いて戦ひけるが、敵あまた討ち取り、矢七つ八つ射立てられ、立ち死ににこそ死ににけれ。大将軍かやうになりしかば、その勢皆落ち行きぬ。
→【各章検討:実盛】
また武蔵国の住人、長井の斎藤別当実盛、味方は皆落ち行けども、ただ一騎返し合はせ返し合はせ防き戦ふ。存ずる旨ありければ、赤地の錦の直垂に、萌黄縅の鎧着て、鍬形打つたる甲の緒をしめ、金作りの太刀を帯き、切斑の矢負ひ、重籐の弓持つて、連銭葦毛なる馬に、金覆輪の鞍を置いてぞ乗つたりける。
木曾殿の方より、手塚太郎光盛、よい敵と目をかけ、「あなやさし、いかなる人にてましませば、味方の御勢は、皆落ち候ふに、ただ一騎残らせ給ひたるこそ優なれ。名乗らせ給へ」と言葉をかけければ、「かういふわ殿は誰そ。」「信濃国の住人、手塚太郎金刺光盛」とこそ名乗たれ。
(斎藤別当、)「さては互ひによい敵ぞ。ただしわ殿をさぐるにはあらず、存ずる旨があれば、名乗るまじいぞ。寄れ、組まう、手塚」とて押し並ぶる所に、手塚が郎等、後れ馳せ来たつて、主を討たせじと中に隔たり、斎藤別当にむずと組む。
「あつぱれおのれは日本一の剛の者に組んでうずな、うれ」とて、取つて引き寄せ、鞍の前輪に押し附け、首かき切つて捨ててんげり。手塚太郎、郎等が討たるるを見て、弓手に参り合ひ、鎧の草摺り引きあげて、二刀刺し、弱る所に組んで落つ。
斎藤別当心は猛く思へども、戦にはしつかれぬ、手は負うつ、その上老武者ではあり、手塚が下になりにけり。また手塚が郎等後れ馳せに出で来たるに首取らせ、木曾殿の御前に馳せ参つて、「光盛こそ奇異の曲者組んで討つて候へ。侍かと見候へば、錦の直垂を着て候ふ。大将軍かと見候へば、続く勢も候はず。名乗れ名乗れと責め候ひつれども、遂に名乗り候はず。声は坂東声で候ひつる」と申しければ、
木曾殿、「あはれ、これは斎藤別当であるござんめれ。それならば義仲が上野へ越えたりし時、をさなめに見しかば、白髪の糟生なりしぞ。今は定めて白髪にこそなりぬらんに、鬢髭の黒いこそあやしけれ。樋口次郎は馴れ遊んで見知つたるらん。樋口召せ」とて召されけり。
樋口次郎ただ一目見て、「あな無慚や、斎藤別当で候ひけり。」
木曾殿、「それならば、今は七十にも余り、白髪にこそなりぬらんに、鬢髭の黒いはいかに」と宣へば、樋口次郎涙をはらはらと流いて、「さ候へばそのやうを申し上げうどつかまつり候ふが、あまりにあはれで不覚の涙のこぼれ候ふぞや。弓矢取りはいささかの所でも、思ひ出の言葉をば、かねて使ひおくべきで候ひけるものかな。斎藤別当、兼光に逢うて、常は物語りし候ひし、『六十に余つて戦の陣へ向かはん時は、鬢髭を黒う染めて若やがうど思ふなり。その故は若殿ばらに争ひて先を駆けんもおとなげなし。また老武者とて人のあなどらんも口惜しかるべし』と申し候ひしが、まことに染めて候ひけるぞや。洗はせて御覧候へ」と申しければ、「さもあるらん」とて、洗はせて見給へば、白髪にこそなりにけれ。
錦の直垂を着たりける事は、斎藤別当、最後の暇申しに大臣殿へ参つて申しけるは、「実盛が身一つの事では候はねども、一年東国へ向かひし時、水鳥の羽音に驚いて、矢一つをだに射ずして、駿河の蒲原より逃げ上つて候ひし事、老の後の恥辱、ただこの事に候ふ。今度北国へ向かひては、討ち死につかまつり候ふべし。さらんにとつて、実盛もと越前国の者で候ひしかども、近年御領について武蔵長井に居住せしめ候ひき。事の譬へ候ふぞかし。故郷へは錦を着て帰れといふ事の候ふ。錦の直垂御許し候へ」と申しければ、大臣殿、「やさしうも申したる者かな」とて、錦の直垂を御免ありけるとぞ聞こえし。
昔の朱買臣は、錦の袂を会稽山に翻し、今の斎藤別当は、その名を北国の巷にあぐとかや。朽ちもせぬ空しき名のみ留めおいて、屍は越路の末の塵となるこそ悲しけれ。
去んぬる四月十七日、十万余騎にて、都を立ちし事がらは、何面を向かふべしとも見えざりしに、今五月下旬に帰り上るには、その勢わづかに二万余騎、「流れを尽くして漁る時は、多くの魚を得るといへども、明年に魚無し。林を焼いて猟る時は、多くの獣得うるといへども、明年に獣無し。後を存じて、少々は残さるべかりけるものを」と、申す人々もありけるとかや。
→【各章検討:玄肪】
上総守忠清、飛騨守景家は、去去年入道相国薨ぜられし時、ともに出家したりけるが、今度北国にて子ども皆滅びぬと聞いて、その思ひの積もりにや、遂に歎き死ににぞ死ににける。これをはじめて、親は子に後れ、婦は夫に別れて、凡そ遠国、近国もさこそありけめ、京中には家々に門戸を閉ぢて声々に念仏申し、をめきさけぶ事おびたたし。
六月一日、蔵人右衛門権佐定長、神祇権少副大中臣親俊を殿上の下口へ召して、兵革静まらば、太神宮へ行幸なるべき由仰せ下さる。
太神宮は高天原より天降らせ給ひしを、垂仁天皇の御宇二十五年三月に大和国笠縫の里より、伊勢国渡会郡五十鈴の川上、下津石根に大宮柱をふとしきたてて、祝ひ初め奉つしよりこの方、日本六十余州、三千七百五十社の、大小の神祇冥道の中には無双なり。
されども代々の帝臨幸はなかりしに、奈良の帝の御時、左大臣不比等の孫、参議式部卿宇合の子、右近衛権少将太宰少弐藤原広嗣といふ人ありけり。
天平十五年十月に、肥前国まつらの郡にして、数万の軍兵をそつして、こくかをすでにあやぶめんとす。その時おほののあづまうどを大将軍として、ひろつぎ追討せられし時、みかどおんいのりのために、伊勢大神宮へはじめて行幸ありし、そのれいとぞ聞こえし。
かのひろつぎは肥前松浦郡にして、数万の凶賊を語らつて国家をすでに危めんとす。これによつて大野東人を大将軍にて広嗣を追討せられし時、初めて太神宮へ行幸なりけるとかや。その例とぞ聞こえし。
かの広嗣は肥前の松浦より都へ一日に下り上る馬を持つたりけり。追討せられし時も、味方の凶賊落ち行き、皆滅びて後、件の馬に打ち乗つて、海中へ馳せ入りけるとぞ聞こえし。
その亡霊あれて、恐ろしき事ども多かりける中に、天平十八年六月十八日、筑前国御笠郡太宰府観世音寺、供養せられける導師には、玄肪僧正とぞ聞こえし。
高座に上り、敬白の鐘打ち鳴らす時、俄かに空かき曇り、雷おびたたしう鳴つて、玄肪の上に落ちかかり、その首を取つて、雲の中へぞ入りにける。これは広嗣追討せられし時、調伏したりける故とぞ聞こえし。
かの僧正は、吉備大臣入唐の時、相伴つて渡り、法相宗渡したりし人なり。唐人が玄肪といふ名を笑つて、「玄肪とは還つて滅ぶといふ声あり。いかさまにも帰朝の後、事に逢ふべき人なり」と相したりけるとかや。
同じき天平十九年六月十八日、髑髏に玄肪といふ銘を書いて興福寺の庭に落とし、虚空に人ならば千人ばかりが声で、どつと笑ふ事ありけり。興福寺は法相宗の寺たるによつてなり。かの僧正の弟子どもこれを取つて、塚を築き、その首を納めて、頭墓と名付けて今にあり。これに即ち広嗣が霊の致す所なり。これによつてかの亡霊を崇められて、今の松浦の鏡の宮と号す。
嵯峨皇帝の御時は、平城の先帝、尚侍の勧めによつて夜を乱り給ひし時、その御祈りのために、帝第三の皇女祐智内親王を、賀茂の斎院に立て参らせ給ひけり。これ斎院の始めなり。
朱雀院の御宇には、将門、純友が兵乱によつて、八幡の臨時の祭を始めらる。今度もかやうの例をもつてさまざまの御祈りども始められけり。
→【各章検討:木曾山門牒状】
木曾、越前の国府に着いて、家の子郎等召し集めて評定す。
「そもそも義仲、近江国を経てこそ都へは入らんずるに、例の山僧どもは防く事もやあらんずらん。駆け破つて通らんことはやすけれども、平家こそ当時は仏法ともいはず、寺を滅ぼし僧を失ひ、悪行をば致せ、それを守護のために上洛せんものが、平家と一つなればとて、山門の衆徒に向かつて戦せん事、少しも違はぬ二の舞なるべし。これこそさすがやす大事よ。いかがせん」と宣へば、
手書きに具せられたりける大房覚明申しけるは、「山門の大衆は三千人候ふ。必ず一味同心なる事は候はず。皆思ひ思ひ心々に候ふなり。或いは源氏につかんと申す大衆も候ふらん。或いは平家に同心せんといふ大衆も候らん。牒状を遣はして御覧候へ。事のやう牒状に見え候はんずらん」と申しければ、
「この儀もつとも然るべし。さらば書け」とて、覚明に書かせて、山門へ送る。
その状に言はく、
義仲倩平家の悪逆を見るに、保元平治より以来、長く人臣の礼を失ふ。然りと雖も、貴賤手を束ね、緇祖足を戴く。恣に帝位を進退し、飽くまで国郡を慮領す。道理非理を論ぜず、権門勢家を追捕し、有財無財を道はず、卿相侍臣を損亡す。其の資財を奪ひ取つて、悉く郎従に与へ、彼の庄園を没収して、濫しく子孫に省く。就中去んぬる治承三年十一月、法皇を城南の離宮に遷し奉り、博陸を海西の絶域に流し奉る。
衆庶もの言はず、道路目を以てす。然のみならず、同じき四年五月、二の宮の朱閣を囲み奉り、九重の垢塵を驚かさしむ。爰こ帝子非分の害を逃れんが為に、窃かに園城寺へ入御の時、義仲先日に令旨を給はる間、鞭を挙げんと欲する処に、怨敵巷に満ちて、予参道を失ふ。近境の源氏猶参候せず。況んや遠境に於いてをや。然るを園城は分限無きに依つて南都に趣かしめ給ふ間、宇治橋にて合戦す。大将三位入道頼政父子、命を軽んじ、義を重んじて、一戦の功を励ますと雖も、多勢の責めを免れず、形骸を古岸の苔に暴し、性命を長河の浪に流す。
令旨の趣肝に銘じ、同類の悲しみを消す。之に依つて東国北国の源氏等、各参洛を企てて、平家を滅ぼさんと欲する処に、義仲去んじ年の秋、宿意を達せんが為に、旗を揚げ剣を把つて信州を出でし日、越後国の住人、城四郎長茂、数万の軍兵を率して発向せしむる間、東国横田河原にして合戦す。義仲纔かに三千余騎を以て数万の兵を破り了んぬ。風聞広きに及んで、平氏の大将十万の軍士を率して、北陸に発向す。越州、賀州、砺波、黒坂、塩坂、篠原以下の城郭にして数箇度合戦す。
策を帷幄の中に運らし、勝つことを咫尺の下に得たり。然るを撃てば必ず伏し、責むれば必ず降る。秋の風芭蕉を破るに異ならず、冬の霜の薫蕕を枯らすに相同じ。是れ偏に神明仏陀の助けなり。更に義仲が武略に非ず。平氏敗北の上は、参洛を企つる者なり。今叡岳の麓を過ぎて、洛陽の衢に入るべし。此の時に当たつて窃かに疑胎あり。
抑、天台宗徒平家に同心か、源氏に与力か。若し彼の悪徒を助けらるべくば、衆徒に向かつて合戦すべし。若し合戦を致さば、叡岳の滅亡踵を旋らすべからず。悲しき哉、平氏宸襟を悩まし、仏法を滅ぼす間、悪逆を靖めんが為に、義兵を起す処に、忽ちに三千の衆徒に向かつて不慮の合戦を致さんことを。痛ましき哉、医王、山王に憚り奉て、行程に遅留せしめば、朝廷緩怠の臣として武略瑕瑾の謗りを遺さんことを。謾しく進退に迷つて案内を啓する所なり。庶幾はくは三千の衆徒、神の為、仏の為、国の為、君の為、源氏に同心して凶徒とを誅し、鴻化に浴せん。懇丹の至りに堪へず。義仲恐惶謹んで言す。
寿永二年六月十日 源義仲
進上 恵光坊律師御坊
とぞ書いたりける。
→【各章検討:返牒】
案のごとく山門の大衆、この状を披見して詮議区々なり。或いは源氏に附かんといふ衆徒もあり、或いは平家に同心せんといふ大衆もあり。思ひ思ひ異議様々なり。
老僧どもの詮議しけるは、「詮ずる所、我等もつぱら金輪聖王天長地久と祈り奉る。平家は当代の御外戚、山門において帰敬を致さる。されば今に至るまでかの繁昌を祈誓す。然りといへども、悪行法に過ぎて、万人これを背く。討手を国々へ遣はすといへども、却つて異賊のために落とされぬ。源氏は近年よりこの方、度々の戦にうち勝つて運命開けんとす。何ぞ当山独り宿運尽きぬる平家に同心して、運命開くる源氏を背かんや。須く平家値遇の儀を翻して、源氏合力の心に住すべき」由、一味同心に詮議して、返牒を送る。
木曾殿、また家の子郎等召し集めて、覚明にこの返牒を開かせらる。
六月十日の牒状、同じき十六日に到来、披閲の処に数日の欝念一時に解散す。凡そ平家の悪逆累年に及んで、朝廷の騒動止むこと無し。事人人口に在り、委悉するに能はず。夫れ叡岳に到つては、帝都東北の仁祠として国家静謐の精祈を致す。然るを一天久しく彼の夭逆に侵されて、四海鎮へに其の安全を得ず。顕密の法輪無きが如く、擁護の神威数廃る。爰に貴家適累代武備の家に生まれて、幸ひに当時精選の仁たり。予め奇謀を運らして忽ちに義兵を起す。万死の命を忘れ一戦の功を樹つ。其の労未だ両年を過ぎざるに、其の名既に四海に流る。我が山の衆徒、且つ以て承悦す。
国家の為、累家の為、武功を感じ、武略を感ず。此の如くならば、則ち山上の精祈空しからざることを悦び、海内の衛護怠りなきことを死んぬ。自寺他寺、常住の仏法、本社末社、祭奠の神明、定めて教法の栄えんことを喜び、崇敬の旧に復せんこと、随喜し給ふらん。衆徒等が心中、唯賢察を垂れよ。然れば則ち、冥には十二神将、忝く医王善逝の使者として、兇賊追討の勇士に相加はり、顕には三千の衆徒、暫く修学鑚仰の勤節を止めて、悪侶治罰の官軍を助けしめん。止観十乗の梵風は、奸侶を和朝の外に払ひ、瑜珈三密の法雨は、時俗を堯年の昔に回さん。衆議此の如し。倩之を察せよ。
寿永二年七月二日 大衆等
とぞ書いたりける。
→【各章検討:平家山門連署】
平家はこれを知らずして、「興福、園城両寺は鬱憤を含める折節なれば、語らふともよも靡かじ。当家は今だ山門のために怨を結ばず、山門また当家のために不忠を存ぜず。山王大師に祈誓して三千の衆徒を語らはばや」とて、一門の公卿十人、同心連署の願書を書いて山門へ送らる。
その願書に言はく、
敬白す。延暦寺を以て氏寺に准じ、日吉の社をして氏社となして、一向天台の仏法を仰ぐべきこと。
右当家一族の輩、殊に祈誓することあり。旨趣如何となれば、叡山は是れ桓武天皇の御宇、伝教大師入唐帰朝の後、円頓の教法を此の所に弘め、遮那の大戒を其の内に伝へてより以来、専ら仏法繁昌の霊窟として、久しく鎮護国家の道場に備ふ。方に今、伊豆国の流人源頼朝、其の咎を悔いず、還つて朝憲を嘲る。加之、奸謀に与して同心を致す源氏等、義仲行家以下党を結びて数あり。隣境、遠境数国を領し、土宜貢万物を押領す。此に因つて或いは累代勲功の跡を追ひ、或いは当時弓馬の芸に任せて、速やかに賊徒を追討し、凶党を降伏すべき由、苟しくも勅令を含み、頻りに征罰を企つ。
爰に魚鱗鶴翼の陣、官軍利を得ず、星旄電戟の威、逆類勝に乗るに似たり。若し神明の加被に非ずば、争か反逆の凶乱を靖めん。是を以て一向天台の仏法に帰し、併せて日吉の神恩を憑み奉らまく耳。何に況んや、忝く臣等が曩祖を思へば、本願の余裔と謂つつべし。弥崇重し、弥恭敬すべし。
自今以後、山門に悦びあらば、一門の悦びと為し、社家に憤りあらば一家の憤りとせん。各子孫に伝へて永く失墜せじ。藤氏は春日の社、興福寺を以て氏社、氏寺と為して、久しく法相大乗の宗を帰す。平氏は日吉の社、延暦寺を以て氏社、氏寺と為して、親り円実頓悟の教に値遇せん。彼は昔の遺跡なり。家の為、栄幸を思ふ。此れは今の精祈なり。君の為、追罰を請ふ。仰ぎ願はくは、山王七社、王子眷属、東西満山護法聖衆、日光月光、十二上願医王善逝、無二の丹誠を照らして、唯一の玄応を垂れ給へ。然らば則ち、邪謀逆臣の賊、手を軍門に束ね、暴逆残害の輩首を京都に伝へん。仍つて一門の公卿ら、異口同音に礼を作して、祈誓件の如し。
従三位行兼越前守 平朝臣通盛
従三位行兼右近衛中将 平朝臣資盛
正三位行左近衛中将兼伊予守 平朝臣維盛
正三位行左近衛中将兼播磨守 平朝臣重衡
正三位行右衛門督兼近江遠江守 平朝臣清宗
参議正三位皇太后宮大夫兼修理大夫加賀越中守 平朝臣経盛
従二位行中納言兼左兵衛督征夷大将軍 平朝臣知盛
従二位行権中納言兼肥前守 平朝臣教盛
正二位行兼権大納言兼出羽陸奥按察使 平朝臣頼盛
従一位 平朝臣宗盛
寿永二年七月五日 敬白
とぞ書かれたる。
貫首、これを憐れみ給ひて、左右なうも披露せられず。十禅師の御殿に籠めて、三日加持して、その後衆徒に披露せらる。始めはありとも見えざりし一首の歌、願書の上巻に出きたり。
♪57
平らかに 花咲く宿も 年経れば
西へ傾く 月とこそ見れ
山王大師憐れみを垂れ給ひ、三千の衆徒力を合はせよとなり。されども年ごろ日ごろの振舞、神慮にも違ひ、人望にも背きにければ、祈れどもかなはず、語らへども靡かざりけり。
大衆まことに事の体を憐れみけれども、「すでに源氏同心の返牒を送る。今また軽々しく其の議を改むるに能はず」とて、これを許容する衆徒もなし。
→【各章検討:主上都落】
同じき七月十四日、肥後守貞能、鎮西の謀叛平らげて、菊池、原田、松浦党以下三千余騎を召し具して上洛す。鎮西はわづかに平らげども、東国、北国の戦、いかにもしづまらず。
同じき二十二日の夜半ばかり、六波羅の辺おびたたしう騒動す。馬に鞍置き、腹帯しめ、物ども東西南北へ運び隠す。ただ今敵のうち入つたる様なり。
明けて後聞こえしは、美濃源氏佐渡衛門尉重貞といふ者あり。一年保元の合戦の時、鎮西八郎為朝が方の戦に負けて落人になつたりしを、からめて出だしたりし勧賞に、もとは兵衛尉たりしが、右衛門尉になりぬ。これによつて一門にはあたまれて、平家にへつらひけるが、その夜の夜半ばかり六波羅に馳せ参つて申しけるは、
「木曾すでに北国より五万余騎で攻め上り、比叡山東坂元に満ち満ちて候ふ。郎等に楯六郎親忠、手書に大夫房覚明、六千余騎で天台山に競ひ登り、三千の衆徒皆同心して、ただ今都へ攻め入る」由申したりける故なり。
平家の人々大きに騒いで、方々へ討手を向けられけり。
大将軍には新中納言知盛卿、本三位中将重衡卿、都合その勢三千余騎、都を立つてまづ山科に宿せらる。越前三位通盛、能登守教経、二千余騎で宇治橋を固めらる。左馬頭行盛、薩摩守忠度、一千余騎で淀路を守護せられけり。
源氏の方には十郎蔵人行家、数千騎で宇治橋より入るとも聞こえけり。陸奥新判官義康が子、矢田判官代義清、大江山を経て上洛すとも申し合へり。摂津国河内の源氏等雲霞のごとくに同じく都へ乱れ入る由聞こえしかば、平家の人々、「この上はただ一所でいかにもなり給へ」とて、方々へ向けられたりける討手ども、都へ皆呼び返されけり。
帝都名利の地、鶏鳴いて安き事なし。治まれる世だにもかくのごとし。況んや乱れたる世においてをや。吉野山の奥へも入りなばやとは思しけれども、諸国七道ことごとく背きぬ。いづれの浦か穏しかるべき。三界無安猶如火宅とて、如来の金言一乗の妙文なれば、なじかは少しも違ふべき。
同じき二十七日のさ夜ふけ方に、前内大臣宗盛公、建礼門院の渡らせ給ふ六波羅池殿に参つて申されけるは、「この世の中の有様、さりともとこそ存じ候ひつるに、今はかうにこそ候ふめれ。ただ都の内でいかにもならんと人々とは申し合はれ候へども、目のあたり憂き目を見せ参らせんも、口惜しく候へば、院をも内をも取り奉つて、西国の方へ御幸行幸をもなし参らせばやとこそ思ひなつて候へ」と申されければ、
女院、「今はただともかうも、そこの計らひでこそあらんずらめ」とて、御衣の御袂に余る御涙、せきあへさせ給はず。大臣殿も直衣の袖絞るばかりに見えられけり。
その夜、法皇をば内々平家の取り奉つて、都の外へ落ち行くべしといふ事を聞こし召されてやありけん、按察大納言資賢卿の子息、右馬頭資時ばかり御供にて、密かに御所を出でさせ給ひ、鞍馬へ幸なる。人これを知らざりけり。
平家の侍橘内左衛門尉季康といふ者あり。さかざかしき男にて、院にも召し使はれけり。
その夜しも法住寺殿に御宿直して候ひけるに、常の御所の方、よに騒がしうささめき合ひて、女房達忍び音に泣きなどし給へば、何事やらんと聞くほどに、「法皇の俄かに見えさせ給はぬは、いづ方へ御幸やらん」と申す声に聞きなしつ。
あなあさましとて、やがて波羅へ馳せ参り、大臣殿にこの由申しければ、「いで僻事でぞあるらん」と宣ひながら、聞きもあへず急ぎ法住寺殿へ参つて見参らせ給へば、げにも見えさせ給はず。御前に候はせ給ふ女房達、二位殿丹後殿以下一人も働き給はず。
「いかにやいかに」と申されけれども、「我こそ御行方知り参らせたれ」と申し告ぐ人一人もおはせず、皆あきれたる様なりけり。
さるほどに、法皇都の内にも渡らせ給はずと申すほどこそありけれ、京中の騒動なのめならず。況んや平家の人々の慌て騒がれける有様、家々に敵のうち入りたりとも限りあれば、これには過ぎじとぞ見えし。日頃は平家院をも内をも取り参らせて、西国の方へ御幸行幸をもなし参らせんと支度せられたりしに、かくうち捨てさせ給ひぬれば、頼む木のもとに雨のたまらぬ心地ぞせられける。
「さりとては行幸ばかりなりともなし参らせよ」とて、卯の刻ばかりに行幸の御輿寄せたりければ、主上は今年六歳、いまだいとけなうましましければ、何心なくぞ召されけり。国母儀建礼門院、御同輿に参らせ給ふ。内侍所、神璽、宝剣渡し奉る。
「印鑰、時の札、玄上、鈴鹿なども取り具せよ」と平大納言下知せられけれども、あまりに慌て騒いで、取り落とす物ぞ多かりける。昼の御座の御剣なども取り忘れさせ給ひけり。
やがてこの時忠卿、内蔵頭信基、讃岐中将時実三人ばかりぞ、衣冠にて供奉せられける。近衛司、御綱佐、甲冑を鎧ひ、弓箭を帯して供奉せらる。七条を西へ、朱雀を南へ行幸なる。
明くれば七月二十五日なり。漢天すでに開けて、雲東嶺にたなびき、明け方の月白く冴えて、鶏鳴また忙し。ゆめにだにかかる事は見ず。
一年都遷りとて、俄かに慌しかりしは、かかるべかりける先表とも、今こそ思ひ知られけれ。
摂政殿も行幸に供奉して、御出なりけるが、七条大宮にて鬟結ひた童子の御車の前をつと走り通るを御覧ずれば、かの童子の左の袂に、春の日といふ文字ぞあらはれたる。春の日と書いてかすがと読めば、法相擁護の春日大明神、大織冠の御末を守らせ給ひけりと、頼もしう思し召す所に、件の童子の声とおぼしくて、
♪58
いかにせん 藤の末葉の 枯れゆくを
ただ春の日に まかせてやみん
御供に候ふ進藤左衛門尉高直を近う召して、「つらつら事の体を案ずるに、行幸はなれども御幸もならず。行く末頼もしからず思し召すはいかに」と仰せければ、御牛飼ひに目を見合はせたり。やがて心得て、御車を遣り返し、大宮を上りに飛ぶがごとくにつかまつる。北山の辺、知足院へ入らせ給ふ。
→【各章検討:維盛都落】
平家の侍越中次郎兵衛盛嗣、これを承つて追ひ留め参らせんと頻りに進みけるが、人々に制せられて留まりけり。
小松三位中将維盛は、日頃より思し召し設けられたりけれども、さし当たつては悲しかりけり。北の方と申すは、故中御門新大納言成親卿の御娘なり。桃顔露に綻び、紅粉眼に媚をなし、御髪風に乱るる粧ひ、また人あるべしとも見え給はず。六代御前とて、生年十になり給ふ若君、その妹八歳の姫君おはしけり。
この人々、皆後れじと慕ひ給へば、三位中将宣ひけるは、「日頃申ししやうに、我が一門に具して、西国の方へ落ち行くなり。いづくまでも具し奉るべけれども、道にも敵待つなれば、心安う通らん事も有り難し。たとひ我討たれたりと聞き給ふとも、様など替へ給ふ事はゆめゆめあるべからず。その故は、いかならん人にも見えて、身を助け、幼き者どもをも育み給ふべし。情けをかくる人もなどかなかるべき」と、やうやうに慰め給へども、北の方とかうの返事もし給はず、引き被きてぞ伏し給ふ。
すでにうつ立たんとし給へば、袖にすがつて、「都には父もなし、母もなし。捨てられ参らせて後、また誰にかは見ゆべきに、いかならん人にも見えよなど承るこそ恨めしけれ。前世の契りありければ、人こそ憐れみ給ふとも、また人ごとにしもや情けをかくべき。いづくまでも伴ひ奉り、同じ野原の露とも消え、一つ底の水屑ともならんとこそ契りしに、さればさ夜の寝覚めの睦言は、皆偽りになりにけり。せめては身一つならばいかがせん。捨てられ奉る身の憂さを思ひ知つても留まりなん。幼き者どもをば、誰に見譲り、いかにせよとか思し召す。恨めしうも留め給ふものかな」と、且つうは恨み、且つうは慕ひ給へば、
三位中将宣ひけるは、「まことに人は十三、我は十五より見そめ奉り、火の中、水の底へもともに入り、ともに沈み、限りある別れ路までも後れ先立たじとこそ申ししかども、かく心憂き有様にて戦の陣へ赴けば、具足し奉り、行方も知らぬ旅の空にて、憂き目を見せ奉らんもうたてかるべし。その上、今度は用意も候はず。いづくの浦にも心安う落ちついたらば、それよりしてこそ迎へに人をも奉らめ」とて、思ひ切つてぞ立たれける。
中門の廊に出でて、鎧とつて着、馬引き寄せさせ、すでに乗らんとし給へば、若君、姫君走り出でて、父の鎧、草摺に取りつき、「これはされば、いづちへとて渡らせ給ふぞ。我も参らん、我も行かん」と、面々に慕ひ泣き給ふにぞ、憂き世の絆とおぼえて、三位中将、いとどせん方なげには見えられける。
さるほどに、御弟新三位中将資盛卿、左中将清経、同じく少将有盛、丹後侍従忠房、備中守師盛兄弟五騎、乗りながら門の内へうち入り、庭に控へて、「行幸は遥かに延びさせ給ひぬらん。いかにや今まで」と、声々に申されければ、三位中将、馬にうち乗つて出で給ふが、なほ引つ返し、縁の際へうち寄せて、弓の筈で御簾をざつとかき上げ、「これ御覧ぜよ、各。幼き者どもが余りに慕ひ候ふを、とかうこしらへおかんとつかまつるほどに、存じのほかの遅参」と宣ひもあへず泣かれければ、庭に控へ給へる人々、皆鎧の袖をぞ濡らされける。
ここに斎藤五、斎藤六とて、兄は十九、弟は十七になる侍あり。
三位中将の御馬の左右のみつづきに取りつき、いづくまでも御供つかまつるべき由申せば、三位中将宣ひけるは、「己等が父斎藤別当、北国へ下つし時、汝等が頻りに供せうど言ひしかども、『存ずる旨があるぞ』とて、汝等を留め置き、北国へ下つてつひに討死したりけるは、かかるべかりける事を、古い者でかねて知つたりけるにこそ。あの六代を留めて行くに、心安う扶持すべき者のなきぞ。ただ理を曲げて留まれ」と宣へば、力及ばず、涙を押へて留まりぬ。
北の方は、「年頃日頃、これほど情けなかりける人とこそ、かねても思はざりしか」とて、伏しまろびてぞ泣かれける。若君、姫君、女房たちは、御簾の外までまろび出でて、人の聞くをも憚らず、声をはかりにぞをめき叫び給ひける。この声々耳の底に留まって、西海の立つ波の上、吹く風の音までも聞くやうにこそ思はれけめ。
平家都を落ちゆくに、六波羅、池殿、小松殿、八条、西八条以下、一門の卿相、雲客の家々二十余箇所、次々の輩の宿所宿所、京都白河に四五万軒の在家、一度に火をかけて皆焼き払ふ。
→【各章検討:聖主臨幸】
或いは聖主臨幸(せいしゆりんかう)の地なり。鳳闕(ほうけつ)むなしく礎を残し、鸞與(らんよ)ただ跡をとどむ。
或いは后妃遊宴(こうひいうえん)の砌(みぎり)なり。椒房(せうばう/せうはう)の嵐声(あらしこえ)悲しみ、掖庭(えきてい)の露色(つゆいろ)愁(うれ)ふ。
粧鏡翠帳の基(さうきやうすゐちやうのもとゐ)、弋林釣渚の館(よくりんてうしよのたち)、槐棘の座(くわいきよくのざ)、鵷鸞の栖(えんらんのすみか)、多日の経営を空しうして(たじつのけいえいをむなしうして)、片時の灰燼(へんしのくわいしん/かたときのかいじん)となり果てぬ。
況んや郎従の蓬蓽に於てをや(いはんやらうじうのほうひつにおいてをや)。
況んや雑人の屋舎に於てをや(いはんやざふにんのをくしやにおいてをや)。
余炎(よえん)の及ぶ所、在在所所(ざいざいしょしょ)数十町なり。
強呉(きやうご)忽ちに亡びて(たちまちにほろびて)、姑蘇台の露(こそたいのつゆ)荆棘(けいきよく)に移り、暴秦(ぼうしん)既に衰へて、咸陽宮の烟(かんやうきうのけぶり)、睥睨(へいけい)を隠(かく)しけんも、かくやと覚えて哀れなり(/かくやとぞおぼえける)。
日比(ひごろ)は函谷二崤(かんこくじかう)の嶮(さが)しきを固うせしかども、北狄(ほくてき)のためにこれを破られ、今は洪河涇渭(こうかけいゐ)の深きを憑み(たのみ/頼み)しかども、東夷(とうい)のためにこれを取られたり。
豈図りきや(あにはかりきや)、忽ちに礼儀の郷を責め出だされて(たちまちにれいぎのきやうをせめいだされて)、泣く泣く無智の境(さかひ)に身を寄せんと。
昨日は雲の上に雨を下す神竜たりき。
今日は肆の辺(いちぐらのへん/ほとり)に水を失ふ枯魚の如し(こぎよのごとし)。
禍福(くわふく)道を同じうし、盛衰掌(じやうすゐたなごころ)をかへす。いま目の前にあり。誰(たれ)かこれを悲しまざらん。
保元(ほうげん)の昔は春の花と栄えしかども、寿永(じゆえい)の今はまた秋の紅葉(もみぢ)と落ち果てぬ。
去んぬる治承四年七月、大番のために上洛したりける畠山庄司重能、小山田別当有重、宇都宮左衛門朝綱、寿永まで、召し籠められてありしが、その時すでに斬らるべかりしを、新中納言知盛卿申されけるは、「御運だに尽きさせ給ひなば、これら百人千人が首を斬らせ給ひたりとも、世を取らせ給はん事難かるべし。故郷には妻子所従等、いかに歎き悲しみ候ふらん。もし不思議に運命開けて、また都へ立ち帰らせ給はん時は、有り難き御情けでこそ候はんずれ。ただ理を曲げて本国へかへし遣はさるべう候ふらん」と申されければ、大臣殿、「この儀もっとも然るべし」とて、暇を賜ぶ。
これ等首を地につけ、涙を流いて申しけるは、「去んぬる治承より今まで、かひなき命を扶けられ参らせて候へば、いづくまでも御供に候ひて、行幸の御行方を見参らせん」と頻りに申しけれども、大臣殿、「汝等は魂は皆東国にこそあるらんに、ぬけがらばかり西国へ召し具すべきやうなし。急ぎ下れ」と仰せられたりければ、力なく涙を押さへて下りけり。これらも二十余年の主なれば、別れの涙押さへ難し。
→【各章検討:忠度都落】
薩摩守忠度は、いづくよりか帰られたりけん。侍五騎童一人、我が身ともに七騎とつてかへし、五条の三位俊成卿の宿所におはして見給へば、門戸を閉ぢて開かず。「忠度」と名乗り給へば、「落人帰り来たり」とて、その内騒ぎ合へり。
薩摩守馬より下り、自ら高らかに宣ひけるは、「別の仔細候はず。三位殿に申すべき事あつて、忠度が参つて候ふ。門をば開けられずとも、この際まで立ち寄らせ給へ」と宣へば、俊成卿、「さる事あり。その人ならば苦しかるまじ。入れ申せ」とて、門を開けて対面ありけり。事の体何となうあはれなり。
薩摩守宣ひけるは、「年頃申し承つて後、疎かならぬ御事に思ひ参らせ候へども、この二三年は、京都の騒ぎ、国々の乱れ、しかしながら当家の身の上の事に候ふ間、疎略を存ぜずといへども、常に参り寄る事も候はず。君すでに都を出でさせ給ひぬ。一門の運命はや尽き候ひぬ。撰集のあるべき由承り候ひしかば、生涯の面目に、一首なりとも御恩をかうむらうど存じて候ひしに、やがて世の乱れ出で来て、その沙汰なく候ふ条、ただ一身の歎きと存ずるで候ふ。世静まり候ひなば、撰集の御沙汰候はんずらん。これに候ふ巻物の中に、さりぬべき物候はば、一首なりとも御恩をかうむつて、草の陰にても嬉しと存じ候はば、遠き御守りでこそ候はんずれ」とて、日頃詠みおかれたる歌どもの中に、秀歌とおぼしきを百余首かき集められたる巻物を、今はとてうつ立たれける時、これを取つて持たれたりしが、鎧の引合より取り出でて、俊成卿に奉る。
三位これを開けて見て、「かかる忘れ形見を賜はりおき候ひぬる上は、ゆめゆめ疎略を存ずまじう候ふ。御疑ひあるべからず。さてもただ今の御渡りこそ、情も深う、あはれもことに思ひ知られて、感涙押さへ難うこそ候へ」と宣へば、薩摩守喜んで、「今は西海の波の底に沈まば沈め、山野にかばねをさらさばさらせ、憂き世に思ひ置く事候はず。さらば隙申して」とて、馬にうち乗り甲の緒を締め、西を指いてぞ歩ませ給ふ。
三位後ろを遥かに見送つて立たれたれば、忠度の声とおぼしくて、「先途程遠し、思ひを雁山の夕べの雲に馳す」と高らかに口ずさみ給へば、俊成卿いとど名残惜しうおぼえて、涙を押さへてぞ入り給ふ。
その後世静まつて、千載集を撰ぜられけるに、忠度のありし有様、言ひ置きし事のは、今さら思ひ出でてあはれなりければ、かの巻物の中に、さりぬべき歌いくらもありけれども、勅勘の人なれば、名字をばあらはされず、故郷の花といふ題にて詠まれたりける歌一首ぞ、読人知らずと入れられける。
♪59
さざ浪や 志賀の都は 荒れにしを
昔ながらの 山桜かな
その身朝敵となりにし上は、仔細に及ばずと言ひながら、恨めしかりし事どもなり。
→【各章検討:経正都落】
修理大夫経盛の子息、皇后宮亮経正、幼少にては仁和寺の御室の御所にて童形にて候はれしかば、かかる怱劇の中にもその御名残きつと思ひ出でて、侍五六騎召し具して、仁和寺殿へ馳せ参り、門前にて馬より下り、申し入れられけるは、
「一門運尽きて今日すでに帝都をまかり出で候ふ。憂き世に思ひ残す事とては、ただ君の御名残ばかりなり。八歳の時参り始め候うて、十三で元服つかまつり候ひしまでは、相労る事の候はんよりほかは、あからさまにも御前を立ち去る事も候ざりしに、今日より後、西海千里の波に赴いてまたいづれの日いづれの時帰り参るべしともおぼえぬこそ、口惜しく候へ。今一度御前へ参つて、君をも見参らせたう候へども、すでに甲冑を鎧ひ弓箭を帯し、あらぬ様なる装ひにまかりなつて候へば、憚り存じ候ふ」とぞ申されける。
御室あはれに思し召し、「ただその姿を改めずして参れ」とこそ仰せけれ。
経正その日は、紫地の錦の直垂に、萌黄匂の鎧着て、長覆輪の太刀を帯き、切斑の矢負ひ、滋籐の弓脇に挟み、甲をば脱ぎ高紐にかけ、御前の御坪に畏まる。
御室やがて御出あつて、御簾高く揚げさせ、「これへこれへ」と召されければ、大床へこそ参られけれ。供に具せられたる藤兵衛有教を召す。赤地の錦の袋に入れたる御琵琶持つて参りたり。
経正これを取り次いで、御前にさし置き、申されけるは、「先年下し預かつて候ひし青山持たせて参つて候ふ。余りに名残は惜しう候へども、さしもの名物を田舎の塵になさん事、口惜しう候ふ。もし不思議に運命開けて、また都へ立ち帰る事候はば、その時こそなほ下し預かり候はめ」と泣く泣く申されければ、御室あはれに思し召し、一首の御詠をあそばいて下されけり。
♪60
あかずして 別るる君が 名残をば
後の形見に つつみてぞおく
経正御硯下されて、
♪61
呉竹の 筧の水は かはれども
なほすみあかぬ 宮の中かな
さて暇申して出でられけるに、数輩の童形、出世者、坊官、侍僧に至るまで、経正の袂にすがり袖を控へて、名残を惜しみ涙を流さぬはなかりけり。
その中にも経正の幼少の時、小師でおはせし大納言法印行慶と申すは、葉室の大納言光頼卿の御子なり。余りに名残を惜しみて、桂川の端までうち送り、さてもあるべきならねば、それより暇乞うて泣く泣く別れ給ふに、法印かうぞ思ひ続け給ふ。
♪62
あはれなり 老木若木も 山桜
おくれ先だち 花は残らじ
経正の返事には、
♪63
旅衣 よなよな袖を かた敷きて
思へば我は 遠くゆきなん
さて巻いて持たせられたる赤旗ざつとさし揚げたり。あそこここに控へて待ち奉る侍ども、あはやとて馳せ集まり、百騎ばかり鞭をあげ、駒を早めて、ほどなく行幸に追つ付き奉らる。
→【各章検討:青山之沙汰】
この経正十七の年、宇佐の勅使を承つて下られけるに、その時青山を賜はつて、宇佐へ参り、御殿に向かひ奉り秘曲を弾き給ひしかば、いつ聞き馴れたる事はなけれども、供の宮人おしなべて、緑衣の袖をぞ絞りける。聞き知らぬ奴までも、村雨とはまがはじな。めでたかりし事どもなり。
かの青山と申す御琵琶は、昔、仁明天皇の御宇、嘉祥三年の春、掃部頭貞敏渡唐の時、大唐の琵琶の博士妾夫に逢ひ、三曲を伝へて帰朝せしに、玄上、獅子丸、青山、三面の琵琶を相伝渡りけるが、竜神や惜しみ給ひけん、波風荒く立ちければ、獅子丸をば海底に沈め、今二面の琵琶を渡して、我が朝の帝の御宝とす。
村上の聖代応和の頃ほひ、三五夜中新月白く冴え、涼風颯々たりし夜半ばに、帝清涼殿にして玄上をぞ遊ばされける時に、影のごとくなる者御前に参じて、優にけだかき声にて唱歌をめでたうつかまつる。
帝、御琵琶をさしおかせ給ひて、「そもそも汝はいかなる者ぞ。いづくより来たれるぞ」と御尋ねあれば、
「これは昔貞敏に三曲を伝へ候ひし大唐の琵琶の博士廉妾夫と申す者で候ふが、三曲の中秘曲を一曲残せるによつて、魔道に沈淪つかまつつて候ふ。今御琵琶の撥音妙に聞こえ侍る間、参入つかまつる所なり。願はくはこの曲を君に授け奉り、仏果菩提を証ずべき」由申して、御前に立てられたる青山を取り、転手をねぢて秘曲を君に授け奉る。三曲の中、上玄、石上これなり。
その後は君も臣も恐れさせ給ひて、この琵琶を遊ばし弾く事もせさせ給はず。御室へ参らせられたりけるを、経正の幼少の時、御最愛の童形たるによつて下し預かりたりけるとかや。
甲は紫藤の甲、夏山の峰の緑の木の間より、有明の月の出づるを撥面にかかれたりける故にこそ、青山とはつけられたれ。玄上にも相劣らぬ希代の名物なりけり。
→【各章検討:一門都落】
池大納言頼盛卿も、池殿に火かけて出でられけるが、鳥羽の南の門に控へつつ、「忘れたる事あり」とて、赤印切り捨てて、その勢三百余騎、都へとつて返されけり。
平家の侍、越中次郎兵衛盛嗣、大臣殿の御前に馳せ参つて、「あれ御覧候へ。池殿の御留まり候ふに、多うの侍どもの付き参らせてまかり留まるが奇怪におぼえ候ふ。大納言殿までは恐れも候ふ。侍どもに矢一つ射かけ候はん」と申しければ、「年来の重恩を忘れて、今この有様を見果てぬ不当人をば、さなくともありなん」と宣へば、力及ばで留まりけり。
「さて小松殿の公達はいかに」と宣へば、「いまだ御一所も見えさせ給ひ候ず」と申す。
その時、新中納言涙をはらはらと流いて、「都を出でて今だ一日だにも過ぎざるに、いつしか人の心どもの変はりゆくうたてさよ。まして行く末とてもさこそはあらんずらめと思ひしかば、都の内でいかにもならんと申しつるものを」とて、大臣殿の御方を恨めしげにぞ見給ひけれ。
そもそも池殿の留給ふ事をいかにといふに、兵衛佐、常は頼盛に情けをかけて、「御方をばまつたく疎かに思ひ参らせ候はず。ただ故池殿の渡らせ給ふとこそ存じ候へ。八幡大菩薩も御照罸候へ」など、度々誓状をもつて申されける上、平家追討のために討手の使ひの上る度ごとに、「相構へて池殿の侍どもに向かつて弓引くな」など情をかくれば、「一門の平家は運尽き、すでに都を落ちぬ。今は兵衛佐に助けられんずるにこそ」と宣ひて、都へ帰られけるとぞ聞こえし。八条女院の、仁和寺の常葉殿に渡らせ給ふに参り籠られけり。女院の御乳母子宰相殿と申す女房に、相具し給へるによつてなり。
「自然の事候はば、頼盛構へて助けさせ給へ」と申されけれども、女院、「今は世の世にてもあらばこそ」とて頼もしげもなうぞ仰せける。およそは兵衛佐ばかりこそ、芳心は存ぜらるとも、自余の源氏どもはいかがあらんずらん。なまじひに一門には離れ給ひぬ、波にも磯にも着かぬ心地ぞせられける。
さるほどに小松殿の公達は、三位中将維盛卿を始め奉て、兄弟六人その勢千騎ばかりにて、淀の六田河原にて行幸に追つ付き奉る。大臣殿待ちうけ奉り、嬉しげにて、「いかにや今まで」と宣へば、三位中将、「幼き者どもが余りに慕ひ候ふを、とかうこしらへおかんと遅参つかまつり候ひぬ」と申されければ、大臣殿、「などや心強う六代殿をば具し奉り給はぬぞ」と仰せられければ、維盛卿、「行く末とても頼もしうも候はず」とて、問ふにつらさの涙を流されけるこそ悲しけれ。
落ちゆく平家は誰々ぞ。前内大臣宗盛公、平大納言時忠、平中納言教盛、新中納言知盛、修理大夫経盛、右衛門督清宗、本三位中将重衡、小松三位中将維盛、新三位中将資盛、越前三位通盛、殿上人には内蔵頭信基、讃岐中将時実、左中将清経、小松少将有盛、丹後侍従忠房、皇后宮亮経正、左馬頭行盛、薩摩守忠度、能登守教経、武蔵守知章、備中守師盛、淡路守清房、尾張守清定、若狭守経俊、蔵人大夫業盛、大夫敦盛、僧には二位僧都全真、法勝寺執行能円、中納言律師仲快、経誦房阿闍梨祐円、侍には受領、検非違使、衛府、諸司百六十人、都合その勢七千余騎、これは東国、北国度々の戦にこの二三箇年が間、討ち洩らされてわづかに残る所なり。
山崎関戸院に玉の御輿をかき据ゑて男山を伏し拝み、平大納言時忠卿、「南無帰命頂礼八幡大菩薩、君を始め参らせて、我等都へ帰し入れさせ給へ」と祈られけるこそ悲しけれ。
各後ろを顧み給へば、霞める空の心地して、煙のみ心細く立ちのぼる。
平中納言教盛、
♪64
はかなしな 主は雲居に 別るれば
宿は煙と 立ちのぼるかな
修理大夫経盛、
♪65
故郷を 焼野の原と かへりみて
末も煙の 波路をぞ行く
まことに故郷をば、一片の煙塵に隔てつつ、先途万里の雲路に赴かれけん人々の心の中、推し量られてあはれなり。
肥後守貞能は、川尻に源氏待つと聞いて、蹴散らさんとて、その勢五百余騎で発向したりけるが、僻事なれば帰り上るほどに、宇度野の辺にて行幸に参り合ふ。
貞能馬より飛び下り、弓脇挟み、大臣殿の御前に畏まつて申しけるは、「これはそもそもいづちへとて落ちさせ給ひ候ふやらん。西国へ下らせ給ひたらば、落人とてあそこここにて討ち散らされ、憂き名を流させ給はん事こそ口惜しう候へ。ただ都の内でこそいかにもならせ給はめ」と申しければ、
大臣殿、「貞能は知らぬか。木曾すでに北国より五万余騎で攻め上り、比叡山東坂本に満ち満ちたんなり。この夜半ばかりより法皇も渡らせ給はず。各が身ばかりならばいかがせん。女院、二位殿に憂き目を見せ参らせんも心苦しければ、行幸をもなし参らせ、人々をも引き具し奉つて、一まどもやと思ふぞかし」と仰せられければ、
「さ候ば、貞能は暇を賜はつて、都でいかにもなり候はん」とて、召し具したりける五百余騎の勢をば、小松殿の公達につけ参らせ、手勢三十騎ばかりで都へ引き返す。
京中に残り留まる平家の余党を討たんとて、貞能が帰り入る由聞こえしかば、池大納言、「頼盛が上でぞあるらん」とて、大きに恐れ騒がれけり。
貞能は、西八条の焼け跡に大幕引かせ、一夜宿したりけれども、帰り入り給ふ平家の公達一所もおはせねば、さすが心細うや思ひけん、源氏の馬の蹄にかけじとて、小松殿の御墓掘らせ、御骨に向かひ奉つて、泣く泣く申しけるは、
「あなあさまし、御一門の御果て御覧候へ。『生ある者は必ず滅す。楽しみ尽きて悲しみ来たる』と、古より書き置きたる事にて候へども、まのあたりかかる憂き事候はず。君はかやうの事をまづ悟らせ給ひて、かねて仏心三法に御祈誓あつて、御世を早うせさせましましけることにこそ。有り難うこそおぼえ候へ。その時、貞能も最後の御供つかまつるべう候ひけるものを、かひなき命を生きて、今はかかる憂き目に逢ひ候ふ。死期の時は、必ず一仏土へ迎へさせ給へ」と泣く泣く遥かにかき口説き、
骨をば高野へ送り、あたりの土をば賀茂川に流させ、世の有様頼もしからずや思ひけん、主と後ろ合はせに、東国へこそ落ちゆきけれ。宇都宮をば貞能が申し預かつて、情けありければ、その誼にや、貞能また宇都宮を頼んで下つたりければ、芳心しけるとぞ聞こえし。
→【各章検討:福原落】
平家は小松三位中将維盛の卿のほかは、大臣殿以下、妻子を具せられけれども、次ざまの人どもはさのみ引きしろふに及ばねば、後会その期を知らず、皆うち捨ててぞ落ち行きける。
人はいづれの日いづれの時、必ず立ち帰るべしと、その期を定め置くだにも久しきぞかし。況んやこれは今日を最後、ただ今限りの別れなれば、行くも止まるも、互ひに袖をぞ濡らしける。相伝譜代の好、年ごろ日ごろの重恩、いかでか忘るべきなれば、老いたるも若きも、後ろのみ顧みて、先へは進みもやらざりける。
或いは磯辺の波枕、八重の潮路に日を暮らし、或いは遠きを分け、嶮しきを凌ぎつつ、駒に鞭打つ人もあり、舟に棹さす者もあり、思ひ思ひ心々に落ちゆきけり。
福原の旧都に着いて、大臣殿しかるべき侍ども、老少数百人召して仰せられけるは、「積善の余慶家に尽き、積悪の余殃身に及ぶ故に、神明に放たれ奉り、君にも捨てられ参らせて、帝都を出で旅箔に漂ふ上は、何の頼みかあるべきなれども、一樹の陰に宿るも、前世の契り浅からず。同じ流れを結ぶも、他生の縁なほ深し。いかに況んや、汝等は、一旦従ひ付く門客にあらず、累祖相伝の家人なり。或いは近親の好、他に異なるもあり。或いは重代芳恩これ深きもあり、家門繁昌の古は、恩波によつて私を顧みき。今なんぞ芳恩を酬いざらんや。且つうは十善帝王、三種の神器を帯して渡らせ給へば、いかならん野の末、山の奥までも、行幸の御供つかまつらんとは思はずや」と仰せられければ、
老少みな涙を流いて申しけるは、「あやしの鳥獣も、恩を報じ徳を報ふ心は候ふなり。申し候はんや、人倫の身として、いかがその理を存知つかまつらでは候ふべき。二十余年の間、妻子を育み所従を顧みる事、しかしながら君の御恩ならずといふ事なし。しかれば日本のほか、新羅、百済、高麗、契丹、雲の果て海の果てまでも、行幸の御供つかまつり、いかにもなり候はん」と、異口同音に申したりければ、人々みな頼もしげにぞ見給ひける。
福原の旧里に一夜をこそ明かされけれ。折節秋の初めの月は下の弓張りなり。深更空夜閑かにして、旅寝の床の草枕、露も涙も争ひて、ただもののみぞ悲しき。
いつ帰るべしともおぼえねば、故入道相国の造り置き給ひし所々を見給ふに、春は花見の岡の御所、秋は月見の浜の御所、泉殿、松蔭殿、馬場殿、二階の桟敷殿、雪見の御所、萱の御所、人々の館ども、五条大納言邦綱卿の承つて造進せられし里内裏、鴦の瓦、玉の石畳、いづれもいづれも三年がほどに荒れ果てて、旧苔道を塞ぎ、秋の草門を閉づ。瓦に松生ひ、垣に蔦茂れり。台傾いて苔むせり。松風ばかりや通ふらん。簾絶えて閨あらはなり。月影のみぞさし入りける。
明けぬれば、福原の内裏に火をかけて、主上を始め奉つて、人々皆御舟に召す。都を出でしほどこそなけれども、これも名残は惜しかりけれ。海士の焚く藻の夕煙、尾上の鹿の暁の声、渚々に寄する波の音、袖に宿借る月の影、千種にすだく蟋蟀のきりぎりす、すべて目に見え、耳に触るる事、一つとしてあはれを催し、心を傷ましめずといふ事なし。
昨日は東関の麓に轡を並べて十万余騎、今日は西海の波に纜を解いて七千余人、雲海沈々として青天すでに暮れなんとす。孤島に夕霧隔てて月海上に浮かべり。極浦の波を分け、潮に引かれてゆく船は、半天の空に遡る。日数経れば、都はすでに山川程を隔てて、雲居のよそにぞなりにける。はるばる来ぬと思へども、ただ尽きせぬものは涙なり。波の上に白き鳥の群れゐるを見給ひては、かれならん、在原の某の、隅田川にて言問ひけん、名もむつまじき都鳥かなとあはれなり。
寿永二年七月二十五日に、平家都を落ち果てぬ。
→【概要:巻第八】
→【各章検討:山門御幸】
寿永二年七月二十四日の夜半ばかり、法皇は案擦大納言資賢卿の子息、右馬頭資時ばかりを御供にて、密かに御所を出でさせ給ひて、鞍馬へ御幸なる。
寺僧ども、「これはなほ都近うて悪しう候ひなん」と申しければ、篠嶺、薬王坂など申す峻しき嶮難を凌がせ給ひて、横川の解脱谷寂場坊、御所になる。大衆起つて、「東塔へこそ御幸はなるべけれ」と申しければ、東塔の南谷円融坊、御所になる。かかりしかば、衆徒も武士も、みな円融坊を守護し奉る。
法皇は仙洞を出でて天台山に、主上は鳳闕を去つて西海へ、摂政殿は吉野の奥とかや。女院宮々は、八幡、賀茂、嵯峨、太秦、西山、東山の片辺について、逃げ隠れさせ給ひけり。平家は落ちぬれど、源氏はいまだ入れかはらず、すでにこの京は主なき里とぞなりにける。開闢よりこの方、かかる事あるべしともおぼえず。聖徳太子の未来記にも、今日の事こそゆかしけれ。
法皇天台山に渡らせ給ふと聞こえしかば、馳せ参り給ふ人々、その頃の入道殿とは前関白松殿、当殿とは近衛殿、太政大臣、左右の大臣、内大臣、大納言、中納言、宰相、三位四位五位の殿上人、すべて世に人と数へられ、官加階に望みをかけ、所帯所職を帯するほどの人の、一人も漏るるはなかりけり。
さるほどに、円融坊には、あまりに人参り集ひ、堂上、堂下、門外門内、隙はざまもなうぞ満ち満ちたる。山門の繁昌、門跡の面目とこそ見えたりけれ。
やがて同じき二十八日に、法皇都へ還御なる。木曾五万余騎守護し奉る。近江源氏山本冠者義高、白旗さいて先陣に供奉す。この二十余年見えざりつる白旗の今日始めて都へ入る。めづらしかりし事どもなり。
さるほどに、十郎蔵人行家、千騎で宇治橋を渡つて都へ入る。陸奥新判官義康が子、矢田判官代義清、大江山を経て上洛す。摂津国河内国の源氏等同心して、都へ乱れ入る。およそ京中には源氏の勢満ち満ちたり。勘解由小路中納言経房卿、検非違使別当左衛門督実家、院の殿上の簀に候ひて、義仲、行家を召す。
木曾は赤地の錦の直垂に、唐綾縅の鎧着て、いか物作りの太刀をはき、二十四さいたる切斑の矢負ひ、滋籐の弓脇に挟み、甲をば脱いで高紐にかけ、跪いてぞ候ひける。
十郎蔵人行家は、紺地の錦の直垂に、黒糸縅の鎧着て、黒漆の太刀をはき、二十四さいたる大中黒の矢負ひ、塗込籐の弓脇に挟み、これも甲を脱いで高紐にかけて、畏まつてぞ候ひける。
前内大臣宗盛公以下、平家の一族追討すべき由仰せ下さる。両人庭上に畏まつて承つてまかり出づ。
各宿所なき由を奏聞す。木曾は大膳大夫成忠の宿所、六条西の洞院を賜はる。十郎蔵人は法住寺殿の南殿と申す萱の御所をぞ賜はりける。
法皇は主上の外戚の平家に捕はれさせ給ひて、西海の波の上に漂はせ給ふ御事を、なのめならず御歎きあつて、「主上並びに三種の神器、事故なう都へ帰し入れ奉れ」と西国へ度々院宣を遣はされたりけれども、平家用ゐ奉らず。
高倉院の皇子は、主上のほか三所おはしき。二の宮をば、儲けの君にし奉らんとて、平家取り奉つて西国へ落ち下りぬ。三四は都におはしけり。八月五日、法皇この宮達迎へ寄せ参らせさせ給ひて、まづ三の宮の五歳にならせおはしけるを、法皇、「あれはいかに」と仰せければ、法皇を見参らつさせ給ひて、大きにむつからせ給ふ間、「とうとう」とて出だし参らつさせ給ひけり。
その後四の宮の四歳にならせおはしけるを、法皇、「あれはいかに」と仰せければ、やがて法皇の御膝の上に参り給ひて、なのめならずなつかしげにてぞおはしける。法皇御涙をはらはらと流させ給ひて、「げにもすぞろならん者の、この老法師を見て、いかでかなつかしげに思ふべき。これぞ真の我が孫にておはしける。故院のをさな生ひに少しも違はせ給はぬものを」とて、御涙せきあへさせ給はず。
浄土寺の二位殿、その時はいまだ丹後殿とて御前に候はせ給ひけるが、「さて御位はこの宮にてこそ渡らせ給ひ候はめ、なう」と申させ給へば、法皇、「仔細にや」とぞ仰せける。内々御占のありしにも、「四の宮位に即かせ給ひては、百王までも日本国の御主たるべし」とぞ勘へ申しける。
御母儀は七条修理大夫信隆卿の御娘なり。中宮の御方に宮仕し給ひしを、主上常は召されけるほどに、皇子あまた出で来させ給ひけり。信隆卿は、御娘あまたおはしければ、いづれにても女御、后にも立て参らせばやと思はれけるが、人の家に白鶏を千飼ひつれば、その家に后必ず出で来といふ事あればとて、鶏の白きを千揃へて飼はれたりける故にや、この御娘うち続き皇子あまた生み参らつさせ給ひけり。
信隆卿も内々嬉しう思はれけれども、平家にも恐れ参らせ、中宮にも憚り奉て、もてなし奉る事もなかりしを、入道相国の北の方、八条の二位殿、「よしよし苦しかるまじ。我育て参らせて、儲けの君にし奉らん」とて、御乳母あまた附け参らせ、育て参らせ給ひけり。
中にも四の宮は、二位殿の御兄、法勝寺執行能円法印の養ひ君にてぞましましける。法印平家に具せられて、西国へ落ち下られける時、北の方をも君をも京都に捨て置き申されたりけるが、西国より人を上せ、女房、宮具し参らせて急ぎ下り給ふべき由申されたりければ、北の方なのめならずに喜び、宮誘ひ参らせて、西の七条なる所まで出でられたりけるを、女房の兄紀伊守範光、「これは物の憑いて狂ひ給ふか。ただ今この宮の御運は、開けさせ給はんずるものを」とて、取り留め奉たりける次の日ぞ、法皇より御迎への御車は参りたりける。
何事も然るべき事とは申しながら、紀伊守範光は、四の宮の御ためには、奉公の人とぞ見えたりける。
されどもその忠をも思し召し寄らざりけるにや、空しく年月を送りけるが、もしやと二首の歌を詠みて、禁中に落書をぞしたりける。
♪66
一声は 思ひ出でなほ ほととぎす
老その森の 夜半の昔を
♪67
籠の内も なほうらやまし 山がらの
身のほど隠す 夕顔の宿
主上これを叡覧あつて、「これほどの事を今まで思し召し寄らざりけるこそ、返す返すも愚かなれ」とて、やがて朝恩かうむり、正三位に叙せられけるとぞ聞こえし。
→【各章検討:名虎】
同じき八月十日、木曾は左馬頭になつて、越後国を賜はる。その上、朝日将軍といふ院宣を下さる。十郎蔵人は備後守になる。木曾、越後を嫌へば、伊予を賜ぶ。十郎蔵人、備後を嫌へば、備前を賜ぶ。そのほかの源氏十余人、受領、検非違使、靱負尉、兵衛尉にぞなされける。
同じき十六日、前内大臣宗盛公以下、平家の一類百六十人が官職を停めて、殿上の御簿を削らる。その中に平大納言時忠卿、蔵人頭信基、讃岐中将時実、これ三人は削られず。その故は主上並びに三種の神器、事故なう都へ返し入れ奉れと、時忠卿のもとへ、度々院宣を遣はせれたりけるによつてなり。
同じき十七日、平家は筑前国三笠郡太宰府にこそ着き給へ。菊池次郎高直は、都より平家の御供に候ひけるが、「大津山の関開けて参らせん」とて、肥後国にうち越え、己れが城にひき籠つて、召せども召せども参らず。九州二島の者ども、皆参るべき由領状をば申しながら、今だ一人も参らず。当時は岩戸少卿大蔵種直ばかりぞ候ひける。
平家安楽寺へ参り、歌詠み連歌して、宮仕へ給ひしに、
♪68
住み馴れし ふるき都の 恋しさは
神も昔に 思ひしるらむ
人々さすがにあはれにおぼえて、皆袖をぞ濡らされける。
八月二十日、都には法皇の宣命にて、四の宮、閑院殿にして位に即き給ふ。摂政は故摂政近衛殿替はり給はず。頭や蔵人なしおいて、人々皆退出せられけり。三の宮の御乳母泣き悲しみ、後悔すれども甲斐ぞなき。
「天に二つの日無し、国に二人の王無し」とは申せども、平家の悪行によつてこそ、京、田舎に二人の王はましましけれ。
昔、文徳天皇は、天安二年八月二十三日に隠れさせ給ひぬ。御子の宮達あまたおはしけるが、御位に望みをかけ、内々御祈りどもありけり。
一の御子惟喬親王をば、木原皇子とも申しき。王者の才量を御心にかけ、四海の安危を掌の内に照らし、百王の理乱は御心にかけ給へり。されば賢聖の名をも取らせおはしぬべき君なりと見え給へり。
二の宮惟仁親王家は、その頃の執柄忠仁公の御娘、染殿の后の御腹なり。一門の公卿列してもてなし奉り給ひしかば、これもまた閣き難き御事なり。彼は守文継体の器量あり、これは万機輔佐の臣相あり。かれもこれも痛はしくて、いづれも思し召しわづらはれき。
一の御子惟喬親王家の御祈りには、柿本紀僧正真済とて、東寺の一の長者、弘法大師の御弟子なり。二の宮惟仁親王家の御祈りには、外祖忠仁公の御持僧、比叡山の恵亮和尚ぞ承られける。「いづれも劣らぬ高僧達なり。とみに事行き難うやあらんずらん」と、人々内々囁き合はれける。
案のごとく帝隠れさせ給ひしかば、公卿詮議あり。
「そもそも臣等が慮りをもつて選んで位に即け奉る事、用捨私あるに似たり。万人唇を反すべし。いさ競馬相撲の節を遂げて、その運を知り、雌雄に依つて宝祚授け奉るべし」と議定終はんぬ。
