今は昔、世尊寺といふ所は、桃園の大納言住み給ひけるが、大将になる宣旨かうぶり給ひにければ、大饗あるじの料に修理し、まづは、いはひし給ひしほどに、明後日とて、にはかに失せ給ひぬ。
つかはれ人、みな出で散りて、北の方、若君ばかりなん、すごくて住み給ひける。
その若君は、主殿頭ちかみつといひしなり。この家を一條摂政殿とり給ひて、太政大臣になりて、大饗おこなはれける。
未申のすみに塚のありける、築地をつき出して、その角は、したうづ形にぞありける。殿、「そこに堂を建てん。この塚を取り捨てて、その上に堂を建てん」と、定められぬれば、人にも、「塚のために、いみじう功徳になりぬべきことなり」と申しければ、塚を掘り崩すに、中に石の唐櫃あり。
あけてみれば、尼の年二十五六ばかりなる、色うつくしうて、唇の色などつゆかはらで、えもいはずうつくしげなる、寝入りたるやうにて臥たり。いみじううつくしき衣の、色々なるをなん着たりける。若かりける者のにはかに死にたるにや。
金の坏うるはしくて据ゑたりけり。入りたる物、何もかうばしきことたぐひなし。
あさましがりて、人々たちこみて見るほどに、乾の方より風吹きければ、色々なる塵になんなりて失せにけり。金の坏よりほかの物、つゆとまらず。
「いみじき昔の人なりとも、骨髪の散るべきにあらず。かく風の吹くに、塵になりて、吹き散らされぬるは、希有の物なり」と言ひて、その頃、人あさましがりける。
摂政殿、いくばくもなくて失せ給ひにければ、「この祟りにや」と人疑ひけり。