宇治拾遺物語の全文。15巻・序+197話・19首。
底本は宮内庁書陵部蔵本。
教科書定番:児のそら寝(1-12)、絵仏師良秀(3-6)、検非違使忠明(7-4)
ピックアップ:雀報恩の事(3-16)、小野篁広才の事(3-17)、敏行の朝臣の事(8-4)、晴明を試みる僧(11-3)、晴明、蛙殺す(11-4)、貫之歌の事(12-13)
巻別目次:序、巻第一、巻第二、巻第三、巻第四、巻第五、巻第六、巻第七、巻第八、巻第九、巻第十、巻第十一、巻第十二、巻第十三、巻第十四、巻第十五
巻第一 | |
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1-1 |
道命阿闍梨、和泉式部の許において読経し 五条の道祖神聴聞の事 |
1-2 | 丹波国篠村、平茸生ふる事 |
1-3 | 鬼に瘤取らるる事 |
1-4 | 伴大納言の事 |
1-5 | 随求陀羅尼、額に籠むる法師の事 |
1-6 | 中納言師時、法師の玉茎検知の事 |
1-7 | 龍門の聖鹿にかはらんと欲する事 |
1-8 | 易の占ひして金取り出す事 |
1-9 |
宇治殿、倒れさせ給ひて 実相房僧正験者に召さるる事 |
1-10 | 秦兼久、通俊卿のもとに向かひて悪口の事 ♪2 |
1-11 | 源大納言雅俊、一生不犯の鐘打たせたる事 |
1-12 | 児の掻餅するに空寝したる事 |
1-13 | 田舎の児、桜の散るを見て泣く事 |
1-14 | 小藤太、聟におどされたる事 |
1-15 | 大童子、鮭盗みたる事 |
1-16 | 尼、地蔵見奉る事 |
1-17 | 修行者、百鬼夜行にあふ事 |
1-18 | 利仁、芋粥の事 |
巻第三 | |
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3-1 | 大太郎、盗人の事 |
3-2 | 藤大納言忠家、物言ふ女放屁の事 |
3-3 | 小式部内侍、定頼卿の経にめでたる事 |
3-4 | 山伏、舟祈り返す事 |
3-5 | 鳥羽僧正、国俊と戯れの事 |
3-6 | 絵仏師良秀、家の焼を見て悦ぶ事 |
3-7 | 虎の鰐取りたる事 |
3-8 | 樵夫、歌の事 ♪ |
3-9 | 伯の母の事 ♪2 |
3-10 | 同人仏事の事 ♪ |
3-11 | 藤六の事 ♪ |
3-12 | 多田新発意郎等の事 |
3-13 | 因幡国別当、地蔵造りさす事 |
3-14 | 伏見修理大夫俊綱の事 |
3-15 | 長門前司の女、葬送の時本所に帰る事 |
3-16 | 雀報恩の事 |
3-17 | 小野篁、広才の事 |
3-18 | 平貞文、本院侍従の事 |
3-19 | 一条摂政、歌の事 ♪2 |
3-20 | 狐、家に火つくる事 |
巻第十二 | |
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12-1 | 達磨、天竺僧の行ひ見る事 |
12-2 | 提婆菩薩、龍樹菩薩の許に参る事 |
12-3 | 慈恵僧正、受戒の日延引の事 |
12-4 | 内記上人、法師陰陽師の紙冠を破る事 |
12-5 | 持経者叡實、効験の事 |
12-6 | 空也上人の臂観音院僧正、祈り直す事 |
12-7 | 増賀上人、三条の宮に参り振舞の事 |
12-8 | 聖宝僧正、一条大路渡る事 |
12-9 | 穀断聖、不実露顕の事 |
12-10 | 季直少将、歌の事 ♪ |
12-11 | 樵夫の小童、隠し題の歌詠む事 ♪ |
12-12 | 高忠侍、歌よむ事 ♪ |
12-13 | 貫之、歌の事 ♪ |
12-14 | 東人の歌よむ事 ♪ |
12-15 | 河原の院に融公の霊住む事 |
12-16 | 八歳の童、孔子問答の事 |
12-17 | 鄭太尉の事 |
12-18 | 貧しき俗、仏性を観じて富める事 |
12-19 | 宗行の郎等、虎を射る事 |
12-20 | 遣唐使の子、虎に食はるる事 |
12-21 | 或る上達部、中将の時召人に逢ふ事 |
12-22 | 陽成院、妖物の事 |
12-23 | 水無瀬殿、鼯の事 |
12-24 | 一條桟敷屋、鬼の事 |
世に宇治大納言物語といふ物あり。この大納言は隆国といふ人なり。西宮殿の孫、俊賢大納言の第二の男なり。歳たかうなりては、暑さをわびて、暇を申して、五月より八月までは平等院一切経蔵の南の山際に、南泉房といふ所に籠りゐられけり。さて、宇治大納言とは聞こえけり。
髻を結ひわげて、をかしげなる姿にて、筵を板に敷きて涼みゐ侍りて、大きなる団扇をもてあふがせなどして、往来の者、上中下をいはず呼び集め、昔物語をせさせて、我は内にそひ臥して、語るにしたがひて、大きなる双紙に書かれけり。
天竺の事もあり、大唐の事もあり、日本の事もあり。それがうちに貴き事もあり、をかしき事もあり、恐ろしき事もあり、あはれなる事もあり、汚き事もあり、少々は空物語もあり、利口なる事もあり、様々なり。世の人これを興じ見る。十四帖なり。その正体は伝はりて、侍従俊貞と言ひし人のもとにぞありける。いかになりにけるにか。後にさかしき人々書き入れたるあひだ、物語多くなれり。大納言より後の事書き入れたる本もあるにこそ。
さるほどに、今の世にまた物語書き入れたる出で来たれり。大納言の物語に漏れたるを拾ひ集め、またその後の事など書き集めたるなるべし。名を宇治拾遺物語と言ふ。宇治に遺れるを拾ふとつけたるにや、また侍従を拾遺と言へば、宇治拾遺物語といへるにや。差別知りがたし、おぼつかなし。
今は昔、道命阿闍梨とて、傅殿の子に色に耽りたる僧ありけり。
和泉式部に通ひけり。経をめでたく読みけり。
それが和泉式部がり行きて臥したりけるに、目覚めて経を心すまして読みけるほどに、八巻読み果てて、暁にまどろまんとするほどに、人のけはひのしければ、「あれは誰ぞ」と問ひければ、
「おのれは五条西洞院の辺に候ふ翁に候ふ」と答へければ、
「こは何事ぞ」と道命言ひければ、
「この御経を今宵承りぬる事の、生々世々忘れがたく候ふ」と言ひければ、
道命、「法華経を読み奉る事は常の事なり。など今宵しもいはるるぞ」と言ひければ、
五条の斎いはく、「清くて読み参らせ給ふ時は、梵天、帝釈を始め奉りて聴聞せさせ給へば、翁などは近づき参りて承るに及び候はず。今宵は御行水も候はで読み奉らせ給へば、梵天、帝釈も御聴聞候はぬひまにて、翁参り寄りて承りて候ひぬる事の忘れがたく候ふなり」と宣ひけり。
されば、はかなく、さは読み奉るとも、清くて読み奉るべき事なり。
「仏念、読経、四威儀を破る事なかれ」と、恵心の御坊も戒め給ふにこそ。
これも今は昔、丹波国篠村といふ所に、年ごろ、平茸やる方もなく多かりけり。
里村の者これを取りて、人にも心ざし、また我も食ひなどして年ごろ過ぐるほどに、その里にとりてむねとある者の夢に、頭をつかみなる法師どもの二十三人ばかり出で来て、「申すべき事候ふ」と言ひければ、「いかなる人ぞ」と問ふに、「この法師ばらは、この年ごろとて宮仕ひよくして候ひつるが、この里の縁尽きて今はよそへまかり候ひなんずる事の、かつはあはれにも候ふ。また事の由を申さではと思ひて、この由を申すなり」と言ふと見て、うち驚きて、「これは何事ぞ」と妻や子やなどに語るほどに、またその里の人の夢にもこの定に見えたりとて、あまた同様に語れば、心も得で年も暮れぬ。
さて、次の年の九、十月にもなりぬるに、さきざき出で来る程なれば、山に入りて茸を求むるに、すべて蔬おほかた見えず。
いかなる事にかと、里国の者思ひて過ぐるほどに、故仲胤僧都とて説法ならびなき人いましけり。
このことを聞きて、「こはいかに、不浄説法する法師、平茸に生まるといふ事のあるものを」と宣ひてけり。
されば、いかにもいかにも、平茸は食はざらんに事欠くまじきものなりとぞ。
これも今は昔、右の顔に大きなる瘤ある翁ありけり。大柑子の程なり。
人に交じるに及ばねば、薪をとりて世を過ぐるほどに、山へ行きぬ。
雨風はしたなくて、帰るにことよわりて、山の中に心にもあらず泊まりぬ。
また木こりもなかりけり。恐ろしさすべき方なし。
木のうつほのありけるにはひ入りて、目も合はず屈まりゐたるほどに、遥かより人の音多くして、とどめき来る音す。
いかにも山の中ただ一人ゐたるに、人のけはひのしければ、少し生き出づる心地して見出しければ、おほかた、やうやうさまざまなる者ども、赤き色には青き物を着、黒き色には赤き物を褌にかき、おほかた、目一つある者あり、口なき者など、おほかた、いかにもいふべきにあらぬ者ども百人ばかりひしめき集まりて、火を天の目のごとくにともして、我がゐたるうつほ木の前にゐまはりぬ。
おほかた、いとど物覚えず。
むねとあると見ゆる鬼、横座にゐたり。
うらうへに二ならびに居並みたる鬼、数を知らず。
その姿おのおの言ひ尽くしがたし。
酒参らせ、遊ぶ有様、この世の人のする定なり。
たびたび土器始まりて、むねとの鬼、ことのほかに酔ひたる様なり。
末より若き鬼一人立ちて、折敷をかざして、何といふにか、くどきくせせる事を言ひて、横座の鬼の前に練り出でてくどくめり。
横座の鬼盃を左の手に持ちて笑みこだれたるさま、ただこの世の人のごとし。
舞ひて入りぬ。次第に下より舞ふ。悪しく、よく舞ふもあり。
あさましと見るほどに、横座にゐたる鬼のいふやう、「今宵の御遊びこそいつにもすぐれたれ。ただし、さも珍しからん奏でを見ばや」などいふに、この翁、物の憑きたりけるにや、また然るべく神仏の思はせ給ひけるにや、あはれ、走り出でて舞はばやと思ふを、一度は思ひ返しつ。
それに何となく鬼どもがうち揚げたる拍子のよげに聞こえければ、「さもあれ、ただ走り出でて舞ひてん、死なばさてありなん」と思ひとりて、木のうつほより烏帽子は鼻に垂れかけたる翁の、腰に斧といふ木伐る物さして、横座の鬼のゐたる前に踊り出でたり。
この鬼ども躍りあがりて、「こは何ぞ」と騒ぎ合へり。
翁、伸びあがり屈まりて、舞ふべき限り、すぢりもぢり、えい声を出して一庭を走りまはり舞ふ。
横座の鬼のいはく、「多くの年ごろこの遊びをしつれども、いまだかかる者にこそあはざりつれ。今よりこの翁、かやうの御遊びに必ず参れ」と言ふ。
翁申すやう、「沙汰に及び候はず、参り候ふべし。この度にはかにて納めの手も忘れ候ひにたり。かやうに御覧にかなひ候ひて、静かにつかうまつり候はん」と言ふ。
横座の鬼、「いみじく申したり。必ず参るべきなり」と言ふ。
奥の座の三番にゐたる鬼、「この翁はかくは申し候へども、参らぬ事も候はんずらんと覚え候ふに、質をや取らるべく候ふらん」と言ふ。
横座の鬼、「然るべし、然るべし」と言ひて「何をか取るべき」と、おのおの言ひ沙汰するに、横座の鬼のいふやう、「かの翁が面にある瘤をや取るべき。瘤は福の物なれば、それをや惜しみ思ふらん」といふに、翁がいふやう、「ただ目鼻をば召すとも、この瘤は許し給ひ候はん。年ごろ持ちて候ふ物を故なく召されん、ずちなき事に候ひなん」と言へば、横座の鬼、「かう惜しみ申すものなり。ただそれを取るべし」と言へば鬼寄りて、「さは取るぞ」とてねぢて引くに、おほかた痛き事なし。
さて、「必ずこの度の御遊びに参るべし」とて暁に鳥など鳴きぬれば、鬼ども帰りぬ。
翁顔を探るに、年ごろありし瘤跡なく、かいのごひたるやうにつやつやなかりければ、木こらん事も忘れて家に帰りぬ。
妻の姥、「こはいかなりつる事ぞ」と問へば、しかじかと語る。
「あさましきことかな」と言ふ。
隣にある翁、左の顔に大きなる瘤ありけるが、この翁、瘤の失せたるを見て、「こはいかにして瘤は失せ給ひたるぞ。いづこなる医師の取り申したるぞ。我に伝え給へ。この瘤取らん」と言ひければ、「これは医師の取りたるにもあらず。しかじかの事ありて、鬼の取りたるなり」と言ひければ「我その定にして取らん」とて、事の次第をこまかに問ひければ、教へつ。
この翁いふままにして、その木のうつほに入りて待ちければ、まことに聞くやうにして、鬼ども出で来たり。
ゐまはりて酒飲み遊びて、「いづら、翁は参りたるか」と言ひければ、この翁恐ろしと思ひながら揺るぎ出でたれば、鬼ども「ここに翁参りて候ふ」と申せば、横座の鬼、「こち参れ、とく舞へ」といへば、さきの翁よりは、天骨もなく、おろおろ奏でたりければ、横座の鬼、「この度はわろく舞ひたり。かへすがへすわろし。その取りたりし質の瘤返したべ」と言ひければ、末つ方より鬼出で来て、「質の瘤返したぶぞ」とて、いま片方の顔に投げつけたりければ、うらうへに瘤つきたる翁にこそなりたりけれ。
物うらやみはすまじき事なりとか。
これも今は昔、伴大納言善男は佐渡国郡司が従者なり。
かの国にて、善男夢に見るやう、西大寺と東大寺とを胯げて立ちたりと見て、妻の女にこの由を語る。
妻のいはく「そこの股こそ裂かれんずらめ」と合はするに、善男驚きて、「よしなき事を語りてけるかな」と恐れ思ひて、主の郡司が家へ行き向ふ所に、郡司きはめたる相人なりけるが、日ごろはさもせぬに、ことの外に饗応して円座取り出で、向ひて召しのぼせければ、善男あやしみをなして、「我をすかしのぼせて、妻の言ひつるやうに股など裂かんずるやらん」と恐れ思ふほどに、郡司がいはく、「汝やんごとなき高相の夢見てけり。それに、よしなき人に語りてけり。必ず大位にはいたるとも、事出で来て罪を蒙らんぞ」と言ふ。
然る間、善男縁につきて京上りして、大納言にいたる。されどもなほ罪を蒙る。郡司が言葉に違はず。
これも今は昔、人のもとに、ゆゆしくことごとしく斧を負ひ、法螺貝腰につけ、錫杖つきなどしたる山伏の、ことごとしげなるが入り来て、侍の立蔀の内の小庭に立ちけるを、侍、「あれはいかなる御坊ぞ」と問ひければ、「これは日ごろ白山に侍りつるが、御嶽へ参りて今二千日候はんと仕り候ひつるが、斎料尽きて侍り。まかりあづからんと申しあげ給へ」と言ひて立てり。
見れば額、眉の間のほどに、髪際に寄りて二寸ばかり傷あり。
いまだなま癒えにて赤みたり。
侍、問うて言ふやう、「その額の傷はいかなる事ぞ」と問ふ。山伏、いとたふとたふとしく声をなして言ふやう、「これは随求陀羅尼を籠めたるぞ」と答ふ。
侍の者ども、「ゆゆしき事にこそ侍れ。手足の指など切りたるはあまた見ゆれども、額破りて陀羅尼籠めたるこそ見るとも覚えね」と言ひ合ひたるほどに、十七八ばかりなる小侍のふと走り出でて、うち見て、
「あな、かたはらいたの法師や。なんでふ随求陀羅尼を籠めんずるぞ。あれは七条町に、江冠者が家の、大東に鋳物師が妻をみそかみそかに入り臥し入り臥しせしほどに、去年の夏入り臥したりけるに、男の鋳物師帰り合ひたりければ、取る物も取りあへず逃げて西へ走りしが、冠者が家の前ほどにて追ひつめられて、鎛して額打ち破られたりしぞかし。冠者も見しは」と言ふを、
あさましと人ども聞きて、山伏が顔を見れば、少しも事と思ひたる景色もせず、少しまのししたるやうにて、「そのついでに籠めたるたるぞ」と、つれなう言ひたる時に、集まれる人ども一度にはと笑ひたる粉れに逃げていにけり。
これも今は昔、中納言法師といふ人おはしけり。
その御もとに、ことの外に色黒き墨染の衣の短きに、不動袈裟といふ袈裟掛けて、木攣子の念珠の大きなる繰りさげたる聖法師、入り来て立てり。
中納言、「あれは何する僧ぞ」と尋ねらるるに、ことの外に声をあはれげなして、「仮の世、はかなく候ふを忍びがたくして、無始よりこのかた生死に流転するは、詮ずる所、煩悩にひかへられて、今にかくて憂き世をを出でやらぬにこそ。これを無益なりと思ひ取りて、煩悩を切り捨てて、ひとへにこのたび生死の境を出でなんと思ひ取りたる聖人に候ふ」と言ふ。
中納言、「さて煩悩を切り捨つとはいかに」と問ひ給へば、「くは、これを御覧ぜよ」と言ひて、衣の前をかき上げて見すれば、まことにまめやかのはなくて、ひげばかりあり。
こは不思議の事かなと見給ふほどに、下にさがりたる袋の、ことの外におぼえて、「人やある」と呼び給へば、侍二三人出で来たり。
中納言、「その法師引き張れ」と宣へば、聖まのしをして阿弥陀仏申して、「とくとくいかにしも給へ」と言ひて、あはれげなる顔気色をして、足をうち広げてあろねぶりたるを、中納言、「足を引き広げよ」と宣へば、二三人寄り引き広げつ。
さて小侍の十二三ばかりなるがあるを召し出でて、「あの法師の股の上を手を広げて上げ下ろしさすれ」と宣へば、そのままにふくらかなる手して上げ下しさする。
とばかりあるほどに、この聖まのしをして、「今はさておはせ」と言ひけるを、中納言、「よげになりにたり。たださすれ。それそれ」とありければ、聖、「さま悪しく候ふ。いまはさて」と言ふを、あやにくにさすり伏せけるほどに、毛の中より松茸の大きやかなる物のふらふらと出で来て、腹にすはすはと打ちつけたり。
中納言を始めて、そこら集ひたる者ども諸声に笑ふ。聖もい手を打ちて臥し転び笑ひけり。
はやう、まめやかものを下の袋へひねり入れて、続飯にて毛を取りつけてさりげなくして人を謀りて物を乞はんとしたりけるなり。
狂惑の法師にてありける。
大和国に龍門といふ所に聖ありけり。
住みける所を名にて龍門の聖とぞ言ひける。
その聖の親しく知りたりける男の、明け暮れ鹿を殺しけるに、照射といふ事をしけるころ、いみじう暗かりける夜、照射に出でにけり。
鹿を求め歩くほどに、目を合はせたりければ、鹿ありけりとて、押し回し押し回しするに、たしかに目を合はせたり。
矢頃にまはし寄りて、火串に引きかけて、矢をはげて射んとて弓ふりたて見るに、この鹿の目の間の、例の鹿の目のあはひよりも近くて、目の色も変はりたりければ、あやしと思ひて、弓を引きさしてよく見けるに、なほあやしかりければ、箭を外して火取りて見るに、「鹿の目にはあらぬなりけり」と見て、起きばや起きよと思ひて近くまはし寄せて見れば、身は一定の皮にてあり。
なほ鹿なりとて、また射んとするに、なほ目のあらざりければ、ただうちに寄せて見るに、法師の頭に見なしつ。
「こはいかに」と言ひて、おり走りて火うち吹きて、しひをりとて見れば、この聖の目打ちたたきて、鹿の皮を引きかづきてそひ臥し給へり。
「こはいかに、かくてはおはしますぞ」と言へば、ほろほろと泣きて、「わ主が制する事を聞かず、いたくこの鹿を殺す。我鹿に代りて殺されなば、さりとも少しはとどまりなんと思へば、かくて射られんとしてをるなり。口惜しう射ざりつ」と宣ふに、この男臥しまろび泣きて、「かくまで思しける事を、あながちにし侍りける事」とて、そこにて刀を抜きて、弓打ち切り、胡ぐひみな打ちくだきて、髻切りてやがて聖に具して法師になりて、聖のおはしける限り聖に使はれて、聖失せ給ひければ、代りてまた、そこにぞ行ひてゐたりけるとなん。
旅人の宿求めけるに、大きやかなる家の、あばれたるがありけるに、よりて、「ここに宿し給ひてんや」と言へば、女声にて「よき事、宿り給へ」と言へば、皆おりゐにけり。屋、大きなれども、人のありげもなし。ただ女一人ぞあるけはひしける。
かくて夜明けにければ、物食ひしたためて出でて行くを、この家にある女出で来て、「え出でおはせじ。とどまり給へ」と言ふ。「こはいかに」と問へば、「おのれが金千両を負ひ給へり。その弁へしてこそ出で給はめ」と言へば、この旅人従者ども笑ひて、「あら、しや、讒なめり」と言へば、この旅人、「しばし」と言ひて、またおりゐて、皮籠を乞ひ寄せて幕引きめぐらして、しばしばかりありて、この女を呼びければ、出で来にけり。
旅人問ふやうは、「この親は、もし易の占ひといふ事やせられし」と問へば、
「いさ、さ侍りけん。そのし給ふやうなる事はしき給ひき」と言へば、
「さるなり」と言ひて、「さても何事にて『千両の金負ひたる、そのわきまへせよ』とはいふぞ」と問へば、
「おのれが親の失せ侍りし折に、世の中にあるべきほどの物など得させおきて、申ししやう、『今なむ十年ありて、その月にここに旅人来て宿らんとす。その人は我が金を千両負ひたる人なり。それにその金を乞ひて、たへがたからん折は売りて過ぎよ』と申ししかば、今までは親の得させて侍りし物を少しづつも売り使ひて、今年となりては売るべき物も侍らぬままに、『いつしか我が親の言ひし月日の、とく来かし』と待ち侍りつるに、今日に当たりて、おはして宿り給へれば、金負ひ給へる人なりと思ひて申すなり」と言へば、
「金の事はまことなり。さる事あるらん」とて女を片隅に引きて行きて、人にも知らせで柱を叩かすれば、うつほなる声のする所を、「くは、これが中に宣ふ金はあるぞ。あけて少しづつ取り出でて使ひ給へ」と教へて、出でて往にけり。
この女の親の、易の占ひの上手にて、この女の有様を勘へけるに、「いま十年ありて貧しくならんとす。その月日、易の占ひする男来て宿らんずる」と勘へて、「かかる金あると告げては、まだしきに取り出でて使ひ失ひては、貧しくならんほどに、使ふ物なくて惑ひなん」と思ひて、しか言ひ教へて、死にける後にも、この家をも売り失はずして今日を待ちつけて、この人をかく責めければ、これも易の占ひする者にて、心得て占ひ出して教へ、出でて往にけるなり。
易の占ひは、行く末を掌の中のやうに指して、知る事にてありけるなり。
これも今は昔、高陽院造らるる間、宇治殿御騎馬にて渡らせ給ふ間、倒れさせ給ひて心地違はせ給ふ。
心誉僧正に祈られんとて召しに遣はすほどに、いまだ参らざる先に、女房の局なる女に物憑きて申していはく、「別の事にあらず。きと目見入れ奉るによりて、かくおはしますなり。僧正参られざる先に、護法先だちて参りて追ひ払ひ候へば、逃げをはりぬ」とこそ申しけれ。
すなはち、よくならせ給ひにけり。心誉僧正いみじかりけるとか。
今は昔、治部卿通俊卿、後拾遺を撰ばれける時、秦兼久、行き向かひて、おのづから歌などや入ると思ひて、うかがひけるに、治部卿いで会ひて、物語して、「いかなる歌かよみたる」と言はれければ、「はかばかしき歌候はず。後三条院かくれさせ給ひてのち、円宗寺に参りて候ひしに、花のにほひは、昔にも変はらず侍りしかば、つかうまつりて候ひしなり」とて、「
♪1
こぞ見しに 色も変はらず 咲きにけり
花こそものは 思はざりけれ
とこそつかうまつりて候ひしか」と言ひければ、
通俊卿、「よろしくよみたり。ただし、『けれ、けり、ける』などいふことは、いとしもなき言葉なり。それはさることにて、『花こそ』といふ文字こそ、女の童などの名にしつべけれ」とて、いともほめられざりければ、言葉少なにて、立ちて、侍どもありける所に寄りて、
「この殿は、おほかた、歌のありさま知り給はぬにこそ。かかる人の撰集承りておはするは、あさましきことかな。四条大納言の歌に、
♪2
春来てぞ 人も訪ひける 山里は
花こそ宿の あるじなりけれ
とよみ給へるは、めでたき歌とて、世の人口にのりて申すめるは。その歌に、『人も訪ひける』とあり、また『宿のあるじなりけれ』とあめるは。『花こそ』と言ひたるは、それには同じさまなるに、いかなれば四条大納言のはめでたくて、兼久がはわろかるべきぞ。かかる人の、撰集承りて撰び給ふ、あさましきことなり」と言ひて、いでにけり。
侍、通俊のもとへ行きて、「兼久こそ、かうかう申して、いでぬれ」と語りければ、治部卿、うちうなづきて、「さりけり、さりけり。ものな言ひそ」とぞ言はれける。
これも今は昔、京極の源大納言雅俊といふ人おはしけり。
仏事をせられけるに、仏前にて僧に鐘を打たせて、一生不犯なるを選びて講を行はれけるに、
ある僧の礼盤上りて、少し顔気色違ひたるやうになりて、撞木を取りて振りまわして打ちもやらでしばしばかりありければ、
大納言、いかにと思はれけるほどに、やや久しく物もいはでありければ、人どもおぼつかなく思ひけるほどに、この僧わななきたる声にて、「かはつるみはいかが候ふべき」と言ひたるに、諸人、頤を放ちて笑ひたるに、一人の侍ありて、「かはつるみはいくつばかりにて候ひしぞ」と問ひたるに、この僧、首をひねりて、「きと夜べもして候ひき」といふに、おほかたとよみあへり。その紛れに、早う逃げにけりぞと。
これも今は昔、比叡の山に児ありけり。
僧たち宵のつれづれに、「いざ掻餅せん」と言ひけるを、この児心寄せに聞きけり。
「さりとて、し出さんを待ちて寝ざらんもわろかりなん」と思ひて、片方にて出で来るを待ちけるに、すでにし出したるさまにて、ひしめき合ひたり。
この児、「定めて驚かさんずらん」と待ちゐたるに、僧の、「物申し候はん。驚かせ給へ」と言ふを、うれしとは思へども、「ただ一度にいらへんも、待ちけるかともぞ思ふ」とて、「今一声呼ばれていらん」と念じて寝たるほどに、「や、な起し奉りそ。幼き人は寝入り給ひにけり」といふ声のしければ、あなわびしと思ひて、「今一度起せかし」と思ひ寝に聞けば、ひしひしとただ食ひに食ふ音のしければ、すべなくて、無期の後に、「えい」といらへたりければ、僧たち笑ふ事限りなし。
これも今は昔、田舎の児比叡の山へ登りたりけるが、桜のめでたく咲きたりけるに、風のはげしく吹きけるを見て、この児さめざめと泣きけるを見て、僧のやはら寄りて、
「などかうは泣かせ給ふぞ。この花の散るを惜しう覚えさせ給ふか。桜ははかなきものにて、かく程なくうつろひ候ふなり。されどもさのみぞ候ふ」と慰めければ、
「桜の散らんはあながちにいかがせん、苦しからず。我が父の作りたる麦の花散りて実の入らざらん思ふがわびしき」と言ひて、さくりあげて、よよと泣きければ、うたてしやな。
これも今は昔、源大納言定房と言ひける人のもとに、小藤太といふ侍ありけり。やがて女房にあひ具してぞありける。むすめも女房にてつかはれけり。この小藤太は殿の沙汰をしければ、三とほり四とほりに居広げてぞありける。この女の女房に生良家子の通ひけるありけり。宵に忍びて局へ入りにけり。
暁より雨降りて、え帰らで臥したりけり。この女は女房は上へのぼりにけり。
この聟の君、屏風を立てまはして寝たりける。春雨いつとなく降りて、帰るべきやうもなく臥したりけるに、この舅の小藤太、この聟の君つれづれにておはすらんとて、肴折敷に据ゑて持ちて、今片手に提に酒を入れて、縁より入らんは人見つべしと思ひて、奥の方よりさりげなくて持て行くに、この聟の君は、衣を引きかづきてのけざまに臥したりけり。
「この女房のとく下りよかし」と、つれづれに思ひて臥したりけるほどに、奥の方より遣戸をあけければ、疑ひなくこの女房の上より下るるぞと思ひて、衣をば顔にかづきながら、あの物をかき出して腹をそらして、けしけしと起こしければ、小藤太おびえてなけされかへりけるほどに、肴もうち散らし、酒もさながらうちこぼして、大ひさげをささげて、のけざまに臥して倒れたり。頭を荒う打ちてまくれ入りて臥せりけりとか。
これも今は昔、越後国より鮭を馬に負ほせて、廿駄ばかり粟田口より京へ追ひ入れけり。それに粟田口の鍛冶がゐたるほどに、頂禿げたる大童子のまみしぐれて物むつかしう重らかにも見えぬが、この鮭の馬の中に走り入りにけり。
道は狭くて、馬何かとひしめきける間、この大童子走り添ひて、鮭を二つ引き抜きて懐へ引き入れてんげり。さてさりげなくて走り先だちけるを、この鮭に具したる男見てけり。
走り先だちて、童の項を取りて引きとどめていふやう、「わ先生はいかでこの鮭を盗むぞ」と言ひければ、大童子、「さる事なし。何を証拠にてかうは宣ふぞ。わ主が取りて、この童に負ほするなり」と言ふ。かくひしめく程に上り下る者市をなして行きもやらで見合いたり。
さるほどに、この鮭綱丁、「まさしくわ先生取りて懐に引き入れつ」と言ふ。
大童子はまた、「わ主こそ盗みつれ」といふ時に、この鮭につきたる男、「栓ずる所、我も人の懐見ん」と言ふ。大童子、「さまでやはあるべき」などいふほどに、この男袴を脱ぎて、懐を広げて、「くは、見給へ」と言ひて、ひしひしとす。
さて、この男、大童子につかみつきて、「わ先生、はや物脱ぎ給へ」と言へば、童、「さま悪しとよ、さまであるべき事か」と言ふを、この男、ただ脱がせに脱がせて前を引きあけたるに、腰に鮭を二つ腹に添えてさしたり。
男、「くはくは」と言ひて引き出したる時に、この大童子うち見て、「あはれ、もつたいなき主かな。こがやうに裸になしてあさらんには、いかなる女御、后なりとも、腰に鮭の一二尺なきやうはありなんや」と言ひければ、そこら立ち止りて見ける者ども、一度にはつと笑ひけるとか。
今は昔、丹後国に老尼ありけり。
地蔵菩薩は暁ごとに歩き給ふといふ事をほのかに聞きて、暁ごとに地蔵見奉らんとて、ひと世界を惑ひ歩くに、博打の打ちほうけてゐたるが見て、「尼君は、寒きに何わざし給ふぞ」と言へば、「地蔵菩薩の暁に歩き給ふなるに、あひ参らせんとて、かく歩くなり」と言へば、「地蔵の歩かせ給ふ道は我こそ知りたれ。いざ給へ、あはせ参らせん」と言へば、「あはれ、うれしき事かな。地蔵の歩かせ給はん所へ我を率ておはせよ」と言へば「我に物を得させ給へ。やがて率て奉らん」と言ひければ、「この着たる衣奉らん」と言へば、「さは、いざ給へ」とて隣なる所へ率て行く。
尼、悦びて急ぎ行くに、そこの子にぢざうといふ童ありけるを、それが親を知りたりけるによりて、「ぢざうは」と問ひければ、親、「遊びに去ぬ。今来なん」と言へば、「くは、ここなり。ぢざうのおはします所は」と言へば、尼、うれしくて紬の衣を脱ぎて取らすれば、博打は急ぎて取りて去ぬ。
尼は「地蔵見参らせん」とてゐたれば、親どもは心得ず、「などこの童を見んと思ふらん」と思ふほどに、十ばかりなる童の来たるを、「くは、ぢざうよ」と言へば、尼見るままに是非も知らず臥しまろびて拝み入りて、土にうつぶしたり。
童、楉を持て遊びけるままに来たりけるが、その楉して手すさびのやうに額をかけば、額より顔の上まで裂けぬ。
裂けたる中よりえもいはずめでたき地蔵の御顔見え給ふ。
尼、拝み入りてうち見あげたれば、かくて立ち給へれば、涙を流して拝み入り参らせて、やがて極楽へ参りけり。
されば心にだにも深く念じつれば、仏も見え給ふなりけりと信ずべし。
今は昔、修行者のありけるが、津の国まで行きたりけるに、日暮れて、竜泉寺とて大きなる寺の古りたるが人もなきありけり。これは人宿らぬ所といへども、そのあたりにまた宿るべき所なかりければ、いかがせんと思ひて、笈打ちおろして内に入りてけり。
不動の呪を唱へてゐたるに、夜中ばかりにやなりぬらんと思ふほどに、人々の声あまたして、来る音すなり。見れば、手ごとに火をともして、人百人ばかり、この堂の内に来集ひたり。近くて見れば、目一つつきたりなどさまざまなり。
人にもあらず、あさましき者どもなりけり。あるいは角生ひたり。頭もえもいはず恐ろしげなる者どもなり。
恐ろしと思へども、すべきやうなくてゐたれければ、おのおのみなゐぬ。一人ぞまた所もなくてえゐずして、火をうち振りて我をつらつらと見ていふやう、「我がゐるべき座に新しき不動尊こそゐ給ひたれ。今夜ばかりは外におはせ」とて、片手して我を引きさげて堂の縁の下に据ゑつ。さるほどに、「暁になりぬ」とて、この人々ののしりて帰りぬ。
「まことにあさましく恐ろしかりける所かな、とく夜の明けよかし。去なん」と思ふに、からうじて夜明けたり。うち見まはしたれば、ありし寺もなし。はるばるとある野の来し方も見えず。人の踏み分けたる道も見えず。
行くべき方もなければ、あさましと思ひてゐたるほどに、まれまれ馬に乗りたる人どもの、人あまた具して出来たり。
いとうれしくて、「ここはいづくとか申し候ふ」と問へば、「などかくは問ひ給ふぞ。肥前国ぞかし」と言へば、「あさましきわざかな」と思ひて、事のさま詳しくいへば、この馬なる人も「いと希有の事かな。肥前国にとりてもこれは奥の郡なり。これは御館へ参るなり」と言へば、修行者悦びて、「道も知り候はぬに、さらば道までも参らん」と言ひて行きければ、これより京へ行くべき道など教へければ、舟尋ねて京へ上りにけり。
さて人どもに、「かかるあさましき事こそありしか。津の国の竜泉寺といふ寺に宿りたりしを、鬼どもの来て『ところ狭し』とて、『新しき不動尊、しばし雨だりにおはしませ』と言ひて、かき抱きて、雨だりについ据ゆと思ひしに、肥前国の奥の郡にこそゐたりしか。かかるあさましき事にこそあひたりしか」とぞ、京に来て語りけるとぞ。
今は昔、利仁の将軍の若かりける時、その時の一の人の御許に恪勤して候ひけるに、正月に大饗せられけるに、そのかみは、大饗果てて、とりばみといふ者を払ひて入れずして、大饗のおろし米とて給仕したる恪勤の者どもの食ひけるなり。
その所に年ごろになりて給仕したる者の中には、所得たる五位ありけり。
そのおろし米の座にて、芋粥すすりて舌打をして、「あはれ、いかで芋粥に飽かん」と言ひければ、利仁これを聞きて、「大夫殿、いまだ芋粥に飽かせ給はずや」と問ふ。
五位、「いまだ飽き侍らず」と言へば、「飽かせ奉りてんかし」と言へば、「かしこく侍らん」とてやみぬ。
さて四五日ばかりありて曹司住みにてありける所へ利仁来ていふやう、「いざさせ給へ、湯浴みに。大夫殿」と言へば、「いとかしこき事かな。今宵身の痒く侍りつるに。乗物こそは侍らね」と言へば、「ここにあやしの馬具して侍り」と言へば、「あなうれし、うれし」と言ひて、薄綿の衣二つばかりに、青鈍の指貫の裾破れたるに、同じ色の狩衣の肩少し落ちたるに、したの袴も着ず。
鼻高なるものの、先は赤みて穴のあたり濡ればみたるは、洟をのごはぬなめりと見ゆ。
狩衣の後ろは帯に引きゆがめられたるままに、ひきも繕はねば、いみじう見苦し。
をかしけれども、先に立てて、我も人も乗りて川原ざまにうち出でぬ。
五位の供には、あやしの童だになし。利仁が供には、調度懸け、舎人、雑色一人ぞありける。
川原うち過ぎて、粟田口にかかるに、「いづくへぞ」と問へば、ただ、「ここぞ、ここぞ」とて、山科も過ぎぬ。
「こはいかに。ここぞ、ここぞとて、山科も過ぐしつるは」と言へば、「あしこ、あしこ」とて関山も過ぎぬ。
「ここぞ、ここぞ」とて、三井寺に知りたる僧のもとに行きたれば、「ここに湯沸かすか」と思ふだにも、「物狂ほしう遠かりけり」と思ふに、ここにも湯ありげもなし。
「いづら、湯は」と言へば、「まことは敦賀へ率て奉るなり」と言へば、「物狂ほしうおはしける。京にてさと宣はましかば、下人なども具すべかりけるを」と言へば、利仁あざ笑ひて、「利仁一人侍らば、千人と思せ」と言ふ。かくて物など食ひて急ぎ出でぬ。そこにて利仁胡ぐひ取りて負ひける。
かくて行くほどに、三津の浜に狐の一つ走り出でたるをみて、「よき使ひ出で来たり」とて、利仁狐をおしかくれば、狐身を投げて逃ぐれども、追ひ責められて、え逃げず。落ちかかりて、狐の後足を取りて引きあげつ。
乗りたる馬、いとかしこしとも見えざりつれども、いみじき逸物にてありければ、いくばくも延ばさずして捕へたる所に、この五位走らせて行き着きたれば、狐を引きあげていふやうは、「わ狐、今宵のうちに利仁が家の敦賀にまかりていはむやうは、『にはかに客人を具し奉りて下るなり。明日の巳の時に高嶋辺にをのこども迎へに、馬に鞍置きて二疋具してまうで来』といへ。もしいはぬものならば。わ狐、ただ試みよ。狐は変化ありものなれば、今日のうちに行き着きていへ」とて放てば、「荒涼の使ひかな」と言ふ。
「よし御覧ぜよ。まからではよにあらじ」といふに、早く狐、見返し見返しして前に走り行く。「よくまかるめり」といふにあはせて走り先だちて失せぬ。
かくてその夜は道にとまりて、つとめてとく出で行くほどに、まことに巳のときばかりに三十騎ばかりこりて来るあり。何にかあらんと見るに、「をのこどもまうで来たり」と言へば、「不定の事かな」といふほどに、ただ近に近くなりてはらはらとおるるほどに、「これを見よ。まことにおはしたるは」と言へば、利仁うちひひゑみて、「何事ぞ」と問ふ。
おとなしき朗等進み来て、「希有の事候ひつるなり」と言ふ。まづ、「馬はありや」と言へば、「二疋候ふ」と言ふ。食物などして来ければ、その程におりゐて食ふつひでに、おとなしき朗等のいふやう、「夜部、希有の事候ひしなり。戌の時ばかりに、台盤所の胸をきりきりて病ませ給ひしかば、いかなる事にかとて、にはかに僧召さん」など騒がせ給ひしほどに、手づから仰せ候ふやう、
「何か騒がせ給ふ。をのれは狐なり。別の事なし。この五日、三津の浜にて殿の下らせ給ひつるにあひ奉りたりつるに、逃げつれど、え逃げで捕へられ奉りたりつるに『今日のうちに我が家に行き着きて、客人具し奉りてなん下る。明日巳の時に、馬二つに鞍置きて具して、をのこども高嶋の津に参りあへといへ。もし今日のうちに行き着きていはずは、からき目見せんずるぞ』と仰せられつるなり。をのこどもとくとく出で立ちて参れ。遅く参らば、我は勘当蒙りなんと怖ぢ騒がせ給ひつれば、をのこどもに召し仰せ候ひれば、例ざまにならせ給ひにき。その後鳥とともに参り候ひつるなり」と言へば、利仁うち笑みて五位に見合すれば、五位あさましと思ひたり。
物など食い果てて、急ぎ立ち暗々に行き着きぬ。「これを見よ。まことなりけり」とあさみ合ひたり。
五位は馬よりおりて家のさまを見るに、賑はしくめでたき事物のも似ず。
もと着たる衣が上に利仁が宿衣を着せたれども、身の中しすきたるべければ、いみじう寒げに思ひたるに、長炭櫃に火を多うおこしたり。
畳厚らかに敷きて、くだ物、食物し設けて、楽しく覚ゆるに、「道の程寒くおはしつらん」とて練色の衣の綿厚らかなる、三つ引き重ねて持て来てうち被ひたるに、楽しとはおろかなり。
物食ひなどして事しづまりたるに舅の有仁出で来いふやう、「こはいかでかくは渡らせ給へるぞ。これにあはせて御使のさま物狂ほしうて、上にはかに病ませ奉り給ふ。希有の事なり」と言へば、利仁うち笑ひて、「物の心みんと思ひてしたりつる事を、まことにまうで来て告げて侍るにこそあなれ」と言へば舅も笑ひて、「希有の事なり」と言ふ。
「具し奉らせ給ひつらん人は、このおはします殿の御事か」と言へば、「さりに侍り。『芋粥にいまだ飽かず』と仰せらるれば、飽かせ奉らんとて、率て奉りたる」と言へば、「やすき物のもえ飽かせ給はざりけるかな」とて戯るれば、五位、「東山に湯沸かしたりとて、人をはかり出でて、かく宣ふなり」など言ひ戯れて、夜少し更けぬれば舅も入りぬ。
寝所と思しき所に五位入りて寝んとするに、綿四五寸ばかりある宿衣あり。我がもとの薄綿はむつかしう、何のあるにか痒き所も出で来る衣なれば、脱ぎ置きて、練色の衣三つが上にこの宿衣引き着ては臥したる心、いまだ習はぬに気もあげつべし。汗水にて臥したるに、また傍らに人のはたらけば「誰そ」と問へば、『「御足給へ』と候へば、参りつるなり」と言ふ。けはひ憎からねば、かきふせて風の透く所に臥せたり。
かかるほどに、物高くいふ声す。何事ぞと聞けば、をのこの叫びていふやう、「この辺の下人承れ。明日の卯の時に、切口三寸、長さ五尺の芋、おのおの一筋づつ持て参れ」といふなりけり。「あさましうおほのかにもいふものかな」と聞きて、寝入りぬ。
暁方に聞けば、庭に筵敷く音のするを、「何わざするにかあらん」と聞くに、小屋当番より始めて起き立ちてゐたるほどに、蔀あけたるに見れば長筵をぞ四五枚敷きたる。
「何の料にかあらん」と見るほどに、下種男の、木のやうなる物肩にうち掛けて来て一筋置きて往ぬ。
その後うち続き持て来つつ置くを見れば、まことに口三寸ばかりなるを、一筋づつ持て来て置くとすれど、巳の時まで置きければ、ゐたる屋と等しく置きなしつ。
夜部叫びしは、はやうその辺にある下人の限りに物言ひ聞かすとて、人呼びの岡とてある塚の上にていふなり。
ただその声の及ぶ限りのめぐりの下人の限り持て来るにだにさばかり多かり。まして立ち退きたる従者どもの多さを思ひやるべし。
あさましと見たるほどに、五石なはの釜を五つ六つ担き持て来て、庭に杭ども打ちて据ゑ渡したり。
「何の料ぞ」と見るほどに、しほぎぬの襖といふもの着て帯して、若やかにきたなげなき女どもの、白く新しき桶の水を入れて、この釜どもにさくさくと入る。
「何ぞ、湯沸かすか」と見れば、この水と見るはみせんなれり。若きをのこどもの、袂より手出したる、薄らかなる刀の長やかなる持たるが、十余人ばかり出て来て、この芋をむきつつ透き切りに切れば、「はやく芋粥煮るなりけり」と見るに、食ふべき心地もせず、かへりては疎ましくなりにけり。
さらさらとかへらかして、「芋粥出でまうで来にたり」と言ふ。
「参らせよ」とて、まづ大きなる土器具して、金の提の一斗ばかり入りぬべきに三つ四つに入れて、「かつ」とて持て来るに、飽きて一盛りをだにえ食はず。
「飽きにたり」と言へば、いみじう笑ひて集まりゐて「客人殿の御徳に芋粥食ひつ」と言ひ合へり。
かやうにするほどに、向かひの長屋の軒に狐のさし覗きてゐたるを利仁見つけて、「かれ御覧ぜよ。候ひし狐の見参するを」とて、「かれに物食はせよ」と言ひければ食はするにうち食ひてけり。
かくてよろづの事、たのもしと言へばおろかなり。
一月ばかりありて上りけるに、けをさめの装束どもあまたくだり、またただの八丈、綿、絹など皮籠どもに入れて取らせ、初めの夜の宿衣ものはた更なり。
馬に鞍置きながら取らせてこそ送りけれ。
給者なれども、所につけて年ごろになりて許されたる者は、さる者のおのづからあるなりけり。
今は昔、清徳聖といふ聖のありけるが、母の死したりければ、棺にうち入れて、ただ一人愛宕の山に持て行きて、大きなる石を四つの隅に置きて、その上にこの棺をうち置きて、千手陀羅尼を片時休む時もなく、うち寝る事もせず、物も食はず、湯水も飲まで、声絶えもせず誦し奉りて、この棺をめぐる事三年になりぬ。
その年の春、夢ともなく現ともなく、ほのかに母の声にて、「この陀羅尼をかく夜昼よみ給へば、我は早く男子となりて天に生れにしかども、同じくは仏になりて告げ申さんとて、今までは告げ申さざりつるぞ。今は仏になりて告げ申すなり」といふと聞こゆる時、「さ思ひつる事なり。今は早うなり給ひぬらん」とて取り出でて、そこにて焼きて、骨取り集めて埋みて、上に石の卒都婆など立てて例のやうにして、京へ出づる道々、西の京に水葱いと多く生ひたる所あり。
この聖困じて物いと欲しかりければ、道すがら折りて食ふほどに、主の男出で来て見れば、いと貴げなる聖の、かくすずろに折り食へば、あさましと思ひて、「いかにかくは召すぞ」と言ふ。聖、「困じて苦しきままに食ふなり」と言ふ時に、「さらば参りぬべくは、今少しも召さまほしからんほど召せ」と言へば、三十筋ばかりむずむずと折り食ふ。この水葱は三町ばかりぞ植ゑたりけるに、かく食へば、いとあさましく、食はんやうも見まほしくて、「召しつべくは、いくらも召せ」と言へば、「あな貴」とて、うちゐざりうちゐざり折りつつ、三町をさながら食ひつ。主の男、あさましう物食ひつべき聖かなと思ひて、「しばしゐさせ給へ。物して召させん」とて白米一石取り出でて飯にして食はせたれば、「年ごろ物も食はで困じたるに」とて、みな食ひて出でて往ぬ。
この男いとあさましと思ひて、これを人に語りけるを聞きつつ、坊城の右の大殿に人の語り参らせければ、「いかでかさはあらん。心得ぬ事かな。呼びて物食はせてみん」とおぼえて、「結縁のために物参らせてみん」とて、呼ばせ給ひければ、いみじげなる聖歩み参る。その尻に、餓鬼、畜生、虎、狼、犬、烏、よろづの鳥獣など、千万と歩み続きて来けるを、異人の目におほかたえ見ず、ただ聖一人とのみ見けるに、この大臣、見つけ給ひて、「さればこそ、いみじき聖にこそありけれ。めでたし」と覚えて、白米十石をおものにして、新しき筵菰に、折敷、桶、櫃などに入れて、いくいくと置きて食はせさせ給ひければ、尻に立ちたる者どもに食はすれば、集まりて手をささげてみな食ひつ。
聖はつゆ食はで、悦びて出でぬ。「さればこそただ人にはあらざりけり。仏などの変じて歩き給ふにや」と思しけり。異人の目には、ただ聖一人して食ふとのみ見えければ、いとどあさましき事に思ひけり。
さて出でて行くほどに、四条の北なる小路に穢土をまる。この尻に具したる者し散らしたれば、ただ墨のやうに黒き穢土を隙もなくはるばるとし散らしたれば、下種などもきたながりて、その小路を糞の小路とつけたるを、帝聞かせ給ひて、「その四条の南をば何と言ふ」といはせ給ひければ、「綾の小路となん申す」と申しければ、「さらばこれをば錦の小路といへかし。あまりきたなきなり」など仰せられけるよりしてぞ、錦の小路とは言ひける。
今は昔、延喜の御時、旱魃したりけり。六十人の貴僧を召して、大般若経読ましめ給ひけるに、僧ども、黒煙を立てて、験現さんと祈りけれども、いたくのみ晴れまさりて、日強く照りければ、帝を始めて、大臣、公卿、百姓人民、この一事より外の嘆きなかりけり。
蔵人頭を召し寄せて、静観僧正に仰せ下さるるやう、「ことさら思し召さるるやうあり。かくのごと方々に御祈りどもさせる験なし。座を立ちて別の壁のもとに立ちて祈れ。思し召すやうあれば、とりわき仰せつくるなり」と仰せ下されければ、静観僧正、その時は律師にて、上に僧都、僧正、上臈どもおはしけれども、面目限りなくて、南殿の御階より下りて塀のもとに北向きに立ちて、香炉取りくびりて、額に香炉を当てて祈請し給ふ事、見る人さへ苦しく思ひけり。