さるほどに、同じき九月二日、二人の宮達、右近馬場へ行啓あり。ここに王公、卿相、玉の鑣を並べ、花の袂を粧ひ、雲のごとくに重なり、星のごとくに連なり給ひしかば、これ希代の勝事、天下の壮観、日頃心を寄せ奉し月卿雲客、両方に引き分かつて、手を握り心をくだき給へり。御祈りの高僧達、いづれか疎略あらんや。真済僧正は東寺に壇を立て、恵亮和尚は大内の真言院に壇を立てて行はれけるが、恵亮和尚は失せたりといふ披露をなす。真済僧正少したゆむ心もやおはしけん。
「恵亮は失せたり」といふ披露をなして、肝胆を砕きて祈られけり。
すでに十番の競馬始まる。はじめ四番は一の御子惟喬木親王げ勝ち給ふ。後の六番は二の宮惟仁親王家勝ち給ふ。やがて相撲の節あるべしとて、一の御子惟喬親王家より名虎の右兵衛督とて、六十人が力あらはしたるゆゆしき人を出だされたり。二の宮惟仁親王家よりは、善雄の少将とて勢小さう妙にして、片手に逢ふべしとも見えぬ人、御夢想の御告げありとて、申し請けてぞ出だされける。
さるほどに、名虎、善雄寄り合ひ、ひしひしと爪取りして退きにけり。しばしあつて、名虎つと寄り、善雄を取つて捧げ、二丈ばかりぞ投げたりける。ただ直つて倒れず。善雄またつと寄り、ゑい声を出だして、名虎を取つて伏せんとす。名虎もともに声を揚げて、善雄を取つて伏せんとす。
互ひに劣らぬ大力、されども名虎は大の男、かさより回る。善雄危なう見えければ、二の宮惟仁親王家の御母儀染殿の后より、御使櫛の歯のごとくしげう走り重なつて、「味方すでに負け色に見ゆ、いかがせん」と仰せければ、恵亮和尚は、大威徳の法を修せられけるが、「こは心憂き事なり」とて、独鈷をもつて頭を突き破り、脳を砕し、乳に和して護摩に焚き、黒煙を立てて、一揉み揉まれたりければ、善雄相撲に勝ちにけり。親王位に即かせ給ふ。清和の帝これなり。後には水尾天皇とも申しき。
それよりしてぞ山門には、いささかの事にも、「恵亮脳を砕きしかば、二帝位に即き、尊意智剣を振りしかば、菅相納受し給ふ」とも伝へたり。これのみや法力にてもありけん、そのほかは皆天照大神の御計らひなりとぞ承る。
平家は筑紫にてこの由を伝へ聞き給ひて、「あはれ三の宮をも、四の宮をも、具し奉りて落ち下るべきものを」と申し合はれければ、平大納言時忠卿、「さらんには高倉の宮の音子の宮を、御乳母讃岐守重秀が、御出家せさせ奉り、具し奉て北国へ落ち下りたりしを、木曾義仲上洛の時、しゆにし参らせんとて、還俗せさせ奉り、具し奉りて、都へ上りたるをぞ、位にはつけ参らせんずらん」と宣へば、人々、「いかでか還俗の宮をば、位につけ奉るべき」と申されければ、
時忠卿、「さもさうず。還俗の国王のためし、異国にはその例もやあるらん。我が朝には、まづ天武天皇いまだ東宮の御時、大友皇子に襲はれさせ給ひて、鬢髪を剃り、吉野の奥へ逃げ籠らせ給ひたりしが、大友皇子を滅ぼして、つひに位に即かせ給ひき。また孝謙天皇と申せしも、大菩提心をおこさせ給ひて、御飾りを下ろし、御名を法基尼と申せしかども、ふたたび位に即かせ給ひて、称徳天皇と申ししぞかし。況んや木曾が主にし参らせたる還俗の宮なれば、仔細に及ぶべき」とぞ宣ひける。
同じき九月三日、伊勢へ公卿の勅使を立てらる。勅使は参議脩範とぞ聞こえし。太上法皇伊勢へ公卿の勅使を立てらるる事は、朱雀、白河、鳥羽三代の蹤跡ありとは申せども、これは皆御出家以前なり。御出家以後の例、これ初めとぞ承る。
→【各章検討:緒環】
(さる程に、筑紫には内裏つくるべきよし沙汰ありしかども)平家は筑紫に都を定めて、内裏造らるべしと、公卿詮議ありしかども、都もいまだ定まらず。
主上は岩戸の少卿大蔵種直が宿所にぞおはしける。人々の家々は、野中田中なりければ、麻の衣はうたねども、十市の里ともいつつべし。内裏は山の中なれば、かの木丸殿もかくやありけんと、なかなか優なる方もありけり。
やがて宇佐の宮へ行幸なる。大宮司公通が宿所皇居となる。社頭は月卿、雲客の居所になる。回廊は五位、六位の官人、庭上には四国、鎮西の兵ども、甲冑、弓箭を帯して、雲霞のごとく並みゐたり。旧りにし丹の玉垣、再び飾るとぞ見えし。かくて七日参籠の暁、大臣殿の御ために、夢想の告げぞありける。
御宝殿の御戸押し開き、ゆゆしうけだかげなる御声にて、
♪69
世の中の うさには神も なきものを
心づくしに なに祈るらん
大臣殿うち驚き、胸うち騒ぎ、あさましさに、
♪70
さりともと 思ふ心も 虫の音も
弱り果てぬる 秋の暮れかな
といふ古歌を心細げにぞ口ずさみ給ひける。さて太宰府へ還幸なる。
さるほどに、九月も十日余りになりぬ。荻の葉むけの夕嵐、独り丸寝の床の上、片敷く袖もしをれつつ、更けゆく秋のあはれさは、いづくもとは言ひながら、旅の空こそ忍び難けれ。
九月十三夜は、名を得たる月なれども、その夜は都を思ひ出づる涙に、我から曇りて、さやかならず。九重の雲の上、久方の月に思ひを述べしたぐひも、今のやうにおぼえて、薩摩守忠度、
♪71
月を見し 去年の今夜の 友のみや
都に我を 思ひ出づらん
修理大夫経盛、
♪72
恋しとよ 去年のこよひの 夜もすがら
契りし人の 思ひ出でられて
皇后宮亮経正、
♪73
わけてこし 野辺の露とも 消えずして
思はぬ里の 月を見るかな
豊後国は、刑部卿三位頼輔卿の国なりけり。子息頼経朝臣を代官に置かれたり。
京より頼経のもとへ、「平家は神明にも放たれ奉り、君にも捨てられ参らせて、帝都を出で、波の上に漂ふ落人となれり。然るを、九州の者どもが請け取つて、もちあつかふらんこそ然るべからね。当国においては随ふべからず。一味同心して追出し奉れ」と宣ひ遣はされたりければ、これを当国の住人、緒方三郎維義に下知す。
かの維義は、恐ろしき者の末にてぞありける。
例へば、豊後国のある片山里に女ありき。ある人のひとり娘、夫もなかりけるもとへ、男夜な夜な通ふほどに、身もただならずなりぬ。母これを怪しみて、「汝がもとへ通ふ者は何者ぞ」と問ひければ、「来るをば見れども、帰るを知らず」とぞ言ひける。
「さらば男の朝帰りせん時、標を付けて見よ」とぞ教へける。娘、母の教へに従つて、朝帰りしける男の、水色の狩衣を着たりける狩衣の首上に針を刺し、しづの小手巻といふ物を付けて、経て行く方をつないで見るに、豊後国にとつても日向の境、優婆岳といふ嵩の裾、大きなる岩屋の内へぞつなぎ入れたり。
女、岩屋の口に佇んで聞きければ、大きなる声してにえびければ、「童こそこれまで尋ね参りたれ。見参せん」と言ひければ、「我はこれ人の姿にはあらず。汝我が姿を見ては肝魂も身に添ふまじきぞ。ただとう帰れ。汝が胎める所の子は男児にてあるべし。弓矢、打ち物取つては、九州二島に肩を並ぶる者もあるまじきぞ」とぞ教へける。
女重ねて、「たとひいかなる姿にてもあらばあれ、日頃の好しみいかでか忘るべきなれば、ただ見参せん」と言ひければ、さらばとて、岩屋の内に、臥長は五六尺ばかりにて、跡枕辺は十四五丈もあるらんとおぼゆる大蛇にて、動揺してぞ這ひ出でたる。女肝魂も身に添はず、引き具したりける十余人の所従等、をめき叫んで逃げ去りぬ。狩衣の首上に刺すと思ひし針は、大蛇の喉笛にぞ立つたりける。
女帰つてほどなく産をしたりければ、男子にてぞありける。
母方の祖父、「育ててみん」とて育てけるに、いまだ十歳にも満たざるに、勢大きに顔長かりけり。七歳にて元服せさせ、母方の祖父を大太夫といふ間、これをば大太とこそ附けたりけれ。夏も冬も手足に胝隙なく破りければ、胝大太とぞ申しける。
維義は胝大太には五代の孫なり。かかる恐ろしき者の末にてありければ、国司の仰せを院宣と号して、九州二島に廻文をしければ、然るべき者どもは維義に皆随ひ付く。
件の大蛇は、日向国に崇められ給ふ、高知尾明神の神体なり。
→【各章検討:太宰府落】
さるほどに、平家は筑紫に都を定め、内裏つくらるべしと、公卿詮議ありしかども、維義が謀反と聞いて大きに恐れ騒がれけり。新中納言知盛卿の異言に申されけるは、「かの維義は小松殿の御家人なり。公達御一所向かはせ給ひて訓へて御覧ぜらるべうもや候ふらん」と申されければ、「この儀もつとも然るべし」とて、小松新三位中将資盛、その勢五百余騎、豊後国にうち越え、やうやうに宥め宣へども、維義随ひ奉らず。
あまつさへ、「公達をも、ただ今これにて取り籠め参らすべう候へども、大事の中に小事なしとて、取り籠め参らせず候ふ。何ほどの事か候ふべき。ただ太宰府へ帰らせ給ひて、御一所でいかにもならせ給へ」とて、追つ返し奉る。
その後維義が次男、野尻次郎維村を使者で、太宰府へ申しけるは、「平家は重恩の君にておはしまし候へば、甲を脱ぎ弓の弦をはづいて降人に参るべう候へども、一院の仰せには、すみやかに九国の内を追ひ出だし奉れと候ふ」と申し送りたりければ、
平大納言時忠卿、緋緒括りの直垂に糸葛の袴、立烏帽子で維村に出で向かひて宣ひけるは、「それ我が君は、天孫四十九世の正統、人王八十一代に当たらせ給ふ。されば天照大神、正八幡宮も、我が君をこそ守り参らさせ給ふらめ。なかんづく故亡父太政大臣入道殿、保元平治両度の逆乱を鎮めて、九州の者どもをば皆内様へこそ召されしか。然るにその恩を忘れて、国を預けん、庄を賜ばんといふを真ぞと心得て、頼朝、義仲等に随ふその鼻豊後めが下知に従はん事、然るべからず」とぞ宣ひける。
豊後の国司刑部卿三位頼資卿は、極めて鼻の大きにおはしければ、時忠卿かやうには宣ひけるなり。
維村帰つて父にこの由言ひければ、「こはいかに、昔は昔、今は今、その儀ならば、速やかに九国の内を追出し奉れ」とて、勢揃ふると聞こえしかば、源大夫判官季貞、摂津盛澄、「向後傍輩のため奇怪に候ふ。寄せて召し捕り候はん」とて、その勢三千余騎で、筑後国竹野の本庄に発向して、一日一夜攻め戦ふ。されども維義が勢、雲霞のごとくに続きければ、力及ばで引き退く。
平家は、緒方三郎維義が、三万余騎の勢にてすでに寄すと聞こえしかば、とるものも取りあへず、太宰府をこそ落ち給へ。さしも頼もしかりつる天満天神の注連の辺りを、心細くも立ち離れ、駕輿丁もなければ、葱花、鳳輦はただ名をのみ聞いて、主上腰輿に召されけり。
国母を始め参らせて、やんごとなき女房達は、袴のそばを高く取り、大臣殿以下の卿相雲客は、指貫のそばを高く挟み、水城の戸を出でて、徒歩跣にて我先に我先にと急ぎ、箱崎の津へこそ落ち給へ。折節降る雨、車軸のごとし。吹く風砂を上ぐとかや。落つる涙、降る雨、分きていづれも見えざりけり。住吉、箱崎、香椎、宗像伏し拝み、ただ主上旧都の還幸とのみぞ祈られける。垂水山、鶉浜などいふ峻しき嶮難を凌がせ給ひて、渺々たる平沙へぞ赴かれける。
いつ習はしの御事なれば、御足より出づる血は、沙を染め、紅の袴は色を増し、白き袴は裾紅にぞなりにける。さればかの玄奘三蔵の流沙、葱嶺を凌がれけん悲しみも、これにはいかでか勝るべき。それは求法のためなれば、自他の利益もありけん、これは闘戦の道なれば、来世の苦しみ、かつ思ふこそ悲しけれ。
原田大夫種直、二千余騎で遅れ馳せに馳せ参る。山鹿兵藤次秀遠、数千騎で平家の御迎へに参る由聞こえけり。種直、秀遠、もつてのほかに不和なりければ、悪しかりなんとて、種直は道より引つ返す。芦屋の津といふ所を過ぎさせ給ふに、「これは都より我等が福原へ通ひしに、なれし里の名なれば」とて、いづれの里よりも懐かしく、今さらあはれをぞ催されける。
新羅、百済、高麗、契丹、雲の果て海の果てまでも落ち行かばやとは思はれけれども、波風向かうてかなはねば、力及ばず、兵藤次秀遠に具せられて、山鹿城にぞ籠り給ふ。山鹿へも敵寄すと聞こえしかば、とるものも取りあへず、小舟に乗り、夜もすがら豊前国柳浦へぞ渡られける。ここに都を定めて内裏造らるべしと、公卿詮議ありしかども、分限なかりければそれもかなはず。
また長門より源氏寄すと聞こえしかば、とるものも取りあへず、海人小船に召して海にぞ浮かび給ひける。
小松殿の三男、左中将清経は、もとより何事も深う思ひ入り給へる人にておはしけるが、月の夜、心を澄まし、船の屋形に立ち出で、横笛音取り朗詠して遊ばれけるが、「都をば源氏のために攻め落とされ、鎮西をば維義がために追ひ出ださる。網にかかれる魚のごとし。いづくへ行かば逃るべきかは。長らへ果つべき身にもあらず」とて、静かに経読み念仏して、海にぞ沈み給ひける。男女無き悲しめども甲斐ぞなき。
長門国は新中納言知盛卿の国なりけり。目代は紀伊刑部大夫道資といふ者なり。平家の海人小船どもに召したる由承つて、大船百余艘点じて奉る。これに乗り移り四国の地へぞ渡られける。
今度は阿波民部重能が沙汰として、四国の内を催し集めて、讃岐の八島に形のやうなる板屋の内裏や、御所をぞ造らせける。そのほどはあやしの民屋を皇居とするに及ばねば、船を御所とぞ定めける。
大臣殿以下の卿相雲客は、海士の苫屋に日を暮らし、賤がふしどに夜を重ぬ。竜頭鷁首を海中に浮かべ、波の上の行宮は静かなる時なし。月を浸せる潮の深き愁へに沈み、霜をおほへる芦の葉の脆き命を危む。洲崎に騒ぐ千鳥の声は、暁恨みを増し、磯間にかかる梶の音、夜半に心を傷ましむ。
白鷺の群れゐる遠き松を見れば、源氏の旗を揚ぐるかと疑はる。野雁の遼海に鳴くを聞いては、兵どもの夜もすがら船を漕ぐかと驚かる。晴嵐膚を侵し、翠黛紅顔の色やうやう衰へ、蒼波眼穿げて、外土望郷の涙押さへ難し。翠帳紅閨に替れるは、端土生の小屋の芦簾、薫炉の煙に異なるは、海士の藻塩火焚く賤しきにつけても、女房達は、尽きせぬ物思ひに、紅涙せきあへ給はねば、緑の黛乱れつつ、その人とも見え給はず。
→【各章検討:征夷将軍院宣】
さるほどに、鎌倉の前右兵衛佐頼朝、ゐながら征夷将軍の院宣をかうぶる。御使ひは左史生中原泰定とぞ聞こえし。
十月四日、関東へ下着。兵衛佐殿、「そもそも頼朝武勇の名誉長ぜるによつて、征夷将軍の院宣をかうぶりながら、私ではいかでか請け取り奉るべき。若宮の拝殿にして請け取り奉るべし」とて、若宮へこそ参り向かはる。
八幡は鶴岡に立たせ給へり。地形石清水に違はず。廻廊あり、楼門あり、作り道十余町を見下したり。
「そもそも院宣をば、誰してか請け取り奉るべき」と評定あり。
三浦介義澄して請け取り奉るべし。その故は八箇国に聞こえたりし弓矢取り、三浦平太郎為嗣が末葉なり。その上父大介も君のために命を捨てし兵なれば、かの義明が黄泉の冥闇を照らさんがためとぞ聞こえし。院宣の御使ひ泰定は、家の子二人、郎等十人具したりけり。三浦介も、家の子二人、郎等十人具したりけり。二人の家の子は、和田三郎宗実、比企藤四郎能員なり。十人の郎等をば大名十人して一人づつ俄かににしたてられたり。
三浦介がその日の装束には、褐の直垂に、黒糸縅の鎧着て、黒漆の太刀をはき、二十四さいたる切斑の矢負ひ、滋籐の弓脇に挟み、甲をば脱いで高紐にかけ、腰をかがめて院宣を受け取り奉る。
左史生申しけるは、「宣請け取りは誰人ぞ。名乗れや」と言ひければ、三浦とは名乗らで、本名三浦荒次郎義澄とこそ名乗つたれ。院宣をば乱箱に入れられたり。兵衛佐殿に奉る。ややあつて乱箱をば返されけり。重かりければ、泰定これを見るに、謝金百両入れられたり。
大宮の拝殿にして、泰定に酒を勧めらる。斎院の次官親義陪膳す。五位一人役送を勤む。馬三匹引かる。一匹に鞍置きたり。大宮の侍たつし狩野工藤一﨟資経これを引く。次に古き萱屋をしつらうて入れられたり。厚綿の衣二領に、小袖十重長持に入れて設けたり。紺藍摺白布千端を積めり。盃盤豊かにして美麗なり。
次の日兵衛佐の館に向かふ。内外とに侍あり。ともに十六間までありけり。
外侍には、家の子郎等ども肩を並べ、膝を組みなみゐたり。内侍には、一門の源氏上座して、末座に大名、小名ゐながれたり。源氏の座上に泰定を据ゑらる。
ややあつて寝殿に向かふ。上には高麗縁の畳を敷き、広廂には紫縁の畳を敷いて、泰定を据ゑらる。
御簾高く揚げさせて、兵衛佐殿出でられたり。布衣に立烏帽子なり。顔大きに勢短きかりけり。容貌優美にして言語分明なり。
まづ仔細を一事述べたり。
「そもそも平家頼朝が威勢に恐れて、都を落つ。その跡に木曾義仲、十郎蔵人打ち入つて、我が高名顔に、官加階を思ふさまになり、あまつさへ国を嫌ひ申す条奇怪なり。奥の秀衡が陸奥守になり、佐竹四郎が常陸守になつて、頼朝が下知に従はず。急ぎ追討すべきの由の院宣賜はるべき」の由申さる。
左史生申しけるは、「泰定もやがてこれにて名簿を参らすばうは候へども、御使の身の上で候へば、まかり上り候うて、やがてしたためて参らせ候はん。弟で候ふ史大夫重能も、この儀を申し候ふ。」
兵衛佐殿笑つて、「当時頼朝が身として、各の名簿思ひもよらず。さりながらげにも申されば、さこそ存ぜめ」とぞ宣ひける。
やがて今日上洛すべき由を申せば、今日ばかりは逗留あるべしとて留めらる。
次の日また兵衛佐の館へ向かふ。萌黄の糸縅の腹巻一領、白う作りたる太刀一振、滋籐の弓に野矢そへて賜ぶ。馬十三匹引かる。三匹に鞍置いたり。十二人の家の子郎等どもにも、直垂、小袖、大口、馬、物の具に及べり。馬だにも三百匹までありけり。鎌倉出の宿より鏡の宿に至るまで、宿々に十石づつ米を置かれたりければ、たくさんなるによつて、施行に引きけるとぞ聞こえし。
→【各章検討:猫間】
泰定都へ上り院参して、御坪の内に畏まつて関東の次第一々に申したりければ、法皇大きに御感ありけり。公卿殿上人も、勇み喜び合はれけり。兵衛佐殿はかうこそめでたくおはせしか。木曾左馬頭義仲は都の守護して候はれけるが、似も似ず悪しかりけり。色は白うみめはよい男にてありけれども、立ち居の振舞の無骨さ、物言うたる言葉続きの頑ななる事限りなし。理なるかな、二歳より三十に余るまで、信濃国木曾といふ山里に住みなれておはしければ、なじかはよかるべき。
その頃猫間中納言光高卿といふ人ありけり。木曾に宣ひ合はすべき事あつておはしたりければ、郎等ども、「猫間殿の入らせ給ひて候ふ」と言ひければ、木曾大きにわらうて、「猫は人に対面するか。」「これは猫間中納言殿と申す公卿にて渡らせ給ひ候ふ」と言ひければ、木曾さらばとて対面す。
木曾、猫間殿とはえ言はで、「猫殿のまれまれわいたるに物よそへ」とぞ言ひける。中納言、「いかでかただ今さる事あるべき」と宣へども、何をも新らしき物をば、無塩といふぞと心得て、「ここに無塩の平茸あり。とうとう」と急がす。禰井小野太陪膳す。田舎合子の極めて大きにくぼかりけるに、飯堆くよそひ、御菜三種して、平茸の汁にて参らせたり。木曾が前にも同じ体にて据ゑたりけり。木曾箸取つて食す。
中納言余りに合子のいぶせさに、召さざりければ、木曾、「それは義仲が精進合子ぞ。とうとう」と勧むる間、中納言召さでもさすが悪しかりなんとや思はれけん、箸取つて召す由して、指し置かれたりければ、木曾大きに笑つて、「猫殿は小食にておはしけり。聞こゆる猫おろしし給へり。かい給へ」とぞ責めたりける。
中納言はかやうの事に興冷めて宣ひ合はすべき事ども、一言も出ださず急ぎ帰られけり。
木曾は官加階したる者の直垂にて出仕せん事、あるべうもなしとて、俄かに布衣取り、装束く。冠際、袖のかかり、指貫の輪に至るまで、頑ななる事限りなし。鎧取つて着、矢かき負ひ、弓押し張り、甲の緒をしめ、馬に打ち乗つたるには、似も似ず悪かりけり。されども車にこがみ乗んぬ。牛飼ひは八島の大臣殿の牛飼ひなり。牛車もそなりけり。逸物なる牛の据ゑ飼うたるが、門出づる時一楉当てたらうに、なじかはよかるべき、牛は飛んで出づれば、木曾は車の内にて仰向きに倒れぬ。蝶の羽を広げたるやうに、左右の袖を広げ、手をあがいて、起きん起きんとしけれども、なじかは起きらるべき。木曾、牛飼ひとはえ言はで、「やれ小牛健児、やれ小牛健児」と言ひければ、車をやれと言ふぞと心得て、五六町こそあがかせけれ。
今井四郎兼平、鞭鐙を合はせて追つ付き、「いかに御車をば、かやうにはつかまつるぞ」と言ひければ、「余りに御牛の鼻がこはう候うて」とぞ述べたりける。
牛飼ひ、木曾に仲直りりせんとや思ひけん、「それに候ふ手形と申すものに、取り付かせ給へ」と言ひければ、木曾、手形にむんずと掴み付き、「あつぱれ支度や。牛健児がはからひか、殿のやうか」とぞ問うたりける。
さて院の御所へ参り、門前にて車かけはづさせ、後ろより下りんとしければ、京の者の雑色に召し使はれけるが、「車には召され候ふ時こそ、後ろよりは召され候へ。下りさせ給ふ時は前よりこそ下りさせ給ひ候へ」と言ひければ、木曾、「いかんが車ならんからに、素通りをばすべき」とて、遂に後ろよりぞ下りてんげる。
そのほかをかしき事ども多かりけれども、恐れてこれを申さず。
→【各章検討:水島合戦】
さるほどに、平家、讃岐の八島へ渡り給ひて後、山陽道八箇国、南海道六箇国、都合十四箇国をぞ打つ取りける。木曾左馬頭この由を聞いて、安からぬ事なりとて、西国へ討手を遣はす。
大将軍には矢田判官代義清、侍大将には信濃国の住人海野弥平四郎行広を先として、都合その勢七千余騎、西国へ発向す。備中国水島が渡に船を浮かべて、八島へすでに寄せんとす。
閏十月一日、水島が渡に小舟一艘出で来たり。海士舟、釣り舟かと見る所に、さはなくして平家の方より牒の使ひの舟なりけり。これを見て、源氏の五百余艘ほしあげたりけるを、をめき叫んで落としけり。
平家は千余艘で寄せたりけり。大将軍には新中納言知盛卿、副将軍には能登守教経なりけり。能登殿大音声を上げて、「いかに北国の奴ばらに生け捕りにせられんをば、心憂しとは思はずや。味方の船をば組めや」とて、千余艘の纜、舳綱を組み合はせ、中にむやひを入れ、歩みの板を引き渡し引き渡し渡りければ、舟の上は平々たり。
源平互ひに鬨作り、矢合して、遠きをば弓で射、近きをば太刀で切り、或いは熊手にかけて引き落とさるる者もあり、或いは引つ組んで刺し違へ、海へ飛び入る者もあり。
源氏の方には侍大将海野弥平四郎行広討たれぬ。これを見て矢田判官代義清、安からぬ事なりとて、主従七人小舟に乗り、真つ先に進んで戦ひけるが、舟踏み沈めて失せにけり。平家の方には馬を立てたりければ、舟ども差し寄せ指し寄せ、馬ども追ひ下ろし追ひ下ろし、ひたひたと打ち乗つて、能登殿をめいて先を駆け給へば、源氏の方には大将軍は討たれぬ、我先にとぞ落ち行きける。
平家は水島の戦に勝つてこそ、会稽の恥をば雪めけれ。
→【各章検討:瀬尾最期】
木曾左馬頭この由を聞いて、安からぬ事なりとて、その勢一万余騎で西海道を馳せ下る。ここに平家の味方に候ひける、備中国の住人、瀬尾太郎兼康は、聞こゆる兵にてありけれども、去んぬる五月北国の戦ひの時運や尽きにけん、加賀国の住人、倉光次郎成澄が手にかかつて、生け捕りにこそせられけれ。
その時すでに斬らるべかりしを、木曾、「あつたら男を左右なう斬るべきやうなし」とて、倉光が弟三郎成氏に預けらる。人あひ心ざま優なりければ、倉光も懇ろにもてなしけり。
蘇子卿が胡国に囚はれ、李少卿が漢朝へ帰らざりしがごとし。遠く異国に侍る事も、昔の人の悲しめる所なりと言へり。韋の鞲、毳の幕もて風雨を防き、羶き肉、酪の漿、もて飢渇に充つ。夜は寝ぬる事なく、昼は終日木を伐り草を刈らずといふばかりに従ひつつ、いかにもして敵を伺うて、今一度旧主を見奉らんと思ひ立ちける兼康が心の中こそ恐ろしけれ。
ある時瀬尾太郎、倉光三郎に言ひけるは、「去んぬる五月よりかひなき命を助けられ参らせて候へば、誰を誰とか思ひ参らせ候ふべき。その故は、今度御合戦候はば、命をばまづ木曾殿に奉り候はん。それにつき候うては、瀬尾は先年兼康が知行つかまつつて候ひしが、馬の草飼ひよき所にて候ふ。御辺申して賜はらせ給へ」と言ひければ、倉光三郎、木曾殿にこの由を申す。
木曾殿、「さては不憫の事をも申すござんなれ。さらば汝まづ下れ。誠には御馬の草などをも構へさせよ」と宣へば、倉光三郎、畏まり承つて、瀬尾太郎兼康を先として手勢三十騎ばかりで備中国へ馳せ下る。瀬尾が嫡子小太郎宗康は、平家の味方に候ひけるが、父が木曾殿より暇賜はつて下ると聞いて、年ごろの郎等ども催し集めて、その勢五十騎ばかりで父が迎ひに上りけるが、播磨の国府で行き逢うたり。
備前国三石の宿に留まりたりける夜、兼康が相知つたる者ども、酒を持つて来たり集まり、夜もすがら酒盛りしけるが、倉光が勢三十騎ばかりを強ひ伏せて、起こしも立てず、一々に皆刺し殺してんげり。
備前国は十郎蔵人の国なりけり。その代官の国府にありけるをも、やがて押し寄せて討つてんげり。
瀬尾太郎、「兼康こそ木曾殿より暇賜はつて下りたれ。平家におん心ざし思ひ参らせん人々は、木曾殿の下り給ふに矢一つ射かけ奉れや」と披露したりければ、備前、備中、備後三箇国の兵ども、然るべき馬、物の具、所従などをば、平家の御方へ参らせて休みゐたりける老者ども、兼康に催されて、或いは柿の直垂につめ紐し、或いは布の小袖に東折し、くわり腹巻つづり着て、山靱、竹箙に矢ども少々取り差いて、掻き負ひ掻き負ひ、我も我もと、瀬尾がもとへ馳せ参る。都合その勢二千余人、備前国福隆寺縄手、篠の迫りを城郭に構へて、口二丈、深さ二丈に堀を掘り、掻楯かき、逆茂木引いて、待ちかけたり。
十郎蔵人の代官、国府にありけるが、兼康に討たれて、その下人逃げて京へ上りけるが、播磨と備前の境なる船坂といふ所にて、木曾殿に行き逢ひ奉り、この由申しければ、
木曾殿、「安からぬ、兼康めを斬つて棄つべかりつるものを、手延べにして、謀られぬる事こそ安からね」と宣へば、
今井四郎申しけるは、「さ候へばこそ、奴が面魂、ただ者とは見候はず。千度斬らうど申しつるはここ候ふぞかし。さりながら何ほどの事か候ふべき。兼平まづまかり向かつて見候はん」とて、その勢三千余騎で馳せ下る。
備前国福隆寺縄手は端張弓杖一杖ばかりにて、遠さは西国道の一里なり。左右は深田にて馬の足も及ばねば、三千余騎が心は先に進めども、馬次第にぞ歩ませける。
今井四郎押し寄せて見ければ、瀬尾太郎兼康は、高櫓に登り上がり、大音声を揚げて、「去んぬる五月より、甲斐なき命を助けられ参らせて候ふ、各の芳志には、これをこそ用意つかまつつて候へ」とて、さしつめ引きつめ、散々に射る。
今井四郎兼平、海野、望月、諏訪、藤沢、宮崎三郎などいふ一人当千の兵ども、これを事ともせず、甲の錣を傾け、射殺さるる人馬を取り入れ引き入れて、堀を埋め、をめき叫んで攻め入りけり。或いは左右の深田へうち入れ、馬の草脇、鞅尽、太腹などに立つ所を事ともせず、むらめかいて寄せ、或いは谷深をも嫌はず、駆け入り駆け入り、戦ひけり。瀬尾が方の兵ども助かる者は少なう、討たるる者ぞ多かりける。
夜に入つて、瀬尾が頼みきつたる篠の迫の城郭を破られて、力及ばで引き退く。備中国板倉川の端に掻楯かいて待ちかけたり。今井四郎やがて押し寄せて攻めければ、瀬尾が方の兵ども、山靱、高箙に矢種のあるほどこそ防きけれ、矢種皆尽きければ、我先にとぞ落ち行きける。
瀬尾太郎、主従三騎に討ちなされ、板倉川の端に着いて、みとろ山の方へ落ちて行く。
去んぬる北国の戦ひの時、瀬尾生け捕りにしたりける倉光次郎成澄、弟の三郎成氏討たれて、「安からぬ事なり。今度も同じくは生け捕りにせん」と思ひて、ただ一騎群に抜けて追うて行く。間一町ばかりに追つ付き、「あれはいかに、瀬尾殿とこそ見奉れ。まさなうも敵に後ろを見するものかな。返せや」と言葉をかけければ、瀬尾太郎は板倉川を西へ渡すが、川中に控へて待ちかけたり。
倉光次郎、鞭鐙を合はせて馳せ来たり、押し並べむずと組んで、どうど落ち、互ひに劣らぬ大力ではあり、上になり下になり、転びあひけるが、川岸に淵のありけるに転び入つたり。倉光は無水練、瀬尾は究竟の水練にてありければ、水の底にて倉光次郎が腰の刀を抜き、鎧の草摺り引きあげて、柄も拳も通れ通れと、三刀刺いて首を取る。
我が馬をば乗り損じたりければ、倉光が馬にうち乗つて落ちてゆく。
嫡子の小太郎宗康は、年二十になりけれども、余りに太つて一町ともえ走らず。物の具脱ぎ捨てて歩めども歩めどもはかもゆかず。父はこれを見捨てて十余町ぞ延びたりける。
瀬尾太郎、郎等に向かつて言ひけるは、「兼康は日頃千万の敵にに逢うて戦するは、四方晴れておぼゆるが、今日は小太郎を捨てて行けばにや、一向先が暗うて見えぬぞ。たとひ今度の戦に命生きて、再び平家の御方へ参りたりとも、『兼康は六十に余つて、幾ほどの命を生きうどて、ただ独りある子をば捨てて落ちけるぞ』など、同隷どもに言はれん事こそ恥づかしけれ。」
郎等申しけるは、「さ候へばこそ、ただ御一所でいかにもならせ給へと申しつるは、ここ候ふぞかし。返させ給へ」とて、また取つて返す。
嫡子の小太郎宗康は、足かんばかりに腫れて伏せゐたり。
瀬尾太郎、急ぎ馬より飛んで下り、手を取つて、「兼康こそ汝と一所にていかにもならんと思ふために、これまで帰つたるはいかに」と言ひければ、
小太郎涙をはらはらと流いて、「この身こそ無器量に候へば、自害をつかまつり候はんずれ。我故御命をさへ失ひ参らせん事、五逆罪にや候はんずらん。ただとうとう延びさせ給へ」と言ひけれど、「思ひ切つたる上は」とて休みゐたる所に、今井四郎兼平五十騎ばかり、鞭鐙を合はせて追つかけたり。
瀬尾太郎、射残したる八筋の矢を、さしつめ引きつめ散々に射る。死生は知らず、やにはに敵八騎射落とす。
その後打ち物の鞘をはづいて、まづ小太郎が首をふつと打ち落とし、敵の中へ分つて入り、縦様、横様、蜘蛛手、十文字に散々に戦ひ、痛手あまた負ひ、終に討ち死にしてんげり。
郎等も主にちつとも劣らず戦ひけるが、痛手負うて生け捕りにこそせられけれ。中一日逗留あつて終に死ににけり。これら主従三人が首をば、備中国鷺が森にぞ懸けたりける。
木曾殿、「あはれ剛の者かな。これらが命を助けてみで」とぞ宣ひける。
→【各章検討:室山】
さるほどに、備中国万寿の荘にて勢揃へして、八島へすでに寄せんとす。その間都の留守に置かれたりける樋口次郎兼光、西国へ使者を奉て、「十郎蔵人殿こそ、殿のましまさぬ間に、院の切人して、やうやうに讒奏せられ候ふなれ。西国の戦をばまづさしおかせ給ひて、急ぎ上らせ給へ」と言ひければ、木曾、さらばとて、夜を日についで馳せ上る。
十郎蔵人行家、木曾に仲違うては悪しかりなんとや思ひけん、その勢五百余騎で、丹波路にかかつて、播磨国へ落ちて行く。木曾は摂津国を経て都へ入る。
平家はまた木曾討たんとて、大将軍には新中納言知盛卿、本三位中将重衡卿、侍大将には、越中次郎兵衛盛嗣、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清、伊賀平内左衛門家長を先として、都合その勢二万余人、小船どもに取り乗つて、播磨国に押し渡り、室山に陣を取る。
十郎蔵人行家、平家と戦して、木曾に仲直りせんとや思ひけん、その勢五百余騎、室山へぞ懸かりける。
平家は陣を五つに張る。まづ伊賀平内左衛門家長、二千余騎で一陣を固む。越中次郎兵衛盛嗣、三千余騎で二陣を固む。上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清、二千余騎で三陣を固む。本三位中将重衡卿、三千余騎で四陣を固め給ふ。新中納言知盛卿、一万余騎で五陣に控へ給へり。
十郎蔵人行家、その勢五百余騎をめいて先を駆け給へば、まづ一陣に控へたる伊賀平内左衛門家長、しばらくあひしらふやうにもてないて、中を開けてぞ通しける。
二陣越中次郎兵衛、これも開けてぞ通しける。
三陣上総五郎兵衛、悪七兵衛、ともに開けてぞ通しけり。
四陣本三位中将、同じう開けて入れられたり。
前陣より後陣まで、かねて約束したりければ、源氏を中に取り籠めて、我討つ取らんとぞ進みける。十郎蔵人たばかられにけり、四方敵なり、いかにもして逃れんとしけれども、かなふべしとも見えざりければ、思ひ切つてぞ戦ひける。
新中納言、「ただ押し並べて組めや組め」と下知せられども、さすがに十郎蔵人に押し並べて組む武者一騎もなかりけり。新中納言の宗と頼まれたりける紀七左衛門、紀八左衛門、紀九郎などいふ一人当千の兵ども、そこにて皆十郎蔵人に討ち取られぬ。
かくして三十騎ばかりに討ちなさる。四方は皆敵なり、いかにもして逃るべしとはおぼえねども、思ひ切つて一方打ち破つてぞ通りける。そこにて二十七騎大略手負ひ、播磨国高砂より小船に乗つて漕ぎ出ださせ、和泉国吹飯の浦に着きにけり。それより河内国長野城に立て籠る。
平家は室山、水島二箇度の戦に勝つてこそ、いよいよ勢は付きにけれ。
→【各章検討:鼓判官】
およそ京中には源氏の勢満ち満ちたり。賀茂、八幡の御領ともいはず、青田を刈つて秣にし、人の倉を打ち開けて物を取り、路次に持ち逢ふ物を奪ひ取り、衣裳を剥ぎ取る。
「平家の都におはせしほどは、六波羅殿とて、ただ大方の恐ろしきばかりでこそありしか、衣裳を剥ぐまではなかりしものを。平家に源氏替へ劣りしたり」とぞ申しける。
法皇より木曾左馬頭のもとへ、「狼藉静めよ」と仰せ下さる。御使ひは壱岐守知親が子に壱岐判官知康といふ者なり。天下に聞こえたる鼓の上手にてありければ、時の人鼓判官とぞ申しける。
木曾対面してまづ御返事をば申さで、「そもそもわ殿を鼓判官といふは、よろづの人に撃たれたうたか、張られたうたか」とぞ問うたりける。
知康返事に及ばず、急ぎ帰り参つて、「義仲は嗚呼の者にて候ひけり。はやく追討せさせ給はでは、重ねて御大事出で来候ひなんず」と申しければ、法皇やがて思し召し立たせ給ひけり。さらば然るべき武士にも仰せ付けられずして、山、三井寺の悪僧どもを召されけり。公卿殿上人の召さるる所の軍兵といへば、向かへ礫、印地、いふかひなき辻冠者ばら、乞食法師どもなりけり。
五畿内の者どもは皆木曾に従ひ付きたりしかども、院の御気色内々悪しうなると聞こえしかば、皆木曾を背いて院へ参る。また信濃源氏村上判官代も木曾を背いて院へ参る。
今井四郎申しけるは、「これこそゆゆしき御大事にて候へ。いかでか十膳の君に向かひ参らせて、弓をひき矢を放たせ給ふべき。急ぎ甲を脱ぎ弓の弦をはづいて、降人に参らせ給へ」と言ひければ、
木曾大きに怒つて、「義仲信濃を出でしより、麻積、会田の合戦をはじめとして、北国に砺波、黒坂、塩坂、篠原、西国には、福隆寺縄手、篠の迫、板倉川の城郭を攻めしかども、一度も敵に後ろを見せず。たとひ十善の君にてもましませ、甲を脱ぎ弓の弦をはづいて、降人にはえこそ参るまじけれ。」
→【各章検討:法住寺合戦】
「たとへば都の守護してあらんずるものの、馬一匹づつ飼うて乗らざるべきか。いくらもある青田刈つて秣にせんを、あながち法皇の咎め給ふべきやうやある。兵糧米もなければ、冠者ばらが片辺に付いて、時々入り取りせんは、なじかは苦しかるべき。大臣家、宮々の御所へも参らばこそ僻事ならめ。いかさまこれは、鼓判官めが凶害とおぼゆるぞ。その鼓打ち破つて捨てよ。今度は義仲が最後の戦にてあらんずるぞ。且つは兵衛佐頼朝がかへり聞かんずる所もあり。戦ようせよ、者ども」とてうち出でけり。
北国の者ども、はじめは五万余騎と聞こえしが、みな落ち下つて、わづか七千余騎ぞ候ひける。
義仲が戦の吉例なればとて、七千余騎を七手に分け、まづ樋口次郎兼光、二千余騎で新熊野の方より、からめ手に差し遣はす。残り六手は、各がゐたらんずる条里、小路より河原へ出でて、七条河原へ一つになれと、合図を定めて打ち出でけり。味方の笠符には、松の葉をぞ付けたりける。
戦は十一月十九日の朝なり。木曾法住寺殿の西門へ押し寄せて見ければ、壱岐判官知康は戦の行事承つて、法住寺殿の築垣の上へ登り上がつて立つたりけるが、赤地の錦の直垂に、甲ばかりぞ着たりける。甲には四天を書いてぞ押したりける。片手には鉾を持ち、片手には金剛鈴を持つて、打ち震り打ち震り、時々は舞ふ折もありけり。
公卿殿上人、「風情なし。知康には天狗付いたり」とぞ笑はれける。
知康大音声を揚げて、「昔は宣旨を向かつて読みければ、枯れたる草木も忽ちに花咲き実なり、悪鬼、悪神も従ひき。末代といふとも、いかでか十善の君に向かひ参らせて、弓をひき矢をば放つべき。放たんずる矢はかへつて身にたつべし。抜かんずる太刀はかへつて身を切るべし」など、様々悪口しけれども、木曾、「さな言はせそ」とて、鬨をどつと作る。
さるほどに、樋口次郎兼光二千余騎、新熊野の方より、鬨の声をぞ合はせける。今井四郎兼平、鏑の中に火を入れて、法住寺殿の御所の棟にぞ射たてたる。折節風は烈しし、猛火は天に燃え上がつて、炎は虚空に満ち満てり。戦の行事知康は、人より前に落ちにけり。
行事が落つる上は、二万余人、参り籠つたりける軍兵ども、我先にとぞ落ち行きける。
余りに慌て騒いで、弓取る者は矢を知らず、矢取る者のは弓を知らず、或いは長刀逆さまについて我が足貫く者もあり、或いは弓の弭物に懸けて、えはづさで捨てて逃ぐる者もあり。
七条が末を摂津国源氏の固めたりけるが、「院の御所より落人あらば、用意して皆打ち殺せ」と披露せられたりければ、在地の者ども、屋根に楯をつき並べ、おそへの石を取り集めて、今や今やと待つ所に、摂津国源氏の落ちけるを、あはやと打ちければ、「これは院方であるぞ、過ちつかまつるな」と言ひけれども、「院宣である間、さないはせそ、さないはせそ」とて打つほどに、或いは頭打ち破られ、或いは腰打ち折られ、馬より転び落ち、這ふ這ふ逃ぐる者もあり。
八条が末をば山僧どもの固めたりけるが、恥ある者は討ち死にす、つれなき者は落ちぞゆく。
主水正親業は、薄青の狩衣の下に、萌黄縅の腹巻を着、月毛なる馬に乗つて、河原を上りに落ちけるを、今井四郎兼平、追つかかり、よつ引いて、しや首の骨を、ひやうふつと射て、馬より逆さまに射落とす。清大外記頼業が子なりけり。明経道の博士、甲冑を鎧ふ事これ始めとぞ承る。
近江中将為清、越前少将信行、伯耆守光綱、子息判官光長も射落とされて首取られにけり。また木曾を背いて院へ参りたりし村上三郎判官代も討たれにけり。また按察大納言資賢卿の孫、播磨少将雅賢も、鎧に立烏帽子で戦の陣へ出でられたりけるが、樋口次郎兼光が手にかかりて、生け捕りにこそせられけれ。
また天台座主明雲大僧正、寺の長吏円慶法親王も、御所に参り籠り給ひたりけるが、黒煙すでに押しかけければ、急ぎ御馬に召して出でさせ給ひけるを、武士ども頻りに矢を参らせければ、御馬より射落とされさせ給ひて、御首取られさせ給ひけり。
法皇も御輿に召して他所へ御幸なる。武士ども頻りに矢を参らせければ、豊後少将宗長、木蘭地の直垂に折烏帽子で供奉せられたりけるが、「これは院で渡らせ給ふぞ。過ちつかまつるな」と宣へば、武士ども皆馬より下りて畏まる。
「何者ぞ」と御尋ねありければ、「信濃国の住人矢嶋四郎行綱」と名乗り申す。
やがて御輿に手かけて、五条の内裏へ押し籠め奉て、厳しう守護し奉る。
豊後の国司刑部卿三位頼資卿も、御所に参り籠られ給ひたりけるが、黒煙すでに押しかけければ、急ぎ河原へ逃げ出でらるるとて、武士の下部どもに衣裳皆剥ぎ取られて、真つ裸にて立たれたり。
頃は十一月十九日の朝なれば、河原の風さこそは烈しかりけめ。三位の兄越前法橋性意が中間法師のありけるが、戦見んとて出でたりけるが、三位の裸で立たれけるを見付けて、「あなあさまし」とて急ぎ走り寄る。
この法師は白小袖二つに衣を着たりけるが、さらば小袖をも一つ脱いで着せ奉れかし、衣ばかり脱いで投げかけ奉る。短き衣うつほにほうかぶつて帯もせず、後ろさこそ見苦しかりけめ。さらば急ぎも歩み給はずして、白衣なる法師とも連れて、あそこここに立ちやすらひ、「あれなるは誰が家ぞ。ここなるは何者が宿所ぞ」など問ひ給へば、見る者手を叩いてぞ笑ひける。
主上は御船に召して池に浮かばせ給ひたりけるを、武士ども頻りに矢を参らせければ、七条侍従信清、紀伊守範光、御船に候はれけるが、「これはうちの渡らせ給ふぞ。過ちつかまつるな」と宣へば、武士ども皆馬より下りて、跪き畏まる。やがて閑院殿へ行幸なし奉る。行幸の儀式のあさましさ、申すもなかなかおろかなり。
ここに源蔵人大夫仲兼は、法住寺殿の西の門を固めて戦ひける所に、近江源氏山本冠者義高、鞭鐙を合はせて馳せ来たり。
「今は各は誰をかばはんとて戦をばし給ふぞ。御幸も行幸も、他所へなりぬとこそ承れ」と言ひければ、さらばとてその勢五十騎ばかりありけるが、一方打ち破つてぞ通りける。そこにて主従八騎に打ちなさる。
八騎が中に、河内の日下党に、加賀坊といふ法師武者あり。
月毛なる馬の口の強きに乗つたりけるが、「この馬はあまりに口が強うて、乗り堪つつべしとも存じ候はず」と言ひければ、源蔵人、「いでさらばこの乗り替へよ」とて、栗毛なる馬の下尾白いに乗り換へて、河原坂に禰井小野太が二百騎ばかりで控へたりけるその勢の中へ駆け入り、散々に戦いひ、八騎が五騎は討たれぬ。
加賀坊は、「あまりに我馬にひあひなる」とて、主の馬に乗りかへたりけれども、運や付きにけん、そこにて終に討たれにけり。
源蔵人の家の子に、次郎蔵人仲頼といふ者あり。栗毛なる馬の、下尾白いが駆け出ででたるを見付けて、下人を呼んで、「ここなる馬は、源蔵人の馬と見るは僻事か」
「さん候ふ」
「どの陣屋へか駆け出でて候ひつる」と問ひければ、
「河原坂の勢の中へ駆け入らせ給ひつるとこそ見参らせ候ひつれ。やがて御馬もその陣より駆け出でて候ひつる」と言ひければ、
次郎蔵人、涙をはらはらと流いて、「あな無慚や、はや討たれにけり。いかにもならば、一所でいかにもならんと日ごろはさしも契りしものを。所々に臥さん事こそ悲しけれ」とて、下人ども呼び寄せ、最後の有様妻子のもとへ言ひ遣はし、ただ一騎河原坂の勢の中へ駆け入り、鐙踏んばり立ち上がり、大音声を揚げて、「敦実の親王より八代の後胤、源蔵人の家の子に、信濃守仲重が子に、品の次郎蔵人仲頼といふ者なり。生年二十七、我と思はん人々は、寄り合へや、見参せん」とて、縦様、横様、蜘蛛手、十文字に散々に戦ひ、痛手あまた負ひ、終に討ち死にしてんげり。
源蔵人これをば夢にも知り給はずして、兄の河内守仲信うち具して、南を指して落ち行きけるが、摂政殿の都をば戦に恐れさせ給ひて、宇治へ御出ありけるに、木幡山にて追つつき奉る。馬より下りて畏まる。
「何者ぞ」と御尋ねありければ、「仲兼、仲信」と名乗り申す。
「東国北国の凶徒かなんど思し召したれば」とて、御感あり。
「やがて汝等も御供に候へ」と仰せければ、承つて、宇治の富家殿まで送り参らせて、それより二人の人々は、河内国へぞ落ち行きける。
明くる二十日、昨日斬る所の首、七条河原に懸け並べたり。七百三十余人とぞ聞こえし。
その中に天台座主明雲大僧正、寺の長吏円慶法親王の御頭もかからせ給ひたり。これを見奉りける人々、涙を流し袖を濡らさぬはなかりけり。
その日また木曾左馬頭義仲、都合その勢七千余騎、六条河原にうつ立つて、馬の頭を一面に東へ向け、天も響き大地も動くばかりに、鬨をぞ三箇度作りける。京中また騒ぎ合へり。ただしこれは喜びの鬨とぞ聞こえし。
さるほどに、故少納言入道信西の子息、宰相脩範、法皇の渡らせ給ふ五条の内裏へ参り、門より参ろうどすれば、守護の武士ども許さず。力及ばでその辺近き小屋に立ち入りて、俄かに髪剃り下し、墨染の衣袴着て、「この上はただ開けて入れよ」と言ひければ、入れてんげり。
法皇の御前へ参り、今度討たれさせ給ふ人々の御事、一々に申したりければ、法皇、「明雲は非業の死にすべき人とはつゆも思し召しよらざりしものを。今度は我いかにもなる御目にも合はせ給ふべき御命に替はつたるにこそ」とて、御涙せきあへさせ給はず。
同じき二十三日、三条中納言朝方卿以下、四十九人が官職を停めて、皆追つ籠めらる。平家の時は四十三人をこそ停められしか。これはすでに四十九人なれば、平家の悪行にはなほ超過せり。松殿の姫君取り奉り、関白殿の聟に押しなる。
さるほどに木曾左馬頭義仲、家の子郎等召し集めて、評定す。
「そもそも義仲十善の君に向かひ参らせて、戦には打ち勝ちぬ。主上にやならまし、法皇にやならまし。法皇にならうど思へども、法師にならんもをかしかるべし。主上にならんと思へども、童にならんも然るべからず。よしよしさらば関白にならう」と言ひければ、
手書きに具せられたりける大夫坊覚明申しけるは、「関白には大織冠の御末、執柄家の公達たちこそならせ給ひ候へ。殿は源氏でましまし候へば、それこそかなひ候ふまじけれ」
「よしよしさらば力及ばず」とて、院の御厩の別当に押しなつて、丹波国をぞ知行しける。院のご出家あれば法皇と申し、主上の今だ御元服なきほどは御童形にてましましけるを知らざりけるこそうたてけれ。
さるほどに、鎌倉の前兵衛佐頼朝、木曾が狼藉静めんとて、舎弟蒲冠者範頼、九郎冠者義経に六万余騎を相そへて、差し上せられけるが、都には戦出で来て、御所、内裏皆焼き払ひ、天下暗闇となつたる由聞こえしかば、左右なう上つて戦すべきやうなしとて、尾張国熱田大宮司がもとにぞましましける。
北面に候ひける宮内判官公朝、藤内左衛門時成、この由訴へんとて、尾張国へ馳せ下り、この由申しければ、九郎御曹司、「これは公朝の関東へ下らるべきで候ふぞ。その故は仔細存ぜぬ使ひは、返し問はるる時、不審の残るに」とぞ宣ひける。
今度の戦に所従皆落ち失せ討たれてなかりければ、子息宮内所公茂とて、生年十六になり給ふを、相具して宣ひける。夜に日をついで鎌倉へ馳せ下り、此の由申されければ、
鎌倉殿大きに驚き、「まづ知康が不思議のこと申し出だして、御所をも焼かせ、高僧、貴僧達をも失ひけるこそもうしなひけることこそ返す返すも奇怪なれ。これを召し使ひ給はば、重ねて御大事出で来候ひなんず」と都へ早馬をもつて申されたりければ、
知康我が身の上とや思ひけん、夜を日に次いで関東へ馳せ下り、この由陳じ申しければ、鎌倉殿、「しやつに目な見せそ。あひしらひなせそ」と宣へども、日ごとに兵衛佐の館へ向かふ。終に面目なくして、また都へ帰り上り、稲荷の辺なる所に、からき命を生きつつ、かすかなる体にてすまひけるとぞ聞こえし。
木曾殿、西国へ使者を奉て、「急ぎ上り給へ。一つになつて関東へ攻めん」と申されたりければ、大臣殿は喜ばれけれども、平大納言時忠卿、新中納言知盛卿、「さこそ世末になつて候ふとも、木曾に語らはれて、いかでか都へは上らせ給ふべき。十善の帝王、三種の神器を帯して渡らせ給へば、『甲を脱ぎ弓の弦をはづいて、これへ降人に参れ』と仰せ給ふべし」と申されければ、その由御返事ありしかども、木曾用ひ奉らず。
前の殿の御子師家公、その時は今だ中納言中将にてましましけるを、木曾が計らひに、大臣摂政になし奉る。折節大臣あかざりければ、徳大寺殿その時は今だ内大臣の左大将にてましましけるを、かり奉て大臣摂政になし奉る。いつしか人の口なれば、新摂政殿をば借の大臣とぞ申しける。
松殿の入道殿下、木曾を召して、「清盛公は悪行人たりしかども、希代の善根をしたればにやらん、世をばおだしう二十余年まで保つたるなり。悪行ばかりで世を保つ事はなきものを。させる故なうて停め奉る人々の官どども、皆許すべし」と仰せければ、ひたすら荒夷のやうなれども、従ひ奉て、皆許してんげり。
同じき十二月十日、法皇をば五条内裏を出だし奉て、大膳大夫業忠が宿所、六条西洞院へ御幸なし奉る。やがてその日歳末の御修法始めらる。
同じき十三日、除目行はれて、木曾がはからひに、人々の官加階、思ふさまになしおきてんげり。平家は西国に、兵衛佐は東国に、木曾は都に張り行ふ。前漢後漢の間、王莽が世を打ち取つて、十八年治めたりしがごとし。四方の関々は皆閉ぢたれば、公の貢物をも奉らず、私の年貢ものぼらねば、京中の上下、ただ少水の魚に異ならず。
あぶなながらに年暮れて、寿永も三年になりにけり。
→【概要:巻第九】
→【各章検討:生ずきの沙汰】
寿永三年正月一日、院の御所は大膳大夫成忠が宿所、六条西洞院なりければ、御所の体然るべからずとて、礼儀行はるべきにあらねば、拝礼もなし。院の拝礼無かりければ、内裏の小朝拝も行はれず。
平家は讃岐国八嶋の磯に送り迎へて、年の始めなれども、元日元三の儀式ことよろしからず。
主上渡らせ給へども、節会も行はれず、四方拝もなし。腹赤も奏せず、吉野の国栖も参らず。
「世乱れたりしかども、都にてはさすがかくはなかりしものを」とぞ、各宣ひ合はれける。
青陽の春も来たり、浦吹く風もやはらかに、日影ものどかになりゆけど、ただ平家の人々は、いつも氷に閉ぢ込められたる心地して、寒苦鳥に異ならず。
東岸西岸の柳遅速をまじへ、南枝北枝の梅、開落すでに異にして、花の朝、月の夜、詩歌管弦、鞠、小弓、扇合はせ、絵合はせ、草尽くし、虫尽くし、さまざま興ありしことども思ひ出だし語り続けて、ながき日を暮らしかね給ふぞあはれなる。
同じき正月十一日、木曽左馬頭義仲院参して、平家追討のために西国へ発向すべき由を奏聞す。
同じき十三日、すでに門出すと聞こえし程に、東国より前兵衛佐頼朝、木曾が狼藉鎮めんとて、数万騎の軍兵をさしのぼせられけるが、すでに美濃国、伊勢国に着くと聞こえしかば、木曾大きに驚き、宇治、勢田の橋を引いて、軍兵どもをも分かちつかはす。折節勢はなかりけり。
まづ勢田の橋へは、追手なればとて、今井四郎兼平、八百余騎にてさし遣はす。宇治橋へは、仁科、高梨、山田次郎、五百余騎でつかはしけり。一口へは、伯父の信太三郎先生義教、三百余騎で向かひけり。
東国より攻め上る追手の大将軍には、蒲御曹司範頼、からめ手の大将軍には、九郎御曹司義経、むねとの大名三十余人、都合その勢六万余騎とぞ聞こえける。
その頃鎌倉殿には、生数寄、磨墨とて名馬ありと聞こえけり。生数奇をば梶原源太景季しきりに望み申しけれども、「生数奇は自然の事のあらん時、頼朝が物の具して乗るべき馬なり。磨墨も劣らぬ名馬ぞ」とて、梶原には磨墨をこそたうだりけれ。
その後近江国の住人、佐佐木四郎高綱の暇申しに参りたりければ、鎌倉殿、いかが思し召されけん、「所望のものはいくらもあれども、存知せよ」とて、生数奇をば佐佐木に賜ぶ。
佐々木かしこまつて申しけるは、「高綱、今度この御馬にて、宇治川の真先渡し候ふべし。宇治川に死んだると聞こし召され候はば、人に先をせられてげんりと思し召され候へ。またいまだ生きたりと聞こしめされ候はば、定めて先陣をばしつらんものをと、思し召され候へ」とて、御前へをまかり立つ。
参会したる大名小名、皆「荒涼の申しやうかな」とぞ、人々ささやき合はれける。
各鎌倉をたつて、足柄を経て行くもあり、箱根にかかる人もあり。思ひ思ひに上るほどに、駿河国浮島が原にて、梶原源太景季、高き所へ打ちあがり、しばし控へて、多くの馬どもを見けるに、思ひ思ひの鞍置かせ、色色の鞦かけ、或いは乗口にひかせ、或いは諸口にひかせ、千万といふ数を知らず、引き通し引き通ししける中に、景季が給はつたる磨炭にまさる馬こそなかりけれと、嬉しう思ひて見る所に、ここに生数奇と思しき馬こそ出で来たれ。金覆輪の鞍置いて、小房の鞦かけ、白沫かませて、舎人あまた付いたりけれども、なほ引きもためず、をどらせてこそ出で来たれ。
梶原うち寄つて、「これは誰が御馬まぞ」。「佐々木殿御馬候ふ」と申す。
「佐々木は三郎殿か四郎殿か」。「四郎殿の御馬候ふ」とて引きとほす。
梶原、「やすからぬことなり。同じやうに召しつかはれ、景季を、佐々木に思し召しかへられけることこそ、遺恨の次第なれ。今度都へ上つて、木曾殿の御内に、四天王と聞こゆる今井、樋口、楯、根井と組んで死ぬるか、しからずは西国へ向かつて、一人当千と聞こゆる平家の侍どもと戦して、死なんとこそ思ひつるに、この御気色では、それもせんなし。これにて佐々木にひつくんで差し違へ、よき侍二人死んで、鎌倉殿に損とらせ奉らんずるものを」と、つぶやいてこそ待ちかけたれ。
佐々木何心もなう歩ませて出で来たり。梶原思ひけるは、向かふざまにやあておとす、押し並べてや組むと思ひけるが、まづことばをかけけり。
「いかに佐佐木殿は、生数奇給はつて上らせ給ふな」と言ひければ、「あつぱれ、この仁も、内々所望申すと聞くものを」ときつと思ひ出だいて、「さ候へばこそこの御大事に上り候ふが、定めて宇治、勢田の橋をば引いたるらん。乗つて河を渡すべき馬なければ、生数奇を申さばやとは存ずれども、梶原殿の申されけるにだに、御許されないと承つて、まして高綱なんどが申すとも、よも給はらじと存じつつ、後日にはいかなる御勘当もあらばあれと存じて、暁たたんとての夜、舎人に心を合はせて、さしも御秘蔵の生数奇を、ぬすみすまして、上りさうはいかに」と言ひければ、梶原この言葉に腹がゐて、「ねつたい、さらば景季も盗むべかりけるものを」とて、どつと笑つてぞのきにける。
→【各章検討:宇治川先陣】
佐佐木四郎の給はられたりける御馬は、黒栗毛なる馬の、きはめて太うたくましきが、馬をも人をも、あたりをはらつてくひければ、生数奇とは付けられたり。八寸の馬とぞ聞こえし。梶原が給はつたりける御馬も、きはめて太うたくましきが、まことに黒かりければ、磨墨とはつけられたり。いづれも劣らぬ名馬なり。
さるほどに、尾張国より追手、からめ手二手に分けて攻め上る。
追手の大将軍には、蒲御曹司範頼、あひともなふ人々、武田太郎、加賀見次郎、一条次郎、板垣三郎、稲毛三郎、榛谷四郎、熊谷次郎、猪俣小平六を先として、都合その勢三万五千余騎、近江国野路篠原にぞ着きにける。
からめ手の大将軍には、九郎御曹司義経、同じく伴ふ人々、安田三郎、大内太郎、畠山庄司次郎、梶原源太、佐佐木四郎、糟屋藤太、渋谷右馬允、平山武者所を先として都合その勢二万五千余騎、伊賀国を経て、宇治橋の詰めにぞ押し寄せたる。
宇治も勢田も橋を引き、水の底には乱杭うつて大綱張り、逆茂木つないで流しかけたり。
頃は睦月二十日余りのことなれば、比良の高嶺、志賀の山、昔長柄の雪も消え、谷々の氷うち解けて、水は折節まさりたり。白浪おびたたしうみなぎり落ち、瀬枕大きに滝鳴つて、さかまく水もはやかりけり。夜はすでにほのぼのと明けゆけど、川霧深くたちこめて、馬の毛も鎧の毛もさだかならず。
大将軍九郎御曹司、川の端にうち出で、水のおもてを見渡し、人々の心を見んとや思はれけん、「いかがせん、淀、一口へや回るべき、また水のの落ち足をや待つべき」とのたまふ所に、武蔵国の住人畠山庄司次郎重忠、生年二十一になりけるが進み出でて申しけるは、「この川の御沙汰は、鎌倉にてもよくよく候ひしぞかし。日頃しろしめされぬ海川のにはかに出で来ても候はばこそ。この川は近江の湖の末なれば、待つとも待つとも水ひまじ。橋をばまた誰か渡いて参らすべき。一年治承の合戦の時、足利又太郎忠綱が渡しけるは鬼神か。重忠まづ瀬踏みつかまつらん」とて、丹の党をむねとして、五百余騎ひしひしとくつばみ(鑣)を並ぶる所に、平等院の丑寅、橘の小島が崎より、武者二騎ひつかけひつかけ出で来たり。
一騎は梶原源太景季、一騎は佐佐木四郎高綱なり。人目に何にとも見えざりけれども、内々先に心をかけたりければ、梶原は佐佐木に一段ばかりぞ進んだる。
佐佐木、「いかに梶原殿、この川は西国一の大河ぞや。腹帯の延びてみえさうぞ。しめ給へ」といひければ、梶原さもあるらんとや思ひけん、左右の鐙を踏みすかし、手綱を馬のゆがみにすてて、腹帯をといてぞしめたりける。佐佐木、その間に、そこをつと馳せ抜いて、川へざつとぞうちいれたる。梶原たばかられぬとや思ひけん、やがて続いてうち入れたり。
梶原、「いかに佐佐木殿、高名せうどて不覚し給ふな。水の底には大綱あるらん、心得給へ」といひければ、佐佐木太刀を抜き、馬の足にかかりける大綱どもを、ふつふつと打ち切り打ち切り、宇治川はやしといへども、生数奇といふ世一の馬には乗りけり、一文字にざつと渡いて、向かへの岸にぞ打ち上げたる。梶原が乗りける磨墨は川中よりのため形に押し流され、遥かの下より打ち上げたり。
