これも今は昔、藤原広貴といふ者ありけり。
死して閻魔の庁に召されて、王の御前とおぼしき所に参りたるに、王宣ふやう、「汝が子をはらみて、産をしそこなひたる女、死にたり。地獄に堕ちて苦を受くるに、うれへ申すことのあるによりて、汝をば召したるなり。まづさる事あるか」と問はるれば、広貴、「さる事候ひき」と申す。
王宣はく、「妻の訴へ申す心は、『われ、男に具して、ともに罪をつくりて、しかも、かれが子産みそこなひて、死して地獄に堕ちて、かかるたへがたき苦を受け候へども、いささかもわが後世をも、とぶらひ候はず。されば、我一人苦を受け候ふべきやうなし。広貴をも、もろともに召して、おなじやうにこそ、苦を受け候はめ』と申すによりて、召したるなり」と宣へば、
広貴が申すやう、「この訴へ申す事、もつともことわりに候ふ。おほやけわたくし、世をいとなみ候ふ間、思ひながら、後世をばとぶらひ候はで、月日はかなく過ぎ候ふなり。ただし今におき候ひては、ともに召されて苦を受け候ふとも、かれがために、苦の助かるべきに候はず。されば、この度はいとまを給はりて、娑婆にまかり帰りて、妻のために、よろづを捨て、仏経を書き供養して、とぶらひ候はん」と申せば、
王、「しばし候へ」と宣ひて、かれが妻を召し出でて、汝が夫、広貴が申すやうを問ひ給へば、「げにげに、経仏をだに書き供養せんと申し候はば、とく許し給へ」と申す時に、また広貴を召し出でて、申すままのことを仰せ聞かせて、「さらば、この度はまかり帰れ。たしかに、妻のために、仏経を書き供養して、弔ふべきなり」とて、帰しつかはす。
広貴、かかれども、これはいづく、たれが宣ふぞとも知らず。許されて、庭をたちて帰る道にて思ふやう、この玉の簾のうちにゐさせ給ひて、かやうに物の沙汰して、我を帰さるる人は、たれにかおはしますらんと、いみじくおぼつかなくおぼえければ、また参りて、庭にいたれば、
簾のうちより「あの広貴は、帰しつかはしたるにはあらずや。いかにしてまた参りたるぞ」と、問はるれば、
廣貴が申すやう、「はからざるに、御恩をかうぶりて、帰りがたき本国へかへり候ふことを、いかにおはします人の仰せともえ知り候はで、まかりかへり候はんことの、きはめていぶせく、口惜しく候へば、恐れながらこれを承りに、また参りて候ふなり」と申せば、
「汝不覚なり。閻浮提にしては、我を地蔵菩薩と称す」と宣ふを聞きて、さは閻魔王と申すは、地蔵にこそおはしましけれ、この菩薩につかうまつらば、地獄の苦をばまぬかるべきにこそあめれと思ふほどに、三日といふに生きかへりて、その後、妻のために仏経を書き供養してけりとぞ。
日本法華験記に見えたるとなん。