熱日のしばしもえさし出でぬに、涙を流し、黒煙を立てて祈請し給ひければ、香炉の煙空へ上りて、扇ばかりの黒雲になる。上達部は南殿に並びゐ、殿上人は弓場殿に立ちて見るに、上達部の御前は美福門より覗く。かくのごとく見るほどに、その雲むらなく大空に引き塞ぎて、竜神振動し、電光大千界に満ち、車軸のごとくまる雨降りて、天下たちまちにうるほひ、五穀豊饒にして万木果を結ぶ。見聞の人帰服せずといふなし。帝、大臣、公卿等随喜して、僧都になし給へり。
不思議の事なれば、末の世の物語にかく記せるなり。
今は昔、静観僧正は西搭の千手院といふ所に住み給へり。その所は、南向きにて大嶽をまもる所にてありけり。大嶽の乾の方のそひに大きなる巌あり。その岩の有様、竜の口をあきたるに似たりけり。
その岩の筋に向かひて住みける僧ども、命もろくして多く死にけり。しばらくは、「いかにして死ぬるやらん」と心も得ざりけるほどに、「この岩ある故ぞ」と言ひ立ちにけり。この岩を毒竜の巌とぞ名づけたりける。これによりて西搭有様ただ荒れにのみ荒れまさりける。この千手院のも人多く死にければ、住み煩ひけり。
この巌見るに、まことに竜の大口をあきたるに似たり。「人のいふ事はげにもさありけり」と、僧正思ひ給ひて、この岩の方に向かひて七日七夜加持しければ、七日といふ夜半ばかりに、空曇り、振動する事おびたたし。大嶽に黒雲かかりて見えず。しばらくありて、空晴れぬ。夜明けて、大嶽を見れば、毒竜巌砕けて散り失せにけり。
それより後、西搭に人住みけれども、祟りなかりけり。西搭の僧どもは、件の座主をぞ、今のいたるまで貴み拝みけるとぞ語り伝へたる。不思議の事なり。
今は昔、七條に薄打あり。御嶽詣でしけり。参りて、金崩れを行いて見れば、まことの金の様にてありけり。嬉しく思ひて、件の金を取りて、袖に包みて家に帰りぬ。おろして見ければ、きらきらとしてまことの金なりければ、「不思議の事なり。この金取れば、神鳴り、地震ひ、雨降りなどして、少しもえ取らざんなるに、これはさる事もなし。この後もこの金を取りて、世の中を過ぐべし」と嬉しくて、秤にかけて見れば、十八両ぞありける。これを薄に打つに、七八千枚に打ちつ。
これをまろげて、皆買はん人もがなと思ひて、暫く持ちたるほどに、「検非違使なる人の、東寺の仏造らんとて、箔を多く買はんと言ふ」と告ぐる者ありけり。
喜びて懐にさし入れて行きぬ。「箔や召す」と言ひければ、「幾らばかり持ちたるぞ」と問ひければ、「七八千枚ばかり候ふ」と言ひければ、「持ちて参りたるか」と言へば、「候ふ」とて、懐より紙に包みたるを取り出したり。見れば、破れず、広く、色いみじかりければ、広げて数へんとて見れば、ちひさき文字にて、金の御嶽云々とことごとく書かれたり。
心も得で、「この書附は何の料の書附ぞ」と問へば、箔打、「書附も候はず。何の料の書附かは候はん」と言へば、「現にあり。これを見よ」とて見するに、箔打見れば、まことにあり。あさましき事かなと思ひて、口もえあかず。
検非違使、「これはただ事にあらず。様あるべし」とて、友を呼び具して、金を看督長に持たせて、薄打具して、大理のもとへ参りぬ。
件の事どもを語り奉れば、別当驚きて、「早く河原に出で行ひて問へ」と言はれければ、検非違使ども河原に行きて、よせばし堀り立てて、身を働かさぬやうにはりつけて、七十度の勘じをへければ、脊中は紅の練単衣を水にぬらして着せたるやうに、みさみさとなりてありけるを、重ねて獄にいれたりければ、わづかに十日ばかりありて死にけり。薄をば金峯山に返して、元の所に置きけると語り伝へたり。
それよりして人怖ぢて、いよいよ件の金取らんと思ふ人なし。あな恐ろし。
今は昔、左京の大夫なりける古上達部ありけり。年老いていみじう古めかしかりけり。下わたりなる家に、歩きもせ籠りゐたりけり。その司の属にて、紀用経といふ者ありけり。長岡になん住みける。司の属なれば、この大夫のもとにも来てなんをとづりける。
この用経、大殿に参りて贄殿にゐたるほどに、淡路守頼親が、鯛の荒巻を多く奉りたりけるを、贄殿に持て参りたり。贄殿の預義澄に二巻用経乞ひ取りて、間木にささげて置くとて、義澄にいふやう、「これ、人して取りに奉らん折に、おこせ給へ」と言ひ置く。心の中に思ひけるやう、「これ我が司の大夫に奉りて、をとづり奉らん」と思ひて、これを間木にささげて、左京の大夫のもとに行きて見れば、かんの君、出居に客人二三人ばかり来て、あるじせんとて地下炉に火をおこしなどして、我がもとにて物食はんとするに、はかばかしき魚もなし。鯉、鳥など用ありげなり。
それに用経が申すやう、「用経がもとにこそ、津の国なる下人の、鯉の荒巻三つ持てまうで来たりつるを、一巻食べ試み侍りつるが、えもいはずめでたく候ひつれば、いま二巻はけがさで置きて候ふ。急ぎてまうでつるに、下人の候はで、持て参り候はざりつるなり。只今とりに遣はさんはいかに」と、声高く、したり顔に袖をつくろひて、口脇かいのごひなどして、ゐあがり覗きて申せば、大夫、「さるべき物なきに、いとよき事かな。とく取りにやれ」と宣ふ。客人どもも、「食ふべき物の候はざめるに、九月ばかりのことなれば、この頃鳥の味はひいとわろし。鯉はまだ出で来ず。よき鯛は奇異の物なり」など言ひ合へり。
用経、馬控へたる童を呼び取りて、「馬をば帝の脇につなぎてただ今走り、大殿に参りて、贄殿の預の主に、『その置きつる荒巻只今おこせ給へ』とささめきて、時かはさず持て来。外に寄るな。とく走れ」とてやりつ。さて、「まな板洗ひて持て参れ」と、声高く言ひて、やがて、「用経、今日の庖丁は仕らん」と言ひて、真魚箸削り、鞘なる刀抜いて設けつつ、「あな久し。いづら来ぬや」など心もとながりゐたり。「遅し遅し」と言ひゐたるほどに、やりつる童、木の枝に荒巻二つ結ひつけて持て来たり。
「いとかしこく、あはれ、飛ぶがごと走りてまうで来たる童かな」とほめて、取りてまな板の上にうち置きて、ことごとしく大鯛作らんやうに左右の袖つくろひ、くくりひき結ひ、片膝立て、今片膝伏せて、いみじくつきづきしくゐなして、荒巻の縄をふつふつと押し切りて、刀して藁を押し開くに、ほろほろと物どもこぼれて落つる物は、平足駄、古ひきれ、古草鞋、古沓、かやうの物の限りあるに、用経あきれて、刀も真魚箸もうち捨てて、沓もはきあへず逃げて往ぬ。
左京の大夫も客人もあきれて、目も口もあきてゐたり。前なる侍どももあさましくて、目を見かはして、ゐなみたる顔ども、いとあやしげなり。物食ひ、酒飲みつる遊びも、みなすさまじくなりて、一人立ち、二人立ち、みな立ちて往ぬ。
左京の大夫のいはく、「このをのこをば、かくえもいはぬ痴者狂ひとは知りたつれども、司の大夫とて来睦びつれば、よしとは思はねど、追ふべき事もあらねば、さと見てあるに、かかわるわざをして謀らんをばいかがすべき。物悪しき人は、はかなき事につけてもかかるなり。いかに世の人聞き伝へて、世の笑ひぐさにせんとすらん」と、空を仰ぎて嘆き給ふこと限りなし。
用経は馬に乗りて、馳せ散して、殿に参りて、贄殿預義澄にあひて、「この荒巻をば惜しと思さば、おいらかに取り給ひてはあらで、かかる事し出で給へる」と泣きぬばかりに恨みののしる事限りなし。義澄がいはく、「こはいかに宣ふことぞ。荒巻は奉りて後、あからさまに宿にまかりつとて、おのがをのこにいふやう、『左京の大夫の主のもとから、荒巻取りにおこせたらば、取りて使ひに取らせよ』と言ひおきて、まかでて、只今帰り参りて見るに、荒巻なければ、『いづち往ぬるぞ』と問ふに、『しかじかの御使ひありつれば、宣はせつるやうに取りて奉りつる』と言ひつれば、『さにこそはあんなれ』と聞きてなん侍る。事のやうを知らず」と言へば、「さらば、かひなくとも、言ひ預けつらん主を呼びて問ひ給へ」と言へば、男を呼びて問はんとするに、出でて往にけり。
膳部なる男がいふやう、「おのれが部屋に入りゐて聞きつれば、この若主たちの『間木にささげられたる荒巻こそあれ。こは誰が置きたるぞ。何の料ぞ』と問ひつれば、誰にかありつらん、『左京の属の主のなり』と言ひつれば、『さては事にもあらず。すべきやうあり』とて取りおろして、鯛をばみな切り参りて、かはりに古尻切、平足駄などこそ入りて間木に置かると聞き侍りつれ」と語れば、用経聞きて、叱りののしる事限りなし。この声聞きて、人々、「いとほし」とはいはで、笑ひののしる。用経しわびて、かく笑ひののしられんほどは、歩かじと思ひて、長岡の家に籠りゐたり。
その後、左京の大夫の家にもえ行かずなりにけるとかや。
昔、右近将監下野厚行といふ者ありけり。競馬によく乗りけり。帝王より始めまゐらせて、おぼえ殊にすぐれたり。朱雀院の御時より村上帝の御時などは、盛りにいみじき舎人にて、人も許し思ひけり。年高くなりて西京に住みけり。
隣なる人にはかに死にけるに、この厚行、弔ひに行きて、その子にあひて、別れの間の事ども弔ひけるに、「この死にたる親を出ださんに門悪しき方に向かへり。さればとて、さてあるべきにあらず。門よりこそ出すべき事にてあれ」と言ふを聞きて、厚行が言ふやう、「悪しき方より出さん事、殊に然るべからず。かつはあまたの御子たちのため、殊にいまはしかるべし。厚行が隔ての垣を破りて、それより出し奉らん。かつは、生き給ひたりし時、事にふれて情のみありし人なり。かかる折だにも、その恩を報じ申さずば、何をもてか報ひ申さん」と言へば、子どものいふやう、「無為なる人の家より出さん事、あるべきにあらず。忌みの方なりとも我が門よりこそ出さめ」といへども、「僻事なし給ひそ。ただ厚行が門より出し奉らん」と言ひて帰りぬ。
吾が子どもにいふやう、「隣の主の死にたる、いとほしければ、弔ひに行きたりつるに、あの子どものいふやう、『忌みの方なれども、門は一つなれば、これよりこそ出さめ』と言ひつれば、いとほしく思ひて、『中の垣を破りて、我が門より出し給へ』と言ひつる」といふに、妻子ども聞きて、「不思議の事し給ふ親かな。いみじき穀断ちの聖なりとも、かかる事する人やはあるべき。身思はぬと言ひながら、我が門より隣の死人出す人やある。返す返すもあるまじき事なり」とみな言ひ合へり。
厚行、「僻事な言ひ合ひそ。ただ厚行がせんやうに任せてみ給へ。物忌し、くすしく忌むやつは、命も短く、はかばかしき事なし。ただ物忌まぬは、命も長く、子孫も栄ゆ。いたく物忌み、くすしきは人といはず。恩を思ひ知り、身を忘るるをこそは人とはいへ。天道もこれをぞ恵み給ふらん。よしなき事なわびしそ」とて、下人ども呼びて中の檜垣をただこぼちにこぼちて、それよりぞ出させける。
さてその事世に聞こえて、殿ばらもあさみほめ給ひけり。さてその後、九十ばかりまで保ちてぞ死ける。それが子どもにいたるまで、みな命長くて、下野氏の子孫は舎人の中にもおぼえあるとぞ。
昔、池の尾に善珍内供といふ僧住みける。
真言などよく習ひて年久しく行ひ貴かりければ、世の人々さまざまの祈りをせさせければ、身の徳ゆたかにて、堂も僧坊も少しも荒れたる所なし。
仏供、御灯なども絶えず、折節の僧膳、寺の講演しげく行はせければ、寺中の僧坊に隙なく僧も住み賑ひけり。湯屋には湯沸かさぬ日なく、浴みののしりけり。またそのあたりには小家ども多く出で来て、里も賑ひけり。
さてこの内供は鼻長かりけり。五六寸ばかりなりければ、頤より下りてぞ見えける。色は赤紫にて、大柑子の膚のやうに粒に立ちてふくれたり。痒がる事限りなし。
提に湯をかへらかして、折敷を鼻さし入るばかりゑり通して、火の炎の顔に当たらぬやうにして、その折敷の穴より鼻さし出でて、提の湯にさし入れて、よくよくゆでて引きあげたれば、色は濃き紫色なり。それを側ざまに臥せて、下に物をあてて人に踏ますれば、粒立ちたる孔ごとに煙のやうなる物出づ。
それをいたく踏めば、白き虫の孔ごとにさし出づるを、毛抜にて抜けば、四分ばかりなる白き虫を孔ごとに取り出だす。その跡はあなあきて見ゆ。
それをまた同じ湯に入れて、さらめかし沸かすに、ゆづれば鼻小さくしぼみあがりて、ただの人の鼻のやうになりぬ。また二三日になれば、先のごとくに大きになりぬ。
かくのごとくしつつ、脹れたる日数は多くありければ、物食ひける時は、弟子の法師に、平なる板の一尺ばかりなるが、広さ一寸ばかりなる鼻の下にさし入れて、向ひゐて上ざまへ持て上げさせて、物食ひ果ひつるまではありけり。異人して持て上げさする折は、あらく持て上げければ、腹を立てて物も食はず。さればこの法師一人を定めて、物食ふ度ごとに持て上げさす。
それに心地悪しくてこの法師出でざりける折に、朝粥食はんとするに、鼻を持て上ぐる人なかりければ、「いかにせん」などといふほどに、使ひける童の、「吾はよく持て上げ参らせてん。さらにその御房にはよも劣らじ」と言ふを、
弟子の法師聞きて、「この童のかくは申す」と言へば、中大童子にてみめもきたなげなくありければ、うへに召し上げてありけるに、この童鼻持て上げの木を取りて、うるはしく向ひゐて、よき程に高からず低からずもたげて粥をすすらすれば、
この内供、「いみじき上手にてありけり。例の法師にはまさりたり」とて、粥をすするほどに、この童、鼻をひんとて側ざまに向きて鼻をひるほどに、手震ひて鼻もたげの木揺ぎて、鼻外れて粥の中へふたりとうち入れつ。内供が顔にも童の顔にも粥とばしりて、一物かかりぬ。
内供大きに腹立ちて、頭、顔にかかりたる粥を紙にてのごひつつ、「おのれはまがまがしかりける心持ちたる者かな。心なしの乞児とはおのれがやうなる者をいふぞかし。我ならぬやごとなき人の御鼻にもこそ参れ、それにはかくやはせんずる。うたてなりける心なしの痴者かな。おのれ、立て立て」とて、追ひたてければ、
立つままに、「世の人の、かかる鼻持ちたるがおはしまさばこそ鼻もたげにも参らめ、をこの事宣へる御房かな」と言ひければ、弟子どもは物の後ろに逃げ退きてぞ笑ひける。
昔、晴明、陣に参りたりけるに、前はなやかに追はせて、殿上人の参りけるを見れば、蔵人少将とて、まだ若くはなやかなる人の、みめまことに清げにて、車より降りて内に参りたりけるほどに、この少将の上に、烏の飛びて通りけるが、穢土をおしかけけるを、清明きと見て、「あはれ、世にもあひ、年なども若くて、みめもよき人にこそあんめれ。式にうてけるにか。この烏は式神にこそありけれ」と思ふに、
然るべくて、この少将の生くべき報ひやありけん、いとほしう晴明が覚えて、少将の側へ歩み寄りて、「御前へ参らせ給ふか。さかしく申すやうなれど、何か参らせ給ふ。殿は今夜え過ぐさせ給はじと見奉るぞ。然るべくて、おのれには見えさせ給へるなり。いざさせ給へ。物試みん」とてこの一つ車乗りければ、
少将わななきて、「あさましき事かな。さらば助け給へ」とて、一つ車に乗りて少将の里へ出でぬ。申の時ばかりの事にてありければ、かく出でなどしつる程に日も暮れぬ。清明、少将をつと抱きて身固めをし、また何事にか、つぶつぶと夜一夜いもねず、声絶えもせず、読み聞かせ加持しけり。
秋の夜の長きに、よくよくしたりければ、暁方に、戸をはたはたと叩けるに、「あれ、人出して聞かせ給へ」とて聞かせければ、この少将のあひ聟にて蔵人の五位のありけるも、同じ家にあなたこなたに据ゑたりけるが、この少将をばよき聟とてかしづき、今一人をば殊の外に思ひ落したりければ、妬がりて、陰陽師を語らひて、式をふせたりけるなり。
さてその少将は死なんとしけるを、清明が見つけて、夜一夜祈りたりければ、そのふせける陰陽師のもとより、人来て、高やかに、「心の惑ひけるままに、よしなく、まもり強かりける人の御ために、仰せをそむかじとて、式ふせて、すでに式神かへりて、おのれ、ただ今、式にうてて、死に侍りぬ。すまじかりけることをして」といひけるを、
清明、「これ聞かせ給へ。夜べ、見つけ参らせざらましかば、かやうにこそ候はまし」と言ひて、その使ひに人を添へてやりて、聞きければ、「陰陽師はやがて死にけり」とぞ言ひける。
式ふせさせける聟をば、舅、やがて追ひ捨てけるとぞ。清明には、泣く泣く悦びて多くの事どもしても飽かずぞ悦ける。誰とは覚えず、大納言までなり給ひけるとぞ。
昔、駿河前司橘季通といふ者ありき。
それが若かりける時、さるべき所なりける女房を忍びて行き通ひけるほどに、そこにありける侍ども、「生六位の、家人にてあらぬが、宵暁にこの殿へ出で入る事わびし。これたて籠めて勘ぜん」といふ事を集まりて言ひ合せけり。
かかる事をも知らで、例の事なれば、小舎人童一人具して局に入りぬ。童をば、「暁迎えに来よ」とて返しやりつ。
この打たんとするをのこども、窺ひまもりければ、「例のぬし来て局に入りぬるは」と告げまはして、かなたこなたの門どもをさしまはして、鍵取り置きて、侍ども引杖して、築地の崩れなどのある所に、立ちふたりてまもりけるを、その局の女の童、けしきどりて、主の女房に、「かかる事の候ふは、いかなる事にか候ふらん」と告げければ、主の女房も聞き驚き、二人臥したりけるが起きて、季通も装束してゐたり。
女房、上にのぼりて尋ぬれば、「侍どもの心合せてするとは言ひながら、主の男も、そら知らずしておはする事」と聞き得て、すべきやうなくて、局に帰りて泣きゐたり。
季通、「いみじきわざかな。恥を見てんず」と思へども、すべきやうなし。女の童を出して、「出でて往ぬべき少しの隙やある」と見せけれども、「さやうの隙ある所には、四五人づつ、くくりをあげ、稜を狭みて、太刀をはき、杖を脇挟みつつ、みな立てりければ、出づべきやうもなし」と言ひけり。
この駿河前司はいみじう力ぞ強かりける。「いかがせん。明けぬとも、この局に籠りゐてこそは、引き出でに入り来ん者と取り合ひて死なめ。さりとも、夜明けて後、われぞ人ぞと知りなん後には、ともかくもえせじ。従者ども呼びにやりてこそ出でても行かめ」と思ひたりけり。
「暁この童の来て、心も得ず門叩きなどして、我が小舎人童と心得られて、捕らえ縛られやせんずらん」と、それぞ不便に覚えければ、女の童を出して、もしや聞きつくると窺ひけるをも、侍どもははしたなく言ひければ、泣きつつ帰りて、屈まりゐたり。
かかるほどに、暁方になりぬらんと思ふほどに、この童、いかにしてか入りけん、入り来る音するを、侍、「誰そ、その童は」と、けしきどりて問へば、あしくいらへなんずと思ひゐたるほどに、「御読経の僧の童子に侍り」と名のる。
さ名のられて、「とく過ぎよ」と言ふ。「かしこくいらへつる者かな、寄り来て、例呼ぶ女の童の名や呼ばんずらん」と、またそれを思ひゐたるほどに、寄りも来で過ぎて往ぬ。
「この童も心得てけり。うるせきやつぞかし。さ心得てば、さりともたばかる事あらんずらん」と、童の心を知りたれば頼もしく思ひたるほどに、大路に女声して、「引はぎありて人殺すや」とをめく。それを聞きて、この立てる侍ども、「あれからめよや。けしうはあらじ」と言ひて、みな走りかかりて、門をもえあけあえず、崩れより走り出でつつ、「何方へ往ぬるぞ」、「こなた」、「かなた」と尋ね騒ぐほどに、この童の謀る事よと思ひければ、走り出でて見るに、門をばさしたれば、門をば疑はず、崩れのもとにかたへはとまりて、とかくいふほどに、門のもとに走り寄りて錠をねぢて引き抜きて、あくるままに走り退きて、築地走り過ぐるほどにぞ、この童は走りあひたる。
具して三町ばかり走りのびて、例のやうにのどかに歩みて、「いかにしたりつる事ぞ」と言ひければ、「門どもの、例ならずされたるに合はせて、崩れに侍どもの立ち塞がりて、きびしげに尋ね問ひ候ひつれば、そこにては、『御読経の僧の童子』と名乗り侍りつれば、出で侍りつるを、それよりまかり帰りて、とかくやせましと思ひ給へつれども、参りたりと知られ奉らでは、悪しかりぬべくおぼえ侍りつれば、声を聞かれ奉りて、帰り出でて、この隣なる女童のくそまりゐて侍るを、しや頭を取りてうち伏せて、衣を剥ぎ侍りつれば、をめき候ひつる声につきて、人々出でまうで来つれば、今はさりとも出でさせ給ひぬらんと思ひて、こなたざまに参りあひつるなり」とぞ言ひける。
童子なれども、かしこくうるせき者はかかる事をぞしける。
昔、袴垂とていみじき盗人の大将軍ありけり。
十月ばかりに、衣の用なりければ、衣少しまうけんとて、さるべき所々窺ひ歩きけるに、夜中ばかりに、人皆しづまり果てて後、月の朧なるに、衣あまた着たりけるぬしの、指貫の稜挟みて、絹の狩衣めきたる着て、ただ一人笛吹きて、行きもやらず練り行けば、「あはれ、これこそ我に衣得させんとて出でたる人なめり」と思ひて、走りかかりて衣を剥がんと思ふに、あやしくものの恐ろしく覚えければ、添ひて二三町ばかり行けども、我に人こそ付きたれと思ひたる気色もなし。いよいよ笛を吹きて行けば、試みんと思ひて、足を高くして走り寄りたるに、笛を吹きながら見かへりたる気色、取りかかるべくも覚えざりければ、走り退きぬ。
かやうにあまたたび、とざまかやうざまにするに、つゆばかりも騒ぎたる気色なし。「希有の人かな」と思ひて、十余町ばかり具して行く。さりとてあらんやは、と思ひて刀を抜きて走りかかりたる時に、その度、笛を吹きやみて立ち返りて、「こは何者ぞ」と問ふに、心も失せて、我にもあらで、ついゐられぬ。
また、「いかなる者ぞ」と問へば、今は逃ぐともよも逃がさじと覚えければ、「引剥ぎに候ふ」と言へば、「何者ぞ」と問へば、「字袴垂となんいはれ候ふ」と答ふれば、「さいふ者ありと聞くぞ。危げに希有の奴かな」と言ひて、「ともにまうで来」とばかり言ひかけて、また同じやうに笛吹きて行く。
この人の気色、今は逃ぐともよも逃がさじと覚えければ、鬼に神取られたるやうにて共に行くほどに、家に行き着きぬ。いづこぞと思へば、摂津前司保昌といふ人なりけり。家の内に呼び入れて、綿厚き衣一つ賜りて、「衣の用あらん時は参りて申せ。心も知らざらん人に取りかかりて、汝過ちすな」とありしこそあさましく、むくつけく、恐ろしかりしか。
「いみじかりし人の有様なり」と、捕へられて後語りける。
昔、博士にて、大学頭明衡といふ人ありき。若かりける時、さるべき所に宮仕へける女房を語らひて、その所に入り臥さんこと、便なかりければ、そのかたはらにありける下種の家を借りて、「女房語らひ出して、臥さん」と言ひければ、男あるじはなくて、妻ばかりありけるが、「いとやすき事」とて、おのれが臥す所よりほかに、臥すべき所のなかりければ、我が臥し所を去りて、女房の局の畳をとりよせて、寝にけり。
家のあるじの男、我が妻のみそか男すると聞きて、「そのみそか男、今宵なん逢はんとかまふる」とつぐる人ありければ、来んを構へて殺さんと思ひて、妻には「遠く物へ行きて、いま四五日帰るまじき」と言ひて、そら行きをしてうかがふ夜にてぞありける。
家あるじの男、夜ふけて立ち聞くに、男女の忍びて物いふけしきしけり。されば、隠し男来にけりと思ひて、みそかに入りてうかがひ見るに、わが寝所に、男、女と臥したり。くらければ、たしかにけしき見えず。
男のいびきする方へ、やをらのぼりて、刀を逆手に抜き持ちて、腹の上とおぼしきほどをさぐりて、突かんと思ひて、腕をもちあげて、突き立てんとするほどに、月影の板間よりもりたりけるに、指貫のくくり長やかにて、ふと見えければ、
それに、きと思ふやう、我が妻のもとには、かやうに指貫着たる人は、よも来じものを、もし、人違へしたらんは、いとほしく不便なることと思ひて、手をひきかへして、着たる衣などをさぐりけるほどに、
女房、ふとおどろきて、「ここに人の音するはたそ」と忍びやかにいふけはひ、わが妻にはあらざりければ、さればよと思ひて、居退きけるほどに、この臥したる男も、おどろきて、「たそたそ」と問ふ声を聞きて、我が妻の下なる所に臥して、わが男のけしきのあやしかりつるは、それがみそかに来て、人違へなどするにやとおぼえけるほどに、おどろき騒ぎて、「あれはたそ。盗人か」などののしる声の、我が妻にてありければ、こと人々の臥したるにこそと思ひて走り出でて、
妻がもとに行きて、髪をとりてひきふせて、「いかなることぞ」と問ひければ、妻、さればよと思ひて「かしこういみじきあやまちすらんに。かしこには、上臈の、今夜ばかりとて、借らせ給ひつれば、貸し奉りて、我はここにこそ臥したれ。希有のわざする男かな」と、ののしるときにぞ、
明衡もおどろきて、「いかなることぞ」と問ひければ、その時に、男、いできていふやう、「おのれは、甲斐殿の雑色なにがしと申す者にて候ふ。一家の君おはしけるを知り奉らで、ほとほとあやまちをなんつかまつるべく候ひつるに、希有に御指貫のくくりを見つけて、しかじか思ひ給へてなん、腕を引きしじめて候ひつる」と言ひて、いみじうわびける。
甲斐殿といふ人は、この明衡の妹の男なりけり。思ひかけぬ指貫のくくりの徳に、希有の命をこそ生きたりければ、かかれば、人は忍と言ひながら、あやしの所には、立ち寄るまじきなり。
昔、唐土に大なる山ありけり。その山のいただきに、大きなる卒都婆一つ立てりけり。
その山のふもとの里に、年八十ばかりなる女の住みけるが、日に一度、その山の峰にある卒都婆をかならず見けり。
たかく大きなる山なれば、ふもとより峰へのぼるほど、さがしく、はげしく、道遠かりけるを、雨ふり、雪ふり、風吹き、いかづち鳴り、しみ氷たるにも、また暑く苦しき夏も、一日も欠かず、かならずのぼりて、この卒都婆を見けり。
かくするを、人、え知らざりけるに、わかき男ども、童部の、夏暑かりける頃、峰に登りて、卒都婆の許に居つつ涼みけるに、この女、汗をのごひて、腰二重なる者の、杖にすがりて、卒都婆のもとにきて、卒都婆をめぐりければ、拝み奉るかと見れば、卒都婆をうちめぐりては、すはなち帰り帰りすること、一度にもあらず、あまたたび、この涼む男どもに見えにけり。
「この女は、何の心ありて、かくは苦しきにするにか」と、あやしがりて、「今日見えば、このこと問はん」と言ひ合せけるほどに、常のことなれば、この女、はふはふ登りけり。
男ども、女にいふやう、「わ女は、何の心によりて、我らが涼みに来るだに、暑く、苦しく、大事なる道を涼まんと思ふによりて、登り来るだにこそあれ、涼むこともなし、別にすることもなくて、卒都婆を見めぐるを事にして、日々に登り降るること、あやしき女のしわざなれ。この故しらせ給へ」と言ひければ、
この女「若き主たちは、げに、あやしと思ひ給ふらん。かくまうできて、この卒都婆みることは、このごろのことにしも侍らず。物の心知りはじめてよりのち、この七十餘年、日ごとに、かくのぼりして、卒都婆を見奉るなり」と言へば、
「そのことの、あやしく侍るなり。その故を宣へ」と問へば、
「おのれが親は、百二十にしてなん失せ侍りにし。祖父は百三十ばかりにてぞ失せ給へりし。それにまた父祖父などは二百餘年まで生きて侍ける。『その人々の言ひ置かれたりける』とて、『この卒都婆に血のつかん折になん、この山は崩れて、深き海となるべき』となん、父の申し置かれしかば、ふもとに侍る身なれば、山崩なば、うちおほはれて、死もぞすると思へば、もし血つかば、逃げてのかんとて、かく日ごとに見るなり」と言へば、
この聞く男ども、をこがり、あざりけて、「恐ろしきことかな。崩れんときには、告げ給へ」など笑ひけるをも、我をあざりけていふとも心得ずして、「さらなり。いかでかは、われひとり逃げんと思ひて、告げ申さざるべき」と言ひて、帰りくだりにけり。
この男ども「この女は今日はよも来じ。明日また来てみんに、おどして走らせて、笑はん」と言ひあはせて、血をあやして、卒都婆によくぬりつけて、この男ども、帰り降りて、里の者どもに、「このふもとなる女の日ごとに峰にのぼりて卒都婆みるを、あやしさに問へば、しかじかなんいへば、明日おどして、走らせんとて、卒都婆に血をぬりつるなり。さぞ崩るらんものや」など言ひ笑ふを、里の者ども聞き伝へて、をこなる事のためしに引き、笑ひけり。
かくて、またの日、女登りて見るに、卒都婆に血のおほらかにつきたりければ、女、うち見るままに、色をたがへて、倒れまろび、走り帰りて、叫びいふやう、「この里の人々、とく逃げのきて、命生きよ。この山はただいま崩れて、深き海となりなんとす」とあまねく告げまはして、家に行きて子孫どもに家の具足ども負ほせ持たせて、おのれも持ちて、手まどひして、里移りしぬ。これを見て、血つけし男ども手をうちて笑ひなどするほどに、そのことともなく、さざめき、ののしりあひたり。
風の吹きくるか、いかづちの鳴るかと、思ひあやしむほどに、空もつつ闇になりて、あさましく恐ろしげにて、この山ゆるぎたちにけり。「こはいかにこはいかに」とののしりあひたるほどに、ただ崩れに崩れもてゆけば、「女はまことしけるものを」など言ひて逃げ、逃げ得たる者もあれども、親のゆくへもしらず、子をも失ひ家の物の具も知らずなどして、をめき叫びあひたり。この女ひとりぞ、子孫も引き具して、家の物の具一つも失はずして、かねて逃げのきて、しづかにゐたりける。
かくてこの山みな崩れて、深き海となりにければ、これをあざけり笑ひしものどもは、みな死にけり。あさましきことなりかし。
昔、成村といふ相撲ありけり。
時に、国々の相撲ども、上り集まりて、相撲節待けるほど、朱雀門に集まりて涼みけるが、そのへん遊びゆくに、大学の東門を過ぎて、南ざまにゆかんとしけるを、大学の衆どもも、あまた東の門に出でて、涼み立てにけるに、この相撲どもの過ぐるを、通さじとて、「鳴り制せん。鳴り高し」と言ひて、たちふさがりて、通さざりければ、さすがに、やごつなき所の衆どものすることなれば、破りてもえ通らぬに、たけひきらかなる衆の、冠、うへのきぬ、異人よりはすこしよろしきが、中にすぐれて出で立ちて、いたく制するがありけるを、成村は見つめてけり。「いざいざ帰りなん」とて、もとの朱雀門に帰りぬ。
そこにていふ、「この大学の衆、にくきやつどもかな。何の心に、我らをば通さじとはするぞ。ただ通らんと思ひつれども、さもあれ、今日は通らで、明日通らんと思ふなり。たけひきやかにて、中にすぐれて『鳴り制せん』と言ひて、通さじと立ちふたがる男、にくきやつなり。明日通らんにも、かならず、今日のやうにせんずらん。なにぬし、その男が尻鼻、血あゆばかり、かならず蹴給へ」と言へば、さいはるる相撲、脇をかきて、「おのれが蹴てんには、いかにも生かじものを。がうぎにてこそいかめ」と言ひけり。
この尻蹴よといはるる相撲は、おぼえある力、こと人よりはすぐれ、はしりとくなどありけるをみて、成村もいふなるけり。さてその日は、おのおの家々に帰りぬ。
またの日になりて、昨日参らざりし相撲などをあまた召し集めて、人がちになりて、通らんとかまふるを、大学の衆もさや心得にけん、きのふよりは人おほくなりて、かしがましう、「鳴る制せん」と言ひたてけるに、この相撲どもうち群れて、あゆみかかりたり。
きのふすぐれて制せし大学の衆、例のことなれば、すぐれて、大路を中に立て、過ぐさじと思ふけしきしたり。
成村「尻蹴よ」と言ひつる相撲に目をくはせければ、この相撲、人よりたけ高く大きに、若く勇みたるをのこにて、くくり高やかにかき上げて、さし進み歩み寄る。
それに続きて、こと相撲も、ただ通りに通らんとするを、かの衆どもも、通さじとするほどに、尻蹴んとする相撲、かくいふ衆に走りかかりて、蹴倒さんと、足をいたくもたげるを、この衆は、目をかけて、背をたはめてちがひければ、蹴はづして、足の高くあがりて、のけざまになるやうにしたる足を大学の衆とりてけり。
その相撲を、ほそき杖などを人の持ちたるやうに、ひきさげて、かたへの相撲に、走りかかりければ、それを見て、かたへの相撲逃げけるを、追ひかけて、その手にさげたる相撲をば投げければ、ふりぬきて、二三段ばかり投げられて、倒れ伏しにけり。身くだけて、起きあがるべくもなくなりぬ。
それをば知らず、成村がある方ざまへ走りかかりたれば、目をかけて逃げけり。心もおかず追ひければ、朱雀門の方ざまに走りて、脇の門より走り入るを、やがてつめて、走りかかりければ、とらへられぬと思ひて、式部省の築地越えけるを、引きとどめんとて、手をさしやりたりけるに、はやく越えければ、異所をばえとらへず、片足すこしさがりたりけるきびすを、沓加へながらとらへたりければ、沓のきびすに、足の皮をとり加へて、沓のきびすを、刀にてきりたるやうに、引ききりて、とりてけり。
成村、築地のうちに越え立ちて、足を見ければ、血走りて、とどまるべくもなし。沓のきびす、切れて失せにけり。我を追ひける大学の衆、あさましく力ある者にてぞありけるなめり。尻蹴つる相撲をも、人杖につかひて、投げくだくめり。世の中ひろければ、かかる者のあるこそ恐ろしき事なれ。投げられたる相撲は死に入りたりければ、物にかきいれて、になひてもてゆきけり。
この成村、方の次将に、「しかじかの事なん候ひつる。かの大学の衆は、いみじき相撲にさぶらふめり。成村と申すとも、あふべき心地仕らず」と語りければ、方の次将は、宣旨申し下して、「式部の丞なりとも、その道にたへたらんは、といふことあれば、まして大学の衆は、何でふことかあらん」とて、いみじう尋ね求められけれども、その人とも聞こえずしてやみにけり。
昔、延喜の帝の御時、五条の天神のあたり、大きなる柿の木の実ならぬあり。その木のうへに、仏あらはれておはします。京中の人、こぞりて参りけり。
馬、車もたてあへず、人もせきあへず、拝みののしり、かくするほどに、五六日あるに、右大臣殿、心得ずおぼし給ひける間、まことの仏の、世の末に出で給ふべきにあらず、我、行きて試みんとおぼして、日の装束うるはしくて、びりやうの車に乗りて、御前多く具して集まりつどひたる者どものけさせて、車かけはづして、榻を立てて、梢を、目もたたかず、あからめもせずして、まもりて、一時ばかりあはするに、この仏しばしこそ、花も降らせ、光をもはなち給ひけれ、あまりにもあまりにもまもられて、しわびて、大きなるくそ鳶の羽折れたる、土に落ちて、まどひふためくを、童部どもよりて、うち殺してけり。さればこそとて、帰り給ひぬ。
さて、時の人、この大臣を「いみじくかしこき人にておはします」とぞののしりける。
昔、大太郎とて、いみじき盗人の大将軍ありけり。それが京へのぼりて、物とりぬべき所あらば入りて物とらんとて思ひて、うかがひ歩きけるほどに、めぐりもあばれ、門などもかたかたは倒れたる、横ざまに寄せかけたる所のあだげなるに、男といふものは一人も見えずして、女のかぎりにて、はり物多くとり散らしてあるにあはせて、八丈売る物など、あまた呼び入れて、絹多くとり出でて、えりかえさせつつ、物どもを買へば、物多かりける所かなと思ひて、立ちどまりて見入るれば、折しも、風の南の簾を吹きあげたるに、簾のうちに、何の入りたりとは見えねども、皮籠の、いと高くうち積まれたる前に、蓋あきて、絹なめりと見ゆる物、とり散らしてあり。
これを見て、うれしきわざかな、天道の我に物をたぶなりけりと思ひて、走り帰りて、八丈一疋人に借りて、持て来て、売るとて、近く寄りて見れば、内にもほかにも、男といふものは一人もなし。ただ女どものかぎりして、見れば、皮籠も多かり。物は見えねど、うづたかく蓋おほはれ、絹なども、ことの外にあり。布うち散らしなどして、いみじく物多くありげなる所かなと見ゆ。
高く言ひて、八丈をば売らで持て帰りて、主にとらせて、同類どもに、「かかる所こそあれ」と、言ひまはして、その夜来て、門に入らんとするに、たぎり湯を面にかくるやうにおぼえて、ふつとえ入らず。「こはいかなることぞ」とて、集まりて、入らんとすれど、せめて物の恐ろしかりければ、「あるやうあらん。こよひは入らじ」とて、帰りにけり。
つとめて、「さも、いかなりつる事ぞ」とて、同類など具して、売り物などもたせて、来て見るに、いかにもわづらわしき事なし。物多くあるを、女どものかぎりして、取り出で、取りおさめすれば、ことにもあらずと、返す返す思ひ見ふせて、また暮るれば、よくよくしたためて、入らんとするに、なほ恐ろしく覚えて、え入らず。「わ主、まづ入れ入れ」と、言ひたちて、こよひもなほ入らずなりぬ。
またつとめても、おなじやうに見ゆるに、なほけしき異なる者も見えず。ただ我が臆病にて覚ゆるなめりとて、またその夜、よくしたためて、行き向かひて立てるに、日ごろよりも、なほもの恐ろしかりければ、「こはいかなることぞ」と言ひて、帰りて言ふやうは、「事を起したらん人こそはまづ入るらめ。まづ大太郎が入るべき」と言ひければ、「さも言はれたり」とて、身をなきになして入りぬ。
それに取りつづきて、かたへも入りぬ。入りたれども、なほ物の恐ろしければ、やはら歩み寄りて見れば、あばらなる屋の内に、火ともしたり。母屋のきはにかけたる簾をばおろして、簾のほかに、火をばともしたり。まことに、皮籠多かり。かの簾の中の、恐ろしく覚ゆるにあはせて、簾の内に、矢を爪よる音のするが、その矢の来て身に立つ心地して、いふばかりなく恐ろしくおぼえて、帰りいづるも、せをそらしたるやうに覚へて、かまへていでえて、あせをのごひて、「こはいかなる事ぞ、あさましく、恐ろしかりつる爪よりの音や」といひあわせて帰りぬ。
そのつとめて、その家のかたはらに、大太郎が知りたりける者のありける家に行きたれば、見つけて、いみじく饗応して、「いつ上り給へるぞ。おぼつかなく侍りつる」などいへば、「ただいままうで来つるままに、まうで来たるなり」と言へば、「土器参らせん」とて、酒わかして、黒き土器の大きなるを盃にして、土器とりて大太郎にさして、家あるじ飲みて、土器渡しつ。
大太郎とりて、酒を一土器受けて、持ちながら、「この北には誰がゐ給へるぞ」と言へば、おどろきたるけしきにて、「まだ知らぬか。大矢のすけたけのぶの、このごろ上りて、ゐられたるなり」といふに、さは、入りたらましかば、みな、数をつくして、射殺されなましと思ひけるに、物もおぼえず臆して、その受けたる酒を、家あるじに頭よりうちかけて、立ち走りける。物はうつぶしに倒れにけり。家あるじ、あさましと思ひて、「こはいかにこはいかに」と言ひけれど、かへりみだにもせずして、逃げて去にけり。
大太郎がとられて武者の城の恐ろしきよしを語けるなり。
今は昔、藤大納言忠家といひける人、いまだ殿上人におはしける時、美々しき色好みなりける女房と物言ひて、夜ふくるほどに、月は昼よりもあかかりけるに、たへかねて、御簾をうちかづきて、長押のうえにのぼりて、肩をかきて、引き寄せけるほどに、髪をふりかけて、「あな、さまあし」と言ひて、くるめきけるほどに、いと高く鳴らしてけり。
女房は、いふにもたへず、くたくたとして、寄り臥しにけり。
この大納言、「心憂きことにもあひぬるものかな。世にありても何にかはせん。出家せん」とて、御簾の裾をすこしかきあげて、ぬき足をして、うたがひなく、出家せんと思ひて、二間ばかり行くほどに、そもそも、その女房過ちせんからに、出家すべきやうやはあると思ふ心、またつきて、ただただと、走り出でられにけり。
女房はいかがなりけん、知らずとか。
今は昔、小式部内侍に定頼中納言もの言ひわたりけり。それに又時の関白かよひ給ひけり。
局に入りて、臥し給ひたりけるを、知らざりけるにや、中納言寄り来てたたきけるを、局の人「かく」とや言ひたりけん、沓をはきて行きけるが、少し歩みのきて、経をはたとうちあげて読みたりけり。
二声ばかりまでは、小式部内侍、きと耳をたつるやうにしければ、この入りて臥し給へる人、あやしとおぼしけるほどに、すこし声遠うなるやうにて、四声五声ばかり、ゆきもやらでよみたりける時、「う」と言ひて、後ろざまにこそ、ふしかへりたりけれ。
この入臥し給へる人の、「さばかりたへがたう、はづかしかりし事こそなかりしか」と、後に宣ひけるとかや。
これも今は昔、越前国甲楽城の渡りといふ所に渡りせんとて、者ども集まりたるに、山ぶしあり。けいたう坊といふ僧なりけり。熊野、御嶽はいふに及ばず、白山、伯耆の大山、出雲の鰐淵、おほかた修行し残したる所なかりけり。
それに、このかふらきの渡りに行きて、渡らんとするに、渡りせんとする者、雲霞のごとし。おのおの物をとりて渡す。このけいたう坊「渡せ」といふに、渡し守、聞きもいれで、漕ぎ出づ。その時に、この山ぶし、「いかに、かくは無下にはあるぞ」といへども、おほかた耳にも聞き入れずして、漕ぎ出す。その時にけいたう坊、歯をくひあはせて、念珠をもみちぎる。
この渡し守、見かへりて、をこの事と思ひたるけしきにて、三四町ばかりゆくを、けいたう坊見やりて、足を砂子に脛のなからばかり踏み入れて、目も赤くにらみなして、数珠をくだけぬともみちぎりて、「召し返せ、召し返せ」と叫ぶ。なほ行き過ぐる時に、けいたう坊、袈裟を念珠とを取りあはせて、汀近く歩み寄りて、「護法、召し返せ。召かへさずは、長く三宝に別れ奉らん」と叫びて、この袈裟を海に投げ入れんとす。それをみて、このつどひゐたる者ども、色を失ひて立てり。
かく言ふほどに、風も吹かぬに、この行く舟のこなたへ寄り来。それをみて、けいたう坊「よかめるは、よかめるは。はやう率ておはせ、率ておはせ」と、すはなちをして、見る者、色を違へたり。
かくいふほどに、一町がうちに寄り来たり。そのとき、けいたう坊、「さて今は打ち返せ、打ち返せ」と叫ぶ。そのときに、つどひて見る者ども、一声に、「むざうの申すやうかな。ゆゆしき罪に候ふ。さておはしませ、さておはしませ」と言ふとき、けいたう坊、いますこしけしき変はりて、「はや、打ちかへし給へ」と叫ぶときに、この渡し舟に二十余人の渡る者、つぶりと投げ返しぬ。その時、けいたう坊、汗を押ししのごひて、「あな、いたのやつばらや。まだ知らぬか」と言ひて立ち帰りにけり。
世の末なれども、三宝おはしましけりとなん。
これも今は昔、法輪院大僧正覚猷といふ人おはしけり。
その甥に陸奥前司、国俊、僧正のもとへ行きて、「参りてこそ候へ」といはせければ、
「只今見参すべし。そなたにしばしあはせ」とありければ、待ちゐたるに、二時ばかりまで出であはねば、生腹立たしう覚えて、「出でなん」と思ひて、供に具したる雑色を呼びければ、出で来たるに、「沓持て来」と言ひければ、
持て来たるをはきて、「出でなん」といふに、この雑色がいふやう、「僧正の御坊の、『陸奥殿に申したれば、疾う乗れとあるぞ。その車率て来』とて、『小御門より出でん』と仰せ事候ひつれば、『やうぞ候ふらん』とて、牛飼乗せ奉りて候へば、『侍たせ給へと申せ。時の程ぞあらんずる。やがて帰り来んずるぞ』とて、早う奉りて出でさせ給ひつるにて候ふ。かうて一時には過ぎ候ひぬらん」と言へば、
「わ雑色は不覚のやつかな。『御車をかく召しの候ふは』と、我に言ひてこそ貸し申さめ。不覚なり」と言へば、
「うちさし退きたる人にもおはしまさず。やがて御尻切り奉りて、『きときとよく申したるぞ』と、仰せ事候へば、力及び候はざりつる」と言ひければ、陸奥前司帰り上りて、いかにせんと思ひまはすに、
僧正は定まりたる事にて湯舟に藁をこまごまと切りて一はた入れて、それが上に筵を敷きて、歩きまはりては、左右なく湯殿け行きて裸になりて、「えさい、かさい、とりふすま」と言ひて、湯舟にさくとのけざまに臥す事をぞし給ひける。
陸奥前司、寄りて筵を引きあげて見れば、まことに藁をみな取り入れてよく包みて、その湯舟に湯桶をしたに取り入れて、それが上に囲碁盤を裏返して置きて、筵を引き掩ひて、さりげなくて、垂布に包みたる藁をば大門の脇に隠し置きて、待ちゐたるほどに、二時余りありて、僧正、小門より帰る音しければ、ちがひて大門へ出でて、帰りたる車呼び寄せて、車の尻にこの包みたる藁を入れて、家へはやらかにやりて、おりて、「この藁を、牛のあちこち歩き困じたるに、食はせよ」とて、牛飼童に取らせつ。
僧正は例の事なれば、衣脱ぐ程もなく、例の湯殿へ入りて、「えさい、かさい、とりふすま」と言ひて湯舟へ躍りり入りて、のけざまに、ゆくりもなく臥したるに、碁盤の足のいかり差し上りたるに尻骨を荒う突きて、年高うなりたる人の、死に入りて、さし反りて臥したりけるが、その後、音なかりければ、近う使ふ僧寄りて見れば、目を上に見つけて死に入りて寝たり。
「こはいかに」といへど、いひあへもせず。寄りて顔に水吹きなどして、とばかりありてぞ息の下におろおろいはれける。この戯れ、いとはしたなかりけるにや。
これも今は昔、絵仏師良秀といふありけり。
家の隣より火出で来て、風おし掩ひて責めければ、逃げ出でて大路へ出でにけり。
人の書かする仏もおはしけり。また衣着ぬ妻子なども、さながら内にありけり。
それも知らず、ただ逃げ出でたるを事にして、向かひのつらに立てり。
見れば、すでに我が家に移りて、煙炎くゆりけるまで、おほかた向かひのつらに立ちて眺めければ、あさましき事とて人ども来とぶらひけれど、騒がず。
「いかに」と人言ひければ、向かひに立ちて、家の焼くるを見てうち頷きて時々笑ひけり。
「あはれ、しつるせうとくかな。年ごろはわろく書きけるものかな」といふ時に、とぶらひに来たる者ども、「こはいかに、かくて立ち給へるぞ。あさましき事かな。物の憑き給へるか」と言ひければ、