その後佐佐木鐙ふんばり、大音声をあげて「宇多天皇より九代の後胤、近江国の住人、佐佐木三郎秀義が四男、佐佐木四郎高綱、宇治川の先陣ぞや。我と思はん人々は寄り合へや、見参せん」とてをめいてかく。
畠山五百余騎うち入れて渡す。むかひの岸より山田次郎がはなつ矢に、畠山馬の額をの深に射させ、よわれば、川中より弓杖をついており立つたり。岩波甲の手さきへざつと押しあげけれども、これを事ともせず、水の底をくぐつて、むかへの岸にぞ着きにける。
上がらんとすれば、後ろより物こそむずとひかへたれ。「誰」と問へば、「重親」と答ふ。「いかに大串か」。「さん候ふ」。大串次郎は、畠山には烏帽子子にて候ひけるが、「あまりに水が速うて、馬をば押し流され候ひぬ。力及ばでこれまで着き参つて候ふ」と言ひければ、畠山、「いつもわ殿ばらは重忠がやうなる者にこそ助けられんずれ」と言ふままに、大串をひつさげて、岸の上へぞ投げ上げたる。投げ上げられ、ただ直り、太刀を抜き、大音声を揚げて、「武蔵国の住人、大串次郎重親、宇治川の先陣ぞや」とぞ名のつたる。敵も味方もこれを聞いて、一度にどつとぞ笑ひける。
畠山乗り替えに乗つて、をめいてかく。ここに魚綾の直垂に、緋縅の鎧着て、連銭芦毛なる馬に、金覆輪の鞍を置いて、乗つたりける武者ただ一騎、真つ先に進んだる。畠山、「ここにかくるは何者ぞ。名のれや」といひければ、「木曾殿の家の子に、長瀬の判官代重綱」と名のる。
畠山、「今日の軍神に祝はん」とて、押しならべ、むずととつてひき落とし、我が乗つたりける鞍の前輪に押しつけ、ちつとも働かさず、首ねぢ切つて、本田次郎が鞍のとつつけにこそ付けさせけれ。これをはじめて、木曾殿の方より、宇治橋固めたりける兵ども、しばし支へて防ぎけれども、東国の大勢は皆渡いて攻めければ、散々にかけなされ、木幡山、伏見をさして落ちぞゆく。勢田をば稲毛三郎重成がはからひにて、田上の供御の瀬をこそ渡しけれ。
→【各章検討:河原合戦】
戦敗れにければ、飛脚をもつて鎌倉殿へ、合戦の次第詳しう記し申されけり。鎌倉殿、まづ御使に、「佐佐木はいかに」と御尋ねありければ、「宇治川の真つ先候ふ」と申す。さて日記をひらいて御覧ずれば、「宇治川の先陣、佐佐木四郎高綱、二陣、梶原源太景季」とこそ書かれたれ。
宇治勢田敗れぬと聞こえしかば、木曾左馬頭義仲、最後の暇申さんとて、院の御所六条殿へ馳せ参る。
御所には法皇をはじめ参らせて、公卿、殿上人、今度ぞ世の失せはてとて手を握り、立てぬ願もましまさず。
木曾門前まで参りたりしかども、さして奏すべき旨もなくして、とつて返す。六条高倉なる所、初めて見そめたりける女房のありければ、そこに打ち寄つて、最後の名残惜しまんとて、とみに出でもやらざりけり。
ここに今参りしたりける越後の中太家光といふ者あり。「御敵すでに川原まで攻めいつて候ふに、何とてかやうにうちとけて渡らせ給ひ候ふぞ。犬死にせさせ給ひ候ひなんず。とうとう御出で候へ」と申しけれども、なほ出でもやらざりけり。「さ候はば、家光はまづ先だち参らせて、四手の山でこそ待ち参らせ候はめ」とて、やがて打つ立ち給ひけり。
ここに上野国の住人、那波太郎広純を先として、その勢百騎ばかりには過ぎざりけり。六条河原に打ち出でて見給へば、東国勢と思しくて、まづ三十騎ばかりで出で来たり。
その中より武者二騎進んだり。一騎は塩屋五郎維広、一騎は勅使河原小三郎有直なり。塩屋が申しけるは、「後陣の勢をや待つべき」。また勅使河原が申しけるは、「一陣敗れぬれば残党まつたからず。ただ駆けよや」とて、をめいてかく。
木曾は今日を最後と戦へば、東国の大勢、皆我討ち取らんとぞ進みける。
大将軍九郎御曹司義経、戦をば軍兵どもにせさせ、院の御所のおぼつかなきに、守護し奉らんとて、混甲五六騎、院の御所六条殿へ馳せ参る。御所には、大膳大夫成忠、御所の東の築垣の上にのぼりあがり、わななくわななく見渡せば、武士五六騎のけ甲に戦ひなつて、白旗ざつと差し上げ、春風に射向け袖吹きなびかし、黒煙立てて馳せ参る。
成忠、「あなあさまし、また木曾が参り候ふぞや」と申しければ、今度ぞ世の失せはてとて、君も臣も大きに騒ぎおはします。成忠重ねて申しけるは、「笠しるしのかはり候ふ。いかさまこれは今日はじめて都へ入る東国勢とおぼえ候ふ」と申しも果てねば、九郎義経、門前に馳せ参じ、急ぎ馬より飛んで下り、門をたたかせ、大音声を揚げて、「東国より前兵衛佐頼朝が舎弟、九郎義経参つて候ふぞや」と申されたりければ、成忠あまりの嬉しさに、急ぎ築垣の上より躍り下るるとて、腰をつき損じたりけれども、痛さは嬉しさに紛れておぼえず、はふはふ御前へ参つて、この由奏聞しければ、法皇大きに御感あつて、やがて門を開かせて入れられけり。
九郎義経その日は、赤地の錦の直垂に、紫裾濃の鎧着て、鍬形うつたる甲の緒をしめ、金作りの太刀をはき、二十四さいたる切生の矢負ひ、滋籐の弓の鳥打ちを、紙を広さ一寸ばかりに切つて、左巻き巻いたる。今日の大将軍のしるしとぞ見えし。
法皇、中門の連子より叡覧あつて、「ゆゆしげなる者どもかな。皆名乗らせよ」と仰せければ、まづ九郎義経、次に安田三郎義定、畠山庄司次郎重忠、梶原源太景季、佐佐木四郎高綱、渋谷右馬允重資とぞ名のりたれ。義経具して武士は六人、鎧は色色なりけれども、面魂ことがら、いづれも劣らず。
成忠仰せ承つて、義経を大床のきはへ召して、合戦の次第をくはしう御尋ねあり。
義経かしこまつて申しけるは、「木曾が謀叛のこと、頼朝、大きに驚き、範頼、義経を先として、都合六万余騎を参らせ候ふ。義経は宇治の手攻め破つて、この御所守護のために馳せ参じて候ふ。範頼は勢田より参り候ひつるが、未だ見え候はず。義仲河原を上りに落ち候ひつるを、軍兵どもをもつて追はせ候ひつれば、今は定めて打ち取り候ひなんず」と、いと事もなげにぞ申されける。
法皇大きに御感あつて、「また木曾が余党なんども参つて、狼藉もぞつかまつる。汝はこの御所よくよく守護せよ」と仰せければ、かしこまり承つて、四方の門を固めて待つほどに、兵どもはせ集まつて、ほどなく一万余騎ばかりになりにけり。
木曾はもしの事あらば、法皇取り奉て、西国へ落ち下り、平家とひとつにならんとて、力者二十人そろへて持つたりけれども、御所にはまた九郎義経参つて守護し奉ると聞こえしかば、「今はいかにも叶ふまじ。さらば」とて敵の中へかけ入り、討たれんとする事度度に及ぶといへども、かけいりかけいり通りけり。
木曾涙を流いて、「かかるべしとだに知りたりせば、今井を勢田へはやらざらまし。幼少竹馬の昔より、死なば一所で死なんとこそ契りしに、ところどころで討たれん事こそ悲しけれ。いま一度今井が行方を聞かん」とて、河原をのぼりにかくるほどに、六条河原と三条河原の間にて、敵襲うてかかれば、取つて返し取つて返し、わづかなる小勢にて、雲霞のごとくなる敵の大勢を、五六度まで追ひ返す。
賀茂川ざつとうち渡し、粟田口、松坂にもかかりけり。去年信濃を出でしには、五万余騎と聞こえしが、今日四の宮河原を過ぐるには、主従七騎になりにけり。まして中有の旅の空、思ひやられてあはれなり。
→【各章検討:木曾最期】
木曾は信濃より、巴、山吹とて二人の美女を具せられたり。山吹はいたはりあつて都にとどまりぬ。中にも巴は色白く髪長くして、容顔まことに美麗なり。有り難き強弓精兵、弓矢打ち物とつては、いかなる鬼にも神にもあふといふ、一人当千の兵なり。屈強の荒馬乗り、悪所落とし、戦といへば、まづさねよき鎧着せ、大太刀、強弓持たせて、一方の大将に向けられけり。度々の功名、肩を並ぶる者なし。されば今度も多くの者落ち失せ討たれける中に、七騎がうちまでも、巴は討たれざりけり。
木曾は長坂を経て、丹波路へとも聞こゆ。竜華越えにかかつて、また北国へとも聞こえけり。かかりしかども、今井が行方のおぼつかなさに、勢田の方へ落ちゆくほどに、今井四郎兼平も、八百余騎で勢田を固めたりけるが、その勢わづかに五十騎ばかりに打ちなされ、旗をば巻き、主の行方のおぼつかなさに、都の方へ取つて返して上るほどに、大津の打出の浜にて、木曾殿に行きあひ奉る。中一町ばかりより、互ひにそれと見知つて、主従駒をはやめて寄り合うたり。
木曾殿、今井が手をとつて「義仲六条河原にて、いかにもなるべかりしかども、所々で討たれんより、汝と一所でいかにもならんと思ふ為に、多くの敵に後ろを見せて、これまで逃れたるはいかに」と宣へば、
今井四郎、「御諚まことにかたじけなく候ふ。兼平も勢田にていかにもなるべう候ひつれども、御行方のおぼつかなさに、これまでのがれ参つて候ふ」と申しければ、
木曾殿、「さては契りは未だ朽ちせざりけり。義仲が勢、山林にはせ散つて、この辺にも控へたるらん。汝が巻きて持たせたる旗揚げさせよ」と宣へば、今井が旗さし上げたり。都より落つる勢ともなく、また勢田より参る者ともなく、今井が旗を見つけて三百余騎ぞ馳せ集まる。
木曾殿なのめならずに喜び、「この勢あらば、などか最後の戦せざるべき。ここにしぐらうて見ゆるは、誰が手やらん。」「甲斐の一条次郎殿の御手とこそ承つて候へ。」「勢いかほどあるらん。」「六千余騎とこそ聞こえ候へ。」「さては互ひによい敵、同じう死ぬるとも、よい敵にあうて、大勢の中にてこそ討ち死にをもせめ」とて、真つ先にぞ進んだる。
木曽左馬頭、その日は赤地の錦の直垂に、唐綾縅の鎧着て、いか物づくりの太刀をはき、鍬形うつたる甲の緒をしめ、二十四さいたる石打の矢の、その日の戦に射て、少々残つたるを、頭高に負ひなし、滋籐の弓の真中とつて、木曽の鬼葦毛と聞こゆる名馬に、金覆輪の鞍を置いてぞ乗つたりける。
鐙ふんばり立ちあがり、大音声を揚げ、「日頃は聞きけんものを、木曽の冠者、今は見るらん、左馬頭兼伊予守、朝日将軍源義仲ぞや。我と思はん人々は、義仲討つて兵衛佐に見せよや」とてをめいてかく。
一条次郎、「ただいま名乗るは大将軍ぞ。余すな者ども、もらすな若党、討てや」とて、大勢の中に取りこめて、我討つとらんとぞ進みける。
木曾三百余騎、六千余騎が中へ駆け入り、縦様、横様、蜘蛛手、十文字に懸け破つて、後ろへつつと出でたれば、五十騎ばかりになりけり。そこを破つてゆくほどに、土肥次郎実平、二千余騎で支へたり。そこをも破つてゆくほどに、あそこにては四五百騎、ここにては二三百騎、百五十騎、百騎ばかりが中を、懸け破り懸け破りゆくほどに、主従五騎にぞなりにける。五騎がうちまでも、巴は討たれざりけり。
木曾殿、巴を召して、「己は女なれば、これよりとうとういづちへも落ちゆけ。義仲は討ち死にをせんずるなり。もし人手にもかからずは、自害をせんずれば、木曾の最後の戦に、女を具せられたりなんど、言はれん事こそ口惜しけれ。とうとう落ちゆけ。」と宣へども、なほ落ちもゆかざりけるが、あまりに強う言はれ奉て、「あつぱれよからう敵がな。木曾殿の最後の戦して見せ奉らん」とて、ひかへて敵を待つ所に、武蔵国に聞こえたる大力、恩田八郎師重といふ、三十騎ばかりで出で来たり。
巴その中へ駆け入り、恩田八郎に押し並べ、むんずととつて引き落とし、我が乗つたりける鞍の前輪に押しつけて、ちつとも働かさず、首ねぢ切つて捨ててんげり。その後巴は物の具脱ぎ棄て、東国の方へ落ちぞゆく。
手塚太郎討ち死にす。手塚別当落ちにけり。
木曽殿、今井四郎ただ主従二騎になつて宣ひけるは、「日頃は何ともおぼえぬ鎧が、今日は重うなつたるぞや」と宣へば、今井四郎申しけるは、「それは味方に続く御勢が候はで、臆病でこそさは思し召され候ふらめ。御身もいまだ疲れさせ給ひ候はず、御馬も弱り候はず。何によつてか一領の御着背長は重うは候ふべき。兼平一騎をば、余の武者千騎と思し召され候はずや。射残したる矢七つ八つ候へば、暫く防ぎ矢つかまつり候はん。あれに見え候ふは、粟津の松原と申す。君はあの松の中へ入らせ給ひて、静かに御自害候へ」とて、打ちゆくほどに、また新手の武者五十騎ばかりで出で来たり。
「兼平はこの御敵防ぎ参らせ候はん。君はあの松の中へ入らせ給へ」と申しければ、義仲、「六条河原にていかにもなるべかりしかども、汝と一所でいかにもなり候はん為にこそ、これまでは逃れたれ。一所でこそ討ち死にをもせめ」とて、馬の鼻を並べ、すでに駆けんとし給へば、
今井四郎、急ぎ馬より飛びおり、主の馬の口に取り付き、涙をはらはらと流いて申しけるは、「弓矢取りは、年頃日頃いかなる高名候へども、最後の時不覚しつれば、長き瑕にて候ふなり。御身もはや疲れさせ給ひ候ひぬ。御馬も弱り候ひぬ。味方に続く御勢はなし。大勢の中に押し隔てられ、いふかひなき人の郎等に組み落とされて、討たれさせ給ひ候ひなば、さしも日本国に聞こえさせ給へる木曽殿をば、某が郎等の手にかけて討ち奉たりなんぞ申されん事こそ口惜しう候へ。ただ理を曲げて、あの松の中へ入らせ給へ」と申しければ、木曽殿、さらばとて、ただ一騎粟津の松原へぞ駆け給ふ。
今井四郎ただ一騎、五十騎ばかりが中へ懸け入り、鐙ふんばり立ちあがり、大音声を揚げて、「遠からん者は音にも聞け、近からん人は目にも見給へ。木曾殿の乳母子に、今井四郎兼平とて、生年三十三にまかりなる。さる者ありとは、鎌倉殿までも知ろしめされたるらんぞ。兼平討つて兵衛佐殿の見参に入れよや」とて、八筋の矢を、さしつめひきつめ散々に射る。死生は知らず、やにはに敵八騎射落とす。その後打物の鞘を外いて散々に切つてまはるに、面を合はする者ぞなき。ただ、「射とれや殿ばら」とて、矢先揃へて、雨の降るやうに差しつめ引きつめ、散々に射けれども、鎧よければ裏かかず、開き間を射ねば手も負はず。
さるほどに、木曾殿はただ一騎、粟津の松原へかけ給ふ。頃は正月二十一日、入相ばかりの事なるに、薄氷は張りたりけり。深田ありとも知らずして、馬をざつと打ちいれたれば、馬の頭も見えざりけり。あふれどもあふれども、打てども打てどもはたらかず。
今井が行方のおぼつかなさに、振り仰ぎ給へる内甲を、三浦の石田次郎為久、おつかかり、よつぴいてひやうど放つ。木曾殿内甲を射させ、痛手なれば、甲の真甲を馬のかしらにあててうつぶし給へる所を、石田が郎等二人落ちあひて、木曾殿の首をば終に給つてんげり。
太刀の先に貫き、高く差し上げ、大音声を揚げて、「この日頃日本国に聞こえさせ給へる木曾殿をば、三浦の石田次郎為久が、討ち奉るぞや」と名乗りければ、今井四郎、戦しけるがこれを聞いて、「今は誰をかばはんとて、戦をばすべき。これ見給へ東国の殿ばら、日本一の剛の者の自害する手本よ」とて、太刀の鋒を口に含み、馬よりさかさまに飛び落ち、貫かつてぞ失せにける。さてこそ粟津の戦はなかりけれ。
→【各章検討:樋口被討罰】
今井が兄の樋口次郎兼光は、十郎蔵人討たんとて、その勢五百余騎で、河内国長野城へ越えたりけるが、そこにては討ちもらしぬ。紀伊国名草にありと聞いて、やがて続いて越えたりけるが、都に戦ありとて、取つて返して上るほどに、淀の大渡の橋にて、今井が下人にゆきあうたり。
「あな心憂。これはいづちへとて渡り給ひ候ふぞ。都には戦出で来て、君討たれさせ給ひ候ひぬ。今井殿も御自害」といひければ、樋口次郎、涙をはらはらと流いて、「これ聞き給へ殿ばら、君に御心ざし思ひ参らせ給はん人々は、これよりいづくへも迷ひゆき、いかならん乞食頭陀の行をもして、君の後世をとぶらひ参らせ給へ。兼光は都へ上り、討ち死にして、冥土にても、君の御見参に入り、今井四郎をもいま一度見んと思ふためなり」といひければ、これを聞いて、五百余騎の勢ども、あそこここにひかへ、ここにひかへ落ちゆくほどに、鳥羽の南の門を過ぐるには、その勢わづかに二十余騎にぞなりにける。
樋口次郎、今日すでに都へ入ると聞こえしかば、党も豪家も、七条、朱雀、四塚さまへはせむかふ。ここに樋口次郎が内に、茅野太郎光広といふ者あり。四塚にいくらもありける勢の中へ懸け入り、鐙ふんばり立ち上がり、大音声をあげ、「この勢の中に、一条次郎殿の御手の人やまします」と問ひければ、「必ず一条次郎の手でないは、戦をばせぬか、誰にも合へかし」とて、どつと笑ふ。
笑はれて名乗りけるは、「かう申す者は、信濃国諏訪上宮の住人、茅野大夫光家が子に、茅野太郎光広といふ者なり。必ず一条次郎殿の御手の人を尋ぬるにはあらず。弟の茅野七郎それにあり。光広が子供、二人信濃国に候ふが、あはれわが父は、ようてや死にたるらん、悪しうてや死にたるらんと、なげかんずる所に、弟の七郎が前にて討ち死にして、子供にたしかに聞かせんと思ふためなり。敵をばきらふまじ」とて、あれに馳せあひ、これに馳せあひ、武者三騎切り落とし、四人にあたる敵に押し並べ、むんずと組んでどうど落ち、差し違へてぞ死ににける。
樋口次郎は児玉党にむすぼほれたりければ、児玉の人ども寄り合ひて、「我も人も弓矢取りの、広い中へ入らんといふは、自然の事のある時、一まどの息をもつぎ、しばしの命をも助からんと思ふためなり。されば樋口次郎が我らにむすぼほれけんも、さこそは思ひけめ。樋口が命を助けん」とて、児玉党の中より使者を立てて、「日頃は今井、樋口と聞こえさせ給ひて候へども、今は木曾殿うたれ給ひ候ひぬ。今井殿も御自害、なにか苦しう候ふべき。我等が中へ降人になり給へ。我等が今度の勲功の章に申しかへて、御命ばかりをば、たすけ奉らん」といひ送りたりければ、樋口の次郎、日頃は聞こゆる兵にてありけれども、運や尽きにけん、児玉党の中へ、降人にこそなりにけれ。
九郎御曹司へ申す。院の御所へ奏聞して、なだめられたりしを、かたはらの公卿、殿上人、局の女房、女の童にいたるまで、「木曾が法住寺殿へよせ、御所に火をかけて多くの人々をほろぼし失ひしには、あそこにもここにも、今井、樋口といふ声のみこそありしか。これらをなだめられんは、口惜しかるべし」と、口々に申されければ、また死罪にぞ定められける。
同じき二十二日、新摂政殿とどめられさせ給ひて、もとの摂政還着し給ふ。わづか六十日のうちに替へられ給へば、いまだみはてぬ夢のごとし。昔粟田の関白は喜び申しの後、七か日だにありしぞかし。これは六十日とは申せども、そのうちに節会も除目も行はれしかば、思ひ出なきにもあらず。
同じき二十四日、木曾左馬頭、ならびに余党五人が首、大路を渡さる。樋口次郎は降人たりしが、しきりに首の供せんと言ひければ、さらばとて藍摺の水干、立烏帽子で渡されけり。
同じき二十六日、樋口次郎つひに斬られにけり。「今井、樋口、楯、根井とて、木曾が四天王のその一、これらを助けられんは、養虎の憂へあるべし」と、殊に沙汰あつて斬られけるとぞ聞こえし。
つてに聞く、虎狼の国衰へて、諸侯蜂のごとくにおこりし時、沛公先に咸陽宮へ入るといへども、項羽後に来たらん事を恐れて、細馬美人をも犯さず、金銀の珠玉をもかすめず、いたづらに函谷の関を守つて、漸漸に敵を滅ぼして、天下を治する事を得たりき。されば今の木曾左馬頭も、まづ都へ入るといふとも、頼朝朝臣の命にしたがはましかば、かの沛公が謀には劣らざらまし。
さるほどに、平家は去年の冬の頃より、讃岐国八島の磯を出でて、摂津国難波潟におし渡り、福原の旧都に居住して、西は一の谷を城郭にに構へ、東は生田の杜を大手の木戸口とぞ定めける。その間、福原、兵庫、板宿、須磨にこもる勢、これは今度山陽道八か国、南海道六か国、都合十四か国をうち従へて、召さるる所の軍兵、十万余騎とぞ聞こえし。
一の谷は北は山、南は海、口は狭くて奥広し。岸高く聳えて、屏風を立てたるにことならず。北の山ぎはより、南の海の遠浅まで、大木か切つて逆も木に引き、大石を重ね上げ、深き所には、大船どもをそばだてて、かい楯にかき、城の面の高矢倉には、一人当千と聞こゆる四国鎮西の兵ども、甲冑弓箭を帯して、雲霞のごとくなみゐたり。
矢倉の前には、鞍置き馬ども、十重二十重に引つ立てたり。常に太鼓を打ち、乱声をす。
一張の弓の勢は半月胸の前にかかり、三尺の剣の光は、秋の霜、腰の間に横だへたり。高き所は赤旗多くうつたてたれば、春風に吹かれて、天にひるがへるは、火炎の燃え上がるに異ならず。
→【各章検討:六ヶ度軍】
さるほどに平家一の谷へ渡り給ひて後は、四国の者ども従ひ奉らず。中にも阿波、讃岐の在庁等、一向平家を背き、源氏に心を通はす。
「そもそも我等は昨日今日まで、平家に従ひ奉たる身の、今日はじめて源氏へ参りたりとも、よも用ひられじ。平家に矢一つ射かけ奉て、それを面にして参らん」とて、門脇中納言、嫡子越前三位、弟能登守教経父子三人、備前国下津井にましますと聞いて、討ち奉らんとて、兵船十余艘で寄せたりければ、能登殿大きに怒つて、「昨日今日まで、我等が馬の草切つたる奴ばらが、いつしか契りを変ずるにこそあんなれ。その儀ならば、一人も漏らさず射てや」とて、小舟十艘ばかり押し浮かべて、「あますな漏らすな」とて攻め給へば、四国の者ども、人目ばかりの矢一つ射て、のかんとこそ思ひつるに、能登殿に手痛うかけられ奉り、かなはじとや思ひけん、遠負けにして引き退き、淡路国福良の泊に着きにけり。その国に源氏に二人ありけり。
故六条の判官為義が末子、賀茂の冠者義嗣、淡路の冠者義久と聞こえしを、四国の者ども、大将にたのんで、城郭を構へて待つ所に、能登殿やがて押し寄せて、散々に攻め給へば、賀茂の冠者討ち死にす。淡路の冠者は痛手負ひて、生け捕りこそせられけれ。
能登殿防ぎ矢射ける兵ども、百三十余人が首切りかけ、討手の交名記いて、福原へこそ参られけれ。
それより門脇中納言は、一の谷へぞ参られける。子息達は、伊予の河野四郎が召せども参らぬを攻めんとて、四国へぞ渡られける。
嫡子越前三位は、阿波国花園の城に着き給ふ。弟能登守教経は、讃岐の八島に着き給ふと聞こえしかば、伊予国の住人、河野四郎通信は、安芸国の住人、沼田次郎は母方の伯父なりければ、ひとつにならんとて、その勢五百余騎で伊予国を立つて、安芸国に押し渡り、沼田の城に立て篭もる。
能登殿やがて、讃岐の八島を立つて追はれけるは、その日は備後国蓑島といふ所にかかつて、次ぐ日、沼田の城へ寄せ給ふ。沼田次郎、河野四郎、ひとつになり、城郭を構へて待つ所に、能登殿やがて押し寄せて、散々に攻め給へば、沼田次郎はこらへずして、甲を脱ぎ、弓の弦をはづいて降人に参る。
河野はなほも従はず。その勢五十騎ばかりに討ちなされ、城を落ちてゆく所に、能登殿の侍に、平八兵衛為員といふ者、二百騎ばかりが中に取りこめられ、主従七騎に討ちなされ、助け舟に乗らんとて、細道にかかつて落ちゆく所を、平八兵衛が子息、讃岐七郎義範、屈強の弓の上手にてありければ、追ひかかり、七騎を五騎射落とす。河野四郎、主従二騎にぞなりにける。
河野が身にかへて思ひける郎等に、讃岐七郎義範押し並べ、ひつぐんで、どうど落つ。とつておさへて、首をかかんとする所に、河野四郎かなはじとや思ひけん、とつて返し、郎等が上なる讃岐七郎が首かき切つて深田へ投げ入れ、大音声を揚げて、「伊予国の住人、河野四郎越智通信、生年二十一、戦をばかうこそすれ。我と思はん者どもは、よつてとどめよや」とて、郎等を肩にひつかけ、そこをなつく逃げのび、伊予国へ押し渡る。能登殿、河野をば打ち漏らされたりけれども、沼田次郎が降人たるを召しめし具して、一の谷へぞ参られける。
また阿波国の住人、安摩六郎忠景、これも平家を背き、源氏に心を通はしけるが、大船二艘に、兵糧米積み、物の具入れて都の方へ落ち行きけるを、能登殿、福原にてこれを聞き、小舟十艘ばかり押し浮かべて追はれければ、西宮の沖にて、返し合はせて防ぎ戦ふ。
能登殿、「あますな、もらすな」とて、散々に攻め給へば、安摩六郎かなはじとや思ひけん、遠負けにして引き退く。和泉国吹飯の浦に着きにけり。
また豊後国の住人、臼杵次郎維高、緒方三郎維義、伊予国の住人、河野四郎通信、ひとつになり、都合その勢二千余人、小舟に取り乗つて、備前国に押し渡り、今木の城に立てこもる。
能登殿、福原にてこれを聞き、その勢三千余騎で備前国に馳せ下つて、今木の城を攻め給ふ。
能登殿重ねて申されけるは、「奴ばらはこはい御敵にて候ふ。重ねて勢を賜はらん。」と申されたりければ、福原より数千騎の軍兵を差し向けらるる由聞こえしかば、城内の兵ども、手のきは戦ひ、分捕り高名きはめて、「平家はいよいよ大勢でまします。我等は小勢なり。ここを落ちて、しばらくの息をつげや」とて、臼杵次郎維高、緒方三郎維義、小舟に乗つて鎮西へ押し渡る。河野は伊予へぞ渡りける。
能登殿、今は攻むべき敵なしとて、福原へこそ参られけれ。大臣殿をはじめ奉て、一門の人々能登殿の度度の高名をぞ一同に感じ合はれける。
→【各章検討:三草勢揃】
同じき正月二十九日、範頼、義経院参して、平家追討のために、西国へ発向すべき由を奏聞す。
本朝には、神代より伝はれる三つの御宝あり。内侍所、神璽、宝剣これなり。相構へて、事故なく都へ返し入れ奉るべき由仰せ下さる。両人かしこまり承つてまかり出づ。
二月四日、福原には故入道相国の忌日とて、仏事形のごとく取り行はる。朝夕の戦だちに、過ぎゆく月日は知らねども、去年は今年にめぐり来て、うかりし春にもなりにけり。世の世にてもあらましかば、いかなる起立塔婆の企て、供仏施僧の営みもあるべきに、ただ男女の君達さしつどひて、泣くよりほかの事ぞなき。このついでに叙位、除目行はれて、僧俗司なされけり。門脇中納言、正二位大納言になり給ふべき由を、大臣殿より仰せられければ、教盛卿、
♪74
今日までも あればあるかの 我が身かは
夢のうちにも 夢を見るかな
と御返事申させ給ひて、つひに大納言にもなり給はず。
大外記中原師直が子、周防介師澄、大内記になる。兵部少輔正明、五位の蔵人になされて、蔵人少輔とぞいはれける。昔将門が東八か国をうちしたがへて、下総国相馬の郡に都をたて、我が身平親王と称じて、百官をなしたりしには、暦博士ぞなかりける。これはそれには似るべからず。旧都をこそ出でさせ給ふといへども、主上、三種の神器を帯して、万乗の位にそなはり給へり。叙位、除目行はれんも僻事にはあらず。
平氏すでに福原まで、攻め上つて、都に帰り入る由聞こえしかば、故郷に残りとどまりたる人々の勇みよろこぶ事なのめならず。二位僧都全真は、梶井宮の年来の御同宿なりければ、風の便りにも申されけり。宮よりもまた常は御音信あり。「旅の空の有様、思し召しやるこそ心苦しけれ。都もいまだ静かならずして」なんどあそばいて、奥には一首の歌ぞありける。
♪75
人知れず そなたをしのぶ 心をば
かたぶく月に たぐへてぞやる
僧都これを顔におしあてて、悲しみの涙せきあへず。
さるほどに小松三位中将維盛卿は、年隔たり日重なるにしたがつて、故郷にとどめおき給ひし北の方、幼き人々の事をのみ歎き悲しみ給ひけり。商人の便りに、おのづから文などの通ふにも、北の方の都の御有様、心苦しう聞き給ひて、さらば迎へ奉て、一所にていかにもならばやとは思はれけれども、いつとなき浪の上、舟のうちの住まひなれば、人のためいたはしくてなんど思し召し忍びつつ、明かし暮らし給ふにこそ、せめての心ざしのほどもあらはれけれ。
さるほどに、源氏は四日に寄すべかりしを、故入道相国の忌日と聞いて、仏事遂げさせんとて寄せず。
五日は西塞がり、六日は道虚日、七日の卯の刻に、一の谷の東西の木戸口にて、源平の矢合はせとこそ定められけれ。
さりながら四日は吉日なればとて、大手からめ手の大将軍、軍兵二手に分けて都を立つ。
まづ大手の大将軍には、蒲御曹司範頼、相伴ふ人々、武田太郎信義、加賀見次郎遠光、同じく小次郎長清、山名次郎教義、同じく三郎義行、侍大将には、梶原平三景時、嫡子の源太景季、次男平次景高、同じく三郎景家、稲毛三郎重成、榛谷四郎重朝、同じく五郎行重、小山四郎朝政、同じく中沼五郎宗政、結城七郎朝光、讃岐四郎大夫広綱、小野寺禅師太郎道綱、曽我太郎資信、中村太郎時経、江戸四郎重春、玉井四郎資景、大河津太郎広行、庄三郎忠家、同じく四郎高家、勝大八郎行平、久下次郎重光、河原太郎高直、同じく次郎盛直、藤田三郎大夫行泰を先として、都合その勢五万余騎、四日の辰の一点に都を立つて、その日の申酉の刻には、摂津国昆陽野に陣をとる。
からめ手の大将軍には、九郎御曹司義経、同じく伴ふ人々、安田三郎義貞、大内太郎維義、村上判官代康国、田代の冠者信綱、侍大将には、土肥次郎実平、子息の弥太郎遠平、三浦介義澄、子息の平六義村、畠山庄司次郎重忠、同じく長野三郎重清、三浦佐原十郎義連、和田小太郎義盛、同じく次郎義茂、同じく三郎宗実、佐佐木四郎高綱、同じく五郎義清、熊谷次郎直実、子息の小次郎直家、平山武者所季重、天野次郎直経、小河次郎資能、原三郎清益、金子十郎家忠、同じく与一親範、渡柳弥五郎清忠、別府小太郎清重、多多羅五郎義春、その子の太郎光義、片岡太郎経春、源八広綱、伊勢三郎義盛、奥州の佐藤三郎嗣信、同じく四郎忠信、江田源三、熊井太郎、武蔵坊弁慶、これらを先として、都合その勢一万余騎、同じ日の同じ時に都を立つて、丹波路にかかり、二日路を一日にうつて、播磨と丹波の境なる三草の山の東の山口、小野原にこそ着きにけれ。
→【各章検討:三草合戦】
平家の方の大将軍には、小松新三位中将資盛、同じく少将有盛、丹後侍従忠房、備中守師盛、侍大将には、平内兵衛清家、海老次郎盛方を先として、その勢三千余騎で、三草の山の西の山口に陣をとる。
その夜の戌の刻ばかりに、大将軍九郎御曹司、侍大将土肥次郎実平を召して、「これより平家は三里隔てて、大勢でひかへてあんなり。夜討ちにやすべき。明日の戦か」と宣へば、
田代の冠者進み出でて、「味方の御勢は一万余騎、平家の勢は三千余騎、はるかの利に候ふ。明日の戦と延べられ候はば、平家勢付き候ひなんず。夜討ちよかんぬとおぼえ候ふ」と申されければ、
土肥次郎、「いしうも申させ給ふ田代殿かな。夜討ちよかんぬとおぼえ候ふ」と申しければ、兵ども、「暗さは暗し、いかがせん」と申しければ、九郎御曹司、「例の大続松はいかに」と宣へば、「さること候ふ」とて、小野原ざ在家に火をぞかけたりける。これをはじめて、野にも山にも、草にも木にも火つけたれば、昼にはちつとも劣らずして、三里の山をぞ越えゆきける。
この田代の冠者と申すは、父は伊豆国の前国司、中納言為綱朝臣の末葉なり。母は狩野介茂光が娘を思うてまうけたりしを、母方の祖父にあづけて、弓矢取りにはしたてたり。俗姓をたづぬれば、後三条院の第三皇子、輔仁親王より五代の孫なり。俗姓もよき上、弓矢とつてもよかりけり。
その夜平家の方には、夜討ちにせんずる事をば思ひもよらず。
「戦は定めて明日の戦にてぞあらんずらん。戦にもねぶたいは大事のものぞ。よう寝て戦ようせよ者ども」とて、先陣はおのづから用心しけれども、後陣の者どもは、皆疲れはてて、或いは甲を枕にし、或いは鎧の袖、ゑびらなんどを枕にし、前後も知らずぞ臥したりける。その夜の夜半ばかり、源氏の勢一万余騎、三草の山の西の山口に押し寄せて、鬨をどつとぞつくりける。
平家の兵ども、余りにあわてさわいで、弓取る者は矢を知らず、矢を取る者は弓を知らず、馬に当てられじと、皆中を開けてぞとほしける。源氏は落ちゆく敵を、あそこに追つかけ、ここに追つつめ、散々に攻めければ、やにはに五百余人討たれぬ。そのほか手負ふ者ども多かりけり。
小松新三位中将資盛、同じく少将有盛、丹後侍従忠房、面目なうや思はれけん、播磨の高砂より小舟に乗つて、讃岐の八島へ渡り給ひぬ。備中守師盛は平内兵衛清家、海老次郎盛方を召し具して、一の谷へぞ参られける。
→【各章検討:老馬】
大臣殿より、安芸右馬助能行を使者で、一門の人々のもとへ「九郎義経こそ、三草の手を攻め破つて、すでに乱れ入り候ふなれ。おのおの向かはれ候ひなんや」と申されければ、みな辞し申されけり。能登殿のもとへ、「度度のことで候へども、御辺向かはれ候ひなんや」と申されければ、能登殿の返事に、「猟漁なんどのやうに、足立ちのよからう方へは向かはう、悪しからう方へは向かはじなんど候はんには、戦に勝つことはよも候はじ。幾度でも候へ、剛からん方をば教経承つて、一方打ち破つて参らせ候はん。御心やすう思し召され候へ」と申されたりければ、大臣殿なのめならずに喜び、越中前司盛俊を先として、能登殿に一万余騎をぞつけられける。
兄越前の三位通盛卿を相具して、山の手をぞ固め給ふ。山の手と申すは、一の谷の後ろ、ひよどり越えの麓なり。通盛卿は能登殿の仮屋に、北の方迎へ奉り、最後の名残惜しまれけり。能登殿大きに怒つて、「この手は大事の手とて、教経を向けらる。まことに剛う候ふべし。ただ今も上の山より敵落とすほどならば、取る物も取りあへ候ふまじ。たとひ弓を持つたりとも、矢を番げずは悪しかるべし。たとひ矢を番げたりとも、引かずはなほも悪しかるべし。ましてさやうに打ち解けて渡らせ給ひて候はば、何の用にかあはせ給ふべき」と諫められて、げにもとや思はれけん、やがて物の具して、人をば返し給ひけり。
五日暮れ方に、源氏昆陽野を立つて、やうやう生田の森へ攻め近付く。雀の松原、御影の杜、昆陽野の方を見渡せば、源氏手手に陣をとつて、遠火をたく。ふけゆくままに眺むれば、山の端出づる月のごとし。
平家も遠火焼けやとて、生田の森にも形のごとくぞ焼いたりける。明けゆくままに見渡せば、晴れたる空の星のごとし。これや昔、河辺の蛍と詠じ給ひけんも、今こそ思ひ知られけれ。源氏はかやうに、あそこに陣とつて馬やすめ、ここに陣とつて馬飼ひなんどしけるほどに急がず。
平家の方には、今や寄する、今や寄すると、やすい心もせざりけり。
二月六日のあけぼのに、九郎御曹司、一万余騎を二手に分けて、土肥次郎実平、七千余騎で一の谷の西の木戸口へ差しつかはす。我が身は三千余騎で、一の谷の後ろ、ひよどり越え落とさんと丹波路よりからめ手へこそ向かはれけれ。
兵ども、「これは聞こゆる悪所にてあんなり。敵にあうてこそ死にたけれ。悪所に落ちては死にたからず。あはれ、この山の案内者やある」と口々に申しければ、武蔵国の住人、平山武者所進み出でて、「季重こそ、この山の案内よく存知つかまつて候へ」と申しければ、御曹司、「わ殿は東国そだちの者の、今日はじめてみる西国の山の案内者、大きにまことしからず」と宣へば、季重かさねて申しけるは、「こは御諚ともおぼえ候はぬものかな。吉野、初瀬の花をば歌人が知る、敵のこもつたる城の後ろの案内をば、剛の者が知り候ふ」とぞ申しける。これまた傍若無人にぞ聞こえし。
また武蔵国の住人、別府小太郎清重とて、生年十八歳になりける小冠者、進み出でて申しけるは、「父にて候ひし義重法師が教へ候ひしは、『山越えの狩をせよ、敵にも襲はれよ、深山に迷ひたらん時は、老馬に手綱打ち解けて、先に追つ立ててゆけば、必ず道へ出づるぞ』とこそ教へ候ひしか」と申しければ、御曹司、「やさしうも申したるものかな。雪は野原を埋めども、老いたる馬ぞ道は知るといふためしあり」とて、白葦毛なる老馬に、鏡鞍置き、白轡番げ、手綱結んで打ち懸け、先に追つ立てて、いまだ知らぬ深山へこそ入り給へ。
頃は二月はじめの事なれば、峰の雪むらぎえて、花かと見ゆる所もあり、谷の鴬おとづれて、霞に迷ふ所もあり。登れば白雪晧晧として聳え、下れば青山峨峨として岸高し。松の雪だに消えやらで、苔の細道かすかなり。嵐にたぐふ折々は、梅花ともまた疑はる。東西に鞭を揚げ、駒をはやめて行くほどに、山路に日暮れぬれば、皆下りゐて陣をとる。
ここに武蔵坊弁慶、老翁一人具して参りたり。御曹司、「あれは何者ぞ」と宣へば、「この山の猟師で候ふ」と申す。「さては案内よく知つたるらん」。「いかでか存知つかまつらでは候ふべき」。「これより平家の城郭、一の谷へ落とさんと思ふはいかに」。「ゆめゆめかなひ候ふまじ。およそ三十丈の谷、十五丈の岩崎なんど申す所をば、人のたやすう通ふべきやうも候はず。その上、城の内には、落とし穴をも掘り、菱をも立てて待ち参らせ候ふらん。まして御馬なんどは思ひもより候はず」と申しければ、御曹司、「さてさやうの所を鹿は通ふか」。「鹿は通ひ候ふ。世間だに暖かになり候へば、草の深いに臥さうどて、播磨の鹿は丹波へ越す。世間だに寒くなり候へば、雪のあさりに食まうどて、丹波の鹿は播磨の印南美野へ越し候ふ」とぞ申しける。
御曹司、「さては馬場ござんなれ。鹿の通はんずる所を、馬の通らざるべきやうやある。さらばやがて、汝先打ちせよ」と宣へば、「この身は年老いて、いかにもかなひ候ふまじ」「さらば汝に子は無きか」。「候ふ」とて、熊王とて生年十八歳になりける童を奉る。
やがてもとどりとりあげ、父をば鷲尾庄司武久といふ間、これをば鷲尾三郎義久と名のらせて、先打ちせさせ、案内者にこそ具せられけれ。平家追討の後、鎌倉殿に仲たがひて、奥州で討たれ給ひし時、鷲尾三郎義久と名のつて、一所で死ににける兵なり。
→【各章検討:一二之懸】
六日の夜半ばかりまでは、熊谷、平山からめ手にぞ候ひける。
熊谷、子息の小次郎を呼んで言ひけるは、「この手は悪所であんなれば、誰先といふ事もあるまじ。いざうれ、土肥が承つて向かうたる播磨路へ寄せて、一の谷の真つ先かけう」と言ひければ、小次郎、「しかるべう候ふ。誰もかくこそ申したう候ひつれ。さらば急ぎ寄せさせ給へ」と申す。
熊谷、「まことや平山もこの手にあるぞかし。打ち籠みの戦好まぬ者なり。平山がやう見て参れ」とて、下人をつかはす。あんのごとく平山は、熊谷よりさきに出で立つて、「人をば知るべからず、季重においては、一ひきもひくまじいものを、引くまじいものを」と、独り言をぞしゐたりける。
下人が馬を飼ふとて、「につくい馬の長食らひかな」とてうちければ、平山、「かくなせそ。その馬の名残も今夜ばかりぞ」とて打ち出でければ、下人走り帰つて、主にこの由告げければ、「さればこそ」とて、これもやがて打つたちけり。
熊谷がその夜の装束には、褐の直垂に、赤革縅の鎧着、紅の母衣をかけ、近太栗毛といふ聞こゆる名馬にぞ乗りける。子息の小次郎直家は、沢潟を一しほ摺つたる直垂に、伏縄目の鎧着、西楼といふ白月毛なる馬にぞ乗つたりける。旗指は麹塵の直垂に、小桜を黄にかへいたる鎧着、黄河原毛なる馬にぞのつたりける。
落とさんずる谷をば弓手になし、馬手へ歩ませゆくほどに、年頃人も通はぬ田井の畑といふ古道を経て一の谷の波打ち際へぞ打ち出でける。
一の谷の近く塩屋といふ所あり。いまだ夜深かりければ、土肥次郎実平、七千余騎でひかへたり。熊谷波打ち際より、夜にまぎれ、そこをつつと馳せとほつて、一の谷の西の木戸口にぞ押し寄せたる。
その時もいまだ夜深かりければ、城の内にもしづまり返つて音もせず。味方一騎も続かず。
熊谷、子息の小次郎にいひけるは、「心狭う直実一人と思ふべからず。我も我もと、先に心を懸けたる人々多かるらん。すでに寄せたれども、夜のあくるをあひ待ちて、この辺にもぞひかへたるらん。いざ名のらん」とて、掻楯の際に打ち寄せ、鐙ふんばり立ちあがり、大音声をあげて、「武蔵国の住人熊谷次郎直実、子息の小次郎直家、一の谷の先陣ぞや」とぞ名のつたる。城の内にはこれを聞いて、「よしよし音なせそ。敵が馬をつからかさせよ。矢種を射つくさせよ」とて、あひしらふ者こそなかりけれ。
ややあつて後ろより武者こそ一騎続いたれ。「誰そ」と問へば、「季重」と答ふ。「問ふは誰そ」。「直実ぞかし」。「いかに熊谷殿はいつよりぞ」。「直実は宵よりよ」とぞ答へける。
「季重もやがて続いて寄すべかりつるを、成田五郎にたばかられて、今までは遅々したりつるなり。成田が『死なば一所で死しなん』と契りし間、打ちつれて寄せつるほどに、『平山殿、いたう先懸けばやりなし給ひそ。戦の先をかくるといふは、味方の勢を後ろに置いて、先をかけたればこそ、高名不覚も人に知らるれ。ただ一騎、敵の中に懸け入つて討たれたらんずるは、何の詮にかあふべき』といふ間、げにもと思ひ、小坂のありつるを、先にうちのぼせ、馬の首をくだり様にひつたてて待つ所に、成田も続いて出で来たり。打ちならべ戦のやうをも言ひ合はせんずるかと思ひたれば、さはなくして、季重をばすげなげに見て、そこをつつと馳せとほる間、『あつぱれ、この者は季重たばかつて、先かけうどするよ』と思ひ、五六段ばかり先立つたるを、あれが馬は我が馬より弱げなるものをと目をかけ、一鞭打ち追つ付き、『いかに季重ほどの者をば、まさなうもたばかり給ふものかな』といひかけ、打ち捨てて寄せつれば、今は遥かにさがりぬらん。よも後ろ影ば見たらじ」とこそ語りけれ。
熊谷、平山、かれこれ五騎でひかへたり。さるほどに東雲やうやう明けゆけば、熊谷は先に名のりたりけれども、平山が聞くに、また名のらんとや思ひけん、掻楯の際に打ち寄せ、鐙ふんばりたちあがり、大音声をあげて、「以前に名のりつる武蔵国の住人熊谷次郎直実、子息の小次郎直家、一の谷の先陣ぞや。我と思はん人々は直実父子に落ちあへや。組めや組め」とぞののしつたる。
城の内にはこれを聞いて、「いざ夜もすがら名のる熊谷親子、ひつさげて来ん」とて、進む平家の侍たれたれぞ。越中次郎兵衛盛嗣、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清、後藤内定経を先として、むねとの兵二十余騎、木戸を開いてかけ出でたり。
ここに平山は滋目結の直垂に、緋縅の鎧着て、二引両の母衣をかけ、目糟毛といふ聞こゆる名馬にぞ乗りける。旗指は黒革縅の鎧着、甲居頚に着なし、さび月毛なる馬にぞ乗つたりける。「保元平治両度の戦に、先がけたりし武蔵国の住人、平山武者所季重」と名のつて、旗指と二騎馬の鼻を並べてをめいてかく。
熊谷かくれば平山続き、平山かくれば熊谷続き、たがひに我劣らじと入れかへ入れかへ、もみにもうで火出づるほどにぞ攻めたりける。平家の侍ども、手痛う駆けられて、かなはじとや思ひけん、城の内へざつと引いて、敵を外様になしてぞ防ぎける。
熊谷は乗つたりける馬の太腹の深に射させ、はぬれば、足をこいており立つたり。子息の小次郎直家も、生年十六歳と名のつて、掻楯の際に、馬の鼻を突かするほどに、攻め寄せて戦ひけるが、弓手のかひなを射させ、急ぎ馬より飛んで下り、父と並うでぞ立つたりける。
熊谷、「いかに小次郎は手負うたるか。」「さん候ふ。」「鎧築を常にせよ。裏かかすな。錣を傾けよ、内甲射さすな」とこそ教へけれ。
熊谷は鎧に立つたる矢どもかなぐり捨て、城の内を睨まへ、大音声をあげて、「去年の冬、鎌倉をたつしより、命をば兵衛佐殿に奉り、骸を摂津国の一の谷でさらさんと、思ひ切つたる直実ぞや。室山、水島二箇度の戦に打ち勝つて、高名したりと名のるなる、越中次郎兵衛はないか。上総五郎兵衛、悪七兵衛はないか。能登殿はおはせぬか。高名不覚も敵によつてこそすれ。人ごとにはえせじものを。直実親子に落ちあへや、組めや組め」とぞののしつたる。
城の内にはこれを聞いて、越中次郎兵衛盛嗣、このむ装束なれば、こむらごの直垂に、赤縅の鎧着、連銭葦毛なる馬に、金覆輪の鞍置いて乗つたりけるが、熊谷親子に目にかけてあゆませよる。熊谷父子も中をわられじと、あひもすかさず立ちならんで、太刀を額に当て、後ろへは一引きも引かず、いよいよ前へぞ進みける。
越中次郎兵衛これを見て、かなはじとや思ひけん、とつてかへす。
熊谷、「あれは越中次郎兵衛とこそ見れ。敵にはどこを嫌ふぞ。押し並べて組めや組め」といひけれども、「さもさうず」とて引つ返す。
上総五郎兵衛これを見て、「きたない殿ばらの振る舞いやうや。」とて、すでに駆け出で組まんとしけるを、盛嗣、鎧の袖をひかへて、「君の御大事、これに限るまじ。あるべくもなし」と制せられて、力及ばで組まざりけり。
さるほどに、熊谷は乗替に乗つてをめいてかく。熊谷親子が戦ふまに、平山も馬の息やすめ、これもまた続いたり。平家の方には馬に乗つたる武者は少なし。矢倉の上の兵ども、矢鋒をそろへて、さしつめひきつめ、散々に射けれども、敵は少し味方は大勢なれば、勢に紛れて矢にも当たらず、「ただ押し並べて組めや組め」と下知しけれども、平家の方の馬ども乗る事はしげし、飼ふことは稀なり。船には久しう立てたり、よりきつたるやうなりけり。
熊谷、平山が馬どもは、飼ひに飼うたる大の馬どもなれば、一当てあてば、みな蹴倒されぬべき間、さすが押し並べて組む武者一騎もなかりけり。平山は、身にかへて思ふ旗指を射させ、敵の中へわつて入り、やがてその敵取つてぞ出でたりける。
熊谷親子こも、分捕りあまたしてんげり。熊谷は先に寄せたれども、木戸を開けねばかけ入らず。平山は後に寄せたれども、木戸を開けたればかけ入りぬ。
さてこそ熊谷、平山が、一二の懸けをばあらそひけれ。
→【各章検討:二度之懸】
さるほどに、成田五郎も出で来たり。土肥次郎実平七千余騎、真つ先に進んで、色色の旗さしあげ、をめき叫んで攻め戦ふ。
さるほどに、大手生田の森をば、源氏五万余騎で固めたりける。その勢の中に、武蔵国の住人、河原太郎、河原次郎とて兄弟あり。河原太郎、弟の次郎を呼うで言ひけるは、「大名は我と手を下ろさねども、家人の高名をもつて名誉とす。されば我らは身づから手を下ろさでは叶ひ難し。敵を前に置きながら、矢一つをだに射ずして待ちゐたれば、あまりに心もとなきに、汝は残り留まつて後の証人に立て。高直はまづ城の内に紛れ入つて一矢射んと思ふなり。されば千万が一も、帰らん事は有り難し」と言ひければ、弟の次郎、涙をはらはらと流いて、「ただ兄弟二人あるものが、兄を討たせて、弟が一人残り留まりたらば、いくほどの栄華をか保つべき。ただ一所でいかにもならん」とて、最後の有様、妻子のもとへ言ひ遣はし、馬にも乗らず、芥下をはき、弓杖をつき、生田の森の逆茂木を上り越えて、城の内へぞ入りたりける。
星あかりに鎧の毛さだかならず。河原太郎、大音声を揚げて、「武蔵国の住人、河原太郎私市高直、同じく次郎盛直、生田の森の先陣ぞや」とぞ名のつたる。城の内にはこれを聞いて、「あはれ東国の武者ほど恐ろしかりける者はなし。これほどの大勢の中へ、ただ兄弟二人入りたらば、何ほどの事をし出だすべき。しばらくおいて愛せよ」とて、討たんといふ者は一人もなし。
これら兄弟は屈強の弓の上手であり、差しつめ引きつめ散々に射る。
じやうのうちにはこれを見て、「愛しにくし。討てや」といふほどこそありけれ、西国に聞こえたる強弓精兵、備中国の住人、真名辺四郎、真名辺五郎とて兄弟あり。兄の四郎をば一の谷に置かれたり、五郎は生田の森にありけるが、これを見て、よつぴき、ひやうど放つ。
河原太郎が鎧の胸板後ろへつと射抜かれて、弓杖にすがりすくむ所に、弟の次郎走りより、兄を肩にひつかけて、生田の森のさかも木を上り越えんとする所を、真名辺が二の矢に、河原次郎が鎧の草ずりのはづれを射させて、同じ枕に臥しにけり。真名辺が下人落ち合はせて、河原兄弟が首を取る。
大将軍、新中納言知盛卿、これを見給ひて、「あつぱれ剛の者どもかな。これらが命を助けて見で」とぞ宣ひける。
下人ども走り散つて、「河原殿兄弟、ただ今城の内へ真つ先かけて、討たれさせ給ふぞや」と呼ばはりければ、梶原これを聞いて、「私党の殿ばらの不覚でこそ、河原兄弟をば討たせたれ。今は時よくなりぬるぞ、寄せよや」とて、鬨をどつとつくりければ、五万余騎も同じう鬨をぞつくりける。
梶原五百余騎ありけるが、足軽どもにさかも木取りのけさせて、をめいてかく。
次男平次景高、あまりに先をかけうど進みければ、父の平三使者を立てて、「後陣の勢の続かざらんに、先懸けたらん者には勧賞あるまじき由、大将軍よりの仰せぞ」と言ひ遣はしたりければ、平次しばらくひかへて、「
♪76
もののふの とり伝へたる 梓弓
ひいては人の かへすものかは
と申させ給へ」とて、をめいてかく。
梶原これを見て、「平次討たすな、続けや。景高討たすな、続け」とて、父の平三、兄の源太、同じき三郎続いたり。梶原五百余騎、大勢の中へ駆け入り、散々に戦ふ。五十騎ばかりに打ちなされ、ざつと引いて出でたれば、嫡子の源太は見えざりけり。
梶原、郎等どもに、「源太はいづくにあるやらん」と問ひければ、「源太殿は深入りして、討たれさせ給ひて候ふやらん。はるかに見えさせ給ひ候はず」。梶原、涙をはらはらと流いて、「戦の先を懸けんと思ふも、子供がため、源太討たせて、景時残り留まつても何にかはせん。返せや」とて、また取つて返す。
梶原、大勢の中に駆け入り、鐙ふんばり立ち上がり、大音声をあげて、「昔八幡殿の後三年の戦ひに、出羽国千福金沢の城を攻め給ひし時、生年十六歳にて、戦の先を駆け、弓手の眼を甲の鉢付の板に射付けられ、その矢を抜かで、たうの矢を射、敵射おとし、勧賞かうぶつて、名を後代にあげたりし鎌倉権五郎景正が末葉、梶原平三景時ぞや。我と思はん人々は、よりあへや、見参せん」とて、をめいてかく。
大将軍新中納言、「ただ今名のるは東国に聞こえたる兵ぞや。あますな、もらすな、討てや」とて、大勢の中に取りこめて、我討つとらんとぞ進みける。
梶原まづ我が身の上をば知らず、源太はいづくにあるやらんと、縦さま横さま蜘蛛手十文字にかけわりかけわり尋ぬるほどに、案のごとく、源太は、馬をも射させ、かち立ちになり、大童に戦ひなつて、二丈ばかりありける岸を後ろにあて、敵五人が中に取りこめられ、郎等二人、左右に打ち物抜いて命も惜しまず、面もふらず、ここを最後と攻め戦ふ。
梶原これを見て、源太はいまだ討たれざりけりと嬉しう思ひ、急ぎ馬より飛び下り、「いかに源太、景時ここにあり。死ぬるとも、敵に後ろを見すな」とて、親子して五人の敵を三人討ちとり、二人に手負うせて、「弓矢取りは、かくるも引くも折にこそよれ。いざうれ源太」とて、かい具してぞ出でたりける。梶原が二度の駆けとはこれなり。
→【各章検討:坂落】
これを始めて、秩父、足利、三浦、鎌倉、野井与、横山、党には猪俣、児玉、西党、都築党、私党の兵ども総じて、源平乱れあひ、入れかへ入れかへ、名乗り替へ名乗り替へ、馬の馳せちがふ音は雷のごとし、射違ふる矢は雨の降るに異ならず。
矢さけびの声、山を響かし、或いは薄手負ひ戦ふ者もあり、或いは手負ひを肩にひつかけ、後ろへ引き退く者もあり。或いはひつくんで、差し違へて死ぬるもあり。或いは取つて押さへて首をかくもあり、かかるるもあり。いづれひまありとも見えざりけり。
かかりしかども、源氏大手ばかりでは、いかにも叶ふべしとも見えざりしに、七日の卯の刻に、九郎御曹司、その勢三千余騎、ひよどり越えに打ち上げ、城郭はるかに見下しておはしける所に、その勢にや驚きたりけん、牡鹿ふたつ牝鹿ひとつ、平家の城郭一の谷へぞ落ちたりける。
兵ども大きに騒いで、「里近からん鹿だにも、我等に恐れて山深うこそ入るべきに、鹿の落ちやうこそやすからね。いかさま上の山より敵落とすにこそ」とて、騒ぐ所に、伊予国の住人、武知武者所清教進み出でて、「何者にてもあらばあれ、敵の方より出で来たらんずるものをあますべきやうなし」とて、牡鹿二つ射留めて、牝鹿をば射でぞ通しける。越中前司これを見て、「詮なき殿ばらの鹿の射やうかな。ただ今の矢一すぢでは敵十人をば防がんずるものを。罪つくりに矢だうなに」とぞ制しける。
さるほどに御曹司、「馬ども少々落といてみん」とて、鞍置馬ども十匹ばかり追ひ落とさる。或いは相違なく落ちて行くもあり、或いは足打ち折り、転んで死ぬるもあり。その中に、鞍置馬三匹、越中前司が屋形の上に落ち付いて、身みぶるひしてこそ立つたりけれ。
御曹司、「馬どもは主主が心えて落とさんずるには、損ずまじかりけるぞ。重ね落とせ、義経を手本にせよ」とて、まづ三十騎ばかり、真つ先かけて落とされければ、大勢みな続いて落としける。後陣に落とす人の鐙の鼻は、先陣の鎧甲に当たるほどなり。
小石まじりの真砂なりければ、流れ落としに二町ばかりざつとおといて、壇なる所にひかへたり。それより下を見下ろせば、大磐石の苔むしたるが、つるべおろしに十四五丈ぞくだつたる。
後ろへ取つて帰すべきやうもなし。また前へ落とすべしともみえざりければ、兵ども、「ここぞ最後」と申して、あきれてひかへたる所に、三浦の佐原十郎義連、進み出でて申しけるは、「三浦の方で、我等は鳥一つたてても、朝夕かやうの所をば馳せありけ。これは三浦の方の馬場よ」とて、真つ先かけて落としければ、大勢みな続いて落とす。あまりのいぶせさに、目をふさいでぞ落としける。ゑいゑい声を忍びにして、馬に力をつけて落とす。おほかた人のしわざとは見えず、ただ鬼神の所為とぞ見えたりける。
落としもはてねば、鬨をどつとつくる。三千余騎が声なれども、山びここたへて十万余騎とぞ聞こえける。
村上判官代康国が手より火を出だして、平家の屋形仮屋をみな焼き払ふ。折節風ははげしし、黒煙おしかけたり。
平家の兵ども、もしや助かると、前の海へぞ多く馳せ入りける。汀には助け船どもいくらもありけれども、船一艘に物の具したる者ども四五百人、千人ばかりこみ乗らうに、なじかはよかるべき。汀より三町ばかり漕ぎ出でて、目の前にて大船三艘沈みにけり。その後は、「よき人をば乗するとも、雑人どもをば乗すべからず」とて、太刀長刀にてながせけり。かくする事とは知りながら、乗せじとする船に取りつきつかみつき、或いは肘うち切られ、或いは腕うち落とされて、一の谷の汀に、朱になつてぞなみ臥しける。
→【各章検討:越中前司最期】
さるほどに大手にも浜の手にも、武蔵相模の若殿ばら、面もふらず命も惜しまず、ここを最後と攻め戦ふ。
能登殿は度々の戦に一度も不覚し給はぬ人の、今度はいかが思はれけん、薄墨といふ馬にうち乗つて、西を指して落ちられけるが、播磨の高砂より、小舟に乗つて、讃岐の八島へ渡り給ひぬ。
新中納言知盛卿は、生田の森の大将軍にておはしけるが、東に向かつて戦ひ給ふ所に、山のそばより寄せける児玉党の中より使者をたてて、「君は武蔵の国司にてましまし候ふ間、これは児玉の者どもが申し候ふ。御後ろをば御覧ぜられ候はぬやらん」と申しければ、新中納言以下の人々、後ろをかへりみ給へば、黒煙押しかけたり。「あはや、西の手ははや破れにけるは」といふほどこそありけれ、我先にとぞ落ちゆきける。
越中の前司盛俊は、山の手の侍大将にてありけるが、今は落つともかなはじとや思ひけん、ひかへて敵を待つ所に、武蔵国の住人、猪俣小平六則綱、よき敵と目をかけ、鞭鐙をあはせて馳せ来せきたり、越中前司に押しならべてむずと組む。
猪俣は八か国に聞こえたるしたたか者なり。鹿角の一二の草刈をばたやすく引き裂きけるとぞ聞こえし。越中前司も、人目には二三十人が力わざする由見せけれども、内々は六七十人して上げ下ろす船を、ただ一人しておしあげおしおろすほどの大力なり。されば猪俣を下にとつておさへて働かさず、猪俣下に臥しながら、あまりに強う押さへられて物をいはうどすれども、声も出でず。刀を抜かうどすれども、指はだかつて、刀の柄握るにも及ばず。
猪俣は力はおとつたれども、心は剛なりければ、しばらく息をやすめ、さらぬ体にもてないて、「そもそも名乗りつるをば聞き給ひて候ふか。敵の首を取るといふは、我が身も名乗つて聞かせ、敵にも名乗らせて取りつればこそ大功なれ。名も知らぬ首とつて、何にかはし給ふべき」と言ひければ、
越中前司げにもとや思ひけん、「もとは平家の一門たりしが、身不肖によつて、当時は侍になつたる越中前司盛俊といふ者なり。さてわ君は何者ぞ。名のれ、聞かう」ど言ひければ、
「武蔵国の住人、猪俣小平六則綱」と名のる。