「なんでふ物の憑くべきぞ。年ごろ不動尊の火焔を悪しく書きけるなり。今見れば、かうこそ燃えけれと、心得つるなり。これこそせうとくよ。この道を立てて世にあらんには、仏だによく書き奉らば、百千の家も出で来なん。わたうたちこそ、させる能もおはせねば、物をも惜しみ給へ」と言ひて、あざ笑ひてこそ立てりけれ。
その後にや、良秀がよりぢり不動とて今に人々愛で合へり。
これも今は昔、筑紫の人、商ひしに新羅に渡りけるが、商ひ果てて帰る道に、山の根に沿ひて、舟に水汲み入れんとて、水の流れ出でたる所に舟をとどめて水を汲む。
そのほど、舟に乗りたる者、舟ばたにゐて、うつぶして海を見れば山の影うつりたり。高き岸の三四十丈ばかり余りたる上に、虎つづまりゐて物を窺ふ。その影、水にうつりたり。その時に人々に告げて、水汲む者を急ぎ呼び乗せて、手ごとに櫓を押して急ぎて舟を出す。その時に虎躍りおりて舟に乗るに、舟はとく出づ。虎は落ち来る程のありければ、今一丈ばかりを、え躍りつかで、海に落ち入りぬ。
舟を漕ぎて急ぎて行くままに、この虎に目をかけて見る。しばしばかりありて、虎海より出で来ぬ。泳ぎて陸ざまに上りて、汀に平なる石の上に登るを見れば、左の前足を膝より噛み食ひ切られて血あゆ。「鰐に食ひ切られたるなりけり」と見るほどに、その切れたる所を水に浸して、ひらがりをるを、「いかにするにか」と見るほどに、沖の方より、鰐、虎の方をさして来ると見るほどに、虎、右の前足をもて鰐の頭に爪をうち立てて陸ざまに投げあぐれば、一丈ばかり浜に投げあげられぬ。のけざまになりてふためく。
頤の下を、躍りかかりて食ひて、二度三度ばかりうち振りて、なへなへとなして、肩にうちかけて、手を立てたるやうなる岩の五六丈あるを、三つの足をもて、下り坂を走るがごとく登りて行けば、舟の内なる者ども、これが仕業を見るに、半らは死に入りぬ。
「舟に飛びかかりたらましかば、いみじき剣刀を抜きてあふとも、かばかり力強く早からんには、何わざをすべきぞ」と思ふに、肝心失せて、舟漕ぐ空もなくてなん、筑紫には帰りけるとかや。
今は昔、木こりの、山守に斧を取られて、わびし、心うしと思ひて、つら杖うちつきてをりける。山守見て、「さるべきことを申せ。とらせん」と言ひければ、
♪3
あしきだに なきはわりなき 世の中に
よきをとられて 我いかにせむ
と詠みたりければ、山守、返しせんと思ひて、「うう、うう」とうめきけれど、えせざりけり。
さて、斧返しとらせてければ、うれしと思ひけりとぞ。
人はただ、歌をかまへてよむべしと見えたり。
今は昔、多気大夫といふ者の、常陸より上りて、愁へするころ、向かひに越前守といふ人のもとに経誦しけり。この越前守は、伯の母とて、世にめでてき人、歌よみの親なり。妻は伊勢大輔、姫君にたちあまたあるべし。
多気大夫、つれづれにおぼゆれば、聴聞に参りたりけるに、御簾を風の吹き上げたるに、なべてならず美しき人の、紅の一重がさね着たる見るより、「この人を妻にせばや」といりもみ思ひければ、その家の上童を語らひて問ひ聞けば、「大姫御前の、紅は奉りたる」と語りければ、それに語らひつきて、「我に盗ませよ」といふに、「思ひかけず、えせじ」と言ひければ、「さらば、その乳母を知らせよ」と言ひければ、「それは、さも申してん」とて知らせてけり。さていみじく語らひて金百両取らせなどして、「この姫君を盗ませよ」と責め言ひければ、さるべき契りにやありけん、盗ませてけり。
やがて乳母うち具して常陸へ急ぎ下りにけり。跡に泣き悲しねど、かひもなし。程経て乳母おとづれたり。あさましく心憂しと思へども、いふかひなき事なれば、時々うちおとづれて過ぎけり。伯の母、常陸へかくいひやり給ふ。
♪4
匂ひきや 都の花は 東路に
こちのかへしの 風のつけしは
返し、姉、
♪5
吹き返す こちのかへしは 身にしみき
都の花の しるべと思ふに
年月隔りて、伯の母、常陸守の妻にて下りけるに、姉は失せにけり。女二人ありけるが、かくと聞きて参りたりけり。田舎人とも見えず、いみじくしめやかに恥づかしげによかりけり。常陸守の上を、「昔の人に似させ給ひたりける」とて、いみじく泣き合ひたりけり。四年が間、名聞にも思ひたらず、用事などもいはざりけり。
任果てて上る折に、常陸守、「無下なりける者どもかな。かくなん上るといひにやれ」と男にいはれて、伯の母、上る由いひにやりたりければ、「承りぬ。参り候はん」とて明後日上らんとての日、参りたりけり。えもいはぬ馬、一つを宝にする程の馬十疋づつ、二人して、また皮籠負ほせたる馬ども百疋づつ、二人して奉りたり。何とも思ひたらず、かばかりに事したりとも思はず、うち奉りて帰りにけり。
常陸守の、「ありける常陸四年が間の物は何ならず。その皮籠の物どもしてこそ万の功徳も何もし給ひけれ。ゆゆしかりける者どもの心の大きさ広さかな」と語られけるとぞ。
この伊勢の大輔の子孫は、めでたきさいはひ人多く出で来給ひたるに、大姫君のかく田舎人になられたりける、哀れに心憂くこそ。
今は昔、伯の母仏供養しけり。永縁僧正を請じて、さまざまの物どもを奉る中に、紫の薄様に包みたる物あり。あけて見れば、
♪6
朽ちけるに 長柄の橋の 橋柱
法のためにも 渡しつるかな
長柄の橋の切なりけり。
またその日つととめて、若狭阿闍梨隆源といふ人歌よみなるが来たり。「あはれ、この事を聞きたるよ」と僧正思すに、懐より名簿を引き出でて奉る。「この橋の切賜らん」と申す。僧正、「かばかりの希有の物はいかでか」とて、「何しにか取らせ給はん。口惜し」とて帰りにけり。すきずきしくあはれなる事どもなり。
今は昔、藤六といふ歌よみありけり。下種の家に入りて、人もなかりける折を見つけて入りにけり。鍋に煮ける物をすくひけるほどに、家あるじの女、水を汲みて、大路の方より来て見れば、かくすくひ食へば、「いかにかく人もなき所に入りて、かくはする物をば参るぞ。あなうたてや、藤六にこそいましけれ。さらば歌詠み給へ」と言ひければ、
♪7
昔より 阿弥陀ほとけの ちかひにて
煮ゆるものをば すくふとぞ知る
とこそ詠みたりける。
これも今は昔、多田満仲のもとに猛く悪しき朗等ありけり。物の命を殺すをもて業とす。野に出で、山の入りて鹿を狩り鳥を取りて、いささかの善根する事なし。
ある時出でて狩をする間、馬を馳せて鹿追ふ。矢をはげ、弓を引きて、鹿に随ひて走らせて行く道に寺ありけり。その前を過ぐるほどに、きと見やりたれば、内に地蔵立ち給へり。左の手をもちて弓を取り、右の手して笠を脱ぎて、いささか帰依の心をいたして馳せ過ぎにけり。
その後いくばくの年を経ずして、病つきて、日ごろよく苦しみ煩ひて、命絶えぬ。冥途に行き向ひて、閻魔の庁に召されぬ。見れば、多くの罪人、罪の重軽に随ひて打ちせため、罪せらるる事いといみじ。我が一生の罪業を思ひ続くるに、涙落ちてせん方なし。
かかるほどに、一人の僧出で来たりて、宣はく、「汝を助けんと思ふなり。早く故郷に帰りて、罪を懺悔すべし」と宣ふ。僧に問ひ奉りていはく、「これは誰の人の、かくは仰せらるるぞ」と。
僧答へ給はく、「我は、汝、鹿を追ひて寺の前を過ぎしに、寺の中にありて汝に見えし地蔵菩薩なり。汝、罪業深重なりといへども、いささか我に帰依の心を起こしし功によりて、吾いま汝を助けんとするなり」と宣ふと思ひて、よみがへりて後は、殺生を長く断ちて、地蔵菩薩につかうまつりけり。
これも今は昔、因幡国高草の郡さかの里に伽藍あり。国隆寺と名づく。この国の前の国司ちかなが造れるなり。
そこに年老いたる者語り伝へていはく、この寺の別当ありき。家に仏師を呼びて地蔵を造らするほどに、別当の妻、異男に語らはれて跡をくらうして失せぬ。別当心を惑はして、仏の事をも仏師をも知らで、里村に手を分ちて尋ね求むる間、七八日を経ぬ。仏師ども檀那を失ひて、空を仰ぎて、手を徒らにしてゐたり。その寺の専当法師、これを見て、善心を起こして、食物を求めて仏師に食はせて、わづかに地蔵の木作ばかりをし奉りて、彩色、瓔珞をばえせず。
その後、この専当法師病づきて命終りぬ。妻子悲しみ泣きて、棺に入れながら捨てずして置きて、なほこれを見るに、死にて六日といふ日の未の時ばかりに、にはかにこの棺はたらく。見る人おぢ恐れて逃げ去りぬ。
妻泣き悲しみて、あけて見れば、法師よみがへりて、水を口に入れ、やうやう程経て、冥途の物語す。「大きなる鬼二人来たりて、我を捕らへて、追ひ立てて広き野を行くに、白き衣着たる僧出で来て『鬼ども、この法師とく許せ。我は地蔵菩薩なり。因幡国、国隆寺にて我を造りし僧なり。法師等食物なくて日ごろ経しに、この法師信心をいたして、食物を求めて仏師を供養して、我が像を造らしめたり。この恩忘れがたし。必ず許すべき者なり』と宣ふほどに、鬼ども、許しをはりぬ。ねんごろに道教へて帰しつと見て、生き返りたるなり」と言ふ。
その後、この地蔵菩薩を妻子ども彩色し、供養し奉りて、長く帰依し奉りける。今、この寺におはします。
これも今は昔、伏見修理大夫は宇治殿の御子にておはす。
あまり公達多くおはしければ、やうを変へて橘俊遠といふ人の子になし申して、蔵人になして、十五にて尾張守になし給ひてけり。
それに尾張に下りて国行ひけるに、そのころ、熱田の神いちはやくおはしまして、おのづから笠をも脱がず、馬の鼻を向け、無礼をいたす者をば、やがてたち所に罰せさせおはしましければ、大宮寺の威勢、国司にもまさりて、国の者どもおぢ恐れたりけり。
そこに国司下りて国の沙汰どもあるに、大宮司、我はと思ひてゐたるを、国司咎めて、「いかに大宮司ならんからに、国にはらまれては見参にも参らぬるぞ」といふに、「さきざきる事なし」とてゐたりければ、国司むつかりて、「国司も国司にこそよれ。我が身にあひては、かうはいふぞ」とて、いやみ思ひて、「知らん所ども点ぜよ」などいふ時に、人ありて大宮司にいふ。「まことにも国司と申すにかかる人おはす。見参に参らせ給へ」といふければ、「さらば」と言ひて、衣冠に衣出して、供の者ども三十人ばかり具して国司のがり向ひぬ。
国司出であひ対面して、人どもを呼びて、「きやつ、たしかに召し籠めて勘当せよ。神官といはんからに、国中にはらまれて、いかに奇怪をばいたす」とて、召したててゆふねに籠めて勘当す。
その時、大宮司、「心憂き事に候ふ。御神はおはしまさぬか。下臈の無礼をいたすだにたち所に罰させおはしますに、大宮司をかくせさせて御覧ずるは」と、泣く泣くくどきてまどろみたる夢に、熱田の仰せらるるやう、「この事におきては我が力及ばぬなり。その故は僧ありき。法華経を千部読みて我に法楽せんとせしに、百余部は読み奉りたりき。国の物ども貴がりて、この僧に帰依しあひたりしを、汝むつかしがりて、その僧を追ひ払ひてき。それに、僧、悪心を起こして、『我この国の守になりて、この答へをせん』とて生れ来て、今国司になりてければ、我が力及ばず。その先生の僧を俊綱といひしに、この国司も俊綱といふなり」と、夢に仰せありけり。人の悪心はよしなき事なりと。
今は昔、長門前司といひける人の、女二人ありけるが、姉は人の妻にてありける。妹はいと若くて宮仕へぞしけるが、後には家にゐたりけり。わざとありつきたる男もなくて、ただ時々通ふ人などぞありける。高辻室町わたりにこぞ家はありける。父母もなくなりて、奥の方には、姉ぞゐたりける。南の表の、西の方なる妻戸口にぞ常々人に逢ひ、物などいふ所なりける。
二十七八ばかりなりける年、いみじく煩ひて失せにけり。奥は所狭しとて、その妻戸口にぞやがて臥したりける。さてあるべき事ならねば、姉などしたてて鳥部野へ率て往ぬ。さて例の作法にとかくせんとて、車より取りおろすに、櫃かろがろとして、蓋いささかあきたり。あやしくて、あけて見るに、いかにもいかにもつゆ物なかりけり。
「道などにて落ちなどすべき事にもあらぬに、いかなる事にか」と心得ず、あさまし。すべき方もなくて、「さりとてあらんやは」とて、人々走り帰りて、「道におのづからや」と見れども、あるべきならねば、家へ帰りぬ。
「もしや」と見れば、この妻戸口に、もとのやうにてうち臥したり。いとあさましくも恐ろしくて、親しき人々集まりて、「いかがすべき」と言ひ合せ騒ぐほどに、夜もいたく更けぬれば、「いかがせん」とて、夜明けてまた櫃に入れて、この度はよくまことにしたためて、夜さりいかにもなど思ひてあるほどに、夕つかたに見るほどに、この櫃の蓋細めにあきたりけり。
いみじく恐ろしく、ずちなけれど、親しき人々、「近くてよく見ん」とて寄りて見れば、棺より出でて、また妻戸口に臥したり。「いとどあさましきわざかな」とて、またかき入れんとてよろづにすれど、さらにさらに揺るがず。
土より生ひたる大木などを引き揺るがさんやうなれば、すべき方なくて、「ただここにあらんと思すか。さらばここにも置き奉らん。かくてはいと見苦しかりなん」とて、妻戸口の板敷をこぼちて、そこに下さんとしければ、いと軽やかに下されたれば、すべなくて、その妻戸口一間を板敷など取りのけこぼちて、そこに埋みて高々と塚にてあり。
家の人々もさてあひゐてあらん、物むつかしく覚えて、みな外へ渡りにけり。さて年月経にければ、寝殿もみなこぼれ失せにけり。
いかなる事にか、この塚の傍ら近くは下種などもえゐつかず。むつかしき事ありと言ひ伝へて、おほかた人もえゐつかねば、そこはただの塚一つぞある。高辻よりは北、室町よりは西、高辻表に六七間ばかりが程は、小家もなくて、その塚一つぞ高々としてありける。いかにしたる事にか、塚の上に神の社をぞ一つ斎ひ据ゑてあなる。この頃も今にありとなん。
今は昔、春つかた、日うららかなりけるに、六十ばかりの女のありけるが、虫打ち取りてゐたりけるに、庭に雀のしありきけるを、童部石を取りて打ちたれば、当たりて腰をうち折られにけり。羽をふためかして惑ふほどに、烏のかけりありきければ、「あな心憂。烏取りてん」とて、この女急ぎ取りて、息しかけなどして物食はす。小桶に入れて夜はをさむ。明くれば米食はせ、銅、薬にこそげて食はせなどすれば、子ども孫など、「あはれ、女刀自は老いて雀飼はるる」とて憎み笑ふ。
かくて月ごろよくつくろへば、やうやう躍り歩く。雀の心にも、かく養ひ生けたるをいみじくうれしうれしと思ひけり。あからさまに物へ行くとても、人に、「この雀見よ。物食はせよ」など言ひ置きければ、子孫など、「あはれ、なんでふ雀飼はるる」とて憎み笑へども、「さはれ、いとほしければ」とて飼ふほどに、飛ぶ程なりけり。
「今はよも烏に取られじ」とて、外に出でて手に据ゑて、「飛びやする、見ん」とて、ささげたれば、ふらふらと飛びて往ぬ。女、「多くの月ごろ日ごろ、暮るればをさめ、明くれば物食はせ習ひて、あはれや飛びて往ぬるよ。また来やすると見ん」など、つれづれに思ひて言ひければ、人に笑はれけり。
さて二十日ばかりありて、この女のゐたる方に雀のいたく鳴く声しければ、「雀こそいたく鳴くなれ。ありし雀の来るにやあらん」と思ひて出でて見れば、この雀なり。「あはれに、忘れず来たるこそあはれなれ」といふほどに、女の顔をうち見て口より露ばかりの物を落し置くやうにして、飛びていぬ。
女、「何にかあらん。雀の落としていぬる物は」とて、寄りて見れば、瓢の種をただ一つ落として置きたり。「持て来たる、やうこそあらめ」とて、取りて持ちたり。「あないみじ、雀の物得て宝にし給ふ」とて子ども笑へば、「さはれ、植ゑてみん」とて植ゑたれば、秋になるままに、いみじく多く生ひ広ごりて、なべての瓢荷も似ず、大きに多くなりたり。
女、悦び興じて、里隣の人にも食はせ、取れども取れども尽きもせず多かり。笑ひし子孫もこれを明け暮れ食ひてあり。一里配りなどして、果てにはまことにすぐれて大きなる七つ八つは瓢にせんと思ひて、内につりつけて置きたり。
さて月ごろへて、「今はよくなりぬらん」とて見れば、よくなりにけり。取りおろして口あけんとするに、少し重し。あやしけれども切りあけて見れば、物一はた入りたり。
「何にかあるらん」とて移して見れば、白米の入りたりつ。思ひかけずあさましと思ひて、大きなる物に皆を移したるに、同じやうに入れてあれば、「ただ事にはあらざりけり。雀のしたるにこそ」と、あさましくうれしければ、物に入れて隠し置きて、残りの瓢どもを見れば、同じやうに入れてあり。これを移し移し使へば、せん方なく多かり。さてまことに頼もしき人にぞなにける。隣里の人も見あさみ、いみじき事に羨みけり。
この隣にありける女の子どものいふやう、「同じ事なれど、人はかくこそあれ。はかばかしき事もえし出で給はぬ」などいはれて、隣の女、この女房のもとに来たりて、「さてもさても、こはいかなりし事ぞ。雀のなどはほの聞けど、よくはえ知らねば、もとありけんままに宣へ」と言へば、「瓢の種を一つ落としたりし、植ゑたりしよりある事なり」とて、こまかにもいはぬを、
なほ、「ありのままにこまかに宣へ」と切に問へば、「心狭く隠すべき事かは」と思ひて、「かうかう腰折れたる雀のありしを飼ひ生けたりしを、うれしと思ひけるにや、瓢の種を一つ持ちて、来たりしを植ゑたれば、かくなりたるなり」と言へば、「その種ただ一つ賜べ」と言へば、「それに入れたる米などは参らせん。種はあるべき事にもあらず。さらにえなん散らすまじ」とて取らせねば、「我もいかで腰折れたらん雀見つけて飼はん」と思ひて、目をたてて見れど、腰折れたる雀さらに見えず。
つとめてごとに、うかがひ見れば、背戸の方に米の散りたるを食ふとて雀の躍り歩くを、石を取りてもしやとて打てば、あまたの中にたびたび打てば、おのづから打ち当てられて、え飛ばぬあり。
悦びて寄りて腰よくうち折りて後に、取りて物食はせ、薬食はせなどして置きたり。「一つか徳をだにこそ見れ、ましてあまたならばいかにも頼もしからん。あの隣の女にはまさりて、子どもにほめられん」と思ひて、戸の内に米撒きてうかがひゐたれば、雀ども集まりて食ひに来たれば、また打ち打ちしければ、三つ打ち折りぬ。
「今はかばかりにてありなん」と思ひて腰折れたる雀三つばかり桶に取り入れて、銅こそげて食はせなどして月ごろ経るほどに、皆よくなりにたれば、悦びて外に取り出でたれば、ふらふらと飛びてみな往ぬ。「いみじきわびしつ」と思ふ。雀は腰うち折られて、かく月ごろ籠め置きたる、よに妬しと思ひけり。
さて十日ばかりありて、この雀ども来たれば、悦びて、まづ「口に物やくはへたる」と見るに、瓢の種を一つづつみな落として往ぬ。「さればよ」とうれしくて、取りて三所に植ゑてけり。例よりもするすると生ひたちて、いみじく大きになりたり。
女、笑みまけて見て、子どもにいふやう、「はかばかしき事し出でずと言ひしかど、我は隣の女にはまさりなん」と言へば、げさにもあらなんと思ひたり。これは数の少なければ、米多く取らんとて、人にも食はせず、我も食はず。
子どもがいふやう、「隣の女房は里隣の人にも食はせ、我も食ひなどこそせしか。これはまして三つが種なり。我も人にも食はせらるべきなり」と言へば、さもと思ひて、「近き隣の人にも食はせ、我も子どもにももろともに食はせん」とて、おほらかにて食ふに、にがき事物にも似ず。黄蘗などのやうにて、心地惑ふ。
食ひと食ひたる人々も子どもも我も、物をつきて惑ふほどに、隣の人どももみな心地を損じて、来集まりて、「こはいかなる物を食はせつるぞ。あな恐ろし。露ばかりけふんの口に寄りたる者も、物をつき惑ひ合ひて死ぬべくこそあれ」と、腹立ちて「いひせためん」と思ひて来たれば、主の女を始めて子どももみな物覚えず、つき散らして臥せり合ひたり。いふかひなくて、共に帰りぬ。
二三日も過ぎぬれば、誰々も心地直りにたり。女思ふやう、「みな米にならんとしけるものを、急ぎて食ひたれば、かくあやしかりけるなめり」と思ひて、残りをば皆つりつけて置きたり。
さて月ごろ経て、「今はよくなりぬらん」とて、移し入れん料の桶ども具して部屋に入る。うれしければ、歯もなき口して耳のもとまで一人笑みして、桶を寄せて移しければ、虻、蜂、むかで、とかげ、蛇など出でて、目鼻ともいはず、一身に取りつきて刺せども、女痛さも覚えず。ただ「米のこぼれかかるぞ」と思ひて、「しばし待ち給へ、雀よ。少しづつ取らん」と言ふ。七つ八つの瓢より、そこらの毒虫ども出でて、子どもをも刺し食ひ、女をば刺し殺してけり。
雀の、腰をうち折られて、妬しと思ひて、万の虫どもを語らひて入れたりけるなり。隣の雀は、もと腰折れて烏の命取りぬべかりしを養ひ生けたれば、うれしと思ひけるなり。されば物羨みはすまじき事なり。
今は昔、小野篁といふ人おはしけり。
嵯峨帝の御時に、内裏に札を立てたりけるに、「無悪善」と書きたりけり。
帝、篁に、「読め」と仰せられたりければ、
「読みは読み候ひなん。されど恐れにて候へば、え申し候はじ」と奏しければ、
「ただ申せ」とたびたび仰せられければ、
「さがなくてよからんと申して候ふぞ。されば君を呪ひ参らせて候ふなり」と申しければ、
「おのれ放ちては誰か書かん」と仰せられければ、
「さればこそ、申し候はじとは申して候ひつれ」と申すに、
帝、「さて何も書きたらん物は読みてんや」と仰せられければ、
「何にても、読み候ひなん」と申しければ、
片仮名の子文字を十二書かせて給ひて、「読め」と仰せられければ、
「ねこの子のこねこ、ししの子のこじし」と読みたりければ、帝ほほゑませ給ひて、事なくてやみにけり。
今は昔、兵衛佐貞文をば平中と言ふ。色好みにて、宮仕人はさらなり、人の女など、忍びて見ぬはなかりけり。
思ひかけて文やる程の人の、なびかぬはなかりけるに、本院寺従といふは村上の御母后の女房なり。世の色好みにてありけるに、文やるに、僧からず返事はしながら、逢ふ事はなかりけり。しばしこそあらめ、遂にはさりとも、と思ひて、物のあはれなる夕暮の空、また月の明き夜など、艶に人の目とどめつべき程を計らひつつおとづれければ、女も見知りて、情は交わしながら心をば許さず、つれなくて、はしたなからぬ程にいらへつつ、人ゐまじり、苦しかるまじき所にては物いひなどはしながら、めでたくのがれつつ心もとなくて、常よりもしげくおとづれて、「参らん」といひおこせたりけるに、例のはしたなからずいらへたれば、四月のつごもりごろに、雨おどろおどろしく降りてもの恐ろしげなるに、かかる折に行きたらばこそあはれとも思はめ、と思ひて出でぬ。
道すがら堪へがたき雨を、これに行きたらに逢はで帰す事よもと、頼もしく思ひて、局に行きたれば、人出で来て、「上なれば、案内申さん」とて、端の方に入れて往ぬ。
見れば、物の後ろに火ほのかにともして、宿直物とおぼしき衣、伏籠にかけて薫物しめたる匂ひ、なべてならず。いとど心にくくて、身にしみていみじと思ふに、人帰りて、「只今もおりさせ給ふ」と言ふ。うれしさ限りなし。
すなはちおりたり。「かかる雨にはいかに」などいへば、「これにさはらんは、むげに浅き事にこそ」など言ひ交はして、近く寄りて髪を探れば、氷をのしかけたらんやうに冷やかにて、あたきめでたき事限りなし。何やかやと、えもいはぬ事ども言ひ交はして、疑ひなく思ふに、「あはれ、遣戸をあけながら、忘れて来にける。つとめて、『誰かあけながらは出でにけるぞ』など、煩はしき事になりなんず。立てて帰らん。程もあるまじ」と言へば、さる事と思ひて、かばかりうち解けにたれば、心やすくて、衣をとどめて参らせぬ。
まことに遣戸たつる音して、こなたへ来らんと待つほどに、音もせで奥ざまへ入りぬ。それに心もとなくあさましく、現し心も失せ果てて、這ひも入りぬべけれど、すべき方もなくて、やりつる悔しさを思へど、かひなければ、泣く泣く暁近く出でぬ。
家に行きて思ひ明かして、すかし置きつる心憂さ書き続けてやりたれど、「何しにかすかさん。帰らんとせしに召ししかば、後にも」など言ひて過しつ。
おほかた、ま近き事はあるまじきなめり。今はさはこの人のわろく疎ましからん事を見て思ひうとまばや。かくのみ心づくしに思はでありなん」と思ひて、随身を呼びて、「その人の樋すましの皮籠持ていかん、奪ひ取りて我に見せよ」と言ひければ、日ごろ添ひて窺ひて、からうじて逃げたるを追ひて奪ひ取りて、主に取らせつ。
平中悦びて、隠れに持て行きて見れば、香なる薄物の、三重がさねなるに包みたり。香ばしき事類ひなし。引き解きてあくるに、香ばしきたとへん方なし。見れば、沈、丁子を濃く煎じて入れたり。また、たき物を多くまろがしつつ、あまた入れたり。さるままに、香ばしさ推し量るべし。見るにいとあさまし。
「ゆゆしげにし置きたらば、それに見飽きて心もや慰むとこそ思ひつれ、こはいかなる事ぞ。かく心ある人やはある。ただ人とも覚えぬ有様かな」と、いとど死ぬばかり思へど、かひなし。「我が見んとしもやは思ふべきに」と、かかる心ばせを見て後は、いよいよほけほけしく思ひけれど、遂に逢はでやみにけり。
「我が身ながらも、かれに、世に恥がましく、妬く覚えし」と、平中、みそかに人に忍びて語りけるとぞ。
今は昔、一条摂政とは東三条殿の兄におはします。御かたちよりはじめ、心用ひなどめでたく、才、有様、まことしくおはしまし、また、色めかしく、女をも多く御覧じ興ぜざさせ給ひけるが、少し軽々に覚えさせ給ひければ、御名を隠せ給ひて、大蔵丞豊蔭と名のりて、上ならぬ女のがりは、御文も遣はしける。懸想せさせ給ひ、逢はせ給ひもしけるに、皆人、さ心得て知り参らせたり。
やんごとなくよき人の姫君のもとへ、おはしまし初めにけり。乳母、母などを語らひて、父には知らせさせ給はぬほどに、聞きつけて、いみじく腹立ちて、母をせため、爪弾きをして、いたく宣ひければ、「さる事なし」とあらがひて、「まだしき由の文、書きて給べ」と母君のわび申したりければ、
♪8
人知れず 身はいそげども 年を経て
など越えがたき 逢坂の関
とて遣はしたりければ、父に見すれば、「さては空事なりけり」と思ひて、返し、父のしける。
♪9
あづま路に 行きかふ人に あらぬ身は
いつかは越えん 逢坂の関
と詠みけるを見て、ほほゑまれけんかしと、御集にあり。をかしく。
今は昔、甲斐国に館の侍なりける者の、夕暮れに館を出でて家ざまに行きけるに、道に、狐のあひたりけるを追ひかけて引目して射ければ、狐の腰に射当ててけり。狐、射まろばかされて、鳴きわびて、腰をひきつつ草に入りにけり。この男、引目を取りて行くほどに、この狐、腰をひきて先に立ちて行くに、また射んとすれば失せにけり。
家いま四五町とて見えて行くほどに、この狐二町ばかり先だちて、火をくはへて走りければ、「火をくはへて走るはいかなる事ぞ」とて、馬をも走らせけれども、家のもとに走り寄りて、人になりて火を家につけてけり。「人のつくるにこそありけれ」とて、矢をはげて走らせけれども、つけ果ててければ、狐になりて草の中に走り入りて失せにけり。さて家焼けにけり。
かかるものも、たちまちに仇を報ふなり。これを聞きて、かやうのものをば構へて調ずまじきなり。
昔、物の怪わづらひし所に、物の怪渡ししほどに、物の怪、物つきに憑きていふやう、「おのれは、たたりの物の怪にても侍らず。うかれまかり通りつる狐なり。塚屋に子ども侍るが、物をほしがりつれば、かやうの所には、食物ちろぼふものぞかしとて、まうで来つるなり。しとぎばし食べてまかりなん」と言へば、しとぎをせさせて、一折敷とらせたれば、すこし食ひて、「あなうまや、あなうまや」と言ふ。「この女の、しとぎほしかりければ、そらものづきてかくいふ」と、にくみあへり。
「紙給はりて、これ包みてまかりて、たうめや子共などに食はせん」と言へば、紙を二枚引き違へて、包みたれば、大きやかなるを腰についばさみたれば、胸にさしあがりてあり。かくて、「追ひ給へ。まかりなん」と、験者にいへば、「追へ追へ」と言へば、立ちあがりて、たふれふしぬ。しばしばかりありて、やがておきあがりたるに、懐なるものさらになし。失せにけるこそふしぎなれ。
能登国には、鉄といふ物の、素鉄といふ程なるを取りて、守に取らする者、六十人ぞあなる。
実房といふ守の任に、鉄取六十人が長なりける者の、「佐渡国にこそ、金の花咲きたる所はありしか」と人にいひけるを、守伝へ聞きて、その男を守呼び取りて、物取らせなどして、すかし問ひければ、「佐渡国には、まことに金の侍るなり。候ひし所を見置きて侍るなり」と言へば、「さらば行きて、取りて来なんや」と言へば、「遣はさばまかり候はん」と言ふ。「さらば舟を出し立てん」といふに、「人をば賜り候はじ。ただ小舟一つと食物少しとを賜り候ひて、まかりいたりて、もしやと取りて参らん」と言へば、ただこれがいふに任せて、人にも知らせず、小舟一つと食ふべき物少しとを取らせたりければ、それを持て佐渡国へ渡りにけり。
一月ばかりありて、うち忘れたるほどに、この男、ふと来て、守に目を見合せたりければ、守心得て、人伝には取らで、みづから出であひたりければ、袖うつしに、黒ばみたるさいでに包みたる物を取らせたりければ、守重げに引きさげて、懐にひき入れて、帰り入りにけり。
その後、その金取り男はいづちともなく失せにけり、よろづに尋ねけれども、行方も知らず、やみにけり。いかに思ひて失せたりといふ事を知らず。金のある所を問ひ尋ねやすると思ひけるにやとぞ、疑ひける。その金は八千両ばかりありけるとぞ、語り伝へたる。
かかれば佐渡国には金ありける由と、能登国の者ども語りけるとぞ。
今は昔、薬師寺の別当僧都といふ人ありけり。別当はしけれども、ことに寺の物もつかはで、極楽に生まれんことをなん願ひける。
年老い、病して、死ぬるきざみになりて、念仏して消え入らんとす。
無下にかぎりと見ゆるほどに、よろしうなりて、弟子を呼びていやふう、「見るやうに、念仏は他念なく申して死ぬれば、極楽の迎へは見えずして、火の車を寄す。『こはなんぞ。かくは思はず。なんの罪によりて、地獄の迎はむきたるぞ』といひつれば、車につきたる鬼共のいふ様、『この寺の物を一年、五つばかり借りて、いまだ返さねば、その罪によりて、このむかへは得たるなり』と言ひつれば、我言ひつるは、『さばかりの罪にては、地獄に落つべきやうなし。その物を返してん』と言へば、火車をよせて待つなり。されば、とくとく一石誦経にせよ」と言ひければ、弟子ども、手まどひをして、いふままに誦経にしつ。
その鐘の声のする折、火車かへりぬ。さて、とばかりありて、「火の車はかへりて、極楽のむかへ、今なんおはする」と、手をすり悦びつつ、終りにけり。
その坊は、薬師寺の大門の北のわきにある坊なり。いまにその方、失せずしてあり。さばかり程の物つかひたるにだに、火車迎へにきたる。まして、寺物を心のままにつかひたる諸寺の別当の、地獄の迎へこそ思ひやらるれ。
土佐国幡多の郡に住む下種ありけり。おのが国にはあらで、異国に田をつくりけるが、おのがすむ国に苗代をして、植うべきほどになりければ、その苗を舟に入れて、植ゑん人どもに食はすべき物よりはじめて、鍋、釜、鋤、鍬、からすきなどいふ物にいたるまで、家の具を舟にとりつみて、十一二ばかりなるをのこ子、女子、二人の子を、舟のまのりめにのせ置きて、父母は、「植ゑんといふ者雇はん」とて、陸にあからさまにのぼりにけり。
舟をば、あからさまに思ひて、すこし引すゑて、つながずして置きたりけるに、この童部ども、船底に寝いりにけり。
潮のみちければ、舟は浮きたりけるを、はなつきに、すこし吹きいだされたりけるほどに、干潮にひかれて、はるかにみなとへ出でにけり。沖にては、いとど風吹まさりければ、帆をあげたるやうにて行く。その時に、童部、起きてみるに、かかりたる方もなき沖に出でたれば、泣きまどへども、すべき方もなし。いづかたともしらず、ただ吹かれて行きにけり。
さるほどに、父母は、人々も雇ひ集めて、船に乗らんとて来てみるに、舟なし。しばしは、風隠れにさし隠したるかと見るほどに、呼びさわげども、たれかはいらへん。浦々もとめけれども、なかりければ、いふかひなくてやみにけり。
かくて、この舟は、遥かの南の沖にありける島に、吹きつけてけり。童部ども、泣く泣くおりて、舟つなぎて見れば、いかにも人なし。
かへるべき方もおぼえねば、島におりていひけるやう、「今はすべき方なし。さりとては、命を捨つべきにあらず。この食ひ物のあらん限りこそ、少しづつも食ひて生きたらめ。これ尽きなば、いかにして命はあるべきぞ。いざ、この苗の枯れぬさきに植ゑん」と言ひければ、「げにも」とて、水の流れのありける所の、田に作りぬべきを求めいだして、鋤、鍬はありければ、木きりて、庵などつくりけり。
なり物の木の、折になりたる多かりければ、それを取り食ひて明かし暮らすほどに、秋にもなりにけり。さるべきにやありけん、つくりたる田のよくて、こなたに作たるにも、ことの外まさりたりければ、おほく苅り置きなどして、さりとてあるべきならねば、妻男になりにけり。
男子、女子あまた生みつづけて、また、それが妻男になりなりしつつ、大きなる島なりければ、田畠も多くつくりて、このごろは、その妹背がうみつづけたりける人ども、島に余るばかりになりてぞあんなる。
妹背島とて、土佐の国の南の沖にあるとぞ、人語りし。
この近くの事なるべし。女ありけり。
雲林院の菩提講に、大宮をのぼりに参りけるほどに、西院の辺近くなりて、石橋ありけり。水のほとりを、二十あまり、三十ばかりの女、中ゆひて歩みゆくが、石橋をふみ返して過ぎぬるあとに、ふみ返されたる橋のしたに、まだらなる小蛇の、きりきりとしてゐたれば、「石の下に蛇のありける」といふほどに、
このふみ返したる女のしりに立ちて、ゆらゆらとこの蛇の行けば、しりなる女の見るに、あやしくて、「いかに思ひて行くにかあらん。ふみ出されたるを、あしと思ひて、それが報答せんと思ふにや。これがせんやう見ん」とて、しりにたちて行くに、この女、時々は見かへりなどすれども、わが供に、蛇のあるとも知らぬげなり。
また、おなじやうに行く人あれども、蛇の、女に具して行くを、見つけ言ふ人もなし。ただ、最初見つけつる女の目にのみ見えければ、これがしなさんやう見んと思ひて、この女のしりをはなれず、歩み行くほどに、雲林院に参りつきぬ。
寺の板敷にのぼりて、この女ゐぬれば、この蛇ものぼりて、かたはらにわだかまり伏したれど、これを見つけさわぐ人なし。希有のわざかなと、目をはなたず見るほどに、講はてぬれば、女立ち出づるにしたがひて、蛇もつきて出でぬ。この女、これがしなさんやう見んとて、尻にたちて、京ざまに出でぬ。
下ざまに行きとまりて家あり。その家に入れば、蛇も具して入りぬ。これぞこれが家なりける思ふに、昼はする方もなきなめり、夜こそとかくすることもあらんずらめ、これが夜のありさまを見ばやと思ふに、見るべきやうもなければ、その家に歩みよりて、「田舎よりのぼる人の、行き泊まるべき所も候はぬを、今宵ばかり、宿させ給はなんや」と言へば、この蛇のつきたる女を家あるじと思ふに、「ここに宿り給ふ人あり」と言へば、老たる女いできて、「たれか宣ふぞ」と言へば、これぞ家のあるじなりけると思ひて、「今宵ばかり、宿かり申すなり」と言ふ。「よく侍りなん。入りておはせ」と言ふ。
うれしと思ひて、入りて見れば、板敷のあるにのぼりて、この女ゐたり。蛇は、板敷のしもに、柱のもとにわだかまりてあり。目をつけて見れば、この女をまもりあげて、この蛇はゐたり。蛇つきたる女「殿にあるやうは」など、物がたりしゐたり。宮仕する者なりとみる。
かかるほどに、日ただ暮れに暮れて、くらくなりぬれば、蛇のありさまを見るべきやうもなく、この家主とおぼゆる女にいふやう、「かく宿させ給へるかはりに、麻やある、績みて奉らん。火とぼし給へ」と言へば、「うれしく宣ひたり」とて、火ともしつ。
麻とり出して、あづけたれば、それを績みつつ見れば、この女ふしぬめり。今や寄らんと見れども、近くは寄らず。この事、やがても告げばやと思へども、告げたらば、我がためもあしくやあらんと思ひて、物も言はで、しなさんやう見んとて、夜中の過ぐるまで、まもりゐたれども、つひに見ゆるかたもなきほどに、火消えぬれば、この女も寝ぬ。
明けて後、いかがあらんと思ひて、まどひおきて見れば、この女、よきほどに寝おきて、ともかくもなげにて、家あるじと覚ゆる女にいふやう、「こよひ夢をこそ見つれ」と言へば、「いかに見給へるぞ」と問へば、
「このねたる枕上に、人のゐると思ひて、見れば、腰よりかみは人にて、しもは蛇なる女、清げなるがゐて、いふやう、『おのれは、人をうらめしと思ひしほどに、かく蛇の身をうけて、石橋のしたに、おほくの年を過ぐして、わびしと思ひゐたるほどに、昨日おのれが重石の石をふみ返し給ひしに助けられて、石のその苦をまぬかれて、うれしと思ひ給ひしかば、この人のおはしつかん所を見置き奉りて、よろこびも申さんと思ひて、御ともに参りしほどに、菩提講の庭に参り給ければ、その御ともに参りたるによりて、あひがたき法を承る事たるによりて、おほく罪をさへほろぼして、その力にて、人に生まれ侍るべき功徳の、近くなり侍れば、いよいよ悦びをいただきて、かくて参りたるなり。この報ひには、物よくあらせ奉りて、よき男などあはせ奉るべきなり』と言ふとなん見つる」と語るに、
あさましくなりて、この宿りたる女の言ふやう、「まことには、おのれは、田舎よりのぼりたるにも侍らず。そこそこに侍る者なり。それが、きのふ菩提講に参り侍りし道に、そのほど行きあひ給たりしかば、尻に立ちて歩みまかりしに、大宮のそのほどの河の石橋をふみ返されたりし下より、まだらなりし小蛇のいできて、御供に参りしを、かくと告げ申さんと思ひしかども、告げ奉りては、我がためも悪しき事にてもやあらんずらんと、恐ろしくて、え申さざりしなり。
まこと、講の庭にも、その蛇侍りしかども、人もえ見つけざりしなり。はてて、出で給ひし折、また具し奉りたりしかば、なりはてんやうゆかしくて、思ひもかけず、今宵ここにて夜をあかし侍りつるなり。この夜中過ぐるまでは、この蛇、柱のもとに侍りつるが、明けて見侍りつれば、蛇も見え侍らざりしなり。それにあはせて、かかる夢語りをし給へば、あさましく、恐ろしくて、かくあらはし申すなり。今よりは、これをついでにて、何事も申さん」などいひ語らひて、後はつねに行き通ひつつ、知る人になんなりにける。
さてこの女、よにものよくなりて、この頃は、何とはしらず、大殿の下家司の、いみじく徳あるが妻になりて、よろづ事かなひてぞありける。尋ねば、隠れあらじかしとぞ。
東北院の菩提講はじめける聖は、もとはいみじき悪人にて、獄に七度ぞ入たりける。
七たびといひけるたび、検非違使ども集まりて、「これはいみじき悪人なり。一二度獄にゐんだに、人としてはよかるべきことかは。ましていくそくばくの犯しをして、かく七度までは、あさましくゆゆしき事なり。このたびこれが足斬りてん」とさだめて、足斬りに率て行きて、斬らんとするほどに、いみじき相人ありけり。
それがものへ行きけるが、この足斬らんとするものによりていふやう、「この人、おのれにゆるされよ。これは、かならず往生すべき相ある人なり」と言ひければ、「よしなき事いふ、ものもおぼえぬ相する御坊かな」と言ひて、ただ、斬りに斬らんとすれば、その斬らんとする足のうへにのぼりて、「この足のかはりに、わが足を斬れ。往生すべき相あるものの、足斬らせては、いかでか見んや。おうおう」とをめきければ、斬らんとする者ども、しあつかひて、検非違使に、「かうかうの事侍」と言ひければ、やんごとなき相人のいふ事なれば、さすがに用ひずもなくて、別当に、「かかる事なんある」と申しければ、「さらばゆるしてよ」とて、ゆるされにけり。
そのとき、この盗人、心おこして法師になりて、いみじき聖になりて、この菩提講は始めたるなり。相かなひて、いみじく終とりてこそ失せにけれ。
かかれば、高名せんずる人は、その相ありとも、おぼろけの相人のみることにてもあらざりけり。はじめ置きたる講も、今日まで絶えぬは、まことにあはれなることなりかし。
三河入道、いまだ俗にてありける折、もとの妻をば去りつつ、わかくかたちよき女に思ひつきて、それを妻にて、三河へ率てくだりけるほどに、その女、久しくわづらひて、よかりけるかたちもおとろへて、失せにけるを、悲しさのあまりに、とかくもせで、夜も昼も、語らひふして、口を吸ひたりけるに、あさましき香の、口より出できたりけるにぞ、うとむ心出できて、なくなく葬りてける。
それより、世に憂きものにこそありけれと、思ひなりけるに、三河国に風祭といふことをしけるに、生贄といふことに、猪を生けながらおろしけるをみて、この国退きなんと思ふ心つきてけり。雉を生ながらとらへて、人の出で来たりけるを、「いざ、この雉、生けながら作りて食はん。いますこし、味はひやよきとこころみん」と言ひければ、いかでか心にいらんと思ひたる朗等の、物もおぼえぬが、「いみじく侍りなん。いかでか、味はひまさらぬやうはあらん」など、はやしいひけり。すこしものの心知りたる者は、あさましきことをもいふなど思ひける。
かくて前にて、生けながら毛をむしらせければ、しばしは、ふたふたとするを、おさへて、ただむしりにむしりければ、鳥の、目より血の涙をたれて、目をしばたたきて、これかれに見あはせけるを見て、え堪へずして、立ちて退く者もありけり。
「これがかく鳴く事」と、興じ笑ひて、いとど情けなげにむしる者もあり。むしりはてて、おろさせければ、刀にしたがひて、血のつぶつぶと出で来けるを、のごひのごひおろしければ、あさましく堪へがたげなる声を出だして、死に果てければ、おろしはてて、「いり焼きなどしてこころみよ」とて、人々こころみさせければ、「ことの外に侍けり。死したるおろして、炒り焼きしたるには、これはまさりたり」など言ひけるを、つくづくと見聞きて、涙を流して、声を立ててをめきけるに、「うまし」といひける者ども、したく違ひにけり。
さて、やがてその日、国府を出でて、京にのぼりて法師になりにけり。道心のおこりければ、よく心をかためんとて、かかる希有の事をしてみけるなり。
乞食といふ事しけるに、ある家に、食物えもいはずして、庭に畳を敷きて、物を食はせければ、この畳にゐて食はんとしけるほどに、簾を巻上たりける内に、よき装束きたる女のゐたるを見ければ、我がさりにしふるき妻なりけり。「あのかたゐ、かくてあらんを見んとおもひしぞ」と言ひて、見あはせたりけるを、はづかしとも、苦しとも思ひたるけしきもなくて、「あな貴と」と言ひて、物よくうち食ひて、帰りにけり。
ありがたき心なりかし。道心をかたくおこしてければ、さる事にあひたるも、苦しとも思はざりけるなり。
今は昔、進命婦若かりける時、常に清水へ参りける間、師の僧清かりけりる、八十の者なり、法華経を八万四千余読み奉りたる者なり。
この女房をみて、欲心をおこして、たちまちに病になりて、すでに死なんとするあひだ、弟子どもあやしみをなして、問ひていはく、「この病のありさま、うち任せたることにあらず。おぼしめすことあるか。仰せられずはよしなき事なり」と言ふ。
この時、語りていはく、「まことは、京より御堂へ参らるる女に、近づきなりて、物を申さばやとおもひしより、この三か年、不食の病なりて、今はすでに蛇道におちなんずる、心うきことなり」と言ふ。
ここに弟子一人、進命婦のもとへ行きて、このことをいふ時に、女、ほどなく来たれり。病者頭も剃らで、年月を送りたるあひだ、鬚、髪、銀の針を立てたるやうにて、鬼のごとし。されども、この女房、おそるるけしきなくして、いふやう、「年ごろ頼み奉る心ざし浅からず。何事に候ふとも、いかでか仰せられぬこと、そむき奉らん。御身くづほれさせ給はざりしさきに、などか、おほせられざりし」といふ時に、
この僧、かきおこされて、念珠をとりて、押しもみていふやう、「うれしく来たらせ給ひたり。八万余部読み奉りたる法華経の最第一の文をば、御前に奉る。欲を生ませ給はば、関白、摂政を生ませ給へ。女を生ませ給はば、女御、后を生ませ給へ。僧を生ませ給はば、法務の大僧正を生ませ給へ」といひ終りて、すなはち死にぬ。
その後、この女房、宇治殿に思はれ参らせて、はたして、京極大殿、四條宮、三井の覚円座主を生み奉れりとぞ。
これも今は昔、業遠朝臣死ぬる時、御堂の入道殿仰せられけるは、「言ひ置くべき事あらんかし。不便の事なり」とて、解脱寺の観修僧正を召して、業遠にむかひ給ひて加持する間、死人たちまち蘇生して、用事を言ひて後、また目を閉ぢてけりとか。
これも今は昔、民部大輔篤昌といふ者ありけるを、法性寺殿の御時、蔵人所の所司に、義助とかやいふ者ありけり。
件の篤昌を役に催しけるを、「我はかやうの役はすべき者にもあらず」とて、参らざりけるを、所司、小舎人をあまたつけて、苛法に催しければ、参りにけり。
さてまづこの所司に、「物申さん」と呼びければ、出であひけるに、この世ならず腹立ちて、「かやうの役に催し給ふはいかなる事ぞ。まづ篤昌をばいかなる者と知り給ひたるぞ。承らん」と、しきりに責めけれど、しばしは物もいはでゐたりけるを、叱りて、「宣へ。まづ篤昌がありやう承らん」といたう責めければ、「別の事候はず。民部大輔五位、鼻赤きにこそ知り申したれ」と言ひたりければ、「をう」と言ひて、逃げにけり。