「今は主の世におはしまさばこそ、敵の首取つて、勲功勧賞にもあづかり給ふべき。ただ理を曲げて、則綱が命を助けさせおはしませ、御辺の一門、何十人もおはせよ、則綱が今度の勲功の賞に申し替へて、御命ばかりをば助け奉らん」と言ひければ、越中前司大きに怒つて、「盛俊身こそ不肖なれども、さすが平家の一門なり。源氏頼まうども思はず。源氏また盛俊にたのまれうども思はじ。につくい君が申しやうかな」とて、すでに首をかかんとしければ、「まさなう候ふ。降人の首取るやうやある」と言ひければ、「さらば助けん」とて引き起こす。
前は畠のやうに干上がつて、極めてかたかりけるが、後ろは水田のごみ深かりける壌の上に、二人の者ども、腰うちかけて息つぎゐたり。
ややあつて、黒革縅の鎧着て、月毛なる馬に乗つたりける武者一騎、鞭鐙をあはせて馳せきたる。
越中前司あやしげに見ければ、「あれは則綱にしたしう候ふ人見四郎と申す者にて候ふが、則綱があるを見て、まうで来たるとおぼえ候ふ。苦しう候ふまじ」といひながら、あれが近づきたらん時、越中前司に組んだらば、さりとも落ち合はうずるものをと思ひて待つ所に、一段ばかり近づいたり。
越中前司、はじめは両人の敵を一目づつ見けるが、後には馳せ来たる敵をはたとまぼつて、猪俣を見ぬひまに、猪俣力足を踏んで立ち上がり、拳を握り、越中前司が鎧のむな板をばくと突いて、後ろの水田のつけに突き倒し、起きあがらんとする所を、猪俣上に乗りかかり、越中前司が腰刀を抜き、鎧の草ずり引きあげて、柄も拳もとほれとほれと、三刀さいて首をとる。
さるほどに人見四郎も出で来たり。かかる時は論ずることもこそあれと思ひ、首を太刀の先に貫き、高く差し上げ、大音声を揚げ、「この日頃平家の御方に鬼神と聞こえつる越中前司をば、武蔵国の住人、猪俣小平六則綱が討つたるぞや」と名乗つて、その日高名の一の筆にぞ付きにける。
→【各章検討:忠度最期】
薩摩守忠度は、一の谷西の手の大将軍にておはしけるが、その日の装束には、紺地の錦の直垂に、黒糸縅の鎧に、黒き馬の太うたくましきに、鋳懸地の鞍置き乗り給へり。
兵百騎ばかりが中にうち囲まれて、いと騒がず、ひかへひかへ落ち給ふ所に、武蔵国の住人、岡辺六野太忠純、よい敵と目をかけ、鞭鐙を合はせておつかけ奉り、「あれは大将軍とこそ見参らせ候へ。まさなうも、敵に後ろを見せさせ給ふものかな。かへさせ給へ」と言葉をかけければ、薩摩守「これは味方ぞ」とてふり仰ぎ給へる内甲を見入れたれば、金黒なり。
「あつぱれ味方に、かね付けたる人はなきものを。いかさまこれは平家の公達にておはしますにこそ」と思ひ、おしならべてむずと組む。これを見て百騎ばかりの兵ども、みな国々の駆り武者なりければ、一騎も落ち合はず、我先にとぞ落ちゆきける。
薩摩守は、熊野育ちの早業大力にておはしければ、六野太を掴うで、「につくい奴が、味方ぞと言はば言はせよかし」とて、馬の上にて二刀、落ち付く所で一刀三刀までこそ突かれけれ。二刀は鎧の上なりければ、とほらず、一刀は内甲へ突き入れられたりけれども、薄手なれば死なざりけり。取つておさへて、首をかかんとし給ふ所に、六野太が童、遅ればせに馳せ来たり、急ぎ馬より飛んで降り、打ち刀を抜き、薩摩守の右のかひなを、肘のもとよりふつと打ち落とす。
薩摩守、今はかうとや思はれけん、「そこのき候へ、十念唱へん」とて、六野太をつかうで、弓長ばかりぞ投げのけられたる。その後西にむかひ、高声に十念唱へ給ひて、「光明遍照十方世界、、念仏衆生摂取不捨」と宣ひも果てねば、六野太後ろより寄つて、薩摩守の首を討つ。
六野太よき大将軍討ち奉たりとは思へども、名をば誰とも知らざりけるに、箙に結びつけられたる文を取り見れば、「旅宿花」といふ題にて、歌をぞ一首詠ぜられたる。
♪77
ゆき暮れて 木のしたかげを 宿とせば
花やこよひの あるじならまし
忠度と書き付けられたりけるによつてこそ、薩摩守とは知りてんげれ。六野太なのめならず喜び、首を太刀の先に貫き、高く差し上げ、大音声を揚げて、「この日頃平家の味方に聞こえさせ給へる薩摩守殿をば、武蔵国の住人、猪俣党に岡辺六野太忠純が討ち奉たるぞや」と、名乗りければ、敵も味方もこれを聞いて、「あないとほし。武芸にも歌道にも優れて、よき大将軍にておはしつる人を」とて、皆鎧の袖をぞ濡らしける。
→【各章検討:重衡生捕】
本三位中将重衡卿は、生田の森の副将軍にておはしけるが、その日の装束には、紺に白く黄なる糸をもつて岩に群千鳥縫うたる直垂に、紫すそごの鎧着て、童子鹿毛といふ、聞こゆる名馬に乗り給へり。乳母ごの後藤兵衛盛長は、滋目結の直垂に、緋縅の鎧着、三位中将の秘蔵せられたりし夜目無月毛に乗せられたる。
助け舟に乗らんとて、汀の方へ細道にかかつて落ち給ふ所に、庄四郎高家、梶原源太景季、よい敵と目をかけ、鞭鐙をあはせて追つかけ奉る。
渚には儲け船どもいくらもありけれども、後ろより敵は追つかけたり。乗るべき隙もなかりければ、湊河、掻藻河をも打ち渡り、蓮池を馬手になし、駒の林を弓手になし、板宿、須磨をもうち過ぎて、西を指してぞ落ちられける。
三位中将、聞こゆる童子鹿毛にはのり給へり。もみふせたる馬どものたやすう追つ付くべしとも見えざりければ、梶原源太景季、鐙ふんばり立ち上がり、もしやと、遠矢によつぴいてひやうど放つ。
三位中将の馬のさんづを箭深に射させ、よわる所に、乳母子の後藤兵衛盛長は、我が馬召されなんとや思ひけん、鞭をうつてぞ落ち行きける。
三位中将、「いかに盛長、我をば捨てていづくへゆくぞ。年頃日頃さは契らぬものを」と宣へども、鎧に付けたりける赤じるしどもかなぐり捨て、そら聞かずして、ただ逃げにこそ逃げたりけれ。
三位中将、馬はよわる、海へざつとうち入れられたりけれども、そこしも遠浅にて、沈むべきやうもなかりければ、急ぎ馬より飛んで降り、上帯おし切り、高紐はづし、すでに腹を切らんとし給ふ所に、庄四郎高家、鞭鐙を合はせて馳せ来たり。
急ぎ馬より飛び下り、「まさなう候ふ。いづくまでも御供つかまつり候はんずるものを」とて、我が乗つたりける馬にかき乗せ奉り、鞍の前輪にしめ付け奉て、我が身は乗り替へに乗つてぞ帰りける。
乳母子の盛長は、そこをなつく逃げ延びて、後には熊野法師に、尾中の法橋を頼みてゐたりけるが、法橋死して後、後家の尼公訴訟のために都へのぼるために盛長も供し上りたりければ、三位中将の乳母子にて、上下には多くは見知られたり。
「あな無慚の盛長や、三位中将のさしも不便にし給ひつるに、一所でいかにもならずして、思ひも寄らぬ尼公の供したる憎さよ」とて、皆つまはじきをぞしければ、盛長もさすが恥づかしうや思ひけん、扇を顔にかざしけるとぞ聞こえし。
→【各章検討:敦盛最期】
一の谷の戦破れにしかば、武蔵国の住人、熊谷次郎直実、「平家の公達の助け船に乗らんとて、汀の方へや落ち給ふ事もやおはすらん、あはれよき大将軍に組まばや」とて、磯の方へ歩まする所に、練貫に鶴縫うたる直垂に、萌黄匂ひの鎧着て、鍬形うつたる甲の緒をしめ、金作りの太刀をはき、二十四さいたる截生の矢負ひ、滋籐の弓持つて、連銭葦毛なる馬に、金覆輪の鞍置いて乗つたる武者ただ一騎、沖なる船に目をかけ、海へざつとうち入り、五六段ばかりぞ泳いだるを、熊谷、「あれは大将軍とこそ見参らせ候へ。まさなうも敵に後ろを見せさせ給ふものかな。かへさせ給へ」と、扇を挙げて招きければ、招かれて取つて返し、渚に打ち上がらんとし給ふ所に、熊谷波うちぎはにて押し並べ、ひつ組んで、どうど落つ。
取つて押さへて首をかかんと内甲を押しあふのけて見ければ、年の齢十六七ばかんなるが、薄化粧して金黒なり。我が子の小次郎が齢ほどにて、容顔まことに美麗なり。
「そもそもいかなる人にてましまし候ふやらん。名乗らせ給へ。助け参らせん」と申しければ、「かういふわ殿は誰そ」と問ひ給へば、熊谷「ものその数にては候はねども、武蔵国の住人、熊谷次郎直実」と名乗り申す。「さては汝がためにはよい敵ぞ。存ずる旨あれば名乗る事はあるまじ。名乗らずとも首をとつて人に問へ。見知らうずる」とぞ宣ひける。
熊谷、「あつぱれ大将軍や。この人一人討ち奉るとも、負くべき戦に勝つ事もよもあらじ。また討ち奉らずとも、勝つべき戦に負くることもよもあらじ。我が子の小次郎が薄手負ひたるをだにも、直実は心苦しう思ふぞかし。この殿の父、討たれ給ひぬと聞いて、いかばかりかは歎き給はんずらん。あっぱれたすけ参らせばや」と思ひて、後ろをかへりみたりければ、土肥、梶原五十騎ばかりで続いたり。
熊谷、涙をはらはらと流いて、「助け参らせんと存じ候へども、味方の兵ども雲霞のごとくに候へば、よものがし参らせ候はじ。同じくは、直実が手にかけ奉て、後の御孝養をこそつかまつり候はめ」と申しければ、「ただ何さまにも、とうとう首をとれ」とぞ宣ひける。
熊谷あまりにいとほしくて、いづくに刀を立つべしともおぼえず、目もくれ心も消え果てて、前後不覚におぼえけれども、さてしもあるべき事ならねば、泣く泣く首をぞ掻いてんげる。
「あはれ弓矢とる身ほど口惜しかりける事はなし。武芸の家に生まれずは、何とてかただ今かかる憂き目をば見るべき。情けなうも討ち奉るものかな」とかきくどき、袖を顔に押し当てて、さめざめとぞ泣きゐたる。
ややあつて、鎧直垂をとつて首をつつまんとしけるに、錦の袋に入れたりける笛をぞ腰にさされたる。
「あないとほし、この暁城の内にて、管弦し給ひつるは、この人々にておはしけり。当時味方に東国より上つたる勢何万騎かあるらめども、戦の陣へ笛持つ人はよもあらじ、上﨟はなほもやさしかりけり」とて、これを大将軍の見参に入れたりければ、見る人涙を流しけり。
後に聞けば、修理大夫経盛の子息大夫敦盛とて、生年十七にぞなられける。それよりしてこそ、熊谷が発心の心は進みけれ。件の笛は、祖父忠盛、笛の上手にて、鳥羽院より下し給はられたりしが、経盛相伝せられたりしを、敦盛器量たるによつて、持たれたりけるとかや。名をば小枝とぞ申しける。狂言綺語の理と言ひながら、遂に讃仏乗の因となるこそあはれなれ。
→【各章検討:知章最期】
門脇殿の末の子、蔵人大夫業盛は、常陸国の住人、土屋五郎重行にくんで討たれ給ひぬ。皇后宮亮経正は、助け船に乗らんとて、汀の方へ落ち給ふ所を、川越小太郎重房が手に取りこめ奉り、つひに討ち奉る。
尾張守清定、淡路守清房、若狭守経俊、三騎つれて敵の中へわつて入り、散々に戦ひ、分捕りあまたして、一所で討ち死にしてんげり。
新中納言知盛卿は、生田の森の大将軍にておはしけるが、その勢みな落ちうせうたれて、今はただ御子に武蔵守知章、侍に監物太郎頼方、主従三騎に討ちなされ、汀のかたへ細道にかかつて落ち給ふ所に、児玉党と思しくて、団扇の旗さしたる者ども十騎ばかり、鞭鐙をあはせて追つかけ奉る。監物太郎取つて返し、屈強の弓の上手にてありければ、まづ真つ先に進みける旗差しがしや首の骨を、ひやうふつと射、馬よりさかさまに射落とす。
その中の大将とおぼしき者、新中納言に組み奉らんと馳せ並ぶる所に、御子武蔵守知章、父を討たせじと中にへだたり、押し並べ、ひつくんで、どうど落ち、取つて押さへて首をかき、立ち上がらんとし給ふ所に、敵が童落ち合ひて、武蔵守の首を討つ。監物太郎落ち重なつて、武蔵守討ち奉る敵の童をも討つてんげり。
その後矢種のあるほど射尽くして、打ち物抜き戦ひけるが、弓手の膝口を射させ、立ちも上がらずゐながら討ち死にしてんげり。
このまぎれに新中納言知盛卿は、そこをつつと逃げのびて、屈強の息長き名馬には乗り給ひぬ。海へざつと打ち入れ、海の面二十余町泳がせて、大臣殿の御船に着き給ふ。
船には人多くとり乗つて、馬立つべきやうもなかりければ、馬をば渚へ追つかへさる。阿波の民部重能、「御馬敵のものになり候ひなんず。射殺し候はん」とて、片手矢はげて出でければ、新中納言、「いづれの物にもならばなれ、ただ今我が命助けたらんずるものを。あるべうもなし」と宣へば、力及ばで射ざりけり。
この馬、主の別れを慕ひつつ、しばしは船を離れもやらず、沖の方へ泳ぎけるが、次第に遠くなりければ、空しき渚へ泳ぎ回る。足立つほどにもなりしかば、なほ船の方をかへりみて、二三度までこそいななきけれ。その後陸に上がつて休みけるを、川越小太郎重房、取つて院へ参らせたりければ、院の御厩にぞ立てられける。
元も院の御秘蔵の御馬にて、一の御厩に立てられたりしを、宗盛公内大臣になつて、喜び申しし時、賜はられたりしを、弟の中納言にあづけられたりしかば、あまりに秘蔵して、この馬の祈りのためにとて、毎月朔日ごとに、泰山府君をぞまつられける。その故にや馬の命も長く、主の命をも助けけるこそめでたけれ。
この馬は信濃国井上立ちにてありければ、井上黒とぞ召されける。後には川越が取り参らせたりければ、川越黒とも召されけり。
その後、新中納言知盛卿、大臣殿の御前におはして、涙を流いて申されけるは、「武蔵守にもおくれ候ひぬ。監物太郎をも討たせ候ひぬ。今は心細うこそまかりなり候へ。いかなれば子はあつて、親を討たせじと、敵に組むを見ながら、いかなる親なれば、子の討たるるを助けずして、これまでは逃れ参つて候ふやらん。人の上でだに候はばいかばかりもどかしう候ふべきに、我が身の上になり候へば、よう命は惜しいものにて候ひけりと、今こそ思ひ知られて候へ。人々の思しめさん御心の内どもこそ、恥づかしう候へ」とて、鎧の袖を顔におし当てて、さめざめとぞ泣かれける。
大臣殿、「まことに武蔵守の、父の命にかはられけるこそありがたけれ。手もきき、心も剛にして、よき大将軍にておはしつる人を。清宗と同年にて、今年は十六な」とて、御声衛門督のおはしける方を御覧じて涙ぐみ給へば、その座にいくらもなみゐ給へる人々、心あるも心なきも、みな鎧の袖をぞ濡らされける。
→【各章検討:落足】
小松殿の末の子、備中守師盛、主従七人小舟に乗り、落ち給ふ所に、新中納言知盛卿の侍に、清衛門公長といふ者、鞭鐙を合はせて馳せ来たつて、「あれ備中守殿の御船とこそ見参らせ候へ。参り候はん」と申しければ、船を渚へさしよせらる。
大の男の鎧着ながら、馬より船へがつぱと飛び乗らうに、なじかはよかるべき。船はちひさし、くるりと踏みかへしてんげり。備中守、浮きぬ沈みぬし給ふ所に、畠山が郎等、本田次郎、主従十四五騎、鞭鐙を合はせて馳せ来たり、急ぎ馬より飛んで降り、備中守を熊手にかけて引きあげ奉り、つひに首をぞかいてんげる。生年十四歳とぞ聞こえし。
越前の三位通盛卿は、山の手の大将軍にておはしけるが、その日の装束には、赤地の錦の直垂に、唐綾縅の鎧着、白葦毛なる馬に、白覆輪の鞍置いて、乗り給ひたりけるが、内甲を射させ、大勢におしへだてられて、弟能登守にはなれ給ひぬ。心静かに自害せんとて、東に向かつて落ちゆき給ふ所に、近江国の住人、佐佐木の木村の三郎成綱、武蔵国の住人、玉井四郎資景、かれこれ七騎が中に取り籠めて、遂に討ち奉る。
その時までは、侍一人付き奉りけれども、それも最期の時は落ち合はず。
およそ東西の木戸口、時を移すほどにもなりしかば、源平数を尽くして討たれにけり。矢倉の前、さかも木の下には、人馬のししむら山のごとし。一の谷の小篠原、緑の色を引き替へて、薄紅にぞなりにける。一の谷、生田の森、山のそば、海の汀にて射られ切られて死ぬるは知らず、源氏の方に切りかけらるる首ども、二千余人なり。今度一の谷にて討たれさせ給ふむねとの人々には、まづ越前三位通盛、弟蔵人大夫業盛、薩摩守忠度、武蔵守知章、備中守師盛、尾張守清定、淡路守清房、経盛の嫡子皇后宮亮経正、弟若狭守経俊、その弟大夫敦盛、以上十人とぞ聞こえし。
軍破れにければ、主上をはじめ参らせて、人々みな御船に召して、出でさせ給ひける御心の中こそ悲しけれ。潮にひかれ風にしたがひ、紀の路へおもむく船もあり、葦屋の沖に漕ぎ出でて、浪にゆらるる船もあり、或いは須磨より明石の浦づたひ、泊まり定めぬ梶枕、片敷く袖もしほれつつ、おぼろにかすむ春の月、心くだかぬ人ぞなき。
或いは淡路の瀬戸をおし渡り、絵島が磯にただよへば、波路かすかに鳴き渡る友迷はせる寒夜千鳥、これも我が身の類かな。
行く前いまだいづくとも、思ひ定めぬかと思しくて、一の谷の沖にやすらふ船もあり。かやうに潮に引かれ風に任せ、浦々島々にただよへば、互ひの死生も知りがたし。国をしたがふる事も十四か国、勢のつく事も十万余騎、都へ近づく事もわづかに一日の道なれば、今度はさりともと頼み思はれつるに、一の谷をも攻め落とされて、人々皆心細うぞなられける。
→【各章検討:小宰相身投】
越前三位通盛卿の侍に、君太滝口時算といふ者あり。北の方の御船に参り申しけるは、「君は湊川の下にて、敵七騎が中に取り籠められて、つひに討たれさせ給ひ候ひぬ。その中にことに手をおろいて討ち参らせ候ひしは、近江国の住人、佐佐木の木村三郎成綱、武蔵国の住人、玉井四郎助景とこそ名乗り申し候ひつれ。時算も一所でいかにもなり、最期の御伴つかまつるべう候ひつれども、かねてより仰せ候ひしは、『通盛いかになるとも、汝は命を捨つべからず。いかにもし、ながらへて、御行方をも尋ね参らせよ』と、仰せ候ひし間、かひなき命ばかり生きて、つれなうこそ参りて候へ」と申しければ、北の方、とかうの返事にも及び給はず、ひきかづいてぞ伏し給ふ。
一定討たれぬとは聞き給へども、もし僻事にてもやあるらん、生きて帰らるる事もやと、二三日は、あからさまに出でたる人を、待つ心地しておはしけるが、四五日も過ぎしかば、もしやのたのみもよわりはてて、いとど心細うぞなられける。
ただ一人つき奉りたりける乳母の女房、同じ枕に伏し沈みにけり。かくと聞こえし七日の暮れほどより、十三日の夜までは、起きもあがり給はず。
明くれば十四日、八島へ着かんとての宵、打ち過ぐるまで伏し給ひたりけるが、ふけゆくままに、船の中静かなりければ、北の方乳母の女房に宣ひけるは、
「今朝までは、三位討たれぬと聞きしかども、まこととも思はでありつるが、この暮れほどより、げにさもあるらんと思ひ定めてあるぞとよ。その故は、皆人ごとに、湊川とかやにて討たれにしとは言ひへども、その後生きて逢ひたりといふ者一人もなし。明日打ち出でんとての夜、白地なる所にて行き合ひたりしかば、いつよりも心細げにうち歎きて、『明日の戦には、一定討たれなんずとおぼゆるはとよ。我いかにもなりなん後、人はいかがはし給ふべき』など言ひしかども、戦はいつもの事なれば、一定さるべしとも思はざりける事の悲しさよ。それを限りとだに思はましかば、など後の世と契らざりけんと思ふさへこそ悲しけれ。
ただならずなりたる事をも、日頃はかくして言はざりしかども、心つよう思はれじとて、言ひ出だしたりしかば、なのめならず嬉しげにて、『通盛すでに三十になるまで、子といふ者のなかりつるに、あはれ同じくは、男子にてあれかし。浮き世の忘れ形見にもと思ひ置くばかり。さて幾月ほどになるやらん。心地はいかがあるらん。いつとなき波の上、船の内のすまひなれば、静かに身身となつて後も、いかがはせん』なんど言ひしは、はかなかりける兼ね言かな。
まことやらん、女はさやうの時、十に九つは必ず死ぬるなれば、恥ぢがましき目を見て、空しくならんも心憂し。静かに身身となつて後、幼き者を育てて、なき人の形見にも見ばやとは思へども、幼き者を見んたびごとには、昔の人のみ恋しくて、思ひの数はまさるとも、慰む事はよもあらじ。つひには逃るまじき道なり。
もし不思議にてこの世を忍び過ごすとも、心にまかせぬ世のならひは、思はぬ不思議もあるぞかし。それも思へば心憂し。まどろめば夢に見え、さむれば面影に立つぞとよ。生きてゐて、とにかくに人を恋しと思はんより、ただ水の底へも入らばやと、思ひ定めてあるぞとよ。そこに一人とどまつて、歎かんずる事こそ心苦しけれども、それは生身なれば歎きながらも過ごさんずらん、わらはが装束のあるをば取りて、いかならん僧にも奉り、なき人の御菩提をもとぶらひ、わらはが後生をも助け給へ。書き置きたる文をば都へ伝へてたべ」なんど、こまごまと宣へば、
乳母の女房、涙をおさへて申しけるは、「いとけなき子をもふり捨て、老いたる親をも留め置き、これまで付き参らせて候ふ心ざしをば、いかばかりとか思し召され候ふべき。今度一の谷にて討たれさせ給ふ人々の、北の方の御思ひども何かおろかに候ふべき。いかならん岩木のはざまにても、静かに身身とならせ給ひて、幼き人をも育て参らせ、御様を替へ、仏の御名をも唱へて、なき人の御菩提をもとぶらひ参らせ給へかし。
必ずひとつ道へと思し召し候ふとも、生かはらせ給ひなん後、六道四生の間にて、いづれの道へか赴かせ給はんずらん。行き逢ひ給はん事も不定なれば、御身を投げても由なき事なり。その上都の御事をば誰みつぎ参らせよとて、さやうには仰せ候ふやらん。恨めしうも承るものかな」とて、さめざめとかきくどきければ、
北の方、この事あしうも聞かれぬとや思はれけん、「これは心にかはつても、推し量り給ふべし。大方の世のうらめしさにも、人の別れの悲しきには、身を投げんなどいふ事は常のならひなり。されどもさやうの事は、有り難きためしなり。たとひ思ひ立つ事ありとも、そこに知らせずしてはあるまじきぞ。今は夜もふけぬ。いざや寝ん」と宣へば、
この四五日は湯水をだに、はかばかしう御覧じ入れさせ給はぬ人の、かやうに仰せらるるは、まことに思ひ立ち給へるにこそと悲しみて、「大方は都の御事もさる御事にて侍り候へども、げに思し召し立たば千尋の底までも引きこそ具せさせ給はめ。後れ参らせて後、さらに片時もながらふべしともおぼえぬものを」なんど申して、御側にありながら、ちつとまどろみたる隙に、北の方やはら船端へおき出でて、漫漫たる海上なれば、いづちを西とは知らねども、月の入るさの山の端を、そなたの空とや思はれけん、静かに念仏し給へば、沖の白洲に鳴く千鳥、天の戸わたる楫の音、折からあはれやまさりけん、忍び声に念仏百遍ばかり唱へ給ひて、「南無西方極楽世界、教主弥陀如来、本願あやまたず浄土へ導き給ひつつ、あかで別れし妹背のなからひ、必ず一つ蓮に迎へさせ給へ」と、泣く泣く遥かにかきくどき、南無と唱ふる声ともに、海にぞ沈み給ひける。
一の谷より八島へ押し渡る夜半ばかりの事なれば、船の中静まつて、人これを知らざりけり。
その中にかん取り一人寝ざりけるが、見参らせて、「あなあさまし。あの御船より、女房のただ今海へ入り給ふぞや」と呼ばはりければ、乳母の女房うちおどろき、そばをさぐれどもおはせざりければ、「あれやあれ」とぞあきれける。
人あまたおりて、取り上げ奉らんとしけれども、さらぬだに、春の夜は、習ひにかすむものなるに、四方の村雲浮かれ来て、かづけどもかづけども、月おぼろにて見えざりけり。ややあつて取り上げ奉りけれども、はやこの世になき人となり給ひぬ。白き袴に、練貫のふたつ衣を着給へり。髪も袴もしほたれて、取り上げけれどもかひぞなき。
乳母の女房、手に手を取り組み、顔に顔を押し当てて、「などやこれほどに思し召し立ちける事をば、千尋の底までも引きは具せさせ給ひぬぞ。さるものにても物一言は仰せられて、聴かせさせ給へ」ともだえこがれkれども、一言の返事にも及ばず、わづかに通ひつる息もはや絶えはてぬ。
さるほどに、春の夜の月も雲居に傾き、霞める空も明け行けば、名残は尽きせず思へども、さてしもあるべき事ならねば、浮きもや上がり給ふと、故三位殿の着瀬長の、一領残りたりけるに、引きまとひ奉り、遂に海へぞ沈めける。
乳母の女房、今度は後れ奉らじと、続いて入らんとしけるを、人々取り留めければ、力及ばず。せめてのせん方なさにや、手づから髪をはさみおろし、故三位殿の御弟、中納言律師仲快にそらせ奉り、泣く泣く戒をたもつて、主の後世をぞとぶらひける。昔より男におくるるたぐひ多しといへども、様をかふるは常の習ひ、身を投ぐるまでは有り難きためしなり。されば忠臣は二君につかへず、貞女は二夫に見えずとも、かやうのことをや申すべき。
この北の方と申すは、頭刑部卿則方の女、上西門院の女房、宮中一の美人、小宰相の局とぞ申しける。
この女房、十六と申しし春の頃、女院、法勝寺へ花見の御幸のあり時、通盛卿その時は、いまだ中宮亮にて供奉せられたりけるが、この女房をただ一目見て、あはれと思ひそめけるより、その面影のみ、身にひしと立ち添ひて、忘るる隙もなかりければ、歌をよみ、文を尽くし給ひしかども、たまづさの数のみ積もつて、取り入れ給ふこともなし。
すでに三年になりしかば、通盛卿、今を限りの文を書いて、小宰相殿のもとへ遣はす。折節取り伝へける女房にだにあはずして、使むなしう帰りける道にて、小宰相殿は、折節我が里より御所へ参り給ひける。使ひむなしう帰り参らん事の本意なさに、そばをつつとはしり通る様にて、小宰相殿の乗り給へる車の簾の内へ、通盛卿の文をぞ投げ入れける。供の者どもに問ひ給へば、「知らず」と申す。
さてこの文を開いて見給へば、通盛卿の文にてぞありける。車に置くべきやうもなし。
大路に捨てんもさすがにて、袴の腰にはさみつつ、御所へぞ参り給ひける。さて宮仕へ給ひしけるほどに、所しもこそ多けれ、御前に文を落とされたり。女院これを御覧じて、急ぎ御衣の御袂にひきかくさせ給ひて、「めづらしき物をこそ求めたれ。この主は誰なるらん」と仰せければ、女房たち、諸々の神仏にかけて、「知らず」とのみぞ申しける。
その中に小宰相殿は顔打ち赤めて、つやつやものも申されず。院も、通盛卿の申すとは内々知ろしめされたりければ、さてこの文を開けて御覧ずれば、綺炉の煙の匂ひ、ことになつかしく、筆のたてども世の常ならず。
「あまりに人の心強きも、今はなかなか嬉しくて」なんど、こまごまと書いて、奥には一首の歌ぞありける。
♪78
わが恋は ほそ谷川の まろき橋
ふみかへされて 濡るる袖かな
女院、「これは逢はぬを恨みたる文や。あまり人の心づよきも、なかなかあたとなんなるものを。中頃、小野小町とて、みめかたちうつくしく、情の道ありがたかりしかば、見る人聞く者、肝魂をいたましめずといふ事なし。されども心強き名をや取りたりけん、はてには人の思ひのつもりとて、風を防ぐ便りもなく、雨を漏らさぬわざもなし。宿に曇らぬ月星を涙に浮かべ、野辺の若菜、沢の根芹を摘みてこそ、露の命をば過ぐしけれ。」
女院、「これはいかにも返事あるべきぞ」とて、御硯召し寄せて、かたじけなくも自ら返事遊ばされけり。
♪79
ただ頼め ほそ谷川の まろき橋
ふみかへしては 落ちざらめやは
胸の内の思ひは、富士の煙に顕れ、袖の上の涙は、清見が関の浪なれや。みめは幸の花なれば、三位この女房を給はつて、互ひに心ざし浅からず。されば西海の旅の空、舟の中の住まひまでひき具して、つひに同じ道へぞおもむかれける。
門脇の中納言は、嫡子越前の三位、末子業盛にも後れ給ひぬ。今頼み給へる人とては、能登守教経、僧には中納言の律師仲快ばかりなり。故三位殿の形見とも、この女房をこそ見給へるに、それさへかやうになられければ、いとど心細うぞなられける。
→【概要:巻第十】
→【各章検討:首渡】
寿永三年二月七日、摂津国一の谷にて討たれし平氏の首ども、十二日に都へ入る。平家にむすぼれたる人々は、我が方ざまに、いかなる憂き目を見んずらんと、嘆き合ひ悲しみ合はれけり。
中にも大覚寺にかくれゐ給へる小松三位中将維盛卿の北の方、ことさらおぼつかなく思はれけるに、今度一の谷にて、一門の人々残り少なに討たれ給ひ、三位中将といふ公卿一人、生け捕りにせられてのぼるなりと聞き給ひ、「この人はなれじものを」とて、ひきかづきてぞ臥し給ふ。
ある女房の出で来て申しけるは、「三位中将殿と申すは、これの御事にては候はず、本三位中将殿の御事なり」と申しければ、「さては首どもの中にこそあるらめ」とて、なほ心やすうも思ひ給はず。
同じき十三日、大夫判官仲頼、六条河原に出で向かつて、首ども受け取る。東の洞院を北へ渡して、獄門の木にかけらるべき由、蒲冠者範頼、九郎冠者義経奏聞す。法皇、この条いかがあるべからんと思し召しわづらひて、太政大臣、左右の大臣、内大臣、堀河大納言忠親卿に仰せ合はせらる。
五人の公卿申されけるは、「昔より卿相の位にのぼる人の首、大路を渡さるる事先例なし。なかんづくこの輩は、先帝の御時、戚里の臣として、久しく朝家につかうまつる。範頼、義経が申し状、あながちに御許容あるべからず」と各一同に申されければ、渡さるまじきにてありけるを、
範頼、義経重ねて奏聞しけるは、「保元の昔を思へば、祖父為義が仇、平治の古を案ずれば、父義朝が敵なり。君の御憤りを休め奉り、父の恥をきよめんがために、命を捨てて朝敵を滅ぼす。今度平氏の首ども大路を渡されずは、自今以後、なんのいさみあつてか、凶賊をしりぞけんや」と、両人しきりに訴へ申す間、法皇力及ばせ給はで、つひに渡されけり。
見る人幾千万といふ数を知らず。帝闕に袖をつらねし古は、怖ぢ恐るる輩多かりき。巷に頭を渡さるる今は、あはれみ悲しまずといふ事なし。
小松三位中将維盛卿の若君、六代御前につき奉たりける斎藤五、斎藤六、あまりのおぼつかなさに、様をやつして見ければ、御首どもは見知り奉つたれども、三位中将殿の御首は見え給はず。されどもあまりに悲しくて、つつむに堪へぬ涙のみしげかりければ、よその人目も恐ろしくて、急ぎ大覚寺へぞ参りける。
北の方、「さていかにやいかに」と問ひ給へば、「小松殿の公達には、備中守殿の御首ばかりこそ見えさせ給ひ候ひつれ。そのほかは、そんぢやうその首、その御首」と申しければ、北の方、「いづれも人の上ともおぼえず」とて、涙にむせび給ひけり。
ややあつて、斎藤五涙を押へて申しけるは、「この一両年は隠れゐ候ひて、人にもいたく見知られ候はず。今しばらく見参らすべう候ひつれども、よにくはしう案内知り参らせたる者の申し候ひつるは、『小松殿の公達は、今度の合戦には播磨と丹波の境で候ふなる、三草の山を固めさせ給ひて候ひけるが、九郎義経に破られて、新三位中将殿、小松少将殿、丹後侍従殿は、播磨の高砂より御船にめして、讃岐の八島へ渡らせ給ひて候ふなり。何としてはなれさせ給ひて候ひけるやらん、御兄弟の中には、備中守殿ばかり一の谷にて討たれさせ給ひて候ふ』と申す者にこそあひて候ひつれ。『さて小松三位中将殿の御事はいかに』と問ひ候ひつれば、『それはいくさ以前より、大事の御いたはりとて、八島に御渡り候ふ間、このたびは向かはせ給ひ候はず』とこまごまとこそ申し候ひつれ」と申しければ、
「それも我らが事をあまりに思ひ歎き給ふが病となりたるにこそ。風の吹く日は、今日もや舟に乗り給ふらんと肝を消し、戦といふ時は、ただ今もや討たれ給ふらんと心を尽くす。ましてさやうのいたはりなんどをも、誰か心やすうもあつかひ奉るべき。くはしう聞かばや」と宣へば、若君、姫君など、「何の御いたはりとは問はざりけるぞ」と宣ひけるこそあはれなれ。
三位中将も通ふ心なれば、「都にいかにおぼつかなく思ふらん。首どもの中にはなくとも、水に溺れても死に、矢にあたつても失せぬらん、この世にある者とはよも思はじ。露の命のいまだながらへたると知らせ奉らばや」とて、侍一人したてて、都へのぼせられけり。三つの文をぞ書かれける。
まづ北の方への御文には、「都には敵満ち満ちて、御身一つの置き所だにあらじに、幼き者どもひき具して、いかにかなしうおはすらん。これへ迎へ奉つて、一つ所でいかにもならばやとは思へども、我が身こそあらめ、御ため心苦しくて」など、こまごまと書き続け、奥に一首の歌ぞありける。
♪80
いづくとも 知らぬあふせの 藻塩草
かきおく跡を かたみともみよ
幼き人々の御もとへは、「つれづれをばいかにしてかなぐさみ給ふらん。急ぎ迎へとらんずるぞ」と、言葉もかはらず書いてのぼせられけり。
この御文どもを賜つて、使都へのぼり、北の方に御文参らせたりければ、今さらまた歎き悲しみ給ひけり。
使四五日候ひて暇申す。北の方泣く泣く御返事書き給ふ。若君、姫君、筆をそめて、「さて父御前の御返事はなにと申すべきやらん」と問ひ給へば、「ただともかうも、わ御前たちが思はんやうに申すべし」とこそ宣ひけれ。
「などや今ままで迎へさせ給はぬぞ。あまりに恋しく思ひ参らせ候ふに、とく迎へさせ給へ」と、同じ言葉にぞ書かれたる。この御文ども賜つて、使八島へかへり参る。三位中将、まづ幼き人々の御文を御覧じてこそ、いよいよせん方なげには見えられけれ。
「そもそもこれより穢土を厭ふにいさみなし。閻浮愛執の綱つよければ、浄土を願ふも物憂し。ただこれより山伝ひに都へのぼつて、恋しき者どもを、今一度見もし、見えての後自害をせんにはしかじ」とぞ、泣く泣く語り給ひける。
→【各章検討:内裏女房】
同じき十四日、生け捕り本三位中将重衡卿、六条を東へ渡されけり。
小八葉の車に、先後の簾をあげ、左右の物見をひらく。土肥次郎実平、木蘭地の直垂に小具足ばかりして、随兵三十余騎、車の先後打ち囲んで守護し奉る。
京中の貴賤これを見て、「あないとほし。いかなる罪の報いぞや。いくらもまします公達の中に、かくなり給ふ事よ。入道殿にも二位殿にも、おぼえの御子にてましまいしかば、御一家の人々も、重き事に思ひ奉り給ひしぞかし。院へも内へも参り給ひし時は、老いたるも若きも、所をおき、もてなし奉り給ひしものを。これは南都を滅ぼし給へる伽藍の罰にこそ」と申し合へり。
河原まで渡されて、かへつて、故中御門藤中納言家成卿の、八条堀川の御堂に据ゑ奉つて、土肥次郎守護し奉る。
院の御所より御使に蔵人の左衛門権佐定長、八条堀川へ向かはれけり。赤衣に剣笏をぞ帯したりける。三位中将は、紺村滋の直垂に、折烏帽子ひき立てておはします。日頃はなにとも思はれざりし定長を、今は冥途にて罪人どもが、冥官に逢へる心地ぞせられける。
仰せ下されけるは、「八島へ帰りたくば、一門の中へ言ひおくつて、三種の神器を都へ返し入れ奉れ。しからば八島へかへさるべしとの御気色で候ふ」と申す。
三位中将申されけるは、「重衡千人万人が命にも、三種の神器をかへ参らせんとは、内府以下一門の者ども、一人もよも申し候はじ。もし女性にて候へば、母儀の二品なんどや、さも申し候はんずらん。さは候へども、ゐながら院宣をかへし参らせん事、その恐れも候へば、申し送つてこそ見候はめ」とぞ申されける。
御使ひは、平三左衛門重国、御坪の召次花方とぞ聞こえし。私の文は許されねば、人々のもとへも言葉にてことづけ給ふ。北の方大納言佐殿へも、御言葉にて申されけり。
「旅の空にても、人は我になぐさみ、我は人になぐさみ奉りしに、引き別れて後、いかに悲しうおぼすらん。『契りは朽ちせぬもの』と申せば、後の世には必ず生まれ逢ひ奉らん」と、泣く泣くことづけ給へば、重国も、涙をおさへて立ちにけり。
三位中将の年ごろ召し使はれける侍に、木工右馬允知時といふ者あり。八条女院に候ひけるが、土肥次郎がもとに行き向かつて、
「これは中将殿に先年召しつかはれ候ひし、それがしと申すものにて候ふが、西国へも御供つかまつるべき由存じ候ひしかども、八条の女院に兼参の者にて候ふ間、力及ばで留まつて候ふが、今日大路で見参らせ候へば、目もあてられず、いとほしう思ひ奉り候ふ。しかるべう候はば、御許されをかうぶつて、近づき参り候うて、今一度見参に入り、昔語りをも申して、なぐさめ参らせばやと存じ候ふ。させる弓矢とる身で候はねば、戦合戦の御供をつかまつたる事も候はず。ただ朝夕伺候せしばかりで候ひき。さりながら、なほおぼつかなう思し召し候はば、腰の刀を召しおかれて、まげて御許されをかうぶり候はばや」と申せば、
土肥次郎、情けある男にて、「御一身ばかりは何事か候ふべき。さりながらも」とて、腰の刀を乞ひとつて入れにけり。右馬允なのめならず喜びて、急ぎ参つて見奉れば、まことに思ひ入れ給へるとおぼしくて、御姿もいたくしをれかへつてゐ給へる御有様を見奉るに、知時涙もさらに抑へがたし。三位中将もこれを御覧じて、夢に夢見る心地して、とかうの事をも宣はず。
ややあつて、昔今の物語どもし給ひて後、「さても汝してものいひし人は、いまだ内裏にとや聞く」。
「さこそ承り候へ」。
「西国へ下りし時、文をもやらず、言ひ置く事もなかりしを、世々の契りは、皆偽りにてありけりと思ふらんこそはづかしけれ。文をやらばやと思ふは。尋ねて行きてんや」と宣へば、
「御文を賜はつて参り候はん」と申す。
中将なのめならず喜んで、やがて書いてぞ賜うだりける。守護の武士ども、「いかなる御文にて候ふやらん。出だし参らせじ」と申す。中将、「見せよ」と宣へば、見せてんげり。
知時もつて、内裏へ参りたりけれども、昼は人目のしげければ、その辺近き小屋に立ち入りて日を待ち暮らし、局の下口辺にたたずんで聞けば、この人の声と思しくて、「いくらもある人の中に、三位中将しも生け捕りにせられて、大路を渡さるる事よ。人は皆奈良を焼きたる罪の報いといひあへり。中将もさぞいひし。『我が心におこつては焼かねども、悪党多かりしかば、てんでに火をはなつて、多くの堂塔を焼き払ふ。末の露本のしづくとなるなれば、我一人が罪にこそならんずらめ』といひしが、げにさとおぼゆる」とかきくどき、さめざめとぞ泣かれける。
右馬允「これにも思はれけるものを」と、いとほしうおぼえて、「もの申さう」どいへば、「いづくより」と答ふ。
「三位中将殿よりの御文の候ふ」と申せば、年ごろは恥ぢて見え給はぬ人の、せめての思ひの余りにや、「いづらやいづら」とて走り出でて、手づから文をとつて見給へば、西国より捕られてありし有様、今日明日とも知らぬ身の行方など、こまごまと書き続け、奥には一首の歌ぞありける。
♪81
涙川 うき名を流す 身なりとも
いまひとたびの 逢瀬ともがな
女房これを見給ひて、とかうの事も宣はず、文を懐に引き入れて、ただ泣くよりほかの事ぞなき。
やや久しうあつて、さてもあるべきならねば、御返事あり。心苦しういぶせくて、二年を送りつる、心のうちを書き給ひて、
♪82
君ゆゑに 我もうき名を 流すとも
そこのみくづと ともになりなん
知時もつて参りたり。守護の武士ども、また、「見参らせ候はん」と申せば、見せてんげり。「苦しう候ふまじ」とて奉る。
中将これを見給ひて、いよいよ思ひやまさり給ひけん、土肥次郎実平に宣ひけるは、「年ごろ相具したりし女房に、今一度対面して、申したき事のあるはいかがすべき」と宣へば、実平情ある男にて、まことに女房などの御事にて渡らせ給ひ候はんは、なじかは苦しう候ふべき」とて、許し奉る。
中将なのめならず喜んで、人に車かつて迎へにつかはしたりければ、女房とりもあへず、これに乗つてぞおはしたる。
椽に車をやり寄せて、かくと申せば、中将車寄せまで出で向かひ給ひ、「武士どもの見奉るに、降りさせ給ふべからず」とて、車の簾をうちかづき、手に手を取り組み、顔に顔を押し当てて、しばしはものも宣はず。ただ泣くよりほかの事ぞなき。
やや久しうあつて、中将宣ひけるは、「西国へ下りし時、いま一度見参らせたう候ひしかども、おほかたの世の騒がしさに、申すべきたよりもなくて、まかりくだり候ひぬ。その後はいかにもして、御文をも参らせ、御返り事をも承りたう候ひしかども、心にまかせぬ旅のならひ、明け暮れの戦にひまなくて、空しく年月を送り候ひき。今また人知れぬ有様を見候ふは、二度あひ見奉るべきで候ひけり」とて、袖を顔に押し当てて、うつ臥しにぞなられける。互ひの心のうち、推し量られてあはれなり。
かくてさ夜もなかばになりければ、「このごろは大路の狼藉に候ふに、とうとう」とて、かへし奉る。
車やり出だせば、中将、別れの涙を押さへて、泣く泣く袖をひかへつつ、
♪83
逢ふことも 露の命も もろともに
今宵ばかりや 限りなるらん
女房、涙を押さへつつ、
♪84
限りとて たち別るれば 露の身の
君より先に 消えぬべきかな
さて女房は大裏へ参り給ひぬ。その後は守護の武士ども許さねば、力及ばず、時々御文ばかりぞ通ひける。
この女房と申すは、民部卿入道親範の娘なり。みめかたち世にすぐれ、情け深き人なり。されば中将南都へ渡されて斬られ給ひぬと聞こえしかば、やがて様をかへ、やがて様をかへ、濃き墨染めにやつれはて、かの後世菩提をとぶらはれけるこそあはれなれ。
→【各章検討:八島院宣】
さるほどに、平三左衛門重国、御坪の召次花方、八島に参つて、院宣を奉る。
大臣殿以下、一門の月卿、雲客、寄り合ひ給ひて、この院宣をぞ披かれける。
一人聖体、北闕の宮禁を出でて、諸州に幸し、三種の神器、南海四国に埋もれて、数年を経、尤も朝家の歎き、亡国の基なり。そもそもかの重衡卿は、東大寺焼失の逆臣なり。須らく頼朝朝臣申し請くる旨に任せて、死罪に行はるべしと雖も、独り親族に別れて、已に生捕りとなる。籠鳥雲を恋ふる思ひ、遥かに千里の南海に浮かび、帰雁友を失ふ心、定めて九重の中途に通ぜんか。然れば則ち三種の神器を返し入れ奉らんに於いては、かの卿を寛宥せらるべきなり。ていれば院宣かくのごとし。仍つて執達件のごとし。
寿永三年二月十四日、大膳大夫成忠が承り、
進上平大納言殿へ
とぞ書かれたる。
→【各章検討:請文】
大臣殿、平大納言のもとへは、院宣のおもむきを申し給ふ。二位殿へは御文こまごまと書いて、参らせられたり。
「今一度御覧ぜんと思し召し候はば、内侍所の御事を大臣殿によくよく申させおはしませ。さ候はでは、この世にて見参に入るべしとも覚え候はず」などぞ書かれたる。
二位殿はこれを見給ひて、とかうの事も宣はず、文を懐に引き入れて、うつ伏しにぞなられける。まことに心のうち、さこそはおはしけめと、推し量られてあはれなり。
さるほどに、平大納言時忠卿をはじめとして、平家一門の公卿、殿上人、寄り合ひ給ひて、御請け文の趣詮議せらる。
二位殿は、中将の御文を顔に押し当てて、人々の並みゐ給へる後ろの障子をひきあけて、大臣殿の御前に倒れ臥し、泣く泣く宣ひけるは、「あの中将が京より言ひおこしたる事の無残さよ。げにも心のうちにいかばかりの事を思ひゐたるらん。ただ我に思ひ許して内侍所を都へ返し入れ奉れ」と宣へば、
大臣殿、「まことに宗盛もさこそは存じ候へども、さすが世の聞こえもいふかひなう候ふ。かつうは頼朝が思はん所も、はづかしう候へば、左右なう内侍所をかへし入れ奉る事はかなひ候まじ。その上、帝王の世を保たせ給ふ御事は、ひとへに内侍所の御故なり。子のかなしいも様にこそより候へ。かつうは中将一人に、余の子ども、親しい人々をば、さて思し召しかへさせ給ひふべきか」と申されければ、
二位殿、重ねて宣ひけるは、「故入道相国におくれて後は、片時も命生きてあるべしとも思はざりしかども、主上かやうにいつとなく、旅立たせ給ひたる御事の心苦しさ、また君をも御代にあらせ参らせばやなど思ふ故こそ、今までもながらへてありつれ。中将一の谷で、生け捕りにせられぬと聞きし後は、いとど胸せきて、湯水ものどへ入れられず。今この文を見て後は、いよいよ思ひやりたる方もなし。中将世になきものと聞かば、我も同じ道におもむかんと思ふなり。ふたたびものを思はぬ先に、ただ我を失ひ給へ」とて、をめき叫び給へば、まことにさこそは思ひ給ふらめとあはれにおぼえて、人々涙を流しつつ、みな伏し目にぞなられける。
新中納言知盛の意見に申されけるは、「三種の神器を都へ返し入れ奉たりとも、重衡をかへし給はらん事有り難し。ただはばかりなくそのやうを御請文に申さるべうや候ふらん」と申されければ、大臣殿、「この儀もつともしかるべし」とて、御請文申されけり。二位殿は泣く泣く中将の御返事書き給ひけるが、涙にくれて、筆のたてどもおぼえねども、心ざしをしるべに、御文こまごまと書いて、重国に賜びにけり。
北の方大納言佐殿は、ただ泣くよりほかの事なくて、つやつや御返事もし給はず。まことに御心のうちさこそは思ひ給ふらめと推し量られてあはれなり。重国も、狩衣の袖をしぼりつつ、泣く泣く御前をまかり立つ。
平大納言時忠卿は、御坪の召次花方を召して、「汝は花方か」「さん候ふ」「法皇の御使に多くの波路をしのいで参りたるに、一期が間の思ひ出ひとつあるべし」とて、花方がつらに、『浪方』といふ焼印をぞせられける。都へ上つたりければ、法皇これを御覧じて、「よしよし力及ばず。浪方とも召せかし」とて、笑はせおはします。
今月十四日の院宣、同じき二十八日、讃岐国八島の磯に到来。謹んで以て承る所件のごとし。但しこれに就いて彼を案ずるに、通盛卿以下、当家の数輩摂州一の谷にして既に誅せられ了んぬ。何ぞ重衡一人が寛宥を喜ぶべきや。夫れ我が君は、故高倉院の御譲りを受けさせ給ひて、御在位既に四箇年、政治は堯舜の古風を訪ふ所に、東夷北狄、党を結び群を成して入洛の間、且つうは幼帝母后の御歎き尤も深く、且つうは外戚近臣の憤り浅からざるに依つて、暫く九国に幸す。還幸無からんに於いては、三種の神器いかでか玉体を離ち奉るべきや。夫れ『臣は君を以て心とし、君は臣を以て体とす。君安ければ即ち臣安く、臣安ければ則ち国安し。君上に憂ふれば臣下に楽しまず』。心中に愁へあれば、体外に喜び無し。
嚢祖平将軍貞盛、相馬の小次郎将門を追討せしより以降、東八箇国を鎮めて子々孫々に伝へ、朝敵の謀臣を誅罰して、代々世々に至るまで、朝家の聖運を守り奉る。然れば則ち故亡父太政大臣、保元、平治両度の逆乱の時、勅命を重うして私の命を軽うす。これひとへに君の為にして、全く身の為にせず。就中、かの頼朝は、去んぬる平治元年十二月、父左馬頭義朝が謀叛に依つて、頻りに誅罰せらるべき由仰せくださるといへども、故入道大相国、慈悲の余り、申し宥められし所なり。然るに昔の洪恩を忘れ、芳意を存ぜず、忽ちに浪羸の身を以て、猥りに蜂起の乱を為す。至愚の甚だしき事申して余りあり。早く神幣の天罰を招き、密かに敗績の損滅を期する者か。
夫れ『日月は一物の為に、その明らかなる事を暗うせず。明王は一人が為にその法を抂げず』。一悪を以てその善を捨てず、小瑕を以てその功を覆ふ事なかれ。且つうは当家数代の奉公、且つうは亡父数度の忠節、思し召し忘れずは、君忝くも四国の御幸あるべきか。時に臣等院宣を承り、ふたたび旧都に還つて、会稽の恥を雪がん。若し然らずは、鬼界、高麗、天竺、震旦に到るべし。悲しいかな、人王八十一代の御宇に当たつて、我が朝神代の霊宝、遂に空しく異国の宝と作さんか。宜しく是れ等の趣を以て、然るべきやうに洩らし奏聞せしめ給へ。宗盛頓首謹んで申す。
寿永三年二月二十八日、
従一位平朝臣宗盛が請文
とこそ書かれたれ。
→【各章検討:戒文】
三位中将、これを聞いて、「さこそはあらんずれ、いかに一門の人々悪く思ひけん」と後悔すれども、かひぞなき。げにも重衡一人を惜しみて、さしもの我が朝の重宝、三種の神器を返し入れ奉るべしともおぼえねば、この御請文の趣は、かねてより思ひまうけられたりしかども、いまだ左右を申されざりつるほどは、何となう心もとなういぶせく思はれけるに、請文すでに到来して、関東へ下向せらるべきに定まりしかば、何のたのみも弱りはてて、よろづ心細う都の名残も今さら惜しうぞ思はれける。
三位中将、土肥次郎を召して、「出家をせばやと思ふはいかがあるべき」と宣へば、実平この由を九郎御曹司に申す。院の御所へ奏聞せられたりければ、「頼朝に見せて後こそ、ともかうもはからはめ。ただ今はいかでか許すべき」と仰せければ、この由を申す。
「さらば年ごろ契りたりし聖に、今一度対面して、後生の事を申し談ぜばやと思ふはいかがすべき」と宣へば、「聖をば誰と申し候ふやらん」「黒谷の法然房と申す人なり」「さては苦しう候ふまじ」とて許し奉る。
三位中将なのめならずに喜んで、やがて聖を請じ奉つて、泣く泣く申されけるは、「今度生きながらとらはれて候ひけるは、ふたたび上人の見参にまかり入るべきで候ひけり。さても重衡が後生、いかがし候ふべき。身の身にて候ひしほどは、出仕に紛れ、世務にほだされ、驕慢の心のみ深くして、かつて到来の昇沈をかへりみず。いはんや運つき世乱れてよりこのかたは、ここに戦ひ、かしこに争ひ、人を滅ぼし、身を助からんと思ふ悪心のみ遮つて、善心はかつて発らず。
就中南都炎上の事、王命と言ひ武命と言ひ、君につかへ、世に従ふ法のがれがたくして、衆徒の悪行をしづめんがために、まかり向かつて候ひしほどに、不慮に伽藍の滅亡に及び候ひし事、、力及ばぬ次第にて候へども、時の大将軍にて候ひし上は、責め一人に帰すとかや申し候ふなれば、重衡一人が罪業にこそ、なり候ひぬらめとおぼえ候ふ。且つうはかやうに人知れずかれこれ恥をさらし候ふも、しかしながらその報いとのみこそ思ひ知られて候へ。
今は頭を剃り、戒をもたちなんどして、ひとへに仏道修行したう候へども、かかる身にまかりなつて候へば、心に心をも任せ候はず。今日明日とも知らぬ身の行方にて候へば、いかなる行を修して、一業助かるべちともおぼえぬこそ口惜しう候へ。つらつら一生の加行を思ふに、罪業は須弥よりも高く、善根は微塵ばかりも蓄へなし。かくて空しく命終はりなば、火血刀の苦果、あへて疑ひなし。願はくは、上人慈悲をおこし、憐み垂れて、かかる悪人の助かりぬべき方法候はば、示し給へ。」
その時上人涙にむせんでしばしはものも宣はず。
やや久しうあつて、「まことに受け難き人身を受けながら、空しう三途にかへり給はん事、悲しんでもなほ余りあり。しかるに今穢土を厭ひ、浄土を願はんに、悪心を捨てて、善心を発しおはしまさんに事、三世の諸仏も定めて、随喜し給ふべし。それについて、出離の道まちまちなりといへども、末法濁乱の機には、称名をもつてすぐれたりとす。心ざしを九品にわかち、行を六字につづめて、いかなる愚痴闇鈍の者も、唱ふるに便りあり。罪深ければとて、卑下し給ふべからず。十悪五逆廻心すれば往生を遂ぐ。功徳少なければとて、望みをたつべからず。一念十念の心を致せば来迎す。
『専称名号至西方』と見えて、専ら名号を称すれば、西方に至る。『念念称名常懺悔』と述べて、念念に弥陀を唱ふれば、懺悔するなりと教へたり。『利剣即是弥陀号』を頼めば、魔縁近づかず。『一声称念罪皆除』と念ずれば、罪皆除けりと見えたり。浄土宗の至極、各略をを存じて、大略これを肝心とす。ただし往生の得否は、信心の有無によるべし。ただ深く信じて、ゆめゆめ疑ひをなし給ふべからず。もしこの教へを深く信じて、行住座臥時処諸縁をきらはず、三業四威儀において、心念口称を忘れ給はずは、畢命を期として、この苦域の境を出でて、かの不退の土に往生し給はん事、何の疑ひかあらんや」と教化し給へば、
中将なのめならず喜びて、「このついでに戒を保たばやと存じ候ふは、出家つかまつり候はではかなひ候ふまじや」と申されければ、
「出家せぬ人も、戒を保つことは世の常のならひなり」とて、額も剃刀を当てて、剃る真似をして、十戒を授けられければ、中将随喜の涙を流いて、これを受け保ち給ふ。上人もよろづものあはれにおぼえて、かきくらす心地して、泣く泣く戒をぞ説かれける。
御布施とおぼしくて、年ごろ常におはして遊ばれける侍のもとにあづけおかれたりける御硯を、知時して召し寄せて、上人に奉り、「これをば人にたび候はで、常に御目のかかり候はん所に置かれ候ひて、それがしがものぞかしと御覧ぜられ候はんたびごとに、思し召しなずらへて、御念仏候ふべし。御ひまには、経をも一巻御廻向候はば、しかるべう候ふべし」など、泣く泣く申されければ、上人とかうの返事にも及ばず、これをとつて懐に入れ、墨染めの袖をしぼりつつ泣く泣くかへり給ひけり。
この硯は、親父入道相国、砂金を多く宋朝の帝へ奉り給ひたりければ、返報とおぼしくて、日本和田の平大相国のもとへとて、おくられたりけるとかや。名をば松蔭とぞ申しける。
→【各章検討:海道下】
さるほどに、本三位中将重衡卿をば、鎌倉の前兵衛佐頼朝、しきりに申されければ、「さらば下さるべし」とて、土肥次郎実平が手より、まづ九郎御曹司の宿所へ渡し奉る。
同じき三月十日、梶原平三景時に具せられて、鎌倉へこそ下られけれ。西国より生け捕りにせられて、都へ帰るだに口惜しきに、いつしかまた関の東へおもむかれん心のうち、推し量られてあはれなり。
四宮河原になりぬれば、ここは昔延喜第四の皇子蝉丸の、関の嵐に心をすまし、琵琶を弾き給ひしに、博雅の三位といつし人、風の吹く日も吹かぬ日も、雨の降る夜も降らぬ夜も、三年が間、あゆみをはこび、たちききて、三曲を伝へけん、藁屋の床の古も思ひやられてあはれなり。
逢坂山をうち越えて、勢田の唐橋、駒もとどろに踏みならし、雲雀あがれる野路の里、志賀の浦波春かけて、霞にくもる鏡山、比良の高根を北にして、伊吹の嵩も近づきぬ。心をとむるとしなけれども、荒れてなかなかやさしきは、不破の関屋の板びさし、いかに鳴海の汐干潟、涙に袖はしをれつつ、かの在原のなにがしの、唐衣きつつなれにしとながめけん、三河国の八橋にもなりぬれば、蜘蛛手に物をとあはれなり。浜名の橋を渡り給へば、松の梢に風冴えて、入り江に騒ぐ波の音、さらでも旅は物憂きに、心を尽くす夕まぐれ、池田の宿にも着き給ひぬ。
かの宿の長者、熊野がむすめ、侍従がもとに、その夜は宿せられけり。侍従、三位中将を見奉て、「昔はつてにだに思ひ寄らざりしに、今日はかかる所に入らせ給ふ不思議さよ」とて、一首の歌を奉る。
♪85
旅の空 はにふの小屋の いぶせさに
ふる里いかに 恋ひしかるらむ
三位中将の返事には、
♪86
故郷も 恋ひしくもなし 旅の空
都もつひの すみかならねば
中将、「やさしうもつかまつたるものかな。この歌の主は、いかなる者やらん」と御尋ねありければ、景時かしこまつて申しけるは、「君はいまだ知ろしめされ候はずや。あれこそ八島の大臣殿、当国の守にて渡らせ給ひ候ひし時、召され参らせて、御最愛にて候ひしが、老母をこれにとどめおき、しきりに暇を申せども、給はらざりければ、頃は弥生のはじめなりけるに、
♪87
いかにせん 都の春も をしけれど
なれし吾妻の 花や散るらん
とつかまつて、暇を給はつて下り候ひし、海道一の名人にて候へ」とぞ申しける。
都を出でて日数ふれば、弥生も半ば過ぎ、春もすでに暮れなんとす。遠山の花は残んの雪かと見えて、浦々島々霞みわたり、来し方行く末の事ども思ひ続け給ふに、「こはさればいかなる宿業のうたてさぞ」と宣ひて、ただ尽きせぬものは涙なり。
御子の一人もおはせぬ事を、母の二位殿も歎き、北の方大納言典侍殿も、ほいなきことにして、よろづの神仏に祈り申されけれども、そのしるしなし。「かしこうぞなかりける。子だにもあらましかば、いかばかり心苦しからん」と宣ひけるこそせめての事なれ。
小夜の中山にかかり給ふにも、また越ゆべしともおぼえねば、いとどあはれの数そひて、袂ぞいたく濡れまさる。宇津の山辺の蔦の道、心細くもうち越えて、手越を過ぎてゆけば、北に遠ざかつて、雪白き山あり。問へば甲斐の白根といふ。その時三位中将、落つる涙をおさへて、かうぞ思ひ続け給ふ。
♪88
をしからぬ 命なれども 今日までに
つれなき甲斐の 白根をも見つ
清見が関うち過ぎて、富士の裾野になりぬれば、北には青山が峨々として、松吹く風索々たり。南には蒼海漫々として、岸うつ波も茫々たり。「恋ひせばやせぬべし、恋ひせずもありけり」と、明神のうたひはじめ給ひけん、足柄の山もうち越えて、小余凌木の森、鞠子川、小磯、大磯の浦々、やつまと、砥上が原、御輿が崎をもうち過ぎて、急がぬ旅とは思へども、日数やうやう重なれば、鎌倉へこそ入り給へ。
→【各章検討:千手前】
兵衛佐、急ぎ見参して申されけるは、「そもそも君の御憤りをやすめ奉り、父の恥をきよめんと思ひ立ちし上は、平家を滅ぼさんは案のうちに候へども、まさしく見参に入るべしとは、存ぜず候ひき。この定では、八島の大臣殿の見参にも入りぬとおぼえ候ふ。そもそも南都を滅ぼさせ給ひける事は、故太政入道の仰せにて候ひしか、また時にとつての御ぱからひにて候ひけるか。もつてのほかの罪業にてこそ候ふなれ」と申されければ、
三位中将宣ひけるは、「まづ南都炎上の事、故入道の成敗にもあらず、重衡が愚意の発起にもあらず。衆徒の悪行をしづめんがために、まかり向かつて候ひしほどに、不慮に伽藍滅亡に及び候ひし事、力及ばぬ次第なり。昔は源平左右に争ひて、朝家の御まもりたりしかども、近頃源氏の運かたぶきたりし事は、ことあたらしう初めて申すべきにあらず。当家は保元、平治よりこの方、度々の朝敵を平らげ、勧賞身にあまり、かたじけなく一天の君の御外戚として、一族の昇進六十余人、二十余年のこの方は、楽しみ栄え申すはかりなし。
今また運尽きぬれば重衡捕はれて、これまで下り候ひぬ。それについて帝王の御敵を討つたる者は、七代まで朝恩失せずと申す事は、極めたる僻事にて候ひけり。まのあたり故入道相国は君の御ために命を失はんとすること度々に及ぶ。されどもわづかにその身一代の幸ひにて、子孫かやうにまかりなるべしや。
されば運尽きて、都を出でし後は、かばねを山野にさらし、名を西海の波に流すべしとこそ存ぜしが、これまで下るべしとは、かけても思はざりき。ただ先世の宿業こそ口惜しく候へ。ただし『殷湯は夏台に囚はれ、文王は羑里に囚はる』といふ文あり。上古なほかくのごとし。いはんや末代においてをや。弓矢とる習ひ、敵の手にかかつて、命を失ふ事、まつたく恥にて恥ならず。ただ芳恩にはとくとく頭を刎ねらるべし」とて、その後はものをも宣はず。
景時これを承つて、「あつぱれ大将軍や」とて涙を流す。侍どももみな袖をぞ濡らしける。
兵衛佐も「平家を別して私の敵と思ひ奉る事、ゆめゆめ候はず。ただ帝王の仰せこそ、重う候へ」とぞ宣ひける。「南都を滅ぼしたる伽藍の敵なれば、大衆定めて申す旨あらんずらん」とて、伊豆国の住人、狩野介宗茂に預けらる。その体、冥途にて娑婆世界の罪人を、七日七日に、十王の手に渡さるらんも、かくやとおぼえてあはれなり。
されども狩野介、情けある者にて、いたうきびしうもあたり奉らず、やうやうにいたはり、湯殿しつらひなどして、御湯ひかせ奉る。
道すがらの汗いぶせかりければ、身を清めて失はんずるにこそと思はれけるに、齢二十ばかんなる女房の、色白う清げにて、まことに優にうつくしきが、目結の帷子に染付けの湯巻して、湯殿の戸押しあけて参りたり。またしばしあつて、十四五ばかりなる女童の、こむらごの帷子着て、髪は衵長なるが、楾盥に櫛入れて持つて参りたり。この女房介錯にて、やや久しうあみ、髪洗ひなどして、あがり給ひぬ。
さてかの女房暇申して出でけるが、「男などはこちなうもぞ思し召す。なかなか女房は苦しからじとて、参らせられて候ふ。『何事でも思し召さん事をば、承つて申せ』とこそ、兵衛佐殿は仰せ候ひつれ。」
中将、「いまはこれほどの身になつて、何事をか思ふべき。ただ思ふ事とては、出家ぞしたき」と宣ひければ、かへり参つて、兵衛佐殿にこの由を申す。
兵衛佐殿、「それは思ひも寄らず。頼朝が私の敵ならばこそ。朝敵として預かり奉たる人なり。ゆめゆめあるべうもなし」とぞ宣ひける。
三位中将、守護の武士に宣ひけるは、「さてもただ今の女房は、優なりつるものかな。名をば何といふやらん」と問はれければ、「あれは手越の長者が娘で候ふを、みめかたち、心ざま、優にわりなき者で候ふとて、この二三年召し使はれ候ふが、名をば千手前と申し候ふ」とぞ申しける。
その夕べ雨少し降つて、よろづものさびしかりけるに、件の女房、琵琶、琴持たせて参りたり。狩野介、酒を勧め奉る。我が身も家の子郎等等十余人ひき具して参り、御前近う候ひけり。
千手前、酌をとる。三位中将少しうけて、いと興なげにておはしけるを、狩野介申しけるは、「かつ聞こし召されてもや候ふらん。鎌倉殿の『相構へてよくよくなぐさめ参らせよ。懈怠にて、頼朝恨むな』と仰せられ候ふ。宗茂は、もと伊豆国の者にて候ふ間、鎌倉では旅にて候へども、心の及び候はんほどは、奉公つかまつり候ふべし。何事でも申して、すすめ参らせ給へ」と申しければ、
千手前、酌さしおいて、「羅綺の重衣たる情ない事を機婦に妬む」といふ朗詠を一両反したりければ、
三位中将、「この朗詠せん人をば北野の天神一日に三度かけつてまぼらんと誓はせ給ふなり。されども重衡は、今生にては捨てられ給ひぬ。助音しても何かせん。罪障かろみぬべき事ならば、従ふべし」と宣へば、
千手前やがて、「十悪といへども引摂す」といふ朗詠をして、「極楽願はん人は、皆弥陀の名号を唱ふべし」といふ今様を四五へん歌ひすましたりければ、その時盃を傾けらる。
千手前給はつて狩野介にさす。宗茂が飲む時に、琴をぞ弾きすましたる。
三位の中将宣ひけるは、「この楽をば普通は五常楽といへども、いま重衡がためには、後生楽とこそ観ずべけれ。やがて往生の急をひかん」とたはぶれて、琵琶をとり、転手をねぢて、皇麞の急をぞ弾かれける。
夜もやうやう更けて、よろづ心のすむままに、「あな思はずや、あづまにもこれほど優なる人のありけるよ。何事にても今一声」と宣へば、千手前また、「一樹のかげに宿りあひ、同じ流れを掬ぶも、皆これ先世の契り」といふ白拍子をまことにおもしろく数へすましたりければ、中将も、「灯闇うしては、数行虞氏が涙」といふ朗詠をぞせられける。
たとへばこの朗詠の心は、昔唐土に漢の高祖と楚の項羽と位を争ひて、合戦する事七十二度、戦ひごとに項羽勝ちにけり。されどもつひには、項羽戦ひ負けて滅びける時、騅といふ馬の一日に千里を飛ぶに乗つて、虞氏といふ后とともに逃げ去らんとしけるに、馬いかが思ひけん、足をととのへて働かず。項羽涙を流いて、「我が威勢すでに廃れたり。今は逃るべき方なし。敵の襲ふは事の数ならず。この后に別れなん事の悲しさよ」とて、夜もすがら歎き悲しみ給ひけり。灯火くらうなりければ、心細うて虞氏涙を流す。夜ふくるままに軍兵四面に鬨を作る。この心を橘相公の賦に作れるを、三位中将思ひ出でられたりしにや、いとやさしうぞ聞こえける。
さるほどに夜も明けければ、武士ども暇申してまかりいづ。千手前も帰りにけり。
その朝、兵衛佐殿、折節持仏堂に法華経ようでおはしける所へ、千手前参りたり。佐殿うち笑み給ひて、千手に「中人をば面白うしたるものを」と宣へば、斎院の次官親義、折節御前に物かいて候ひけるが、「何事で候ふやらん」と申す。
「あの平家の人々は、弓箭のほかは他事なしとこそ、日ごろは思ひたれば、この三位中将の琵琶の撥音、口づさみ、夜もすがらたち聞いて候ふに、優にわりなき人にておはしけり。」
親義申しけるは、「誰も夜べ承るべう候ひしが、折節いたはる事候うて、承らず候ふ。この後は常にたち聞き候ふべし。平家はもとより代々の歌人、才人達で候ふなり。先年この人々を花にたとへ候ひしに、この三位中将をば、牡丹の花に譬へて候ひしぞかし」と申されければ、「まことに優なる人にてありけり」とて、琵琶の撥音、朗詠のやう、後までも有り難き事にぞ宣ひける。千手前はなかなかに物思ひの種とやなりにけん。されば中将南都へ渡されて、斬られ給ひぬと聞こえしかば、やがて様をかへ、濃き墨染めにやつれはて、信濃国、善光寺に行ひすまして、かの後世菩提をとぶらひ、我が身も往生の素懐を遂げけるとぞ聞こえし。
→【各章検討:横笛】
さるほどに、小松の三位中将維盛卿は、身柄は八島にありながら、心は京へ通はれけり。故郷にとどめおき給ひし北の方幼き人々の面影のみ身にたちそひて、忘るるひまもなかりければ、「あるにかひなき我が身かな」とて、寿永三年三月十五日の暁、忍びつつ八島の舘をば紛れ出でて、与三兵衛重景、石童丸といふ童、舟に心得たればとて、舎人武里、これら三人を召し具して、阿波国結城の浦より小舟に乗り、鳴戸の浦を漕ぎ通り、紀伊の港にこそ着き給へ。
「これより山伝ひに都へ上つて、恋しき人々を今一度見もし見えばやとは思へども、本三位中将殿の生け捕りにせられて、大路を渡され、京鎌倉、恥をさらすだに口惜しきに、この身さへ囚はれて、父のかばねに血をあやさん事も心うし」とて、千度心はすすめども、心に心をからかひて、高野の御山へ参られけり。
高野に年ごろ知り給へる聖あり。三条斎藤左衛門大夫茂頼が子に、斎藤滝口時頼といひし者なり。もとは小松殿の侍なり。
十三の歳本所へ参りたりけるが、建礼門院の雑仕、横笛といふ女あり。滝口これを最愛す。
父これを伝へ聞いて、「世にあらん者の婿子になして、出仕なんどをも心やすうせさせんとすれば、世になき物を思ひ初めて」と、あながちに諌めければ、
滝口申しけるは、「西王母と聞こえし人、昔はあつて今はなし。東方朔といひし者も、名をのみ聞きて目には見ず。老少不定の世の中は、石火の光に異ならず。たとひ人長命といへども、七十八十をば過ぎず。そのうちに身の盛んなる事はわづかに二十余年なり。夢幻の世の中に、見にくきものを片時も見て何かはせん。思はしき物を見んとすれば、父の命をそむくに似たり。これ善知識なり。しかじ、憂き世を厭ひ、まことの道に入りなん」とて、十九の年、髻切つて、嵯峨の往生院に行ひすましてぞゐたりける。
横笛これを伝へ聞いて、「我をこそ捨てめ、様をさへかへけん事の恨めしさよ。たとひ世をばそむくとも、などかはかくと知らせざらん。人こそ心つよくとも、尋ねて恨みん」と思ひつつ、ある暮れ方に都を出でて、嵯峨の方へぞあくがれゆく。
頃は如月十日余りの事なれば、梅津の里の春風に、余所のにほひもなつかしく、大井川の月影も、霞にこめておぼろなり。一方ならぬあはれさも、誰ゆゑとこそ思ひけめ。
往生院とは聞きたれども、定かにいづれの坊とも知らざれば、ここにやすらひ、かしこにたたずみ、尋ねかぬるぞ無慚なる。
住み荒らしたる僧坊に、年誦の声しけり。滝口入道が声と聞きすまして、「わらはこそこれまで尋ね参りたれ。さまのかはりておはすらんをも、今一度見奉らばや」と、具したりける女をもつていはせければ、滝口入道、胸うち騒ぎ、障子の隙よりのぞいて見れば、まことに尋ねかけたるけしきいたはしうおぼえて、いかなる道心者も心弱くなりぬべし。やがて人を出だいて、「まつたくこれにはさる人なし。門たがへでぞあるらん」とて、遂にあはでぞ帰しける。横笛、情けなう恨めしけれども、力なう、涙をおさへて帰りけり。
滝口入道、同宿の僧にあうて申しけるは、「これも世に静かにて、念仏の障碍は候はねども、あかで別れし女に、このすまひを見えて候へば、たとひ一度は心つよくとも、またもしたふ事あらば、心も働き候ひぬべし。暇申して」とて、嵯峨をば出でて、高野へ上り、清浄心院にぞゐたりける。横笛も様をかへたる由聞こえしかば、滝口入道、一首の歌をおくりけり。
♪89
そるまでは 恨みしかども 梓弓
まことの道に 入るぞうれしき
横笛の返事には、
♪90
そるとても 何か恨みん 梓弓
ひきとどむべき 心ならねば
横笛は、その思ひのつもりにや、奈良の法華寺にありけるが、いくほどもなくて、終にはかなくなりにけり。滝口入道、かやうの事を伝へ聞き、いよいよ深く行ひすましてゐたりければ、父も不孝を許しけり。したしき者どもも、みな用ゐて、高野の聖とぞ申しける。
三位中将、これに尋ねあひて見給へば、都に候ひし時は、布衣に立烏帽子、衣文をつくろひ、鬢をなで、華やかなりし男なり。出家の後は、今日初めて見給ふに、いまだ三十にもならぬが、老僧姿にやせ衰へ、濃き墨染めに同じ袈裟、香の煙にしみかをり、さかしげに思ひ入れたる道心者、うらやましくや思はれけん。
晋の七賢、漢の四晧がすみけん商山、竹林の有様もこれには過ぎじとぞ見えし。
→【各章検討:高野巻】
滝口入道、三位中将を見奉て、「こはうつつともおぼえ候はぬものかな。八島よりこれまでは、何として逃れさせ給ひて候ふやらん」と申しければ、三位中将宣ひけるは、「さればこそ、人なみなみに都を出でて、西国へ落ち下りたりしかども、ふるさとにとどめおきたりし幼き者どもの恋しさ、いつ忘るべしともおぼえねば、その物思ふけしきのいはぬにしるくや見えけん、大臣殿も二位殿も、『この人は池の大納言のやうに二心あり』なんどとて思ひへだて給ひしかば、あるに甲斐なき我が身かなといとど心もとどまらで、あくがれ出でて、これまでは逃れたるなり。
いかにもして、山伝ひに、都へのぼつて恋しき者どもを今一度、見もし見えばやとは思へども、本三位中将の事、口惜しければ、それもかなはず。同じくはこれにて出家して、火の中水の底へも、入らばやと思ふなり。ただし熊野へ参らんと思ふ宿願あり」と宣へば、
「夢幻の世の中は、とてもかくても候ひなん。長き世の闇こそ心憂かるべう候へ」とぞ申しける。
やがて滝口入道先達にて、堂々巡礼して、奥の院へ参り給ふ。
白河院の御時、仙洞にて種々の御談義ありけるに、上皇、仰せのありけるは、「当時西天に生身の如来出世し給ひて、説法利生し給ふに、参つて聴聞すべしや」と仰せられければ、公卿、殿上人参るべき由申されけるに、江帥匡房卿の申されける。
「人々は参らせ給ふとも匡房においては叶ひ候ふまじ。我が朝の震旦の境、尋常の渡海なれば、安き方も候ひなん。天竺、震旦の境に、流沙、葱嶺といふ嶮難あり。渡り難くして越え難き道なり。
まづ葱嶺といふ山あり。西北は大雪山に続き、東南は海隅に聳え出でたり。かの山を境うて東を震旦といひ、南を天竺と名付けたり。西を石橋といふ、北を胡国と名付けたり。路の遠さは八千余里、草も生ひず水もなし。
多くの難処ある中に、殊に高き所あり。その名を鶏波羅西南と名付けたり。銀漢に望んで日を送り、白雲を踏んで天にのぼる、雲の上着を脱ぎさけて、岩のかどをかかへつつ、二十日にこそは登るなれ。かの山に登りぬれば、三千世界の広狭は眼の前に明らかなり。一閻浮提の遠近は、足の下に集めたり。
次に流沙といふ川あり。昼は谷風烈しくて、沙を飛ばして雨のごとし。夜は妖鬼走り散つて、火をともして星に似たり。河を渡つて、河原を過ぎ、河原を過ぎては河を渡ること、八箇日が間に六百度なり。
たとひ魅の畏怖をのがるといふとも、水波の漂難さり難し。されば玄奘三蔵も、かの境にして六度まで命を失ひ、渡流の苔に朽ちにしかども、次の受生にこそ法を渡し給ひけれ。然るに天竺にあらず、震旦にあらず、本朝高野山に生身の大師入定しておはす。この霊地をもいまだ踏まずしていたづらに日月を送る身の、忽ちに十万余里の山海を凌ぎ、嶮難を越え、霊鷲山まで参るべしともおぼえず。天竺の釈迦如来、本朝の弘法大師、ともに即身成仏の現証これ新たなり」とぞ申されける。
「されば嵯峨天皇の御時、清涼殿にして四箇の大乗宗の碩学を集められて、顕密の法文の論談を致す事ましましき。法相宗に源仁、三論宗に道昌、天台に義真、華厳に道応、一々に我が宗のめでたき旨を立て申さる。
法相宗の源仁『我が宗には、三時の教を立て、一代の聖教を判ず。所謂有空中これなり。』三論宗に道昌『我が宗には、無生教を立て、一代の聖教を教ふ。二蔵といふは、菩提蔵、声聞蔵なり。』天台に義真『我が宗には、五教を立てて一切聖教を判ず。五教は小乗教、始教、終教、頓教、円教これなり。』その後真言の弘法、しばらく我が宗には、事相教相を居として、即身成仏の義を立てて申さる。
その後源仁『およそ一代三時の教文を見るに、ただ三劫成仏の文のみあつて、即身成仏の文なし。いづれの教の文証によつて、即身成仏の義を立てらるるや。その文証あらば、具に出だされて衆会の疑網を払はるべし』といえば、その時弘法『汝達の聖教の中には、三劫成仏の文のみあつて、即身成仏の文なし。』その時源仁重ねていはく、『まことにその文証あらば、具に出だされよ』と宣へば、文証を引き給ふ。若人求仏恵、通達菩提心、父母所生身、即証大覚位、これらの文を始めとして、その数に繁多なり。
源仁『文証は出だされたり。この文のごとく宗得たるその実誰人。』『その実証遠くは大日金剛薩埵これなり。近くは我が身即ちこれなり』とて、密印を結び、口に密言を唱へ、心に観念を凝らし給へば、生身の肉身、忽ちに転じて紫磨黄金の膚となり、出家の首の上には自然に五仏の宝冠を現じ、光明蒼天を照らして日輪の光を奪ひ、朝廷婆梨を耀かして密厳浄土の儀式をあはらす。
その時皇帝、御座をさつて礼をなさせ給ふ。臣下卿上、冠のこじを傾け、南都六宗の賓地に跪き敬恪す。成仏遅速の立破には道応、道昌舌を巻き、法身色相の難答には源仁、義真口を閉づ。四宗帰伏して、遂に門業に交はり、一朝信仰して法流をうく。三密五智の水、四海に満ちて群地を洗ぎ、六大無碍の月一天に耀き、長夜を照らし給へり。御在生の後も、生死別れずして、祈念の報恩を聞こし召し、六情不退にして慈尊を待ち給ふ。」
上皇仰せられけるは、「かやうの事を今まで思し召しよらざりけり。明日御幸なるべき」由仰せければ、匡房申されけるは、「明日の御幸も卒爾に存じ候ふ。釈迦仏説の砌に、十六の大国の諸王、行幸の作法は、金銀を以て衣裳とし、鞍馬を飾り、珠玉をまじへて冠蓋を飾り給ふ。これ難遇の凝志を致し給ふ所なり。我が朝、高野の御山を霊鷲山と思し召され、生身の大師をば、釈迦如来と思し召して、御幸の儀式を引きつくろはるべくや候ふらん」と申されければ、余日五箇日をおかれて、公卿、殿上人、綾羅錦繍を裁ち重ね、高野へならせ給ひけり。これぞ高野御幸の始めなる。
高野山は帝城を避つて二百里、郷里を離れて無人声、青嵐梢をならして、夕日の影しづかなり。八葉の峰、八の谷、まことに心もすみぬべし。花の色は林霧の底にほころび、鈴の音は尾上の雲にひびけり。瓦に松生ひ、かきに苔むして、星霜久しくおぼえたり。
そもそも延喜の帝の御時、御夢想の御告げあつて、檜皮色の御衣を参らせられしに、勅使中納言資隆卿、般若寺の僧正観賢を相具して、この御山に参り、御廟の扉をひらいて、御衣を着せ奉らんとしけるに、霧厚く隔たつて、大師拝まれさせ給はず。ここに観賢深く愁涙して、「我悲母の胎内を出でて師匠の室に入つしよりこの方、いまだ禁戒を犯ぜず。さればなどか拝み奉らざらん」とて、五体を地に投げ、発露啼泣し給ひしかば、やうやう霧晴れて、月の出づるがごとくして、大師をがまれ給ひけり。
時に観賢随喜の涙を流いて、御衣を着せ奉る。御髪の長く、おひさせ給ひたりしかば、そり奉るこそめでたけれ。勅使と僧正とはをがみ奉り給へども、僧正の弟子石山の内供淳祐、その時はいまだ童形にて供奉せられたりけるが、大師を拝み奉らずして歎き沈んでおはしけるが、僧正手をとつて、大師の御膝に押しあてられたりければ、その手一期が間かうばしかりけるとかや。その移り香は、石山の聖教に残つて、今にありとぞ承る。
大師、帝の御返事に申させ給ひけるは、「我昔薩埵にあひて、まのあたり尽く印明を伝ふ。無比の誓願をおこして、辺里の異域に侍り。昼夜に万民を憐れんで、普賢の悲願に住す。肉身に三昧を証じて、慈氏の下生を待つ」とぞ申させ給ひける。かの摩訶迦葉の鶏足の洞に籠つて、翅頭の春の風を期し給ふらんもかくやとぞおぼえける。
御入定は、承和二年三月二十一日、寅の一点の事なれば、過ぎにし方は三百余歳、行く末もなほ五十六億七千万歳の後、慈尊出世三会の暁を待たせ給ふらんこそ久しけれ。
「維盛が身のいつとなく雪山の鳥の鳴くらんやうに、今日よ明日よと思ふものを」とて、涙ぐみ給ふぞあはれなる。塩風にくろみ、尽きせぬ物思ひにやせ衰へて、その人とは見え給はねども、なほ世の人にはすぐれ給へり。その夜は滝口入道が庵室に帰つて、夜もすがら昔今の物語をぞし給ひける。
ふけゆくままに、聖が行儀を見給へば、至極甚深の床の上には、真理の玉を磨くらんと見えて、後夜晨朝の鐘の声には、生死の眠りを醒ますらんともおぼえたり。逃れぬべくはかくてもあらまほしうや思はれけん。
明けぬれば、東禅院の智覚上人と申す聖を請じ奉て、出家せんとし給ひけるが、与三兵衛、石童丸を召して宣ひけるは、「維盛こそ人知れぬ思ひを身にそへながら、道せばう遁れ難き身なれば、空しうなるとも、この頃は世にある人こそ多けれ、汝等はいかなる有様をしても、などか過ぎざるべき。我いかにもならんやうを見はてて、急ぎ都へのぼり、各が身をも助け、且つうは妻子をもはぐくみ、且つうはまた維盛がご後生をもとぶらへかし」と宣へば、二人の者どもさめざめと泣いて、しばしは御返事にも及ばず。
ややあつて、与三兵衛涙を押さへて申しけるは、「重景が父、与三左衛門景康は、平治の逆乱の時、故殿の御供に候ひけるが、二条堀河の辺にて、鎌田兵衛に組んで、悪源太に討たれ候ひぬ。重景もなじかは劣り候ふべき。その時は二歳にまかりなり候ひければ、少しもおぼえ候はず。母には七歳で後れ候ひぬ。
あはれをかくべき親しい者一人も候はざりしかども、故大臣殿、『あはれは我が命にかはりたりしものの子なれば』とて、御前にて、育てられ参らせ、生年九つと申しし時、君の御元服候ひし夜、頭をとりあげられ参らせて、かたじけなく、『盛の字は家の子なれば五代につく。重の字をば松王に』と仰せ候ひて、重景とはつけられ参らせて候ふなり。
父のようで死に候ひけるも我が身の冥加とおぼえ候ふ。随分同隷どもに芳心せられてこそまかり過ぎ候ひしか。さればご臨終の御時も、この世の事をば、思し召し捨てて、一事も仰せ候はざりしかども、重景を御前近う召されて、『あな無慚や、汝は重盛を父が形見と思ひ、重盛は汝を景康が形見と思ひてこそ過ごしつれ。今度の除目に靱負尉になして、おのれが父景康を呼びしやうに召さばやとこそ思ひつるに、空しうなるこそ悲しけれ。相構へて少将殿の御心に違ふな』とこそ仰せ候ひしか。
さればこの日ごろはいかなる事も候はんには、見捨て参らせて落つべきものと思し召さ候ひけるか。御心のうちこそはづかしう候へ。『このごろは世にある人こそ多けれ』と、仰せをかうむり候ふは、当時のごとくは源氏の郎等どもこそ候ふなれ。君の神にも仏にもならせ給ひなん後、楽しみさかえ候ふとも、千年の齢を経るべきか。たとひ万年を保つとも、つひには終はりのなかるべきかは。これに過ぎたる善知識、何事か候ふべき」とて、てづからもとどりきつて、滝口入道にぞそらせける。
石童丸もこれを見て、元結ひぎはより髪を切る。これも八つよりつき奉て、重景にも劣らず、不便にし給ひければ、同じく滝口入道にぞ剃らせけり。これらがかやうに先だつてなるを見給ふにつけても、いとど心細うぞ思し召す。さてもあるべきならねば、「流転三界中、恩愛不能断、棄恩入無為、真実報恩者」と三反唱へ給ひて、つひに剃り下ろし給ひてんげり。
「あはれかはらぬ姿を恋しき者どもに今一度見えもし、見て後かくもならば、思ふ事あらじ」と宣ひけるこそ、罪深けれ。三位の中将も兵衛入道も、同年にて今年は二十七歳なり。石童丸は十八にぞなりにける。
舎人武里を召して、「おのれはとうとうこれより八島へ帰れ。都へは上るべからず。そのゆゑは、終には隠れあるまじければ、まさしうこの有様を聞いては、やがて様をもかへんずらんとおぼゆるぞ。八島へ参つて人々に申さんずるやうはよな、『かつ御覧じ候ひしやうに、大方の世間も物憂きやうに、まかりなり候ひき。よろづあぢきなさも数そひて見え候ひしかば、各にも知られ参らせ候はで、かくなり候ひぬ。西国にて左中将失せぬ。一の谷で備中守討たれ候ひぬ。我さへかくなり候ひぬれば、いかに各頼りなう思し召され候はんずらんと、それのみこそ心苦しう思ひ参らせ候へ。そもそも唐皮といふ鎧、小烏といふ太刀は、平将軍貞盛より当家に伝へて、維盛までは嫡々九代にあひあたる。もし不思議にて、世も立ち直らば、六代に賜ぶべし』と申せ」とこそ宣ひけれ。
舎人武里、「君のいかにもならせおはしまさんやうを見参らせて後こそ、八島へも参り候はめ」と申しければ、さらばとて召し具せらる。滝口入道をも善知識のために具せられけり。山伏修行者のやうにて、高野をばたつて同じき国の内、山東へこそ出でられけれ。
藤代の王子を初めとして、王子王子をふし拝み、参り給ふほどに、千里の浜の北、岩代の王子の御前にて、狩装束したる者七八騎がほどゆきあひ奉る。
すでにからめとらんずと思して、各腰の刀に手をかけて、腹を切らんとし給ひけるが、近付きけれども、あやまつべき気色もなくて、急ぎ馬より下り、深うかしこまつて通りければ、「見知りたる者にこそ。誰なるらん」と、あやしくて、いとど足早にさし給ふほどに、これは当国の住人、湯浅権守宗重が子に、湯浅七郎兵衛宗光といふ者なり。
郎等ども、「これはいかなる人にて候ふやらん」と申しければ、七郎兵衛、涙をはらはらと流いて、「あら事もかたじけなや。あれこそ小松の大臣殿の御嫡子、三位中将殿よ。八島よりこれまでは、何として遁れさせ給ひたりけるぞや。はや御さまかへさせ給ひてんげり。与三兵衛、石童丸も同じく出家して、御供申したり。近う参つて、見参にも入りたかりつれども、はばかりもぞ思し召すとて通りぬ。あなあはれの御有様や」とて、袖を顔に押し当てて、さめざめと泣きければ、郎等どもも皆涙をぞ流しける。
→【各章検討:熊野参詣】
やうやうさし給ふほどに、日数ふれば、岩田川にもかかり給ひけり。「この川の流れを一度も渡る者は、悪業煩悩無始の罪障消ゆなるものを」と、頼もしうぞ思しける。
本宮に参りつき、証誠殿の御前についゐ給ひつつ、しばらく法施参らせて、御山のやうをながめ給ふに、心も言葉も及ばれず。大悲擁護の霞は、熊野山にたなびき、霊験無双の神明は、音無川に跡をたる。一乗修行の岸には、感応の月くまもなく、六根懺悔の庭には、妄想の露も結ばず。いづれもいづれも頼もしからずといふ事なし。
夜ふけ人しづまつて後、啓白し給ふに、父の大臣のこの御前にて、「命を召して後世を助け給へ」と申されける事までも、思し召し出でてあはれなり。「本地阿弥陀如来にてまします。摂取不捨の本願あやまたず、浄土へ導き給へ」とり申されける。中にもふるさとにとどめ置きし妻子安穏にと祈られけるこそかなしけれ。
うき世を厭ひ、まことの道に入り給へども、妄執はなほ尽きずとおぼえて、あはれなりし事どもなり。
明けぬれば、本宮より船に乗り、新宮へぞ参られける。神倉を拝み給ふに、巌松高く聳えて、嵐妄想の夢を破り、滝水清く流れて、波塵埃の垢をすすぐらんともおぼえたり。明日の社ふし拝み、佐野の松原さし過ぎて、那智の御山に参り給ふ。三重にみなぎり落つる滝の水、数千丈までよぢのぼり、観音の霊像は、岩の上にあらはれて、補陀落山ともいつつべし。霞の底には法華読誦の声聞こゆ。霊鷲山とも申しつべし。
そもそも権現当山に跡を垂れさせましましてよりこの方、我が朝の貴賎上下歩みを運び、頭を傾け掌を合はせて、利生にあづからずといふ事なし。僧侶されば甍を並べ、道俗袖をつらねたり。寛和の夏の頃、花山法皇、十善の帝位を逃れらせ給ひて、九品の浄刹を行はせ給ひけん、御庵室の旧跡には、昔をしのぶと思しくて、老木の桜ぞ咲きにける。
那智ごもりの僧どもの中に、この三位中将を、よくよく見知り奉たると思しくて、同行に語りけるは、「ここなる修行者をいかなる人やらんと思ひたれば、小松の大臣殿の御嫡子、三位中将殿にておはしけるぞや。
あの殿のいまだ四位少将と聞こえし安元の春の頃、法住寺殿にて五十の御賀のありしに、父小松殿は、内大臣の左大将にてまします。伯父宗盛卿は、大納言の右大将にて、階下に着座せられたり。そのほか三位中将知盛、頭中将重衡以下一門の人々、今日を晴れとときめき給ひて、垣代に立ち給ひし中より、この三位中将、桜の花をかざして、青海波を舞うて出でられたりしかば、露に媚びたる花の御姿、風にひるがへる舞の袖、地を照らし、天もかかやくばかりなり。女院より関白殿を御使ひにて、御衣をかけられしかば、父の大臣座をたち、これを給はつて、右の肩にかけ、院を拝し奉り給ふ。面目たぐひ少なうぞ見えし。かたへの殿上人、いかばかりうらやましう思はれけん。
内裏の女房達の中には、『深山木の中の桜梅とこそおぼゆれ』など、いはれ給ひし人ぞかし。ただ今大臣の大将待ちかけ給へる人とこそ見奉りしに、今日はかくやつれ果て給へる御有様、かねては思ひよらざつしをや。うつればかはる世の習ひとはいひながら、あはれなりける御事かな」とて、袖を顔に押し当てて、さめざめと泣きければ、いくらもなみゐたりける那智籠りの僧ども、皆うち衣の袖をぞ濡らしける。
→【各章検討:惟盛入水】
三の御山の参詣、事故なく遂げ給ひしかば、浜の宮と申す皇子の御前より、一葉の舟に棹さして、万里の蒼海に浮かび給ふ。遥かの沖に、山なりの島といふ所あり。それに舟を漕ぎ寄せさせ、岸に上がり、大きなる松の木を削りて、中将銘跡をぞ書きつけらる。
「祖父太政大臣平朝臣清盛公、法名浄海、親父内大臣の左大将重盛公、法名浄蓮、三位中将維盛、法名浄円、年二十七歳、寿永三年三月二十八日、那智の沖にて入水す」と書きつけて、また沖へぞ漕ぎ出で給ふ。思ひきりたる道なれども、今はの時になりぬれば、心細う悲しからずといふ事なし。
頃は三月二十八日の事なれば、海路遥かに澄みわたり、あはれをもよほす類ひなり。ただ大方の春だにも、くれ行く空はもの憂きに、いはんや今日を限りの事なれば、さこそは心細かりけめ。
沖の釣り舟の浪に消え入るやうにおぼゆるが、さすが沈みも果てぬを見給ふにつけても、御身の上とや思しけん。おのが一つら引きつれて、今はとかへる雁がねの、越路をさして鳴き行くも、故郷へことづてせまほしく、蘇武が胡国の恨みまで、思ひ残せるくまもなし。
「さればこは何事ぞ。なほ妄執の尽きぬにこそ」と思し召し返し、西に向かひ手を合はせ、念仏し給ふ心のうちにも、「すでにただ今を限りとは都にはいかでか知るべきなれば、風のたよりのことつても、今や今やとこそ待たんずらめ」と思はれければ、合掌を乱り、念仏をとどめ、聖にむかつて宣ひけるは、「あはれひとのみに、妻子といふものは、持つまじかりけるものかな。この世にてものを思はするのみならず、後世菩提の妨げとなりける口惜しさよ。ただ今も思ひ出づるぞや。かやうの事を心中に残せば、罪深かんなる間懺悔するなり」とぞ宣ひける。
聖もあはれにおぼえけれども、我さへ心弱うてはかなはじと思ひ、涙おしのごひ、さらぬ体にもてないて申しけるは、「まことにさこそは思し召され候ふらめ。高きも賤しきも、恩愛の道は力及ばぬ事なり。中にも夫妻は、一夜の枕をならぶるも、五百生の宿縁と申し候へば、先世の契り浅からず。生者必滅、会者定離はうき世のならひにて候ふなり。末の露、もとの雫のためしあれば、たとひ遅速の不同はありとも、遅れ先立つ御別れ、遂になくてしもや候ふべき。
かの驪山宮の秋の夕べの契りも、遂には心をくだく端となり、甘泉殿の生前の恩も終はりなきにしもあらず。松子、梅生、生涯の恨みあり。等覚、十地猶生死の掟に従ふ。たとひ君長生の楽しみに誇り給ふとも、この御歎きは逃れさせ給ふべからず。
たとひまた百年の齢を保ち給ひふとも、この御恨みはただ同じことと思し召さるべし。
第六天の魔王といふ外道は、欲界の六天を我が物と領じて、中にもこの界の衆生の生死を離るる事を惜しみ、或いは妻となり、或いは夫となつて、これをさまたぐるに、三世の諸仏は、一切衆生を一子のごとくに思し召して、極楽浄土の不退の土にすすめ入れんとし給ふに、妻子といふものが無始曠劫よりこの方、生死に輪廻する絆なるがゆゑに、仏は重ういましめ給ふなり。
さればとて、御心弱う思し召すべからず。源氏の先祖、伊予の入道頼義は、勅命によつて、奥州の夷貞任宗任を攻むとて、十二年が間に人の首を切る事、一万六千人、山野の獣、江河の鱗、その命を断つ事、幾千万といふ数を知らず。されども終焉の時、一念の菩提心を発ししによつて、往生の素懐を遂げたりとこそ承れ。
就中御出家の功徳莫大なれば、先世の罪障皆滅び給ひぬらん。もし人あつて七宝の塔を建てん事、高さ三十三天にいたるとも、一日の出家の功徳には及ぶべからず。
たとひまた百千歳の間、百羅漢を供養したらん功徳も、一日の出家の功徳には及ぶべからずと説かれたり。
罪深かりし頼義も、心のたけきゆゑに、往生をとぐ。させる御罪業ましまさざらんになどか浄土へ参り給はざるべき。その上当山権現は、本地阿弥陀如来にてまします。
始め無三悪趣の願より、終はり得三法忍の願に至るまで、一々の誓願、衆生化度の願ならずといふ事なし。
中にも第十八の願には『設我得仏、十方衆生、至心信楽、欲生我国、乃至十念、若不生者、不取正覚』と説かれたれば、一念十念のたのみあり。ただ深く信じて、ゆめゆめ疑ひをなし給ふべからず。無二の懇念を致して、若しは十反、若しは一反も唱へ給ふものならば、弥陀如来、六十万億那由他恒河沙の御身をつづめ、丈六八尺の御かたちにて、観音勢至、無数の聖衆、化仏菩薩、百重千重に囲繞し、伎楽歌詠して、ただ今極楽の東門を出でて、来迎し給はんずれば、御身こそ蒼海の底に沈むと思しめさるとも、紫雲の上にのぼり給ふべし。成仏得脱して悟りを開き給ひなば、娑婆の故郷にたちかへつて、妻子を導き給はん事、還来穢国度人天、少しも疑ひあるべからず」とて、鐘うち鳴らしてすすめ奉る。
中将、しかるべき善知識かなと思し召し、忽ちに妄念をひるがへして、高声に念仏百反ばかり唱へつつ、南無と唱ふる声ともに、海へぞ入り給ひける。兵衛入道も、石童丸も、同じく御名を唱へつつ、続いて海へぞ入りにける。
→【各章検討:三日平氏】
舎人武里も、同じく入らんとしけるを、聖とりとどめければ、力及ばず。
「いかにうたてくも、御遺言をばたがへ参らせんとはするぞ。下﨟こそなほもうたてけれ。今はただ後世をとぶらひ奉れ」と泣く泣く教訓しけれども、後れ奉る悲しさに、後の御孝養の事もおぼえず、船底にふしまろび、をめき叫びし有様は、昔悉達太子の擅特山へ入らせ給ひし時、車匿舎人が、犍児駒を給はつて、王宮に帰りし悲しみもこれには過ぎじとぞ見えし。
しばしは舟を押しまはして浮きもやあがり給ふと見けれども、三人ともに深く沈んで見え給はず。いつしか経読み念仏して、過去聖霊一仏浄土へと廻向しけるこそあはれなれ。
さるほどに夕日西に傾き、海上も暗くなりければ、名残は尽きせず思へども、空しき舟を漕ぎかへる。と渡る舟の櫂の雫、聖が袖より伝ふ涙、わきていづれも見えざりけり。
聖は高野へ帰りのぼる。武里は泣く泣く八島へ参りけり。
御弟新三位中将殿に、御文取り出だして参らせたりければ、「あな心う。我が頼み奉るほどは、人は思ひ給はざりける口惜しさよ。池の大納言のやうに、頼朝に心を通hして、都へこそおはしたるらめとて、大臣殿も二位殿も、我等に心をおき給ひつるに、されば那智の沖に身を投げてましますごさんなれ。さらば引き具して一所にも沈み給はで、所々にふさん事こそ悲しけれ。御言葉にて仰せらるる事はなかりしか」と問ひ給へば、
「申せと仰せ候ひしは、『西国にて左中将殿失せさせ給ひ候ひぬ。一の谷で備中守殿討たれさせ給ひ候ひぬ。我さへかくなり候ひぬれば、いかに頼りなう思し召され候はんずらんと、それのみこそ御心苦しう思ひ参らせ候へ。』」
唐皮、小烏の事までも、こまごまと申したりければ、「今は我とてもながらふべしともおぼえず」とて、袖を顔に押しあてて、さめざめと泣き給ふぞまことに理とおぼえてあはれなる。故三位中将殿にゆゆしく似給ひたりければ、見る人涙を流しけり。侍どもは、さしつどひて泣くよりほかの事ぞなき。
大臣殿も二位殿も、「この人は池の大納言のやうに頼朝に心を通はして、都へとこそ思ひたれば、さはおはせざりけるものを」とて、今まさらまた歎き悲しみ給ひけり。
四月一日、鎌倉の前兵衛佐頼朝、正下の四位し給ふ。もとは従下の五位にてありしに、五階を越え給ふこそゆゆしけれ。これは木曾左馬頭義仲追討の賞とぞ聞こえし。
同じき三日、崇徳院を神と崇め奉るべしとて、昔御合戦ありし大炊御門が末に社を建てて、宮うつしあり。院の御沙汰にて、内裏には知ろしめされずとぞ聞こえし。
五月四日、池の大納言、関東へ下向。
兵衛佐殿、「御かたをば全くおろかに思ひ奉らせ候はず。ただ故池殿の渡らせ給ふとこそ存じ候へ。故尼御前の御恩をば、大納言殿に報じ奉らん」と度々誓状をもつて申されければ、一門をも引きわかれて、落ちとどまり給ひたりけるが、兵衛佐ばかりこそかうは思はれけれども、自余の源氏どもはいかがあらんずらんと、肝魂を消すよりほかの事なくておはしけるが、鎌倉より「故尼御前を見奉ると存じて、とくとく見参に入り候はん」と申されたりければ、大納言下り給ひけり。
弥平兵衛宗清といふ侍あり。相伝専一の者なりけるが、相具しても下らず。
「いかに」と問ひ給へば、「今度の御供はつかまつらじと存じ候ふ。その故は、君こそかくて渡らせ給へども、御一家の公達の、西海の波の上にただよはせ給ふ御事の心苦憂くおぼえて、いまだ安堵しても存じ候はねば、心少しおとしすゑて、おつさまに参り候ふべし」とぞ申しける。
大納言、苦々しう、はづかしう思ひ給ひて、「一門を引き別れて残りとどまつたる事は、我が身ながらいみじとは思はねども、さすが身も捨てがたう、命も惜しければ、なまじひにとどまりにき。その上はまた下らざるべきにもあらず。はるかの旅に赴くに、いかでか見送らであるべき。うけず思はば、落ちとどまつし時はなどさはいはざつしぞ。大小事一向汝にこそ言ひあはせしか」と宣へば、
宗清居直りかしこまつて申しけるは、「高きも賤しきも、人の身に命ばかり惜しきものや候ふ。また世をば捨つれども、身をば捨てずとこそ申し候ふめり。御とどまりをあしとには候はず。兵衛佐もかひなき命を助けられ参らせて候へばこそ、今日はかかる幸ひにもあひ候へ。流罪せられ候ひし時は、故尼御前の仰せにて、篠原の宿まで打ち送つて候ひき。『その事など今に忘れず』と承り候へば、定めて御ともにまかり下りて候はば、引き出物、饗応などもし候はんずらん。
それにつけても、心うかるべう候ふ。西国に渡らせ給ふ公達、もしは侍どもの帰り聞かん事、返す返すはづかしう候へば、まげて今度ばかりとどまるべう候ふ。君は落ちとどまらせ給ひて、かくて渡らせ給ふほどではなどか御下りなうても候ふべき。はるかの旅におもむかせ給ふ事は、まことにおぼつかなう、思ひ参らせ候へども、敵を攻めに御下り候はば、一陣にこそ候ふべけれども、これは参らずとも、さらに御事かけ候ふまじ。兵衛佐、たづね申され候はば、『あひいたはる事あつて』と仰せ候ふべし」と申しければ、心ある侍どもはこれを聞いて皆涙をぞ流しける。
大納言もさすがにはづかしうは思はれけれども、さればとてとどまるべきにもあらねば、やがてたち給ひぬ。
同じき十六日、鎌倉へ下り着き給ふ。
兵衛佐急ぎ見参して、まづ、「宗清は御ともして候ふか」と申されければ、「折節いたはる事候ひて、下り候はず」と宣へば、「いかに、何をいたはり候ひけるやらん。意趣を存じ候ふにこそ。昔、宗清がもとに候ひしに、事に触れて有り難うあたり候ひし事、今に忘れ候はねば、定めて御ともにまかり下り候はんずらん。とく見参せばやなど恋しう存じて候ふに、うらめしうも下り候はぬものかな」とて、下文あまたなしまうけ、馬鞍、物の具以下やうやうの物ども賜ばんとせられければ、しかるべき大名ども、我も我もと引き出物ども用意したりけるに、下らざりければ、上下本意なき事に思ひてぞありける。
六月九日、池の大納言、関東より上洛し給ふ。兵衛佐殿、「しばらくかくておはしませ」と申されけれども、「都におぼつかなく思ふらん」とて、急ぎ上り給ひければ、庄園私領一所も相違あるべからず、ならびに大納言になしかへさるべき由法皇へ申されけり。
鞍置馬三十匹、裸馬三十匹、長持三十枝に、羽、金、染物、巻絹風情の物を入れて奉り給ふ。兵衛佐かやうにもてなし給へば、大名小名、我も我もと引き出物を奉る。馬だにも三百匹に及べり。命生き給ふのみならず、徳ついてぞ帰り上られける。
同じき十八日、肥後守貞能が伯父、平田入道定次を大将として、伊賀、伊勢両国の住人等、近江国へうち出でたりければ、源氏の末葉等発向して、合戦をいたす。両国の住人等一人も残さず討ち落とさる。平家重代相伝の家人にて昔のよしみを忘れぬ事はあはれなれども、思ひ立つこそおほけなけれ。三日平氏とはこれなり。
さるほどに、小松の三位の中将維盛の卿の北の方は、風の便りの言伝も、絶えて久しくなりければ、何となりぬる事やらんと、心苦しうぞ思はれける。月に一度などは必ずおとづるるものをと待ち給へども、春過ぎ夏もたけぬ。
「三位中将、今は八島にもおはせぬものを」と申す人ありと聞き給ひて、あまりのおぼつかなさに、とかくして、八島へ人を奉り給ひたりければ、急ぎもたち帰らず。夏過ぎ秋にもなりぬ。
七月の末に、かの使ひ帰り来たれり。北の方、「さていかにやいかに」と問ひ給へば、「『過ぎ候ひし三月十五日の暁、八島を御出で候うて高野へ参らせ給ひて候ひけるが、高野にて御髪おろし、それより熊野へ参らせおはしまし、後世の事をよくよく申させ給ひ、那智の沖にて、御身を投げさせ給ひて候ふ』とこそ、御供申したりしける舎人武里は語り申し候ひつれ」と申しければ、北の方、「さればこそ、あやしと思ひつるものを」とて、引きかづいてぞふし給ふ。若君姫君も、声々に泣き悲しみ給ひけり。
若君の御乳母の女房、泣く泣く申しけるは、「これは今さら驚かせ給ふべからず。日ごろより思しめしまうけたる御事なり。本三位中将殿のやうに、生け捕りにせられて、都へかへらせ給ひたらば、いかばかり心うかるべきに、高野にて御髪おろし、熊野へ参らせ給ひ、後世の事よくよく申させおはしまし、臨終正念にて、失せさせ給ひける御事、歎きの中の御喜びなり。されば御心やすき事にこそ、思し召すべけれ。今はいかなる岩木のはざまにても、幼き人々をおほしたて参らせんと思し召せ」と、やうやうに慰め申しけれども、思し召し忍びてながらふべしとも見え給はず。
やがて様をかへ、かたのごとくの仏事を営み、後世をぞとぶらひ給ひける。
これを鎌倉の兵衛佐かへり聞き給ひて、「あはれへだてなくうち向かひておはしたらば、命ばかりは助け奉てまし。小松の内府のことは、おろかに思ひ奉らず。池の禅尼の使ひとして、頼朝流罪に申しなだめられしは、ひとへにかの内府の芳恩なり。その恩いかでか忘るべきなれば、子息達もおろそかに思はず。まして出家などせられなん上は、仔細にや及ぶべき」とぞ宣ひける。
→【各章検討:藤戸】
さるほどに、平家は讃岐の八島へわたり給ひて後は、東国より新手の軍兵数万騎、都について、攻め下るとも聞こゆ。また鎮西より臼杵、戸次、松浦党同心して、押し渡るとも申し合へり。かれを聞きこれを聞くにもただ耳を驚かし、肝魂を消すよりほかの事ぞなき。
今度一の谷にて、一門の人々残り少なく討たれ給ひ、むねとの侍どもなかば過ぎて滅びぬ。今は力尽き果てて、阿波民部大夫重能が兄弟、四国の者ども語らひて、さりともと申しけるをぞ、高き山深き海とも頼み給ひける。女房たちはさしつどひてただ泣くよりほかの事ぞなき。
かくて七月二十五日にもなりぬ。
「去年の今日は、都を出でしぞかし。ほどなくめぐり来にけり」とて、あさましうあわただしかりし事ども、宣ひ出だして泣きぬ笑ひぬぞし給ひける。
同じき二十八日、新帝の御即位あり。内侍所、神璽、宝剣もなくして、御即位の例、神武天皇よりこの方八十二代、これ始めとぞ承る。
八月六日、蒲冠者範頼、三河守になる。九郎冠者義経、左衛門尉になる。すなはち使ひの宣旨をかうぶつて、九郎判官とぞ申しける。
さるほどに、荻の上風もやうやう身にしみ、萩の下露もいよいよしげく、恨むる虫の声々、稲葉うちそよぎ、物思はざらんだにも、ふけゆく秋の旅の空はかなしかるべし。まして平家の人々の心のうち、さこそはおはしけめと、推し量られてあはれなり。昔は九重の雲のうちにて、春の花をもてあそび、今は八島の浦にして、秋の月にかなしむ。およそさやけき月を詠じても、都の今宵いかならんと思ひやり、心をすまし、涙を流してぞ明かし暮らし給ひける。
左馬頭行盛かうぞ思ひ続け給ふ。
♪91
君すめば ここも雲居の 月なれど
なほ恋しきは 都なりけり
同じき九月十二日、三河守範頼、平家追討のために、西国へ発向す。相伴ふ人々、足利蔵人義兼鏡美小次郎長清、北条小四郎義時、斎院次官親義、侍大将には、土肥次郎実平、子息の弥太郎遠平、三浦介義澄、子息の平六義村、畠山庄司次郎重忠、同じき長野三郎重清、稲毛三郎重成、榛谷四郎重朝、同じき五郎行重、小山小四郎朝政、同じき長沼五郎宗政、土屋三郎宗遠、佐佐木三郎盛綱、八田四郎武者朝家、安西三郎秋益、大胡三郎実秀、天野藤内遠景、比気藤内知宗、同じき藤四郎義員、中条藤次家長、一品房章玄、土佐房昌俊、これらを初めとして、都合その勢三万余騎、都をたつて播磨の室にぞ着きにける。
平家の方には、大将軍小松の新三位中将資盛、同じき少将有盛、丹後侍従忠房、侍大将には、飛騨三郎左衛門景経、越中次郎兵衛盛嗣、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清をさきとして、五百余艘の兵船にとり乗つて、備前の小島に着くと聞こえしかば、源氏室をたつて、これも備前国西川尻、藤戸に陣をぞとつたりける。
源平の陣のあはひ、海の面五町ばかりを隔てたり。船なくしてはたやすう渡すべきやうなかりければ、源氏の大勢向かひの山に宿して、いたづらに日数をぞおくりける。平家の方よりはやり男の若者ども、小舟に乗つて漕ぎ出ださせ、扇をあげて、「ここ渡せ」とぞ招きける。
源氏、「やすからぬ事なり。いかがせん」といふ所に、同じき二十五日の夜に入つて、佐佐木三郎盛綱、浦の男を一人語らつて、白い小袖、大口、白鞘巻などとらせ、すかし仰せて、「この海に馬にて渡しぬべき所やある」と問ひければ、男申しけるは、「浦の者ども多う候へども、案内知つたるはまれに候ふ。この男こそよく存じて候へ。たとへば川の瀬のやうなる所の候ふが、月がしらには東に候ふ。月後には西に候ふ。両方の瀬のあはひ、海の面十町ばかりは候ふらん。この瀬は御馬にては、たやすう渡させ給ひふべし」と申しければ、佐佐木なのめならず喜んで、我が家の子郎等にも知らせず、かの男とただ二人紛れ出で、裸になり、件の瀬のやうなる所を渡つてみるに、げにもいたく深うはなかりけり。膝、腰、肩にたつ所もあり、鬢の濡るる所もあり、深き所を泳いで、浅き所に泳ぎつく。
男申しけるは、「この南は北より遥かに浅う候ふ。敵矢先を揃へて待ち参つ所に、裸にてはいかにもかなはせ給ふまじ。かへらせ給へ」と申しければ、佐佐木、げにもとてかへりけるが、「下﨟は、どこともなきものなれば、また人に語らはれて案内をも教へんずらん。我ばかりこそ知らめ」とて、かの男を刺し殺し、首かききつて捨ててんげり。
同じき二十六日の辰の刻ばかり、平家また小舟に乗つて漕ぎ出ださせ、「ここを渡せ」とぞ招きける。佐佐木三郎案内はかねて知つたり、滋目結の直垂に、黒糸縅の鎧着て、白葦毛なる馬に乗り、家の子郎等七騎、ざつとうち入つて渡しけり。大将軍三河守、「あれ制せよ、とどめよ」と宣へば、土肥次郎実平、鞭鐙を合はせて追つ着いて、「いかに佐佐木殿、物のついて狂ひ給ふか。大将軍の許されもなきに、狼藉なり。とどまり給へ」と言ひけれども、耳にも聞き入れず渡しければ、土肥次郎も制しかねて、やがてつれてぞ渡いたる。
馬の草脇、むながいづくし、太腹につく所もあり、鞍壺越す所もあり。深き所は泳がせて、浅き所に打ち上がる。大将軍三河守これを見て、「佐佐木にたばかられにけり。浅かりけるぞや。渡せや渡せ」と下知せられければ、三万余騎の大勢みなうちいれて渡しけり。
平家の方には、あはやとて、船ども押し浮かべ、矢先を揃へて、さしつめ引きつめ散々に射る。源氏の兵ども、これを事ともせず、甲の錣を傾け、平家の船に乗り移り乗り移り、をめき叫んで攻め戦ふ。源平乱れあひ、或いは船ふみ沈めて死ぬる者もあり。或いは船ひきかへされてあわてふためく者もあり。
一日戦ひ暮らして夜に入りければ、平家の船は沖に浮かぶ。源氏は小島に打ちあがつて、人馬の息をぞ休めける。平家は八島へ漕ぎ退く。
源氏心はたけく思へども、船なかりければ、追うても攻め戦はず。「昔より今に至るまで、馬にて川を渡す兵はありといへども、馬にて海を渡す事、天竺、震旦は知らず、我が朝には希代のためしなり」とて、備前の小島を佐佐木にぞ賜はりける。鎌倉殿の御教書にも載せられける。
→【各章検討:大嘗会之沙汰】
同じき二十七日、都には九郎判官義経、検非違使五位尉になされて、九郎大夫判官とぞ申しける。
さるほどに十月にもなりぬ。八島には浦吹く風もはげしく、磯うつ波も高かりければ、兵も攻め来たらず。商客の行きかふも稀なれば、都のつても聞かまほしく、いつしか空かき曇り、霰うち散り、いとど消え入る心地ぞし給ひける。
都には大嘗会あるべしとて、御禊の行幸ありけり。節下は徳大寺左大将実定公、その頃内大臣にておはしけるがつとめられけり。一昨年、先帝の御禊の行幸には、平家の内大臣宗盛公つとめらる。節下の幄屋につき、前に竜の旗たててゐ給ひたりし気色、冠ぎは、袖のかかり、表袴の裾までもことにすぐれて見え給へり。
そのほか一門の人々三位中将維盛、頭中将重衡以下、近衛司、御綱に候はれしには、また立ち並ぶ人もなかりしぞかし。今日九郎判官、先陣に供奉す。木曾などには似ず、もつてのほかに京はなれてはありしかども、平家の中のえりくづよりもなほ劣れり。
同じき十一月十八日、大嘗会とげ行はる。
去んぬる治承、養和の頃より、諸国七道の人民百姓等、源氏のために悩まされ、平家のために滅ぼされ、家、竈を捨てて、春は東作の思ひを忘れ、秋は西収のいとなみにも及ばず。いかにしてかやうの大礼も行はるべきなれども、さてしもあるべき事ならねば、形のごとくぞ遂げられける。
三河守範頼、やがて続いて攻め給はば、平家は滅ぶべかりしに、室、高砂にやすらひて、遊君、遊女ども召し集め、遊びたはぶれてのみ月日を送られけり。東国の大名小名多しといへども、大将軍の下知に従ふ事なれば力及ばず。ただ国のつひえ、民のわづらひのみあつて、今年もすでに暮れにけり。
→【概要:巻第十一】
→【各章検討:逆櫓】
元暦二年正月十日、九郎大夫判官義経、院参して大蔵卿泰経朝臣をもつて奏聞せられけるは、「平家は神明にも放たれ奉り、君にも捨てられ参らせて、帝都を出で、浪の上にただよふ落人となれり。しかるをこの三が年が間、攻めせめ落とさずして、多く国々をふさげられぬる事口惜しく候へば、今度義経においては、鬼界、高麗、天竺、震旦までも、平家を攻め落とさざらん間は、王城へ帰るべからざる」よし、奏聞せられたりければ、法皇大きに御感あつて、「相構へて夜を日についで、勝負を決すべき」と仰せ下さる。
判官宿所に帰つて、東国の侍どもに向かつて宣ひけるは、「今度義経院宣を承り、鎌倉殿の御代官として、平家攻め滅ぼすべし。陸は駒の足のかよはんを限り、海は櫓櫂のたたん所まで、攻めゆくべし。少しも仔細を存ぜん人々は、これより鎌倉へとうとう帰らるべし」とこそ宣ひけれ。
さるほどに、八島には、隙ゆく駒の足はやくして、正月も立ち、二月にもなりぬ。春の草暮れて、秋の風におどろき、秋の風やんで、また春の草にもなれり。送り迎へて、すでに三年になりにけり。
さるほどに、平家讃岐の八島へ渡り給ひて後も、東国より新手の軍兵数万騎、都について攻め下るとも聞こゆ。また鎮西より、臼杵、戸次、松浦党同心して押し渡るとも聞こえけり。かれを聞きこれを聞くにも、ただ耳をおどろかし、肝魂を消すよりほかの事ぞなき。
女房達には、女院、北政所、二位殿以下の女房達よりあひ給ひて、「我が方様に、いかなる憂き目をか見んずらん、いかなる憂き事をか聞かんずらん」と嘆き合ひ、悲しみ合はれけり。
新中納言知盛卿の宣ひけるは、「東国北国の凶徒等も、随分重恩をかうぶりたりしかども、恩を忘れ、契りを変じて、頼朝、義仲等に従ひき。西国とても、さこそはあらんずらめと思ひしかば、ただ都のうちにて、いかにもならせ給へ、とさしも申しつるものを。我が身一つの事ならねば、心弱くあくがれ出でて、今日はかかる憂き目を見る口惜しさよ」とぞ宣ひける。まことに理とおぼえてあはれなり。
さるほどに二月三日、九郎大夫判官義経、都をたつて、摂津国渡辺より船ぞろへして、八島へすでに寄せんとす。兄の三河守範頼も、同じ日に都をたつて、これも摂津国神崎にて、兵船を揃へて、山陽道へ赴かんとす。
同じ十日、伊勢、石清水へ官幣使を立てらる。これは主上ならびに三種の神器、事故なう都へ帰り入らせ奉るべきよし、神祇官の官人、諸々の社司、本宮、本社にて祈誓申すべきよし仰せ下さる。
同じき十六日、渡辺、福島所所に揃へたりける船どもの、纜すでに解かんとす。折節北風木を折つて、はげしう吹きければ、船どもみな打ち損ぜられて出だすに及ばず。その日は修理のために留まりぬ。
渡辺には東国の大名小名寄り合ひて、船戦のやうはいまだ調練せず。いかがすべきと評定す。
梶原申しけるは、「今度の合戦には、船に逆櫓を立て候はばや」。
判官、「逆櫓とはなんぞ」。
梶原、「馬は駆けんと思へば駆け、引かんと思へば引き、弓手へも馬手へもまはしやすう候ふ。船はさやうの時、きつと押しまはすが大事に候へば、舳艫に櫓を立て違へ、わい梶を入れて、どなたへも安う押しまはすやうにし候はばや」と申したりければ、
判官、「まづ門出の悪しさよ。戦にはひと引きも引かじと思ふだに、あはひ悪しければ、引くは常のならひなり。ましてさやうに逃げまうけしたらんに、なじかはよかるべき。殿ばらの船には、逆櫓をもたてうとも、かへさま櫓をたてうとも、百丁千丁もたて給へ。義経はただ元の櫓にて候はん」と宣へば、
梶原かさねて申しけるは、「よき大将軍と申すは、駆くべき所をば駆け、引くべき所をば引き、身をまつたうして敵を滅ぼすをもつて、よき大将とはする候ふ。さやうにかたおもむきなるをば、猪武者とて、よきにはせず」と申す。
判官、「猪鹿は知らず、戦はただ平攻めに攻めて、攻め勝つたるぞ心地はよき」と宣へば、東国の大名小名、梶原に恐れて高くは笑はねども、目引き鼻引き、ききめきあへり。その日判官と梶原と、同士戦すでにせんとす。されども戦はなかりけり。
判官、「船どもの修理して、新しうなつたるに、おのおの一種位置瓶して、祝ひ給へ、殿ばら」とて、営む様にて船に兵糧米積み、物の具入れ、馬たてさせて、「船とうつかまつれ」と宣へば、水手梶取りども申しけるは、「順風では候へども、普通には過ぎたる風にて候ふ。沖はさぞ吹いて候ふらん」と申しければ、判官大きに怒つて、
「沖に出でぬる船の風こはければとて留まるべきか。野山の末にて死に、海川に溺れて失するも、みなこれ前世の宿業なり。向かひ風に渡らんといはばこそ、僻事ならめ。順風なるが、少しこはければとて、これほどの御大事に、船つかまつらじとは、いかでか申すぞ。船とうつかまつれ。つかまつらずは、しやつ原いちいちに射殺せ、者ども」と宣へば、
奥州の佐藤三郎兵衛嗣信、同じき四郎兵衛忠信、江田源三、熊井太郎、武蔵房弁慶なんど、片手矢はげて、「御諚であるぞ。船とうつかまつれ。つかまつらずは、しやつ原いちいちに射殺さん」とて、馳せ回る間、水主梶取りども、「射殺さんも同じ事、風こはくば、はせじににも死ねや、者ども」とて、二百余艘が中よりも、ただ五艘出でてぞ走りける。
五艘の船と申すは、まづ判官の船、田代の冠者の船、後藤兵衛父子、金子兄弟、淀江内忠俊とて、船奉行の乗つたる船なりけり。残りの船どもは、梶原に恐るるか、風におづるかして出でざりけり。
判官、「人の出でねばとて、留まるべきにあらず。ただの時は敵も恐れて用心すらん。かかる大風大波に、思ひもよらぬ所へ寄せてこそ、思ふ敵をば討たんずれ」とぞ宣ひける。
判官、「おのおのの船に篝なともいそ。火数あまた見えば、敵も恐れて用心してんず。義経が船を本船として艫舳の篝をまぼれ」とて、夜もすがら渡るほどに、三日に渡る所を、ただ三時ばかりに渡りけり。