また、この所司がゐたりける前を、忠恒といふ随身、異様にて練り通りけるを見て、「わりある随身の姿かな」と忍びやかに言ひけるを、耳とく聞きて、随身、所司が前に立ちかへりて、「わりあるとは、いかに宣ふ事ぞ」と咎めければ、「我は、人のわりのありなしもえ知らぬに、ただ今、武正府生の通られつるを、この人々、『わりなき者の様体かな』と言ひ合はせつるに、少しも似給はねば、さてはもし、わりのおはするかと思ひて、申したりつるなり」といひたりければ、忠恒、「をう」と言ひて逃げにけり。
この所司をば荒所司とぞつけたりけるとか。
これも今は昔、後朱雀院、例ならぬ御事、大事におはしましける時、後生の事、恐れ思し召しけり。それに御夢に、御堂入道殿参りて、申し給ひていはく、「丈六の仏を作れる人、子孫に於いて、更に悪道へ堕ちず。それがし多くの丈六を造り奉れり。御菩提に於いて疑い思し召すべからず」と。
これによりて明快座主に仰せ合はせられて、丈六仏を造らる。件の仏、山の護仏院に安置し奉らる。
これも今は昔、式部大輔実重は賀茂へ参る事ならびなき者なり。前生の運おろそかにして、身に過ぎたる利生にあづからず。
人の夢に、大明神、「また実重来たり、実重来たり」とて、嘆かせおはしますよし見けり。実重、御本地を見奉るべきよし祈り申すに、ある夜、下の御社に通夜したる夜、上へ参る間、なから木のほとりにて、行幸にあひ奉る。百官供奉常のごとし。
実重、片藪に隠れゐて見れば、鳳輦の中に、金泥の経一巻立たせおはしましたり。その外題に、「一称南無仏、皆已成仏道」と書かれたり。夢すなはち覚めぬとぞ。
これも今は昔、智海法印有職の時、清水寺へ百日参りて、夜更けて下向しけるに、橋の上に、「唯円教意、逆即是順、自余三教、逆順定故」といふ文を誦する声あり。貴き事かな、いかなる人の誦するならんと思ひて、近う寄りて見れば、白癩人なり。
傍にゐて、法文の事をいふに、智海ほとほと言ひまはされけり。南北二京に、これ程の学匠あらじものをと思ひて、「いづれの所にあるぞ」と問ひければ、「この坂に候ふなり」といひけり。
後にたびたび尋ねけれど、尋ねあはずしてやみにけり。もし化人にやありけんと思ひけり。
これも今は昔、白河院、御殿籠りて後、物におそはれさせ給ひける。
「然るべき武具を、御枕の上に置くべし」と沙汰ありて、義家朝臣に召されければ、檀弓の黒塗なるを、一張参らせたりけるを、御枕に立てられて後、おそはれさせおはしまさざしければ、御感ありて、「この弓は十二年の合戦の時や持ちたりし」と御尋ねありければ、覚えざるよし申されけり。上皇しきりに御感ありけるとか。
これも今は昔、南京の永超僧都は、魚なき限りは、時、非時もすべて食はざりける人なり。
公請勤めて、在京の間、久しくなりて、魚を食はで、くづほれて下る間、奈島の丈六堂の辺にて、昼破子食ふに、弟子一人、近辺の在家にて、魚を乞ひて、勧めたりけり。
件の魚の主、後に夢に見るやう、恐ろしげなる者ども、その辺の在家をしるしけるに、我が家をしるし除きければ、尋ぬる所に、使のいはく、「永超僧都に贄奉る所なり。さてしるし除く」と言ふ。
その年、この村の在家、ことごとく疫をして、死ぬる者多かり。
その魚の主が家、ただ一宇、その事を免る。よりて、僧都のもとへ参り向かひて、このよしを申す。僧都このよしを聞きて、被物一重賜びてぞ帰されける。
これも今は昔、了延房阿闍梨、日吉の社へ参りて帰る。
唐崎の辺を過ぐるに、「有相安楽行、此依観思」といふ所を誦したりければ、浪中に、「散心誦法花、不入禅三昧」と、末の句をば誦する声あり。
不思議の思ひをなして、「いかなる人のおはしますぞ」と問ひければ、具房僧都実因と名のりければ、汀にゐて法文を談じけるに、少々僻事ども答へければ、「これは僻事なり。いかに」と問ひければ、「よく申すとこそ思ひ候へども、生を隔てぬれば、力及ばぬ事なり。我なればこそ、これ程も申せ」と言ひけるとか。
これも今は昔、慈恵僧正は近江国浅井郡の人なり。叡山の戒壇を、人夫かなはざりければ、え築かざりけるころ、浅井の郡司は親しき上に、師壇にて仏事を修する間、この僧正を請じ奉りて、僧膳の料に、前にて大豆を炒りて酢をかけけるを、「何しに酢をばかくるぞ」と問はれけれぼ、郡司いはく、「暖かなる時、酢をかけつれば、すむつかりとて、苦みにてよく挟まるるなり。然らざれば、滑りて挟まれむなり」と言ふ。
僧正のいはく、「いかなりとも、なじかは挟まぬやうやはあるべき。投げやるとも、はさみ食ひてん」とありければ、「いかでさる事あるべき」とあらがひけり。
僧正、「勝ち申しなば、異事はあるべからず。戒壇を築きて給へ」とありければ、「易き事」とて、煎大豆を投げやるに、一間ばかりのきてゐ給ひて、一度も落さず挟まれけり。見る者あさまずといふ事なし。
柚の実の只今搾り出したるを交ぜて、投げて遣りたるをぞ、挟みてすべらかし給ひけれど、おとしもたてず、又やがて挟みとどめ給ひける。郡司一家廣き者なれば、人数をおこして、不日に戒壇を築きてけりとぞ。
これも今は昔、山ばかりの道づらに、四宮河原といふ所にて、袖くらべといふ、商人あつまる所あり。その辺に下種のありける、地蔵菩薩を一体造り奉りたりけるを、開眼もせで、櫃にうち入て、奥の部屋などおぼしき所におさめ置きて、世の営みにまぎれて、ほど経にければ、忘れにけるほどに、三四年ばかり過ぎにけり。
ある夜、夢に、大路を過ぐるものの、声高に人をよぶ声のしければ、「何事ぞ」ときけば、「地蔵こそ、地蔵こそ」と高く、この家の前にて言ふなれば、奥の方より、「何事ぞ」といらふる声すなり。
「明日、天帝尺の地蔵会し給ふには参らせ給はねか」と言へば、この小家の内より、「参らんと思へど、まだ目もあかねば、え参るまじきなり」と言へば、「構へて、参り給へ」と言へば、「目も見えねば、いかでか参らん」といふ声すなり。
うちおどろきて、「なにのかくは夢に見えつるにか」と思ひまはすに、あやしくて、夜明けて、奥の方をよくよく見れば、この地蔵をおさめて置き奉りたりけるを思ひ出でて、見いだしたりけり。「これが見え給ふにこそ」とおどろき思ひて、急ぎ開眼し奉りけりとなん。
これも今は昔、伏見修理大夫のもとへ、殿上人二十人ばかり押し寄せたりけるに、にはかにさわぎけり。肴物とりあへず、沈地の机に、時の物ども色々、ただ推し量るべし。盃、たびたびになりて、おのおのはぶれ出でけるに、厩に、黒馬の額すこし白きを、二十疋たてたりけり。移の鞍二十具、鞍掛にかけたりけり。殿上人、酔みだれて、おのおのこの馬に移の鞍置きてのせて返しにけり。
つとめて、「さても昨日、いみじくしたる物かな」と言ひて、「いざ、また、押し寄せん」と言ひて、また、二十人、押し寄たりければ、このたびは、さる体にして、にはかなるさまは昨日にかはりて、炭櫃をかざりたりけり。厩を見れば黒栗毛なる馬をぞ、二十疋まで立てたりける。これも額白かりけり。
大かた、かばかりの人はなかりけり。これは宇治殿の御子におはしけり。されども、公達おほくおはしましければ、橘の俊遠と言ひて、世中の徳人ありけり、其子になして、かかるさまの人にぞ、なさせ給ひたりけるとか。
これも今は昔、大膳亮大夫橘以長といふ蔵人の五位ありけり。宇治左大臣殿より召ありけるに、「今明日はかたき物忌をつかまつること候ふ。」と申したりければ、「こはいかに、世にある者の、物忌みといふことやはある。たしかに参れ」と召しきびしかりければ、恐ながら参りにけり。
さるほどに十日ばかりありて、左大臣殿に、世に知らぬかたき御物忌出で来にけり。帝の狭間に、垣楯などして、仁王講おこなはるる僧も、高陽院の方の土戸より、童子などもいれずして、僧ばかりぞ参りける。御物忌ありと、この以長聞きて、いそぎ参りて、土戸より参らんとするに舎人二人ゐて、「『人な入れそ』と候ふ」とて、立ちむかひたりければ、これらもさすがに職事にて、常に見れば、力及ばで入れつ。
参りて、蔵人所にゐて、何ともなく声高に物言ひゐたりけるを、左府聞かせ給ひて、「この物言ふは誰ぞ」と問せ給ひければ、盛兼、申すやう、「以長に候ふ」と申しければ、
「いかに、かばかりかたき物忌には、夜べより参りこもりたるかと尋ねよ」と仰せければ、行きて、仰せの旨をいふに、
蔵人所は御前より近かりけるに、「くわ、くわ」と大声して、憚からず申すやう、「過ぎ候ひぬる頃、わたくしに物忌仕て候ひしに、召され候ひき。物忌のよしを申し候ひしを、物忌といふ事やはある。たしかに参るべき由、仰せ候ひしかば、参り候ひにき。されば物忌といふ事は候はぬと知りて候ふなり」と申しければ、聞かせ給ひて、うちうなづきて、物もおほせられでやみにけりとぞ。
これも今は昔、範久阿闍梨といふ僧ありけり。山の楞厳院に住みけり。ひとへに極楽を願ふ。行住座臥、西方を後にせず。唾をはき、大小便西に向かはず。入日を背中に負はず。西坂より山へ登る時は、身をそばだてて歩む。常にいはく、「植ゑ木の倒るる事、必ず傾く方にあり。心を西方にかけんに、なんぞ志を遂げざらん。臨終正念疑はず」となん言ひける。往生伝に入りたりとか。
これも今は昔、陪従はさもこそはといひながら、これは世になき程の猿楽なりけり。
堀河院の御時、内侍所の御神楽の夜、仰せにて、「今夜珍しからん事つかまつれ」と仰せありければ、職侍、家綱を召して、このよし仰せけり。
承りて、何事をかせましと案じて、弟行綱を片隅へ招き寄せて、「かかる事仰せ下されたれば、我が案じたる事のあるは、いかがあるべき」と言ひければ、「いかやうなる事をせさせ給はんするぞ」といふに、
家綱がいふやう、「庭火白く焚きたるに、袴を高く引き上げて、細脛を出して、『よりによりに夜の更けて、さりにさりに寒きに、ふりちうふぐりを、ありちうあぶらん』と言ひて、庭火を三めぐりばかり、走りめぐらんと思ふ。いかがあるべき」といふに、
行綱がいはく、「さも侍りなん。ただしおほやけの御前にて、細脛かき出して、ふぐりあぶらんなど候はんは、便なくや候ふべからん」と言ひければ、
家綱、「まことにさいはれたり。さらば異事をこそせめ。かしこう申し合せてけり」といひける。
殿上人など、仰せ承りたれば、今夜いかなる事をせんずらんと、目をすまして待つに、人長、「家綱召す」と召せば、家綱出でて、させる事なきやうにて入りぬれば、上よりもその事なきやうに思し召すほどに、人長、また進みて、「行綱召す」と召す時、行綱まことに寒げなる気色をして、膝を股までかき上げて、細脛を出して、わななき寒げなる声にて、「よりによりに夜の更けて、さりにさりに寒きに、ふりちうふぐりを、ありちうあぶらん」と言ひて、庭火を十まはりばかり走りまはりたりけるに、上よりも下ざまにいたるまで、おほかたとよみたりけり。
家綱片隅に隠れて、きやつに悲しう謀られぬるこそとて、中違ひて、目も見合せずして過ぐるほどに、家綱思ひけるは、謀られたるは憎けれど、さてのみやむべきにあらずと思ひて、行綱にいふやう、「この事さのみぞある。さりとて兄弟の中違果つべきにあらず」と言ひければ、行綱悦びて行き睦びけり。
賀茂の臨時の祭りの還立に、御神楽のあるに、行綱、家綱にいふやう、「人長召したてん時、竹台のもとに寄りて、そそめかんずるに、『あれはなんする者ぞ』と、囃い給へ。その時、『竹豹ぞ、竹豹ぞ』と言ひて、豹のまねを尽さん」と言ひければ、家綱、「ことにもあらず、てのきい囃さん」と事うけしつ。
さて人長立ち進みて、「行綱召す」といふ時に、行綱やをら立ちて、竹の台のもとに寄りて、這いありきて、「あれは何するぞや」といはば、それにつきて、「竹豹」といはんと待つほどに、家綱、「かれはなんぞの竹豹ぞ」と問ひければ、詮といはんと思ふ竹豹を、先に言はれければ、言ふべき事なくて、ふと逃げて走り入りにけり。
この事上まで聞し召して、なかなかゆゆしき興にてぞありけるとかや。さきに行綱に謀られたるあたりとぞ言ひける。
これも今は昔、二条の大宮と申しけるは、白河院の宮、鳥羽院の御母代におはしましける。二条の大宮とぞ申しける。二条よりは北、堀川よりは東におはしましけり。その御所破れにければ、有賢大蔵卿、備後国を知られける重任の功に、修理しければ、宮も外へおはしましにけり。
それに陪従清仲といふ者、常に候ひけるが、宮おはしまさねども、なほ、御車宿の妻戸に居て、古き物はいはじ、新しうしたる束柱、蔀などをさへ破り焚きけり。
この事を有賢、鳥羽院に訴へ申しければ、清仲を召して、「宮渡らせおはしまさぬに、なほとまりゐて、古き物、新しき物こぼち焚くなるは、いかなる事ぞ。修理する者訴へ申すなり。まづ宮もおはしまさぬに、なほ籠りゐたるは、何事によりて候ふぞ。子細を申せ」と仰せられければ、清仲申すやう、「別の事に候はず。薪に尽きて候ふなり」と申しければ、おほかたこれほどの事、とかく仰せらるるに及ばず、「すみやかに追ひ出せ」とて、笑はせおはしましけるとかや。
この清仲は、法性寺殿の御時、春日の乗尻に立ちけるに、神馬つかひ、おのおのさはりありて、事欠けたりけるに、清仲ばかり、かう勤めたりしものなれども、「事欠けにたり。相構へて勤めよ。せめて京ばかりをまれ、事なきさまに計らひ勤めよ」と仰せられけるに、「かしこまりて奉りぬ」と申して、やがて社頭に参りたりければ、返す返す感じ思し召す。
「いみじう勤めて候ふ」とて、御馬を賜びたりければ、ふしまろび悦びて、「この定に候はば、定使を仕り候はばや」と申しけるを、仰せつぐ者も、候ひ合ふ者どもも、ゑつぼに入りて、笑ひののしりけるを、「何事ぞ」と御尋ありければ、「しかじか」と申しけるに、「いみじう申したり」とぞ、仰せ事ありける。
これも今は昔、ある人のもとに生女房のありけるが、人に紙乞ひて、そこなりける若き僧に、「仮名暦書きて給べ」と言ひければ、僧、「やすき事」と言ひて、書きたりけり。
始めつ方はうるはしく、「神仏によし」、「坎日」、「凶会日」など書きたりけるが、やうやう末ざまになりて、あるいは「物食はぬ日」など書き、「またこれぞあればよく食ふ日」など書きたり。
この女房、やうがる暦かなとは思へども、いとかうほどには思ひよらず、さる事にこそと思ひて、そのままに違へず。またある日は、「はこすべからず」と書きたれば、いかにとは思へども、さこそあらめとて、念じて過ぐすほどに、長凶会日のやうに、「はこすべからず、はこすべからず」と続け書きたれば、二日三日までは念じ居たるほどに、おほかた堪ふべきやうもなければ、左右の手にて尻をかかへて、「いかにせん、いかにせん」と、よぢりすぢりするほどに、物も覚えず、してありけるとか。
これも今は昔、その人の一定、子とも聞こえぬ人ありけり。世の人はそのよしを知りて、をこがましく思ひけり。その父と聞こゆる人失せにける後、その人のもとに、年ごろありける侍の、妻に具して田舎に去にけり。
その妻失せにければ、すべきやうもなくなりて、京へ上りにけり。
よろづあるべきやうもなく、便りなかりけるに、「この子といふ人こそ、一定のよし言ひて、親の家にゐたなれ」と聞きて、この侍参りたりけり。
「故殿に年ごろ候ひしなにがしと申す者こそ参りて候へ。御見参に入りたがり候ふ」と言へば、この子、「さる事ありと覚ゆ。しばし候へ。御対面あらんずるぞ」といひ出したりければ、侍、しおほせつと思ひて、ねぶりゐたるほどに、近う召し使ふ侍出で来て、「御出居へ参らせ給へ」と言ひければ、悦びて参りにけり。この召し次ぎしつる侍、「暫し候はせ給へ」と言ひて、あなたへ行きぬ。
見まはせば、御出居のさま、故殿のおはしましししつらひに、つゆ変らず。
御障子などは、少し古りたるほどにやと見るほどに、中の障子引きあくれば、きと見あげたるに、この子と名のる人歩み出でたり。これをうち見るままに、この年ごろの侍、さくりもよよと泣く。袖もしぼりあへぬほどなり。
このあるじ、いかにかくは泣くらんと思ひて、ついゐて、「とはなどかく泣くぞ」と問ひければ、「故殿のおはしまししに違はせおはしまさぬが、あはれに覚えて」と言ふ。
さればこそ、我も故殿には違はぬやうに覚ゆるを、この人々の、あらぬなどいふなる、あさましき事と思ひて、この泣く侍にいふやう、「おのれこそことのほかに老いにけれ。世の中はいかやうにて過ぐるぞ。我はまだ幼くて、母のもとにこそありしかば、故殿ありやう、よくも覚えぬなり。おのれこそ故殿と頼みてあるべかりけれ。何事も申せ。またひとへに頼みてあらんずるぞ。まづ当時寒げなり。この衣着よ」とて、綿ふくよかなる衣一つ脱ぎて賜びて、「今は左右なし。これへ参るべきなり」と言ふ。
この侍、しおほせてゐたり。昨日今日の者の、かく言はんだにあり、いはんや故殿の年ごろの者の、かく言へば、家主笑みて、「この男の年ごろずちなくてありけん、不便の事なり」とて、後見召し出でて、「これは故殿のいとほしくし給ひし者なり。まづかく京に旅立ちたるにこそ。思ひはからひて沙汰しやれ」と言へば、ひげなる声にて、「む」といらへて立ちぬ。この侍は、空事せじと言ふをぞ、仏に申し切りてける。
さてこのあるじ、我を不定げに言ふなる人々呼びて、この侍に事の子細いはせて聞かせんとて、後見召し出でて、「明後日これへ人々渡らんといはるるに、さる様に引き繕ひて、もてなしすさまじからぬやうにせよ」と言ひければ、「む」と申して、さまざまに沙汰し設けたり。この得意の人々、四五人ばかり来集まりにけり。
あるじ、常よりも引き繕ひて、出で合ひて、御酒たびたび参りてのち、いふやう、「わが親のもとに、年ごろ生ひ立ちたる者候ふをや、御覧ずべからん」と言へば、この集まりたる人々、心地よげに、顔さき赤め合ひて、「もとも召し出さるべく候ふ。故殿に候ひけるも、かつはあはれに候ふ」と言へば、「人やある。なにがし参れ」と言へば、一人立ちて召すなり。
見れば、鬢禿げたるをのこの、六十余ばかりなるが、まみのほどなど、空事すべうもなきが、打ちたる白き狩衣に、練色の衣のさるほどなる着たり。これは賜りたる衣とおぼゆ。召し出されて、事うるはしく、扇を笏に取りて、うづくまりゐたり。
家主のいふやう、「やや、ここの父のそのかみより、おのれは生ひ立ちたる者ぞかし」など言へば、「む」と言ふ。
「見えにたるか、いかに」と言へば、この侍いふやう、「その事に候ふ。故殿には十三より参りて候ふ。五十まで夜昼離れ参らせ候はず。故殿の故殿の、『小冠者、小冠者』と召し候ひき。無下に候ひし時も、御跡に臥せさせおはしまして、夜中、暁、大壷参らせなどし候ひし。その時はわびしう、堪へ難くおぼえ候ひしが、おくれ参らせて後は、などさ覚え候ひけんと、くやしう候ふなり」と言ふ。
あるじのいふやう、「そもそも一日汝を呼び入れたりし折、我、障子を引きあけて出でたりし折、うち見あげて、ほろほろと泣きしは、いかなりし事ぞ」と言ふ。
その時侍がいふやう、「それも別の事に候はず。田舎に候ひて、故殿失せ給ひにきと承りて、今一度参りて、御有様をだにも、拝み候はんと思ひて、恐る恐る参り候ひし。左右なく御出居へ召し出させおはしまして候ひし。おほかた、かたじけなく候ひしに、御障子を引きあけさせ給ひしを、きと見あげ参らせて候ひしに、御烏帽子の真黒にて、先づさし出でさせおはしまして候ひしが、故殿のかくのごとく出でさせおはしましたりしも、御烏帽子は、真黒に見えさせおはしまし候ふが、思ひ出でられおはしまして、覚えず涙のこぼれ候ひしなり」といふに、この集まりたる人々も笑をふくみたり。
またこのあるじも、気色かはりて、「さてまたいづくか、故殿には似たる」と言ひければ、この侍、「そのおほかた似させおはしましたる所おはしまさず」と言ひければ、人々ほほゑみて、一人二人づつこそ、逃げ失せにけれ。
これも今は昔、一乗寺僧正、御室戸僧正とて、三井の門流に、やんごとなき人おはしけり。御室戸の僧正は、隆家師の第四の子なり。一乗寺僧正は、経輔大納言の弟五の子なり。御室戸をば隆明といひ。一乗寺をば増誉と言ふ。この二人、おのおの貴くて、生仏なり。
御室戸は太りて、修行するに及ばず、ひとへに本尊の御前をはなれずして、夜昼おこなふ鈴の音、絶ゆる時なかりけり。
おのづから人の行きむかひたれば、門をば常にさしたる。門をたたくとき、たまたま人の出きて、「誰ぞ」と問ふ。「しかじかの人の参らせ給ひたり」もしは、「院の御使にさぶらふ」など言へば、「申しさぶらはん」とて、奥へ入りて、無期にあるほど、鈴の音しきりなり。
さて、とばかりありて、門の関木をはづして、扉、片つ方を、人ひとり入るほどあけたり。見入るれば、庭には草しげくして、道ふみあけたるあともなし。露を分けてのぼりたれば、広庇一間あり。妻戸に明かり障子たてたり。すすけとほりたること、いつの世に張りたりともみえず。
しばしばかりありて、墨染着たる僧、足音もせで出できて、「しばしそれにおはしませ。行ひのほどに候ふ」と言へば、待ちゐたるほどに、とばかりありて、内より、「それへいらせ給へ」とあれば、すすけたる障子を引あけたるに、香の煙くゆり出でたり。萎えとほりたる衣に、袈裟なども所々破れたり。物も言はでゐられたれば、この人も、いかにと思ひて向かひゐたるほどに、こまぬきて、すこしうつぶしたるやうにてゐられたり。
しばしあるほどに、「行ひのほどよくなり候ひぬ。さらば、とく帰らせ給へ」とあれば、いふべき事もいはで出でぬれば、また門やがてさしつ。これは、ひとへに居行ひの人なり。
一乗寺僧正は、大峯は二度通られたり。蛇を見らる。また龍の駒などを見などして、あられぬありさまをして、行ひたる人なり。その坊は一二町ばかりよりひしめきて、田楽、猿楽などひしめき、随身、衛府のをのこ共など、出で入りひしめく。
物売りども、入りきて、鞍、太刀、さまざまのものを売るを、かれが言ふままに、あたひを賜びければ、市をなしてぞ集ひける。さてこの僧正のもとに、世の宝は集ひ集まりたりけり。
それに呪師小院といふ童を愛せられけり。鳥羽の田植に見つきしたりけり。さきざきは、くひにのりつつ、みつきをしけるを、この田植ゑに、僧正言ひあはせて、この頃するやうに、扇に立ち立ちして、こははより出でたりければ、おほかた見る者も、驚き驚きしあひたりけり。
この童あまりに寵愛して、「よしなし。法師になりて、夜昼離れず付きてあれ」とありけるを、童、「いかが候ふべからん。今しばし、かくて候はばや」と言ひけるを、僧正なほいとほしさに、「ただなれ」とありければ、童、しぶしぶに法師になりにけり。
さて過ぐるほどに、春雨打ちそそぎて、つれづれなりけるに、僧正、人を呼びて、「あの僧の装束はあるか」と問はれければ、この僧、「納殿にいまだ候ふ」と申しければ、「取りて来」と言はれけり。持て来たりけるを、「これを着よ」と言はれければ、呪師小院、「みぐるしう候ひなん」と、いなみけるを、「ただ着よ」と、せめ宣ひければ、かた方へ行きて、さうぞきて、かぶとして出できたり。つゆ昔にかはらず。
僧正、うちみて、かいを作られけり。小院、また面がはりして立てりけるに、僧正、「未だ走りてはおぼゆや」とありければ、「覚えさぶらはず。ただし、かたささはのてうぞ、よくしつけて候ひし事なれば、少し覚え候ふ」と言ひて、せうのなかわりて通るほどを走りて飛ぶ。
兜持ちて、一拍子に渡りけるに、僧正、声を放ちて泣かれけり。さて、「こち来よ」と呼びよせて、打ちなでつつ、「なにしに出家させけん」とて泣かれければ、小院も、「さればこそ、いましばしと申し候ひしものを」と言ひ、装束ぬがせて、障子の内へ具して入られにけり。その後はいかなる事かありけん、しらず。
これも今は昔、ある僧、人のもとへ行きけり。酒など勧めけるに、氷魚はじめて出で来たりければ、あるじ珍しく思ひて、もてなしけり。あるじ用の事ありて、内へ入りて、また出でたりけるに、この氷魚の、ことの外に少なくなりたりければ、あるじ、いかにと思へども、いふべきやうもなかりければ、物語しゐたりけるほどに、
この僧の鼻より、氷魚の一つ、ふと出でたりければ、あるじあやしう覚えて、「その鼻より氷魚の出でたるは、いかなる事にか」と言ひければ、取りもあへず、「この頃の氷魚は、目鼻より降り候ふなるぞ」と言ひたりければ、人皆、「は」と笑ひけり。
これも今は昔、仲胤僧都を、山の大衆、日吉の二宮にて法華経を供養しける導師に、請じたりけり。
説法えもいはずして、はてがたに、「地主権現の申せとさぶらふは」とて、「比経難持、若暫持者、我即歓喜、諸仏亦然」といふ文を打ち上げて誦して、「諸仏」といふ所を、「地主権現の申せと候ふは、『我即歓喜、諸神亦然』」と言ひたりければ、そこら集まりたる大衆、異口同音にあめきて、扇をひらきつかひたりけり。
これをある人、日吉の社の御正体をあらはし奉りて、おのおの御前にて、千日の講をおこなひけるに、二宮の御料の折、ある僧、この句をすこしも違へずしたりけるを、ある人、仲胤僧都に、「かかる事こそありしか」と語りければ、仲胤僧都、きやうきやうと笑ひて、「これは、かうかうの時、仲胤がしたりし句なり。ゑいゑい」とわらひて、「おほかたは、このごろの説教をば、犬の糞説教といふぞ。犬は人の糞を食て、糞をまるなり。仲胤が説教をとりて、このごろの説教師はすれば、犬の糞説教といふなり」とぞ言ひける。
これも今は昔、大二条殿、小式部内侍おぼしけるが、絶え間がちになりけるころ、例ならぬことおはしまして、久しうなりて、よろしくなり給ひて、上東門院へ参らせ給ひたるに、小式部、台盤所にゐたりけるに、出でさせ給ふとて、「死なんとせしは、など問はざりしぞ」と仰せられて過ぎ給ひける。御直衣の裾を引きとどめつつ、申しけり。
♪10
死ぬばかり 嘆きにこそは 嘆きしか
生きて問ふべき 身にしあらねば
堪へずおぼしけるにや、かき抱きて局へおはしまして、寝させ給ひにけり。
これも今は昔、山の横川に、賀能知院といふ僧、破戒無慚の者にて、昼夜に仏の物をとり遣ふことをのみしけり。横川の執行にてありけり。政所へ行くとて、塔のもとを常に過ぎありきければ、塔のもとに、古き地蔵の、物の中に捨て置きたるを、きと見奉りて、時々、衣かぶりしたるをうち脱ぎ、頭を傾けて、すこしすこし敬ひ拝みつつゆく時もありけり。
かかるほどに、かの賀能、はかなく失せぬ。師の僧都、これを聞きて、「かの僧、破戒無慚の者にて、後世定めて地獄におちんこと疑ひなし」と心うがり、あはれみ給ふ事かぎりなし。
かかるほどに、「塔のもとの地蔵こそ、このほど見え給はね。いかなることにか」と、院内の人々言ひあひたり。「人の修理し奉らんとて、とり奉たるにや」などひけるほどに、この僧都の夢に見給ふやう、「この地蔵の見え給はぬは、いかなることぞ」と尋ね給ふに、かたはらに僧ありていはく、「この地蔵菩薩、はやう賀能知院が、無間地獄に堕ちしその日、やがて助けんとて、あひ具して入り給ひしなり」と言ふ。
夢心地にいとあさましくて、「いかにして、さる罪人には具して入り給ひたるぞ」と問ひ給へば、「塔のもとを常にすぐるに、地蔵を見やり申して、時々拝み奉りし故なり」と答ふ。夢さめてのち、みづから塔のもとへおはして見給ふに、地蔵まことに見え給はず。
さは、この僧に誠に具しておはしたるにやとおぼすほどに、その後、また、僧都の夢に見給ふやう、塔のもとにおはして見給へば、この地蔵立ち給ひたり。「これは、失せさせ給ひし地蔵、いかにして出で来給ひたるぞ」と宣へば、また人の言ふやう、「賀能具して地獄へ入りて、助けて帰り給へるなり。されば御足の焼け給へるなり」と言ふ。御足を見給へば、まことに御足黒う焼き給ひたり。夢心地に、まことにあさましき事かぎりなし。
さて夢さめて、涙止まらずして、急ぎおはして、塔の許を見給へば、うつつにも、地蔵立ち給へり。御足を見れば、まことに焼け給へり。これを見給ふに、あはれに悲しきことかぎりなし。さて、泣く泣くこの地蔵を、抱き出し奉り給ひてけり。
「今におはします。二尺五寸ばかりのほどにこそ」と、人は語りし。これ語りける人は、拝み奉りけるとぞ。
これも今は昔、藤原広貴といふ者ありけり。
死して閻魔の庁に召されて、王の御前とおぼしき所に参りたるに、王宣ふやう、「汝が子をはらみて、産をしそこなひたる女、死にたり。地獄に堕ちて苦を受くるに、うれへ申すことのあるによりて、汝をば召したるなり。まづさる事あるか」と問はるれば、広貴、「さる事候ひき」と申す。
王宣はく、「妻の訴へ申す心は、『われ、男に具して、ともに罪をつくりて、しかも、かれが子産みそこなひて、死して地獄に堕ちて、かかるたへがたき苦を受け候へども、いささかもわが後世をも、とぶらひ候はず。されば、我一人苦を受け候ふべきやうなし。広貴をも、もろともに召して、おなじやうにこそ、苦を受け候はめ』と申すによりて、召したるなり」と宣へば、
広貴が申すやう、「この訴へ申す事、もつともことわりに候ふ。おほやけわたくし、世をいとなみ候ふ間、思ひながら、後世をばとぶらひ候はで、月日はかなく過ぎ候ふなり。ただし今におき候ひては、ともに召されて苦を受け候ふとも、かれがために、苦の助かるべきに候はず。されば、この度はいとまを給はりて、娑婆にまかり帰りて、妻のために、よろづを捨て、仏経を書き供養して、とぶらひ候はん」と申せば、
王、「しばし候へ」と宣ひて、かれが妻を召し出でて、汝が夫、広貴が申すやうを問ひ給へば、「げにげに、経仏をだに書き供養せんと申し候はば、とく許し給へ」と申す時に、また広貴を召し出でて、申すままのことを仰せ聞かせて、「さらば、この度はまかり帰れ。たしかに、妻のために、仏経を書き供養して、弔ふべきなり」とて、帰しつかはす。
広貴、かかれども、これはいづく、たれが宣ふぞとも知らず。許されて、庭をたちて帰る道にて思ふやう、この玉の簾のうちにゐさせ給ひて、かやうに物の沙汰して、我を帰さるる人は、たれにかおはしますらんと、いみじくおぼつかなくおぼえければ、また参りて、庭にいたれば、
簾のうちより「あの広貴は、帰しつかはしたるにはあらずや。いかにしてまた参りたるぞ」と、問はるれば、
廣貴が申すやう、「はからざるに、御恩をかうぶりて、帰りがたき本国へかへり候ふことを、いかにおはします人の仰せともえ知り候はで、まかりかへり候はんことの、きはめていぶせく、口惜しく候へば、恐れながらこれを承りに、また参りて候ふなり」と申せば、
「汝不覚なり。閻浮提にしては、我を地蔵菩薩と称す」と宣ふを聞きて、さは閻魔王と申すは、地蔵にこそおはしましけれ、この菩薩につかうまつらば、地獄の苦をばまぬかるべきにこそあめれと思ふほどに、三日といふに生きかへりて、その後、妻のために仏経を書き供養してけりとぞ。
日本法華験記に見えたるとなん。
今は昔、世尊寺といふ所は、桃園の大納言住み給ひけるが、大将になる宣旨かうぶり給ひにければ、大饗あるじの料に修理し、まづは、いはひし給ひしほどに、明後日とて、にはかに失せ給ひぬ。
つかはれ人、みな出で散りて、北の方、若君ばかりなん、すごくて住み給ひける。
その若君は、主殿頭ちかみつといひしなり。この家を一條摂政殿とり給ひて、太政大臣になりて、大饗おこなはれける。
未申のすみに塚のありける、築地をつき出して、その角は、したうづ形にぞありける。殿、「そこに堂を建てん。この塚を取り捨てて、その上に堂を建てん」と、定められぬれば、人にも、「塚のために、いみじう功徳になりぬべきことなり」と申しければ、塚を掘り崩すに、中に石の唐櫃あり。
あけてみれば、尼の年二十五六ばかりなる、色うつくしうて、唇の色などつゆかはらで、えもいはずうつくしげなる、寝入りたるやうにて臥たり。いみじううつくしき衣の、色々なるをなん着たりける。若かりける者のにはかに死にたるにや。
金の坏うるはしくて据ゑたりけり。入りたる物、何もかうばしきことたぐひなし。
あさましがりて、人々たちこみて見るほどに、乾の方より風吹きければ、色々なる塵になんなりて失せにけり。金の坏よりほかの物、つゆとまらず。
「いみじき昔の人なりとも、骨髪の散るべきにあらず。かく風の吹くに、塵になりて、吹き散らされぬるは、希有の物なり」と言ひて、その頃、人あさましがりける。
摂政殿、いくばくもなくて失せ給ひにければ、「この祟りにや」と人疑ひけり。
今は昔、天竺に、留志長者とて、世にたのもしき長者ありける。
おほかた蔵もいくらともなく持ち、たのしきが、心の口惜しくて、妻子にも、まして従者にも、物食はせ、着することなし。
おのれ、物のほしければ、人にも見せず、隠して食ふほどに、物の飽かず多くほしかりければ、妻にいふやう、「飯、酒、くだものどもなど、おほらかにして賜べ。我につきて、ものをしまする慳貪の神まつらん」と言へば、「物惜しむ心失はんとする、よき事」と喜びて、色々に調じて、おほらかにとらせければ、受け取りて、人も見ざらん所に行きて、よく食はむと思ひて、ほかゐにいれ、瓶子に酒入れなどして、持ちて出でぬ。
「この木の本には烏あり、かしこには雀あり」など選りて、人離れたる山の中の木の陰に、鳥獣もなき所にて、ひとり食ひゐたり。心のたのしさ物にも似ずして、誦ずるやう、
♪11
今曠野中、食飯酒大安楽、
獨過毘沙門天、勝天帝釋
この心は、「けふ人なき所に一人ゐて、物を食ひ、酒を飲む。安楽なること、毘沙門、帝釋にもまさりたり」といひけるを、帝釋きと御らんじてけり。
憎しとおぼしけるにや、留志長者が形に化し給ひて、彼の家におはしまして、「我、山にて、物惜しむ神をまつりたるしるしにや、その神離れて、物の惜しからねば、かくするぞ」とて、蔵どもをあけさせて、妻子をはじめて、従者ども、それならぬよその人々も、修行者、乞食にいたるまで、宝物どもをとり出だして、配りとらせければ、皆皆悦びて、わけとりけるほどにぞ、まことの長者は帰りたる。
蔵どもみなあけて、かく宝どもみな人の取りあひたる、あさましく、かなしさ、いはん方なし。「いかにかくはするぞ」と、ののしれども、われとただ同じ容姿の人出きて、かくすれば、不思議なること限りなし。
「あれは変化のものぞ。我こそそよ」といへど、聞き入るる人なし。帝にうれへ申せば、「母に問へ」と仰せあれば、母に問ふに、「人に物くるるこそ、わが子にて候はめ」と申せば、する方なし。
「腰のほどに、はわくひといふ物の跡ぞさぶらひし、それをしるしに御覧ぜよ」といふに、あけてみれば、帝釋、それをまなばせ給はざらむやは。二人ながら同じやうに、物の跡あれば、力なくて、仏の御もとに、二人ながら参りたれば、その時、帝釋、もとの姿になりて、御前におはしませば、論じ申すべき方なしと思ふほどに、仏の御力にて、やがて須陀洹果を証したれば、悪しき心離れたれば、物惜しむ心もうせぬ。
かやうに、帝釋は、人を導かせ給ふ事、はかりなし。そぞろに、長者が財を失はむとは、何しにおぼしめさん。慳貪の業によりて、地獄に堕つべきを、哀れませ給ふ御心ざしによりて、かく構へさせ給ひけるこそめでたけれ。
今は昔、人のもとに宮づかへしてある生侍ありけり。するの事なきままに、清水へ、人まねして、千度詣を二たびしたりけり。
その後、いくばくもなくして、主のもにありける同じ様なる侍と双六をうちけるが、多く負けて、渡すべき物なりけるに、いたく責めければ、思ひわびて「我、持ちたる物なし。ただ今たくはへたる物とては、清水に二千度参りたる事のみなんある。それを渡さん」と言ひければ、かたはらにて聞く人は、謀るなりと、をこに思ひて笑けるを、
この勝ちたる侍、「いとよき事なり。渡さば得ん」と言ひて、「いな、かくては請けとらじ。三日して、このよし申して、おのれ渡すよしの文、書きて渡さばこそ、請けとらめ」と言ひければ、
「よき事なり」と契りて、その日より精進して三日といひける日「さは、いざ清水へ」と言ひければ、この負け侍、「この痴れ物にあひたる」とをかしく思ひて、悦びて連れて参りにけり。
いふままに文書きて、御前にて師の僧呼びて、事のよし申させて、「二千度参りつる事、それがしに双六に打ち入れつ」と書きてとらせければ、請け取りつつ悦びて、伏し拝みてまかり出でにけり。
そののち、いくほどなくして、この負け侍、思ひがけぬ事にて捕へられて、獄にゐにけり。とりたる侍は、思ひがけぬたよりある妻まうけて、いとよく徳つきて、司など成りて、楽しくてぞありける。「目に見えぬ物なれど、まことの心をいたして請け取りければ、仏、あはれとおぼしめしたりけるなんめり」とぞ人は言ひける。
今は昔、鷹を役にて過ぐる者ありけり。
鷹の放れたるをとらんとて、飛ぶにしたがひてい行きけるほどに、はるかなる山の奥の谷の片岸に、高き木のあるに、鷹の巣くひたるを見付けて、いみじき事見置きたると、うれしく思ひて、帰りてのち、いまはよき程に成りぬらんとおぼゆるほどに、子をおろさんとて、また、行きて見るに、えもいはぬ深山の深き谷の、そこゐも知らぬうへに、いみじく高き榎の木の、枝は谷にさしおほひたる片枝に、巣を食ひて子を生みたり。鷹、巣のめぐりにしありく。
見るに、えもいはずめでたき鷹にてあれば、子もよかるらんと思ひて、よろづも知らずのぼるに、やうやう、いま巣のもとにのぼらんとするほどに、踏まへたる枝折れて、谷に落ち入りぬ。谷の片岸にさし出でたる木の枝に落ちかかりて、その木の枝をとらへてありければ、生きたる心地もせず。すべき方なし。見おろせば、そこゐも知らず、深き谷なり。見あぐれば、はるかに高き岸なり。かきのぼるべき方もなし。
従者どもは、谷に落ち入りぬれば、うたがひなく死ぬらんと思ふさるにても、いかがあると見んと思ひて、岸の端へ寄りて、わりなく爪立てて、おそろしけれど、わづかに見おろせば、そこゐも知らぬ谷の底に、木の葉しげくへだてたる下なれば、さらに見ゆべきやうもなし。目くるめき、かなしければ、しばしもえ見ず。
すべき方なければ、さりとてあるべきならねば、みな家に帰りて、かうかうと言へば、妻子ども泣きまどへどもかひなし。あはぬまでも、見にゆかまほしけれど、「さらに道もおぼえず。また、おはしたりとも、そこゐも知らぬ谷の底にて、さばかりのぞき、よろづに見しかども、見え給はざりき」と言へば、「まことにさぞあるらん」と人々も言へば、行かずなりぬ。
さて、谷には、すべき方なくて、石のそばの、折敷の広さにてさし出でたるかたそばに尻をかけて、木の枝をとらへて、すこしも身じろぐべき方なし。いささかもはたらかば、谷に落ち入りぬべし。いかにもいかにもせん方なし。かく鷹飼を役にて世を過ぐせど、おさなくより観音経を読み奉り、たもち奉りたりければ、「助け給へ」と思ひ入りて、ひとへに頼み奉りて、この経を夜昼、いくらともなく読み奉る。
「弘誓深如海」とあるわたりを読むほどに、谷の底の方より、物のそよそよと来る心地のすれば、何にかあらんと思ひて、やをら見れば、えもいはず大きなる蛇なりけり。長さ二丈ばかりもあるらんと見ゆるが、さしにさしてはひ来れば、「我はこの蛇に食はれなんずるなめり」と、「悲しきわざかな。観音助け給へとこそ思ひつれ。こはいかにしつる事ぞ」と思ひて、念じ入りてあるほどに、ただ来に来て我ひざのもとをすぐれど、我を呑まんとさらにせず。
ただ谷よりうへざまへのぼらんとする気色なれば、「いかがせん。ただこれに取り付きたらば、のぼりなんかし」と思ふ心つきて、腰の刀をやはらぬきて、この蛇のせなかにつきたてて、それにすがりて、蛇の行くままに引かれてゆけば、谷より岸の上ざまに、こそこそと登りぬ。
その折、この男離れて退くに、刀をとらんとすれど、強く突きたてにければ、え抜かぬほどに、ひきはづして、背に刀さしながら、蛇はこそろと渡りて、向かひの谷に渡りぬ。
この男、うれしと思ひて、家へいそぎて行かんとすれど、この二三日、いささか身をもはたらかさず、物も食はず過ごしたれば、影のやうにやせさらぼひつつ、かつがつと、やうやうにして家に行きつきぬ。
さて、家には、「今はいかがせん」とて、跡とふべき経仏の営みなどしけるに、かく思ひかけず、よろぼひ来たれば、おどろき泣さわぐ事かぎりなし。かうかうのことも語りて、「観音の御助けとて、かく生きたるぞ」とあさましかりつる事ども、泣く泣く語りて、物など食ひて、その夜はやすみて、つとめて、とく起きて、手洗ひて、いつも読み奉る経を読まんとて、引あけたれば、あの谷にて蛇の背につきたてし刀、この御経に「弘誓深如海」の所に立ちたり。見るに、いとあさましきなどはおろかなり。
「こは、この経の、蛇に変じて、我を助けおはしましけり」と思ふに、あはれにたうとく、かなし、いみじと思ふ事限りなし。そのあたりの人々、これを聞きて、見あさみけり。
今さら申すべき事ならねど、観音を頼み奉らんに、その験なしといふ事はあるまじき事なり。
今は昔、比叡山に僧ありけり。いと貧しかりけるが、鞍馬に七日参りけり。「夢などや見ゆる」とて参りけれど、見えざりければ、今七日とて参れども、なほ見えねば、七日を延べ延べして、百日といふ夜の夢に、「我はえ知らず。清水へ参れ」と仰せらるると見ければ、明くる日より、また清水へ百日参るに、また、「我はえこそ知らね。賀茂に参りて申せ」と夢に見てければ、また、賀茂に参る。
七日と思へど、例の夢見ん見んと参るほどに、百日といふ夜の夢に、「わ僧がかく参る、いとほしければ、御幣紙、打徹の米ほどの物、たしかにとらせん」と仰せらるると見て、うちおどろきたる心地、いと心うく、あはれに悲し。
「所々参りありきつるに、ありありて、かく仰せらるるよ。打ち徹きのかはりばかり給はりて、何にかはせん。我が山へ帰りのぼらむも、人目はづかし。賀茂川にや落ち入りなまし」など思へど、また、さすがに身をもえ投げず、「いかやうにはからはせ給ふべきにか」と、ゆかしき方もあらば、もとの山の坊に帰りてゐたるほどに、知りたる所より、「物申し候はん」といふ人あり。
「誰そ」とて見れば、白き長櫃をになひて、縁に置きて帰りぬ。いとあやしく思ひて、使を尋ぬれど、おほかたなし。これをあけて見れば、白き米とよき紙とを一長櫃入れたり。
「これは見し夢のままなりけり。さりとも」とこそ思ひつれ、こればかりをまことにたびたるに、いと心うく思へど、いかがはせんとて、この米をよろづに使ふに、ただおなじ多さにて、尽くる事なし。紙もおなじごとつかへど、失する事なくて、いと別にきらきらしからねど、いとたのしき法師になりてぞありける。
なほ、心長く、物詣ではすべきなり。
今は昔、信濃国に、筑摩の湯といふ所に、よろづの人のあみける薬湯あり。
そのわたりなる人の、夢にみるやう、「あすの午の時に、観音、湯あみ給ふべし」と言ふ。「いかやうにてかおはしまさむずる」と問ふに、いらふるやう、「年三十ばかりの男の、鬚くろきが、綾い笠きて、ふし黒なるやなぐひ、皮巻きたる弓持ちて、紺の襖着たるが、夏毛の行縢はきて、葦毛の馬に乗りてなん候ふべき。それを観音と知り奉るべし」と言ふと見て、夢さめぬ。
おどろきて、夜あけて、人々に告げまはしければ、人々聞きつぎて、そ湯にあつまる事かぎりなし。湯をかへ、めぐりを掃除し、しめを引き、花香を奉りて、居集まりて待ち奉る。
やうやう午の時過ぎ、未になるほどに、ただこの夢に見えつるにつゆたがはず見ゆる男の、顔よりはじめ、着たる物、馬、何かにいたるまで、夢に見しにたがはず。よろずの人、にはかに立ちてぬかをつく。
この男、大きに驚きて、心もえざりければ、よろずの人に問へども、ただ拝みに拝みて、そのことといふ人なし。僧のありけるが、てをすりて、額にあてて、拝み入りたるがもとへよりて、「こはいかなる事ぞ。おのれをみて、かやうに拝み給ふは」と、こなまりたる声にて問ふ。
この僧、人の夢にみえけるやうを語る時、この男いふやう、「おのれ、さいつころ、狩をして、馬よりおちて、右のかひなをうち折りたれば、それをゆでんとて、まうで来たるなり」と言ひて、と行きかう行きするほどに、人々しりに立ちて、拝みののしる。
男、しわびて、我が身はさは観音にこそありけれ、ここは法師になりなんと思ひて、弓、やなぐひ、太刀、刀きりすてて、法師になりぬ。かくなるを見て、よろづの人、泣き、あはれがる。
さて見知りたる人出できて言ふやう、「あはれ、かれは上野国におはする、ばとうぬしにこそいましけれ」と言ふを聞きて、これが名をば、馬頭観音とぞ言ひける。
法師になりて後、横川にのぼりて、かてう僧都の弟子になりて、横川に住みけり。その後は、土佐国にいにけりとなん。
今は昔、唐土に孔子、林の中の岡だちたるやうなる所にて、逍遙し給ふ。われは琴をひき、弟子どもは、ふみを読む。ここには、舟に乗たる叟の帽子したるが、船を葦につなぎて、陸にのぼり、杖をつきて、琴のしらべの終るを聞く。人々、あやしき者かなと思へり。
この翁、孔子の弟子共をまねくに、ひとりの弟子、まねかれて寄りぬ。
翁言ふ、「この琴弾き給ふはたれぞ。もし国の王か」と問ふ。「さもあらず」と言ふ。「さは、国の大臣か」、「それにもあらず」「さは、国のつかさか」「それにもあらず」「さはなにぞ」と問ふに、「ただ国のかしこき人として政をし、あしき事を直し給ふ賢き人なり」と答ふ。翁、あざ笑ひて、「いみじきしれ者かな」と言ひて去りぬ。
御弟子、不思議に思ひて、聞きしままに語る。孔子聞きて、「かしこき人にこそあなれ。とくよび奉れ。」御弟子、走りて、いま船こぎ出づるを呼び返す。よばれて出で来たり。