二月十六日の丑の刻に、摂津国渡辺、福島を出でて、あくる卯の刻には、阿波の地へこそ吹きつけけれ。
→【各章検討:勝浦】
明けければ、渚には赤旗少々ひらめいたり。
判官、「すは我らがまうけをばしたりけるは。渚近くなつて、馬下ろさんとせば、敵の的になつて射られなんず。渚へ着かざる先に、船ども踏み傾け踏み傾け、馬ども追ひ下ろし追ひ下ろし、船に引き付け引き付け泳がせよ。馬の足立ち、鞍づめ浸るほどにもならば、ひたひたと打ち乗つて駆けよ、者ども」とぞ下知し給ひける。
五艘の船に兵糧米積み、物の具入れたりければ、馬ただ五十余匹ぞ立つたりける。
案のごとく渚近うなりしかば、船ども踏み傾け踏み傾け、馬ども追ひ下ろし追ひ下ろし、船に引き付け引き付け泳がす。馬の足立ち、鞍づめ浸るほどにもなりしかば、ひたひたと打ち乗つて、判官五十余騎、をめいて先を駆け給へば、渚に百騎ばかりひかへたる兵ども、しばしもたまらず、二町ばかりざつと引いてぞのきにける。
判官渚にうつ立つて、馬の息休めておはしけるが、伊勢三郎義盛を召して、「あの勢の中に、さりぬべき者やある。一人具して参れ。尋ぬべき事あり」と宣へば、義盛かしこまり承つて、ただ一騎、百騎ばかりが中へ駆け入り、何とか言ひたりけむ、年の齢四十ばかりなる男の、黒皮縅の鎧着たるを、甲脱がせ、弓の弦はづさせ、具して参りたり。
判官、「あれは何者ぞ」と宣へば、「当国の住人坂西の近藤六親家」と名乗り申す。
判官、「何家にてもあらばあれ、これより八島への案内者に具せんずるぞ。しやつに目なはないそ。物の具な脱がせそ。逃げてゆかば射殺せ、者ども」とぞ下知し給ひける。
判官親家を召して、「ここをば何と言ふぞ」と問ひ給へば、「勝浦候ふ」。
判官笑つて、「色代な」と宣へば、「一定勝つ浦候ふ。下﨟の申しやすいままに、かつらと申し候へども、文字には勝浦と書いて候ふ」と申す。「これ聞き給へ殿ばら、戦しに向かふ義経が、勝浦に着くめでたさよ」とぞ宣ひける。
判官、近藤六を召して、「もしこの辺に平家の後ろ射るべき仁は誰かある」。「阿波の民部重能が弟、桜間介能遠とて候ふ」。
「いざさらば、け散らして通らん」とて、近藤六が勢百騎ばかりが中より、馬や人をすぐつて、三十騎ばかり、我が勢にこそ具せられけれ。
能遠が城に押し寄せて見給へば、三方は沼、一方は堀なり。堀の方より押し寄せ、鬨をどつとぞつくりける。
城の内の兵ども、矢先を揃へて、さしつめひきつめ散々に射けれども、源氏の兵どもこれを事ともせず、甲の錣をかたぶけ、堀を越し、をめき叫んで攻めければ、能遠かなはじとや思ひけん、家の子郎等どもに防ぎ矢射いさせ、我が身は屈強の馬をもつたりければ、それにうち乗つて、稀有にして落ちにけり。
判官防ぎ矢射ける兵ども、二十余人が首斬りかけ、軍神にまつり、喜びの鬨をつくり、「門出よし」とぞ喜ばれける。
判官、親家を召して、「これより八島へは幾日路ぞ」と問ひ給へば、「二日路で候ふ」と申す。
「当時八島に勢いかほどあるらん」。「千騎には過ぎ候はじ」「など少ない」。「かやうに四国の浦浦島島に五十騎、百騎づつさし置かれて候ふ。その上阿波の民部重能が嫡子田内左衛門尉教能は伊予の河野四郎が召せども参らぬを攻めんとて、三千余騎で伊予へ越えて候」と申す。
「さてはよい隙ごさんなれ。敵の聞かざる先に寄せよや」とて、駆け足になりつつ、あゆませつつ、馳せつ、ひかへつ、阿波と讃岐の境なる、大坂越えといふ山を、夜もすがらこそ越えられけれ。
その夜の夜半ばかりに、判官たて文もつたる男に行き会うたり。
この男夜の事ではあり、敵とは夢にも知らず、味方の兵どもの八島へ参るとや思ひけん、うちとけて物語をぞしたりける。
判官、「これも八島に参るが、案内を知らぬぞ。じんじよせよ」と宣へば、「この男度々参つて、案内よく存じて候ふ」と申す。
判官、「さてその文は、いづくよりいづかたへ参らせらるるぞ」と宣へば、「これは京より女房の、八島の大臣殿へ参らせられ候ふ」。
「何事なるらん」と問ひ給へば、「よも別の事は候はじ。源氏すでに淀川じりに出で浮かびて候へば、それをこそつげ申され候ふらめ」。
判官、「げにさぞあるらん。あの文ばへ」とて、もつたる文を奪ひ取らせ、「しやつからめよ。罪作りに首な斬つそ」とて、山中の木にしばり付けてぞ通られける。
判官さてこの文を開けて見給へば、まことに女房の文と思しくて、「九郎はすすどき男にて候へば、かかる大風大波をもきらはず、寄せ侍りぬとおぼえ候ふ。あひ構へて御勢ども散らさせ給はで、よくよく御用心せさせ給へ」とぞ書かれたる。
判官、「これは義経に、天の与へ給ふ文や。鎌倉殿に見せ申さん」とて、深うをさめてぞおかれける。
あくる十八日、讃岐国引田といふ所に打ち下りて、人馬の息をぞ休めける。それより白鳥、丹生屋、打ち過ぎ打ち過ぎ、八島の城へぞ寄せ給ふ。
判官また親家を召して、「これより八島の館の様は、いかやうなるぞ」と問ひ給へば、「しろしめさねばこそ候へ。むげにあさまに候ふ。塩の干て候ふ時は、陸と島との間は、馬のふとばらもつかり候はず」と申す。
判官、「敵の聞かぬ先に寄せよや」とて、高松の在家に火をかけて、八島の城へ寄せ給ふ。
さるほどに、八島には、阿波の民部重能が嫡子、田内左衛門教能は、伊予の河野四郎が召せども参らぬを攻めんとて、その勢三千余騎にて伊予へ越えたりけるが、河野をば討ちもらしぬ。
家の子郎等百五十人が首取つて、八島の内裏へ参らせたりけるに、「内裏にて、賊首の実検しかるべからず」とて、大臣殿の御宿所にて、首どもの実検しける所に、者ども、「高松の在家より火出できたり」とて、ひしめきけり。
「昼で候へば、手過ちにては候はじ。敵の寄せて火をかけたるとおぼえ候ふ。定めて大勢でぞ候ふらん。とり篭められてはかなひ候ふまじ。とうとう召され候へ」とて、惣門奏聞の前の汀に、着け並べたる船どもに、我先にとぞ乗り給ふ。
御所の御船には、女院、北の政所、二位殿以下の女房達召されけり。
大臣殿父子は、ひとつ船にぞ乗り給ふ。そのほかの人々は、思ひ思ひにとり乗つて、あるひは一町ばかり、あるひは七八段、五六段など、漕ぎ出だしたる所に、源氏の兵ども、ひた甲七八十騎、惣門の前の渚に、つつと出で来たり。
潮干潟の折節、潮干る盛りなりけるに、馬の烏頭、ふと腹に立つ所もあり、それより浅き所もあり。けあぐる潮の霞とともにしぐらうだる中よりも、白旗ざつとさし上げたれば、平家は運尽きて、大勢とこそ見てんげれ。判官敵に小勢と見えじと、五六騎、七八騎、十騎ばかり打ちむれ打ちむれ出で来たり。
→【各章検討:嗣信最期】
判官その日の装束には、赤地の錦の直垂に、紫裾濃の鎧着て、鍬形打つたる甲の緒をしめ、金作りの太刀を帯き、二十四さいたる截生の矢負ひ、滋籐の弓の真中にぎつて、沖の方を睨まへ、大音声をあげて、「一院の御使ひ、検非違使五位の尉源義経」とこそ名乗つたれ。
次に名乗るは、伊豆国の住人、田代の冠者信綱、武蔵国の住人、金子十郎家忠、同じき与一親範、伊勢三郎義盛とぞ名乗つたる。
続いて名乗るは、後藤兵衛実基、子息新兵衛基清、奥州の佐藤三郎兵衛嗣信、同じき四郎兵衛忠信、江田源三、熊井太郎、武蔵房弁慶などいふ一人当千の兵ども、声々に名乗つて馳せ来たる。
平家の方にはこれを見て、「あれ射取れや、射取れや」とて、あるひは遠矢に射る船もあり、あるひは指矢に射る船もあり。源氏の方の兵ども、これを事ともせず、弓手になしては、射て通り、馬手になしては射て通る。あげおいたる船どもの陰を、馬やすめ所にして、をめき叫んで攻め戦ふ。
後藤兵衛実基は、ふる兵にてありければ、磯の戦をばせず、まづ内裏に乱れ入り、てんでに火を放ちて、片時の煙と焼き払ふ。
大臣殿、侍どもに、「源氏が勢はいかほどあるぞ」と問ひ給へば、「よも七八十騎には過ぎ候はじ」。
「あな心憂、髪の筋を一筋づつ分けて取るとも、この勢にはたるまじかりつるものを。中に取りこめて討たずして、あわてて船にのつて、内裏を焼かせぬることこそ安からね。能登殿はおはせぬか。陸に上がつて、一戦し給へかし」と宣へば、
「承り候ふ」とて、越中次郎兵衛盛嗣を先として、五百余人、小舟どもに取り乗つて、焼き払ひたる惣門の前の渚に押し寄せて陣をとる。判官八十余騎、矢ごろに寄せて控へたり。
越中次郎兵衛、船の屋形に立ち出で、大音声をあげて、「そもそも先に名乗り給へるとは聞きつれども、海上はるかに隔たつて、その仮名実名分明ならず。今日の源氏の大将軍は、誰人にてましますぞ。名乗り給へや」と言ひければ、伊勢三郎あゆませ出でて、「あな事もおろかや。清和天皇より十代の御末、鎌倉殿の御弟、九郎大夫の判官殿ぞかし」。
盛嗣聞いて、「さる事あり。一年平治の合戦に打ち負け、父討たれて後、みなし子にてありしが、鞍馬の児し、後には金商人の所従となり、糧料背負うて、奥州の方へ落ちまどひし、その小冠者が事か」とぞ言ひける。
義盛、「舌のやはらかなるままに、君の御事な申しそ。さ言ふわ人どもこそ砺波山の合戦に打ち負け、北陸道にさまよひ、からき命生きつつ、乞食して上つたりし人か」とぞ言ひける。
盛嗣重ねて、「君の御恩にあきみちて、何の不足さに乞食をばすべき。さ言ふわ人どもこそ、伊勢国鈴鹿山にて山だちし、我が身も過ぎ、所従をも過ごすとは聞きしか」と言ひければ、
金子十郎家忠進み出で、「詮ない殿ばらの雑言かな。我も人も空言言ひ付けて雑言せんに、誰かはおとるべき。去年の春、摂津国一の谷にて、武蔵、相模の若殿ばらの手並みのほどをば見てんものを」といふ所に、弟の与一親範、そばにありけるが、いはせもはてず、十二束二伏、よつぴいてひやうど放つ。越中次郎兵衛が鎧の胸板にうらかくほどにぞ立つたりける。さてこそ互ひの詞戦ひはやみにけれ。
能登殿、「ふな戦は様あるものぞ」とて、鎧直垂をば着給はず、唐巻染の小袖に、唐綾縅の鎧着て、いか物作りの太刀を帯き、二十四さいたるたかうすべうの矢負ひ、滋籐の弓を持ち給へり。
王城一の強弓精兵にておはしければ、矢先にまはる者、射通といふ事なし。中にも源氏の大将軍九郎義経を、ただ一矢に射落とさんと狙はれけれども、源氏の方にも先に心得て、奥州の佐藤三郎兵衛嗣信、同じき四郎兵衛忠信、江田源三、熊井太郎、武蔵房弁慶などいふ一人当千の兵ども、馬の頭を一面に立て並べ、大将軍の矢面に馳せふさがりければ、能登殿も力及び給はず。
能登殿、「そこのき候へ、矢面の雑人ばら」とて、さしつめひきつめ散々に射給へば、やにはに鎧武者十騎ばかり射落とさる。中にも真つ先に進んだる奥州の佐藤三郎兵衛嗣信が弓手の肩より馬手の脇へ、つと射抜かれ、しばしもたまらず馬よりさかさまにどうど落つ。
能登殿の童に、菊王丸といふ大力の剛の者、萌黄縅の腹巻に、三枚甲の緒をしめ、打物の鞘をはづし、三郎兵衛が首を取らんと走りかかる。弟の四郎兵衛忠信そばにありけるが、兄が首を取らせじと、よつぴいてひやうど放つ。菊王丸が草摺のはづれを、あなたへつと射抜かれて、犬居に倒れぬ。能登殿これを見給ひて、左の手には弓を持ちながら、右の手にて菊王丸をとつて、船へからりと投げられたり。敵に首はとられねども、痛手なれば死ににけり。
この童と申すは、越前の三位通盛卿の童なり。しかるを三位討たれて後、弟の能登守にぞつかはれける。生年十八歳とぞ聞こえし。能登殿この童を射させてあまりに哀れに思はれければ、その後は戦をもし給はず。
判官は、奥州の佐藤三郎兵衛を陣の後ろへかき入れさせ、急ぎ馬よりとんで下り、手を取つて、「いかがおぼゆる」。三郎兵衛、息の下にて申しけるは、「今はかうにおぼえ候ふ」。
「思ひ置く事はなきか」と宣へば、「別に何事をか思ひ置き候ふべき。さは候へども、君の御世にわたらせ給はんを見参らせずして、死に候ふこそ心にかかり候へ。さ候はでは、弓矢取りの敵の矢に当たつて死なむ事、もとより期する所で候ふ。なかんづく『源平の御合戦に、奥州の佐藤三郎兵衛嗣信といひけん者、主の命に代つて、讃岐国八島の磯にて射られにき』と、末代までの物語に申されんこそ、弓矢取る身には今生の面目、冥土の思ひ出なるべし」とて、ただ弱りにぞ弱りける。
判官も、鎧の袖を顔に押し当てて、さめざめとぞ泣かれける。
ややあつて、「このほどに貴き僧やある」とて、一人尋ね出だされたり。「ただ今死ぬる手負ひに一日経書いて弔ひ給へ」とて、黒馬のふとうたくましきに、よい鞍置いて、かの僧にぞたびにける。
この馬は、判官五位尉になられし時、これをも五位になして、大夫黒と呼ばれし馬なり。一の谷の後、ひよどり越えをも、この馬にてぞ落とされける。弟の四郎兵衛をはじめて、これを見る侍ども、みな涙を流して、「この君の御ために命を失はん事、まつたく露塵ほども惜しからず」とぞ申しける。
→【各章検討:那須与一】
さる程に、阿波、讃岐に平家を背いて、源氏を待ちける兵ども、あそこの嶺、ここの洞より十四五騎、二十騎ばかり馳せ来るほどに、判官程なく三百余騎にぞなりにける。
「今日は日暮れぬ。勝負を決すべからず。」とて、引き退くところに、沖より尋常に飾つたる小船を一艘、汀へ向いて漕ぎ寄せけり。渚より七八段ばかりになりしかば、舟を横様になす。
「あれはいかに。」と見る所に、船の中より年の齢十八九ばかりなる女房の、柳の五衣に、紅の袴着たるが、皆紅の扇の日出だしたるを、船のせがひにはさみ立てて、渚へ向かつてぞ招きける。
判官、後藤兵衛実基を召して、「あれはいかに。」と宣へば、「射よとにこそ候ふめれ。ただし大将軍矢面に進んで傾城を御覧ぜられん所を、手だれに狙うて射落とせとのはかりごととおぼえ候ふ。さは候へども、扇をば射させれるべうや候ふらん。」と申しければ、判官、「味方に射つべき仁は誰かある。」「上手多う候ふ中に、下野国の住人、那須太郎資高が子に、与一宗高こそ小兵で候へども、手利きで候へ。」
「証拠はいかに。」と宣へば、「かけ鳥などを争うて三つに二つは必ず射落とし候ふ。」と申す。
「さらばよべ。」とて召されけり。
与一その頃はいまだ二十歳ばかりの男なり。赤地の錦をもつて、衽、袪いろへたる直垂に、萌黄にほひの鎧着て、足白の太刀を帯き、二十四さいたる切斑の矢負ひ、うす切斑に鷹の羽わり合はせてはいだりける、ぬための鏑をぞ差し添へたる。滋籐の弓脇にはさみ、甲をば脱いで高紐にかけ、判官の御前にかしこまる。
「いかに宗高、あの扇を真中射、敵に見物させよかし。」「つかまつらうとも存じ候はず。これを射損じ候ふほどならば、ながき味方の弓矢の御きずにて候ふべし。一定つかまつらんずる仁に、仰せ付けらるべうや候ふらん。」と申しければ、判官大きに怒つて、「鎌倉を立つて、西国へ向かはん人々は義経が命を背くべからず。少しも仔細を存ぜん人々はこれよりとうとう鎌倉へ帰らるべし。」とこそ宣ひけれ。
与一重ねて辞せば悪しかりなんとや思ひけむ、「御諚で候へば、はづれんをば知り候はず。つかまつてこそ見候はめ」とて、御前をまかり立つ。黒馬の太うたくましきに、まろぼやすつたる金覆輪の鞍置いてぞ乗つたりける。弓取り直し、手綱かいくつて、汀へ向いてぞ歩ませる。
御方のつはものども、与一が後ろをはるかに見送つて、「一定この若者仕らんとおぼえ候ふ。」と申しければ、判官もよに頼もしげにぞ見給ひける。
矢ごろ少し遠かりければ、海の中一段ばかり打ち入れたりけれども、扇のあはひなほ七段ばかりはあるらむとこそ見えたりけれ。
頃は二月十八日、酉の刻ばかりの事なるに、折節北風はげしくて、磯うつ波も高かりけり。船はゆり上げゆり据ゑただよへば、扇も串に定まらずひらめいたり。沖には平家、船を一面に並べて見物す。渚には源氏、轡を並べてこれを見る。いづれもいづれも晴れならずといふ事なし。
与一目をふさいで、「南無八幡大菩薩、別しては我が国の神明、日光権現、宇都宮、那須湯泉大明神、願はくはあの扇の真中射させてたばせ給へ。これを射損ずるほどならば、弓切り折り自害して、人に二度面を向かふべからず。今一度本国へ向かへんと思し召さば、この矢はづさせ給ふな。」と心の内に祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱つて、扇も射よげにぞなつたりける。
与一鏑を取つてつがひ、よつぴいてひやうど放つ。小兵といふぢやう、十二束三伏、弓は強し、鏑は浦響くほどに長鳴りして、あやまたず扇の要際一寸ばかりを射て、ひふつとぞ射切つたる。鏑は海へ入りければ、扇は空へぞ上がりける。春風に一もみ二もみもまれて、海へさつとぞ散つたりける。
皆紅の扇の日出だしたるが、夕日の輝いたるに、白波の上にただよひ、浮きぬ沈みぬ揺られければ、沖には平家、舷を叩いて感じたり、陸には源氏、箙を叩いてどよめきけり。
→【各章検討:弓流】
感に堪へずとおぼしくて、平家の方より、年の齢五十ばかりなる男の、黒皮縅の鎧着たりけるが、白柄の長刀もつて、扇たてたる所に立つて、舞ひ始めたり。
伊勢三郎義盛、与一が後ろに歩ませよつて、「御諚であるぞ。つかまつれ」と言ひければ、今度ははなかざしとつてつがひ、よつぴいて真つただ中をひやうばと射て、船底へさかさまに射倒す。
「あ射たり」と言ふ者もあり、「いやいや情なし」と言ふ者もありけり。今度は平家の方には、音もせず、源氏の方はまた箙を叩いてどよめきけり。
平家これを本意なしとや思ひけん、弓持つて一人、楯ついて一人、長刀もつて一人、武者三人渚にあがり、「ここを寄せよや」とぞ招きたる。判官、「馬強ならん若党ども、馳せ寄つて蹴散らせ」と宣へば、武蔵国の住人、三保谷四郎、同じき藤七、同じき十郎、上野国の住人、丹生四郎、信濃国の住人、木曾中次、五騎つれて、をめいてかく。
楯のかげより、塗のに黒ぼろはいだる大の矢をもつて、真つ先に進んだる、三保谷十郎が、馬の左のむながいづくしを、筈の隠るるほどにぞ射こうだる。屏風を返すやうに、馬はどうど倒るれば、主は弓手の足を越え、馬手の方へ下り立つて、やがて太刀をぞ抜いたりける。楯の陰より、大長刀もつたる男一人打ち振つてかかりければ、三保谷十郎、小太刀大長刀にかなはじとや思ひけん、かいふいて逃げければ、やがて続いて追つかけたり。
長刀にてながんずるかと見る所に、さはなくして、長刀をば弓手の脇にかいはさみ、馬手の手をさしのべて、三保谷十郎が甲の錣を掴まんとす。掴まれじと逃ぐる。三度掴みはづいて、四度のたび、むずと掴む。しばしぞたまつて見えし、鉢つけの板より、ふつとひつきつてぞ逃げたりける。
三保谷十郎は、味方の馬のかげに逃げ入つて、いきつぎゐたり。残る四騎は馬を惜しみて駆けず、見物してぞゐたりける。敵は追うても来ず。白柄の長刀杖につき、甲の錣を高く差し上げ、大音声をあげて、「遠からん者は音にも聞き、近からん人は目にも見給へ。これこそ京童部の呼ぶなる、上総悪七兵衛景清よ」と名乗り捨ててぞ帰りける。
平家これに心地をなほし、「悪七兵衛討たすな、続けや、景清討たすな、続け」とて、二百余人渚にあがり、楯をめん鳥羽につき並べ、「ここを寄せよや」とぞ招いたる。
判官、安やすからぬことなりとて、伊勢三郎義盛、奥州の佐藤四郎兵衛忠信を先に立て、後藤兵衛父子、金子兄弟を弓手馬手に立て、田代冠者を後ろに立て、判官八十余騎をめいて先を駆け給へば、平家の方には、馬に乗つたる武者は少し、大略歩武者なりければ、馬に当てられじと、ざつとひき退いて、皆船にぞ乗りにける。
楯は算を散らしたるやうに、散々に駆けなされぬ。源氏の兵ども勝にのつて、馬のふと腹つかるほどに、うち入れうち入れ攻め戦ふ。
船の内より熊手をもつて、判官の甲の錣にからりからりと二三度うち懸けければ、味方の兵ども、太刀長刀の先にて、うち払ひうち払ひ攻め戦ふ。判官いかがはせられけん、弓を懸け落とされぬ。うつむき、鞭をもつて掻き寄せて、取ろう取ろうどし給へば、味方の兵ども、「ただ捨てさせ給へ捨てさせ給へ」と言ひけれども、つひに取つて、笑つてぞ帰られける。
おとなどもつまはじきをして、「あな心憂や。千疋万疋にかへさせ給ふべき御だらしなりとも、御命にはかへさせ給ふべきか」と言ひければ、判官、「弓の惜しさに取らばこそ。義経が弓といはば、二人しても張り、もしは三人しても張り、叔父為朝などが弓のやうならば、わざとも落として取らすべし。尫弱たる弓を、敵の取りもつて、『これこそ源氏の大将軍九郎義経が弓よ』など、嘲弄ぜられん事が口惜しければ、命にかへて取るぞかし」と宣へば、皆またこれを感じけり。
一日戦ひ暮らし、夜に入りければ、平家の船は沖に浮かび、源氏は牟礼、高松の中なる野山に陣をぞ取つたりける。
源氏の兵どもは、この三日が間は寝ざりけり。一昨日渡辺、福島を出でて、大波に揺られまどろまず、昨日阿波国勝浦に着いて戦して、夜もすがら中山越え、今日また一日戦ひ暮らしたりければ、皆疲れはてて、あるひは甲を枕にし、あるひは鎧の袖、箙などを枕にて、前後も知らずぞ臥したりける。
されどもその中に、判官と伊勢三郎は寝ざりけり。判官は高き所にのぼりあがり、敵やよすると遠見してい給へば、伊勢三郎は、くぼき所に隠れゐて、敵寄せば、まづ馬のふと腹射んとて待ちかけたり。
その夜平家の方には、能登殿を大将軍にて、源氏を夜討ちにせんと、支度せられたりしかども、越中次郎兵衛と、海老次郎と先陣を争ふほどに、その夜もむなしく明けにけり。寄せたりせば、源氏なにかあらまし。
寄せざりけるこそ、せめての運の極めなれ。
→【各章検討:志度合戦】
明けければ、平家は当国志度浦へ漕ぎしりぞく。判官八十余騎、志度へ追うてぞかけられける。平家これを見て、「源氏は小勢ぞ。中に取りこめて討てや」とて、千余人渚にあがり、源氏を中に取りこめて、我討つ取らんとぞ進みける。
さるほどに八島に残り留まつたる二百余騎の勢ども、遅れ馳せに馳せ来たる。平家これを見て、「あはや源氏の大勢の続いたるは。取りこめられてはかなふまじ」とて引き退き、皆船にぞ乗りにける。
四国をば九郎判官に攻め落とされぬ。九国へは入れられず。ただ中有の衆生とぞ見えし。潮にひかれ、風にまかせていづちをさるともなく、揺られ行くこそ悲しけれ。
判官志度浦におりゐて、首どもの実検しておはしけるが、伊勢三郎義盛を召して、「阿波民部重能が嫡子、田内左衛門教能、伊予の河野四郎が召せども参らぬを攻めんとて、その勢三千余騎で、伊予へ越したりけるが、河野のをば討ちもらしぬ。家の子郎等百五十人が首取り、昨日八島の内裏へ参らせたるが、今日これへ着くと聞く。汝行き向かつて、こしらへて見よ」と宣へば、かしこまり承つて、旗一流れ賜はつてさすままに、その勢十六騎き、皆白装束に出で立つて、馳せ向かふ。
さるほどに、義盛、教能に行きあうたり。あはひ一町ばかりを隔てて、赤旗白旗うつたてたり。義盛、使者をもつて言ひけるは、「かつ聞こしめしても候ふらん、鎌倉殿の御弟、九郎大夫判官殿と申す人、平家追討のために西国へ御下り候ふ。その御内に、伊勢三郎義盛と申す者にて候ふが、大将に申すべき事あつて、これまでまかり向かつて候ふ。軍合戦の料に候はねば、物の具をもし候はず。弓矢をも帯し候はず。ただあけて入れさせ給へ」と言ひければ、三千余騎の兵ども、皆中をあけてぞ通しける。
義盛、教能にうち並べて言ひけるは、「かつ聞こし召しても候ふらん。鎌倉殿の御弟、九郎大夫判官殿、院宣を承つて平家追討のために西国へ御下り候ふ。その御内に伊勢三郎義盛と申す者にて候ふが、一昨日阿波国勝浦に着いて、御辺の伯父、桜間介殿討ち奉り候ひぬ。昨日八島の内裏に押し寄せて、御所内裏焼き払ひ、主上は海へ入らせ給ひぬ。大臣殿父子をば、生け捕り奉りたり。能登殿は御自害、そのほかの人々は、あるひは御自害、あるひは海へ入らせ給ひて候ふ。余党の少々残つたるをば、今朝志度浦にて皆討ち取り候ひぬ。御辺の父、阿波の民部殿は、降人に参らせ給ひて候ふ。義盛が預かり奉て候ふが、『あなむざんや、田内左衛門がこれをば夢にも知らずして、明日は戦して討たれ参らせんずらんむざんさよ』と、夜もすがら嘆き給ふがいたはしさに、それをば知らせ参らせんがために、まかり向かつて候ふ。この上は、甲を脱ぎ弓の弦をはづいて、降人に参り、父を一度見参らせんとも、また戦して討たれ参らせんとも、ともかくも御辺のはからひぞ」と言ひければ、
田内左衛門、「かつ聞くことに少しもたがはず」とて、甲を脱ぎ弓の弦をはづいて、降人に参る。大将かやうになる上は、三千余騎の兵どもも、皆かくのごとし。義盛がわづか十六騎に具せられて、おめおめと降人にこそなりにけれ。「義盛がはかりごと神妙なり」とぞ感ぜられける。
やがて田内左衛門は、物の具召されて、伊勢三郎に預けらる。「さてあの兵どもはいかに」と宣へば、「遠国の者どもは、誰を誰とか思ひ参らせ候ふべき。ただ世の乱れをしづめて、国をしろしめされんを、君とせん」と申す。判官、「もつともさるべし」とて、三千余騎の兵ども、皆我が勢にぞ具せられける。
さるほどに、渡辺、福島両所に、残り留まつたりける二百余艘の船ども、梶原を先として、同じき二十二日の辰の刻ばかり、八島の磯にぞ着きにける。「四国をば九郎判官に攻め落とされぬ。今は何の用にかあふべき。六日の菖蒲、会に逢はぬ花、いさかひ果ててのちぎり木かな」とぞ笑はれける。
判官都を立ち給ひて後、住吉の神主長盛、都へのぼり、院参して、「去んぬる十六日の丑の刻ばかりに、当社第三の神殿より、鏑矢の声出でて、西を指してまかり候ひぬ」と、申しければ、法皇大きに御感あつて、御剣以下、種種の神宝を、長盛して住吉大明神へ参らせらる。
昔、神功皇后、新羅を攻めさせ給ひし時、伊勢大神宮より二神の荒御前を差しそへさせ給ひけり。二神御船の艫へに立つて、新羅を安う攻めしたがへさせ給ひけり。帰朝の後、一神は摂津国住吉の郡にとどまらせおはします。住吉大明神これなり。今一神は、信濃国諏訪の郡に跡を垂る。諏訪大明神これなり。
「昔の征伐の事を思し召し忘れ給はずして、今も朝の怨敵を滅ぼし給ふべきにや」と、君も臣も頼もしうぞ思し召されける。
→【各章検討:鶏合 壇浦合戦】
さるほどに、判官は周防の地に押し渡つて、兄の三河守とひとつになる。平家は長門国引島にぞ着きにける。源氏は阿波国勝浦に着いて、八島の戦に打ち勝ちぬ。平家引島に着くと聞こえしかば、源氏は同じき国追津に着くこそ不思議なれ。
また紀国の住人、熊野別当湛増は、平家重恩の身なりしが、たちまちに心変はりして、平家へや参るべき、源氏へや参るべきと思ひけるが、田辺の今熊野に七日参篭申し、御神楽を奏し、権現へ祈誓を致す。「ただ白旗につけ」との御託宣ありしかども、なほ疑ひをなし参らせて、赤き鶏七つ、白き鶏七つ、これをもつて権現の御前にて、勝負をせさせけるに、赤き鳥ひとつも勝たず、皆負けてぞ逃げにける。さてこそ源氏へ参らんとは思ひ定めけれ。
一門の者どもあひ催し、都合その勢二千余人、百余艘の兵船に乗りつれて、若王子の御正体を船に乗せ奉り、旗のよこがみには、金剛童子を書き奉て、壇浦へ寄するを見て、源氏も平家もともに拝し奉る。されども源氏に付きければ、平家興さめてぞ思はれける。また伊予国の住人、河野四郎通信も、百五十艘の大船に乗りつれて漕ぎ来たり、これも源氏に付きければ、平家いとど興さめてぞ思はれける。
源氏の勢は重なれば、平家の勢は落ちぞゆく。源氏の船は三千余艘、平家の船は千余艘、唐船少々あひ交じれり。
さるほどに、元暦二年三月二十四日の卯の刻に、豊前国田浦、門司の関、長門国赤間が関、壇浦にて、源平の矢合はせとぞ定めける。
その日判官と梶原と、同士戦すでにせんとす。
梶原申しけるは、「今日の先陣をば、景時にたび候へかし」。判官、「義経がなくばこそ」。梶原、「まさなう候ふ。殿は大将軍にてましまし候ふものを」。判官、「それ思ひもよらず。鎌倉殿こそ大将軍よ。義経は奉行を承つたる身なれば、ただわ殿ばらと同じ事ぞ」とぞ宣へば、梶原、先陣を所望しかねて、「天性この殿は、侍の主にはなりがたし」とぞつぶやきける。
判官、「日本一のをこの者かな」とて、太刀の柄に手をかけ給ふ。梶原、「こはいかに、鎌倉殿よりほか、主はもち奉らぬものを」とて、これも太刀の柄に手をぞかけける。
父が気色を見て、嫡子の源太景季、次男平次景高、同じき三郎景家、父子主従十四五人、打物の鞘をはづいて、父と一所に寄りあうたり。判官のけしきを見奉て、伊勢三郎義盛、奥州の佐藤四郎兵衛忠信、江田源三、熊井太郎、武蔵坊弁慶などいふ一人当千の兵ども、梶原を中に取りこめて、我討つ取らんとぞ進みける。
されども判官には、三浦介取り付き奉り、梶原には、土肥二郎つかみついて、両人手をすつて申しけるは、「これほどの御大事を前に抱へながら、同士戦し候ひなば、平家に勢つき候ひなんず。かつうは鎌倉殿の帰り聞こしめされん所も、穏便ならず」と申しければ、判官しづまり給ひぬ。梶原進むに及ばず。それよりしてぞ、梶原、判官を憎みそめ奉て、讒言してつひに失ひけるとぞ聞こえし。
さるほどに、源平両方陣を合はす。陣のあはひ、海の面わづかに三十余町をぞ隔てたる。
門司、赤間、壇浦は、たぎりて落つる潮なれば、源氏の船は心ならず、潮に向いて押し落とさる。平家の船は、潮に追うてぞ出で来たる。沖は潮のはやければ、汀について、梶原、敵の船の行き違ふを、熊手にかけて引き寄せ、親子主従十四五人、打物の鞘をはづいて、敵の船に乗りうつり乗りうつり、艫へに散々にないでまはり、分捕りあまたして、その日の功名の一の筆にぞ付きにける。
さるほどに、源平両方陣を合はせて、鬨をつくる。上は梵天までも聞こえ、下は堅牢地神も驚き給ふらんとぞ見えし。新中納言知盛卿、船の屋形に立ち出で、大音声をあげて、「天竺、震旦にも、日本我が朝にも並びなき名将勇士といへども、運命尽きぬれば力及ばず。されども名こそ惜しけれ。いつのためにか命をば惜しむべき。少しも退く心あるべからず。これのみぞ思ふこと」と宣へば、飛騨三郎左衛門景経、御前近う候ひけるが、「これ承れ、侍ども」とぞ下知しける。
上総悪七兵衛進み出でて、「坂東武者は、馬の上にてこそ口はきくとも、船戦をばいつ調練し候ふべき。たとへば魚の木にのぼるでこそ候はんずらめ。一々にとつて海につけなんものを」とぞ申しける。
越中次郎兵衛、「同じくは大将の源九郎とくみ給へ。九郎は勢の小さき男の色の白かんなるが、当門歯の少し差し顕れて、ことにしるかんなるぞ。ただし直垂と鎧を常にきかふなれば、きつと見分けがたかんなり」とぞ申したる。
悪七兵衛かさねて、「その小冠者、心こそ猛くとも、何ほどの事かあるべき。片脇にはさんで、海に入りなんものを」とぞ申しける。
新中納言は、かやうに下知し給ひて後、大臣殿の御前におはして、「今日は味方の兵ども、よく見え候ふ。ただし阿波民部重能こそ、心がはりしたるとおぼえ候へ。きやつが頭をはね候はばや」と申されければ、大臣殿、「さしも奉公の者であるものを。させる見いだしたる事もなうて、いかんが左右なう頭をばはねらるべき。重能召せ」と宣へば、阿波民部重能、木蘭地の直垂に、あらひがはの鎧着て、御前にかしこまつて候ふ。
「いかに重能、今日は悪う見ゆる。四国の者どもに、戦ようせよと下知せよかし。いかに臆したるな」と宣へば、「なじかは臆し候ふべき」とて、御前をまかり立つ。新中納言、太刀の柄くだけよと握つて、あはれ重能めが頭をうち落とさばやと思し召して、大臣殿の御方をしきりに見参らさせ給へども、御許されなければ、力及び給はず。
さるほどに平家は千余艘を三手につくる。まづ山鹿兵藤次秀遠、五百余艘で先陣に漕ぎ向かふ。松浦党三百余艘で二陣に続く。平家の公達、二百余艘で三陣に続き給ひけり。山鹿兵藤次秀遠は、九国一の強弓精兵にてありければ、我ほどこそなけれども、普通様の精兵五百人すぐつて、船の艫舳に立て、肩を一面に並べて、五百の矢を一度に放つ。
源氏は三千余艘の船なりければ、勢の数さこそは多かりけめども、あそこここより射ければ、いづくに精兵ありとも見えざりけり。大将軍九郎大夫判官、真つ先に進んで戦ひけるが、楯も鎧もたまらずして、散々に射しらまさる。平家、味方勝ちぬとて、しきりに攻め鼓を打つて、喜びの鬨をぞつくりける。
→【各章検討:遠矢】
源氏の方には、和田小太郎義盛、船には乗らず馬にうち乗つて汀にひかへたりけるが、馬のふと腹つかる程に打ち入り、鐙の踏みそらし、平家の勢の中を、さしつめひきつめ散々に射ければ、三町が内外の者をば、はづさず強う射けり。
その中に、ことに遠う射たると思しき矢をば、「その矢賜はらん」とぞ招きける。新中納言知盛卿、この矢を抜かせて見給へば、しらのに鶴の本白、鵠の羽わり合はせてはいだる矢の、十三束三伏ありけるに、沓巻より一束ばかりおいて、和田小太郎平義盛と漆にてぞ書き付けたる。
平家のかたにも精兵おほしといへども、さすが遠矢射る者やなかりけん。ややあつて、伊予国の住人、仁井紀四郎親清、この矢を賜はつて射返す。これも三町余をつと射渡いて、和田が後ろ一段ばかりにひかへたる三浦の石左近太郎が弓手のかひなに、したたかにこそ立つたりけれ。
三浦の人ども寄り合うて、「あなにくや、和田小太郎が、我に過ぎたる精兵なしと心得て、恥かいたるをかしさよ」と笑ひければ、義盛、安からぬことなりとて、今度は小舟に乗つて漕ぎ出だし、平家の勢の中を、さしつめ引きつめ散々に射ければ、多くの者ども手負ひ射殺さる。
沖の方よりまた、判官の乗り給ひたる船に、しらのの大矢を一つ射立て、和田がやうに、「その矢賜はらん」と招きけり。判官、後藤兵衛実基を召してこの矢抜かせて見給へば、しらのに山鳥の尾をもつてはいだる矢の、十四束三伏ありけるに、伊予国の住人、仁井四郎親清と、漆にてぞ書き付けたる。
判官、「味方にこの矢射つべき仁は誰かある」と宣へば、「上手いくらも候ふ中に、甲斐源氏に、浅利与一殿こそ、精兵の手利きでましまし候へ」。「さらばよいちよべ」とて呼ばれたり。浅利与一出で来たり。
「奥よりこの矢を射て候ふが、返し給はらんと招き候ふ。御辺あそばされ候ひなんや」と宣へば、「給はつて見候はん」とて、取つてつまよつて、「これはのが少し弱う候ふ。矢づかも少し短う候ふ。同じうは義成が具足でつかまつり候はん」とて、塗りのに黒ぼろはいだる矢の、我が大手におし握つて、十五束ありけるを、塗篭籐の弓の九尺ばかりありけるに取つてつがひ、よつぴいてしばし固め、これは四町余をつと射渡いて、大船の舳に立つたる仁井紀四郎親清が真つただ中をひやうつばと射て、船底へまつさかさま射倒す。
もとよりこの浅利与一は、精兵の手利きなり。二町が内に走る鹿をばはづさず、強う射けるとぞ聞こえし。その後は源平の兵ども、互に命も惜しまず攻め戦ふ。
されども平家の御方には、十善帝王、三種の神器を帯して渡らせ給へば、源氏いかがあらんとあやふう思ふ所に、しばしは白雲かと思しくて、虚空にただよひけるが、雲にてはなかりけり。主もなき白旗一流れまひさがつて、源氏の船の舳に棹付けのをのさはるほどにぞ見えたりける。
判官、「これは八幡大菩薩の現じ給へるにこそ」と喜んで、甲を脱ぎ、手水うがひをして、これを拝し奉り給ふ。兵どももみなかくのごとし。
また海豚といふ魚一二千、はうで平家の船の方へぞ向かひける。大臣殿、小博士晴信を召して、「海豚は常に多けれども、いまだかやうの事なし。きつと考へ申せ」と宣へば、「この海豚はみかへり候ひなば、源氏滅び候ひぬべし。すぐにはうで通り候ひなば、味方の御戦あやふう候ふ」と申しもはてねば、平家の船の下を、すぐにはうでぞ通りける。「世の中は今はかう」とぞ申しける。
阿波民部重能は、この三箇年が間、平家について忠をいたし奉りしかども、子息田内左衛門尉教能を、生け捕りにせられて、今はいかにもかなはじとや思ひけん、たちまちに心変はりして、源氏と一つになりにけり。新中納言知盛卿、「あつぱれ重能を切つて捨つべかりつるものを」と後悔せられけれども甲斐ぞなき。
平家のはかりごとにはよき人をば兵船に乗せ、雑人をば唐船に乗せて、源氏心にくさに唐船を攻めば、中に取りこめて討たんと支度せられたりしかども、重能が返忠の上は、唐船には目もかけず、大将軍のやつし乗り給へる兵船をぞ攻めたりける。
さるほどに、四国鎮西の兵ども、みな平家を背いて、源氏につく。今までしたがひつきたりし者どもも、君に向かつて弓をひき、主に対して太刀を抜く。かの岸につかんとすれば、波高うしてかなひがたし。ここの汀に寄らんとすれば、敵矢先を揃へて待ちかけたり。源平の国争ひ、今日を限りとぞ見えたりける。
→【各章検討:先帝身投】
さるほどに源氏の兵ども、平家の船に乗り移りければ、水主梶取ども、あるひは射殺され、あるひは切り殺され、船をなほすに及ばず、船底に皆倒れ臥しにけり。
新中納言知盛卿、世の中は今はかうとや思はれけん、小舟に乗り、急ぎ御所の御船へ参り、「世の中は今はかうとおぼえ候ふ。見苦しき物ども皆海へ入れさせ給へ」とて、艫舳に走り回り、はいたり、のごうたり、塵拾ひ、手づから掃除せられけり。女房達、「中納言殿、さて戦はいかにやいかに」と問ひ給へば、「めづらしきあづま男をこそ御覧ぜられ候はんずらめ」とて、からからと笑はれければ、女房達、「なんでふのただ今の戯れぞや」とて、声々にをめき叫び給ひけり。
二位殿は、日頃より思ひまうけ給へる事なれば、鈍色の二衣うちかづき、練袴のそば高くはさみ、神璽を脇にはさみ、宝剣を腰にさし、主上を抱き奉り、「我が身は女なりとも、敵の手にはかかるまじ。君の御供申すなり。君に心ざし思ひ参らせ給はん人々は、急ぎ続き給へ」とて、しづしづと歩み出でられけり。
主上、今年は八歳にぞならせましましける。御歳のほどより、はるかにねびさせ給ひて、御姿厳くしう、あたりもてり輝くばかりなり。御髪黒うゆらゆらとして、御背過ぎさせ給ひけり。
あきれたる御有様にて、「そもそも尼ぜ、我をばいづちへ具して行かんとするぞ」と仰せければ、
二位殿、いとけなき君に向かひ参らせて、涙をおさへ、「君はいまだしろしめされ候はずや。先世の十善戒行の御力によつて、今万乗の主とは生まれさせ給ひたれども、悪縁にひかれて、御運すでに尽きさせ給ひ侍りぬ。まづ東に向かひ給ひて、伊勢大神宮に御暇申させおはしまし、その後西に向かはせ給ひて、西方浄土の来迎に預らんと誓はせおはしまして、御念仏候ふべし。この国は粟散辺地とて、心憂き境にて候へば、極楽浄土とて、めでたき所へ具し参らせ候ふぞ」と、かきくどき申されければ、
山鳩色の御衣にびんづら結はせ給ひて、御涙におぼれ、小さううつくしき御手を合はせ、まづ東に向かはせ給ひて、伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、その後西に向かはせ給ひて、御念仏ありしかば、二位殿やがて抱き奉て、「波の下にも都の候ふぞ」と慰め奉り、千尋の底にぞ沈み給ふ。
悲しきかな、無常の春の風、たちまちに花の御姿を散らし、情なきかな、分段の荒き波、玉体を沈め奉る。殿をば長生と名づけ、長きすみかと定め、門をば不老と号し、老いせぬとざしとは書きたれども、いまだ十歳の内にして、底のみくづとならせおはします。十善帝位の御果報申すもなかなかおろかなり。雲上の龍くだつて海底の魚となり給ふ。大梵高台の閣の上、釈提喜見の宮の内、古は槐門棘路の間に九族をなびかし、今は船の内、波の下にて、御命を一時に滅ぼし給ふこそ悲しけれ。
→【各章検討:能登殿最期】
女院はこの有様を見参らせ給ひて、今はかうとや思し召されけん、御硯、御焼石、左右の御懐に入れ、海へ入らせ給ひたりしを、渡辺源五馬允眤、小舟をつと漕ぎ寄せ、御髪を熊手に懸けて引き上げ奉る。
女房達、「それは女院にて渡らせ給ふぞ。あやまちつかまつるな」と宣へば、判官に申して、急ぎ御所の御船へ渡し奉る。
大納言の局は、内侍所の御からうとを脇にはさみ、海に入らんとし給ひたりしが、袴の裾を舷に射付けられて、蹴纏ひ倒れ給ひけるを、武士ども取り留め奉る。さて内侍所の御唐櫃の鎖をねぢ切つて、御蓋をすでに開かんとすれば、たちまちに目くれ鼻血垂る。
平大納言時忠卿は、生け捕りにせられておはしけるが、「それは内侍所にてわたらせ給ふぞ。凡夫は見奉らぬことぞ」と宣へば、兵ども逃げ去りぬ。その後判官、平大納言に宣ひ合はせて、もとのごとくからげ納め奉る。
平中納言教盛、修理大夫経盛、鎧の上に碇を負ひ、兄弟手に手を取りくみ、海にぞ沈み給ひける。小松新三位中将資盛、同じき少将有盛、従兄弟の左馬頭行盛は、これも三人手を取りくんで、同じ海にぞ沈み給ひける。
人々はかやうにし給へども、大臣殿親子はさもし給はず、舷に立ち出でて四方見廻らしておはしけるを、平家の侍どもあまりの心憂さに、そばをつと走り通るやうにて、大臣殿を海へがつぱとつき入れ奉る。
これを見て右衛門督、やがて続いて飛び入り給ひぬ。人々は、重き鎧の上に、重き物を負うたり抱いたりして入ればこそ沈め、この人親子は、さもし給はず。
右衛門督は、父の沈み給はば我も沈まん、助かり給はばともに助からんと思ひ、互ひに目を見かはして、なまじひに水練の上手にておはしければ、あなたこなたへ泳ぎありき給ひけるを、伊勢三郎義盛、小舟をつと漕ぎよせて、まづ右衛門督を熊手にかけて引き上げ奉る。これを見て大臣殿、いとど沈みもやり給はざりけるを、一所に取り奉てけり。
乳母子飛騨三郎左衛門景経、これを見て、「我が君取り奉るは何者ぞ」とて、義盛が舟に押し並べ乗りうつり、太刀を抜いてうつてかかる。義盛が童、主を討たせじと中に隔たり、三郎左衛門にうつてかかる。三郎左衛門がうつ太刀に、童、甲の真向うちわられ、二の刀に首び打ち落とさる。
義盛、なほあぶなう見えける所に、隣の船より、堀弥太郎親経、よつぴいてひやうど放つ。三郎左衛門、内甲を射させ、ひるむ所に、義盛が船に押し並べ乗りうつり、三郎左衛門にくんで臥す。堀が郎等、主に続いて乗り移り、三郎左衛門が鎧の草摺り引き上げ、柄もこぶしもとほれとほれと三刀刺いて首をとる。
大臣殿は、生け捕りにせられておはしけるが、乳母子が目の前にて、かくなるを見給ふにつけても、いかばかりの事をか思はれけん。
およそ能登守教経の矢さきにまはる者こそなかりけれ。今日を最後とや思はれけん、赤地の錦の直垂に、唐綾縅の鎧着て、鍬形打つたる甲の緒をしめ、いかものづくりの太刀を帯き、二十四さいたる切斑の矢負ひ、滋籐の弓持ち給へり。
さしつめひきつめ、散々に射給へば、多くの者ども手負ひ射殺され、皆尽きければ、大太刀大長刀左右に持つて、散々にないでまはり給ふに、多くの者ども、手負ひ討たれにけり。
新中納言、能登殿のもとへ使者を立てて、「いたう罪な作り給ひそ。さりとてはよき敵かは」と宣へば、能登殿、さては大将にくめごさんなれと心得て、打物くき短かにとつて、敵の船に乗り移り乗り移り、艫舳に散々にないでまはり給ふ。
されども判官を見知り給はねば、物具のよき武者をば、判官かと目をかけて馳せ廻り給ふ。
いかがはしたりけん、判官の乗り給ふ舟に乗りあたつて、あはやと目をかけて、飛んでかかる。判官かなはじとや思はれけん、長刀をば弓手の脇にかいはさみ、味方の船の、二丈ばかりのいたりけるに、ゆらりと飛び乗り給ひぬ。
能登殿は、早業や劣られたりけん、やがて続いても飛び給はず。能登殿、今はかうとや思はれけん、大太刀、長刀をも海へ投げ入れ、甲もぬいで捨てられけり。鎧の袖、草摺をもかなぐり落とし、胴ばかり着て大童になり、大手をひろげて立たれたり。大方当たりはらつてぞ見えし。おそろしなどもおろかなり。
大音声をあげて、「我と思はん者どもは、よつて教経くんで生け捕りにせよ。鎌倉へ下つて、頼朝に逢うて物一詞言はんと思ふなり。よれやよれ」と宣へども、よる者一人もなかりけり。
ここに土佐国の住人、安芸郷を知行しける安芸大領実康が子、安芸太郎実光とて、三十人が力あらはしたる大力の剛の者、主にちつとも劣らぬ郎等一人、弟の次郎も普通には勝れたりけるが、安芸太郎、能登殿を見奉て、「心こそ猛うましますとも、なにほどのことかあるべき。たとひ長十丈の鬼なりとも、我等三人つかみついたらんずるに、などか従へざるべき。いざやくみ奉らん」とて、能登殿の船に押し並べて乗り移り、太刀のきつさきを調へて、一面にうつてかかる。
能登殿、まづ真つ先に進んだる安芸太郎が郎等を、裾を合はせて海へどうど蹴入れ給ふ。その後続いたりける安芸太郎をば、弓手の脇にかいはさみ、弟の次郎をば馬手の脇に取つてはさみ、一しめしめて、「いざうれ己等、さらば四手の山の供せよ」とて、生年二十六にて、海へつと入り給ふ。
→【各章検討:内侍所都入】
新中納言知盛卿、「見るべきほどのことをば見つ、今は何をか期すべき」とて、乳母子の伊賀平内左衛門家長を召して、「日頃の契約をばたがへまじきか」と宣へば、「さる事候ふ」とて、中納言殿にも、鎧二領着せ奉り、我が身も二領着て、手に手を取りくみ、海にぞ沈み給ひける。これを見奉て、二十余人の侍ども、続いて海にぞ沈みける。
されどもその中に、越中次郎兵衛盛嗣、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清、飛騨四郎兵衛は何としてか逃れたりけん、そこをもつひに落ちにけり。
海上は赤旗、赤じるし切り捨てかなぐり捨てたりければ、立田川のもみぢ葉を、嵐の吹き散らしたるがごとし。汀によする白波も、薄紅にぞなりにける。主もなき空しき舟は、潮にひかれ風にまかせて、いづちを指すともなく、ゆられ行くこそ悲しけれ。
生け捕りには、前内大臣宗盛公、平大納言時忠、内蔵頭信基、讃岐中将時実、右衛門督清宗、兵部少輔雅明、大臣殿の八歳の若君、僧には二位の僧都全真、法勝寺執行能円、中納言律師仲快、経誦房阿闍梨融円、侍には源大夫判官季貞、摂津判官盛澄、橘内左衛門尉季康、藤内左衛門尉信康、阿波民部重能父子、以上三十八人とぞ聞こえし。
菊池次郎高直、原田大夫種直は、戦以前より年来の郎等ども催し集めて甲をぬぎ、弓の弦をはづして、降人に参る。女房たちには、女院、北の政所、廊の御方、大納言佐局、帥佐殿、治部卿局以下、以上四十三人とぞ聞こえし。
元暦二年の春の暮れ、いかなる年月にて、一人海底に沈み、百官波の上に浮かぶらん。国母官女は、東夷西戎の手にしたがひ、臣下卿相は数万の軍旅にとらはれ、旧里に帰り給ひしに、あるひは朱買臣が錦をきざることを嘆き、あるひは王昭君が胡国に越えしうらみもかくやとぞ悲しみ給ひける。
さるほどに、四月三日、九郎大夫判官義経、源八広綱をもつて、院の御所へ奏聞せられけるは、去んぬる三月二十四日の卯の刻に、豊前国田浦、門司の関、壇浦にて、平家を攻め滅ぼし、内侍所しるしの御箱ことゆゑなう都へ帰り入り給ふよし、奏聞せられたりければ、法皇多きに御感ありけり。公卿殿上人もいさみ喜び合はれけり。広綱を御坪の内へ召して、合戦の次第をくはしう御尋ねあり。その勧賞には当座に一﨟を経ずして左兵衛尉にぞなされける。
同じき五日、北面に候ふ藤判官信盛を御前へ召して、「内侍所一定帰り入らせ給ふか見て参れ」とて、西国へつかはす。やがて院の御馬を給はつて、宿所へも帰らず、鞭をうつて、西をさして馳せ下る。
さるほどに九郎大夫判官義経、平氏男女の生け捕りども、あひ具してのぼられけるが、同じき十四日播磨国明石浦にぞ着きにける。名を得たる浦なれば、ふけゆくままに月さへのぼり、秋の空にも劣らず。女房たちはさしつどひて、「一年これを通りしには、かかるべしとは思はざりしものを」とて、しのびねに泣きぞ合はれける。帥佐殿は、いと思ひ残せる事もおはせざりければ、涙に床も浮くばかりなり。つくづく月をながめ給ひて、
♪92
ながむれば ぬるる袂に 宿りけり
月よ雲居の 物語りせよ
♪93
雲の上に 見しにかはらぬ 月影の
すむにつけても ものぞかなしき
大納言のすけの局思ひて、
♪94
我が身こそ あかしの浦に 旅寝せめ
同じ波にも 宿る月かな
判官も武士なれども、さこそ昔恋しう、物悲しう思ひ給ふらめ、と、身にしみてあはれにぞ思はれける。
同じき二十五日、内侍所、しるしの御箱、鳥羽に着かせ給ふと聞こえしかば、御迎へに参らせ給ふ人々、勘解由小路中納言経房卿、検非違使別当左衛門督実家、高倉宰相中将泰通、権右中弁兼忠、榎並中将公時、但馬少将教能、武士には伊豆蔵人大夫頼兼、石川判官代能兼、左衛門督有綱とぞ聞こえし。
その夜の子の刻に、内侍所、しるしの御箱、太政官庁へいらせおはします。宝剣は失せにけり。神璽は海上に浮かびたりけるを、片岡太郎経春が取り上げ奉りたりけるとかや。
→【各章検討:剣】
我が朝には神代より伝はれる霊剣三つあり。十握の剣、天蝿斫の剣、草薙の剣これなり。十握の剣は、大和国石上布留の社にをさめらる。天蝿斫剣は、尾張国熱田の宮にありとかや。草薙の剣は内裏にあり。今の宝剣これなり。
この剣の由来を申せば、昔素盞烏尊、出雲国曾我のさとに宮づくりし給ひしに、その所に八色の雲常に立ちければ、尊これを御覧じてかくぞ詠じける。
♪95
八雲たつ 出雲八重がき つまごめに
八重がきつくる その八重垣を
これを三十一字のはじめとす。国を泉本なづくることも、すなはちこのゆゑとぞ承る。
昔、尊、出雲国ひの川上にくだり給ひし時、国津神の足なづち手なづちとて、夫神、婦神おはします。その子に端正のむすめあり、いなだ姫と号す。親子三人泣きゐたり。
尊、「いかに」と問ひ給へば、答へ申していはく、「我にむすめ八人ありき。みな大蛇のためにのまれぬ。いま一人残る所の少女、またのまれんとす。件の大蛇は尾かしらともに八あり。おのおの八の谷に這ひはびこれり。霊樹異木せなかに生ひたり。いく千年を経たりといふ事を知らず。まなこは日月のごとし。年年に人をのむ。親のまるる者は、子悲しみ、子のまるる者は親悲しみ、村南村北に哭する声絶えず。」とぞ申しける。
尊あはれに思し召し、この少女をゆつつま櫛にとりなし、御髪にさしかくさせ給ひ、八の舟に酒を入れ、美女の姿をつくつて、たかき岡に立つ。その影酒にうつれり、大蛇人と思つてその影をあくまでのんで、酔ひ臥したりけるを、尊はき給へる十つかの剣を抜いて、大蛇をくだくだに切り給ふ。
その中に一の尾にいたつて切れず。尊あやりと思し召し、たてさまにわつて御覧ずれば、一の霊剣あり。これをとつて、天照大神に奉り給ふ。
「これは昔、高天原にて我が落としたりし剣なり」とぞ宣ひける。大蛇の尾の中にありける時は、村雲常におほひければ、あまの村雲の剣とぞ申しける。御神これを見て、あめの宮の御宝とし給ふ。
豊葦原中津国のあるじとして天孫をくだし奉り給ひし時、この剣をも御鏡にそへ奉らせ給ひけり。第九代の帝、開化天皇の御時までは、ひとつ殿におはしけるを、第十代の帝、崇神天皇の御宇に及んで、霊威におそれて天照大神を大和国笠縫の里、磯がきのひろきにうつし奉り給ひし時、この剣をも天照大神の社壇にこめ奉らせ給ひけり。その時剣を造りかへて、御まもりとし給ふ。御霊威もとの剣にあひおとらず。
あまの村雲の剣は、崇神天皇より景行天皇まで三代は、天照大神の社壇にあがめおかれたりけるを、景行天皇の御宇、四十年六月に、東夷反逆の間、御子日本武尊御心も剛に、御力も人に優れておはしければ、精選にあたつて、あづまへくだり給ひし時、天照大神へ参つて、御暇申させ給ひけるに、御いもうと、いつきの尊をもつて、「謹んでおこたることなかれ」とて、霊剣を尊にさづけ申させ給ふ。
さて駿河国にくだり給ひたりしかば、その所の賊徒等、「この国には、鹿おほう候ふ。狩してあそばせ給へ」とて、たばかりいだし奉り、野に火を放つて、すでに焼き殺し奉らんとしけるに、尊はき給へる霊剣を抜いて、草を薙ぎ給へば、はむけ一里がうちはみなながれぬ。尊また火を出だされたりければ、風たちまちに異賊の方へ吹きおほひ、凶徒ことごとく焼け死にぬ。
それよりしこそ、あまの村雲の剣をば、草薙の剣とも名づけけれ。
尊なほ奥へ入つて、三か年が間、所々の賊徒をうちたひらげ、国々の凶党をせめしたがへて上らせ給ひけるが、道より御悩つかせ給ひて、御とし三十と申す七月に、尾張国熱田の辺にてつひにかくれさせ給ひぬ。そのたましひは、白き鳥となつて、天にあがりけるこそ不思議なれ。生け捕りの戎どもをば、御子たけひこのみことをもつて、帝へ奉らせ給ふ。草薙の剣をば熱田の社に納めらる。
あまの帝の御宇七年、新羅の沙門道行、この剣を盗んで吾が国の宝とせんと思つて、ひそかに舟にかくしてゆくほどに、風波巨震してたちまちに海底に沈まんとす。すなはち霊剣の祟りなりとして、罪を謝して先途をとげず、もとのごとくかくし納め奉る。
しかるを、天武天皇、朱鳥元年にこれを召して、内裏におかる。いまの宝剣これなり。御霊威いちはやうまします。陽成院、長病にをかされましまして、霊剣を抜かせ給ひければ、夜のおとどひらひらとして、電光ことならず。恐怖のあまり、投げすてさせ給ひければ、みづからはたとなつてさやにさされにけり。上古はかうこそめでたかりしか。
「たとひ二位殿、腰にさして海に沈み給ふとも、たやすう失すべからず」とて、すぐれたる海人どもを召してかづきもとめられる上、霊仏霊社にたつとき僧をこめ、種々の神宝を捧げて、祈り申されけれども、つひに失せにけり。
その時の有職の人々、申し合はれけるは、「昔天照大神、百王をまもらんと御ちかひありける、その御ちかひ未だ改まらずして、石清水の御ながれいまだつきざる上に、天照大神の日輪の光いまだ地に落ちさせ給はず。末代澆季なりとも、帝運のきはまるほどの御事はあらじか」と申されければ、その中に、ある博士のかんがへ申しけるは、「昔、出雲国簸の川上にて、素盞烏尊に斬り殺され奉し大蛇、霊剣を惜しむ心ざし深くして、八のかしら八の尾を表事として、人王八十代の後、八歳の帝となつて、霊剣をとりかへして、海底に沈み給ふにこそ」と申す。
千尋の海の底、神龍の宝となりしかば、ふたたび人間にかへらざるもことわりとぞおぼえける。
→【各章検討:一門大路渡】
二の宮かへりいらせ給ふと聞こえしかば、法皇より御迎への御車を参らせらる。外戚の平家にとらはれさせ給ひて、西海の浪の上にただよはせ給ふ御事を、御母儀も御乳母持明院の宰相もなのめならず御嘆きありつるに、今また待ち受け参らせ給ひて、いかばかりらうたく思し召されけん。
同じき二十六日、平氏の生け捕りども、鳥羽に着いて、やがてその日都へ入りて大路をわたさる。
皆小八葉の車に、前後の簾をあげ、左右の物見を開く。大臣殿は浄衣を着給へり。日頃は色白うきよげにおはせしかども、潮風にやせ黒みて、その人とも見え給はず。されどもいと思ひ入れ給へる気色もおはせず、四方見廻らしてぞおはしける。
右衛門督は白き直垂にて父の御車のしりに参られたりけるが、涙にむせびうつぶして目も見上げ給はず。平大納言時忠卿の車も、同じくやりつづけたり。讃岐中将時実も、同車にて渡さるべかりしが、現所労とて渡されず。内蔵頭信基は、きずをかうぶりたりしかば、閑道より入りにけり。およそ都の内にも限らず、これを見んとて、山々寺々より、老いたるも若きも、来たり集まれり。鳥羽の南の門、造道、四墓まではたと続いて、見る人幾千万といふ数を知らず。人はかへりみることを得ず、車は輪をめぐらすことあたはず。去んぬる治承養和の飢饉、東国西国の戦に、人種多く滅び失せたりといへども、なほ残りは多かりけりとぞ見えし。
都を出でて中一年、無下にま近きほどなれば、めでたかりし事も忘られず、さしも恐れをののきし人の今日の有様、夢うつつとも分きかねたり。心なきあやしのしづのを、しづのめに至るまで、みな涙を流し、袖を濡らさぬはなかりけり。ましてなれちかづきたりし人々の心のうち、推し量られてあはれなり。
年来重恩をかうむつて、父祖の時より祇候せし輩の、さすが身の捨てがたさに、多くは源氏についたりしかども、昔のよしみたちまちに忘るべきにもあらねば、さこそは悲しうも思ひけめ。されば袖を顔に押し当てて、目を見あげぬ者も多かりけり。