孔子宣はく、「なにわざし給ふ人ぞ。」翁のいはく、「させるものにも侍らず。ただ舟にのりて、心をゆかさんがために、まかりありくなる君はまた何人ぞ。」「世の政を直さむために、まかりありく人なり。」
叟の言ふ、「きはまりてはかなき人にこそ。世に影をいとふ者あり。晴れにいでて、離れんと走る時、影離るる事なし。影にゐて、心のどかにをらば、影離れぬべきに、さはせずして、晴にいでて、離れんとする時には、力こそ尽くれ、影離るることなし。また犬の屍の水に流れてくだる、これを取らんと走る者は、水におぼれて死ぬ。かくのごとくの無益の事をせらるるなり。ただしかるべき居所しめて、一生を送られん、これ今生の望みなり。このことをせずして、心を世にそめて、さわがるる事は、きわめてはかなきことなり」と言ひて、返答も聞かでかり行く。舟にのりてこぎ出でぬ。
孔子、そのうしろをみて、二たび拝みて、棹の音せぬまで、拝み入てゐ給へり。音せずなりてなん、車にのりて、かへり給ひにけるよし、人の語りしなり。
昔、天竺に僧伽多といふ人あり。五百人の商人を舟に乗せて、かねの津へ行くに、にはかに悪しき風吹きて、舟を南の方へ吹きもて行く事、矢を射るがごとし。知らぬ世界に吹き寄せられて、陸に寄りたるを、かしこき事にして、左右なくみな惑ひおりぬ。
しばしばかりありて、いみじくをかしげなる女房十人ばかり出で来て、歌をうたひて渡る。知らぬ世界に来て、心細く覚えつるに、かかるめでたき女どもを見つけて、悦びて呼び寄す。呼ばれて寄り来ぬ。近まさりして、らうたき事物にも似ず。五百人の商人、目をつけて、めでたがる事限りなし。
商人、女に問ひていはく、「我ら宝を求めんために出でにしに、悪しき風にあひて、知らぬ世界に来たり。堪へ難く思ふ間に、人々の御有様を見るに、愁の心みな失せぬ。今はすみやかに具しておはして、我らを養ひ給へ。舟はみな損じたれば、帰るべきやうなし」と言へば、この女ども、「さらば、いざさせ給へ」と言ひて、前に立ちて導きて行く。
家に着きて見れば、白く高き築地を、遠く築きまはして、門をいかめしく立てたり。その内に具して入りぬ。門の錠をやがてさしつ。内に入りて見れば、さまざまの屋ども隔て隔て作りたり。男一人もなし。
さて商人ども、皆々とりどりに妻にして住む。かたみに思ひあふ事限りなし。片時も離るべき心地せずして住む間、この女、日ごとに昼寝をすること久し。顔をかしげながら、寝入るたびに少しけうとく見ゆ。僧伽多、このけうときを見て、心得ずあやしく覚えければ、やはら起きて、方々を見れば、さまざまの隔て隔てあり。
ここに一つの隔てあり。築地を高く築きめぐらしたり。戸に錠を強くさせり。そばより登りて内を見れば、人多くあり。あるいは死に、あるいはによふ声す。また白き屍、赤き屍多くあり。僧伽多、一人の生きたる人を招き寄せて、「これはいかなる人の、かくてはあるぞ」と問ふに、
答えてはく、「我は南天竺の者なり。商のために海を歩きしに、悪しき風に放たれて、この島に来たれば、世にめでたげなる女どもにたばかられて、帰らん事も忘れて住むほどに、産みと産む子は、みな女なり。限りなく思ひて住むほどに、また異商人舟より来ぬれば、もとの男をば、かくのごとくして、日の食にあつるなり。御身どももまた舟来なば、かかる目をこそは見給はめ。いかにもして、とくとく逃げ給へ。この鬼は、昼三時ばかりは昼寝をするなり。この間によく逃げば逃げつべきなり。この籠められたる四方は、鉄にて固めたり。その上よをろ筋を断たれたれば、逃ぐべきやうなし」と、泣く泣く言ひければ、
「怪しとは思ひつるに」とて、帰りて、残の商人どもに、この由を語るに、皆あきれ惑ひて、女の寝たる隙に僧伽多を始めとして、浜へみな行きぬ。
はるかに補陀落世界の方へ向かひて、もろともに声あげて、観音を念じけるに、沖の方より大きなる白馬、波の上を泳ぎて、商人らが前に来て、うつぶしに伏しぬ。これ念じ参らする験なりと思ひて、ある限みな取りつきて乗りぬ。
さて、女どもは寝起きて見るに、男ども一人もなし。「逃げぬるにこそ」とて、ある限り浜へ出でて見れば、男みな葦毛なる馬に乗りて、海を渡りて行く。女ども、たちまちにたけ一丈ばかりの鬼になりて、四五十丈高く躍り上がりて、叫びののしるに、この商人の中に、女の世にありがたかりし事を思ひ出づる者、一人ありけるが、取りはづして海に落ち入りぬ。羅刹、奪ひしらがひて、これを破り食ひけり。
さてこの馬は、南天竺の西の浜にいたりて伏せりぬ。商人ども悦びておりぬ。その馬かき消つやうに失せぬ。僧伽多深く恐ろしと思ひて、この国に来て後、この事を人に語らず。
二年を経て、この羅刹女の中に、僧伽多が妻にてありしが、僧伽多が家に来たりぬ。見しよりもなほいみじくめでたくなりて、いはん方なく美し。
僧伽多にいふやう、「君をば、さるべき昔の契にや、ことに睦ましく思ひしに、かく捨てて逃げ給へるは、いかに思すにか。我が国には、かかるものの時々出で来て、人を食ふなり。されば錠をよくさし、築地を高く築きたるなり。それに、かく人の多く浜に出でてののしる声を聞きて、かの鬼どもの来て、怒れるさまを見せて侍りしなり。あへて我らがしわざにあらず。帰り給ひて後、あまりに恋しく、悲しく覚えて、殿は同じ心にも思さぬにや」とて、さめざめと泣く。おぼろげの人の心には、さもやと思ひぬべし。されども僧伽多大きに瞋りて、太刀を抜きて殺さんとす。
限なく恨みて、僧伽多が家を出でて、内裏に参りて申すやう、「僧伽多は我が年ごろの夫なり。それに我を捨てて住まぬ事は、誰にかは訴へ申し候はん。帝皇、これをことわり給へ」と申すに、公卿、殿上人これを見て、限なくめで惑はぬ人なし。帝聞し召して、覗きて御覧ずるに、いはん方なく美し。そこばくの女御、后を御覧じ比ぶるに、みな土くれのごとし。これは玉のごとし。
かかる者に住まぬ僧伽多が心いかならんと、思し召しければ、僧伽多を召しければ、僧伽多を召して問はせ給ふに、僧伽多申すやう、「これは、さらに御内へ入れ見るべき者にあらず。返す返す恐ろしき者なり。ゆゆしき僻事出で来候はんずる」と申して出でぬ。
帝このよし聞こし召して、「この僧伽多はいひがひなき者かな。よしよし、後の方より入れよ」と、蔵人して仰せられければ、夕暮方に参らせつ。帝近く召して御覧ずるに、けはひ、姿、みめ有様、香ばしく懐かしき事限りなし。
さて二人臥させ給ひて後、二日三日まで起きあがり給はず、世の政をも知らせ給はず。僧伽多参りて、「ゆゆしき事出で来たりなんず。あさましきわざかな。これはすみやかに殺され給ひぬる」と申せども、耳に聞き入るる人なし。
かくて三日になりぬる朝、御格子もいまだあがらぬほどに、この女、夜の御殿より出でて、立てるを見れば、まみも変りて、世に恐ろしげなり。口に血つきたり。しばし世の中を見まはして、軒より飛ぶがごとくして、雲に入りて失せぬ。
人々、このよし申さんとて、夜の御殿に参りたれば、赤き首一つ残れり。そのほかは物なし。
さて宮の内、ののしる事たとへん事なし。臣下、男女泣き悲しむ事限りなし。
御子の春宮、やがて位につき給ひぬ。僧伽多を召して、事の次第を召し問はるるに、僧伽多申すやう、「さ候へばこそ、かかるものにて候へば、すみやかに追ひ出さるべきやうを申し候ひつるなり、今は宣旨を蒙りて、これを討ちて参らせん」と申すに、「申さんままに仰せ給ぶべし」とありければ、「剣の太刀はきて候はん兵百人、弓矢帯したる百人、早舟に乗りて出し立てらるべし」と申しければ、そのままに出し立てられぬ。
僧伽多この軍兵を具して、かの羅刹の島へ漕ぎ行きつつ、まづ商人のやうなる者を、十人ばかり浜におろしたるに、例のごとく玉の女ども、うたひを謡ひて来て、商人をいざなひて、女の城へ入りぬ。
その尻に立ちて二百人の兵乱れ入りて、この女どもを打ち斬り、射るに、しばしは恨みたるさまにて、あはれげなる気色を見せけれども、僧伽多大なる声を放ちて、走りまはりて掟てければ、その時に、鬼の姿になりて、大口をあきてかかりけれども、太刀にて頭をわり、手足を打ち斬りなどしければ、空を飛びて逃ぐるをば、弓にて射落しつ。
一人も残る者なし。家には火をかけて焼き払ひつ。むなしき国となして果てつ。
さて帰りて、おほやけにこのよしを申しければ、僧伽多にやがてこの国を賜びつ。二百人の軍を具して、その国にぞ住みける。いみじくたのしかりけり。
今は僧伽多が子孫、かの国の主にてありとなん申し伝へたる。
これも昔、天竺に、身の色は五色にて、角の色は白き鹿一つありけり。深き山のみ住みて、人に知られず。その山のほとりに大きなる川あり。その山にまた烏あり。このかせぎを友として過ぐす。
ある時、この川に男一人流れて、既に死なんとす。「我を、人助けよ」と叫ぶに、この鹿、この叫ぶ声を聞きて、悲しみにたへずして、川を泳ぎ寄りて、この男を助けてけり。男、命の生きぬる事を悦びて、手をすりて、鹿にむかひていはく、「何事をもちてか、この恩を報ひ奉るべき」と言ふ。鹿のいはく、「何事をもちてか恩をば報はん。ただこの山に我ありといふ事を、ゆめゆめ人に語るべからず。我が身の色、五色なり。人知りなば、皮を取らんとて、必ず殺されなん。この事を恐るるによりて、かかる深山にかくれて、あへて人に知られず。然るを、汝が叫ぶ声を悲しみて、身の行方を忘れて、助けつるなり」といふ時に、男、「これ、まことにことわりなり。さらにもらす事あるまじ」と返すがへす契りて去りぬ。もとの里に帰りて月日を送れども、さらに人に語らず。
かかるほどに、国の后、夢に見給ふやう、大きなるかせぎあり、味は五色にて角白し。夢覚めて、大王に申し給はく、「かかる夢をなん見つる。このかせぎ、さだめて世にあるらん。大王必ず尋ねとりて、我に与へ給へ」と申し給ふに、大王、宣旨を下して、「もし五色の鹿、尋ねて奉らん物には、金銀、珠玉等の宝、並びに一国等をたぶべし」と仰せふれらるるに、
この助けられたる男、内裏に参て申すやう、「尋らるる色の鹿は、その国の深山にさぶらふ。あり所を知れり。狩人を給ひて、取りて参らすべし」と申すに、大王、大きに悦び給ひて、みづからおほくの狩人を具して、この男をしるべに召し具して、行幸なりぬ。
その深山に入り給ふ。この鹿、あへて知らず。洞の内にふせり。かの友とする烏、これを見て大きにおどろきて、声をあげて鳴き、耳を食ひて引くに、鹿おどろきぬ。
烏告げて言ふ、「国の大王、おほくの狩人を具して、この山をとりまきて、すでに殺さんとし給ふ。いまは逃ぐべき方なし。いかがすべき」と言ひて、泣く泣く去りぬ。
鹿、おどろきて、大王の御輿のもとに歩み寄るに、狩人ども、矢をはげて射んとす。大王宣ふやう、「鹿、おそるる事なくして来れり。定めてやうあるらん。射る事なかれ」と。
その時、狩人ども矢をはづして見るに、御輿の前にひざまづきて申さく、「我が毛の色を恐るるによりて、この山に深く隠れ住めり。しかるに大王、いかにして我が住む所をば知り給へるぞや」と申すに、大王宣ふ、「この輿のそばにある、顔にあざのある男、告げ申したるによりて来れるなり。」鹿見るに、顔にあざありて、御輿傍にゐたり。我が助けたりし男なり。
鹿、かれに向ていふやう、「命を助けたりし時、この恩、何にても報じつくしがたきよし言ひしかば、ここに我あるよし、人に語るべからざるよし、返す返す契りしところなり。然るに今、その恩を忘れて、殺させ奉らんとす。いかに汝、水におぼれて死なんとせし時、我が命を顧みず、泳ぎ寄りて助けし時、汝かぎりなく悦びし事はおぼえずや」と、深く恨みたる気色にて、涙をたれて泣く。
その時に、大王同じく涙をながして宣はく、「汝は畜生なれども、慈悲をもて人を助く。彼の男は欲にふけりて恩を忘たり。畜生といふべし。恩を知るをもて人倫とす」とて、この男をとらへて、鹿の見る前にて、首を斬らせらる。また、宣はく、「今より後、国の中に鹿を狩る事なかれ。もしこの宣旨をそむきて、鹿の一頭にても殺す者あらば、すみやかに死罪に行はるべし」とて帰り給ひぬ。
その後より、天下安全に、国土豊かになりけりとぞ。
今は昔、播磨の守為家といふ人あり。それが内に、させることもなき侍あり。字、佐多となんいひけるを、例の名をば呼ばずして、主も、傍輩も、ただ「さた」とのみ呼びける。
さしたることはなけれども、まめに使はれて、年ごろなどせさせければ、喜びてその郡に行きて、郡司のもとに宿りにけり。なすべきものの沙汰して、四五日ばかりありて上りぬ。
この郡司がもとに、京よりうかれて、人にすかされて来たりける女房のありけるを、いとほしがりて養ひ置きて、物ぬはせなど使ひければ、さやうの事なども心得てしければ、あはれなるものに思ひて置きたりけるを、この佐多に、従者がいふやう、「郡司が家に、京の女房といふ者の、かたちよく、髪長きが候ふを、隠し据ゑて、殿にもしらせ奉らで置きて候ふぞ」と、語りければ、「ねたきことかな。わ男、かしこにありしときは言はで、ここにてかく言ふは、にくきことなり」と言ひければ、
「そのおはしまししかたはらに、切懸の侍りしをへだてて、それがあなたに候ひしかば、知らせ給ひたるらんとこそ、思ひ給へしか」と言へば、「このたびはしばし行かじと思ひつるを、暇申して、とく行きて、その女房かなしうせん」といひけり。
さて二三日ばかりありて、為家に、「沙汰すべき」事どものさぶらひしを、沙汰しさして参りて候ひしなり。いとま給はりてまからん」と言ひければ、「ことを沙汰しさして、何せんに上りけるぞ。とく行けかし」と言ひければ、喜びて下りけり。
行き着きけるままに、とかくの事もいはず。もとより見慣れなどしたらんにてだに、疎からん程は、さやあるべき。従者などにせんやうに、着たりける水干のあやしげなりけるが、ほころび絶えたるを、切懸の上より投げ越して、高やかに、「これがほころび、縫ひておこせよ」と言ひければ、ほどもなく投げ返したりければ、「物縫はせごとさすと聞くが、げにとく縫ひておこせたる女人かな」とあららかなる声してほめて、とりてみるに、ほころびは縫はで、陸奥紙の文を、そのほころびのもとに結びつけて、投げ返したるなりけり。あやしと思ひて、ひろげて見れば、かく書きたり。
♪12
われが身は 竹の林に あらねども
さたが衣を 脱ぎかくるかな
と書きたるをみて、あはれなりと思ひ知らん事こそかなしからめ、見るままに、大きに腹をたてて、「目つぶれたる女人かな。ほころび縫ひにやりたれば、ほころびの絶えたる所をば、だにえ見つけずして、『さたの』とこそいふべきに、かけまくもかしこき守殿だにも、またこそここらの年月ごろ、まだしか召さね。なぞ、わ女め、『さたが』といふべきことか。この女人に物ならはさむ」と言ひて、よにあさましき所をさへ、何せん、かせんと、罵りのろひければ、女房は物もおぼえずして、泣きけり。
腹立ち散らして、郡司をさへ罵りて、「いで、これ申して、事あはせん」と言ひければ、郡司も、「よしなき人をあはれみ置きて、その徳には、はては勘当かうぶるにこそあなれ」と言ひければ、かたがた、女、恐ろしくうわしうわびしく思ひけり。
かく腹立ち叱りて、帰り上りて、侍にて、「やすからぬ事こそあれ。物もおぼえぬくさり女に、かなしう言はれたる。守殿だに、『さた』とこそ召せ。この女め、『さたが』といふべき故やは」と、ただ腹立ちに腹立てば、聞く人ども、え心得ざりけり。
「さてもいかなる事をせられて、かくは言ふぞ」と問へば、「聞き給へよ、申さん。かやうのことは、誰も同じ心に守殿にも申し給へ。君だちの名だてにもあり」と言ひて、ありのままのことを語りければ、「さてさて」と言ひて、笑ふ者もあり、憎がる者も多かり。女をば、皆いとほしがり、やさしがりけり。
このことを為家ききて、前によびて問ひければ、我が愁へなりにたりと悦びて、ことごとしくのびあがりて言ひければ、よく聞きて後、その男をば追ひ出してけり。女をばいとほしがりて、物とらせなどしける。
心から身を失ひけるをのこなりとぞ。
今は昔、三条中納言といふ人ありけり。三条右大臣の御子なり。
才かしこくて、唐土のこと、この世のこと、みな知り給へり。心ばへかしこく、肝太く、おしがらだちてなんおはしける。笙の笛をなんきはめて吹き給ひける。長たかく、大きに太りてなんおはしける。
太りのあまり、せめて苦しきまで肥え給ひければ、薬師重秀を呼びて、「かくいみじう太るをば、いかがせんとする。立ち居などするが、身の重く、いみじう苦しきなり」と宣へば、重秀申すやう、「冬は湯づけ、夏は水漬にて、物を召すべきなり」と申しけり。
そのままに召しけれど、ただ同じやうに肥え太り給ひければ、せん方なくて、また重秀を召して、「言ひしままにすれど、そのしるしもなし。水飯食ひて見せん」と宣ひて、をのこども召すに、侍一人参りたれば、「例のやうに、水飯して持て来」と言はれければ、しばしばかりありて、御台持て参るをみれば、御台片具もて来て、御前に据ゑつ。
御台に、はしの台ばかり据ゑたり。続きて、御盤ささげて参る。御まかなひの台に据うるをみれば、中の御盤に、白き干瓜、三寸ばかりに切りて、十ばかり盛りたり。また、鮓鮎の、おせぐくに、広らかなるが、尻頭ばかり押して三十ばかり盛りたり。大きなる金まりを具したり。みな、御台に据ゑたり。
いま一人の侍、大きなる銀の提に、銀の匙をたてて、重たげにもて参りたり。金まりを給ひたれば、匙に御物をすくひつつ、高やかに盛りあげて、そばに水をすこし入りて参らせたり。
殿、台を引き寄せ給ひて、金まりをとらせ給へるに、さばかり大きにおはする殿の御手に、大なる金まりかなと見ゆるは、けしうはあらぬほどなるべし。干瓜三切ばかり食ひ切りて、五つ六つばかり参りぬ。つぎに、鮎を二切ればかりに食ひ切りて、五つ六つばかりやすらかに参りぬ。
つぎに水飯を引よせて、二度ばかり箸をまはし給ふと見るほどに、御物みな失せぬ。「また」とて、さし賜はす。さて二三度に、提の物、みなになれば、また提に入れてもて参る。
重秀、これをみて、「水飯を、やくと召すとも、このぢやうに召さば、さらに御太り直るべきにあらず」とて、逃げていにけり。
されば、いよいよ相撲などのやうにてぞおはしける。
これもいまは昔、忠明といふ検非違使ありけり。それが若かりける時、清水の橋のもとにて、京童部どもと、いさかひをしけり。京童部、手ごとに刀をぬきて、忠明をたちこめて、殺さんとしければ、忠明も太刀を抜きて、御堂ざまに上るに、御堂の東のつまにも、あまた立ちて、向かひあひたれば、内へ逃げて、蔀のもとを脇にはさみて、前の谷へ躍り落つ。
蔀、風にしぶかれて、谷の底に、鳥のゐるやうに、やをら落ちにければ、それより逃げていにけり。京童部ども、谷を見おろして、あさましがり、立ち並みて見けれども、すべきやうもなくて、やみにけりとなん。
今は昔、父母、主もなく、妻も子もなくて、ただ一人ある青侍ありけり。すべき方もなかりければ、「観音助け給へ」とて長谷に参りて、御前にうつぶし伏して申しけるやう、「この世にかくてあるべくは、やがて、この御前にて干死にに死なん。もしまた、おのづからなる便りもあるべくは、そのよしの夢を見ざらんかぎりは出づまじ」とて、うつぶし臥したりけるを、
寺の僧見て、「こは、いかなる者の、かくては候ふぞ。物食ふ所も見えず、かくうつぶし臥したれば、寺のため、けがらひ出で来て、大事になりなん。誰を師にはしたるぞ。いづくにてか物は食ふ」など問ひければ、
「かくたよりなき者は、師もいかでか侍らん。物食ぶる所もなく、あはれと申す人もなければ、仏の給はん物を食べて、仏を師と頼み奉りて候ふなり」と答へければ、
寺の僧ども集まりて、「この事、いとど不便の事なり。寺のために悪しかりなん。観音をかこち申す人にこそあんなれ。これ集まりて、養ひて候はせん」とて、かはるがはる物を食はせければ、持て来る物を食ひつつ、御前を立去らず候ひけるほどに、三七日になりにけり。
三七日はてて、明けんとする夜の夢に、御帳より人の出でて、「このをのこ、前世の罪の報ひをば知らで、観音をかこち申して、かくて候ふ事、いとあやしき事なり。さはあれども、申すことのいとほしければ、いささかの事、計らひ給はりぬ。まづ、すみやかにまかり出でよ。まかり出でんに、何にてもあれ、手にあたらん物を取りて、捨てずして持ちたれ。とくとくまかり出でよ」と追はるると見て、はひ起きて、約束の僧のがり行きて、物うち食ひてまかり出でけるほどに、大門にてけつまづきて、うつぶしに倒れにけり。
起きあがりたるに、あるにもあらず、手に握られたる物を見れば、藁すべといふ物をただ一筋握られたり。
「仏の賜ぶ物にてあるにやあらん」と、いとはかなく思へども、仏のはからせ給ふやうあらんと思ひて、これを手まさぐりにしつつ行くほどに、虻一つぶめきて、顔のめぐりにあるを、うるさければ、木の枝を折りて払ひ捨つれども、なほただ同じやうに、うるさくぶめきければ、とらへて腰をこの藁すぢにてひきくくりて、杖の先につけて持たりければ、腰をくくられて、ほかへはえ行かで、ぶめき飛びまはりけるを、
長谷にまゐりける女車の、前の簾をうちかづきてゐたる児の、いとうつくしげなるが、「あの男の持ちたる物はなにぞ。かれ乞ひて、我に賜べ」と、馬に乗りてともにある侍に言ひければ、その侍、「その持ちたる物、若君の召すに参らせよ」と言ひければ、「仏の賜びたる物に候へど、かく仰せ事候へば、参らせて候はん」とて、取らせたりけば、「この男、いとあはれなる男なり。若君の召す物を、やすく参らせたる事」と言ひて、大柑子を、「これ、喉かはくらん、食べよ」とて、三つ、いとかうばしき陸奥国紙に包みて取らせたりければ、侍、取り伝へて取らす。
藁一筋が、大柑子三になりぬる事、と思ひて、木の枝に結ひ付けて、肩にうちてかけて行くほどに、「故ある人の、忍びて参るよ」と見えて、侍などあまた具して、かちより参る女房の、歩み困じて、ただたりにたりゐたるが、「喉のかはけば、水飲ませよ」とて、消え入るやうにすれば、供の人々、手惑ひをして、「近く水やある」と走り騒ぎ求むれど、水もなし。
「こはいかがせんずる。御旅籠馬にや、もしある」と問へど、はるかにをくれたりとて見ず。ほとほとしきさまに見ゆれば、まことに騒ぎ惑ひてしあつかふを見て、「喉かはきて騒ぐ人よ」と見ければ、やはら歩み寄りたるに、「ここなる男こそ、水のあり所は知りたるらめ、この辺近く、水の清き所やある」と問ひければ、「この四五町が内には清き水候はじ。いかなる事の候ふにか」と問ひければ、「歩み困ぜさせ給ひて、御喉のかはかせ給ひて、水ほしがらせ給ふに、水のなきが大事なれば、尋ぬるぞ」と言ひければ、「不便に候ふ御事かな。水の所は遠くて、汲みて参らば、ほど経候ひなん。これはいかが」とて、包みたる柑子を、三ながら取らせたりければ、悦び騒ぎて食はせたれば、それを食ひて、やうやう目を見あけて、「こは、いかなりつる事ぞ」と言ふ。
「御喉かはかせ給ひて、『水飲ませよ』とおほせられつるままに、御殿籠り入らせ給ひつれば、水もとめ候ひつれども、清き水も候はざりつるに、ここに候ふ男の、思ひかけるに、その心を得て、この柑子を三、奉りたりつれば、参らせたるなり」といふに、
この女房、「我はさは、喉かはきて、絶え入たりけるにこそありけれ。『水飲ませよ』といひつるばかりはおぼゆれど、その後の事はつゆおぼえず。この柑子えざらましかば、この野中にて消え入りなまし。うれしかりける男かな。この男、いまだあるか」と問へば、「かしこに候ふ」と申す。
「その男、しばしあれといへ。いみじからん事ありとも、絶え入はてなば、かひなくてこそやみなまし。男のうれしと思ふばかりの事は、かかる旅にては、いかがせんずるぞ。食ひ物は持ちて来たるか。食はせてやれ」と言へば、「あの男、しばし候へ。御旅籠馬など参りたらんに、物など食ひてまかれ」と言へば、「うけ給ひぬ」とて、ゐたるほどに、旅籠馬、皮籠馬など「など、かくはるかにをくれては参るぞ。御旅籠馬などは、つねにさきだつこそよけれ。とみの事などもあるに、かくをくるるはよき事かは」など言ひて、やがて幔引き、畳など敷きて、「水遠かんなれど、困ぜさせ給ひたれば、召し物は、ここにて参らすべきなり」とて、夫どもやりなどして、水汲ませ、食物しいだしたれば、この男に、清げにして、食はせたり。
物を食ふ食ふ、「ありつる柑子、何にかならんずらん。観音はからはせ給ふ事なれば、よもむなしくてはやまじ」と思ひゐたるほどに、白くよき布を三匹取り出でて、「これ、あの男に取らせよ。この柑子の喜びは、言ひつくすべき方もなけれども、かかる旅の道にては、うれしと思ふばかりの事はいかがせん。これはただ、心ざしのはじめを、見するなり。京のおはしまし所は、そこそこになん。必ず参れ。この柑子の喜びをばせんずるぞ」と言ひて、布三匹取らせたれば、悦びて布を取りて、「藁筋一筋が、布三匹になりぬる事」と思ひて、腋にはさみてまかるほどに、その日は暮れにけり。
道づらなる人の家にとどまりて、明けぬれば鳥とともに起きて行くほどに、日さしあがりて辰の時ばかりに、えもいはず良き馬に乗りたる人、この馬を愛しつつ、道も行きやらず、ふるまはするほどに、「まことにえもいはぬ馬かな。これをぞ千貫がけなどはいふにやあらん」と見るほどに、この馬にはかにたうれて、ただ死にに死ぬれば、主、我にもあらぬけしきにて、下りて立ちゐたり。手まどひして、従者どもも、鞍下ろしなどして、「いかがせんずる」といへども、かひなく死に果てぬれば、手を打ち、あさましがり、泣きぬばかりに思ひたれど、すべき方なくて、あやしの馬のあるに乗りぬ。
「かくてここにありとも、すべきやうなし。我等は去なん。これ、ともかくもして引き隠せ」とて、下種男を一人とどめて、去りぬれば、この男見て、「この馬、わが馬にならんとて死ぬるにこそあんめれ。藁一筋柑子三になりぬ。柑子三が布三匹になりたり。この布、馬になるべきなめり」と思ひて、歩み寄りて、この下種男にいふやう、「こは、いかなりつる馬ぞ」と問ひければ、「睦奥国より得させ給へる馬なり。よろづの人のほしがりて、値も限らず買はんと申しつるをも惜しみて、放ち給はずして、今日かく死ぬれば、その値、少分をも取らせ給はずなりぬ。おのれも、皮をだに剥がばやと思へど、旅にてはいかがすべきと思ひて、まもり立ちて侍るなり」と言ひければ、「その事なり。いみじき御馬かなと見侍りつるに、はかなくかく死ぬる事、命ある物はあさましき事なり。まことに、旅にては、皮はぎ給ひたりとも、え干し給はじ。おのれはこの辺に侍れば、皮剥ぎて使ひ侍らん。得させておはしね」とて、この布を一匹取らせたれば、男、思はずなる所得したりと思ひて、思ひもぞかへすとや思ふらん、布をとるままに、見だにもかへらず走り去りぬ。
男、よくやりはてて後、手かき洗ひて、長谷の御方の向かひて、「この馬、生けて給はらん」と念じゐたるほどに、この馬、目を見あくるままに、頭をもたげて、起きんとしければ、やはら手をかけて起こしぬ。うれしき事限りなし。
「遅れて来る人もぞある。また、ありつる男もぞ来る」など、あやうくおぼえければ、やうやう隠れの方に引き入れて、時移るまで休めて、もとのやうに心地もなりにければ、人のもとに引きもて行きて、その布一匹して、轡やあやしの鞍にかへて馬乗りぬ。
京ざまに上るほどに、宇治わたりにて日暮れにければ、その夜は人のもとに泊とまりて、いま一匹の布して、馬の草、わが食物などにかへて、その夜は泊まりて、つとめていととく、京ざまに上りければ、九条わたりなる人の家に、物へ行かんずるやうにて、立ち騒ぐ所あり。
「この馬、京に率て行きたらんに、見知りたる人ありて、盗みたるかなどいはれんもよしなし。やはら、これを売りてばや」と思ひて、「かやうの所に、馬など用なるものぞかし」とて下り走りて寄りて、「もし馬などや買はせ給ふ」と問ひければ、
馬がなと思ひけるほどにて、この馬を見て、「いかがせん」とさわぎて、「ただ今、かはり絹などはなきを、この鳥羽の田や米などにはかへてんや」と言ひければ、
なかなか、絹よりは第一の事なりと思ひて、「絹や銭などこそ用には侍れ、おのれは旅なれば、田ならば何にかはせんずると思ひ給ふれど、馬の御用あるべくは、ただ仰せにこそしたがはめ」と言へば、この馬に乗りこころみ、馳せなどして、「ただ、思ひつるさまなり」と言ひて、この鳥羽の近き田三町、稲少し、米など取らせて、やがてこの家をあづけて、「おのれ、もし命ありて帰り上りたらば、その時、返し得させ給へ。上らざらん限りは、かくて居給へれ。もしまた、命絶えてなくもなりなば、やがてわが家にして居給へ。子も侍らねば、とかく申す人もよも侍らじ」と言ひて、あづけて、やがて下りにければ、その家に入り居て、みたりける米、稲など取り置きて、ただ一人なりけれど、食物ありければ、かたはら、その辺なりける下種など出で来て、使はれなどして、ただありつきに、ゐつきにけり。
二月ばかりの事なりければ、その得たりける田を、半らは人に作らせ、今半らは我が料に作らせたりけるが、人の方のもよけれども、それは世の常にて、おのれが分とて作たるは、ことのほか多くいできたりければ、稲多く刈り置きて、それよりうち始め、風の吹きつくるやうに徳つきて、いみじき徳人にてぞありける。その家あるじも、音せずなりにければ、その家も我が物にして、子孫などいできて、ことのほかに栄へたりけるとか。
今は昔、小野宮殿の大饗に、九条殿の御膾物にし給ひたりける女の装束にそへられたりける紅の打ちたるほそながを、心なかりける御前の、とりはづして、やり水に落し入れたりけるを、すなはち取りあげて、うちふるひければ、水は走りてかはきにけり。その濡れたりける方の袖の、つゆ水に濡れたるとも見えで、おなじやうに打ち目などもありける。昔は、打ちたる物は、かやうになんありける。
また、西宮殿の大饗に、小野宮殿を「尊者におはせよ」とありければ、「年老い、腰いたくて、庭の拝えすまじければ、え詣づまじきを、雨ふらば、庭の拝もあるまじければ、参りなん。ふらずば、えなん参るまじき」と、御返事のありければ、雨ふるべきよし、いみじく祈り給ひけり。
そのしるしにやありけん、その日になりて、わざとはなくて、空くもりわたりて、雨そそぎければ、小野宮殿は脇よりのぼれて、おはしけり。
中島に、大きに木高き松、一本たてりけり。その松を見と見る人「藤のかかりたらましかば」とのみ、見つつ言ひければ、この大饗の日は、正月のことなれども、藤の花いみじくをかしくつくりて、松の梢よりひまなうかけられたるが、ときならぬ物はすさまじきに、これは空の曇りて、雨のそぼ降るに、いみじくめでたう、をかしう見ゆ。
池の面に影のうつりて、風の吹けば、水のうへもひとつになびきたる、まことに藤波といふことは、これをいふにやあらんとぞ見えける。
また後の日、富小路の大臣の大饗に、御家のあやしくて、所々のしつらひも、わりなくかまへてありければ、人々も、見苦しき大饗かなと思ひたりけるに、日暮れて、事やうやう果て方になるに、引出物の時になりて、東の廊の前に曳きたる幕のうちに、引出物の馬を引き立てありけるが、幕の内ながらいななきたりける声、空を響かしけるを、人々「いみじき馬の声かな」と、聞きけるほどに、幕柱を蹴折りて、口取りを引きさげて、出で来るを見れば、黒栗毛なる馬の、たけ八寸あまりばかりなる、ひらに見ゆるまで身太く肥えたる、かいこみ髪なれば、額の望月のやうにて白く見えければ、見てほめののしりける声、かしがましきまでなん聞こえける。
馬のふるまひ、面だち、尻ざし、足つきなどの、ここはと見ゆる所なく、つきづきしかりければ、家のしつらひの、見苦しかりつるも消えて、めでたうなんありける。さて世の末までも語り伝ふるなりけり。
これも今は昔、鳥羽院位の御時、白河院の武者所の中に、宮道式成、源満、則員、殊に的弓の上手なりと、その時聞こえありて、鳥羽院位の御時の滝口に、三人ながら召されぬ。試みあるに、おほかた一度もはづさず。これをもてなし興ぜさせ給ふ。
ある時三尺五寸の的を賜びて、「これが第二の黒み、射落して持て参れ」と仰せあり。巳の時に賜りて、未の時に射落して参れり。いたつき三人の中に三手なり。「矢とりて、矢取の帰らんを持たば、程経ぬべし」とて、残りの輩、我と矢を走り立ちて、取り取りして、立ちかはり立ちかはり射るほどに、未の時の半らばかりに、第二の黒みを射めぐらして、射落して持て参れりけり。
「これすでに養由がごとし」と時の人ほめののしりけるとかや。
これも今は昔、橘大膳亮大夫以長といふ蔵人の五位ありけり。
法勝寺千僧供養に、鳥羽院御幸ありけるに、宇治左大臣参り給ひけり。
さきに、公卿の、車行きけり。しりより左府参り給ひければ、車をおさへてありければ、御前の随身おりて通りけり。それに、この以長一人降りざりけり。いかなることにかと見るほどに、帰らせ給ひぬ。
さて帰らせ給ひて、「いかなることぞ。公卿あひて、礼節して車をおさへたれば、御前の随身みな降りたるに、未練の者こそあらめ、以長降りざりつるは」と仰せらる。
以長申すやう、「こはいかなる仰せにか候ふらん。礼節と申し候ふは、まへにまかる人、しりより御出なり候はば、車をやりかへして、御車にむかへて、牛をかきはづして、榻に軛を置きて、通し参らするをこそ礼節とは申し候ふに、さきに行く人、車をおさへ候ふとも、しりをむけ参らせて通し参らするは、礼節にては候はで、無礼をいたすに候ふとこそ見えつれば、さらん人には、なんでふ降り候はんずるぞと思ひて、降り候はざりつるに候ふ。あやまりてさも候はば、打ち寄せて一言葉申さばやと思ひ候ひつれども、以長、年老い候ひにたれば、おさへて候ひつるに候ふ」と申しければ、
左大臣殿「いさ、このこといかがあるべからん」とて、あの御方に、「かかる事こそ候へ。いかに候はんずることぞ」と申させ給ひければ、「以長古侍に候ひけり」とぞ仰せ事ありける。昔は、かきはづして榻をば、轅の中に、降りんずるやうに置きけり。これぞ礼節にてはあんなるとぞ。
これも今は昔、下野武正といふ舎人は、法性寺殿に候ひけり。ある折、大風、大雨降りて、京中の家、みな壊れ破れけるに、殿下、近衛殿におはしましけるに、南面のかたに、ののしる者の声しけり。
誰ならんとおぼしめして、見せ給ふに、武正、赤香の上下に蓑笠を着て、蓑の上に縄を帯にして、檜笠の上をまたおとがひに縄にてからげつけて、鹿杖をつきて、走り回りておこなふなりけり。
おほかた、その姿おびたたしく似るべきものなし。殿、南面へ出でて御簾より御覧ずるに、あさましくおぼしめして、御馬をなん賜びけり。
今は昔、信濃国に法師ありけり。さる田舎にて法師になりにければ、まだ受戒もせで、いかで京に上りて、東大寺といふ所にて受戒せんと思ひて、とかくして上りて、受戒してけり。
さてもとの国へ帰らんと思ひけれども、よしなし、さる無仏世界のやうなる所に帰らじ、ここにゐなんと思ふ心つきて、東大寺の仏の御前に候ひて、いづくにか行ひして、のどやかに住みぬべき所あると、よろづの所を見まはしけるに、未申の方に当たりて、山かすかに見ゆ。そこに行ひて住まんと思ひて行きて、山の中に、えもいはず行ひて過ぐすほどに、すずろに小さやかなる厨子仏を、行ひ出したり。毘沙門にてぞおはしましける。
そこに小さき堂を建てて、据ゑ奉りて、えもいはず行ひて、年月経るほどに、この山の麓に、いみじき下種徳人ありけり。そこに聖の鉢は常に飛び行きつつ、物は入れて来けり。
大きなる校倉のあるをあけて、物取り出すほどに、この鉢飛びて、例の物乞ひに来たりけるを、「例の鉢来にたり。ゆゆしくふくつけき鉢よ」とて、取りて、倉の隅に投げ置きて、とみに物も入れざりければ、鉢は待ち居たりけるほどに、物どもしたため果てて、この鉢を忘れて、物も入れず、取りも出さで、倉の戸をさして、主帰りぬるほどに、とばかりありて、この倉すずろにゆさゆさと揺ぐ。
「いかにいかに」と見騒ぐほどに、揺ぎ揺ぎて、土より一尺ばかり揺ぎあがる時に、「こはいかなる事ぞ」と、怪しがりて騒ぐ。「まことまこと、ありつる鉢を忘れて取り出でずなりぬる、それがしわざにや」などいふほどに、この鉢、倉より漏り出でて、この鉢に倉乗りて、ただ上りに、空ざまに一二丈ばかり上る。さて飛び行くほどに、人々ののしりあさみ騒ぎ合ひたり。
倉の主も、さらにすべきやうもなければ、「この倉の行かん所を見ん」とて、尻に立ちて行く。そのわたりの人々もみな走りけり。さて見れば、やうやう飛びて、河内国に、この聖の行ふ山の中に飛び行きて、聖の坊の傍に、どうと落ちぬ。
いとどあさましと思ひて、さりとてあるべきならねば、この倉主、聖のもとに寄りて申すやう、「かかるあさましき事なん候ふ。この鉢の常にまうで来れば、物入れつつ参らするを、今日紛はしく候ひつるほどに、倉にうち置きて忘れて、取りも出さで、錠をさして候ひければ、この倉ただ揺ぎに揺ぎて、ここになん飛びてまうで落ちて候ふ。この倉返し給はり候はん」と申す時に、「まことにあやしき事なれど、飛びて来にければ、倉はえ返し取らせじ。ここにかやうの物もなきに、おのづから物をも置かんによし。中ならん物は、さながら取れ」と宣へば、主のいふやう、「いかにしてか、たちまちに運び取り返さん。千石積みて候ふなり」と言へば、「それはいとやすき事なり。たしかに我運びて取らせん」とて、この鉢に一俵を入れて飛すれば、雁などの続きたるやうに、残りの俵ども続きたる。群雀などのやうに、飛び続きたるを見るに、いとどあさましく貴ければ、主のいふやう、「しばし、皆な遣はしそ。米二三百石は、とどめて使はせ給へ」と言へば、聖、「あるまじき事なり。それここに置きては、何にかはせん」と言へば、「さらば、ただ使はせ給ふばかり、十二十をも奉らん」と言へば、「さまでも、入るべき事のあらばこそ」とて、主の家にたしかにみな落ち居にけり。
かやうに貴く行ひて過ぐすほどに、その頃、延喜の帝、重く煩はせ給ひて、さまざまの御祈りども、御修法、御読経など、よろづにせらるれど、さらに怠らせ給はず。ある人の申すやう、「河内国信貴と申す所に、この年来行ひて、里へ出づる事もせぬ聖候ふなり。それこそいみじく貴く験ありて、鉢を飛し、さて居ながら、よろづありがたき事をし候ふなれ。それを召して、祈りせさせ給はば、怠らせ給ひなんかし」と申せば、「さらば」とて、蔵人を御使にて、召しに遣はす。
行きて見るに、聖のさま殊に貴くめでたし。かうかう宣旨にて召すなり、とくとく参るべきよし言へば、聖、「何しに召すぞ」とて、さらに動きげもなければ、「かうかう、御悩大事におはします。祈り参らせ候はん」と言ふ。
「さては、もし怠らせおはしましたりとも、いかでか聖の験とは知るべき」と言へば、「それが誰が験といふ事、知らせ給はずとも、御心地だに怠らせ給ひなば、よく候ひなん」と言へば、蔵人、「さるにても、いかでかあまたの御祈の中にもその験と見えんこそよからめ」といふに、「さらば祈り参らせんに、剣の護法を参らせん。おのづから御夢にも、幻にも御覧ぜば、さとは知らせ給へ。剣を編みつつ、衣に着たる護法なり。我はさらに京へはえ出でじ」と言へば、
勅使帰り参りて、かうかうと申すほどに、三日といふ昼つ方、ちとまどろませ給ふともなきに、きらきらとある物の見えければ、いかなる物にかとて御覧ずれば、あの聖のいひけん剣の護法なりと思し召すより、御心地さはさはとなりて、いささか心苦しき御事もなく、例ざまにならせ給ひぬ。人々悦びて、聖を貴がりめであひたり。
帝も限なく貴く思し召して、人を遣はして、「僧正、僧都にやなるべき。またその寺に、庄などや寄すべき」と仰せつかはす。聖承りて、「僧都、僧正、さらに候ふまじき事なり。またかかる所に、庄など寄りぬれば、別当なにくれなど出で来て、なかなかむつかしく、罪得がましく候ふ。ただかくて候はん」とてやみにけり。
かかるほどに、この聖の姉ぞ一人ありける。この聖受戒せんとて、上りしまま見えぬ、かうまで年ごろ見えぬは、いかになりぬるやらん、おぼつかなきに尋ねて見んとて、上りて、東大寺、山階寺のわたりを、「まうれん小院といふひとやある」と尋ぬれど、「知らず」とのみ言ひて、知りたるとといふ人なし。
尋ねわびて、いかにせん、これが行く末聞きてこそ帰らめと思ひて、その夜東大寺の大仏の御前にて、「この命蓮があり所、教へさせ給へ」と夜一夜申して、うちまどろみたる夢に、この仏仰せらるるやう、「尋ぬる僧の在所は、これより未申の方に山あり。その山に雲たなびきたる所を、行きて尋ねよ」と仰せらるると見て覚めたれば、暁方になりにけり。
いつしか、とく夜の明けよかしと思ひて見居たれば、ほのぼのと明け方になりぬ。未申の方を見やりければ、山かすかに見ゆるに、紫の雲たなびきたる、嬉しくて、そなたをさして行きたれば、まことに堂などあり。人ありと見ゆる所へ寄りて、「命蓮小院やいまする」と言へば、「誰そ」とて出でて見れば、信濃なりし我が姉なり。
「こはいかにして尋ねいましたるぞ。思ひかけず」と言へば、ありつる有様を語る。「さていかに寒くておはしつらん。これを着せ奉らんとて、持たりつる物なり」とて、引き出でたるを見れば、ふくたいといふ物を、なべてにも似ず、太き糸して、厚々とこまかに強げにしたるを持て来たり。
悦びて、取りて着たり。もとは紙衣一重をぞ着たりける。さて、いと寒かりけるに、これを下に着たりければ、暖かにてよかりけり。さて多くの年ごろ行ひけり。さてこの姉の尼君も、もとの国へ帰らずとまりゐて、そこに行ひてぞありける。
さて多くの年ごろ、このふくたいをのみ着て行ひければ、果てには破れ破れと着なしてありけり。鉢に乗りて来たりし倉を、飛倉とぞ言ひける。その倉にぞ、ふくたいの破れなどは納めて、まだあんなり。その破れの端をつゆばかりなど、おのづから縁にふれて得たる人は、守りにしたり。
その倉も朽ち破れて、いまだあんなり。その木の端をつゆばかり得たる人は、守りにし、毘沙門を造り奉りて持ちたる人は、必ず徳つかぬはなかりけり。されば聞く人縁を尋ねて、その倉の木の端をば買ひとりける。
さて信貴とて、えもいはず験ある所にて、今に人々明け暮れ参る。この毘沙門は、命蓮聖の行ひ出だし奉りけるとか。
これも今は昔、敏行という歌よみは、手をよく書きければ、これかれがいふに従ひて、法華経を二百部ばかり書き奉りたりけり。かかるほどに、にはかに死にけり。
我は死ぬるぞとも思はぬに、にはかにからめて引き張りて率て行けば、我ばかりの人を、おほやけと申すとも、かくせさせ給ふべきか、心得ぬわざかなと思ひて、からめていく人に、「これはいかなる事ぞ。何事の過ちにより、かくばかりの目をば見るぞ」と問へば、
「いさ、我は知らず。『たしかに召して来』と仰せを承りて、率て参るなり。そこは法華経や書き奉りたる」と問へば、「しかじか書き奉りたり」と言へば、
「我がためにはいくらか書きたる」と問へば、「我がためとも侍らず。ただ、人の書かすれば、二百部ばかり書きたるらんと覚ゆる」と言へば、
「その事の愁へ出で来て、沙汰のあらんずるにこそあめれ」とばかり言ひて、また異事もいはで行くほどに、あさましく人の向ふべくもなく、恐ろしと言へばおろかなる者の眼を見れば、雷光のやうにひらめき、口は炎などのやうに恐ろしき気色したる軍の鎧兜着て、えもいはぬ馬に乗り続きて、二百人ばかりあひたり。見るに肝惑ひ、倒れ伏しぬべき心地すれども、われにもあらず、引き立てられていく。
さてこの軍は先立ちて去ぬ。我からめて行く人に、「あれはいかなる軍ぞ」と問へば、「え知らぬか。これこそ汝に経あつらへて書かせたる者どもの、その功徳によりて、天にも生まれ、帰るとも、よき身とも生るべかりしが、汝がその書き奉るとて、魚をも食ひ、女にも触れて、清まはる事もなくて、心をば女のもとに置きて、書き奉りたれば、その功徳のかなはずして、かくいかう武き身に生れて、汝を妬がりて、『呼びて給ふらん。その仇報ぜん』と愁へ申せば、この度は、道理にて召さるべき度にもあらねども、この愁によりて召さるるなり」といふに、身も切るるやうに、心もしみ凍りて、これを聞くに死ぬべき心地す。
「さて我をばいかにせんとて、かくは申すぞ」と問へば、「おろかにも問ふかな。その持ちたりつる太刀、刀にて、汝が身をばまづ二百に斬り裂きて、おのおの一切づつ取りてんとす。その二百の切れに、汝が心も分かれて、切ごとに心のありて、せためられんに随ひて、悲しく侘しき目を見んずるぞかし。堪へ難き事、たとへん方あらんやは」と言ふ。
「さてその事をば、いかにしてか助かるべき」と言へば、「さらに我も心も及ばず。まして助かるべき力はあるべきにあらず」といふに、歩むそらなし。
また行けば、大きなる川あり。その水を見れば、濃くすりたる墨の色にて流れたり。怪しき水の色かなと見て、「これはいかなる水なれば、墨の色なるぞ」と問へば、「知らずや。これこそ汝が書き奉りたる法華経の墨の、かく流るるよ」と言ふ。
「それはいかなれば、かく川にて流るるぞ」と問ふに、「心のよく誠をいたして、清く書き奉りたる経は、さながら王宮に納められぬ。汝が書き奉りたるやうに、心きたなく、身けがらはしうて書き奉りたる経は、広き野に捨て置きたれば、その墨の雨に濡れて、かく川にて流るるなり。この川は、汝が書き奉りたる経の墨の川なり」といふに、いとど恐ろしともおろかなり。
「さてもこの事は、いかにしてか助かるべき事ある。教へて助け給へ」と泣く泣くいへば、「いとほしけれども、よろしき罪ならばこそは、助かるべき方をも構へめ。これは心も及び、口にても述ぶべきやうもなき罪なれば、いかがせん」といふに、ともかくもいふべき方なうて行くほどに、恐ろしげなるもの走りあひて、「遅く率て参る」と戒めいへば、それを聞きて、さげ立てて率て参りぬ。
大きなる門に、わがやうに引き張られ、また頸枷などいふ物をはげられて、結ひからめられて、堪へ難げなる目ども見たる者どもの、数も知らず、十万より出で来たり。集まりて、門に所なく入り満ちたり。
門より見入るれば、あひたりつる軍ども、目をいからかし、舌なめづりをして、我を見つけて、とく率て来かしと思ひたる気色にて、立ちさまよふを見るに、いとど土も踏まれず。
「さてもさても、いかにし侍らんとする」と言へば、その控へたる者、「四巻経書き奉らんといふ願をおこせ」とみそかにいへば、今門入るほどに、この科は四巻経書き、供養してあがはんといふ願をおこしつ。
さて入りて、庁の前に引き据ゑつ。事沙汰する人、「彼は敏行か」と問へば、「さに侍り」と、この付きたる者答ふ。「愁ども頻なるものを、など遅くは参りつるぞ」と言へば、「召し捕りたるまま、滞りなく率て参り候ふ」と言ふ。
「娑婆世界にて何事かせし」と問はるければ、「仕りたる事もなし。人のあつらへに従ひて、法華経を二百部書き奉りて侍りつる」と答ふ。
それを聞きて、「汝はもと受けたる所の命は、今暫くあるべけれども、その経書き奉りし事の、けがらはしく、清からで書きたる愁の出で来て、からめられぬなり。すみやかに愁へ申す者どもに出し賜びて、彼らが思ひのままにせさすべきなり」とある時に、ありつる軍ども、悦べる気色にて、請け取らんとする時に、
わななくわななく、「四巻経書き、供養せんと申す願ひの候ふを、その事をなんいまだ遂げ候はぬに、召され候ひぬれば、この罪重く、いとどあらがふ方候はぬなり」と申せば、この沙汰する人聞き驚きて、「さる事やはある。まことならば不便なりける事かな。帳を引きて見よ」と言へば、また人、大きなる文を取り出でて、ひくひく見るに、我がせし事どもを一事も落とさず、記しつけたる中に、罪の事のみありて、功徳の事一つもなし。この門入りつる程におこしつる願なれば、奥の果に記されにけり。
文引き果てて、今はとする時に、「さる事侍り。この奥にこそ記されて侍れ」と申し上げれば、「さてはいと不便の事なり。この度の暇をば許し給びて、その願遂げさせて、ともかくもあるべき事なり」と定められければ、この目をいからかして、われをとく得んと、手をねぶりつる軍ども失せにけり。「たしかに娑婆世界に帰りて、その願必ず遂げさせよ」とて、許さるると思ふほどに、生き返りにけり。
妻子泣き合ひてありける二日といふに、夢の覚めたる心地して、目を見あけたりければ、生き返りたりとて、悦びて、湯飲ませなどするにぞ、さは、我は死にたりけるにこそありけれと心得て、勘へられつる事ども、ありつる有様、願をおこして、その力にて許されつる事など、明らかなる鏡に向ひたらんやうに覚えければ、いつしか我が力付きて、清まはりて、心清く四巻経書き供養し奉らんと思ひけり。
やうやう日ごろ経、頃過ぎて、例のやうに心地もなりにければ、いつしか四巻経書き奉るべき紙、経師にうち継がせ、鎅掛けさせて、書き奉らんと思ひけるが、なほもとの心の色めかしう、経仏の方に心のいたらざりければ、この女のもとに行き、あの女懸想し、いかでよき歌詠まんなど思ひけるほどに、暇もなくて、はかなく年月過ぎて、経をも書き奉らで、この受けたりける齢、限にやなりにけん、遂に失せにけり。
その後十二年ばかり隔てて、紀友則といふ歌よみの夢に見えけるやう、この敏行と覚しき者にあひたれば、敏行とは思へども、さまかたちたとふべき方もなく、あさましく恐ろしう、ゆゆしげにて、うつつにも語りし事を言ひて、「四巻経書き奉らんといふ願によりて、暫くの命を助けて、返されたりしかども、なほ心のおろかに怠りて、その経を書かずして、遂に失せにし罪によりて、たとふべき方もなき苦を受けてなんあるを、もし哀れと思ひ給はば、その料の紙はいまだあるらん、その紙尋ね取りて、三井寺にそれがしといふ僧にあつらへて、書き供養せさせて給べ」と言ひて、大なる声をあげて、泣き叫ぶと見て、
汗水になりて驚きて、明くるや遅きと、その料紙尋ね取りて、やがて三井寺に行きて、夢に見えつる僧のもとへ行きたれば、僧見つけて、「嬉しき事かな。ただ今人を参らせん、みづからにても参りて申さんと思ふ事のありつるに、かくおはしましたる事の嬉しさ」と言へば、
まづ我が見つる夢をば語らで、「何事ぞ」と問へば、「今宵の夢に、故敏行朝臣の見え給へるなり。四巻経書き奉るべかりしを、心の怠りに、え書き供養し奉らずなりにしその罪によりて、きはまりなき苦を受くるを、その料紙は御前のもとになん。その紙尋ね取りて、四巻経書き供養奉れ。事のやうは、御前に問ひ奉れとありつる。大きなる声を放ちて、叫び泣き給ふと見つる」と語るに、あはれなる事おろかならず。
さし向ひて、さめざめと二人泣きて、「我もしかじか夢を見て、その紙を尋ね取りて、ここにもちて侍り」と言ひて取らするに、いみじうあはれがりて、手づからみづから書き、供養し奉りて後、また二人が夢に、この功徳によりて、堪へ難き苦少し免れたる由、心地よげにて、形もはじめには変はりて、よかりけりとなん見ける。
これも今は昔、東大寺に恒例の大法会あり。華厳会とぞいふ。大仏殿の内に高座を立てて、講師上りて、堂の後よりかい消つやうにして、逃げて出でつるなり。
古老の伝へていはく、「御寺建立のはじめ、鯖を売る翁来たる。ここに本願の上皇召しとどめて、大会の講師とす。売る所の鯖を経机にし置く。変じて八十華厳経となる。即ち講説の間、梵語をさへづる。法会の中間に、高座にしてたちまち失せをはりぬ。」
またいはく、「鯖を売る翁、杖を持ちて鯖を担ふ。その鯖の数八十、則ち変じて八十華厳経となる。」
件の杖の木、大仏殿の内、東回廊の前に突き立つ。たちまちに枝葉をなす。これ白榛の木なり。今伽藍の栄え衰へんとするに従ひて、この木栄え、枯ると言ふ。
かの会の講師、この頃までも、中間に高座よりおりて、後戸よりかい消つやうにして出づる事、これを学ぶなり。
この鯖の杖の木、三四十年がさきまでは、葉は青くて栄えたり。その後、なほ枯木にて立てりしが、この度平家の炎上に焼けをはりぬ。世の末の仕儀口惜しかりけり。
昔、愛宕の山に、久しく行ふ聖ありけり。年ごろ行ひて、坊を出づる事なし。西の方に猟師あり。この聖を貴みて、常にはまうでて、物奉りなどしけり。久しく参りざりければ、餌袋に干飯など入れて、まうでたり。
聖悦びて、日ごろのおぼつかなさなど宣ふ。その中に、居寄りて宣ふやうは、「この程いみじく貴き事あり。この年ごろ、他念なく経をたもち奉りてある験やらん、この夜比、普賢菩薩象に乗りて見え給ふ。今宵とどまりて拝み給へ」と言ひければ、この猟師、「世に貴き事にこそ候ふなれ。さらば泊りて拝み奉らん」とてとどまりぬ。
さて聖の使ふ童のあるに問ふ、「聖宣ふやう、いかなる事ぞや。おのれも、この仏をば拝み参らせたりや」と問へば、童は、「五六度ぞ見奉りて候ふ」といふに、猟師、我も見奉る事もやあるとて、聖の後に、いねもせずして起き居たり。
九月二十日の事なれば、夜も長し。今や今やと待つに、夜半過ぎぬらんと思ふほどに、東の山の嶺より、月の出づるやうに見えて、嶺の嵐もすさまじきに、この坊の内、光さしいりたるようにて明かくなりぬ。見れば、普賢菩薩象に乗りて、やうやうおはして、坊の前に立ち給へり。
聖泣く泣く拝みて、「いかに、ぬし殿は拝み奉るや」と言ひければ、「いかがは。この童も拝み奉る。をいをい、いみじう貴し」とて、猟師思ふやう、聖は年ごろ経をもたもち読み給へばこそ、その目ばかりに見え給はめ、この童、我が身などは、経の向きたる方も知らぬに、見え給へるは、心得られぬ事なりと、心のうちに思ひて、この事試みてん、これ罪得べき事にあらずと思ひて、尖矢を弓につがひて、聖の拝み入りたる上よりさし越して、弓を強く引きて、ひやうと射たりければ、御胸の程に当るやうにて、火を打ち消つごとくにて、光も失せぬ。谷へとどろめきて、逃げ行く音す。
聖、「これはいかにし給へるぞ」と言ひて、泣き惑ふこと限りなし。男申しけるは、「聖の目にこそ見え給はめ、我が罪深き者の目に見え給へば、試み奉らんと思ひて、射つるなり。実の仏ならば、よも矢は立ち給はじ。されば怪しき物なり」といひけり。
夜明けて、血をとめて行きて見ければ、一町ばかり行きて、谷の底に大なる狸、胸より尖矢を射通されて、死して伏せりけり。
聖なれど、無智なれば、かやうに化されけるなり。猟師なれども、慮ありければ、狸を射害し、その化をあらはしけるなり。
昔、山の西塔千手院に住み給ひける静観僧正と申しける座主、夜更けて、尊勝陀羅尼を、夜もすがらみて明かして、年ごろになり給ひぬ。
きく人もいみじく貴みけり。陽勝仙人と申す仙人、空を飛びて、この坊の上を過ぎけるが、この陀羅尼の声を聞きて、おりて、高欄のほこ木のうへにゐ給ひぬ。
僧正、あやしと思ひて、問ひ給ひければ、蚊の声のやうなる声して、「陽勝仙人にて候ふなり。空をす過ぎ候ひつるが、尊勝陀羅尼の声を承りて参り侍るなり」と宣ひければ、戸を明けて請ぜられければ、飛び入りて、前にゐ給ひぬ。
年ごろの物語して、「今はまかりなん」とて立ちけるが、人気におされて、え立たざりければ、「香爐の煙を近く寄せ給へ」と宣ひければ、僧正、香爐をちかくさしよせ給ひける。その煙にのりて、空へのぼりにけり。この僧正は、年をへて、香爐をさしあげて、煙をたててぞおはしける。
この仙人は、もとつかひ給ひける僧の、行ひして失せにけるを、年ごろあやしとおぼしけるに、かくして参りたりければ、あはれあはれとおぼしてぞ、常に泣き給ひける。
昔、陽成院位にておはしましける時、滝口道則、宣旨を承りて陸奥へ下る間、信濃国ひくにといふ所に宿りぬ。群の司に宿をとれり。まうけしてもてなして後、あるじの郡司は郎等引具して出でぬ。
いも寝られざりければ、やはらに起きてただずみ歩くに、見れば、屏風を立てまはして、畳など清げに敷き、火ともして、よろづ目安きやうにしつらひたり。空薫物するやらんと、かうばしき香しけり。
いよいよ心にくくおぼえて、よくのぞきて見れば、年二十七八ばかりなる女一人ありけり。見めことがら、姿有様、ことにいみじかりけるが、ただ一人臥したり。見るままに、ただあるべき心地せず。あたりに人もなし。火は几帳の外にともしてあれば、明かくあり。
さて、この道則思ふやう、「よによにねんごろにもてなして、心ざしありつる郡司の妻を、うしろめたなき心つかはん事、いとほしけれど、この人の有様を見るに、ただあらむことかなはじ」と思ひて、寄りて傍らに臥すに、女、けにくくも驚かず、口おほひをして、笑ひ臥したり。
いはん方なく嬉しくおぼければ、長月十日ごろなれば、衣もあまた着ず、一かさねばかり男も女も着たり。かうばしき事限りなし。我が衣をば脱ぎて女の懐に入るに、しばしは引きふたぐやうにしけれども、あながちにけくからず、懐に入りぬ。
男の前のかゆきやうなりければ、さぐりてみるに、物なし。驚きあやしみてよくよく探れども、頤の鬚をさぐるやうにて、すべて跡形たなし。
大きに驚きて、この女のめでたげなるも忘られぬ。この男の、探りてあやしみくるめくに、女すこしほほ笑みてありければ、いよいよ心得ずおぼえて、やはら起きて、わが寝所へ帰りて探るに、さらになし。
あさましくなりて、近くつかふ郎等をよびよせて、かかるとは言はで、「ここにめでたき女あり。我も行きたりつるなり」と言へば、悦びて、この男いぬれば、しばしありて、よによにあさましげにてこの男出で来たれば、これもさるなめりと思ひて、また異男をすすめてやりつ。これもまたしばしありて出で来ぬ。空をあふぎて、よに心得ぬけしきにて帰りてけり。かくのごとく七八人まで郎等をやるに、同じ気色に見ゆ。
かくするほどに、夜も明けぬれば、道則思ふやう、宵にあるじのいみじうもてなしつるを、うれしと思ひつれども、かく心得ずあさましき事のあれば、とく出でんと思ひて、いまだ明け果てざるに急ぎて出でれば、七八町行くほどに、うしろより呼ばひて馬を馳せて来る者あり。走りつきて、白き紙に包みたる物をさしあげて持て来。馬を引へて待てば、ありつる宿に通ひしつる郎等なり。
「これは何ぞ」と問へば、「この郡司の参らせよと候ふ物にて候ふ。かかる物をば、いかで捨てておはし候ふぞ。形のごとく御まうけして候へども、御いそぎに、これをさへ落させ給ひてけり。されば、拾い集めて参らせ候ふ」と言へば、「いで、何ぞ」とて取りて見れば、松茸を包み集めたるやうにてある物九つあり。
あさましくおぼえて、八人の郎等どももあやしみをなして見るに、まことに九つの物あり。一度にさつと失せぬ。さて、使はやがて馬を馳せて帰りぬ。その折、我が身よりはじめて郎等ども、皆「ありあり」といひけり。
さて奥州にて金うけ取りて帰る時、また、信濃のありし郡司のもとへ行きて宿りぬ。
さて郡司に金、馬、鷲羽など多く取らす。郡司、世に世に悦びて、「これは、いかにおぼして、かくはし給ふぞ」と言ひければ、近くに寄りていふ様、「かたはらいたき申し事なれども、はじめこれに参りて候ひし時、あやしき事の候ひしはいかなることにか」といふに、郡司、物を多く得てありければ、さりがたく思ひて、ありのままにいふ。
「それは、若く候ひし時、この国の奥の郡に候ひし郡司の、年寄りて候ひしが、妻の若く候ひしに、忍びてまかり寄りて候ひしかば、かくのごとく失ひてありしに、あやしく思ひて、その郡司にねんごろに心ざしをつくして、習ひて候ふなり。もし習はんとおぼしめさば、この度はおほやけの御使なり。すみやかに上り給ひて、また、わざと下り給ひて習ひ給へ」と言ひければ、その契りをなして上りて、金など参らせて、また暇を申して下りぬ。
郡司に、さるべき物など持ちて下りて、取らすれば、郡司、大きに悦びて、心の及ばん限りは教へんと思ひて、「これは、おぼろけの心にて習ふ事にては候はず。七日、水を浴み、精進をして習ふ事なり」と言ふ。
そのままに、清まはりて、その日になりて、ただ二人つれて、深き山に入りぬ。大きなる川の流るるほとりに行きて、様々の事どもを、えもいはず罪深き誓言どもたてさせけり。さて、かの郡司は水上へ入りぬ。「その川上より流れ来ん物を、いかにもいかにも、鬼にてもあれ、何にてもあれ、抱け」と言ひて行きぬ。
しばしばかりありて、水上の方より、雨降り風吹きて、暗くなり、水まさる。しばしありて、川より頭一抱きばかりなる大蛇の、目は金まりを入たるやうにて、背中は青く、紺青をぬりたるやうに、首の下は紅のやうにて見ゆるに、「まづ来ん物を抱け」と言ひつれども、せん方なく恐ろしくて、草の中に臥しぬ。しばしありて、郡司来りて、「いかに。取り給ひつや」と言ひければ、「かうかうおぼえつれば、取らぬなり」と言ひければ、「よく口惜しき事。さては、この事はえ習ひ給はじ」と言ひて、「今一度こころみん」と言ひて、また入りぬ。
しばしばかりありて、やをばかりなる猪のししの出で来て、石をはらはらとくだけば、火きらきらと出づ。毛をいららかして走りてかかる。せん方なく恐ろしけれども、これをさへと思ひきりて、走り寄りて抱きて見れば、朽木の三尺ばかりあるを抱きたり。ねたく、くやしき事限りなし。
「はじめのも、かかる物にてこそありけれ。などか抱かざりけん」と思ふほどに、郡司来りぬ。「いかに」と問へば、「かうかう」と言ひければ、「前の物失ひ給ふ事は、え習ひ給はずなりぬ。さて、異事のはかなき物ををものになす事は、習はれぬめり。されば、それを教へん」とて教へられて帰り上りぬ。口惜しき事限りなし。
大内に参りて、滝口どものはきたる沓どもを、あらがひをして皆犬子になして走らせ、古き藁沓を三尺ばかりなる鯉になして、台盤の上におどらす事などをしけり。
帝、このよしを聞こしめして、黒戸の方に召して、習はせ給ひけり。御几帳の上より賀茂祭など渡し給ひけり。
昔、唐土に宝志和尚といふ聖あり。いみじく尊くおはしければ、帝、「かの聖の姿を、影に書きとらん」とて、絵師三人をつかはして、「もし一人しては、書たがゆる事もあり」とて、三人して、面々にうつすべきよし仰せ含められて、つかはさせ給ふに、
三人の絵師、聖のもとへ参りて、かく宣旨を蒙りてまうでたるよし申しければ、「しばし」と言ひて、法服の装束して出で合ひ給へるを、三人の絵師、おのおの書くべき絹をひろげて、三人ならびて筆をくださんとするに、聖「しばらく。我がまことの影あり。それを見て書きうつすべし」とありければ、絵師、左右なく書かずして、聖の御影をみれば、大ゆびのつめにて、額の皮をさしきりて、皮を左右へ引きのけてあるより、金色の菩薩の、かほをさし出たり。
一人の絵師は、十一面観音とみる。一人の絵師は、聖観音と拝み奉る。おのおの見るままにうつし奉りて、持て参りたりければ、帝おどろき給ひて、別の使を給ひて、問はせ給ふに、かい消つやうにして失せ給ひぬ。それよりぞ「ただ人にてはおはせざりけり」と申し合へりける。
越前国に敦賀といふ所にすみける人ありけり。とかくして、身ひとつばかり、わびしからで過ぐしけり。女一人よりほかに、また子もなかりければ、このむすめぞ、またなきものに、かなしくしける。
「この女を、我があらん折、たのもしく見置かん」とて、男あはせけれど、男もたまらざりければ、これやこれやと、四五人まではあはせけれども、なほたまらざりければ、思ひわびて、のちにはあはせざりけり。
ゐたる家のうしろに、堂をたてて、「この女たすけ給へ」とて、観音を据ゑ奉りける。供養し奉りなどして、いくばくも経ぬほどに、父うせにけり。それだに思ひ嘆くに、引きつづくやうに、母も失せにければ、泣き悲しめども、いふかひもなし。
知る所などもなくて、かまへて世を過ぐしければ、やもめなる女一人あらむには、いかにしてか、はかばかしきことあらん。親の物のすこしありけるほどは、使はるる者、四五人ありけれども、物失せ果ててければ、使はるる者、一人もなかりけり。
物食ふこと難くなりなどして、おのづから求めいでたる折は、手づからいふばかりにして食ひては、「我が親の思ひしかひありて、助け給へ」と、観音に向かひ奉りて、なくなく申しゐたるほどに、夢に見るやう、この後ろの堂より、老いたる僧の来て、「いみじういとほしければ、男あはせんと思ひて、呼びにやりたれば、明日ぞここに来つかんずる。それが言はんにしたがひてあるべきなり」と、宣ふとみて、覚めぬ。
この仏の助け給ふべきなめりと思ひて、水うち浴みて参りて、泣く泣く申して、夢を頼みて、その人を待つとて、うち掃きなどしてゐたり。家は大きに造りたりければ、親失せて後は、住みつき、あるべかしき事なけれど、屋ばかりは大きなりたければ、かたすみにぞゐたりける。敷くべき筵だになかりけり。
かかるほどに、その日の夕方になりて、馬の足音どもして、あまた入りくるに、人、そと覗きなどするを見れば、旅人の宿借るなりけり。「すみやかにゐよ」と言へば、みな入りきて「ここよかりけり。家広し。いかにぞやなど、物言ふべきあるじもなくて、我がままにも宿りいるかな」など言ひあたり。
覗きてみれば、あるじは三十ばかりなる男の、いと清げなるなり。郎等二三十人ばかりある、下種などとり具して、七八十人ばかりあらんとぞみゆる。ただゐにゐるに、筵、畳を取らせばやと思へども、はずかしと思ひてゐたるに、皮籠筵を乞ひて、皮に重ねて敷きて、幕引きまはしてゐぬ。
そそめくほどに、日も暮れぬれども、物食ふとも見えぬは、物のなきにやあらんとぞ見ゆる。物あらば取らせてましと思ひゐたるほどに、夜うちふけて、この旅人のけはひにて、「このおはします人、寄らせ給へ。物申さん」と言へば、「何ごとにか侍らん」とて、いざり寄りたるを、何のさはりもなければ、ふと入り来て控へつ。「こはいかに」と言へど、言はすべきもなきにあはせて、夢に見し事もありしかば、とかく思ひ言ふべきにもあらず。
この男は、美濃国に猛将ありけり、それがひとり子にて、その親失せにければ、よろづの物受け伝へて、親にもおとらぬ者にてありけるが、思ひける妻におくれて、やもめにてありけるを、これかれ、聟にとらんといふ者、あまたありけれども、ありし妻に似たらん人をと思ひて、やもめにて過ぐしけるが、若狭に沙汰すべきことありて行くなりけり。
昼宿り入るほどに、かたすみにゐたる所も、何の隠れもなかりければ、いかなる者のゐたるぞと、覗きて見るに、ただありし妻のありけるとおぼえければ、目もくれ、心もさわぎて、「いつしか、疾く暮れよかし。近からんけしきも試みん」とて、入り来たるなりけり。
ものうち言ひたるよりはじめ、つゆ違ふ所なかりければ、「あさましく、かかりけることもありけり」とて、「若狭へと思ひたたざらましかば、この人を見ましやは」と、うれしき旅にぞありける。
若狭にも十日ばかりあるべかりけれども、この人のうしろめたさに、「あけば行きて、またの日帰るべきぞ」と、返す返す契りおきて、寒げなりければ、衣も着せ置き、郎等四五人ばかり、それが従者などとり具して、二十人ばかりの人あるに、物食はすべきやうもなく、馬に草食はすべきやうもなかりければ、いかにせましと、思ひ嘆きけるほどに、
親の御厨子所に使ひける女の、ありとばかりは聞きけれども、来通ふこともなくて、よき男して、事かなひてありとばかりは聞きわたりけるが、思ひもかけぬに来たりけるが、誰にかあらんと思ひて、「いかなる人の来たるぞ」と問ひければ、「あな心うや。御覧じ知られぬは、我が身の咎にこそ候へ。おのれは故上のおはしましし折、御厨子所仕り候ひし者のむすめに候ふ。年ごろ、いかで参らんなど思ひて過ぎ候ふを、今日は、よろづを捨てて参り候ひつるなり。
かく便りなくおはしますとならば、あやしくとも、ゐて候ふ所にもおはしまし通ひて、四五日づつもおはしませかし。心ざしは思ひ奉れども、よそながらは、明け暮れとぶらひ奉らんことも、おろかなるやうに、思はれ奉りぬべければ」など、こまごまと語らひて、「この候ふ人々はいかなる人ぞ」と問へば、「ここに宿りたる人の、若狭へとていぬるが、明日、ここへ帰り着かんずれば、その程とて、このある者どもをとどめ置きていぬるに、これにも食ふべき物は具せざりけり。ここにも、食はすべき物もなきに、日は高くなれば、いとほしと思へども、すべきやうもなくてゐたるなり」と言へば、
「知りあつかひ奉るべき人にやおはしますらん」と言へば、「わざと、さは思はねど、ここに宿りたらん人の、物食はでゐたらんを、見過ぐさんも、うたてあるべう、また思ひ放つべきやうもなき人にてあるなり」と言へば、「さてはいと易きことなり。今日しも、かしこく参り候ひにけり。さらば、まかりて、さるべきさまにて参らん」とて、立ちていぬ。
いとほしかりつる事を、思ひかけぬ人の来て、頼もしげに言ひていぬるは、いとかくただ観音の導びかせ給ふなめりと思ひて、いとど手をすりて念じ奉るほどに、すなはち物ども持たせて来たりければ、食物どもなど多かり。馬の草まで、こしらへ持ちてきたり。いふ限りなく、うれしとおぼゆ。
この人々、もて饗応し、物食はせ、酒飲ませはてて、入り来たれば、「こはいかに。我が親の生き返りおはしたるなめり。とにかくにあさましくて、すべき方なく、いとほしかりつる恥を隠し給へること」と言ひて、悦び泣きければ、
女も、うち泣きていふやう、「年ごろも、いかでかおはしますらんと思ひ給へながら、世の中すぐし候ふ人は、心とたがふやうにて過ぎ候ひつるを、今日、かかる折に参りあひて、いかでか、おろかには思ひ参らせん。若狭へ越え給ひにけん人は、いつか帰りつき給はんぞ。御供人はいくらばかり候ふ」と問へば、
「いさ、まことにやあらん。明日の夕さり、ここに来べかんなる。ともには、このある者ども具して、七八十人ばかりぞありし」と言へば、「さては、その御まうけこそ、つかまつるべかんなれ」と言へば、「これだに、思ひかけずうれしきに、さきまでは、いかがあらん」と言ふ。「いかなることなりとも、今よりは、いかでか、つかまつらであらんずる」とて、たのもしく言ひ置きていぬ。
この人々の、夕さり、つとめての食物まで沙汰し置きたり。覚えなくあさましきままには、ただ観音を念じ奉るほどに、その日も暮れぬ。
またの日になりて、このある者ども「今日は殿おはしまさんずらんかし」と待ちたるに、申の時ばかりにぞ着きたる。つきたるや遅きと、この女、物ども多く持たせて来て、申しののしれば、もの頼もし。
この男、いつしか入きて、おぼつかなかりつる事など言ひ臥したり。暁はやがて具して行くべきよしなど言ふ。
いかなるべきことにかなど思へども、仏の「ただ任せられてあれ」と、夢に見えさせ給ひしを頼みて、ともかくも、言ふに従ひてあり。
この女、暁発たんずるまうけなどもしにやりて、急ぎくるめくがいとほしければ、何がな取らせんと思へども、取らすべき物なし。おのづから入る事もやあるとて、紅なる生絹の袴ぞ一あるを、これを取らせてんと思ひて、我は男の脱ぎたる生絹の袴をきて、この女を呼びよせて、「年ごろは、さる人あらんとだに知らざりつるに、思ひもかけぬ折しも来あひて、恥がましかりぬべかりつる事を、かくしつることの、この世ならずうれしきも、何につけてか知らせんと思へば、心ざしばかりにこれを」とて、取らすれば、
「あな心憂や。あやまりて人の見奉らせ給ふに、御さまなども心憂く侍れば、奉らんとこそ思ひ給ふるに、こは何しにか給はらん」とて、取らぬを、
「この年ごろも、さそふ水あらばと、思ひわたりつるに、思ひもかけず、『具していなん』と、この人の言へば、明日は知らねども、従ひなんずれば、形見ともし給へ」とて、なほ取らすれば、「御心ざしのほどは、返す返すもおろかには思ひ給ふまじけれども、かたみなど仰せらるるがかたじけなければ」とて、取りなんとするをも、ほどなき所なれば、この男、聞きふしたり。
鳥鳴きぬれば、急ぎ立ちて、この女のし置きたるもの食ひなどして、馬に鞍置き、引き出だして、乗せんとするほどに、「人の命しらねば、また拝み奉らぬやうもぞある」とて、旅装束しながら、手洗ひて、後ろの堂に参りて、観音を拝み奉らんとて、見奉るに、観音の御肩に、赤き物かかりたり。
あやしと思ひて見れば、この女に取らせし袴なりけり。こはいかに、この女と思ひつるは、さは、この観音の、せさせ給ふなりけりと思ふに、涙の、雨雫と降りて、忍ぶとすれど、伏しまろび泣くけしきを、男聞きつけて、あやしと思ひて、走り来て、「何事ぞ」と問ふに、泣くさま、おぼろけならず。
「いかなることのあるぞ」とて、見まはすに、観音の御肩に赤き袴かかりたり。これを見るに、「いかなることにかあらん」とて、ありさまを問へば、この女、思ひもかけず来て、しつるありさまを、こまかに語りて、「それにとらすと思ひつる袴の、この観音の御肩にかかりたるぞ」といほいもやらず、声を立てて泣けば、男も、空寝して聞きしに、女に取らせつる袴にこそあんなれと思ふが悲しくて、おなじやうに泣く。郎等どもも、物の心知りたるは、手をすり泣きけり。かくて、たて納め奉りて、美濃へ越えにけり。
その後、思ひかはして、また横目することなくてすみければ、子ども生みつづけなどして、この敦賀にも、つねに来通ひて、観音に返す返すつかうまつりけり。
ありし女は、「さる者やある」とて、近く遠く尋させけれども、さらにさる女なかりけり。それより後、またおとづるることもなかりければ、ひとへに、この観音のせさせ給へるなりけり。
この男女、たがひに七八十になるまで栄えて、男子、女子生みなどして、死の別れにぞ別れにける。
くうすけと言ひて、兵だつる法師ありき。親しかりし僧のもとにぞありし。
その法師の「仏を造り、供養し奉らばや」と、言ひわたりしかば、うち聞く人、仏師に物とらせて、つくり奉らんずるにこそと思ひて仏師を家に呼びたれば、「三尺の仏、造り奉らんとするなり。奉らんずる物どもはこれなり」とて、とり出でて見せければ、仏師、よきことと思ひて、取りて去なんとするに、
いふやう、「仏師に物奉りて、遅く作り奉れば、わが身も、腹だだしく思ふことも出でて、せめ言はれ給ふ仏師も、むつかしうなれば、功徳つくるもかひなくおぼゆるに、この物どもは、いとよき物どもなり。封つけてここに置き給ひて、やがて仏をもここにて造り給へ。仏造りいだし奉り給ひつらん日、皆ながら、取りてあはすべきなり」と言ひければ、
仏師、うるさきことかなとは思ひけれど、物おほく取らせたりければ、言ふままに、仏造り奉るほどに、「仏師のもとにて造り奉らまかしかば、そこにてこそは物は参らましか、ここにいまして、物食はんとやはた宣はまし」とて、物も食はせざりければ、「さる事なり」とて、我が家にて物うち食ひては、つとめて来て、一日造り奉りて、夜さりは帰りつつ、日ごろへて、つくり奉りて、
「この得んずる物をつのりて、人に物を借りて、漆塗らせ奉り、薄買ひどして、えもいはず造り奉らんとす。かく人に物を借るよりは、漆のあたひの程は、まづ得て、薄も着せ、漆塗りにも取らせん」といひけれども、「などかく宣ふぞ。はじめ、みな申したためたることにはあらずや。物はむれらかに得たるこそよけれ。こまごまに得んと宣ふ、わろき事なり」と言ひて、取らせねば、人に物をばかりたりけり。
かくて、造り果て奉りて、仏の御眼など入れ奉りて、「物得て帰らん」と言ひければ、いかにせましと思ひまはして、小女子どもの二人ありけるをば、「今日だに、この仏師に物して参らせん。何も取りて来」とて、出だしやりつ。我もまた、物取りて来んずるやうにて、太刀引きはきて、出でにけり。ただ、妻ひとり仏師に向かはせて置きたりけり。
仏師、仏の御眼入れはてて、男の僧帰りきたらば、物よく食ひて、封つけて置きたりしものども見て、家に持て行きて、その物は、かのことに使はん、かの物はそのことに使はんと、仕度し思ひけるほどに、
法師、こそこそとして入りくるままに、目をいからかして、「人の妻まく者ありやありや、をうをう」と言ひて、太刀をぬきて、仏師を斬らんとて、走りかかりければ、仏師、頭うち破られぬと思ひて、立ち走り逃げけるを、追ひつきて、斬りはづし斬りはづしつつ、追ひ逃がして言うやうは、「ねたき奴を逃がしつる。しや頭うち破らんと思ひつるものを。仏師はかならず人の妻やまきける。おれ、後に逢はざらんやは」とて、ねめかけて帰りにければ、
仏師、逃げのきて、息つきたちて、思ふやう、かしこく頭をうち破られずなりぬる、「後に逢はざらんやは」とねめずばこそ、腹の立つほど、かくしつるかとも思はめ、見え合はば、また「頭破らん」ともこそ言へ、千万の物、命にます物なしと思ひて、物の具をだに取らず、深く隠れにけり。薄、漆の料に物借りたりし人、使ひをつけてせめければ、仏師、とかくして返しけり。
かくて、くうすけ、「かしこき仏を造り奉りたる、いかで供養し奉らん」など言ひてければ、このことを聞きたる人々、笑ふものあり、憎むもありけるに、「よき日取りて、仏供養し奉らん」とて、主にもこひ、知りたる人にも物こひとりて、講師の前、人にあつらへさせなどして、その日になりて、講師呼びければ、来にけり。
おりて入るに、この法師、出で向かひて、土を掃きてゐたり。「こは、いかにし給ふことぞ」と言へば、「いかでかく仕らでは候はん」とて、名簿を書きて取らせたりければ、講師は、「思ひがけぬことなり」と言へば、「今日より後はつかうまつらんずれば、参らせ候ふなり」とて、よき馬を引き出だして、「異物は候はねば、この馬を、御布施には奉り候はんずるなり」と言ふ。
また、にび色なる絹の、いとよきを包みて、取り出だして、「これは、女の奉る御布施なり」とて見すれば、講師笑みまけて、よしと思ひたり。前の物まうけて据ゑたり。
講師食はむとするに、言ふやう、「まづ仏を供養して後、物をめすべきなり」と言ひければ、「さる事なり」とて、高座にのぼりぬ。布施よき物どもなりとて、講師、心に入れてしければ、聞く人も、尊がり、この法師も、はらはらと泣きけり。
講はてて、鐘打ちて、高座よりおりて、物食はんとするに、法師寄り来て言ふやう、手をすりて、「いみじく候ひつる物かな。今日よりは、長く頼み参らせんずるなり。つかうまつり人となりたれば、御まかりに候へば、御まかりたべ候ひなん」とて、箸をだに立てさせずして、取りて持ちて去ぬ。
これをだにあやしと思ふほどに、馬を引き出だして、「この馬、端乗りに給ひ候はん」とて、ひき返して去ぬ。衣を取りて来れば、さりとも、これは得させんずらむと思ふほどに、「冬そぶつに給ひ候はん」とて取りて、「さらば帰らせ給へ」と言ひければ、夢に富したるらん心地して、いでて去にけり。
異所に呼ぶありけれど、これはよき馬など布施にとらんせんとすと、かねて聞きければ、人のよぶ所にはいかずして、ここに来けるとぞ聞きし。かかりとも少しの功徳は得てんや。いかがあるべからん。
昔、兵藤大夫つねまさといふ者ありき。それは、筑前国山鹿の庄といひし所にすみし。
また、そこにあからさまにゐたる人ありけり。つねまさが郎等に、まさゆきとてありしをのこの、仏造り奉りて、供養し奉らんとすと聞き渡りて、つねまさがゐたる方に、物くひ、酒飲みののしるを、「こはなにごとするぞ」と言はすれば、「まさゆきといふものの、仏供養し奉らんとて、主のもとにかうつかうまつりたるを、かたへの郎等どもの、たべののしるなり。今日、饗百膳ばかりぞつかうまつる。明日、そこの御前の御料には、つねまさ、やがて具して参るべく候ふなる」と言へば、
「仏供養し奉る人は、かならず、かくやはする。」
「田舎のものは、仏供養し奉らんとて、かねて四五日より、かかることどもをし奉るなり。きのふ一昨日は、おにがわたくしに、里隣、わたくしのものども、よびあつめて候ひつる」と言へば、
「をかしかつる事かな」と言ひて、「明日を待つべきなめり」と言ひてやみぬ。
明けぬれば、いつしかと待ちゐたるほどに、つねまさ出できにたり。さなめりと思ふほどに、「いづら。これ参らせよ」と言ふ。さればよと思ふに、さることあしくもあらぬ饗一二膳ばかり据ゑつ。
雜色、女どもの料にいたるまで、かずおほく持てきたり。講師の御心みとて、こだいなる物据ゑたり。講師には、この旅なる人の具したる僧をせんとしたるなりけり。
かくて、物食ひ、酒飲みなどするほどに、この講師に請ぜられんずる僧のいふやうは、「あすの講師とは承れども、その仏を供養せんずるぞとこそ、え承らね。なに仏を供養し奉るにかあらん。仏はあまたおはしますなり。承りて、説経をもせばや」と言へば、
つねまさ聞きて、さることなりとて、「まさゆきや候ふ」と言へば、この仏供養し奉らんとするをのこなるべし、たけ高く、をせくみたる者、赤鬚にて、年五十ばかりなる、太刀はき、股貫はきて、出で来たり。
「こなたへ参れ」と言へば、庭中に参りてゐたるに、つねまさ、「かのまうとは、何仏を供養し奉らんずるぞ」と言へば、「いかでか知り奉らんずる」と言ふ。「とはいかに。たが知るべき。そもそも、異人の供養し奉るを、ただ供養のことの限りをするか」と問へば、「さも候はず。まさゆき丸が供養し奉るなり」と言ふ。「さては、いかでか、なに仏とは知り奉らぬぞ」と言へば、「仏師こそは知りて候ふらめ」と言ふ。
怪しけれど、げにさもあるらん、この男、仏の御名を忘れたるならんと思ひて、「その仏師はいづくにかある」と問へば、「ゑいめいぢに候ふ」と言へば、「さては近かんなり。呼べ」と言へば、この男帰り入りて、よびきたり。平面なる法師の、太りたるが、六十ばかりなるにてあり、ものに心得たるらんかしと見えず、出で来て、まさゆきにならびてゐたるに、「この僧は仏師か」と問へば、「さに候ふ」と言ふ。
「まさゆきが仏や造りたる」と問へば、「作り奉りたり」と言ふ。「幾頭作り奉りたるぞ」と問へば、「五頭作り奉れり」と言ふ。「さて、それは何仏を作り奉りたるぞ」と問へば、「え知り候はず」と答ふ。「とはいかに。まさゆき『知らず』と言ふ。仏師知らずは、たが知らんぞ」と言へば、「仏師はいかで知り候はん。仏師の知るやうは候はず」と言へば、「さは、たが知るべきぞ」と言へば、「講師の御房こそ知らせ給はめ」と言ふ。「こはいかに」とて、集まりて笑ひののしれば、仏師は、腹立ちて、「物のやうだいも知らせ給はざりけり」とて、立ちぬ。
「こはいかなる事ぞ」とて尋ぬれば、はやう「ただ仏造り奉れ」と言へば、ただまろがしらにて、齋の神の冠もなきやうなる物を五頭きざみ立てて、供養し奉らん講師して、その仏、かの仏と名をつけ奉るなりけり。
それを問ひききて、をかしかりし中にも、同じ功徳にもなればと聞きし。
あやしの者どもこそ、かく希有の事どもをし侍けるなり。
今は昔、大隅守なる人、国の政をしたためおこなひ給ふあひだ、郡司のしどけなかりければ、「召しにやりて、いましめん」と言ひて、先々の様にしどけなきことありけるには、罪にまかせて、重く軽くいましむることありければ、一度にあらず、たびたび、しどけなきことあれば、重くいましめんとて、召すなりけり。
「ここに召して、率て参り足たり」と、人の申しければ、さきざきするやうに、し伏せて、尻頭にのぼりゐたる人、しもとをまうけて、打つべき人まうけて、さきに、人二人引きはりて、出で来たるを見れば、頭は黒髪もまじらず、いと白く、年老いたり。
見るに、打ぜんこといとほしく覚えければ、何事につけてか、これを許さんと思ふに、事つくべきことなし。過ちどもを、片端より問ふに、ただ老いを高家にていらへをる。
いかにして、これを許さんと思ひて、「おのれはいみじき盗人かな。歌詠みてんや」と言へば、「はかばかしからず候へども、よみ候ひなん」と申しければ、「さらばつかまつれ」といはれて、ほどもなく、わなな声にて、うち出だす。
♪13
年を経て 頭の雪は つもれども
しもと見るにぞ 身は冷えにける
と言ひければ、いみじうあはれがりて、感じて許しけり。
人はいかにもなさけはあるべし。
今は昔、奈良の大安寺の別当なりける僧の女のもとに、蔵人なりける人、忍びて通ふほどに、せめて思はしかりければ、時々は、昼もとまりけり。
ある時、昼寝したりける夢に、にはかに、この家の内に、上下の人、とよみて泣きあひけるを、いかなる事やらんと、あやしければ、立ち出て見れば、舅の僧、妻の尼公より始めて、ありとある人、みな大なる土器をささげて泣きけり。
いかなれば、この土器をささげて泣くやらんと思ひて、よくよく見れば銅の湯をを土器ごとに盛れり。打ちはりて、鬼の飲ませんにだにも、飲むべくもなき湯を、心と泣く泣く飲むなりけり。
からくして飲み果てつれば、また乞ひそへて飲む者もあり。下郎にたるまでも、飲まぬ者なし。
我がかたはらにふしたる君を、女房、来て呼ぶ。起きて去ぬるを、おぼつかなさにまた見れば、この女も、大きなる銀の土器に、銅の湯を、一土器入れて、女房取らすれば、この女取りて、細く、らうたげなる声をさしあげて、泣く泣く飲む。目鼻より、煙くゆり出づ。
あさましと見て立てるほどに、また、「まらうどに参らせよ」と言ひて、土器を台に据ゑて、女房持て来たり。我もかかる物を飲まんずるかと思ふに、あさましくて、まどふと思ふほどに、夢さめぬ。
おどろきて見れば、女房食ひ物をもて来たり。舅の方にも、物食ふ音してののしる。寺の物を食ふにこそあるらめ、それがかくは見ゆるなりと、ゆゆしく、心憂くおぼえて、女の思はしさも失せぬ。さて心地のあしきよしを言ひて、物も食はずして出でぬ。その後は、つひにかしこへ行かずなりにけり。
昔、博打の子の年若きが、目鼻一所にとり寄せたるやうにて、世の人にも似ぬありけり。ふたりの親、これいかにして世にあらせんずると思ひてありけるところに、長者の家にかしづく女のありけるに、顔よからん聟とらんと、母の求めけるを伝へ聞きて、「天の下の顔よしといふ人、聟にならんと宣ふ」と言ひければ、長者、よろこびて、「聟にとらん」とて、日をとりて契りてけり。その夜になりて、裝束など人に借りて、月は明かかりけれど、顔見えぬやうにもてなして、博打ども集まりてありければ、人々しくおぼえて、心にくく思ふ。
さて、夜々行くに、昼ゐるべきほどになりぬ。いかがせんと思ひめぐらして、博打一人、長者の家の天井に上りて、二人寝たる上の天井を、ひしひしと踏みならして、いかめしく恐ろしげなる声にて、「天の下の顔よし」と呼ぶ。
家の内の者ども、いかなることぞと聞きまどふ。聟、いみじくおぢて、「おのれをこそ、世の人、『天の下の顔よし』といふと聞け。いかなることならん」といふに、三度まで呼べば、いらへつ。
「これはいかにいらへつるぞ」と言へば、「心にもあらで、いらへつるなり」と言ふ。鬼のいふやう、「この家のむすめは、わが領じて三年になりぬるを、汝、いかに思ひて、かくは通ふぞ」と言ふ。「さる御事とも知らで、かよひ候ひつるなり。ただ御助け候へ」と言へば、鬼、「いといと憎きことなり。一言して帰らん。汝、命とかたちと、いづれか惜しき」と言ふ。聟、「いかがいらふべき」といふに、舅、姑、「何ぞの御かたちぞ。命だにおはせば。『ただかたちを』と宣へ」と言へば、教へのごとくいふに、鬼「さらば吸ふ吸ふ」と言ふ時に、聟、顔をかかへて、「あらあら」と言ひて、臥しまろぶ。鬼はあよび帰りぬ。
さて「顔はいかがなりたる、見ん」とて、紙燭をさして、人々見れば、目鼻ひとつ所にとり据ゑたるやうなり。聟は泣きて、「ただ、命とこそ申すべかりけれ。かかるかたちにて、世の中にありては何かせん。かからざりつるさきに、顔を一度見え奉らで、おほかたは、かく恐ろしきものに領ぜられたりける所に参りける、過ちなり」とかこちければ、
舅、いとほしと思ひて、「このかはりには、我が持ちたる宝を奉らん」と言ひて、めでたくかしづきければ、嬉しくてぞありける。
「所の悪しきか」とて、別によき家を造りてすませければ、いみじくてぞありける。
今は昔、水の尾の帝の御時に、応天門焼けぬ。人のつけたるになんありける。
それを、伴善男といふ大納言、「これは信の大臣のしわざなり」と、おほやけに申しければ、その大臣を罪せんとせさせ給ひけるに、忠仁公、世の政は、御弟の西三条の右大臣にゆづりて、白川にこもりゐ給へる時にて、この事を聞きおどろき給ひて、御烏帽子、直垂ながら、移しの馬に乗り給ひて、乗りながら北の陣までおはして、御前に参り給ひて、「このこと、申す人の讒言にも侍らん。大事になさせ給ふ事、いと異様のことなり。かかる事は、返すがへすよくただして、まこと、そらごとをあらはして、行はせ給ふべきなり」と奏し給ひければ、
まことにも、とおぼしめして、たださせ給ふに、一定もなきことなれば、「許し給ふよし仰せよ」とある宣旨承りてぞ、大臣は帰り給ひける。
左の大臣は、過ぐしたる事もなきに、かかる横ざまの罪にあたるを、おぼし嘆きて、日の裝束して、庭に荒薦を敷きて出でて、天道に訴へ申し給ひけるに、許し給ふ御使に、頭中将、馬に乗りながら、はせまうでければ、いそぎ罪せらるる使ぞと心得て、ひと家なきののしるに、許し給ふよし仰せかけて帰りぬれば、また、よろこび泣きおびただしかりけり。
ゆるされ給ひにけれど、「おほやけにつかまつりては、横ざまの罪出で来ぬべかりけり」と言ひて、ことに、もとのやうに、宮づかへもし給はざりけり。
このことは、過ぎにし秋の頃右兵衛の舎人なる者、東の七条に住みけるが、司に参りて、夜更けて、家に帰るとて、応天門の前を通りけるに、人のけはひしてささめく。
廊の腋にかくれ立ちて見れば、柱よりかかぐりおるる者あり。
あやしくて見れば伴大納言なり。次に子なる人おる。また次に、雑色とよ清といふ者おる。
何わざして、おるるにかあらんと、つゆ心も得でみるに、この三人、走ること限りなし。
南の朱雀門ざまに行くほどに、二条堀川のほど行くに、「大内のかたに火あり」とて、大路ののしる。
見かへりてみれば、内裏の方と見ゆ。
走り帰りたれば、応天門のなからばかり、燃えたるなりけり。
このありつる人どもは、この火つくるとて、のぼりたりけるなりと心得てあれども、人のきはめたる大事なれば、あへて口より外にいださず。
その後、左の大臣のし給へる事とて、「罪かうぶり給ふべし」といひののしる。あはれ、したる人のあるものを、いみじきことかなと思へど、いひいだすべき事ならねば、いとほしと思ひありくに、「大臣ゆるされぬ」と聞けば、罪なきことは遂にのがるるものなりけりとなん思ひける。
かくて九月ばかりになりぬ。かかるほどに、伴大納言の出納も家の幼き子と、舎人が小童といさかひをして、出納ののしれば、出でて取りさへんとするに、この出納、同じく出でて、見るに、寄りて引きはなちて、我が子をば家に入りて、この舎人が子の髪を取りて、打ち伏せて、死ぬばかり踏む。
舎人思ふやう、わが子もひとの子も、ともに童部いさかひなり、たださではあらで、わが子をしもかく情なくふむは、いと悪しき事なりと腹だたしうて、「まうとは、いかで情なく、幼きものをかくはするぞ」と言へば、出納言いふやう、「おれは何事言ふぞ。舎人だつる、おればかりのおほやけ人を、わが打ちたらんに、何事のあるべきぞ。わが君大納言殿のおはしませば、いみじき過ちをしたりとも、何事の出で来べきぞ。しれごと言ふかたゐかな」といふに、