大臣殿の牛飼ひは、木曾が院参の時、車やり損じて切られたりける次郎丸が弟の、三郎丸にてぞありける。鳥羽にて判官に申しけるは、「舎人牛飼ひなど申す者は、いやしき下﨟のはてにて心あるべきでは候はねども、年来召しつかはれ参らせ候ひしおん心ざし浅からず候ふ。なにか苦しう候ふべき。御許されをかうむつて、大臣殿の最後の御車をつかまつり候はばや」と申しければ、判官情ある人にて、「もつともさるべし。とうとう」とてゆるされけり。三郎丸なのめならずよろこび、尋常に装束き、懐よりやり縄取り出だしてつけかへ、涙にくれて、ゆく先は見えねば、牛のゆくに任せつつ、泣く泣く遣りてぞまかりける。
法皇も六条東洞院に、御車をたてて御覧ぜらる。公卿殿上人の車どもも、同じう立て並べられたり。さしも御身近う召しつかはれしかば、昨日今日のやうに思し召して、御涙せきあへさせ給はず。
「日頃はいかなる人も、あの人々の目をもかけられ、詞の末にも預からんとこそ思ひしに、今日かやうに見なすべしとは、たれか思ひし」とて、上下涙を流されけり。
一年内大臣になつて、喜び申しありしには、公卿には花山院中納言を始め奉て、十二人扈従して遣り続けらる。蔵人頭親宗以下、殿上人十六人前駆す。中納言四人、三位中将も三人までおはしき。やがてこの時忠卿もその時はいまだ左衛門督にておはしけるが、御前へ召され参らせて、様々の引き出物を賜つて、出で給ひしけいきは、華やかなりし事どもぞかし。
今日は月卿雲客一人もなし。同じく壇浦にて生きながらけ捕はれし二十余人の侍ども、みな白き直垂にて、鞍の前輪にしめつけてぞ渡されける。
→【各章検討:鏡】
六条を東へ河原まで渡されて、帰つて判官の宿所、六条堀河なる所に据ゑ奉て、厳しう守護し奉る。御物参らせたりけれども、胸せきふさがつて、御箸をだにも立てられず。夜になれども、装束をだにもくつろげ給はず。袖かた敷きて臥し給ひたりけるが、御子右衛門督に袖をうち着せ給へるを、守護し奉る熊井太郎見奉て、「あはれ高きも賤しきも恩愛の道ほど悲しかりけることはなし。御子右衛門督に御袖をうち着せ給ひたらば、いくほどの事のおはすべきぞ」とて、みな鎧の袖をぞ濡らしける。
→【各章検討:鏡】
さるほどに、四月二十八日、鎌倉の前兵衛佐頼朝、従二位し給ふ。
越階とて二階を越ゆるこそありがたき朝恩なるに、これはすでに三階なり。三位をこそし給ふべかりしが、平家のし給ひたりしをいまうてなり。
その夜子の刻に、内侍所、しるしの御箱、太政官庁より温明殿へいらせおはします。主上行幸なつて、三か夜臨時の御神楽ありけり。右近将監小家能方、別勅を承つて、弓立宮人といふ神楽の秘曲をつかまつて勧賞かうむりけるこそめでたけれ。この歌は、祖父八条判官資忠といひし伶人のほかは知れる者なし。余りに秘して我が子の親方には教へずして、堀河院御在位の時、伝へ参らせて、死去したりしを、君親方に教へさせおはします。家をうしはなじと思し召されける御志感涙おさへがたし。
そもそもこの内侍所と申す御鏡は、昔天照大神、天岩戸に閉ぢ籠らんとせさせ給ひし時、いかにもして我が御かたちをうつしおき、御子孫に見せ奉らんとて、御鏡を鋳給へり。これなほ御心にかなはずとて、また鋳かへさせおはします。先の御鏡は紀伊国日前国懸社これなり。後の御鏡をば御子天忍穂耳尊に授け参らせ給ひて、「殿を同じうして住み給へ」とぞ仰せられける。さて天照大神、天岩戸に閉ぢ籠させ給ひて、天下暗闇となつたりしかば、八百万の神達、神集まりに集まり、岩戸の口にて御神楽を奏し給ひしかば、天照大神、感に堪へさせ給はずして、岩戸を細めに開けて御覧ぜられけるに、互ひに顔の白く見えけるよりして、面白しといふ詞は始まりけるとぞ聞こえし。その時こやね手力雄といふ大力の神によつて、ゑいというて開け給ひて後はたてられずといへり。
第九代の帝開化天皇の御時までは、一つ殿にあがめられたりしを、第十代の帝崇神天皇の帝の御宇六年に及んで、霊威に恐れ参らせ給ひて、天照大神を大和国磯がきのひろきに遷し参らさせ給ひし時、この御鏡をも別殿へ遷し奉つて、このころは温明殿にぞましましける。
遷都、遷幸の後百六十年を経て、村上天皇の御宇、天徳四年九月二十三日の夜、子の刻に大内中重に始めて焼亡ありき。火は左衛門の陣より出でたれば、内侍所のおはします温明殿もほど近し。如法夜半の事なれば、内侍も女官も参り合はず。賢所を出だし奉るにも能はず。小野宮殿急ぎ参らせ給ひて、「内侍所すでに焼けさせ給ひぬ。世ははやかうにこそ」とて、御涙にむせばせ給ふ所に、内侍所は自ら炎の中を飛び出でさせ給ひて、南殿の桜の梢にかからせ給ひて、光明赫奕として朝の日の山の端を出づるに異ならず。
小野殿、「世は未だ失せざりけり」とたのもしう思し召し、右の膝をつき、左の袖を広げて、泣く泣く申させ給ひけるは、「昔、天照大神、百王をまぼらんと御誓ひありけむ、その御誓ひ未だ改まらずは、神鏡実頼が袖に宿らせ給へ」と申させ給ひける。御詞の未だ終はらざる先に、神鏡飛び移らせおはします。すなはち御袖に包んで、太政官の朝所へ渡し奉り給ふ。この世には請け取り奉らんと思ひ寄る人も誰かあるべき。神鏡もまた宿らせ給ふべからず。上代こそなほもめでたけれ。
→【各章検討:文之沙汰】
平大納言時忠卿は、判官の宿所近うおはしけるが、子息讃岐中将時実を招いて、「散らすまじき文を一合、判官に取られてあるぞとよ。これを鎌倉の源二位に見せなば、人々も多く損亡し、我が身も命助かるまじ。いかがせん」と宣へば、讃岐中将申されけるは、「判官は武士なれども、女房などの訴へ申す事をば、もてはなれずとこそ承り候へ。姫君あまたましまし候へば、いづれにてもご一所見せさせおはしませ。親しうならせ給ひて後、仰せられて御覧ぜらるべうや候ふらん」と申されければ、大納言、涙をはらはらと流いて、「日頃は我が娘どもをば、女御后にとこそ思ひしか。なみなみの人に見せんとは思はざりしものを」とて泣かれければ、
讃岐中将、「今はさやうに思し召すべからず」とて、中将のはからひに、当腹の姫君の生年十七になり給ふをと申されけれども、大納言、それをばなほいたはしき事に思して、先の腹の姫君の、生年二十一になり給ふをぞ、判官には見みせられける。これは年こそ少しおとなしうおはしけれども、みめ姿いつくしう、心ざま優におはしければ、判官よにありがたきことにぞ宣ひける。先の上の川越太郎重頼が娘もありけれども、それをば別の所にうつし奉て、座敷しつらうて置かれたり。
さて件の文の事を宣ひ遣されたりければ、判官あまつさへ封をだにとかずして、大納言のもとへつかはす。やがて焼き捨てられける。いかなる文どもにてかありけん、おぼつかなうぞ聞こえし。
西国も治まり、道の間もわづらひなく、都もおだしかりければ、「九郎判官に過ぎたるほどの人ぞなき。日本国はただ九郎判官のままにてあらばや」などいふ事を、鎌倉の源二位もれ聞いて、「こはいかに、頼朝しかるべきやうにはからひて、討手を遣りたればこそ、平家はたやすう滅びたれ。九郎ばかりしで、いかでか天下をばしづむべき。人こそ多けれ、平大納言の婿になつて、大納言もてあつかふらんもうけられず。大納言また婿取りしかるべからず。人のかく言ふに驕つて、いつしか世を我がままにしたるにこそあんなれ。これへくだつても、定めて過分の振舞をせんずらん」とぞ宣ひける。
→【各章検討:副将被斬】
さるほどに、元暦二年五月七日、九郎大夫判官義経、大臣殿父子具足し奉て、明日関東下向のよし聞こえしかば、大臣殿判官のもとへ使者を立てて、「明日関東へ下向のよし聞こえ候ふ。それにつき候うては、生け捕りのうちに、八歳の童とつけられ参らせて候ひけるは、いまだうき世に候ふやらん。給はつて今一度み候はばや」と宣ひつかはされたりければ、判官の返事に、「まことにさこそは思し召され候ふらめ。高きも賤しきも恩愛の道は思ひ切られぬ事にて候ふなり」とて、川越太郎重房があづかり奉りける若君、大臣殿の御もとへ入れ奉るべきよし宣へば、人に車かつて乗せ奉る。女房二人付き奉りけるも、一つ車に乗つてぞ出でにける。
若君は父を遥かに見参らせ給ひて、なのめならず嬉しげに思したるこそいとほしけれ。大臣殿、「いかに副将、これへ」と宣へば、やがて父の御膝の上へぞ参られける。大臣殿、若君の髪かきなで、涙をはらはらと流いて、守護の武士どもに宣ひけるは、「これは各々聞き給へ、母もなき者にてあるぞとよ。この子が母は、これを生むとて、産をば平らかにしたりしかども、やがてうちふしてなやみしが、『この後またいかならん人の腹に公達をまうけ給ふといふとも、これをば思し召しかへずして、さしはなつて乳母などのもとへもつかはさで、わらはが形見に御覧ぜよ』など言ひし事がふびんさに、朝敵をたひらげん時、あの右衛門督をば大将軍せさせ、これをば副将軍せさせんずればとて、名を副将とつけたりしかば、なのめならずうれしげにて、今をかぎりの時までも、名をよびなどしてあいせしが、七日といふに、はかなくなつてあるぞとよ。この子を見るたびごとには、その事が忘れがたくおぼゆるぞや」とて泣かれければ、守護の武士どもも、みな鎧の袖をぞ濡らしける。右衛門督も泣き給へば、乳母も袖をぞしぼりける。
ややあつて大臣殿、「いかに副将、うれしうも見つ、とう帰れ」と宣へども、若君帰り給はず。右衛門督これを見て、あまりにあはれに思はれければ、「いかに副将御前、今宵はとう帰れ。ただ今客人のこうずるに。朝は急ぎ参れ」と宣へども、父の御浄衣の袖にひしと取りついて、「いなや、帰らじ」とこそ泣かれけれ。
かくてはるかにほど経れば、日もやうやう暮れかかりぬ。さてしもあるべき事ならねば、乳母の女房抱き取つて、つひに車に乗せ奉り、二人の女房どもも、袖を顔に押し当てて、泣く泣く暇申しつつ、ともに乗つてぞ出でにける。
大臣殿は、若君の後ろをはるかに御覧じ送つて、「日頃の恋しさは事の数ならず」とぞかなしみ給ふ。
「この子は母の遺言の無残なれば」とて、乳母などのもとへもつかはさでず、朝夕御前にて育て給ふ。三歳にて初冠着せて、義宗とぞ名のらせける。
やうやう生ひたち給ふほどに、みめかたち厳くしく、心ざま優におはしければ、大臣殿も悲しういとほしきことに思して、されば西海の旅の空、舟の中の住まひまでもひき具して、片時もはなれ給はず。
しかるを戦破れて後は、今日ぞたがひに見給ひける。
重房、判官に、「若君をば何と御計らひ候ふやらん」と申しければ、「鎌倉まで具足し奉るに及ばず。汝これにてあひ計らへ」と宣へば、重房宿所に帰つて、二人の女房どもに申しけるは、「大臣殿は明日関東へ御下り候ふ。重房も御供にまかり下り候ふ間、緒方三郎維義が手へ渡し参らせ候ふべし。とうとう召され候へ」とて、御車を寄せたりければ、若君は、「また昨日のやうに、父の御もとへか」とて、なのめならずうれしげに思したるこそいとほしけれ。二人の女房も、ひとつ車に乗つてぞ出でにける。
六条を東へ、河原までやつてゆく。
乳母の女房、「あはれこれはあやしきものかな」と、肝魂を消して思ふ所に、ややあつて兵五六十騎ざざめいて河原中へ打ち出で、やがて車をやりとどめ、敷皮しいて若君を据ゑ奉る。
若君よにも心細げにおぼして、「我をばいづちへ具して行かんとするぞ」と仰せければ、二人の女房どもとかうの御返事にも及ばず、声をはかりにぞをめきさけびける。重房が郎等、太刀をひきそばめ、左の方より若君の御後ろに立ちまはり、すでに斬り奉らんとしければ、若君見つけ給ひて、いくほど逃がるべき事のやうに、急ぎ乳母の懐の内へぞ逃げ入り給ひける。心づよう引き出だし奉るにも及ばねば、若君をかかへ奉て、天に仰ぎ地に臥して泣き悲しめどもかひぞなき。
ややあつて重房、涙をおさへて申しけるは、「今はいかに思し召すとも、かなひ給ひ候ふまじ。とうとう」と申しければ、その時乳母の懐の中より、ひき出だし奉り、腰の刀にて押し伏せて、つひに首をぞかいてげる。
首をば判官に見せんとて取つてゆく。
二人の女房ども、徒はだしにて追ひ付いて、「何か苦しう候ふべき。御首をば給はつて、後の御孝養をし参らせ候はん」と申しければ、判官情ある人にて、「もつともさるべし。とうとう」とてたびにけり。なのめならず喜び、これを取つて懐に入れ、京の方へ帰るとぞ見えし。
その後五六日して、桂川に女房二人身を投げたる事ありけり。一人をさなき人の首を懐に入れて沈みたりしは、この若君の乳母の女房にてぞありける。今一人むくろを抱いて沈みたりしは、介錯の女房なり。乳母が思ひ切るはせめていかがせん、介錯の女房さへ、身を投げけるこそありがたけれ。
→【各章検討:腰越】
さる程に、元暦二年五月七日、九郎大夫判官義経、大臣殿父子具し奉て、すでに都をたち給ひぬ。粟田口にもなりぬれば、大内山も雲居のよそに隔たりぬ。関の清水を見給ひて、大臣殿泣く泣く詠じ給ひけるとぞ。
♪96
都をば 今日を限りの せき水に
また逢坂の かげやうつさん
道すがらも心細げにおはしければ、判官情ある人にて、やうやうに慰め奉り給ふ。大臣殿、「相構へて今度の命を助けてたべ」とぞ宣ひける。判官、「遠き国はるかの島へぞ遷し参らせ候はんずらん。御命失ひ参らするまではよも候はじ。たとひさ候ふとも、義経が今度の勲功の賞に申しかへて、御命ばかりをば助け参らせ候はん。御心安う思しめされ候へ」と申されたりければ、大臣殿、「たとひ蝦夷が千島なりとも、甲斐なき命だにあらば」と宣ひけるこそ口惜しけれ。
日数ふれば、同じき二十三日、判官鎌倉へこそ着き給へ。
梶原平三景時、判官に先立つて、鎌倉殿に申しけるは、「日本国は今残る所なくしたがひ奉り候ふが、ただし御弟九郎大夫判官殿こそ、つひの御敵とは見えさせ給ひて候へ。そのゆゑは一をもつて万を察すとて、『一の谷を上の山より落とさずは、東西の木戸口破りがたし。されば生け捕りをも死に捕りをも、義経にこそ見すべきに、物の用にもあひ給はぬ蒲殿の方へ見参に入るべきやうやある。本三位中将殿をこれへたばじと候はば、参つて給はらん』とて、すでに戦出で来んとし候ひしを、景時が土肥に心を合はせて、本三位中将殿を土肥次郎に預け奉て後こそ、代は静まつて候ひしか」と申しければ、
鎌倉殿うちうなづき、「九郎が今日これへ入るなる。各用意し給へ」と宣へば、大名小名馳せ集まり、ほどなく数千騎ばかりになりにけり。
鎌倉殿、随兵七重八重に据ゑ置き、我が身はその中におはしながら、「九郎はこの畳の下よりも這ひ出でんずる者なり。されども頼朝はせらるまじ」とぞ宣ひける。
金洗沢に関すゑて、大臣殿父子請け取り奉り、判官をば腰越へ追つかへさる。
判官、「こはされば何事ぞや。去年の春、木曾義仲を追討せしよりこの方、度々へ池を平らげ、今年の春滅ぼしはてて、内侍所しるしの御箱、ことゆゑなう都へ返し入れ奉り、あまつさへ大将軍大臣殿父子生け捕り、これまで下りたらんずるに、たとひいかなる僻事ありとも、一度はなどか対面なかるべき。およそ九国の惣追捕使にも補せられ、山陰、山陽、南海道、いづれにてもあづけられ、一方の御固めにもなされんずるかとこそ思ひゐたれば、わづかに伊予国ばかり知行すべきよし宣ひて、鎌倉中へだに入れられずして、追ひ上せらるる事、こはされば何事ぞや。日本国を鎮むる事、義仲義経がしわざにあらずや。たとへば同じ父が子で、先に生まるるを兄とし、後に生まるるを弟とするばかりなり。誰か天下をしらんに、知らざるべき。あまつさへ見参をだにとげずして、追ひ上せらるる事、謝する所をしらず」とつぶやかれけれども甲斐ぞなき。
判官様々に陳じ給へども、鎌倉殿景時が讒言の上はつひに用ゐ給はず。
判官泣く泣く一通の状を書いて、広元のもとへとつかはす。その状にいはく、
源義経恐れながら申し上げ候ふ意趣は、御代官のその一に撰ばれ、勅宣の御使として、朝敵を傾け、会稽の恥辱を雪ぐ。勲賞行はるべき所に、思ひの外に虎口の讒言に存て、莫大の勲功に黙さる。義経犯し無うして科を蒙る。功あつて謬り無しと雖も、御勘気を蒙るの間、空しく紅涙に沈む。讒者の実否を正されず、鎌倉中へ入れられざるの間、素意を述ぶるに能はず、徒らに数日を送る。この時に当つて、長く恩顔を拝し奉らずんば、骨肉同胞の義すでに絶え、宿運極めて空しきに似たるか。将また先世の業因を感ずるか。
悲しきかな、この条、故亡父尊霊再誕し給はずんば、誰の人か愚意の悲歎を申し披かん。誰れの人か哀憐を垂れんや。事新しき申状、述懐に似たりと雖も、義経身体髪膚を父母に受け、幾ばくの時節を経ずして、故頭殿他界の間、孤児となつて母の懐の中に抱かれ、大和国宇多郡に赴きしより以来、未だ一日片時安堵の思ひに住せず。甲斐無き命は存すと雖も、京都の経廻難治の間、身を在在所所に蔵し、辺土遠国を棲として、土民百姓等に服仕せらる。然れども交契忽ちに純熟して、平家一族追討の為に、上洛せしむる手合に、木曾義仲を誅戮の後、平氏を傾け攻めんが為に、或る時は峨峨たる巌石に駿馬に鞭うつて、敵の為に命を亡さんことを顧みず、或る時は漫漫たる大海に、風波の難を凌ぎ、身を海底に沈めんことを痛まずして、骸を鯨鯢の腮に懸く。然のみならず甲冑を枕とし、弓箭業とする本意、併しながら亡魂の憤りを休め奉り、年来の宿望を遂げんと欲する外他事無し。あまつさへ義経五位尉に補任せらるるの条、当家の重職何事かこれに若かん。然りと雖も、今憂へ深く歎き切なり。仏神の御助けに預らざるより外、いかでか愁訴を達せん。これに依つて諸神諸社の牛王宝印の背を以て、全く野心を挟さまざる旨、日本国中の大小の神祇冥道を請じ驚かし奉り、数通の起請文を書き進ずと雖も、猶以て御宥面無し。
夫れ我が国は神国なり。神は非礼を享け給はず。頼む所は他に非ず。偏へに貴殿広大の御慈悲を仰ぐ。便宜を窺ひ、高聞に達せしめ、秘計を廻らして、誤り無き旨を宥ぜられ、芳免に預らば、積善の余慶家門に及び、栄華を永く子孫に伝へん。よつて年来の愁眉を開き、一期の安寧を得ん。書紙に尽くさず。併しながら省略せしめ候ひ畢んぬ。義経恐惶謹んで申す。
元暦二年六月五日 源義経
進上因幡守殿へ
とぞ書かれたる。
→【各章検討:大臣殿被斬】
さるほどに鎌倉殿、大臣殿に対面あり。おはしける所、庭をひとつへだてて、向かへなる屋にすゑ奉り、簾の中より見出だして、比企藤四郎能員をもつて申されけれるは、「平家を別して頼朝が私の敵と思ひ奉る事は、ゆめゆめ候はず。ただ帝王の仰せこそ重う候へ。」と申されける。
「そのゆゑは池の禅尼のいかに歎き宣ふといふとも、故入道相国の御赦し候はでは、頼朝いかでか助かり候ふべき。されども朝敵となり給ひて後、急ぎ追討すべき由、院宣を給はる間、さのみ王地にはらまれて詔命を背くべきにもあらねば、これまで迎へ奉る。さりながら御見参にまかり入り候ふこそ、本意に候へ」とぞ申されたりければ、能員これを申さんとて、大臣殿の御前へ参つたりければ、ゐなほり蹉き給ふぞ口惜しき。
東国の大名小名なみゐたりける中に、京の者いくらもあり、また平家の家人たりし者もあり。みなつまはじきをして、「あな心憂や、ゐなほり跪き給うたらば、御命の助かり給ふべきか。西国にていかにもなり給ふべき人の、生きながらとらはれて、これまで下り給ふも理かな」といひければ、「げにも」といふ人もあり、また涙を流す人もあり。
その中にある人の申しけるは、「猛虎深山に在る時は、百獣震ひ怖づ。檻井の中に在る時は、すなはち尾を動かして食を求むとて、猛き虎の深山に在る時は、百の獣怖づといへども、取つて檻の中に籠められぬる後は、尾を振つて人に向ふらんやうに、心猛き大将軍も、運尽きて後は、心かはる事なれば、大臣殿も、さこそおはすにこそ」と申す人々もありけるとかや。
判官様々に陳じ申されけれども、鎌倉殿景時が讒言の上は用ゐ給はず。
大臣殿父子具し奉り、急ぎ上り給ふべき由宣ふ間、六月九日、請け取り奉て、また都へ帰り上り給ふ。大臣殿は、今一日も日数の延ぶる事をうれしき事にぞ思したる。道すがらも、ここにてやここにてやと思はれけれども、国々宿々打ち過ぎ打ち過ぎ通りぬ。
尾張国内海といふ所あり。故左馬頭義朝の討たれし所なれば、一定ここにてぞ斬られんと思はれけれども、そこをも過ぎしかば、さては命の助からんずるやらんと思はれけるこそはかなけれ。右衛門督は、「なじかは命をたすくべき。かやうにあつき頃なれば、首の損ぜぬやうにはからひて、都近うなつてぞ斬られんずらん」と思はれけれども、大臣殿のあまりに心細げにおはしたるがいたはしさに、さは申されず、ただ念仏をのみぞ勧め申されける。
同じき二十一日、近江国篠原の宿に着き給ふ。昨日までは父子一所におはせしかども、今朝より引き離つて、別の所に据ゑ奉る。
判官情ある人にて、三日路より人を先立てて、善知識のためにとて、大原本性房湛豪と申す聖を請じ下されたり。
大臣殿、善知識の聖に向かつて宣ひけるは、「さては右衛門督は、いづくに候ふやらん。たとひ頭刎ねらるるとも、むくろは一つ莚に臥さんとこそ契りしに、この世にてはや別れぬる事の悲しさよ。この十七年が間、一日片時も身を離たず、西国にていかにもなるべかりし身の、生きながらとらはれて、京鎌倉恥をさらすも、あの右衛門督ゆゑなり」とて泣かれければ、善知識の聖もあはれに思はれけれども、我さへ心弱くては、かなはじとや思はれけん、涙おしのごひ、さらぬ体にもてないて、「まことにさこそは思し召され候ふらん。生を受けさせ給ひてよりこの方、一天の君の御外戚にて丞相の位にいたらせ給ひ候ひぬ。
昔もためし少なう、今またかかる御目にあはせ給ふも、ただ先世宿業なり。世をも人をも神をも恨み思し召すべからず。大梵王宮の深禅定の楽しみ、思へばほどなし。いはんや電光朝露の下界の命においてをや。
忉利天の億千歳、ただ夢のごとし。三十九年を過ぐさせ給ひけんも、わづかに一時の間なり。誰か嘗めたりし不老不死の薬、誰か保ちたりし東父西母が命、秦の始皇の奢りを極めしも、つひには驪山の墓に埋もれ、漢の武帝の命を惜しみ給ひしも、同じく杜陵の苔に朽ちにき。
生ある者は必ず滅す。釈尊いまだ栴檀の煙を免れ給はず。楽しみ尽きて悲しみ来たる。天人なほ五衰の日に逢へりとこそ承れ。されば仏は、我心自空、罪福無主、観心無心、法不住法とて、善も悪も空なりと観ずるが、正しく仏の御心にあひかなふ事なり。いかなる我等なれば、億億万劫が間、生死に輪廻して、宝の山に入りて手を空しうせん事、恨みの中の恨み、愚かなるが中の、口惜しい事には思し召され候はずや。今はゆめゆめ余念を思し召すべからず」とて、かね打ち鳴らし、念仏を勧め奉る。
大臣殿しかるべき善知識と思し召し、たちまちに妄念を翻し、西に向かひ手をあはせ、高声に念仏し給ふ所に、橘右馬允公長、太刀を引つそばめ、左の方より大臣殿の御背に立ちまはり、すでに斬り奉らんとしければ、大臣殿念仏をとどめて、「右衛門督もすでにか」と宣ひけるこそあはれなれ。
公長後ろへよるかと見えしかば、首は前へぞ落ちにける。この公長と申すは、平家相伝の家人にて、中にも新中納言知盛卿に、朝夕祗候の侍なり。「世をへつらふならひとはいひながら、無下に情なかりけるものかな」とぞ、人みな慙愧ぎしける。
右衛門督をも、先のごとくかね打ち鳴らし戒もたせ奉る。右衛門督、善知識に向かつて宣ひけるは、「さても大臣殿の御最期、いかがましまし候ひつるやらん」と宣へば、「めでたくましまし候ひつる。御心やすう思し召され候へ」と申されければ、「さては憂き世に思ひ置く事なし。さらば斬れ」とて斬らせらる。
今度は堀弥太郎親経切つてんげり。むくろをば公長が沙汰として、親子ひとつ穴にぞ埋みける。これは大臣殿のあまりに罪深う宣ひけるによつてなり。
同じき二十三日、武士ども三条河原に出で向かつて、首どもを請け取る。東の洞院を北へ渡いて、獄門の左の樗の木にぞ懸けたりける。昔より卿相の位にいたる人の首、大路を渡さるる事、異国にはその例もやあるらん、わが朝には未だ先蹤を聞かず。平治に信頼は悪行人たりしかば、頭を刎ねられたりしかども、大路をば渡されず。平家にとつてぞ渡されける。西国より帰つては、生きて六条を東へ渡され、東国より上つては、死んで三条を西へ渡さる。生きての恥、死しての恥、いづれもおとらざりけり。
→【各章検討:重衡被斬】
本三位中将重衡卿は、狩野介宗茂に預けられて、去年より伊豆国におはしけるを、南都の大衆しきりに申しければ、「さらば渡せ」とて、源三位入道頼政の孫、伊豆蔵人大夫頼兼に仰せて、つひに奈良へぞ遣はしける。都へ入れられずして、大津より山科通りに、醍醐路を経て行けば、日野は近かりけり。この重衡卿の北の方と申すは、鳥飼中納言惟実の娘、五条大納言邦綱の養子、先帝の御乳母、大納言の佐殿とぞ申しける。
三位中将一の谷で生け捕りにせられ給ひし後も、先帝に付き参らせておはせしが、壇浦にて海に入らせ給ひしかば、武士の荒気なきにとらはれて、旧里に帰り、姉の大夫三位に同宿して、日野といふ所におはしけり。
中将の露の命、草葉の末にかかつて、消えやらぬと聞き給へば、夢ならずして今一度見もし見えもする事もやと思はれけれども、それもかなはねば、ただ泣くよりほかの慰めなくて、明かし暮らし給ひけり。
三位中将、守護の武士に宣ひけるは、「このほど、事に触れて情深う芳心おはしつるこそ、有り難ううれしけれ。同じくは最後に芳恩かうぶりたき事あり。我は一人の子なければ、この世に思ひおく事なきに、年ごろ相具したりし女房の、日野といふ所にありと聞く。今一度対面して、後生の事をも申しおかばやと思ふなり」とて、片時の暇を乞はれけり。武士どもさすが岩木ならねば、各涙を流しつつ、「何かは苦しう候ふべき」とて許し奉る。
中将、なのめならず喜びて、「大納言佐殿の御局はこれに渡らせ候ふやらん。本三位中将殿の、ただ今奈良へ御通り候ふが、立ちながら見参に入らばやと仰せ候ふ」と、人を入れて言はせれば、北の方聞きもあへず、「いづらやいづら」とて、走り出でて見給へば、藍摺りの直垂に、折烏帽子着たる男の、痩せ黒みたるが、縁に寄り居たるぞ、そなりける。
北の方御簾の際近く寄つて、「いかにや夢かやうつつか。これへ入り給へ」と宣ひける御声を聞き給ふに、いつしか先立つものは涙なり。大納言佐殿、目もくれ心も消え果てて、しばしはものも宣はず。
三位中将御簾うちかづいて、泣く泣く宣ひけるは、「去年の春、一の谷でいかにもなるべかりし身の、せめての罪の報いにや、生きながら捕はれて、大路を渡され、京、鎌倉恥をさらすだに口惜しきに、果ては奈良の大衆の手へ渡されて、斬らるべしとてまかり候ふ。いかにもして、今一度御姿を見奉らばやと思ひつるに、今は露ばかりも思ひおくことなし。出家して形見に髪をも奉らばやと思へども、許されなければ力及ばず」とて、額の髪をかきわけ、口の及ぶ所をくひ切つて、「これを形見に御覧ぜよ」とて奉り給ふ。
北の方は日頃おぼつかなく思しけるより、今ひとしほ悲しみの色をぞ増し給ふ。
「まことに別れ奉りし後は、越前三位の上のやうに水の底にも沈むべかりしが、まさしうこの世におはせぬ人とも聞かざりしかば、もし不思議にて、今一度かはらぬ姿を見もし見えばやと思ひてこそ、憂きながら今までもながらへてありつるに、今日を限りにておはせんずらん悲しさよ。今まで延びつるは、もしやと思ふ頼みもありつるものを」とて、昔今の事ども宣ひかはすにつけても、ただ尽きせぬものは涙なり。
「あまりに御姿のしをれて候ふに、奉り替へよ」とて、袷の小袖に浄衣を出だされたりければ、三位中将これを着替へて、もと着給へる物どもをば、「形見に御覧ぜよ」とて置かれけり。北の方、「それもさる御事にて候へども、はかなき筆の跡こそ、長き世の形見にて候へ」とて、御硯を出だされたりければ、中将泣く泣く一首の歌をぞ書かれける。
♪97
せきかねて 涙のかかる 唐衣
のちの形見に ぬぎぞかへぬる
北の方の返事に、「
♪98
ぬぎかふる 衣も今は 何かせむ
今日を限りの 形見と思へば
契りあらば、後の世にては必ず生まれ合ひ奉らん。一つ蓮にと祈り給へ。日もたけぬ。奈良へも遠う候ふ。武士の待つも心なし」とて出で給へば、
北の方、袖にすがつて、「いかにやいかに、しばし」とて引き留め給ふに、
中将、「心のうちをばただ推し量り給ふべし。されども遂に遁れ果つべき身にもあらず。また来ん世にてこそ見奉らめ」とて居で給へども、まことにこの世にて逢ひ見ん事はこれぞ限りと思はれければ、い今度立ち返りたくは思しけれども、心弱くてはかなはじと思ひ切つてぞ出でられける。
北の方御簾の際近く伏しまろび、をめき叫び給ふ御声の、門の外まではるかに聞こえければ、駒をもさらに早め給はず、涙にくれて、行く先も見えねば、駒をもさらに早め給はず、涙にくれて行く先も見えねば、なかなかなりける見参かなと、今はくやしうぞ思はれける。
大納言佐殿、やがて走り付いてもおはしぬべくは思しれけれど、それもさすがなれば、引きかづいてぞ袂し給ふ。
南都の大衆、請け取つて、詮議す。
「そもそもこの重衡卿は大犯の悪人たる上、三千五刑の中に洩れ、修因感果の道理極成せり。仏教法敵の逆臣なれば、東大寺、興福寺の大垣をめぐらして、鋸にてや斬るべき、堀首にやすべき」と詮議す。老僧どもの申されけるは、「それも僧徒の法に穏便ならず。ただ守護の武士に賜うで、木津の辺にて斬らすべし」とて、武士の手へぞ返しける。武士これを請け取つて、木津川の端にて斬らんとするに、数千人の大衆、見る人幾らといふ数を知らず。
三位中将の年ごろ召し使はれける侍に、木工右馬允知時といふ者あり。八条女院に候ひけるが、最期を見奉らんとて鞭をうつてぞ馳せたりける。すでにただ今斬り奉らんとする所に馳せ付いて、千万立ち囲うだる人の中を掻き分け掻き分け三位中将のおはしける御そば近う参りたり。
「知時こそただ今最後の御有様を見参らせ候はんとて、これまで参りてこそ候へ」と泣く泣く申しければ、中将、「まことに心ざしのほど神妙なり。仏を拝み奉て斬らればやと思ふはいかがせんずる。余りに罪深うおぼゆるに」と宣へば、知時、「安い御事候ふや」とて、守護の武士に申し合はせ、その辺におはしける仏を一体迎へて奉て出で来たり。幸ひに阿弥陀にてぞましましける。河原の砂の上に立たせ参らせ、やがて知時が狩衣の袖のくくりを解いて仏の御手にかけ、中将に控へさせ奉る。
これを控へ奉り、仏に向かひ奉て申されけるは、「伝へ聞く、調達が三逆を作り、八万蔵の聖教を滅ぼしたりしも、遂には天王如来の記別に預かり、所作の罪業まことに深しといへども、聖教に値遇せし逆縁朽ちずして、かへつて得道の因となる。今重衡が逆罪を犯す事、全く遇意の発起にあらず。ただ世に従ふ理を存ずるばかりなり。命を保つ者、誰か王命を蔑如する、生を受くる者、誰か父の命を背かん。かれといひ、これといひ、辞するに所なし。理非仏陀の照覧にあり。
そもそも罪業たちどころに報い、運命ただ今を限りとす。後悔千万、悲しんでも余りあり。ただし三宝の境界は慈悲を心として済度の良縁まちまちなり。唯円教意逆即是順、この文肝に銘ず。一念弥陀仏即滅無量罪、願はくは逆縁を以て順縁とし、ただ今の最後の念仏によつて、九品託生を遂ぐべし」とて、高声に十念称へつつ、首をのべてぞ斬らせける。
日頃の悪行はさる事なれども、今の御有様を見奉るに、数千人の大衆も守護の武士も、みな涙をぞ流しける。
その首をば般若寺大鳥居の前に釘付けにこそかけたりけれ。治承の合戦の時、ここにうつ立つて、伽藍を焼き滅ぼし給へるゆゑなり。
北の方大納言佐殿、首をこそ刎ねられたりとも、質身をば取り寄せて孝養せんとて、輿を迎へに遣はす。
げにもむくろをば捨て置きたりければとて、輿に入れ、日野へかいてぞ帰りにける。これを待ち受け見給ひける北の方の心のうち、推し量られてあはれなり。
昨日まではゆゆしげにおはせしかども、暑き頃なれば、いつしかあらぬ様になり給ひぬ。さてしもあるべきことならねば、その辺に法界寺といふ所にて、さるべき僧どもあまた語らひて、孝養あり。
首をも大仏の聖俊乗房にとかく宣へば、大衆に乞うて日野へぞ遣はしける。首もむくろも煙になし、骨をば高野へ送り墓をば日野にぞせられける。北の方も様をかへ、かの後世菩提をとぶらはれるこそあはれなれ。
→【概要:巻第十二】
→【各章検討:大地震】
平家滅び果てて西国も静まりぬ。国は国司にしたがひ、庄は領家のままなり。上下安堵しておぼえしほどに、同じき七月九日の日の午の刻ばかり、大地おびたたしく動いてやや久し。赤県の内、白河のほとり、六勝寺みな破れ崩る。九重の塔も上六重汰り落とす。得長寿院も三十三間の御堂を十七間まで揺り倒す。
皇居を始めて人々の家々、すべて在在所所の神社仏閣、あやしの民屋さながら破れ崩る。崩るる音は雷のごとく、上がる塵は煙のごとし。天暗うして日の光も見えず。老少ともに魂を消し、朝衆ことごとく心を尽くす。また遠国近国もかくのごとし。
大地裂けて水湧き出で、盤石破れて谷へ転ぶ。山崩れて川を埋み、海ただよひて浜を浸す。汀漕ぐ舟は波に揺られ、陸行く駒は足のたてどを失へり。洪水みなぎり来たらば岳に上つてもなどか助からざらん、猛火燃え来たらば川を隔ててもしばしも去んぬべし。ただ悲しかりけるは大地震なり。
白河、六波羅、京中に、うち埋まれて死ぬる者、いくらといふ数を知らず。四大種の中に水火風は常に害をなせども、大地においては異なる変をなさず。こはいかにしつる事ぞやとて、上下遣戸障子をたて、天の鳴り地の動くたびごとには、ただ今死ぬるとて声々に念仏申し、をめき叫ぶ事おびたたし。七八十、八九十の者も世の滅するなどいふことはさすが今日明日とは思はずとて、大きに驚き騒ぎければ、幼き者どももこれを聞いて、泣き悲しむ事限りなし。
法皇はその折しも新熊野へ御幸なつて、人多く打ち殺され、触穢出で来にければ、急ぎ六条殿へ還御なる。道すがら君も臣もいかばかり御心を砕かせ給ひけん。
主上は鳳輦に召して池の汀へ行幸なる。法皇は南庭に幄屋を立ててぞましましける。女院。宮々は御所ども皆震り倒しければ、或いは御輿に召し、或いは御車に召して出でさせ給ふ。天文博士ども馳せ参つて、「夜さりの亥子の刻には必ず大地打ち返すべし」と申せば、恐ろしなどもおろかなり。
昔文徳天皇の御宇、斉衡三年三月八日の大地震には、東大寺の仏の御頭をふり落としたりけるとかや。
また天慶二年四月二日の大地震には、主上御殿をさつて、常寧殿の前に五丈の幄屋を立ててましましけるとぞ承る。それは上代の事なれば申すに及ばず。
今度の事はこれより後もたぐひあるべしともおぼえず。
十善帝王都を出でさせ給ひて、御身を海底に沈め、大臣公卿大路を渡してその首を獄門にかけらる。昔より今に至るまで怨霊は恐ろしき事なれば、世もいかがあらんずらんとて、心ある人々の歎き悲しまぬはなかりけり。
→【各章検討:紺掻之沙汰】
同じき八月二十二日、鎌倉の源二位頼朝卿の父、故左馬頭義朝のうるはしき首とて、高雄の文覚上人、首にかけ、鎌田兵衛が首をば弟子が首にかけさせて、鎌倉へぞ下られける。
去んぬる治承四年の頃取り出だして奉たりけるは、実の左馬頭の首にはあらず、謀反を勧め奉らんためのはかりことに、そぞろなる古い首を白い布に包んで、奉たりけるに、謀叛を起こし世を打ち取つて、一向の首と信ぜられける所へ、また尋ね出だして下りける。
これは年ごろ義朝の不便にして召し使はれける紺掻きの男、年ごろ獄門にかけられて、後世弔ふ人もなかりし事を悲しんで、時の大理に逢ひ奉り、申し賜はり取り下ろして、「兵衛佐殿流人でおはすとも、末頼もしき人なり。もし世に出でて尋ねらるる事もこそあれ」とて、東山円覚寺といふ所に深う納めて置きたりしを、文覚聞き出だして、かの紺かき男どもに相具して下りけるとかや。
今日すでに鎌倉へ着くと聞こえしかば、源二位片瀬川まで迎へにおはしける。それより色の姿になりて鎌倉へ入り給ふ。
聖をば大床に立て、我が身は庭に立つて、父の首を受け取り給ふぞあはれなる。これを見る大名小名、皆涙を流さずといふ事なし。石巌のさがしきを伐り払つて、新たなる道場を造り、父の御ためと供養して、勝長寿院と号せらる。公家にもかやうの事をあはれと思し召して、故左馬頭義朝の墓へ内大臣正二位を贈らる。勅使は左大弁兼忠とぞ聞こえし。頼朝卿、武勇の名誉長ぜらるるによつて、身を立て家を興すのみならず、亡父聖霊贈位贈官に及びけるこそめでたけれ。
→【各章検討:平大納言被流】
同じき九月二十三日、平家の余党の都にあるを国々へ遣はさるべき由、鎌倉より公家へ申されたりければ、平大納言時忠卿能登国、子息讃岐中将時実上総国、内蔵頭信基安芸国、兵部少輔正明隠岐国、二位僧都全真阿波国、法勝寺執行能円備後国、中納言律師忠快武蔵国とぞ聞こえし。或いは西海の波の上、或いは東関の雲の果て、先途いづくを期せず、後会その期を知らず。別れの涙を押さへて面々に赴かれけん心の中、推し量られてあはれなり。
その中に、平大納言は建礼門院の吉田に渡らせ給ふ所に参つて、「時忠こそ責め重うして、今日すでに配所へ赴き候へ。同じ都の中に候ひて、御あたりの御事ども承らまほしう候ひつるに、遂にいかなる御有様にて渡らせ給ひ候はんずらんと思ひおき参らせ候ふにこそ、行く空もおぼゆまじう候へ」と泣く泣く申されければ、
女院、「げにも昔の名残とては、そこばかりこそおはしつれ。今はあはれをもかけ、とひ訪ふ人も誰かはあるべき」とて、御涙せきあへさせ給はず。
この大納言と申すは、出羽前司知信が孫、兵部権大輔贈左大臣時信が子なり。故建春門院の御兄人にて、高倉上皇の御外戚なり。世のおぼえ、時の綺羅めでたかりき。入道相国の北の方、八条二位殿も姉にておはせしかば、兼官、兼職思ひのごとく心のごとし。さればほどなく経上がつて、正二位の大納言に至れり。検非違使の別当にも三箇度までなり給ふ。この人の庁務の時は、窃盗、強盗をば召し捕つて、様もなく右のかひなをば腕中より打ち落とし打ち落とし追ひ捨てらる。されば悪別当とぞ申しける。
主上並びに三種の神器都へ返し入れ奉るべき由、西国へ院宣を下されたりけるに、院宣の御使ひ花方がつらに、浪方といふ焼印をせられけるも、この大納言のしわざなり。
法皇も故女院の御兄人にておはしければ、御形見に御覧ぜまほしう思し召しけれども、かやうの悪行によつて御憤り浅からず。九郎判官も親しうなられたりしかば、いかにもして申し宥めばやと思はれけれどもかなはず。子息の侍従時家とて、十六になられけるが、流罪にも漏れて、伯父の時光卿のもとにおはしけり。母上帥典侍殿どもともに、大納言の袂にすがり袖をひかへて、今を限りの名残をぞ惜しみ給ひける。
大納言、「つひにすまじき別れかは」と、心強うは宣へども、さこそは悲しう思はれけめ。年たけ齢傾いて、さしもむつまじかりし妻子にも別れ果て、住み馴れし都をも雲居のよそに顧みて、古は名をのみ聞きし越路の旅に赴き、はるばると下り給ふに、「かれは志賀唐崎、これは真野の入江、堅田の浦」と申しければ、大納言泣く泣く詠じ給ひけり。
♪99
帰りこん 事はかた田に 引く網の
目にもたまらぬ 我が涙かな
昨日は西海の波の上にただよひて、怨憎会苦の恨みを扁舟の中に積み、今日は北国の雪の下に埋もれて、愛別離苦の悲しみを、故郷の雲に重ねたり。
→【各章検討:土佐房被斬】
さるほどに、九郎判官には、鎌倉殿より大名十人付けられたりけれども、内々御不審かうぶり給ふ由聞こえしかば、心を合はせて、一人づつ皆下り果てにけり。兄弟なる上、ことに父子の契りをして、去年の正月木曾義仲を追討せしよりこの方、たびたび平家を攻め落とし、今年の春滅ぼして一天を静め、四海をすます。
勧賞行はるべき所に、いかなる仔細あつてか、かかる聞こえあるらんと、上一人をはじめ奉て、下万民に至るまで不審をなす。この事は、去んぬる春、摂津国渡辺より船汰へして八島へ渡り給ひし時、逆櫓たてうたてじの論をして、大きにあざむかれたりしを、梶原遺恨に思ひて常は讒言しけるによつてなり。
定めて謀叛の心もあるらん、大名ども差し上せば、宇治、勢田の橋をも引き、京中の騒ぎとなつて、なかなか悪しかりなんとて、土佐房昌俊を召して、「わ僧上つて、物詣でするやうにて、たばかつて討て」と宣ひければ、昌俊かしこまつて承り、宿所へも帰らず、御前をたつてやがて京へぞ上りける。
同じき九月二十九日に、土佐房都へ着いたりけれども、次の日まで判官どのへも参らず。昌俊が上つたる由聞き給ひ、武蔵坊弁慶をもつて召されければ、やがて連れて参りたり。
判官宣ひけるは、「いかに鎌倉殿より御文はなきか」と宣へば、「さしたる御事も候はぬ間、御文は参らせられず候ふ。御言葉で申せと仰せ候ひしは、『当時まで都に別の仔細なく候ふ事、さて御渡り候ふ故とおぼえ候ふ。相構へてよくよく守護せさせ給へ』と申せとこそ仰せ候ひつれ。」
判官、「よもさはあらじ。義経討ちに上つたる御使ひなり。『大名ども差し上せば、宇治、勢田の橋をも引き、京都の騒ぎともなつて、なかなか悪しかりなん。わ僧上つて物詣でするやうにたばかつて討て』とぞ仰せ付けられたるらんな」と宣へば、
昌俊大きにおどろき、「何によつてか、ただ今さる御事候ふべき。いささか宿願によつて、熊野参詣のためにまかり上つて候ふ。」その時判官宣ひけるが、「景時が讒言によつて、義経鎌倉へも入れられず、見参をだにもし給はで追ひ上せられるる事はいかに。」
昌俊、「その御事はいかが候ふらん、身においては全く御後ぐろ候はず。起誓文を書き進ずべき」由申せば、
判官、「とてもかうても鎌倉殿によしと思はれ奉たらばこそ」とて、もつてのほかに気色あしげになり給ふ。
昌俊、一旦の害を逃れんがために、ゐながら七枚の起請を書いて、或いは焼いて飲み、或いは社に納めなどして、ゆりて帰り、大番衆に触れ回らしてその夜やがて寄せんとす。
判官は磯の禅師といふ白拍子の娘、静といふ女を寵愛せられけり。静も傍ら立ち去る事なし。
静申しけるは、「大路は皆武者で候ふなる。これよりもよほしのなからんに、大番衆の者どもの、これほど騒ぐぐべきやうや候ふ。あはれこれは昼の起請法師のしわざとおぼえ候ふ。人をつかはして見せ候はばや」とて、六波羅の故入道相国の召し使はれける禿を、三四人使はれけるを、二人遣はかしたりけるが、ほど経るまで帰らず。
「なかなか女は苦しからじ」とて、はした者を一人見せにつかはす。
ほどなく走り帰つて申しけるは、「禿とおぼしき者は、二人ながら土佐房の門に斬り伏せられて候ふ。宿所には鞍置馬どもひしと引つたてて、大幕の中には、矢負ひ弓張り、者ども皆具足して、ただ今寄せんと出で立ち候ふ。少しも物詣での景気とは見え候はず」と申しければ、判官これを聞いて、やがてうつ立ち給ふ。
静、着背長を取つて投げかけ奉る。高紐ばかりして太刀取つて出で給へば、中門の前に馬に鞍置いて引つ立てたり。これにうち乗つて、「門開けよ」とて門開けさせ、今や今やと待ち給ふ所に、しばしあつて、混甲四五十騎、門の前に押し寄せて、鬨をどつとぞ作りける。
判官鐙ふんばり立ち上がり、大音声を揚げて、「夜討ちにも、また昼戦にも、義経たやすう討つべき者は、日本国にはおぼえぬものを」とて、ただ一騎をめいて駆け給へば、五十騎ばかりの者ども、中を開けてぞ通しける。
さるほどに、江田源三、熊井太郎、武蔵房弁慶などいふ一人当千の兵ども、やがて続いて攻め戦ふ。その後侍ども「御内に夜討ち入つたり」とて、あそこの屋形ここの宿所より馳せ来たる。ほどなく六七十騎集まりければ、土佐房たけく寄せたりけれども戦ふに及ばず、散々に駆け散らされて、助かる者は少なう、討たるる者ぞ多かりける。
昌俊稀有にしてそこをば逃れて、鞍馬の奥に逃げ籠りたりけるが、鞍馬は判官の故山なりければ、かの法師土佐房をからめて、次の日判官のもとへ送りけり。僧正が谷といふ所に隠れゐたりけるとかや。
昌俊を大庭にひつ据ゑたり。褐の直垂に首丁頭巾をぞしたりける。
判官笑つて宣ひけるは、「いかにわ僧、起請にはうてたるぞ。」
土佐房少しも騒がず居直り、あざ笑つて申しけるは、「ある事に書いて候へば、うてて候ふぞかし」と申す。
「主君の命を重んじて、私の命を軽んず。心ざしのほどもつとも神妙なり。わ僧命惜しくは、鎌倉へ帰しつかはさんはいかに。」
土佐房、「まさなうも御諚候ふものかな。惜しと申さば殿は助け給はんずるか。鎌倉殿の法師なれども、おのれぞ狙はんずるものをて、仰せをかうぶつしよりこの方、命をば鎌倉殿に奉りぬ。なじかは取り返し奉るべき。ただ御恩にはとくとく首を召され候へ」と申しければ、「さらば斬れ」とて、六条河原に引き出だいて斬つてんげり。誉めぬ人こそなかりけれ。
→【各章検討:判官都落】
ここに足立新三郎といふ雑色は、「きやつは下﨟なれども、もつてのほかにさかざかしい奴で候ふ。召し使ひ給へ」とて、判官に参らせられたりけるが、内々は「九郎が振舞見て、我に知らせよ」とぞ宣ひける。
昌俊が斬らるるを見て、新三郎夜を日についで馳せ下り、鎌倉殿にこの由申しければ、舎弟三河守範頼に討手に上り給ふべき由仰せられけり。
しきりに辞し申されけれども、重ねて仰せられける間、力及ばで物の具して暇申しに参られたり。
「わ殿も九郎が真似し給ふなよ」と仰せられければ、この御言葉に恐れて物の具脱ぎ置きて、京上りは思ひ留まり給ひぬ。全く不忠なき由一日に十枚づつの起請を昼は書き、夜は御坪の中にて読み上げ読み上げ、百日に千枚の起請を書いて参らせられたりけれども、かなはずして遂に討たれ給ひけり。
その後、北条四郎時政を大将として討手上ると聞こえしかば、判官殿、鎮西の方へ落ちばやと思ひ立ち給ふ所に、緒方三郎維義は平家を九国の内へも入れ奉らず、追ひ出だすほどの威勢の者なりければ、判官、「我に頼まれよ」とぞ宣ひける。
「さ候はば、身内に候ふ菊次郎高直は、年来の敵で候ふ。給はつて首を斬つて頼まれ参らせん」と申す。
左右なうたうでげり。六条河原に引き出だして斬つてんげり。その後これ維義かひがひすう領伏す。
同じき十一月二日、九郎大夫の判官院参して、大蔵卿泰経朝臣をもつて奏聞しけるは、「義経、君の御ために奉公の忠を致す事、事新しう初めて申し上ぐるに及び候はず。しかるを頼朝、郎等どもが讒言によつて義経討たんとつかまつり候ふ間、しばらく鎮西の方へまかり下らばやと存じ候ふ。院の庁の御下し文を一通下し預かり候はばや」と申しければ、
法皇、「この条頼朝が帰り聞かん事いかがあるべからん」とて、諸卿に仰せ合はせられければ、
「義経都に候ひて、関東の大勢乱れ入り候はば、京都の狼藉絶え候ふべからず。遠国へ下り候ひなば、しばらくその恐れあらじ」と各一同に申されければ、緒方三郎を召して、臼杵、戸次、松浦党、総じて鎮西の者ども義経を大将として、その下知に従ふべき由、院の御下し文を給はつてければ、その勢五百余騎、明くる三日の卯の刻に京都にいささかのわづらひもなさず、波風も立てずして下りにけり。
摂津国源氏、太田太郎頼基、「我が門の前を通しながら、矢一つ射かけであるべきか」とて、河原津といふ所に追つ付いて攻め戦ふ。判官は五百余騎、太田太郎は六十余騎にてありければ、中に取り込め、「余すな漏らすな」とて、散々に攻め給へば、太田太郎我が身手負ひ、家の子郎等多く討たせ、馬の腹射させて引き退く。
判官首ども斬りかけて軍神に祭り、「門出よし」と喜んで、大物の浦より舟に乗つて下られけるが、折節西の風烈しく吹き、住吉の浦へ打ち上げられて、吉野の奥にぞ籠りける。吉野法師にせめられて、奈良へ落つ。奈良法師に攻められて、また都へ帰り入り、北国にかかつて、終に奥へぞ下られける。
都より具したりける女房十余人、住吉の浦に捨て置きたりければ、松の下砂の上に袴踏みしだき、袖を片敷いて泣き臥したりけるを、住吉の神官ども憐れんで、皆京へぞ送りける。
およそ判官の頼まれたりける伯父信太三郎先生義教、十郎蔵人行家、緒方三郎維義が舟ども、浦々島々に打ち上げられて、互ひにその行方を知らず。たちまちに西の風吹きける事も平家の怨霊の故とぞおぼえける。
同じき十一月七日、鎌倉の源二位頼朝卿の代官として、北条四郎時政、六万余騎を相具して都へ入る。
伊予守源義経、備前守同じく行家、信太三郎先生同じく義教追討すべき由奏聞しければ、やがて院宣を下されけり。
去んぬる二日は、義経申し請くる旨に任せて、頼朝を背くべき由、庁の御下し文をなされ、同じき八日は、頼朝卿の申し状によつて、義経追討の院宣を下さる。朝に替はり夕べに変ずる世間の不定こそあはれなれ。
→【各章検討:吉田大納言沙汰】
さるほどに鎌倉殿、日本国の惣追捕使を賜はつて、段別に兵糧米を当て行ふべき由申されけり。朝の怨敵を滅ぼしつる者は半国を賜はるといふ事、無量義経に見えたり。されども我が朝には今だその例なし。
「これは過分の申し状なり」と法皇仰せなりけれども、公卿詮議あつて、「頼朝卿の申さるる所、道理半ばなり」とて、御許されありけるとかや。
諸国に守護を置き、荘園に地頭を補せらる。一毛ばかりも隠るべきやうなかりけり。
鎌倉殿かやうの事、人多しといへども、吉田大納言経房卿をもつて奏聞せられけり。
この大納言は、うるはしい人と聞こえ給へり。平家に結ぼほれたりし人々も、源氏の代の強りし後は、或いは文を下し、或いは使者を遣はし、様々にへつらひ給ひしかども、この人はさもし給はず。されば、平家の時も、法皇を鳥羽殿に押し籠め参らせて、後院の別当を置かれしには、八条中納言長方卿、この経房二人をぞ後院の別当にはなされたりける。
権右中弁光房朝臣の子なり。十二の歳、父の朝臣失せ給ひしかば、みなし子にておはせしかども、次第の昇進滞らず、三事の顕要を兼帯して、夕郎の貫首を経、参議、大弁、中納言、太宰帥、遂に正二位大納言に至れり。人をば越え給へども、人には越えられ給はず。されば人の善悪は、錐袋を通すとて隠れなし。有り難かりし人なり。
→【各章検討:六代】
北条四郎時政謀に、「平家の子孫といはん人尋ね出だしたらん輩においては、所望は請ふによるべし」と披露せらる。京中の者ども、案内は知つたり、勧賞かうぶらんとて、尋ね求むるぞうたてき。
かかりしかば、いくらも尋ね出だしたりけり。下﨟の子なれども、色白う眉目よきをば召し出だいて、「これは何の中将殿の若君、かの少将殿の公達」と申せば、父泣き悲しめども、「あれは介錯が申し候ふ、あれは乳母が申し候ふ」なんど言ふ間、無下に幼きをば、水に入れ、土に埋み、少しおとなしきをば、押し殺し、刺し殺す。母が悲しみ、乳母が歎き、たとへん方ぞなかりける。北条も子孫さすが多ければ、これをいみじとは思はねども、世に従ふ習ひなれば力及ばず。
中にも小松三位中将維盛卿の若君、六代御前とておはしますなり。いかにもして取り奉らんとて、手を分けて求められけれども、尋ねかねて、すでに下らんとせられける所に、ある女房の六波羅に出でて申しけるは、「これより西、遍照寺の奥、大覚寺と申す山寺の北、菖蒲谷と申す所にこそ、小松三位中将維盛卿の北の方、若君、姫君おはしませ」と申せば、時政やがて人を付けて、その辺をうかがはせけるほどに、ある坊に女房達、幼き人々、ゆゆしく忍びたる体にて住まひけり。
籬の隙よりのぞきければ、白い狗の走り出でたるらんを取とらんとて、美しげなる若君の出で給へば、乳母の女房と思しくて、「あなあさまし。人もこそ見参らすれ」とて、急ぎひき入れ奉る。
これぞ一定そにておはしますらんと思ひ、急ぎ走り帰つて、かくと申せば、次の日、北条かしこにうち向かひ、四方をうち囲み、人を入れて言はせけるは、「平家小松三位中将維盛卿の若君六代御前、これにおはしますと承つて、鎌倉殿の御代官に、北条四郎時政と申す者が、御迎へに参つて候ふ。とうとう出だし参らさせ給へ」と申しければ、母上これを聞き給ふに、つやつやものをもおぼえ給はず。
斎藤五、斎藤六、走り廻つて見けれども、武士ども四方をうち囲み、いづ方より出だし奉るべしともおぼえず。乳母の女房も御前に倒れ臥し、声も惜しまずをめき叫ぶ。日頃は物をだに高く言はず、忍びつつ隠れゐたりつれども、今は家の内にありとある者、声をととのへて泣き悲しむ。北条もこれを聞いて、よに心苦しげに思ひ、涙押し拭ひ、つくづくとぞ待たれける。
ややあつて、重ねて申されけるは、「世もいまだ静まり候はねば、しどけなき御事もぞ候ふとて、御迎へに参つて候ふ。別の御事は候ふまじ。はやばや出だし参らせ給へ」と申しければ、若君、母上に申されけるは、「終に逃るまじう候へば、とくとく出ださせおはしませ。武士どもうち入つて捜すものならば、うたてげなる御有様どもを見えさせ給ひ候ひなんず。たとひまかりて候ふとも、しばしも候はば、暇乞うて帰り参り候はん。いたくな歎かせ給ひ候ひそ」と、慰め給ふこそいとほしけれ。
さてしもあるべきならねば、母上泣く泣く御髪かきなで、物着せ奉り、すでに出だし奉らんとし給ひけるが、黒木の数珠の小さううつくしいを取り出だして、「これにていかにもならんまで、念仏申して極楽へ参れよ」とて、奉り給へば、若君これを取つて、「母御前には今日すでに離れ参らせなんず。今はいかにもして、父のおはしまさん所へぞ参りたき」と宣ひけるこそあはれなれ。これを聞いて、妹の姫君の、十になり給ふが、「我も父御前の御もとへ参らん」とて、走り出で給ふを、乳母の女房取り留め奉る。
六代御前、今年はわづかに十二にこそなり給へども、世の常の十四五よりはおとなしく、見目かたち優におはしければ、敵に弱げを見えじとて、おさふる袖の隙よりも、余りて涙ぞこぼれける。
さて御輿に乗り給ふ。武士ども前後左右にうち囲んで出でにけり。斎藤五、斎藤六、御輿の左右についてぞ参りける。北条、乗り替へども降ろして、乗すれども乗らず。大覚寺より六波羅まで、徒跣でぞ走りける。
母上、乳母の女房、天に仰ぎ地に臥して、悶え焦がれ給ひけり。
「この日頃、平家の子ども取り集めて、水に入るるもあり、土に埋むもあり、押し殺し、刺し殺し、様々にすと聞こゆれば、我が子は何としてか失はんずらん。少しおとなしければ、首をこそ斬らんずらめ。人の子は乳母などのもとに置きて時々見る事もあり。それだにも、恩愛は悲しき習ひぞかし。況んやこれは、生み落として後、一日片時も身を離たず、人も持たぬ物を持ちたるやうに思ひて、朝夕二人の中にて育てしものを。頼みをかけし人にあかで別れしその後は、二人をうらうへに置きてこそン具差見つるに、一人はあれども一人はなし。今日より後はいかがせん。この三年が間、夜昼肝心を消しつつ思ひまうけつる事なれども、さすが昨日今日とは思ひ寄らず。年ごろは長谷の観音をこそ深う頼み奉りつるに、終に捕られぬることの悲しさよ。ただ今もや失ひつらん」とかきくどき、泣くよりほかの事ぞなき。
さ夜もふけけれど、胸せきあぐる心地して、つゆもまどろみ給はぬが、乳母の女房に宣ひけるは、「ただ今ちとうちまどろみたりつる夢に、この子が白い馬に乗つて来たりつるが、『あまりに恋しう思ひ参らせ候へば、しばしの暇乞ひて参りて候ふ』とて、そばについゐて、何とやらん世に恨めしげに思ひて、さめざめと泣きつるが、ほどなくうち驚かれて、もしやと傍らをさぐれども人もなし。夢なりとしばしもあらで覚めぬる事の悲しさよ」とぞ、語り給ふ。乳母の女房も泣きけり。長夜もいとど明かしかねて、涙に床も浮くばかりなり。
限りあれば、鶏人暁を唱へて夜も明けぬ。
斎藤六帰り参りたり。「さていかにやいかに」と問ひ給へば、「ただ今までは別の御事も候はず。御文の候ふ」とて取りいだいて奉る。開けて御覧ずれば、「いかに御心苦しう思し召され候ふらん。ただ今までは別の事も候はず。いつしか誰誰も御恋しうこそ候へ」と、よにおとなしやかに書き給へり。