舎人、おほきに腹立ちて、「おれは何事言ふぞ。わが主の大納言を高家に思ふか。おのが主は、我が口によりて人にてもおはするは知らぬか。わが口あけては、をのが主は人にてありなんや」と言ひければ、出納は腹だちさして家にはひ入りにけり。
このいさかひを見るとて、里隣の人、市をなして聞きければ、いかに言ふことにかあらんと思ひて、あるは妻子に語り、あるは次々語り散らして、言ひさわぎければ、世に広ごりて、おほやけまで聞こしめして、舎人を召して問はれければ、はじめはあらがひけれども、われも罪かうぶりぬべく問はれければ、ありのくだりのことを申してけり。
その後、大納言も問はれなどして、事顕はれての後なん流されける。
応天門を焼きて、信の大臣に負ほせて、かの大臣を罪せさせて、一の大納言なれば、大臣にならんと構へけることの、かへりてわが身罪せられけん、いかにくやかりけん。
これも今は昔、放鷹楽といふ楽を、明暹已講、ただ一人習ひ伝へたりけり。
白河院野行幸、明後日といひけるに、山階寺の三面の僧坊にありけるが、「今宵は門なさしそ。尋ぬる人あらんものか」と言ひて待ちけるが、案のごとく、入り来たる人あり。
これを問ふに、「是季なり」と言ふ。
「放鷹楽習ひにか」と言ひければ、「然なり」と答ふ。すなはち坊中に入れて、件の楽を伝へけり。
これも今は昔、堀河院の御時、奈良の僧どもを召して、大般若の御読経行はれけるに、明暹この中に参る。
その時に、主上御笛を遊ばしけるが、やうやうに調子を変へて、吹かせ給ひけるに、明暹、調子ごとに、声違へず上げければ、主上怪しみ給ひて、この僧を召しければ、明暹ひざまづきて庭に候ふ。
仰せによりて、上りて簀子に候ふに、「笛や吹く」と問はせおはしませければ、「かたのごとく仕り候ふ」と申しければ、「さればこそ」とて、御笛賜びて吹かせられけるに、万歳楽をえもいはず吹きたりければ、御感ありて、やがてその笛を賜びてけり。
件の笛伝はりて、今八幡別当幸清がもとにありとか。
(件笛幸精進上当今建保三年也。)
これも今は昔、天暦のころほひ、浄蔵が八坂の坊に、強盗その数入り乱れたり。
然るに火をともし、太刀を抜き、目を見張りて、おのおの立ちすくみて、さらにする事なし。
かくて数刻を経。
夜やうやう明けんとする時、ここに浄蔵、本尊に啓白して、「早く許し遣はすべし」と申しけり。
その時に盗人ども、いたづらにて逃げ帰りけるとか。
今は昔、播磨の守公行が子に、佐大夫とて、五条わたりにし者は、この頃ある、顕宗といふ者の父なり。
その佐大夫は、阿波守さとなりが供に、阿波へ下りけるに、道にて死にけり。
その佐大夫は、河内前司といひし人の類にてぞありける。
その河内前司がもとに、あめまだらなる牛ありけり。
その牛を人の借りて、車かけて、淀へ遣りけるに、樋爪の橋にて、牛飼あしく遣りて、片輪を橋より落としたりけるに、引かれて車の橋より下に落ちけるを、車の落つると心得て、牛の踏み広ごりて立てりければ、鞅切れて、車は落ちてくだけにけり。
牛は一つ、橋の上にとどまりてぞありける。人も乗らぬ車なりければ、そこなはるる人もなかりけり。「えせ牛ならましかば、引かれて落ちて、牛もそこなはれまし。「いみじき牛の力かな」とて、その辺の人いひほめける。
かくて、この牛をいたはり飼ふほどに、この牛、いかにして失せたるといふことなくて、失せにけり。「こは、いかなることぞ」と、求めさわげどなし。
「離れて出でたるか」と、近くより遠くまで、尋ね求めさすれどもなければ、「いみじかりつる牛を失ひつる」と嘆くほどに、河内前司が夢に見るやう、この佐大夫が来たりければ、これは海に落ち入りて死にけると聞く人は、いかに来るにかと、思ひ思ひ出であひたりければ、
佐大夫が言ふやう、「我はこの丑寅の隅にあり。それより日に一度、樋爪の橋のもとにまかりて、苦をうけ侍るなり。それに、おのれが罪の深くて、身のきはめて重く侍れば、乗物のたへずして、徒よりまかるが苦しきに、この黄斑の御車牛の力の強くて、乗りて侍るに、いみじくと求めさせ給へば、いま五日ありて、六日と申さん巳の時ばかりには返し奉らん。いたくな求め給ひそ」と見て、さめにけり。「かかる夢をこそみつれ」と言ひて過ぎぬ。
その夢見つるより六日といふ巳の時ばかりに、そぞろにこの牛歩み入りたりけるが、いみじく大事したりげにて、苦しげに、舌垂れ、汗水にてぞ入り来たりける。
「この樋爪の橋にて、車落ち入り、牛はとまりたりける折なんどに行きあひて、力強き牛かなと見て、借りて乗りてありきけるにやありけんと思ひけるも恐ろしかりける」と、河内前司語りしなり。
今は昔、山陽道美作国に、中山、高野と申す神おはします。
高野は蛇、中山は猿丸にてなんおはする。
その神、年ごとの姿に、かならず生贄を奉る。
人の娘のかたちよく、髪長く、色白く、身なりをかしげに、姿らうたげなるをぞ、選び求めて、奉りける。
昔より今にいたるまで、その祭おこたり侍らず。
それに、ある人の女、生贄にさしあてられにけり。親ども泣き悲しむこと限りなし。
人の親子となることは、さきの世の契りなりければ、あやしきをだにも、おろかにやは思ふ。
まして、よろづにめでたければ、身にも増さりておろかならず思へども、さりとて、のがるべからねば、なげきながら月日を過ぐすほどに、やうやう命つづまるを、親子とあひ見んこと、いまいくばくならずと思ふにつけて、日を数へて、明け暮れは、ただねをのみ泣く。
かかるほどに東の人の、狩といふ事をのみ役として、猪のししといふものの、腹だちしかりたるは、いと恐ろしきものなり、それをだに、なにとも思ひたらず、心にまかせて、殺しとり食ふことを役とする者の、いみじう身の力つよく、心たけく、むくつけき荒武者の、おのづから出できて、そのわたりにたちめぐるほどに、この女の父母のもとに来にけり。
物語するついでに、女の父のいふやう、「おのれ、女のただひとり侍るをなん、かうかうの生贄にさしあてられ侍りけり。さきの世にいかなる罪をつくりて、この国に生まれてかかる目を見侍るらん。かの女子も、『心にもあらず、あさましき死をし侍りなんずるかな』と申す。いとあはれにかなしう侍るなり。さるは、おのれが女とも申さじ、いみじううつくしげに侍るなり」と言へば、
あづまの人「さてその人は、今は死に給ひなんずる人にこそはおはすれ。人は命にまさることなし。身のためにこそ、神もおそろしけれ。この度の生贄を出ださずして、その女君を、みづからにあづけ給ふべし。死に給はんことにこそおはすれ。いかでか、ただひとりもち奉り給へらん御女を、目の前に、いきながらなますにつくり、きりひろげさせては見給はん。ゆゆしかるべき事なり。さるめ見給はんもおなじ事なり。ただその君を我にあづけ給へ」とて、とらせつ。
かくてあづま人、この女のもとに行きてみれば、かたち、すがた、をかしげなり。愛敬めでたし。
物思ひたるすがたにて、よりふして、手習ひをするに、涙の、袖のう上へにかかりて濡れたり。
かかるほどに、人のけはひのすれば、髪を顔にふりかくるを見れば、髪もぬれ、顔もなみだにあらはれて、思ひいりたるさまなるに、人の来たれば、いとどつつましげに思ひたるけはひして、すこしそばむきたるすがた、まことにらうたげなり。
およそ、けだかく、しなじなしう、をかしげなること、田舎人の子といふべからず。東人、これをみるに、悲しきこと、いはん方なし。
されば、いかにもいかにも我が身なくならばなれ、ただこれにかはりなんと思ひて、この女の父母にいふやう、「思ひかまふ事こそ侍れ。もしこの君の御事によりて滅びなどし給はば、苦しとやおぼさるべき」と問へば、「このために、みづからは、いたづらにもならばなれ。更に苦しからず。生きても、なににかはし侍らんずる。ただおぼされんままに、いかにもいかにもし給へ」といらふれば、
「さらば、この御祭の御きよめするなりとて、しめ引きめぐらして、いかにもいかにも、人な寄せ給ひそ。また、これにみづから侍ると、な人にゆめゆめしらせ給ひそ」と言ふ。さて日ごろこもりゐて、この女房と思ひすむこといみじ。
かかるほどに、年ごろ山につかひならはしたる犬の、いみじき中にかしこきを、二つ選りて、それに、いきたる猿丸をとらへて、明け暮れは、やくやくと食ひころさせてならはす。
さらぬだに、猿丸と犬とはかたきなるに、いとかうのみならはせば、猿をみては躍りかかりて、食ひ殺す事限りなし。
さて明け暮れは、いらなき太刀を磨き、刀をとぎ、剣をまうけつつ、ただこの女の君とことぐさにするやう、「あはれ、先の世にいかなる契りをして、御命にかはりて、いたづらになり侍りなんとすらん。されど、御かはりと思へば、命は更に惜しからず。ただ別れ聞こえなんずと思ひ給ふるが、いと心ぼそく、あはれなる」などいへば、
女も「まことに、いかなる人のかくおはして、思ひものし給ふにか」と、言ひ続けられて、悲しうあはれなることいみじ。
さて過ぎ行くほどに、その祭りの日になりて、宮司よりはじめよろづの人々こぞり集まりて、迎へにののしり来て、新しき長櫃を、この女のゐたるところにさし入れて言ふやう、「例のやうに、これに入れて、その生贄出だされよ」と言へば、
この東人、「ただこのたびのことは、みづからの申さんままにし給へ」とて、この櫃にみそかに入り伏して、左右の側に、この犬どもを取り入れて言ふやう、「おのれら、この日ごろいたはり飼ひつるかひありて、このたびの我が命に変はれ、おのれらよ」と言ひて、かきなづれば、うちめきて、脇にかい寄りて、みな伏しぬ。また日ごろ、研ぎ磨きつる太刀、刀みな取り入れつ。
さて、櫃の蓋をおほひて、布して結ひて、封つけて、我が女を入れたるやうに思はせて、さし出だしたれば、鉾、榊、鈴、鏡をふり合はせて、先追ひののしりて、持て参るさま、いといみじ。
さて、女、これを聞くに、我にかはりてこの男のかくて去ぬるこそ、いとあはれなれと思ふに、また無為に事出で来ば、我が親たちいかにおはせんと、かたがたに嘆きゐたり。
されども、父母の言ふやうは、「身がためにこそ、神も仏も恐ろしけれ。死ぬる君のことなれば、今は恐ろしきこともなし。同じ事を、かくてをなくなりなん。今は滅びんとも苦しからず」と言ひゐたり。
かくて生贄を御社に持て参り、神主、祝詞いみじく申して、神の御前の戸をあけて、この長櫃をさし入れて、戸をもとのやうにさして、それより外の方に、宮司をはじめて、次々の司ども、次第にみな並びゐたり。
さるほどに、この櫃を刀の先して、みそかに穴をあけて、東人見ければ、まことにえもいはず大きなる猿の、たけ七八尺ばかりなる、顔と尻とは赤くして、むしり綿を着たるやうに、いらなく白きが、毛は生ひあがりたるさまにて、横座によりゐたり。
次々の猿ども、左右に二百ばかり並みゐて、様々に顔を赤くなし、眉をあげ、声声に鳴き叫びののしる。
いと大きなるまな板に、長やかなる包丁刀を具して置きたり。めぐりには、酢、酒、塩入りたる瓶どもなめりと見ゆる、あまた置きたり。
さて、しばしばかりあるほどに、この横座にゐたるを猿寄り来て、長櫃の結ひ緒をときて、蓋をあけんとすれば、次々の猿ども、みな寄らんとするほどに、この男、「犬ども食らへ、おのれ」と言へば、二つの犬躍り出でて、中に大きなる猿を食ひて、うち伏せて、ひき張りて、食ひ殺さんとするほどに、
この男髪を乱りて、櫃より躍り出でて、氷のやうなる刀を抜きて、その猿をまな板の上に引き伏せて、首に刀をあてて言ふやうは、「おのれが人の命を絶ち、そのししむらを食ひなどするものは、かくぞある。おのれら、承れ。たしかにしや首切りて、犬に飼ひてん」と言へば、顔を赤くなして、目をしばたたきて、歯をま白にくひ出して、目より血の涙を流して、まことにあさましき顔つきして、手をすり悲しめども、
さらに許さずして、「おのれが、そこばくのおほくの年ごろ、人の子どもをくひ、人の種を絶つかはりに、しや頭切りて捨てん事、ただ今にこそあれ。おのれが身、さらば、我を殺せ。更に苦しからず」といひながら、さすがに、首をばとみに切りやらず。さるほどに、この二つの犬どもに追はれて、おほくの猿ども、みな木のうへに逃げのぼり、まどひさわぎ、叫びののしるに、山もひびきて、地も返りぬべし。
かかるほどに、一人の神主に神憑きていふやう、「今日より後、さらにさらにこの生贄をせじ。長くとどめてん。人を殺すこと、懲りとも懲りぬ。命を絶つ事、今よりながくし侍らじ。また我をかくしつとて、この男とかくし、また今日の生贄にあたりつる人のゆかりを、れうじはづらはすべからず。あやまりて、その人の子孫の末々に至るまで、我、まもりとならん。ただとくとく、このたびの我が命を乞ひうけよ。いと悲し。我を助けよ」と宣へば、
宮司、神主よりはじめて、おほくの人ども、驚きをなして、みな社のうちに入り立ちて、さわぎあわてて、手をすりて、「理おのづからさぞ侍る。ただ御神に許し給へ。御神もよくぞ仰せらるる」といへども、この東人、「さな許されそ。人の命を絶ち殺す物なれば、きやつに、もののわびしさ知らさんと思ふなり。わが身こそあなれ。ただ殺されん、苦しからず」と言ひて、さらに許さず。
かかるほどに、この猿の首は、斬り放たれぬと見ゆれば、宮司も手惑ひして、まことにすべき方なければ、いみじき誓言どもをたてて、祈り申して、「今より後は、かかること、さらにさらにすべからず」など、神もいへば、「さらばよしよし。今より後は、かかることなせそ」と、言ひふくめて許しつ。さてそれより後は、すべて、人を生贄にせずなりにけり。
さてその男、家にかへりて、いみじう男女あひ思ひて、年ごろの妻夫になりて、過ぐしけり。男はもとより故ありける人の末なりければ、口惜しからぬさまにて侍りけり。その後は、その国に、猪、鹿をなん生贄にし侍りけるとぞ。
今は昔、柏原の帝の御子の五の御子にて、豊前の大君といふ人ありけり。
四位にて、司は刑部卿、大和守にてなんありける。
世の事をよく知り、心ばへすなほにて、おほやけの御政をも、よきあしきよく知りて、除目のあらんとても、先、国のあまたあきたる、望む人あるをも、国のほどにあてつつ、「その人は、その国の守にぞなさるらん。その人は、道理立てて望むともえならじ」など、国ごとにいひゐたりける事を、
人聞きて、除目の朝に、この大君の推し量りごとにいふ事は、つゆたがはねば、「この大君の推し量り除目かしこし」と言ひて、除目の前には、この大君の家にいき集ひてなん、「なりぬべし」といふ人は、手をすりて悦び、「えならじ」と言ふを聞きつる人々は、「なに事言ひをる古大君ぞ。さえの神祭りて、狂ふにこそあれ」など、つぶやきてなん帰りける。
「かくなるべし」といふ人のならで、不慮に、異人なりたるをば、「あしくなされたり」となん、世にはそしりける。されば、おほやけも、「豊前の大君は、いかが除目をば、いひける」となん、したしく候ふ人には、「ゆきて問へ」となん仰せられける。
これは、田村、水の尾などの御時になんありけるにや。
今は昔、円融院の御時、内裏焼けにければ、後院になんおはしましける。
殿上の台盤に人々あまた来て、物食ひけるに、蔵人貞高台盤に額を当てて、ねぶり入りて、いびきをするなめりと思ふに、やや暫しになれば、怪しと思ふほどに、台盤に額を当てて、喉をくつくつと、くつめくやうに鳴らせば、小野宮大臣殿、いまだ頭中将にておはしけるが、主殿司に、「その式部丞の寝様こそ心得ね。それ起こせ」と宣ひければ、主殿司寄りて起すに、すくみたるやうにて動かず。
怪しさにかい探りて、「はや死に給ひにたり。いみじきわざかな」と言ふを聞きて、ありとある殿上人、蔵人物も覚えず、物恐ろしかりければ、やがて向きたる方ざまに、みな走り散る。
頭中将、「さりとてあるべき事ならず。これ、諸司の下部召してかき出でよ」と行ひ給ふ。「いづ方の陣よりか出すべき」と申せば、「東の陣より出すべきなり」と宣ふを聞きて、内の人ある限、東の陣にかく出で行くを見んとて、つどひ集りたるほどに、違へて、西の陣より、殿上の畳ながらき出でて出でぬれば、人々も見ずなりぬ。
陣の口かき出づるほどに、父の三位来て、迎えへ去りぬ。「かしこく、人々に見あはずなりぬるものかな」となん人々いひける。
さて二十日ばかりありて、頭中将の夢に、ありしやうにて、いみじう泣きて、寄りて物をいふ。聞けば、「いと嬉しく、おのれが死の恥を隠させ給ひたる事は、世々に忘れ申すまじ。はかりごちて、西より出させ給はざらましかば、多くの人に面をこそは見えて、死の恥にて候はましか」とて、泣く泣く手を摺りて悦ぶとなん、夢に見えりるける。
今は昔、主計頭小槻当平といふ人ありけり。
その子に算博士なるものあり。名は茂助となんいひける。
主計頭忠臣が父、淡路守大夫史奉親が祖父なり。
生きたらば、やんごとなくなりぬべきものなれば、いかでなくもなりなん。
これが出でたちなば、主計頭、主税頭、助、大夫史には、異人はきしろふべきやうもなかんめり。
なりつたはりたる職なるうへに、才かしこく、心ばへもうるせかりければ、六位ながら、世のおぼえ、やうやう聞こえ高くなりもてゆけば、なくてもありなんと思ふ人もあるに、この人の家にさとしをしたりければ、その時陰陽師に物を問ふに、いみじく重くつつしむべき日どもを書き出でて、とらせたりければ、そのままに、門を強くさして、物忌みして居たるに、
敵の人、隠れて、陰陽師に、死ぬべきわざどもをせさせければ、そのまじわざする陰陽師のいはく、「物忌みしてゐたるは、つつしむべき日にこそあらめ。その日のろひ合はせばぞ、しるしあるべき。されば、おのれを具して、その家におはして、よび出で給へ。門は物忌みならばよもあけじ。ただ声をだに聞きてば、かならずのろふしるしありなん」と言ひければ、陰陽師を具して、それが家にいきて、門をおびただしくたたきければ、下種いきでて、「たそ。この門たたくは」と言ひければ、「それがしが、とみのことにて参れるなり。いみじきかたき物忌なりとも、ほそめにあけて入れ給へ。大切のことなり」といはすれば、
この下種男、帰り入りて、「かくなん」と言へば、「いとわりなきことなり。世にある人の、身思はぬやはある。え入れ奉らじ。さらに不用なり。とく帰り給ひね」といはすれば、また言ふやう、「さらば、門をばあけ給はずども、その遣戸から顔をさし出で給へ。みづから聞こえん」と言へば、死ぬべき宿世にやありけん。
「何ごとども」とて、遣戸から顔をさしいでたりければ、陰陽師は、声を聞き、顔をみて、すべきかぎりのろひつ。このあはんといふ人は、いみじき大事いはんといひつれども、いふべきこともおぼえねば、「ただ今、田舎へまかれば、そのよし申さむと思ひて、まうで来つるなり。はや入り給ひね」と言へば、「大事にもあらざりけることにより、かく人を呼び出て、物もおぼえぬ主かな」と言ひて入りぬ。それよりやがて、かしらいたくなりて、三日といふに死にけり。
されば、物忌には、声たかく、餘所の人にはあふまじきなり。かやうにまじわざする人のためには、それにつけて、かかるわざをすれば、いと恐ろしき事なり。さて、そのろひごとせさせし人も、いくほどなくて、殃にあひて、しにけりとぞ。「身に負ひけるにや。あさましき事なり」となん人のかたりし。
今は昔、摂津国にいみじく老いたる入道の、行ひうちしてありけるが、人の「海賊にあひたり」といふ物語するついでにいふやう、「我は、若かりし折は、まことにたのもしくてありし身なり。着るもの、食物に飽きみちて、明暮海にうかびて、世をば過ぐししなり。淡路の六郎追捕使となんいひし。それに、安藝の嶋にて、異舟もことになかりしに、船一艘、ちかくこぎよす。見れば、二十五六ばかりの男の、清げなるぞ、主とおぼしくてある。さては若き男二三人ばかりにて、わづかに見ゆ。さては、女どものよきなどあるべし。おのづから、すだれの隙よりみれば、皮籠などあまた見ゆ。物はよく積みたるに、はかばかしき人もなくて、ただ、この我が舟につきてありく。
屋形の上に、若き僧一人ゐて、経よみてあり。下れば、同じやうに下り、島へよれば、おなじやうに寄る。とまれば、またとまりなどすれば、この舟をえ見も知らぬなりけり。
あやしと思ひて、問ひてんと思ひて、『こは、いかなる人の、かくこの舟にのみ具してはおはするぞ。いづくにおはする人にか』と問へば、『周防国より、いそぐことありてまかるが、さるべき頼もしき人も具せねば、恐ろしくて、この御舟をたのみて、かくつき申したるなり」と言へば、
いとをこがましと思ひて、『これは、京にまかるにもあらず。ここに人待つなり。待ちつけて、周坊の方へくだらんずるは。いかで具してこそおはせめ』と言へば、『さらば明日こそは、さまいかにもせめ。こよひはなほ、御舟に具してあらん』とて、島隠れなる所に、具してとまりぬ。
人ども、『ただ今こそよき時なめれ。いざ、この舟うつしてん』とて、この舟に、みな乗る時に、ものもおぼえず、あきれ惑ひたり。物のあるかぎり、わが舟にとり入れつ。
人どもは、みな男女、みな海にとり入るるに、主人手をこそこそとすりて、水精の数珠の緒切れたらんやうなる涙を、はらはらとこぼしていはく、『よろずの物は、みなとり給へ。ただ、我命のかぎりはたすけ給へ。京に老たる親の、限りにわづらひて、今一度見んと申したれば、夜を昼にて、告げにつかはしたれば、いそぎまかりのぼるなり』とも、え言ひやらで、我に目を見合はせて、手をするさまいみじ。
『これ、かくな言はせそ。例のごとく、とく』といふに、目をみあはせて泣きまどふさま、いといといみじ。
あはれに無慙におぼえしかども、さ言ひて、いかがせんと思ひなして、海に入れつ。
屋形の上に二十ばかりにて、ひはづなる僧の経袋首にかけて、夜昼経読みつるをとりて、海にうち入れつ。時に手まどひして、経袋をとりて、水のうへにうかびながら、手をささげて、この経をささげて、浮き出で出でするときに、希有の法師の、今まで死なぬとて、舟の櫂して、頭をはたと打ち、背中をつき入れなどすれど、浮き出で浮き出でしつつ、この経を捧ぐ。
あやしと思ひて、よく見れば、この僧の水に浮かびたる跡枕に、うつくしげなる童の、びづら結ひたるが、白き楉をもちたる、二三人ばかり見ゆ。僧の頭に手をかけ、一人は、経をささげたる腕を、とらへたりと見ゆ。
かたへの者どもに、『あれ見よ。この僧につきたる童部はなにぞ』と言へば、『いづらいづら。さらに人なし』と言ふ。わが目にはたしかに見ゆ。この童部そひて、あへて海にしづむことなし。浮びてあり。あやしければ、みんと思ひて、『これにとりつきて来』とて、さををさしやりたれば、とりつきたるを引きよせたれば、人々『などかくはするぞ。よしなしわざする』といへど、「さはれ、この僧ひとりは生けん」とて、舟にのせつ。近くなれば、この童部は見えず。
この僧に問ふ、『我は京の人か。いづこへおはするぞ』と問へば、『田舎の人に候ふ。法師になりて、久しく受戒をえ仕らねば、いかで京にのぼりて、受戒せんと候ひしかば、まかりのぼるつるなり』と言ふ。
『わ僧の頭やかひなに取りつきたりつる児どもは、たそ。なにぞ』と問へば、『いつかさるもの候ひつる。さらにおぼえず』と言へば、『さて経ささげたりつるかひなにも、童そひたりつるは。そもそも、なにと思ひて、ただ今死なんとするに、この経袋をばささげつるぞ』と問へば、
『死なんずるは、思ひまうけたれば、命は惜しくもあらず。我は死ぬとも、経を、しばしがほども、ぬらし奉らじと思ひて、ささげ奉りしに、かひな、たゆくもあらず、あやまりてかろくて、かひなも長くなるやうにて、たかくささげられ候ひつれば、御経のしるしとこそ、死ぬべき心ちにもおぼえ候ひつれ。命生けさせ給はんは、うれしき事』とて泣くに、
この婆羅門の様なる心にも、あはれに尊くおぼえて、『これより国へ帰らんとや思ふ。また、京にのぼりて、受戒とげんとの心あらば、送らん』と言へば、『これより返しやりてんとす。さてもうつくしかりつる童部は、何にか、かく見えつる』と語れば、この僧、哀れに尊くおぼえて、ほろほろ泣かる。
『七つより、法華経よみ奉りて、日ごろも異事なく、物のあそろしきままにも、よみ奉りたれば、十羅刹のおはしましけるにこそ』といふに、この婆羅門のやうなるものの心に、さは、仏経は、めでたく尊くおはします物なりけりと思ひて、この僧に具して、山寺などへいなんと思ふ心つきぬ。
さて、この僧と二人具して、糖すこしを具して、のこりの物どもは知らず、みなこの人々にあづけてゆけば、人々、『物にくるふか。こはいかに。俄の道心世にあらじ。物のつきたるか』とて、制しとどむれども、聞かで、弓、箙、太刀、刀もみな捨て、この僧に具して、これが師の山寺なる所にいきて、法師になりて、そこにて、経一部よみ参らせて、行ひありくなり。
かかる罪をのみ作りしが、無慙におぼえて、この男の手をすりて、はらはらと泣きまどひしを、海に入しより、少し道心おこりにき。それに、いとどこの僧に十羅刹の添ひておはしましけると思ふに、法華経の、めでたく、読み奉らまほしくおぼえて、にはかにかくなりてあるなり」と語り侍りけり。
今は昔、村上の御時、古き宮の御子にて、左京大夫なる人おはしけり。ひととなり、すこし細高にて、いみじうあてやかなる姿はしたれども、やうだいなどもをこなりけり。
かたくなはしき様ぞしたりける。頭の、あぶみ頭なりければ、纓は背中にもつかず、はなれてぞふられける。色は花をぬりたるやうに、青じろにて、まかぶら窪く、はなのあざやかに高くあかし。くちびる、うすくて、いろもなく、笑めば歯がちなるものの、歯肉あかくて、ひげもあかくて、長かりけり。
声は、はな声にて高くて、物いへば、一うちひびきて聞こえける。あゆめば、身をふり、肩をふりてぞ歩きける。色のせめて青かりければ、「青常の君」とぞ、殿上の君達はつけて笑ひける。
若き人たちの、立ち居につけて、やすからず笑ひののしりければ、帝、聞こしめしあまりて、「このをのこどもの、これをかく笑ふ、便なきことなり。父の御子、聞きて制せずとて、我をうらみざらんや」など仰せられて、まめやかにさいなみ給へば、殿上の人々、したなきをして、みな、笑ふまじきよし、いひあへけり。
さて、いひあへるやう、「かくさいなめば、今よりながく起請す。もしかく起請して後、『青常の君』とよびたらん者をば、酒、くだ物など取いださせて、あがひせん」といひかためて、起請してのち、いくばくもなくて、堀川殿の殿上人にておはしけるが、あうなく、たちて行くうしろでをみて、忘れて、「あの青常まるは、いづち行くぞ」と宣ひてけり。
殿上人共、「かく起請を破りつるは、いと便なきことなり」とて、「言ひ定めたるやうに、すみやかに酒、果物とりにやりて、このことあがへ」と、集まりて、責めののしりければ、あらがひて、「せじ」とすまひ給ひけれど、まめやかにまめやかに責めければ、「さらばあさてばかり、青常の君あがひせん。殿上人、蔵人、その日集まり給へ」と言ひて出で給ひぬ。
その日になりて、「堀川中将殿の、青常の君のあがひすべし」とて、参らぬ人なし。
殿上人ゐならびて待つほどに、堀川中将、直衣すがたにて、かたちは光るやうなる人の、香はえもいはずかうばしくて、愛敬こぼれにこぼれて、参り給へり。
直衣のながやかにめでたき裾より、青き打たる出だし衵して、指貫も青色の指貫をきたり。随身三人、青き狩衣、袴着せて、ひとりには、青くいろどりたる折敷に、あをぢのさらに、こくはを、盛りてささげたり。今一人は、竹の杖に、山ばとを四五ばかりつけて持たせたり。またひとりには、あをぢの瓶に酒を入れて、あをき薄様にて、口をつつみたり。
殿上の前に、もちつづきて出でたれば、殿上人どもみて、諸声に笑ひどよむことおびたたし。
帝、聞かせ給ひて、「何事ぞ。殿上におびたたしく聞こゆるは」と問はせ給へば、女房「兼通が、青常よびてさぶらべば、そのことによりて、をのこどもに責められて、その罪あがひ候ふを、笑ひ候ふなり」と申しければ、「いかやうにあがひぞ」とて、昼御座にいでさせ給ひて、小蔀よりのぞかせ給ひければ、われよりはじめて、ひた青なる装束にて、青き食ひ物どもを持たせて、あがひければ、これを笑ふなりけりと御覧じて、え腹だたせ給はで、いみじう笑はせ給ひけり。
その後は、まめやかにさいなむ人もなかりければ、いよいよなん笑あざけりける。
今は昔、丹後守保昌の弟に、兵衛尉にて、冠賜りて、保輔といふ者ありけり。盗人の長にてぞありける。
家は姉が小路の南、高倉の東に居たりけり。家の奥に蔵を造りて、下を深う井のやうに堀りて、太刀、鞍、鎧、兜、絹、布など、万の売る者を呼び入れて、いふままに買ひて、「値を取らせよ」と言ひて、「奥の蔵の方へ具して行け」と言ひければ、「値賜らん」とて行きたるを、蔵の内へ呼び入れつつ、堀たる穴へ突き入れ突き入れして、持て来たる物をば取りけり。この保輔がり物持て入りたる者の、帰り行くなし。
この事を物売怪しう思へども、埋み殺しぬれば、この事をいふ者なかりけり。
これならず、京中押しありきて、盗みをして過ぎけり。この事おろおろ聞こえたりけれども、いかなりけるにか、捕へからめらるる事もなくてぞ過ぎにける。
昔、晴明が土御門の家に、老しらみたる老僧来ぬ。十歳ばかりなる童部二人具したり。晴明「なにぞの人にておはするぞ」と問へば、「播磨の国の者にて候ふ。陰陽師を習はん心ざしにて候ふ。この道に、殊にすぐれておはしますよしを承て、少々習ひ参らせんとて、参りたるなり」と言へば、
晴明が思ふやう、この法師は、かしこき者にこそあるめれ、われを試みんとてきたる者なり、それにわろく見えてはわろかるべし、この法師すこしひきまさぐらんと思ひて、共なる童部は、式神をつかひてきたるなめりかし、式神ならばめしかくせと、心の中に念じて、袖の内にて印をむすびて、ひそかに呪をとなふ。
さて法師いふやう、「とく帰り給ひね。のちによき日して、習はんと宣はん事どもは、教へ奉らん」と言へば、法師「あら、貴と」と言ひて、手をすりて額にあてて、たちはしりぬ。
いまは去ぬらんと思ふに、法師とまりて、さるべき所々、車宿などのぞきありきて、また前によりきていふやう、「この供に候ひつる童の、二人ながら失ひて候ふ。それ給はりて帰らん」と言へば、晴明「御坊は、希有のこといふ御坊かな。晴明は何の故に、人の供ならん者をば、とらんずるぞ」といへり。
法師のいふやう、「さらにあが君、おほきなる理り候ふ。さりながら、ただゆるし給はらん」とわびければ、「よしよし、御坊の、人の心みんとて、式神つかひてくるが、うらやましきを、ことにおぼえつるが、異人をこそ、さやうには試み給はめ。晴明をば、いかでさること、し給ふべき」と言ひて、物よむやうにして、しばしばかりありければ、外の方より童二人ながら走入て、法師のまへに出来ければ、その折、法師の申すやう、「実に試み申しつるなり。使ふことはやすく候ふ。今よりは、ひとへに御弟子になりて候はん」と言ひて、ふところより、名簿ひきいでて、とらせけり。
この晴明、あるとき、広沢の僧正の御房に参りて、もの申し承りけるあひだ、若僧どもの、晴明にいふやう、「式神を使ひ給ふなるは、たちまちに人をば殺し給ふや」と言ひければ、「やすくはえ殺さじ。力をいれて殺してん」と言ふ。
「さて虫なんどをば、少のことせんに、かならず殺しつべし。さて生くるやうを知らねば、罪を得つべければ、さやうのこと、よしなし」といふほどに、庭にかはづの出できて、五六ばかり躍りて、池のかたざまへ行きけるを、「あれひとつ、さらば殺し給へ。試みん」と、僧の言ひければ、「罪をつくり給ふ御坊かな。されども試み給へば、殺して見せ奉らん」とて、草の葉をつみきりて、物よむやうにして、蛙のかたへ投げやりければ、その草の葉の、蛙の上にかかりければ、蛙まひらにひしげて、死にたりけり。これをみて、僧どもの色変はりて、おそろしと思ひけり。
家の中に人なき折は、この式神をつかひけるにや、人もなき蔀をあげおろし、門をさしなどしけり。
昔、河内守頼信、上野守にてありしとき、坂東に平忠恒といふ兵ありき。仰せらるる事、なきがごとくにする、うたんとて、おほくの軍おこして、かれがすみのかたへ行きむかふに、岩海にはるかにさし入たるむかひに、家をつくりてゐたり。この岩海をまはるものならば、七八日にめぐるべし。すぐにわたらば、その日の中に攻めつべければ、忠恒、わたりの舟どもを、みな取隠してけり。されば渡るべきやうもなし。
濱ばたに打たちて、この濱のままにめぐるべきにこそあれと、兵ども思ひたるに、上野守のいふやう、「この海のままに廻てよせば日ごろへなん。その間に逃げもし、またよられぬ構へもせられなん。けふのうちによせて攻めんこそ、あのやつは存じのほかにして、あわてまどはんずれ。しかるに、舟どもは、みな取隠したる、いかがはすべき」と、軍どもに問はれけるに、
軍「さらにわたし給ふべきやうなし。まはりてこそ、よせさせ給ふべく候ふ」と申しければ、「この軍共の中に、さりとも、この道しりたる者はあらん。頼信は、坂東がたはこの度こそはじめて見れ。されども、我家のつたへにて、聞き置きたることあり。この海中には、堤のやうにて、ひろさ一丈ばかりして、すぐにわたりたる道あるなり。深さは馬の太腹にたつと聞く。この程にこそ、その道はあたりたるらめ。さりとも、このおほくの軍どもの中に、しりたるもあるらん。さらば、さきに立ちてわたせ。頼信つづきてわたさん」とて、馬をかきはやめて寄りければ、しりたるものにやありけん、四五騎ばかりの軍どもわたしけり。まことに馬の太腹に立てわたる。
おほくの兵どもの中に、ただ三人ばかりぞ、この道はしりたりける。
のこりは、「つゆもしらざりけり。聞くことだにもなかりけり。然に、この守殿、この国をば、これこそ始にておはするに、我等は、これの重代のものどもにてあるに、聞だにもせず、しらぬに、かくしり給へるは、げに人にすぐれたる兵の道かな」と、みなささやき、怖ぢて、わたり行くほどに、
忠恒は、「海をまはりてぞ寄せ給はんずらん、舟はみなとりかくしたれば、浅き道をば、わればかりこそ知りたれ。すぐにはえわたり給はじ。浜をまはり給はん間には、とかくもし、逃げもしてん。さうなくは、え攻め給はじ」と思ひて、心静かに軍揃へてゐたるに、
家のめぐりなる郎等、あわて走りきていはく、「上野殿は、この海の中に浅き道の候ひけるより、おほくの軍をひき具して、すでにここへ来給ひぬ。いかがせさせ給はん」と、わななき声に、あわてて言ひければ、
忠恒、かねてのしたくにたがひて、「われすでに攻められなんず。かやうにしたて奉らん」と言ひて、たちまちに名簿をかきて、文ばさみにはさみてさし上て、小舟に郎等一人のせて、もたせて、むかへて、参らせたりければ、
守殿みて、かの名簿をうけとらせていはく、「かやうに、名簿に怠り文をそへていだす。すでに来たれるなり。されば、あながちに攻むべきにあらず」とて、この文をとりて、馬を引かへしければ、軍どもみなかへりけり。
その後より、いとど守殿をば、「ことにすぐれて、いみじき人におはします」と、いよいよいはれ給ひけり。
これも今は昔、白河法皇、鳥羽殿におはしましける時、北面の者どもに、受領の国へ下るまねさせて、御覧あるべしとて、玄審頭久孝といふ者をなして、衣冠に衣出して、その外の五位どもをば前駆せさせ、衛府どもをば、胡録負ひにして御覧あるべしとして、おのおの錦、唐綾を着て、劣らじとしけるに、左衛門尉字源行遠、心殊に出で立ちて、「人にかねて見えなば、めなれぬべし」とて、御前近かりける人の家に入り居て、従者を呼びて、「やうれ、御前の辺にて見て来」と、見て参らせてけり。
無期に見えざりければ、「いかにかうは遅きにか」と、辰の時とこそ催はありしか、さがるといふ定、午未の時には、渡らんずらんものをと思ひて、待ち居たるに、門の方に声して、「あはれ、ゆゆしかりつるものかなゆゆしかりつるものかな」といへども、ただ参るものをいふらんと思ふほどに、「玄蕃殿の国司姿こそ、をかしかりつれ」と言ふ。「藤左衛門殿は錦を着給ひつ。源兵衛殿は縫物をして、金の文をつけて」など語る。
怪しう覚えて、「やうれ」と呼べば、この「見て来」とてやりつる男、笑みて出で来て、「おほかたかばかりの見物候はず。賀茂祭も物にても候はず。院の御桟敷の方へ、渡しあひ給ひたりつるさまは、目も及び候はず」と言ふ。「さていかに」と言へば、「早う果て候ひぬ」と言ふ。「こはいかに、来ては告げぬぞ」と言へば、「こはいかなる事にか候ふらん。『参りて見て来』と仰せ候へば、目もたたかず、よく見て候ふぞかし」と言ふ。おほかたとかくいふばかりなし。
さるほどに、「行遠は進奉不参、返す返す奇怪なり。たしかに召し籠めよ」と仰せ下されて、二十日余り候ひけるほどに、この次第を聞し召して、笑はせおはしましてぞ、召し籠めはゆりてけるとか。
これも今は昔、奈良に蔵人得業恵印といふ僧ありけり。鼻大きにて赤かりければ、「大鼻の蔵人得業」と言ひけるを、後ざまには、ことながしとて、「鼻蔵人」とぞ言ひける。なほ後々には、「鼻蔵鼻蔵」とのみいひけり。
それが若かりける時に、猿沢の池の端に、「その月のその日、この池より龍登らんずるなり」といふ札を立てけるを、往来の者、若き老いたる、さるべき人々、「ゆかしき事かな」と、ささめき合ひたり。この鼻蔵人、「をかしき事かな。我がしたる事を、人々騒ぎ合ひたり。をこの事かな」と、心中におかしく思へども、すかしふせんとて、空知らずして過ぎ行くほどに、その月になりぬ。
おほかた大和、河内、和泉、摂津国の者まで聞き伝へて、集ひ合ひたり。恵印、「いかにかくは集まる。何かあらんやうのあるにこそ。怪しき事かな」と思へども、さりげなくて過ぎ行くほどに、すでにその日になりぬれば、道もさり敢へず、ひしめき集る。
その時になりて、この恵印思ふやう、「ただごとにもあらじ。我がしたる事なれども、やうのあるにこそ」と思ひければ、「この事さもあらんずらん。行きて見ん」と思ひて頭つつみて行く。
おほかた近う寄りつくべきにもあらず。興福寺南大門の壇の上に登り立ちて、今や龍の登るか登るかと待ちたれども、何の登らんぞ。日も入りぬ。
暗々になりて、さりとては、かくてあるべきならねば、帰りける道に、一つ橋に、盲が渡り合ひたりけるを、この恵印、「あな、あぶなのめくらや」といひたりけるを、盲とりもあへず、「あらじ。鼻くらなり」いひたりける。この恵印を、鼻蔵といふも知らざりけれども、めくらといふにつきて、「あらじ。鼻蔵ななり」といひたるが、鼻蔵に言ひ合せたるが、をかしき事の一つなりとか。
今は昔、たよりなかける女の、清水にあながちに参るありけり。
年月つもりけれども、露ばかり、そのしるしと覚えたることなく、いとどたよりなくなりまさりて、果ては、年ごろありける所をも、その事となくあくがれて、よりつくところもなかりけるままに、泣く泣く観音を恨み申して、「いかなる先世のむくいなりとも、ただすこしのたより給ひ候はん」と、いりもみ申して、御前にうつぶし伏したりける夜の夢に、「御前より」とて、「かくあながちに申せば、いとほしくおぼしめせど、すこしにてもあるべきたよりのなければ、そのことをおぼしめし歎くなり、これを給はれ」とて、御帳のかたびらを、いとよくたたみて、前にうち置かると見て、
夢さめて、御あかしの光に見れば、夢のごとく、御帳のかたびら、たたまれて前にあるを見るに、さは、これより外に、たぶべき物のなきにこそあんなれと思ふに、身のほどの思ひしられて、かなしくて申すやう、「これ、さらに給はらじ。すこしのたよりも候はば、にしきをも、御帳にはぬいて参らせんとこそ思ひ候ふに、この御帳ばかりを給はりて、まかり出づべきやうも候はず。返し参らせさぶらひなん」と申して、犬防ぎの内に、さし入りて置きぬ。
またまどろみゐたる夢に、「などさかしくはあるぞ。ただ給はん物をば給はらで、かく返し参らする。あやしきことなり」とて、また給はるとみる。さてさめたるに、また同じやうに前にあれば、泣く泣くかくへし参らせつ。
かやうにしつつ、三たび返し奉るに、なほまたかへし給びて、はての度は、この度かへし奉らんは、無礼なるべきよしを、いましめられければ、かかるとも知らざらん寺僧は、御帳のかたびらを、盗みたるとや疑はんずらんと、思ふも苦しければ、まだ夜ぶかく、ふところにいれて、まかり出でにけり。
これをいかにとすべきならんと思ひて、ひきひろげて見て、きるべき衣もなきに、さは、これを衣にして着んと思ふ心つきぬ。
これを衣にして着てのち、見と見る男にもあれ、女にもあれ、あはれにいとほしきものに思はれて、そぞろなる人の手より、物をおほく得てけり。大事なる人のうれへをも、その衣を着て、知らぬやんごときなき所にも参りて申させければ、かならずなりけり。
かやうにしつつ、人の手よりものを得、よき男にも思はれて、たのしくぞありける。
されば、その衣をばおさめて、かならず先途と思ふことの折にぞ、とり出でて着ける。
かならずかなひけり。
今は昔、駿河前司橘季通が父に、陸奥前司則光といふ人ありけり。兵家にはあらねども、人に所置かれ、力などいみじう強かりける。世のおぼえなどありけり。
わかくて衞府の蔵人にぞありけるとき、宿直所より女のもとへ行くとて、太刀ばかりをはきて、小舎人童をただ一人具して、大宮をくだりに行きければ、大垣の内に人の立てるけしきのしければ、おそろしと思ひて過ぎけるほどに、八九日の夜ふけて、月は西山に近くなりたれば、西の大垣の内は影にて、人の立てらんも見えぬに、
大がきの方より声ばかりして、「あのすぐる人、まかりとまれ。公達のおはしますぞ。え過ぎじ」と言ひければ、さればこそと思ひて、すすどく歩みて過ぐるを、「おれは、さてはまかりなんや」とて、走りかかりて、物の来ければ、うつぶきて見るに、弓のかげは見えず。太刀のきらきらとして見えければ、木にはあらざりけりと思ひて、かい伏して逃ぐるを、追ひつけてくれば、頭うち破られぬとおぼゆれば、にはかにかたはらざまに、ふとよりたれば、
追ふ者の、走りはやまりて、え止まりあへず、先に出でたれば、過ぐしたてて、太刀をぬきて打ちければ、頭を中よりうち破たりければ、うつぶしに走りまろびぬ。
ようしんと思ふほどに、「あれは、いかにしつるぞ」と言ひて、また、物の走りかかり来れば、太刀をも、えさしあへず、わきにはさみて逃ぐるを、「けやけきやつかな」と言ひて、はしりかかりて来る者、はじめのよりは、走りのとくおぼければ、これは、よもありつるやうには、はかられじと思ひて、にはかに居たりければ、はしりはまりたる者にて、我にけつまづきて、うつぶしに倒れたりけるをちがひて、たちかかりて、おこしたてず、頭をまた打ち破りてけり。
いまはかくと思ふほどに、三人ありければ、今ひとりが、「さては、えやらじ。けやけくしていくやつかな」とて、執念く走りかかりて来ければ、「このたびは、われはあやまたれなんず。神仏たすけ給へ」と念じて、太刀を桙のやうにとりなして、走りはやまりたる者に、にはかに、ふと立ちむかひければ、はるはるとあはせて、走りあたりにけり。
やつも切りけれども、あまりに近く走りあたりてければ、衣だにきれざりけり。桙のやうに持たりける太刀なりければ、うけられて、中より通りたりけるを、太刀の束を返しければ、のけざまにたうれたりけるを切りてければ、太刀をもちたる腕を、肩より、うち落してけり。
さて走りのきて、また人やあると聞きけれども、人の音もせざりければ、走りまひて、中帝の門より入て、柱にかいそひてたちて、小舎人童は、いかがしつらんと待ちければ、童は大宮を上りに、泣く泣く行きけるを呼びければ、よろこびて走り来にけり。
宿直所にやりて、着がへ取りよせて着かへて、もと着たりけるうへのきぬ、指貫には血のつきたりければ、童して深くかくさせて、童の口よくかためて、太刀に血のつきたる洗ひなどしたためて、宿直所にさりげなく入りて、ふしにけり。
夜もすがら、我したるなど、聞こえやあらずらんと、胸うちさわぎて思ふほどに、夜明けてのち、物どもいひさわぐ。「大宮大炊の御門辺に、大なる男三人、いくほどもへだてず、きりふせたる、あさましく使ひたる太刀かな。かたみにきり合ひて死にたるかと見れば、おなじ太刀のつかひざまなり。敵のしたりけるにや。されど盗人とおぼしきさまぞしたる」などいひののしるを、殿上人ども、「いざ、ゆきて見てこん」とて、さそひてゆけば、「ゆかじはや」と思へども、いかざらんもまた心得れぬさまなれば、しぶしぶに去ぬ。
車に乗りこぼれて、やり寄せて見れば、いまだ、ともかくもしなさで置きたりけるに、年四十余ばかりなる男の、かつらひげなるが、無文のはかまに、紺の洗ひざらしの襖着、山吹の絹の衫よくさらされたる着たるが、猪のさやつかの尻鞘したる太刀はきて、猿の皮のたびに、沓きりはきなして、脇をかき、指をさして、と向きかう向き、物いふ男たてり。
なに男にかとみるほどに、雑色のよりきて、「あの男の、盗人かたきにあひて、つかうまつりたると申す」と言ひければ、うれしくもいふなる男かなと思ふほどに、車のまへに乗りたる殿上人の、「かの男召しよせよ。子細問はん」と言へば、雑色走よりて、召してもて来たり。