母上これを見給ひて、とかうの事も宣はず文を懐に引き入れて、うつ伏しにぞなられける。まことに心の中さこそおはしけめと、推し量られてあはれなり。
かくてはるかに時刻押し移りければ、「時のほどもおぼつかなう候ふに、帰り参らん」と申せば、母上泣く泣く御返事書いて賜でけり。斎藤六、暇申してまかり出づ。
乳母の女房、せめての心のあられずさに、走り出でて、いづくを指すともなくその辺を足に任せて泣き歩くほどに、ある人の申しけるは、「この奥に高雄といふ山寺あり。その聖、文覚房と申す人こそ、鎌倉殿にゆゆしき大事の人に思はれ参らせておはしますが、上﨟の御子を御弟子にせんとて、ほしがらるるなれ」と申しければ、
嬉しき事をも聞きぬと思ひて、母上にかくとも申さず、ただ一人高雄へ尋ね入り、聖に向かひ奉て、「血の中よりおふしたて参らせて、今年は十二にならせ給ひつる若君を、昨日武士に取られて候ふ。御命を乞ひ受け参らさせ給ひて、御弟子にせさせ給ひなんや」とて、聖の前に倒れ臥し、声も惜しまず泣き叫ぶ。
まことにせん方なげにぞ見えたりける。聖無慚におぼえければ、事の子細を問ひ給ふ。
起き上がつて、泣く泣く申しけるは、「平家小松三位中将の北の方の親しうまします人の御子を養ひ奉るを、もし中将殿の公達とや、人の申して候ひけん、昨日武士に取り参らせてまかり候ひぬるなり」と申す。
「さて武士を誰とか言ひつる。」「北条とこそ申し候ひつれ。」「いでいでさらば尋ねん」とてつき出でぬ。
この言葉を頼むべきにはあらねども、聖のかく言へば、少し人心地出で来て、急ぎ大覚寺へ帰り参り、母上にかくと申せば、「身を投げに出でぬるやらんと思ひて、我もいかならん淵河にも身を投げんと思ひたれば」とて、事の仔細を問ひ給ふ。
聖の申しつるやうを、ありのままに語り申しければ、「あはれ乞ひ請けて今一度見せよかし」とて、手を合はせてぞ泣かれける。
聖六波羅に行き向かつて、事の仔細を問ひ給ふ。
北条申しけるは、「鎌倉殿の仰せに、『平家の子孫、京中に多く忍んでありと聞く。中にも小松三位中の子息、中御門新大納言の娘の腹にありと聞く。平家の嫡々なる上、年もおとなしかんなり。いかにも尋ね出だして失ふべし』と仰せをかうむつて候ひしが、このほど末々の幼き人々をば少々取り奉て候ひつれども、この若君は在所を知り奉らで、すでに空しうまかり下らんとし候ひつるが、思はざるほか、一昨日聞き出だして、昨日迎へ奉て候へども、なのめならずうつくしうはする間、あまりにいとほしくて、いまだともかうもし奉らでおき参らせて候ふ」と申せば、
聖、「いでさらば、見奉らん」とて、若君のおはしける所へ参つて見参らせ給へば、二重織物の直垂に、黒木の数珠手にぬき入れておはします。髪のかかり、姿ことがら、まことにあてにうつくしく、この世の人とも見え給はず。今宵うちとけて寝給はぬと思しくて、少しおもやせ給へるにつけて、いとど心苦しう、らうたくぞおぼえける。
聖を御覧じて、何とか思しけん、涙ぐみ給へば、聖もこれを見奉て、すぞろに墨染の袖をぞ絞りける。
たとひ末の世に、いかなる仇敵になるともいかがこれをば失ひ奉るべきと、かなしうおぼえければ、北条に宣ひけるは、「この若君を見奉るに、先世の事にや候ふらん、あまりにいとほしう思ひ奉り候ふ。二十日が命を延べてたべ。鎌倉へ参つて申し預かり候はん。
聖、鎌倉殿を世にあらせ奉らんとて、我が身も流人でありながら、院宣うかがうて奉らんとて京へ上るに、案内も知らぬ富士川の尻に、夜渡りかかつて、すでに押し流されんとしたりし事、高市の山にてひつぱぎに逢ひ、手をすつて命ばかり生き、福原の籠の御所へ参り、前右馬兵衛督光能卿に付き奉て、院宣申し出だいて奉し時の約束には、『いかなる大事をも申せ、聖が申さん事をば、頼朝が一期の間はかなへん』とこそ宣ひしか。そのほか度々の奉公、且つは見給ひし事なれば、事あたらしう始めて申すべきにあらず。契りを重うして命を軽うず。鎌倉殿に受領神付き給はずは、よも忘れ給はじ」とて、その暁立ちにけり。
斎藤五、斎藤六これを聞き、聖を生身の仏のごとく思ひて、手を合はせて涙を流す。
急ぎ大覚寺へ参つて、この由申しければ、これを聞き給ひける母上の心の中、いかばかりかは嬉しかりけん。
されども鎌倉のはからひなれば、いかがあらんずらんと、おぼつかなけえれども、当時聖の頼もしげに申して下りぬる上、二十日の命の延び給ふに、母上、乳母の女房少し心も取り延べて、ひとへに観音の御助けなれば、頼もしうぞ思はれける。
かくて明かし暮らし給ふほどに、二十日の過ぐるは夢なれや、聖もいまだ見えざりけり。何となりぬる事やらんと、なかなか心苦しうて、今さらまた悶え焦がれ給ひけり。
北条も、「文覚房の約束の日数も過ぎぬ。さのみ在京して年を暮らすべきにあらず。今は下らん」とて、ひしめきければ、斎藤五、斎藤六も手を握り、肝魂を砕けども、聖もいまだ見えず、使者をだにも上せねば、思ふはかりぞなかりける。
これら大覚寺に帰り参つて、「聖もいまだ上り候はず、北条も暁下向つかまつり候ふ」とて、左右の袖を顔に押し当て、涙をはらはらと流す。これを聞き給ひける母上の心の中、いかばかりかは悲しかりけん。
「あはれ、おとなしやかならん者の、聖の行き逢はん所まで六代を具せよといへかし。もし乞ひ請けても上らんに、先に斬りたらん悲しさをば、いかがせんずる。さてとく失ひげなるか」と宣へば、
「やがてこの暁のほどとこそ見えさせ給ひ候へ。その故は、このほど御宿直つかまつり候ひつる北条の家の子郎等ども、よに名残惜しげに思ひ参らせて、或いは念仏申す者も候ふ、或いは涙を流す者も候ふ。」
「さてこの子はなにとしてあるぞ」と宣へば、「人の見参らせ候ふ時は、さらぬていにもてないて、御数珠をくらせおはしまし候ふが、人の候はぬ時は、御袖を御顔に押し当てて、御涙にむせばせ給ひ候ふ」と申す。
「さこそあるらめ。をさなけれども、心おとなしやかなる者なり。今夜限りの命と思ひて、いかに心細かるらん。『しばしもあらば、暇乞うて参らん』といひしかども、二十日にあまるに、あれへも行かず、これへも見えず。今日より後またいづれの日、いづれの時逢ひ見るべしともおぼえず。さて汝らはいかが計らふ」と宣へば、
「これはいづくまでも御供つかまつり、空しうならせ給ひて候はば、御骨を取り奉り、高野の御山に納め奉り、出家入道して、後世を弔ひ参らせんとこそ、思ひなつて候へ」と申す。
「さらばあまりおぼつかなうおぼゆるに、とうとう帰れ」と宣へば、二人の者ども泣く泣く暇申してまかり出づ。
さるほどに、同じき十二月十六日、北条四郎、若君具し奉て、すでに都をたちにけり。斎藤五、斎藤六、涙にくれて行く先も見えねども、最後の所までと思ひつつ御供に参りけり。
北条、「馬に乗れ」といへども乗らず、「最後の御供で候へば、苦しうも候ふまじ」とて、血の涙を流しつつ、足に任せてぞ下りける。
六代御前は、さしも離れ難う思しける母上、乳母の女房にも別れ果て、住みなれし都をも雲居のよそに顧みて、今日を限りの東路に赴かれけん心の中、推し量られてあはれなり。駒を早むる武士あれば、我が首討たんずるかと肝を消し、もの言ひかはす人あれば、すでに今やと心を尽くす。四宮河原と思へども、関山をもうち越えて、大津の浦にもなりにけり。粟津の原かとうかがへども、今日もはや暮れにけり。国々宿々うち過ぎうち過ぎ行くほどに、駿河国にも着き給ひぬ。若君の露の御命、今日を限りとぞ聞こえける。
千本の松原といふ所に、武士ども皆下りゐて、御輿かき据ゑさせ、敷き皮敷いて若君据ゑ奉る。
北条四郎若君の御前近う参つて申しけるは、「これまで具し参らせ候ひつるは、別の事は候はず。もし道にて聖にや行き逢ひ候ふと、待ち過ごし参らせ候ひつるなり。御志のほどは見え参らせ候ひぬ。山のあなたまでは、鎌倉殿の御心中も知り難う候へば、近江国で失ひ参らせて候ふ由、披露つかまつり候ふべし。誰申し候ふとも、一業所感の御事なれば、よもかなひ候はじ」と、泣く泣く申されければ、若君、ともかうもその返事をばし給はず。
斎藤五、斎藤六を近う召して、「我いかにもなりなん後、汝ら都へ帰つて、あなかしこ、道にて斬られたりとは申すべからず。その故は、終には隠れあるまじけれども、まさしうこの有様を聞いて、あまりに歎き悲しみ給はば、草の陰にても心苦しうおぼえて、後世のさはりともならんずるぞ。『鎌倉まで送りつけて参つて候ふ』と申すべし」と宣へば、二人の者ども、肝魂も消え果て、しばしは御返事にも及ばず。
ややあつて斎藤五、「君におくれ参らせて後、命生きて安穏に都へかへり上りつくべしともおぼえ候はず」とて、涙を押さへて臥しにけり。
すでに今はの時になりしかば、若君西に向かひ手を合はせ、静かに念仏称へつつ、首を延べてぞ待ち給ふ。
狩野工藤親俊切手に選ばれ、太刀を引つ側めて、左の方より若君の御後ろに立ち回り、すでに斬り奉らんとしけるが、目もくれ心も消え果てて、いづくに刀を打ち当つべしともおぼえず。前後不覚になりしかば、「つかまつともおぼえ候はず。他人に仰せつけられ候へ」とて、太刀を捨てて退きにけり。
「さらばあれきれ、これきれ」とて、きりてを選ぶ所に、ここに墨染の衣きたりける僧一人、つきげなる馬にのつて、鞭をうつてぞ馳せたりける。その辺の者ども、「あないとほし、あの松原の中にて、よにうつくしき若君を、北条殿のただ今きり奉らるぞや」とて、者ども、ひしひしとはしりあつまりければ、このそう心もとなさに、鞭をあげて招きけるが、なほもおぼつかなさに、きたる笠を脱いで、さし上げてぞ招きける。
北条、仔細ありとてまつ所に、このそうほどなく馳せ来たり、急ぎ馬より飛んでおり、「若君乞ひ請け奉つたり。鎌倉殿のみげうしよこれにあり」とてとりいだす。北条これをひらいてみるに、「まことや、小松の三位の中将維盛卿の子息、六代御前尋ね出だされて候ふ。しかるを高雄の聖文覚房の、しばし乞ひ請けうど候ふ。疑ひをなさずあづけらるべし。北条の四郎殿へ、頼朝」とあそばいて、ごはんあり。
北条おしかへしおしかへし、にさんべんようで、「神妙、神妙」とて、さしおかれければ、斎藤五、斎藤六はいふに及ばず、北条の家の子郎等どもも、みな喜びの涙をぞ流しける。
→【各章検討:泊瀬六代】
さるほどに文覚つと出で来たり、若君乞ひ請けたりとて、気色まことにゆゆしげなり。
「『この若君の父、三位中将殿は、初度の戦の大将なり。誰申すともかなふまじ』と宣ひつれば、『文覚が心をやぶつては、いかでか冥加もおはすべき』など、悪口申しつれども、なほ『かなふまじ』とて、那須野の狩に下り給ひし間、あまつさへ文覚も狩場の供して、やうやうに申して乞ひ請けたり。いかに遅う思しつらん」と申されければ、北条、「二十日と仰せられし御約束の日数も過ぎ候ひぬ。鎌倉殿の御許されもなきと存じて具し奉て下るほどに、かしこうぞ。ここにて過ちつかまつるらんに」とて、鞍置いて引かせたる馬どもに、斎藤五、斎藤六を乗せて上せらる。
我が身もはるかに打ち送り奉て、「しばらく御供申したう候へども、鎌倉にさして申すべき大事ども候ふ。暇申して」とて、うち別れてぞ下られける。まことに情深かりけり。
聖は若君を請け取り奉て、夜を日についで馳せ上るほどに、尾張国熱田の辺にて、今年もすでに暮れぬ。
あくる正月五日の夜に入りて、都へ上り着く。門をたたけども、人なければ音もせず。若君の飼ひ給ひたりける白い狗の子の走り出でて、尾を振つて向かひけるに、「母上はいづくにましますぞ」と宣ひけるこそ、せめての事なれ。斎藤六、築地を越え、門を開けて入れ奉る。近う人の住みたる所とも見えず。
「いかにもしてかひなき命を生かばやと思ひしも、恋しき人々を、今一度見ばやと思ふためなり。こはされば何となり給ひけるぞや」とて、夜もすがら泣き悲しみ給ふぞ理とおぼえてあはれなる。
夜を待ち明かして、近き里の人に尋ね給へば、「年の内に大仏参りとこそ承り候ひしか。正月のほどは長谷寺に御籠りと聞こえ候ひしか。その後は御宿所へ人の通ふとも見え候はず」と申しければ、斎藤五急ぎ長谷へ下つて、尋ね逢ひ奉り、この由申しければ、母上、乳母の女房つやつやうつつともおぼえ給はず、「これはされば夢かや夢か」とぞ宣ひける。
急ぎ大覚寺へ出でさせ給ひ、若君を御覧じて、嬉しさにもただ先立つものは涙なり。
「はやばや出家し給へ」と仰せられけれども、聖惜しみ奉て、出家もせさせ奉らず。やがて迎へ取つて高雄に置き奉り、北の方のかすかなる御有様をもとぶらひけるとぞ聞こえし。
観音の大慈大悲は、罪あるをも罪なきをも助け給へば、昔もかかるためし多しといへども、有り難かりし事どもなり。
さるほどに、北条四郎、六代午前具し奉て下りけるに、鎌倉殿の御使ひ鏡の宿にて行き逢ひたり。
「いかに」と問へば、「十郎蔵人殿、信太三郎先生殿、九郎判官殿に同心の由聞こえ候ふ。討ち奉れとの御気色で候ふ」と申す。
北条、「我が身は大字之召人具したれば」とて、甥の北条平六時貞が送りに下りけるを、老蘇の森より、「とうわ殿は帰つて、この人々のおはし所聞き出だして、討つて参らせよ」とて、とどめらる。
平六、都に帰つて尋ぬるほどに、「十郎蔵人殿の在所知りたり」といふ寺法師出で来たり。
かの僧に尋ぬれば、「我はくはしう知らず。知りたりといふ僧こそあれ」といひければ、押し寄せて、かの僧をからめ捕る。
「これはなんの故にからむるぞ。」「十郎蔵人の在所知つたんなればからむるなり。」「さらば『教へよ』とこいはめ。さうなうからむる事はいかに。天王寺にとこそ聞け。」「さらばじんじよせよ」とて、平六が聟の笠原十郎国久、殖原九郎、桑原二郎、服部平六を先として、その勢三十余騎天王寺へ発向す。
十郎蔵人の宿は二所にあり。谷の学頭、伶人兼春、秦六、秦七といふ者のもとなり。二手につくつて押し寄せたり。十郎蔵人はもとにおはしけるが、物の具したる者どもの討ち入るを見て、後ろより落ちにけり。
学頭が娘二人あり。ともに蔵人の思ひ者なり。これらを捕へて、蔵人の行方を尋ぬれば、姉は「妹に問へ」といふ、妹は「姉に問へ」といふ。にはかに落ちぬる事なれば、誰にもよも知らせじなれども、具して京へぞ上りける。
蔵人は熊野の方へ落ちけるが、ただ一人付いたりける侍、脚を病みければ、和泉国八木郷といふ所に逗留してこそゐたりけれ。
かの家主の男、蔵人を見知つて、夜もすがら京へ馳せ上り、北条平六に告げたりければ、天王寺の手の者はいまだ上らず。誰をか遣るべき」とて、大源次宗春といふ郎等を呼うで、「汝が見当てたりし山僧はいまだあるか。」「さ候ふ。」「さらば呼べ」とて呼ばれければ、件の法師出で来たり。
「十郎蔵人のおはします。人もなきに」とて、舎人雑色人数わづかに十四五人あひそへて差し遣はす。常陸房正明といふ者なり。
和泉国に下り着き、かの家に走り入つて見れどもなし。板敷打ち破つて捜し、塗籠の中を見れどもなし。
常陸房、大路に立つて見ければ、百姓の妻と思しくて、おとなしき女の通りけるを捕らへて、「この辺にあやしばうたる旅人のとどまつたる所やある。いはずは斬つて捨てん」と言へば、
「ただ今捜され候うつる家にこそ、昨夜までよに尋常なる旅人の二人とどまつて候ひつるが、今朝など出でて候ふやらん。あれに見え候ふ大屋にこそ今は候ふなれ」と言ひければ、
常陸房、黒革縅の腹巻の袖付けたるに、大太刀はいて、かの家に走り入つて見れば、歳五十ばかりなる男の、褐の直垂に折烏帽子着て、唐瓶子、菓子などとりさばくり、銚子とり持つて、酒勧めんとする所に、物の具したる法師の討ち入るを見て、かいふいて逃げければ、やがて続いて追つかける。
蔵人、「あの僧や、それはあらぬぞ。行家はここにあり」と宣へば、走り帰つて見るに、白小袖に大口ばかり着て、左の手には金作りの小太刀を持ち、右の手には野太刀の大きなるを持たれたり。
常陸房、「太刀投げさせ給へ」と申せば、蔵人大きに笑はれけり。
常陸房走り寄つてむずと切る。ちやうど合はせて躍り退く。寄り合ひ寄り退き、一時ばかりぞ戦うたる。
蔵人後ろなる塗籠の内へしざり入らんとし給へば、常陸房、「まさなう候ふ。な入らせ給ひ候ひそ」と申せば、「行家もさこそ思へ」とて、また躍り出でて戦ふ。
常陸房太刀を捨ててむずと組んでどうど臥す。上になり下になり、転び合ふ所に、大源次つと出で来たり、余りにあわてて、はいたる太刀をば抜かず、石を握つて蔵人の額をはたと打つて打ち破る。
蔵人大きに笑つて、「己は下﨟なれ、太刀長刀でこそ敵をばうて、礫にて敵打つやうやある。」
常陸房、「足を結へ」とぞ下知しける。常陸房は「敵が足を結へ」とこそ申しけるに、余りに慌てて、四の足をぞ結うたりける。その後蔵人の首に縄をかけて、からめ引き起こして押し据ゑたり。
「水参らせよ」と宣へば、干飯を洗うて参らせたり。水をば召して干飯をば召さず差し置き給へば、常陸房取つて食うてんげり。
「わ僧は山法師か寺法師か。」「山法師で候ふ。」「誰といふぞ。」「西塔の北谷法師、常陸房正明と申す者で候ふ。」「さては行家に使はれんといひし僧か。」「さ候ふ。」「頼朝が使ひか、平六が使ひか。」「鎌倉殿の御使ひ候ふ。まことに鎌倉殿をば討ち参らせんと思し召し候ひしか。」
「これほどの身になつて後思はざりしといはばいかに、さ思ひしといはばいかに。手なみのほどはいかが思ひつる」と宣へば、「山上にて多くの事に逢うて候ふに、いまだこれほど手ごはき事に逢ひ候はず。よき敵三人に逢うたる心地こそし候ひつれ」と申す。
「さて正明をばいかが思し召され候ひつる」と申せば、「それはとられなん上は」とぞ宣ひける。
「その太刀取り寄せよ」とて、召し寄せて見給へば、蔵人の太刀は一所も切れず、常陸房が太刀は四十二所切れたりけり。
やがて伝馬たてさせ、乗せ奉て上るほどに、その夜は江口の長者がもとに留まつて、夜もすがら使ひを走らかす。
明くる日の午の刻ばかり、北条平六その勢百騎ばかり旗ささせて下るほどに、淀の赤井河原で行き逢うたり。「都へは入れ奉るべからずといふ院宣で候ふ。鎌倉殿の御気色もその儀でこそ候へ。早々御首を賜はつて、鎌倉殿の見参に入れて御恩かうぶり給へ」といへば、さらばとて赤井河原で十郎蔵人の首を切る。
信太三郎先生義教は、醍醐の山に籠つたる由聞こえしかば、押し寄せて捜せどもなし。
伊賀の方へ落ちぬと聞こえしかば、服部平六を先として、伊賀国へ発向す。千戸の山寺にありと聞こえし間、押し寄せてからめんとするに、袷の小袖に大口ばかり着て、金にて打ちくくんだる腰の刀にて、腹かき切つてぞ臥したりける。首をば服部平六とつてんげり。やがて持たせて京へ上り、北条平六に見せたりければ、「やがて持たせて下り、鎌倉殿の見参に入れて、御恩かうぶり給へ」といひければ、常陸房、服部平六各首ども持たせて、鎌倉へ下り、見参に入れたりければ、「神妙なり」とて、常陸房は笠井へ流さる。
「下り果てば勧賞かうぶらんとこそ思ひつるに、さこそなからめ、あまつさへ流罪に処せらるる条存外の次第なり。かかるべしと知りたりせば、何しに身命を捨てけん」と後悔すれどもかひぞなき。されども中二年といふに、召し返され、「大将軍討つたる者は冥加のなければ、一旦いましめつるぞ」とて、但馬国に多田庄、摂津国に葉室、二箇所賜はつて帰り上る。服部平六、平家の祗候人たりしかば、没官せられたりける服部返し賜はつてんげり。
→【各章検討:六代被斬】
さるほどに六代御前はやうやう十四五にもなり給へば、みめ容貌いよいようつくしく、あたりも照り輝くばかりなり。母上これを御覧じて、「あはれ世の世にてあらましかば、当時は近衛司にてあらんずるものを」と宣ひけるこそあまりの事なれ。
鎌倉殿、常はおぼつかなしげに思して、高雄の聖のもとへ便宜ごとに、「さても維盛卿の子息はなにと候ふやらん。昔、頼朝を相し給ひしやうに、朝の怨敵をも滅ぼし、会稽の恥をも雪ぐべき者にて候ふか」と申されければ、聖の返事には、「これは底もなき不覚仁にて候ふぞ。御心安う思し召し候へ」と申されけれども、鎌倉殿なほも心ゆかずげにて、「謀叛起こさば、やがて方人せうずる聖の御房なり。ただし頼朝が一期のほどは、誰か傾くべき。子孫の末ぞ知らぬ」と宣ひけるこそ恐ろしけれ。
母上これを聞き給ひて、「いかにもかなふまじ。はやばや出家し給へ」と仰せられければ、六代御前生年十六と申しし文治五年の春の頃、うつくしげなる髪を肩のまはりにはさみ下ろし、柿の衣、袴、笈など拵へ、聖に暇乞うて修行に出でられけり。斎藤五、斎藤六も、同じさまに出で立つて、御供申しけり。
まづ高野へ参り、父の善知識したりける滝口入道に尋ね逢ひ、御出家の次第、臨終の有様、くはしう聞き給ひて、「且つうはその跡もゆかし」とて、熊野へ参り給ひけり。浜の宮の御前にて父の渡り給ひける山なりの島を見渡して、渡らまほしくは思しけれども、波風向かうてかなはねば、力及ばでながめやり給ふにも、「我が父はいづくにか沈み給ひけん」と、沖より寄する白波にも問はまほしうぞ思はれける。汀の砂も父の御骨やらんとなつかしう思しければ、涙に袖はしをれつつ、塩汲む海人の衣ならねども、かはく間なくぞ見え給ふ。
渚に一夜逗留し、念仏申し経を読み、指の先にて砂に仏の容貌をかきあらはし、明けければ、貴き僧を請じて、父の御ためと供養して、作善の功徳さながら聖霊に回向して、亡者に暇申しつつ、泣く泣く都へ上られけり。
小松殿の御子丹後侍従忠房は、八島の戦より落ちて行方も知らずおはせしが、紀伊国の住人湯浅権守宗重を頼んで湯浅の城にぞ籠られける。
これを聞いて平家に志思ひける越中次郎兵衛、上総五郎兵衛、悪七兵衛、飛騨四郎兵衛以下の兵ども付き奉る由聞こえしかば、熊野別当、鎌倉殿より仰せをかうむつて、両三月が間に八箇度寄せて攻め戦ふ。されども城の内の兵ども命を惜しまず防ぎければ、毎度に味方追ひ散らされ、熊野法師数をつくいて討たれにけり。
熊野別当、鎌倉殿へ飛脚を奉て、「当国湯浅の合戦の事両三月が間に八箇度寄せて攻め戦ふ。されども城の内の兵ども命を惜しまず防ぐ間、毎度に味方追ひ落とされて、敵をしへたぐるに及ばず。近国二三箇国をも賜はつて攻め落とすべき」由申したりければ、
鎌倉殿、「その条、国の費え、人のわづらひなるべし。立て籠もる所の凶徒は定めて海山の盗人にてぞあるらん。山賊、海賊きびしう守護して城の口を固めて守るべし」とぞ宣ひける。
その定にしたりければ、げにも後には人一人もなかりけり。
鎌倉殿はかりことに、「小松殿の公達の、一人も二人も生き残り給ひたらんをば、助け奉るべし。その故は池の禅尼の使として、頼朝を流罪に申し宥められしは、ひとへに内府の芳恩なり」と宣ひければ、丹後侍従六波羅へ出でて名乗られけり。やがて関東へ下し奉る。
鎌倉殿対面して、「都へ御上り候へ。片ほとりに思ひて当て参らする事候ふ」とて、すかし上せ奉り、追つ様に人を上せて、勢田の橋の辺にて切つてんげり。
小松殿の公達六人のほかに、土佐守宗実とておはしけり。三歳より大炊御門の左大臣経宗公養子にして、異姓他人になり、武芸の道をばうち捨てて文筆をのみたしなんで、今年は十八になり給ふを、鎌倉殿より尋ねはなかりけれども、世に憚つて追ひ出だされたりければ、先途を失ひ、大仏の聖俊乗房のもとにおはして、「我はこれ小松の内府の末の子に、土佐守宗実と申す者にて候ふ。三歳よりより大炊御門の左大臣経宗公養子にして、異姓他人になり、武芸の道をばうち捨てて文筆をのみたしなんで、生年十八歳にまかりなる。鎌倉より尋ねらるる事は候はねども、世に恐れて追ひ出だされて候ふ。聖の御房御弟子にせさせ給へ」とて髻おし切り給ひぬ。
「それもなほ恐ろしう思し召さば、鎌倉へ申して、げにも罪深かるべくはいづくへも遣はせ」と宣ひければ、聖いとほしく思ひ奉て、出家せさせ奉り、東大寺の油倉といふ所にしばらく置き奉て、関東へこの由を申されけり。
「なに様にも、見参してこそともかうも計らはめ。まづ下し奉れ」と宣ひければ、聖力及ばで関東へ下し奉る。この人奈良を立ち給ひし日よりして、飲食の名字を断つて湯水をも喉へ入れず。足柄越えて関本といふ所にて遂に失せ給ひぬ。「いかにもかなふまじき道なれば」とて、思ひ切られけるこそ恐ろしけれ。
さるほどに、建久元年十一月七日鎌倉殿上洛して、同じき九日、正二位大納言になり給ふ。同じき十一日、大納言右大将を兼じ給へり。やがて両職を辞して、十二月四日、関東へ下向。
建久三年三月十三日、法皇崩御なりにけり。御歳六十六、瑜伽振鈴の響きはその夜を限り、一乗案誦の御声はその暁に終はりぬ。
同じき六年三月十三日、大仏供養あるべしとて、二月中に鎌倉殿また御上洛あり。
同じき十二日、大仏殿へ参らせ給ひたりけるが、梶原を召して、「てがいの門の南の方に大衆何十人を隔てて、あやしばうたる者の見えつる。召しとつて参らせよ」と宣ひければ、梶原承つてやがて具して参りたり。髯をば剃つて髻をば切らぬ男なり。
「何者ぞ」と問ひ給へば、「これほど運命尽き果て候ひぬる上は、とかう申すに及ばず。これは平家の侍、薩摩中務家資と申しし者にて候ふ。」「それはなにと思ひてかくはなりたるぞ。」「もしやと狙ひ申し候ひつるなり。」「志のほどはゆゆしかりけり」とて、供養果てて都へ入らせ給ひて、六条河原にて切られにけり。
平家の子息は去んぬる文治元年の冬の頃、一つ子二つ子を残さず、腹の内をあけて見ずといふばかりに尋ねとつて失ひてき。今は一人もあらじと思ひしに、新中納言の末の子に伊賀大夫知忠とておはしき。平家都を落ちし時、三歳にて捨て置かれたりしを、乳母の紀伊次郎兵衛為教養ひ奉て、ここかしこに隠れありきけるが、備後国太田といふ所に忍びつつゐたりけり。
やうやう成人し給へば、郡郷の地頭、守護怪しみけるほどに、都へ上り法性寺の一の橋なる所に忍んでおはしけり。ここは祖父入道相国、「自然の事あらん時、城郭にもせん」とて、堀を二重に掘つて四方に竹を植ゑられたり。逆茂木引いて昼は人音もせず。夜になれば尋常なる輩多く集まつて、詩作り歌詠み管弦などして遊びけるほどに、何としてか漏れ聞こえたりけん。
その頃人の怖ぢ恐れけるは、一条二条入道能保といふ人なり。その侍に後藤兵衛基清が子に、新兵衛基綱、「一の橋に違勅の者あり」と聞き出だして、建久七年十月七日の辰の一点に、その勢百四五十騎、一の橋へ馳せ向かひ、をめき叫んで攻め戦ふ。
城の内にも三十余人ありける者ども、大肩脱ぎに肩脱いで、竹の陰より差しつめ引きつめ散々に射ければ、馬人多く射殺されて、面を向かふべきやうもなし。
さるほどに、一の橋に違勅の者ありと聞き伝へ、在京の武士ども我も我もと馳せ集ふ。ほどなく一二千騎になりしかば、近辺の小家を壊ち寄せ、堀を埋め、をめき叫んで攻め入りけり。城の内の兵ども打ち物抜いて走り出で、或いは討ち死にする者もあり、或いは痛手負うて自害する者もあり。
伊賀大夫知忠は生年十六歳になられけるが、痛手負うて自害し給ひたるを、乳母の紀伊次郎兵衛入道膝の上にかき乗せて、涙をはらはらと流いて、高声に十念称へつつ、腹かき切つてぞ死ににける。その子兵衛太郎、兵衛次郎ともに討ち死にしてんげり。
城の内に三十余人ありける者ども大略討ち死に自害して、館には火をかけたりけるを、武士ども馳せ入つて、手々に討ちける首どもとつて、太刀長刀の先に貫き、二位入道殿へ馳せ参る。
一条大路へ車やり出だして首ども実検せらる。紀伊次郎兵衛入道の首は見知つたる者も少々ありけり。伊賀大夫の首人いかでか見知り奉るべき。この人の母上は治部卿局とて、八条女院に候はれけるを、迎へ寄せ奉て見せ奉り給ふ。「三歳と申しし時、故中納言に具せられて西国へ下りし後は、生きたりとも死んだりとも、その行方を知らず。ただし故中納言の思ひ出づる所々のあるはさにこそ」とて泣かれけるにこそ、伊賀大夫の首とも人知つてんげれ。
平家の侍越中次郎兵衛盛嗣は但馬国へ落ち行きて、気比四郎道弘が婿になつてぞゐたりける。道弘、越中次郎兵衛とは知らざりけり。されども、錐袋にたまらぬ風情にて、夜になればしうとが馬引き出だいて馳せ引きしたり。海の底十四五町、二十町くぐりなどしければ、地頭、守護怪しみけるほどに、何としてか漏れ聞こえたりけん、鎌倉殿御教書を下されけり。
「但馬国の住人朝倉太郎大夫高清、平家の侍越中次郎兵衛盛嗣当国に居住の由聞こし召す。召し進ぜよ」と仰せ下さる。
気比四郎は朝倉大夫が婿なりければ、呼び寄せて、「いかがしてからめんずる」と議するに、「湯屋にてからむべし」とて、湯に入れて、したたかなる者五六人おろし合はせてからめんとするに、取りつけば投げ倒され、起き上がれば蹴倒さる。互ひに身は濡れたり、取りもためず。されども衆力に強力かなはぬ事なれば、二三十人ばつと寄つて、太刀の峰長刀の柄で打ちなやしてからめ取り、やがて関東へ参らせたりければ、御前に引つ据ゑさせて、事の仔細を召し問はる。
「いかに汝は同じ平家の侍といひながら、故親にてあんなるに死なざりけるぞ。」
「それは余りに平家の脆く滅びてましまし候ふ間、もしやと狙ひ参らせ候ひつるなり。太刀のみのよきをも、征矢の尻の鉄よきをも、鎌倉殿の御ためとこそ持つて候ひつれども、これほど運命尽き果て候ひぬる上は、とかう申すに及び候はず。」
「志ほどはゆゆしかりけり。頼朝を頼まば助けて仕はんはいかに。」
「勇士二主に仕へず。盛嗣ほどの者に御心許し給ひては、必ず御後悔候ふべし。ただ御恩にはとくとく首を召され候へ」と申しければ、さらば斬れとて、由井の浜に引き出だいて斬つてんげり。ほめぬ者こそなかりけれ。
その頃の主上は御遊をむねとせさせ給ひて、政道は一向卿の局のままなりければ、人の愁へ歎きもやまず。
呉王、剣客を好みしかば、天下に疵をかうむる者絶えず。楚王細腰を愛せしかば、宮中に飢ゑて死する女多かりき。上の好みに下は従ふ間、世の危き事を悲しんで、心ある人々は歎き合へり。
ここに文覚もとより恐ろしき聖にて、いろふまじき事にいろひけり。二の宮は御学問怠らせ給はず、正理を先とせさせ給ひしかば、いかにもしてこの君を位につけ奉らんと計らひけれども、前右大将頼朝卿のおはせしほどはかなはざりけるが、
建久十年正月十三日、頼朝卿失せ給ひしかば、やがて謀叛をおこさんとしけるほどに、たちまちに漏れ聞こえて、二条猪熊の宿所に官人どもつけられ召し捕つて、八十にあまつて後、隠岐国へぞ流されける。
文覚京を出づるとて、「これほど老いの浪に望んで、今日明日とも知らぬ身を、たとひ勅勘なりとも、都の片ほとりには置き給はで、隠岐国まで流さるる及丁冠者こそやすからね。」
この君はあまりに及丁を好ませ給ひしかば、文覚かやうに悪口申しけるなり。
「終には文覚が流さるる国へ迎へ申さんずるものを」と申しけるこそ恐ろしけれ。
されば承久に御謀叛起こさせ給ひて、国こそ多けれ、隠岐国へ移され給ひけるこそ不思議なれ。かの国にても文覚が亡霊あれて、常は御物語申しけるとぞ聞こえし。
さるほどに、六代御前は、三位禅師とて、高雄に行ひすましておはしけるを、「さる人の子なり、さる人の弟子なり。頭をば剃ったりとも、心をばよも剃らじ」とて、鎌倉殿よりしきりに申されたりければ、安判官資兼に仰せて、召し捕つて関東へぞ下されける。
駿河国の住人、岡部権守泰綱に仰せて、田越川にて斬られてんげり。十二の歳より、三十に余るまで保ちけるは、ひとへに長谷の観音の御利生とぞ聞こえし。それよりしてこそ、平家の子孫は永く絶えにけれ。
→【概要:灌頂巻】
→【各章検討:女院出家】
建礼門院は、東山のふもと、吉田の辺なる所にぞ、立ち入らせ給ひける。中納言の法院慶恵と申す奈良法師の坊なりけり。住み荒らして年久しうなりければ、庭には草深く、軒には信夫しげれり。簾絶え閨あらはにて、雨風たまるべうもなし。
花はいろいろにほへども、主と頼む人もなく、月は夜な夜なさし入れども、ながめてあかす主もなし。昔は玉のうてなを磨き、錦の帳にまとはれて、明かし暮らし給ひしに、今はありとしある人にみな別れはてて、あさましげなる朽ち坊に入らせ給ひける御心のうち、おしはかられてあはれなり。魚のくがに上がれるがごとく、鳥の巣を離れたるがごとし。さるままには、うかりし浪の上、舟のうちの御住まひ、今は恋しうぞ思し召す。蒼波道遠し、思ひを西海千里の雲に寄せ、白屋苔深くして、涙東山一庭の月に落つ。悲しともいふはかりなし。
かくて女院は、文治元年五月一日、御ぐしおろさせ給ひけり。
御戒の師には、長楽寺の阿証坊の上人印西とぞ聞こえし。御布施には、先帝の御直衣なり。いまはの時まで召されたりければ、その御移り香もいまだ失せず、御形見に御覧ぜんとて、西国よりはるばると都まで持たせ給ひたりければ、いかならん世までも、御身を放たじとこそ思し召されけれども、御布施になりぬべき物のなき上、かつはかの御菩提のためとて、泣く泣くとり出ださせ給ひけり。
上人これを賜はつて、何と奏すべき旨もなくして、墨染の袖をしぼりつつ、泣く泣くまかり出でられけり。この御意をば八幡に縫うて、長楽寺の仏前にかけられけるとぞ聞こえし。
女院は十五にて、女御の宣旨を下され、十六にて后妃の位にそなはり、君王の傍らに候はせ給ひて、あしたには朝政を勧め、夜は夜をもつぱらにし給へり。
二十二にて皇子御誕生、皇太子に立ち、位に即かせ給ひしかば、院号かうぶらせ給ひて、建礼門院とぞ申しける。入道相国の御娘なる上、天下の国母にてましましければ、世の重うし奉ることなのめならず。今年は二十九にぞならせましましける。
桃李の御粧ひなほこまやかに、芙蓉の御容貌もいまだ衰へさせ給はねども、翡翠の御かんざしつけても、何にかはせさせ給ふべきなれば、つひに御様をかへさせ給ふ。憂き世をいとひ、まことの道に入らせ給へども、御嘆きはさらにつきせず。
人々今はかくとて海にしづみし有様、先帝、二位殿の御面影、いかならん世までも忘れ難く思し召すに、露の御命、なにしに今までながらへて、かかる憂き目を見るらんと思し召し続けて、御涙せきあへさせ給はず。五月の短夜なれども、明かしかねさせ給ひつつ、おのづからうちまどろませ給はねば、昔の事をば夢にだにも御覧ぜず。壁にそむける残んの灯火の影かすかに、夜もすがら窓うつくらき雨の音ぞさびしかりける。上陽人が上陽宮に閉ぢられけん悲しみも、これには過ぎじとぞ見えし。
昔をしのぶつまとなれとてや、もとの主の移し植ゑたりけん花橘の風なつかしうかをりけるに、ほととぎすの二声三声おとづれて通りければ、女院、ふるきことなれども、思し召し出でて、御硯の蓋にかうぞあそばされける。
♪100
ほととぎす 花橘の 香をとめて
鳴くは昔の 人や恋ひしき
女房たち、さのみたけく二位殿、越前の三位の上のやうに、水の底にも沈み給はねば、もののふのあらけなきに捕らはれて、旧里に帰り、若きも老いたるも様をかへ、かたちをやつし、あるにもあらぬ有様にてぞ、思ひもかけぬ谷の底、岩のはざまにてぞ、明かし暮らし給ひける。
住まひし宿は、みな煙と上りにしかば、むなしき跡のみ残りて、しげき野辺となりつつ、見なれし人のとひ来るもなし。仙家より帰つて七世の孫にあひけんも、かくやとおぼえて哀れなり。
さるほどに七月九日の日の大地震に築地も崩れ、荒れたる御所もかたぶき破れて、いとどすませ給ふべき御便りもなし。緑衣の監使、宮門を守るだにもなし。心のままに荒れたる間垣は、しげき野辺よりも露けく、折知り顔に、いつしか虫の声々うらむるも哀れなり。
夜もやうやう長くなれば、いとど御寝覚めがちにて、明かしかねさせ給ひけり。つきせぬ御物思ひに、秋のあはれさへうち添ひて、忍び難うぞ思し召されける。
何事も変はり果てぬるうき世なれば、おのづからあはれをかけ奉るべき草のたよりさへかれ果てて、誰はぐくみ奉るべしとも見え給はず。
→【各章検討:大原入】
されども冷泉大納言隆房卿、七条修理大夫信隆卿の北の方、しのびつつ、やうやうにとぶらひ申させ給ひけり。
「あの人どものはぐくみにてあるべしとこそ、昔は思はざりしか」とて、女院、御涙を流させ給へば、つき参らせたる女房達も、みな袖をぞ絞られける。
この御住まひも、なほ都近く、玉鉾の道ゆき人の人目もしげければ、露の御命の風を待たんほどは、うき事聞かぬ深き山の、奥の奥へも入りなばやとは思しけれども、さるべき便りもましまさず。
ある女房の参つて申しけるは、「大原山の奥、寂光院と申し候ふ所こそ、しづかに候へ」とぞ申しければ、「山里はもののさびしきことこそあるなれども、世のうきよりは住みよかんなるものを」とて、思し召したたせ給ひけり。
御輿などは、隆房卿の北の方の沙汰ありけるとかや。
文治元年長月の末に、かの寂光院へいらせおはします。
道すがら、四方の梢のいろいろなるを御覧じ過ぎさせ給ふほどに、山陰なればにや、日もすでに暮れかかりぬ。野寺の鐘の入相の声すごく、分くる草葉の露しげみ、いとど御袖濡れ増さり、嵐はげしく、木の葉みだりがはし。空かき曇り、いつしかうちしぐれつつ、鹿の音かすかに音づれて、虫の恨みも絶え絶えなり。とにかくにとりあつめたる御心細さ、たとへやるべき方もなし。
浦伝ひ島伝ひせし時も、さすがかくはなかりしものをと、思し召すこそ悲しけれ。岩に苔むしてさびたる所なりければ、住ままほしうぞ思し召す。露結ぶ庭の荻原霜がれて、間垣の菊の枯れ枯れに、うつろふ色を御覧じても、御身の上とやおぼしけん。仏の御前に参らせ給ひて、「天子聖霊、成等正覚、頓証菩提」と祈り申させ給ふにつけても、先帝の御面影、ひしと御身にそひて、いかならん世にか、思し召し忘れさせ給ふべき。
さて寂光院の傍らに、方丈なる御庵室を結んで、一間をば仏所に定め、昼夜朝夕の御勤め、長時不断の御念仏、怠る事なくして、月日を送らせ給ひけり。
かくて神無月中の五日の暮れ方に、庭に散りしく楢の葉を、踏み鳴らして聞こえければ、女院、「世をいとふ所に、何者のとひ来るやらん。あれ見よや。しのぶべき者ならば、急ぎしのばん」とて見せらるるに、小鹿の通るにてぞありける。女院、「いかに」と御尋ねあれば、大納言佐殿、涙をおさへて、
♪101
岩根ふみ 誰かはとはん 楢の葉の
そよぐは鹿の 渡るなりけり
女院あはれに思し召し、窓の小障子この歌をにあそばし留めさせ給ひけり。
かかるおんつれづれの中に、思し召しなぞらふる事どもは、つらき中にもあまたあり。軒に並べる植木をば、七重宝樹とかたどれり。岩間に積もる水をば、八功徳池と思し召す。無常は春の花、風に従つて散りやすく、有界は秋の月、雲にともなつて隠れやすし。昭陽殿に花をもてあそびし朝には、風来たつてにほひを散らし、長秋宮に月を詠ぜし夕べには、雲覆うて光を隠す。昔は玉楼金殿に、錦のしとねを敷き、妙なりし御住まひなりしかども、今は柴引き結ぶ草の庵、よその袂もしをれけり。
→【各章検討:大原御幸】
かかりしほどに、文治二年の春の頃、法皇、建礼門院大原の閑居の御住まひ、御覧ぜまほしう思し召されけれども、如月、弥生のほどは、風はげしく、余寒もいまだつきせず。峰の白雪消えやらで、谷のつららもうち解けず。
春すぎ夏きたつて、北祭も過ぎしかば、法皇夜をこめて、大原の奥へぞ御幸なる。忍びの御幸なりけれども、供奉の人々、徳大寺、花山院、土御門以下、公卿六人、殿上人八人、北面少々候ひけり。
鞍馬通りの御幸なりければ、清原深養父が補陀落寺、小野皇太后宮の旧跡叡覧あつて、それより御輿に召されけり。遠山にかかる白雲は、散りにし花の形見なり。青葉に見ゆる梢には、春の名残ぞ惜しまるる。頃は卯月二十日余りの事なれば、夏草のしげみが末をわけ入らせ給ふに、始めたる御幸なれば、御覧じなれたる方もなし、人跡絶えたるほども思し召し知られてあはれなり。
西のやまのふもとに、一宇の御堂あり。すなはち寂光院これなり。
旧う作りなせる山水木立、由あるさまの所なり。「甍やぶれては霧不断の香をたき、枢落ちては月常住の灯を挑ぐ」とも、かやうの所をや申すべき。
庭の若草しげり合ひ、青柳糸を乱りつつ、池の浮き草波にただよひ、錦をさらすかとあやまたる。中島の松にかかれる藤波の、うら紫に咲ける色、青葉まじりの遅桜、初花よりもめづらしく、岸の山吹咲き乱れ、八重たつ雲の絶え間より、山ほととぎすの一声も、君の御幸を待ち顔なり。法皇これを叡覧あつて、かうぞ思し召し続けける。
♪102
池水に 汀の桜 散りしきて
波の花こそ 盛りなりけれ
ふりにける岩の絶え間より、落ちくる水の音さへ、故び由ある所なり。緑蘿の垣、翠黛の山、画に書くとも筆も及びがたし。
女院の御庵室を御覧ずれば、軒には蔦、朝顔這ひかかり、忍まじりの忘れ草、瓢箪しばしば空し、草顔淵がちまたにしげし、れいでう深く鎖せり、雨原憲が枢をうるほすともいつつべし。板の葺き目もまばらにて、時雨も霜も置く露も、漏る月影に争ひて、たまるべしとも見えざりけり。
後ろは山、前は野辺、いざさ小篠に風騒ぎ、世にたたぬ身のならひとて、うきふししげき竹柱、都の方の言伝は、間遠に結へるませ垣や、はつかに事問ふものとては、峰に木伝ふ猿の声、しづが爪木の斧の音、これらが音づれならでは、正木のかづら、青つづら、くる人まれなる所なり。
法皇、「人やある、人やある」と召されけれども、御答へ申す者もなし。はるかにあつて老い衰へたる尼一人参りたり。
「女院はいづくへ御幸なりぬるぞ」と仰せければ、「この上の山へ花摘みに入らせ給ひて候ふ」と申す。
「さやうのことにつかへ奉るべき人もなきにや、さこそ世を捨つる身といひながら、御いたはしうこそ」と仰せければ、
この尼申しけるは、「五戒十善の御果報尽きさせ給ふによつて、今かかる御目を御覧ずるにこそ候へ。捨身の行に、なじかは御身を惜しませ給ひ候ふべき。因果経には、『欲知過去因、見其現在果、欲知未来果、見其現在因』と説かれたり。過去未来の因果を悟らせ給ひなば、つやつや御嘆きあるべからず。悉達太子は、十九にて伽耶城を出で、檀特山の麓にて、木の葉を連ねて肌へを隠し、嶺にのぼりて薪を取り、谷に下りて水をむすび、難行苦行の功によつて、つひに成等正覚し給ひき」とぞ申しける。この尼の有様を御覧ずれば、身には絹布のわきもみえぬ物を結び集めてぞ着たりける。
あの有様にても、かやうのこと申す不思議さよ、と思し召し、「そもそも汝はいかなる者ぞ」と仰せければ、
この尼さめざめと泣いて、しばしは御返事にも及ばず。ややあつて、涙をおさへて申しけるは、「申すにつけて憚りおぼえ候へども、故少納言入道信西が娘、あはの内侍と申すものにて候ふなり。母は紀伊の二位、さしも御いとほしみ深うこそ候ひしに、御覧じ忘れさせ給ふにつけても、身の衰へぬるほど思ひ知られて、今さらせん方なうこそ候へ」とて、袖を顔におしあてて、しのびあへぬ様、目も当てられず。
法皇、「されば汝は、阿波内侍にてこそあんなれ。今さら御覧じ忘れけり。ただ夢とのみこそおぼしめせ」とて、御涙せきあへさせ給はず。供奉の公卿殿上人も、「不思議の尼かなと思ひたれば、理にてありけり」とぞ、おのおの申し合はれける。
さて、あなたこなたを叡覧あるに、庭の千草露重く、籬に倒れかかりつつ、外面の小田も見えわかず。
御庵室に入らせ給ひて、障子を引きあけて御覧ずれば、一間には来迎の三尊おはします。中尊の御手には、五色の糸をかけられたり。左に普賢の画像、右には善導和尚ならびに先帝の御影をかけ、八軸の妙文、九帖の御疏も置かれたり。蘭麝の匂ひにひきかへて、香の煙ぞ立ち上る。かの浄名居士の方丈の室の中に、三万二千の床を並べ、十方の諸仏を請じ給ひけんも、かくやとぞおぼえける。障子には諸経の要文ども、色紙に書いて所々に押されたり。
その中に大江定基法師が、清涼山にして詠じたりけん、「笙歌遥か聞こゆ弧雲の上、聖衆来迎す落日の前」とも書かれたり。少しひきのけて、女院の御製とおぼしくて、
♪103
思ひきや 深山の奥に すまひして
雲居の月を よそに見んとは
さて傍らを御覧ずれば、御寝所とおぼしくて、竹の御竿に麻の御衣、紙の御衾などかけられたり。さしも本朝漢土の妙なる類数を尽くして、綾羅錦繍の粧もさながら夢になりにけり。供奉の公卿殿上人も、おのおの見参らせ給ひし事どなれば、今のやうにおぼえて、皆袖をぞ絞られける。
さるほどに、上の山より、濃き墨染の衣着たる尼二人、岩のかけ路を伝ひつつ、下りわづらひてぞ見えたりける。
法皇これを御覧じて、「あれは何者ぞ」と御尋ねあれば、老尼涙をおさへて申しけるは、「花籃肱にかけ、岩躑躅取り具して持たせ給ひたるは、女院にて渡らせ給ひ候ふなり。爪木に蕨折り具し候ふは、鳥飼中納言維実の娘、五条大納言邦綱な養子、先帝の御乳母、大納言典侍」と申しもあへず泣きけり。
法皇も世に哀れげに思し召して、御涙せきあへさせ給はず。
女院はさこそ世を捨つ御身と言ひながら、今かかる有様を見え参らせんずらん恥づかしさよ、消えも失せばやと思し召せどもかひぞなき。
宵宵ごとの閼伽の水、むすぶ袂もしをるるに、暁起きの袖の上、山路の露もしげくして、絞りやかねさせ給ひけん、山へも帰らせ給はず、御庵室へも入らせ給はず、御涙にむせばせ給ひ、あきれて立たせましましたる所に、内侍の尼参りつつ、花籃をば賜りけり。
→【各章検討:六道之沙汰】
「世をいとふ御習ひ、何かは苦しう候ふべき。はやばや御対面侍うて、還御参らさせ候へ」と申しければ、女院御庵室に入らせ給ふ。
「一念の窓の前には摂取の光明を期し、十年の柴の扉には、聖衆の来迎をこそ待ちつるに、思ひの外の御幸なりける不思議さよ」とて、泣く泣く御見参ありけり。
法皇この御有様を見参らさせ給ひて、「非想の八万劫、なほ必滅の愁へにあひ、欲界の六天、いまだ五衰の悲しみをまぬかれず。善見城の勝妙の楽、仲間禅の高台の閣、また夢の裏の果報、幻の間の楽しみ、すでに流転無窮なり。車輪のめぐるがごとし。天人の五衰の悲しみは、人間にも候ひけるものを」とぞ仰せける。「さるにても、誰か事問ひ参らせ候ふ。何事につけてもさこそ古思し召し出で候ふらめ」と仰せければ、
「いづかたよりも音信るる事も候はず。隆房、信隆の北の方より、絶え絶え申し送る事こそ候へ。その昔あの人どもの育みにてあるべしとは、つゆも思し召し寄り候はず」とて、御涙を流させ給へば、つき参らせたる女房たちも、皆袖をぞ濡らされける。
女院涙をおさへて申させ給ひけるは、「かかる身になる事は、一旦の嘆き申すに及び候はねども、後生菩提のためには、喜びとおぼえ候ふなり。たちまちに釈迦の遺弟につらなり、かたじけなく弥陀の本願に乗じて、五障三従の苦しみをのがれ、三時に六根を清め、一筋に九品の浄刹を願ふ。もつぱら一門の菩提を祈り、常は三尊の来迎を期す。いつの世にも忘れがたきは、先帝の御面影、忘れんとすれども忘られず、忍ばんとすれども忍ばれず。ただ恩愛の道ほど、悲しかりけることはなし。さればかの菩提のために、朝夕の勤め怠ること候はず。これもしかるべき善知識とおぼえ候ふ」と申させ給ひければ、
法皇仰せなりけるは、「この国は粟散辺土なりといへども、かたじけなく十善の余薫にこたへて万乗の主となり、随分一つとして心にかなはずといふ事なし。なかんづく仏法流布の世に生まれて、仏道修行の心ざしあれば、後生善所疑ひあるべからず。人間のあだなるならひ、今さら驚くべきにはあらねども、御有様見奉るに、せん方なうこそ候へ」と仰せければ、
女院かさねて申させ給ひけるは、「我が身平相国の娘として、天子の国母となりしかば、一天四海みな掌のままなり。拝礼の春のはじめより、色色の衣がへ、仏名の年の暮れ、摂籙以下の大臣公卿にもてなされし有様、六欲四禅の雲の上にて、八万の諸天に囲繞せられ候ふらんやうに、百官ことごとく仰がぬ者や候ひし。清涼紫宸の床の上、玉の簾の中にもてなされ、春は南殿の桜に心をとめて日を暮らし、九夏三伏のあつき日は、泉をむすびて心をなぐさめ、秋は雲の上の月を独り見んことを許されず。玄冬素雪の寒き夜は、褄を重ねて暖かにす。
長生不老の術を願ひ、蓬莱不死の薬を尋ねても、ただ久しからん事をのみ思へり。明けても暮れても、楽しみ栄えし事、天上の果報も、これには過ぎじとこそおぼえ候ひしか。
それに寿永の秋の始め、木曾義仲とかやに恐れて、一門の人々、住みなれし都をば雲居の余所に顧みて、故里を焼け野の原とうちながめ、古は名をのみ聞きし須磨より明石の浦伝ひ、さすがあはれにおぼえて、昼は漫々たる浪路を分けて袖を濡らし、夜は州崎の千鳥とともに泣き明かし、浦浦島島、由ある所を見しかども、故里の事は忘られず。
かくて寄る方なかりしは、五衰必滅の悲しみとこそおぼえ候ひしか。人間の事は、愛別離苦、怨憎会苦、ともに我が身に知られて候ふ。四苦八苦一として残る所も候はず。
さても筑前国太宰府といふ所にて、維義とかやに九国の内をも追ひ出だされ、山野広しといへども、立ち寄り休むべき所もなし。同じ秋の末にもなりしかば、昔は九重の雲の上にて見し月を、今は八重の潮路にながめつつ、明かし暮らし候ひしほどに、神無月の頃ほひ、清経中将が、『都をば源氏がために攻め落とされ、鎮西をば維義がために追ひ出ださる。網にかかれる魚のごとし。いづくへ行かば逃るべきかは。ながらへ果つべき身にもあらず』とて、海にしづみ候ひしぞ心うき事の始めにて候ひし。
浪の上にて日を暮らし、船の中にて夜を明かす。貢物もなかりしかば、供御をそなふる事もなく、たまたま供御をそなへんとすれども、水なければ参らず。大海に浮かぶといへども、潮なれば飲む事もなし。これまた餓鬼道の苦しみとこそおぼえ候ひしか。
かくて室山、水島所々の戦ひに勝ちしかば、人々、少し色直つて見え候ひしほどに、一の谷といふ所にて一門多く滅びし後は、直衣束帯を引きかへて、鉄を延べて身にまとひ、明けても暮れても戦よばひの声絶えざりし事、修羅の闘諍、帝釈の争ひもかくやとこそおぼえ候ひしか。一の谷を攻め落とされて後、親は子に後れ、妻は夫に別れ、沖に釣りする船をば、敵の船かと胆を消し、遠き松に群れ居る鷺をば、源氏の旗かと心を尽くす。
さても門司、赤間の関にて戦は今日を限りと見えしかば、二位の尼申しおく事候ひき。
『男の命の生き残らん事は、千万が一もありがたし。たとひまた遠き縁はおのづから生き残りたりといふとも、我等が後生をとぶらはん事もありがたし。昔より女は殺さぬ習ひなれば、いかにもしてながらへて、主上の後世をもとぶらひ参らせ、我等が後生をも助け給へ』とかき口説き申し候ひしが、夢の心地しておぼえ候ひしほどに、風俄かに吹き、浮雲厚くたなびいて、兵心をまどはし、天運尽きて、人の力に及びがたし。
すでに今はかうと見えしかば、二位の尼先帝を抱き奉て、船ばたに出でし時、あきれたる御様にて、『尼前我をばいづちへ具してゆかんとするぞ』と仰せ候ひしかば、
いとけなき君に向かひ奉り、涙を押さへて申し候ひしは、『君は今だ知ろしめされ候はずや。先世の十善戒行の御力によつて、今万乗の主と生まれさせ給へども、悪縁に引かれて御運すでに尽きさせ給ひぬ。まづ東に向かはせ給ひて、伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、その後西方浄土の来迎にあづからんと思し召し、西に向かはせ給ひて御念仏候ふべし。この国は心憂き境にて候へば、極楽浄土とてめでたき所へ具し参らせ候ふぞ』と、泣く泣く申し候ひしかば、山鳩色の御衣に鬢結はせ給ひて、御涙におぼれ、小さううつくしい御手を合はせ、まづ東を伏し拝み、伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、その後西に向かはせ給ひて御念仏ありしかば、二位殿やがて抱き奉つて、海に沈みし御面影、目もくれ心も消え果てて、忘れんとすれども忘られず。忍ばんとすれども忍ばれず。残り留まる人々のをめき叫びし声、叫喚、大叫喚の炎の底の罪人も、これには過ぎじとこそおぼえ候ひしか。
さて武士どもに捕らはれて上り候ひし時、播磨国明石の浦に着いて、ちとまどろみて候ひし夢に、昔の内裏には遥かにまさりたる所に、先帝を始め参らせて、一門の公卿殿上人、皆ゆゆしげなる礼儀にて候ひしを、『都を出でて後、かかる所は今だ見ざりつるに、ここをばいづくぞ』と問ひ候ひしかば、二位の尼とおぼえて、『龍宮城』と答へ候ひし時、『めでたかりける所かな。これには苦はなきか』と問ひ候ひしかば、『竜畜経に見えて候ふ。よくよく後世をとぶらひ給へ』と申すとおぼえて夢覚めぬ。その後はいよいよ経を読み念仏して、かの御菩提をとぶらひ奉る。これ皆六道に違はじとこそおぼえ候へ」と申させ給へば、
法皇仰せなりけるは、「異国の玄奘三蔵は、悟りの前に六道を見、我が朝の日蔵上人は、蔵王権現の御力にて、六道を見たりとこそ承れ。これほどまのあたりに御覧ぜられける御事、まことにありがたうこそ候へ」とて、御涙にむせばせ給へば、供奉の殿上人も皆袖をぞ絞られける。
女院も御涙を流させ給へば、つき参らせたる女房達も皆袖をぞ濡らされける。
→【各章検討:女院死去】
さるほどに寂光院の鐘の声、今日も暮れぬと打ち知られ、夕陽西に傾けば、御名残惜しうは思しけれども、御涙を押さへて、還御ならせ給ひけり。女院は今さら古を思し召し出ださせ給ひて、忍びあへぬ御涙に袖のしがらみせきあへさせ給はず。
遥かに御覧じ送らせ給ひて、還御もやうやう延びさせ給ひければ、御本尊に向かひ奉り、「先帝聖霊、一門亡魂、成等正覚、頓証菩提」と泣く泣く祈らせ給ひけり。
昔は東に向かはせ給ひて、「伊勢大神宮、正八幡大菩薩、天子宝算千秋万歳」と申させ給ひしに、今は引きかへて、西に向かひ手を合はせ、「過去聖霊一仏浄土へ」と祈らせ給ふこそ悲しけれ。御寝所の障子にかうぞ遊ばされける。
♪104
このごろは いつ習ひてか わが心
大宮人の 恋しかるらん
♪105
いにしへも 夢になりにし 事なれば
柴のあみ戸も ひさしからじな
御幸の御供に候はれける、徳大寺の左大将実定公、御庵室の柱に書きつけられけるとかや。
♪106
いにしへは 月にたとへし 君なれど
その光なき 深山辺の里
来し方行く末の事ども思し召し続けて、御涙にむせばせ給ふ。折しも山ほととぎすの音づれければ、女院、
♪107
いざさらば 涙くらべん ほととぎす
我もうき世に 音をのみぞ泣く
そもそも壇浦にて、生きながら捕はれし人々は、大路を渡して首を刎ねられ、妻子に離れて遠流せらる。
池大納言のほかは、一人も命を生けられず、都に置かず。されど四十四人の女房達の御事は、沙汰にも及ばざりしかば、親類に従ひ、所縁についてぞおはしける。上は玉の簾の中までも風静かなる家もなく、下は柴の枢のもとまでも、塵をさまれる宿もなし。枕を並べし妹背も、雲居のよそにぞなりはつる。
養ひたてし親子も、行き方知らず別れけり。忍ぶ思ひは尽きせねども、歎きながらもさてこそ過ごされけれ。
これはただ入道相国、一天四海を掌に握つて、上は一人をも恐れず、下は万民をも顧みず、死罪、流刑思ふ様に行ひ、世をも人をも憚られざりしが致す所なり。父祖の罪業は子孫に報ふといふ事疑ひなしとぞ見えたりける。
かくて年月を過ごさせ給ふほどに、女院御心地ならず渡らせ給ひしかば、中尊の御手の五色の糸をひかへつつ、「南無西方極楽世界教主弥陀如来、必ず引摂し給へ」とて、御念仏ありしかば、大納言佐の局、阿波内侍、左右に候ひて、今を限りの悲しさに、声も惜しまず泣き叫ぶ。御念仏の声、やうやう弱らせましましければ、西に紫雲たなびき、異香室に満ち、音楽空に聞こゆ。
限りある御事なれば、建久二年二月の中旬に、一期遂に終はらせ給ひけり。
きさいの宮の御位より片時も離れ参らせずして候ひなれ給ひしかば、御臨終の御時、別れ路に迷ひしもやる方なくぞおぼえける。この女房達は、昔の草のゆかりも果てて、寄る方もなき身なれども、折々の御仏事営み給ふぞあはれなる。遂にかの人々は、竜女が正覚の跡を追ひ、韋提希夫人のごとくに、皆往生の素懐を遂げけるとぞ聞こえし。