見れば、高面鬚にて、おとがひ反り、鼻さがりたり。赤ひげなる男の、血目にみなし、かた膝つきて、太刀のつかに手をかけてゐたり。
「いかなりつることぞ」と問へば、「この夜中ばかりに、ものへまかるとて、ここまかり過ぎつるほどに、物の三人、「おれは、まさに過ぎなんや」とて、はしり続きて、まうで来つるを、盗人なめりと思ひ給へて、あへくらべふせて候ふなり。今朝見れば、なにがしをみなしと思ひ給ふべきやつばらにてさぶらひければ、かたきにて仕りたりけるなめりと思ひ給へれば、しや頭どもを、まつて、かくさぶらふなり」と、たちぬ居ぬ、指をさしなど、かたり居れば、人々、「さてさて」と言ひて、問ひ聞けば、いとど狂ふやうにして、語りをる。
その時にぞ、人に譲りえて、面ももたげられて見ける。けしきやしるからんと、人しれず思ひたりけれど、我と名告るものの出で来たりければ、それに譲りてやみにしと、老いて後に、子どもにぞ語りける。
これも今は昔、桂川に身投げんずる聖とて、まづ祇蛇林寺にして、百日懺法行ひければ、近き遠きものども、道もさりあへず、拝みにゆきちがふ女房車などひまなし。
見れば、三十余ばかりなる僧の、細やかなる目をも、人に見合はせず、ねぶり目にて、時々阿弥陀仏を申す。そのはざまは唇ばかりはたらくは、念仏なんめりと見ゆ。また、時々、そそと息をはなつやうにして、集ひたる者ども、こち押し、あち押し、ひしめきあひたり。
さて、すでにその日のつとめては堂へ入りて、さきにさし入たる僧ども、おほく歩み続きたり。尻に雑役車に、この僧は紙の衣、袈裟など着て、乗りたり。何といふにか、唇はたらく。人に目も見合はせずして、時々大息をぞはなつ。行く道に立ちなみたる見物のものども、うちまきを霰の降るやうになか道す。
聖、「いかに、かく目鼻に入る。堪へがたし。心ざしあらば、紙袋などに入れて、我居たりつる所へ送れ」と時々いふ。これを無下の者は、手をすりて拝む。すこし物の心ある者は、「などかうは、この聖はいふぞ。ただ今、水に入なんずるに、「ぎんだりへやれ。目鼻に入、堪へがたし」などいふこそあやしけれ」などささめく物もあり。
さて、やりもてゆきて、七条の末にやり出だしたれば、京よりはまさりて、入水の聖拝まんとて、河原の石よりもおほく、人集ひたり。河ばたへ車やり寄せて立てれば、聖、「ただ今は何時ぞ」と言ふ。供なる僧ども、「申のくだりになり候ひにたり」と言ふ。「往生の刻限には、まだしかんなるは。今すこし暮らせ」と言ふ。
待ちかねて、遠くより来たるものは帰るなどして、河原、人ずくなになりぬ。これを見果てんと思ひたる者はなほ立てり。それが中に僧のあるが、「往生には剋限やは定むべき。心得ぬ事かな」と言ふ。
とかくいふほどに、この聖、たふさぎにて、西に向ひて、川にざぶりと入るほどに、舟ばたなる縄に足をかけて、づぶりとも入らで、ひしめくほどに、弟子の聖はづしたれば、さかさまに入りて、ごぶごぶとするを、男の、川へ下りくだりて、「よく見ん」とて立てるが、この聖の手をとりて、引き上げたれば、左右の手して顔はらひて、くぐみたる水をはき捨てて、この引き上げたる男に向ひて、手をすりて、「広大の御恩は極楽にて申しさぶらはむ」と言ひて、陸へ走りのぼるを、そこら集まりたる者ども、童部、河原の石を取て、まきかくるやうに打つ。
裸なる法師の、河原くだりに走るを、集ひたる者ども、うけとりうけとり打ちければ、頭うち割られにけり。
この法師にやありけん、大和より爪を人のもとへやりけるに文の上書に、「前の入水の上人」と書きたりけるとか。
昔、吉野山の日蔵の君、吉野の奥におこなひありき給ひけるに、たけ七尺ばかりの鬼、身の色は紺青の色にて、髪は火のごとくに赤く、くび細く、むね骨は、ことにさしいでて、いらめき、腹ふくれて、脛は細くありけるが、このおこなひ人にあひて、手をつかねて、なくこと限りなし。
「これはなにごとする鬼ぞ」と問へば、この鬼、涙にむせびながら申すやう、
「われは、この四五百年を過ぎてのむかし人にて候ひしが、人のために恨みを残して、今はかかる鬼の身となりて候ふ。さてその敵をば、思ひのごとくに、とり殺してき。それが子、孫、ひこ、やしは子にいたるまで、残りなくとり殺しはてて、今は殺すべき者なくなりぬ。
されば、なほかれらが生まれかはりまかる後までも知りて、とり殺さんと思ひ候ふに、つぎつぎの生まれ所、露もしらねば、取り殺すべきやうなし。瞋恚の炎は、おなじやうに、燃ゆれども、敵の子孫はたえはてたり。我ひとり、つきせぬ瞋恚の炎に、もえこがれて、せんかたなき苦をのみうけ侍り。
かかる心を起さざらましかば、極楽天上にも生れなまし。殊に、恨みをとどめて、かかる身となりて、無量億劫の苦を受けんとすることの、せんかたなくかなしく候ふ。
人のために恨みを残すは、しかしながら、我が身のためにてこそありけれ。敵の子孫は尽きはてぬ。わが命はきはまりもなし。かねてこのやうを知らましかば、かかる恨みをば、残さざらまし」といひ続けて、涙をながして、泣く事かぎりなし。
そのあひだに、うへより、炎やうやう燃えいでけり。さて山の奥ざまへ、あゆみいりけり。
さて日蔵の君、あはれと思ひて、それがために、さまざまの罪ほろぶべき事どもをし給ひけるとぞ。
これも今は昔、丹後守保昌、国へ下りける時、与佐の山に、白髪の武士一騎あひたり。
路の傍なる木の下に、うち入れて立てたりけるを、国司の郎等ども、「この翁、など馬よりおりざるぞ。奇怪なり。咎めおろすべし」と言ふ。
ここに国司のいはく、「一人当千の馬の立てやうなり。ただにはあらぬ人ぞ。咎むべからず」と制してうち過ぐるほどに、三町ばかり行きて、大矢の左衛門尉致経、数多の兵を具してあへり。
国司会釈する間、致経がいはく、「ここに老者一人あひ奉りて候ひつらん。致経が父平五大夫に候ふ。堅固の田舎人にて、子細を知らず、無礼を現し候ひつらん」と言ふ。
致経過ぎて後、「さればこそ」とぞ言ひけるとか。
これも今は昔、筑紫に、たうさかのさへと申す齋の神もまします。
そのほこらに、修行しける僧のやどりて、ねたりける夜、夜中ばかりになりぬらんと思ふほどに、馬の足音あまたして、人の過ぐると聞くほどに、「齋はましますか」と問ふ声す。
この宿りたる僧、あやしと聞くほどに、このほこらの内より、「侍り」と答ふなり。
またあさましと聞けば、「明日武蔵寺にや参り給ふ」と問ふなれば、「さも侍らず。何事の侍ぞ」と答ふ。
「あす武蔵寺に、新仏出で給ふべしとて、梵天、帝釋、諸天、龍神集まり給ふとは知り給はぬか」といふなれば、「さる事も、え承らざりけり。うれしく告げ給へるかな。いかで参らでは侍らん。かならず参らんずる」と言へば、「さらば、あすの巳の時ばかりのことなり。かならず参り給へ。まち申さん」とて過ぎぬ。
この僧、これを聞きて、希有のことをも聞きつるかな。あすは物へゆかんと思ひつれども、このこと見てこそ、いづちも行かめと思ひて、あくるや遅きと、武蔵寺に参りて見れども、さるけしきもなし。
例よりは、なかなか静かに、人もみえず。あるやうあらんと思ひて、仏の御前に候ひて、巳の時を待ちゐたるほどに、今しばしあらば、午の時になりなんず、いかなることにかと思ひゐたるほどに、年七十余ばかりなる翁の、髪もはげて、白きとてもおろおろある頭に、ふくろの烏帽子をひき入れて、もとも小さきが、いとど腰かがまりたるが、杖にすがりて歩む。
尻に尼たてり。小さく黒き桶に、なににかあるらん、物いれて、ひきさげたり。御堂に参りて、男は仏の御前にて、ぬか二三度ばかりつきて、木れん子の念珠の、大きに長き、押しもみて候へば、尼、その持たる桶を、翁の傍らに置きて、「御坊よび奉らん」と言ひぬ。
しばしばかりあれば、六十ばかりなる僧参りて、仏拝み奉りて、「なにせんに呼び給ふぞ」と問へば、「今日明日とも知らぬ身にまかりなりにたれば、この白髪の少し残りたるを剃りて、御弟子にならんと思ふなり」と言へば、僧、目押しすりて、「いと尊きことかな。さらば、とくとく」とて、小桶なりつるは湯なりけり、その湯にて頭あらひて、そりて、戒さづけつれば、また、仏拝み奉りて、まかり出でぬ。その後、また異事なし。
さは、この翁の法師になるを随喜して、天衆も集まり給ひて、新仏の出でさせ給ふとはあるにこそありけれ。出家隨分の功徳とは、今にはじめたることにはあらねども、まして、若く盛りならん人の、よく道心おこして、随分にせんものの功徳、これにていよいよおしはかられたり。
昔、天竺に一寺あり。住僧もつともおほし。達磨和尚、この寺に入りて、僧どもの行をうかがひ見給ふに、ある坊には念仏し、経をよみ、さまざまに行ふ。
ある坊を見給ふに、八九十ばかりなる老僧の、只二人ゐて囲碁を打つ。仏もなく、経も見えず。ただ囲碁を打つほかは、他事なし。
達磨、件坊を出て、他の僧に問に、答言ふ、「この老僧二人、若きより囲碁の外はすることなし。すべて仏法の名をだに聞かず。よつて寺僧、にくみいやしみて、交曾する事なし。むなしく僧供を受く。外道のごとく思へり」と云々。
和尚これを聞きて、定めて様あらんと思ひて、この老僧が傍にゐて、囲碁打つ有様を見れば、一人は立てり、一人はをりとみるに、忽然として失せぬ。あやしく思ふほどに、立てる僧は帰りゐたりとみるほどに、またゐたる僧うせぬ。見ればまた出で来ぬ。
さればこそと思ひて、「囲碁の外、他事なしと承るに、証果の上人にこそおはしけれ。その故を問ひ奉らん」と宣ふに、老僧答へて言はく、「年ごろ、この事より外、他事なし。ただし、黒勝つときは、我が煩悩勝ちぬとかなしみ、白勝つときは、菩提勝ちぬと怡ぶ。打つにしたがひて、煩悩の黒を失ひ、菩提の白の勝たん事を思ふ。この功徳によりて証果の身となり侍るなり」と云々。
和尚、坊を出て、他僧に語り給ひければ、年ごろ、憎みいやしみつる人々、後悔して、みな貴みけりとなん。
昔、西天笠に龍樹菩薩と申す上人まします。智恵甚深なり。
また、中天笠に提婆菩薩と申す上人、龍樹の智恵深きよしを聞き給ひて、西天笠に行き向ひて、門外にたちて、案内を申さんとし給ふ所に、御弟子、ほかより来給ひて、「いかなる人にてましますぞ」と問ふ。
提婆菩薩答へ給ふやう、大師の智恵深くましますよし承りて、嶮難をしのぎて、中天笠より、はるばる参りたり、このよし申すべきよし、宣ふ。
御弟子、龍樹に申しければ、小箱に水を入て出ださる。提婆、心得給ひて、衣の襟より針を一つ取りいだして、この水にいれて返し奉る。これをみて、龍樹、大きに驚きて、「早く入れ奉れ」とて、坊中を掃ききよめて、入り奉り給ふ。
御弟子、あやしみ思ふやう、水をあたへ給ふことは、遠国よりはるばると来給へば、つかれ給ふらん、喉潤さん為と心得たれば、この人、針を入れて返し給ふに、大師、驚き給ひて、うやまひ給ふ事、心得ざることかなと思ひて、後に、大師に問ひ申しければ、
答へ給ふやう、「水をあたへつるは、我が智恵は、小箱の内の水のごとし、しかるに、汝万里をしのぎて来る、智恵をうかべよとて、水をあたへつるなり。上人、空に御心を知りて、針を水に入りて返すことは、我が針ばかりの智恵を以て、汝が大海の底をきはめんとなり。汝ら、年来随逐すれども、この心を知らずして、これを問ふ。上人は、始めてきたれども、わが心をしる。これ智恵のあるとなきなり」云々。
すなはち、瓶水を移すごとく、法文を習ひ伝へ給ひて、中天竺に帰り給ひて、中天竺に帰り給ひけりとなん。
慈恵僧正良源、座主の時、受戒行ふべき定日、例のごとく催設けて、座主の出仕を相待つの所に、途中よりにはかに帰り給へば、供の者ども、こはいかにと、心得難く思ひけり。
衆徒、諸職人も、「これ程の大事、日の定まりたる事を、今となりて、さしたる障りもなきに、延引せしめ給ふ事、然るべからず」と謗ずる事限りなし。
諸国の沙弥らまでことごとく参り集まりて、受戒すべき由思ひ居たる所に、横川の小綱を使にて、「今日の受戒は延引なり。重ねたる催に随ひて行はるべきなり」と仰せ下しければ、「何事によりてとどめ給ふぞ」と問ふ。
使、「全くその故を知らず。ただ早く走り向かひて、この由を申せとばかり宣ひつるぞ」と言ふ。集れる人々、おのおの心得ず思ひて、みな退散しぬ。
かかるほどに、未の時ばかりに、大風吹きて、南門にはかに倒れぬ。その時人々この事あるべしとかねて悟りて、延引せされけると思ひ合せけり。受戒行はれましかば、そこばくの人々みな打ち殺されなましと、感じののしりけり。
内記上人寂心といふ人ありけり。道心堅固の人なり。「堂を造り、塔を立つる、最上の善根なり」とて、勘進せられけり。材木をば、播磨国に行きて取られけり。
ここに法師陰陽師師冠を着て、祓するを見つけて、あわてて馬よりおりて、馳せ寄りて、「何わざし給ふ御坊ぞ」と問へば、「祓し候ふなり」と言ふ。
「何しに紙冠をばしたるぞ」と問へば、「祓戸の神達は、法師をば忌み給へば、祓する程、暫くして侍るなり」と言ふに、上人声をあげて大に泣きて、陰陽師に取りかかれば、陰陽師心得ず仰天して、祓をしさして、「これはいかに」と言ふ。祓せさせる人も。あきれて居たり。上人冠を取りて引き破りて、泣き事限りなし。
「いかに知りて、御坊は仏弟子となりて、祓戸の神達憎み給ふと言ひて、如来の忌み給ふ事を破りて、暫しも無間地獄の業をば作り給ふぞ。まことに悲しき事なり。ただ寂心を殺せ」と言ひて、取りつきて泣く事おびただし。
陰陽師のいはく、「仰せらるる事、もとも道理なり。世の過ぎ難ければ、さりとてはとて、かくのごとく仕るなり。然らずは、何わざをしてかは、妻子をば養ひ、我が命をも続き侍らん。道心なければ、上人にもならず、法師の形に侍れど、俗人のごとくなれば、後世の事いかがと悲しく侍れど、世の習にて侍れば、かやうに侍るなり」と言ふ。
上人のいふやう、「それはさもあれ、いかが三世如来の御首に冠をば著給ふ。不幸の堪へずして、かやうの事し給はば、堂造らん料に勘進し集めたる物どもを、汝になん賜ぶ。一人菩提に勘むれば、堂寺造るに勝れたる功徳なり」と言ひて、弟子どもを遣はして、材木取らんとて、勘進し集めたる物を、みな運び寄せて、この陰陽師に取らせつ。
さて我が身は京に上り給ひにけり。
昔、閑院大臣殿、三位中将におはしける時、わらは病み重くわづらひ給ひけるが、「神名といふ所に、叡實といふ持経者なん、童やみはよく祈おとし給ふ」と申す人ありければ、「この持経者のいのらせん」とて行き給ふに、荒見川の程にて、はやうおこり給ひぬ。
寺は近くなりければ、これより帰るべきやうなしとて、念じて神名におはして、坊の簷に車をよせて、案内を言ひ入れ給ふに、近ごろ、蒜を食ひ侍り」と申す。
しかれども、「ただ上人を見奉らん。ただ今まかり帰ることかなひ侍らじ」とて、坊の蔀、下立ちたるをとりて、新しき筵敷きて、「入り給へ」と申しければ、入り給ひぬ。
持経者、沐浴して、とばかりありて、出で合ひぬ。長高き僧のやせさらぼひて、みるに貴げなり。僧申すやう、「風重く侍るに、医師の申すにしたがひて、蒜を食て候ふなり。それに、かように御座候へば、いかでかはとて参て候ふなり。法華経は、浄不浄をきらはぬ経にてましませば、読み奉らん。何でふ事か候はん」とて、念珠を押し擦りて、そばへより来たる程、もとも頼もし。
御額に手をいれて、わが膝を枕にせさせ申して、寿量品を打ち出でしてよむ声は、いと貴し。さばかり貴きこともありけりとおぼゆ。すこし、はがれて、高声に読こゑ、誠にあはれなり。持経者、目より大なる涙をはらはらとおとして、なくこと限りなし。
その時さめて、御心地いとさはやかに、残りなくよくなり給ひぬ。
返す返す後世まで契りて、かへり給ひぬ。それより有験の名はたかく、広まりけるとか。
昔、空也上人、申すべき事ありて、一条大臣殿に参りて、蔵人所に上りて居たり。余慶僧正また参会し給ふ。
物語などし給ふほどに、僧正の宣ふ、「その臂は、いかにして折り給へるぞ」と。
上人の日く、「我が母、物妬みして、幼少の時、片手を取りて投げ侍りしほどに、折りて侍るとぞ聞き侍りし。幼稚の時の事なれば、覚え侍らず。かしこく左にて侍る。右手折り侍らましかば」と言ふ。
僧正宣ふ、「そこは貴き上人にておはす。天皇の御子とこそ人は申せ。いとかたじけなし。御臂まことに祈り直し申さんはいかに」
上人いふ、「もとも悦び侍るべし。まことに貴く侍りなん。この加持し給へ」とて、近く寄れば、殿中の人々、集りてこれを見る。
その時、僧正、頂より黒煙を出して、加持し給ふに、暫くありて、曲れる臂はたとなりて延びぬ。即ち右の臂のごとくに延びたり。
上人涙を落して、三度礼拝す。見る人皆ののめき感じ、あるいは泣きけり。
その日、上人、供に若き聖三人具したり。
一人は縄を取り集むる聖なり。道に落ちたる古き縄を拾ひて、壁土に加へて、古堂の破れたる壁を塗る事をす。
一人は瓜の皮を取り集めて、水に洗いて、獄衆に与へけり。
一人は反古の落ち散りたるを拾ひたる御布施に、僧正に奉りければ、悦びて弟子になして、義観と名づけ給ふ。
ありがたかりける事なり。
昔、多武嶺に、増賀上人とて貴き聖おはしけり。きはめて心たけうきびしくおはしけり。ひとへに名利を厭ひて、頗る物狂はしくなん、わざと振舞ひ給ひけり。
三条大后の宮、尼にならせ給はんとて、戒師のために、召しに遣はされければ、「もとも貴き事なり。増賀こそは実になし奉らめ」とて参りけり。
弟子ども、この御使をいかつて、打ち給ひなどやせんずらんと思ふに、思ひの外に心やすく参り給へば、あがたき事に思ひ合へり。
かくて宮に参りたる由申しければ、悦びて召し入れ給ひて、尼になり給ふに、上達部、僧ども多く参り集まり、内裏より御使など参りたるに、この上人は、目は恐ろしげなるが、体も貴げながら、煩はし気になんおはしける。
さて御前に召し入れて、御几帳のもとに参りて、出家の作法して、めでたく長き御髪をかき出して、この上人にはさませらる。
御簾の中に女房たち見て、泣く事限りなし。
はさみ果てて出でなんとする時、上人高声にいふやう、「増賀をしもあながちに召すは、何事ぞ。心得られ候はず。もしきたなき物を大なりと聞し召したるか。人のよりは大に候へども、今は練絹のやうに、くたくたとなりたるものを」といふに、
御簾の内近く、候ふ女房たち、ほかには公卿、殿上人、僧たち、これを聞くにあさましく、目口はだかりておぼゆ。宮の御心地もさらなり。
貴さもみな失せて、おのおの身より汗あえて、我にもあらぬ心地す。
さて、上人まかり出でなんとて、袖かき合せて、「年まかりよりて、風重くなりて、今はただ痢病のみ仕れば、参るまじく候ひつりを、わざと召し候ひつれば、あひ構へて候ひつる。堪へ難なくなりて候へば、急ぎまかり出で候ふなり」とて、出でざまに西の対の簀子についゐて、尻をかかげて、はんざふの口より水を出すやうにひり散らす。
音高くひる事限りなし。御前まで聞こゆ。若き殿上人、笑ひののしる事おびただし。僧たちは、「かかる物狂を召したる事」とそしり申しけり。
かやうに事にふれて、物狂にわざと振舞ひけれど、それにつけても、貴き覚えはいよいよまさりけり。
昔、東大寺に上座法師のいみじく楽しきありけり。
露ばかりも、人に物与ふる事をせず、慳貪に罪深く見えければ、その時聖宝僧正の、若き僧にておはしけるが、この上座の、物惜む罪のあさましきにとて、わざとあらがひをせられけり。
「御坊、何事したらんに、大衆に僧供引かん」と言ひければ、上座思ふやう、物あらがひして、もし負けたらんに、僧供引かんもよしなし。さりながら衆中にてかくいふ事を、何とも答へざらんも口惜しと思ひて、かれがえすまじき事を、思ひめぐらしていふやう、「賀茂祭の日、真裸にて、褌ばかりをして、干鮭太刀にはきて、やせたる牝牛に乗りて、一条大路を大宮より河原まで、『我は東大寺の聖宝なり』と、高く名のりて渡り給へ。然らば、この御寺の大衆より下部にいたるまで、大僧供引かん」と言ふ。
心中に、さりともよもせじと思ひければ、固くあらがふ。聖宝、大衆みな催し集めて、大仏の御前にて、鐘打ちて、仏に申して去りぬ。
その期近くなりて、一条富小路に桟敷うちて、聖宝が渡らん見んとて、大衆みな集りぬ。上座もありけり。
暫くありて、大路の見物の者ども、おびただしくののしる。
何事かあらんと思ひて、頭さし出して、西の方を見やれば、牝牛に乗りたる法師の裸なるが、干鮭を太刀にはきて、牛の尻をはたはたと打ちて、尻に百千の童部つきて、「東大寺の聖宝こそ、上座とあらがひして渡れ」と、高く言ひけり。その年の祭には、これを詮にてぞありける。
さて大衆、おのおの寺に帰りて、上座に大僧供引かせたりけり。
この事帝聞し召して、「聖宝は我が身を捨てて、人を導く者にこそありけれ。今の世に、いかでかかる貴き人ありけん」とて召し出して、僧正までなしあげさせ給ひけり。上の醍醐はこの僧正の建立なり。
昔、久しく行ふ上人ありけり。五穀を断ちて年ごろになりぬ。帝聞こしめして、神泉にあがめすへて、ことに貴み給ふ。木の葉をのみ食ける。
物笑ひする若公達集まりて、この聖の心みんとて、行き向ひて見るに、いとたうとげに見ゆれば、「穀断ち、幾年ばかりにり給ふ」と問はれければ、「若きより断り侍れば、五十余年に罷りなりぬ」と言ふを聞きて、
一人の殿上のいはく、「穀断ちの糞はいか様にかあらん。例の人にはかはりたるらん。いで行きて見ん」と言へば、二三人つれて行きて見れば、穀糞を多くひり置きたり。あやしく思ひて、上人の出たる隙に、居たる下を見ん」と言ひて、畳の下を引き開けて見れば、土を少し掘りて、布袋に米を入て置たり。
公達見て手をたたきて、「穀糞の聖、穀糞の聖」と呼ばはりて、ののしり笑ひければ、逃げ去りにけり。
其後は行方も知らず、ながく失せにけりとなん。
今は昔、季直少将といふ人ありけり。病つきて後、すこしをこたりて、内に参りたりけり。公忠弁の、掃部助にて蔵人なりけるこの事なり。
「乱り心地、まだよくもをこたり侍らねども、心元なくて参り侍りつる。後は知らねども、かくまで侍れば、あさてばかりに、また参り侍らん。よきに申させ給へ」とてまかり出でぬ。
三日ばかりありて、少将のもとより、
♪14
くやしくぞ 後にあはんと 契りける
今日を限りと いはましものを
さて、その日失せにけり。あはれなる事のさまなり。
今は昔、隠し題をいみじく興ぜさせ給ひける帝の、篳篥を詠ませられけるに、人々わろく詠みたりけるに、木こる童の、暁、山へ行くとていひける、「このごろ、篳篥を詠ませさせ給ふなるを、人のえ詠み給はざなる、童こそ詠みたれ」と言ひければ、具して行く童部、「あな、おほけな。かかる事な言ひそ。さまにも似ず、いまいまし」と言ひければ、「などか、必ずさまに似る事か」とて
♪15
めぐりくる 春々ごとに 桜花
いくたびちりき 人に問はばや
と言ひたりける。様にもにず、思ひかけずぞ。
今は昔、高忠といひける越前守の時に、いみじく不幸なりける侍の、夜昼まめなるが、冬なれど、帷をなん着たりける。雪のいみじく降る日、この侍、きよめすとて、物のつきたるやうに震ふを見て、守、「歌詠め、をかしう降る雪かな」と申せば、「はだかなるよしを詠め」といふに、程もなく震ふ声をささげて詠み上ぐ。
♪16
はだかなる 我が身にかかる 白雪は
打ちふるへども 消えせざりけり
と誦しければ、守、いみじくほめて、きたりける衣をぬぎてとらす。
北の方も哀れがりて、薄色の衣のいみじう香ばしきをとらせたりければ、二つながら執りて、かいわぐみて、脇にはさみて立ちさりぬ。
侍に行きたれば、ゐなみたる侍共みて、驚きあやしがりて問ひけるに、かくと聞きて、あさましがりけり。
さて、この侍、その後見えざりければ、あやしがりて、守尋ねさせければ、北山に貴き聖ありけり、そこへ行きて、この得たる衣を二ながらとらせて、言ひけるやう、「年まかり老いぬ。身の不幸、年を追ひて増さる。この生の事は益もなき身に候ふめり。後生をだにいかでとおぼえて、法師にまかりならむと思ひ侍れど、戒師に奉るべき物の候はねば、今に過ぐし候ひつるに、かく思ひ懸けぬ物を給ひたれば、限りなくうれしく思ひ給ひて、これを布施に参らするなり」とて、「法師にならせ給へ」と、涙にむせ返りて、泣く泣く言ひければ、聖、いみじう貴びて、法師になしてけり。
さて、そこより行方もなくて失にけり。在所知らずなりにけり。
今は昔、貫之が土佐守になりて、下りてありけるほどに、任果の年、七八ばかりの子の、えもいはずをかしげなるを、限りなくかなしうしけるが、とかく煩ひて、失せにければ、泣きまどひて、病づくばかり思ひこがるるほどに、月ごろになりぬれば、かくてのみあるべき事かは、上りなんと思ふに、児のここにて、何とありしはやなど、思ひ出でられて、いみじうかなしかりければ、柱に書きつけける
♪17
都へと 思ふにつけて 悲しきは
帰らぬ人の あればなりけり
とかきつけたりける歌なん、いままでありける。
今は昔、東人の、歌いみじう好みよみけるが、蛍をみて
♪18
あなてりや 虫のしや尻に 火のつきて
小人玉とも みえわたるかな
東人のやうに詠まんとて、まことは貫之が詠みたりけるとぞ。
今は昔、河原の院は融の左大臣の家なり。陸奥の塩竃の形を作りて、潮を汲み寄せて、監を焼かせなど、さまざまのをかしき事を尽くして、住み給ひける。大臣うせて後、宇多院には奉りたるなり。延喜の帝度々行幸ありけり。
まだ院、住ませ給ひける折りに、夜中ばかりに、西の対の塗籠をあけて、そよめきて、人の参るやうに思されければ、見させ給へば、晝の装束麗しくしたる人の、太刀はりて、笏取りて、二間ばかりのきて、畏りて居たり。
「あれは誰そ」と問はせ給へは、「ここの主に候ふ翁なり」と申す。「融のおとどか。」問はせ給へば、「しかに候ふ」と申す。
「さはなんぞ」と仰せらるれば、「家なれば住み候ふに、おはしますがかたじけなく所狭く候ふなり。いかが仕ふべからん」と申せば、「それはいといと異様の事なり。故大臣の子孫の、我にとらせたれば、住むにこそあれ。わが押し取りて居たらばこそあらめ。礼も知らず、いかにかくは怨むるぞ」と、高やかに仰せられければ、掻い消つやうに失せぬ。
その折の人々「なほ帝はかた殊におはします者なり。ただの人はそのおとどに逢ひて、さやうにすくよかには言ひてや」とぞ言ひける。
今は昔、唐に、孔子、道を行き給ふに、八つばかりなる童あひぬ。
孔子に問ひ申すやう、「日の入る所と洛陽と、いづれか遠き」と。孔子いらへ給ふやう、「日の入る所は遠し。洛陽は近し」
童の申すやう、「日の出で入る所は見ゆ。洛陽はまだ見ず。されば日の出づる所は近し。洛陽は遠しと思ふ」と申しければ、孔子、かしこき童なりと感じ給ひける。
「孔子には、かく物問ひかくる人もなきに、かく問ひけるは、ただ者にはあらぬなりけり」とぞ人いいける。
今は昔、親に孝する者ありけり。朝夕に木をこりて親を養ふ。孝養の心空に知られぬ。
梶もなき舟に乗りて、向ひの島に行くに、朝には南の風吹きて、北の島に吹きつけつ。
夕にはまた、舟に木をこりて入れて居たれば、北の風吹きて家に吹きつけつ。
かくのごとくするほどに、年ごろになりて、おほやけに聞し召して、大臣になして召し使はる。その名を鄭太尉とぞ言ひける。
今は昔、唐土の辺州に一人の男あり。家貧しくして、宝なし。妻子を養ふに力なし。もとむれども、得ることなし。かくて歳月を経。
思ひわびて、僧にあひて、宝を得べき事を問ふ。智恵ある僧にて、こたふるやう、「汝寶をえんと思はば、ただ、まことの心をおこすべし、さらば、寶もゆたかに、後世はよき所に生れなん」と言ふ。
この人「まことの心とはいかが」と問へば、僧の言ふ、「誠の心をおこすといふは、他のことにあらず。仏法を信ずるなり」といふに、また問ひて言ふ、「それはいかに。たしかに承りて、心を得て、たのみ思ひて、二なく信をなし、たのみ申さん。承るべし」と言へば、僧のいはく、「我が心はこれ仏なり。我が心をはなれては仏なしと。然らば我が心の故に、仏はいますなり」と言へば、手をすりて、泣く泣く拝みて、それよりこのことを心にかけて、よるひる思ひければ、梵繹諸天、来たりてまもり給ひければ、はからざるに宝出できて、家の内豊かになりぬ。
命終はるに、いよいよ心、仏を念じ入りて、浄土にすみやかに参りてけり。このことを聞き見る人、貴みはれみけるとなん。
今は昔、壹岐守宗行が郎等を、はかなきことによりて、主の殺さんとしければ、小舟に乗て逃げて、新羅国へ渡りて、かくれゐたりけるほどに、新羅のきんかいといふ所の、いみじうののしりさわぐ。
「何事ぞ」と問へば、「虎の国府に入りて、人をくらふなり」と言ふ。
この男問ふ、「虎はいくつばかりあるぞ」と。「
ただ一つあるが、にはかにいできて、人をくらひて、にげて行き行きするなり」と言ふを聞きて、この男の言ふやう、「あの虎にあひて、一矢を射て死なばや。虎かしこくば、共にこそ死なめ。ただむなしうは、いかでか、くらはれん。この国の人は、兵の道わろきにこそはあめれ」といひけるを、人聞きて、国守に、「かうかうのことをこそ、この日本人申せ」と言ひければ、「かしこきことかな。呼べ」と言へば、人きて、「召しあり」と言へば、参りぬ。
「まことにや、この虎の人をくふを、やすく射むとは申すなる」と問はれければ、「しか申し候ひぬ」と答ふ。
守、「いかでかかる事をば申すぞ」と問へば、この男の申すやう、「この国の人は、我が身をば全くして、敵をば害せんと思ひたれば、おぼろけにて、かやうのたけき獣などには、我が身の損ぜられぬべければ、まかりあはぬにこそ候ふめれ。日本の人は、いかにもわが身をばなきになして、まかりあへば、よき事も候ふめり。弓矢にたづさはらん者、なにしかは、わが身を思はん事は候はん」と申しければ、
守、「さて、虎をば、かならず射殺してんや」と言ひければ、「わが身の生き生かずはしらず。かならずかれをば射とり侍りなん」と申せば、「いといみじう、かしこきことかな。さらば、かならずかまへて射よ、いみじき悦びせん」と言へば、男申すやう、「さてもいづくに候ふぞ。人をばいかやうにて、くひ侍るぞ」と申せば、守のいはく、「いかなる折にかあるらん、国府の中に入きて、人ひとりを、頭を食て、肩に打ちかけてさるなり」と。
この男申すやう、「さてもいかにしてか食ひ候ふ」と問へば、人のいふやう、「虎はまづ人をくはんとては、猫の鼠をうかがふやうにひれふして、しばしばかりありて、大口をあきてとびかかり、頭をくひて、肩にうちかけて、はしりさる」と言ふ。
「とてもかくても、さばれ、一矢射るてこそは、くらはれ侍らめ。その虎のあり所教へよ」と言へば、「これより西に二十四町のきて、麻の畠あり。それになん伏すなり。人怖ぢて、あへてそのわたりに行かず」と言ふ。
「おのれただ知り侍らずとも、そなたをさしてまからん」と言ひて、調度負ひて去ぬ。
新羅の人々、「日本の人は、はかなし。虎に食はれなん」と、集まりて、そしりけり。
かくて、この男は、虎のある所問ひ聞きて、ゆきて見れば、まことに、はたけはるばると生ひわたりたり。をのたけ四尺ばかりなり。その中をわけ行きて見れば、まことに虎ふしたり。とがり矢をはげて、片膝をたてて居たり。
虎、人の香をかぎて、ついひらがりて、猫の鼠うかがふやうにてあるを、男、矢をはげて、音もせで居たれば、虎、大口をあきて、躍りて、男のうへにかかるを、男、弓をつよくひきて、うへにかかる折に、やがて矢を放ちたれば、おとがひのしたより、うなじに七八寸ばかり、とがりやを射いだしつ。
虎、さかさまにふして、たふれてあがくを、かりまたをつがひ、二たび、はらを射る。二たびながら、土に射つけて、遂に殺して、矢をもぬかで、国府にかへりて、守に、かうかう射ころしつるよしいふに、守、感じののしりて、おほくの人を具して、虎のもとへゆきて見れば、まことに、箭三ながら射通されたり。みるにいといみじ。
まことに百千の虎おこりてかかるとも、日本の人、十人ばかり、馬にて押しむかひて射ば、虎なにわざをかせん。この国の人は、一尺ばかりの矢に、きりのやうなるやじりをすげて、それに毒をぬりて射れば、遂にはその毒の故に死ぬれどもたちまちにその庭に、射ふす事はえせず。
日本の人は、我が命死なんをもつゆ惜しまず、大なる矢にて射れば、その庭に射殺しつ。
なほ兵の道は、日の本の人にはあたるべくもあらず。されば、いよいよいみじう、恐ろしくおぼゆる国なりとて、怖ぢにけり。
さて、この男をば、なほ惜しみとどめて、いたはりけれど、妻子を恋ひて、筑紫にかへりて、宗行がもとに行きて、そのよしをかたりければ、「日本のおもておこしたる者なり」とて、勘当も許してけり。おほくの物ども、祿にえたりける、宗行にもとらす。
おほくの商人ども、新羅の人の言ふを聞きて語りければ、筑紫にも、この国の人の兵は、いみじきものにぞしけるとか。
今は昔、遣唐使にて、唐土にわたりける人の、十ばかりなる子をえ見であるまじかりければ、具してわたりぬ。
さて過ぐしけるほどに、雪の高くふりたりける日、ありきもせでゐたりけるに、この児の遊びに出でていぬるが、遅く帰りければ、あやしと思ひて、出て見れば、足形、後ろの方からふみて行きたるにそひて、大きなる犬の足形ありて、それよりこの児の足形見えず。
山ざまにゆきたるを見て、これは虎の食ひて行きけるなめりと思ふに、せん方なく悲しくて、太刀を抜きて、足形を尋ねて、山の方に行きて見れば、岩屋の口に、この児を食ひ殺して、腹をねぶりて臥せり。太刀を持て走り寄れば、え逃げていかで、かいかがまりてゐたるを、太刀にて頭をうてば、鯉の頭を割るやうに割れぬ。
次に、また、そばざまに食はんとて、走りよる背中をうてば、背骨を打ちきりて、くたくたとなしつ。さて、子をば死なせたれども、脇にかいはさみて、家にかへりたれば、その国の人々、見て怖ぢあさむこと、かぎりなし。
唐土の人は、虎にあひて逃ぐることだに難きに、かく、虎をば打ち殺して、子をとり返して来たれば、もろこしの人は、いみじきことに言ひて、なほ日本の国には、兵のかたはならびなき国なりと、めでけれど、子死にければ、何にかはせん。
今は昔、上達部のまだ中将と申しける、内へ参り給ふ道に、法師をとらへて率て行きけるを、「こはなに法師ぞ」と問はせければ、
「年ごろ使はれて候ふ主を殺して候ふ者かな」といひたれば、
「まことに罪重きわざしたるものにこそ。心うきわざしける者かな」と、なにとなくうち言ひて過ぎ給ひけるに、この法師、あかき眼なる目のゆゆしくあしげなるして、にらみあげたりければ、
よしなき事をも言ひてけるかなと、けうとくおぼしめして過ぎ給ひけるに、また男をからめて行きけるに、「こはなに事したる者ぞ」と、懲りずまに問ひければ、「人の家に追ひ入られて候ひつる。男は逃げてまかりぬれば、これをとらへてまかるなり」と言ひければ、別のこともなきものにこそ、そのとらへたる人を見知りたれば、乞ひゆるしてやり給ふ。
おほかた、この心ざまして、人の悲しき目を見るにしたがひて、たすけ給ひける人にて、はじめの法師も、ことよろしくば、乞ひゆるさんとて、問ひ給ひけるに、罪のことの外に重ければ、さ宣ひけるを、法師は、やすからず思ひける。さて、程なく大赦のありければ、法師もゆりにけり。
さて月あかかりける夜、みな人はまかで、あるは寝入りなどしけるを、この中将、月にめでて、たたずみ給ひけるほどに、物の築地をこえておりけると見給ふほどに、後ろよりかきすくひて、とぶやうにして出でぬ。
あきれまどひて、いかにもあぼしわかぬほどに、恐ろしげなる物来集ひて、はるかなる山の、けはしく恐ろしき所へ率て行きて、柴のあみたるやうなる物を、高くつくりたるにさし置きて、「さかしらする人をば、かくぞする。やすきことは、ひとへに罪重くひなして、悲しきめを見せしかば、其答に、あぶりころさんずるぞ」とて、火を山のごとくたきければ、夢などを見る心地して、若くきびはなるほどにてはあり、物おぼえ給はず。
あつさは唯あつになりて、ただ片時に、死ぬべくおぼえ給ひけるに、山のうへより、ゆゆしきかぶら矢を射おこせければ、ある者ども、「こはいかに」と、騒ぎけるほどに、雨のふるやうに射ければ、これら、しばしこなたよりも射けれど、あなたには人の数おほく、え射あふべくもなかりけるにや、火の行衞もしらず、射散らされて逃げて去にけり。
その折、男ひとりいできて、「いかに恐ろしくおぼしめしつらん。おのれは、その月のその日、からめられてまかりしを、御徳にゆるされて、世にうれしく、御恩むくい参らせばやと思ひ候ひつるに、法師のことは、あしく仰せられたりとて、日ごろうかがひ参らせつるを見て候ふほどに、つげ参らせばやと思ひながら、わが身かくて候へばと思ひつるほどに、あからさまに、きとたち離れ参らせて候ひつるほどに、かく候ひつれば、築地を越えて出で候ひつるに、あひ参らせて候ひつれども、そこにてとり参らせ候はば、殿も御きずなどもや候はんずらんと思ひて、ここにてかく射はらひてとり参らせ候ひつるなり」とて、それより馬にかきのせ申して、たしかに、もとのところへ送り申してんげり。
ほのぼのと明るほどにぞ帰り給ひける。
年おとなになり給ひて、「かかることにこそあひたりしか」と、人にかたり給ひけるなり。四條の大納言のことと申すは、まことやらん。
今は昔、陽成院おりゐさせ給ひての御所は、宮よりは北、西洞院よりは西、油の小路よりは東にてなむありける。そこは物すむ所にてなんありける。
大きなる池のありける釣殿に、番の物ねたりければ、夜中ばかりに、細々とある手にて、この男が顔をそとそとなでけり。
けむつかしと思ひて、太刀をぬきて、片手にてつかみたりければ、浅黄の上下着翁の、ことの外に物わびしげなるがいふやう、「我はこれ、昔住みしぬしなり。浦島が子の弟なり。いにしへよりこの所に住みて、千二百余年になるなり。ねがはくはゆるし給へ。ここにやしろを作りていはひ給へ。さらばいかにもまぼり奉らん」と言ひけるを、
「わが心ひとつにてはかなはじ。このよしを院へ申してこそは」と言ひければ、「にくき男の言ふ事かなとて、三度、上様へ蹴上げ蹴上げして、なへなへくたくたとなして、落つるところを、口をあきて食ひたりけり。なべての人ほどなる男とみるほどに、おびたたしく大きになりて、この男をただ一口に食へてけり。
後鳥羽院の御時、水無瀬殿に、夜々山より、から笠程なる物の光りて、御堂へ飛び入る事侍りけり。
西面の者共、面々に、「これを見あらはして高名せん」と、心にかけて用心し侍りけれども、むなしくてのみ過ぎけるに、ある夜、景賢ただひとり、中島に寝て侍りけるに、例の光り物、山より池上を飛び行きけるに、起きんも心もとなくて、あふのきに寝ながら、よく引て射たりければ、手ごたへして池へ落ち入る物ありけり。
その後、人々に告げて、火ともして、面々見ければ、ゆゆしく大なる鼯の、年古り、毛なども禿げ、しぶとなるにてぞ侍りける。
今は昔、一條桟敷屋に、ある男とまりて、傾城とふしたりけるに、夜中ばかりに、風ふき、雨ふりて、すさまじかりけるに、大路に、「諸行無常」と詠じて過ぐる者あり。
なに者ならんと思ひて、蔀をすこし押し明けてみければ、長は軒と等しくて、馬の頭なる鬼なりけり。
恐ろしさに、蔀を掛けて、奥の方へ入りたれば、この鬼、格子押しあけて、顔をさし入れて、「よく御覧じつるな、御覧じつるな」と申しければ、太刀を抜きて、入らば斬らんと構へて、女をば、そばに置きて待ちけるに、「よくよく御覧ぜよ」と言ひて去にけり。
百鬼夜行にてあるやらんと、恐ろしかりけり。それより、一条の桟敷屋には、またも泊まらざりけるとなん。
今は昔、兵衛左なる人ありけり。冠の上緒の長かりければ、世の人、「上緒の主」となん、つけたりける。
西の八條と京極との畠の中に、あやしの小家一つあり。その前を行くほどに、夕立のしければ、この家に、馬よりおりて入りぬ。
みれば、女ひとりあり。馬を引きいれて、夕立を過ぐすとて、平なる小辛櫃のやうなる石のあるに、尻をうちかけてゐたり。
小石をもちて、この石を、手まさぐりに、たたき居たれば、打たれてくぼみたるところを見れば、金色になりぬ。
希有のことかなと思ひて、はげたるところに、土をぬりかくして、女に問ふやう、「この石はなぞの石ぞ」
女のいふやう、「何の石にか待らん。昔よりかくて侍るなり。昔、長者の家なん侍りける。この家は倉どもの跡にて候ふなり」と。
まことにみれば、大きなる礎の石どもあり。
さて「その尻かけさせ給へる石は、その倉のあとを畠に作るとて、畝掘る間に、土の下より掘り出されて侍るなり。それが、かく屋のうちに侍れば、かきのけんと思ひ侍れど、女は力弱し。かきのくべきやうもなければ、憎む憎むかくて置きて侍るなり」と言ひければ、
われこの石とりてん、後に目くせある者もぞ見つくる、と思ひて、女に言ふやう、「この石我とりてんよ」と言ひければ、「よき事に侍り」と言ひければ、その辺に知りたる下人のをんな車をかりにやりて、積みて出でんとするほどに、綿衣をぬぎて、ただにとらんが、罪得がましければ、この女に取らせつ。心も得えでさわぎまどふ。
「この石は、女どもこそよしなし物と思ひたれども、我が家にもて行きて、使ふべきやうのあるなり。されば、ただにとらんが罪得がましければ、かく衣をとらするなり」といえば、「思ひかけることなり。不用の石のかはりに、いみじき寶の御衣の綿のいみじき、給ふらんものとは、あなおそろし」と言ひて、棹のあるにかけて拝む。
さてさて、車にかきのせて、家に帰りて、うち欠き欠き売りて、ものどもを買ふに、米、銭、絹、綾、など、あまたに売りえて、おびたたしき徳人になりぬれば、西の四条よりは北、皇嘉門より西、人も住まぬ、うきのゆふゆふとしたる、一町ばかりなるうきあり。
そこは買ふとも、あたひもせじと思ひて、ただ少しに買ひつ。
主は不用のうきなれば、畠にも作らるまじ、家もえ建つまじ、益なき所と思ふに、価すこしにても買はんといふ人を、いみじきすき者と思ひて売りつ。
上緒の主、このうきを買ひとりて、津の国に行きぬ。舟四五艘ばかり具して、難波わたりに去ぬ。
酒、粥などおほくまうけて、鎌また多うまうけたり。行きかふ人を招き集めて、「この酒、粥、参れ」と言ひて、「そのかはりに、この葦苅りて、少しづつ得させよ」と言ひければ、悦びて集まりて、四五束、十束、二三十束など苅りてとらす。
かくのごとく三四日苅らすれば、山のごとく苅りつ。
舟十艘ばかりにつみ京へのぼる。
酒多くまうけたれば、のぼるままに、この下人共に、「ただに行かんよりは、この綱手ひけ」と言ひければ、この酒をのみつつ、綱手をひきて、いと疾く疾く加茂川尻に引きつけつ。
それより車借に物を取らせつつ、その葦にて、このうきに敷きて、下人どもをやとひて、その上に土はねかけて、家を思ふままに造りてけり。
南の町は、大納言源貞といひける人の家、北の町は、この上緒の主の、埋めて造りける家なり。
それを、この貞の大納言の買ひとりて、二町にはなしたるなりけり。
それいはゆるこのごろの西の宮なり。
かくいふ女の家なりける金の石をとりて、それを本体として、造りたりけるなり。
今は昔、歌よみの元輔、内蔵助になりて、賀茂祭の使しけるに、一條大路わたりけるほどに、殿上人の、車おほく並べたてて、物見ける前わたるほどに、おいらかにてはたわたらで、人み給ふにと思ひて、馬をいたくあふりければ、馬くるひて落ちぬ。
年老いたるものの、頭をさかさまにて落ちぬ。
君達、あないみじと見るほどに、いと疾くおきぬれば、冠ぬげにけり。
もとどりつゆなし。ただほとぎをかづきたるやうにてなんありける。
馬ぞひ、手まどひをして、冠をとりてきせさすれど、後ざまにかきて、「あなさわがし。しばしまて。君達に聞こゆべき事あり」とて、殿上人どもの車のまへに歩みよる。
日のさしたるに、頭きらきらとして、いみじう見苦し。
大路のもの、市をなして、笑ひののしる事限りなし。
車、桟敷のものども、笑ひののしるに、一の車のかたざまに歩みよりていふやう、「君達、この馬よりおちて冠おとしたるをば、をこなりとや思ひ給ふ。しか思ひ給ふまじ。その故は、心ばせある人だにも、物につまづき倒るることは、つねの事なり。まして馬は心あるものにあらず。この大路は、いみじう石たかし。馬はくちを張りたれば、歩まんと思ふだに歩まれず。と引きかう引き、くるめかせば、倒れんとす。馬をあしと思ふべきにあらず。唐鞍はさらなる、あぶみの、かくうべくもあらず。それに、馬はいたくつまづけば落ちぬ。それ悪からず。また冠のおつる事は、物してゆふものにあらず。かみをよくかき入れたるに、とらへるる物なり、それに、鬢は失せにたれば、ひたぶるになし。されば、落ちん事、冠恨むべき様なし。例なきにあらず。何の大臣は、大嘗會の御禊に落つ。何の中納言は、その時の行幸に落つ。かくのごとく、例もかんがへやるべからず。しかれば、案内も知り給はぬこのごろのわかき君達、笑ひ給ふべきにあらず。笑ひ給はばをこなるべし」とて、車ごとに、手を折りつつ数へて、言ひ聞かす。
かくのごとく言ひはてて、「冠もて来」と言ひてなん、とりてさし入れける。
その時に、とよみて笑ひののしること限りなし。冠せさすととて、馬ぞひのいはく、「落ち給ふすなはち、冠を奉らで、などかくよしなしごとは、仰せらるるぞ」と問ひければ、「しれ事な言ひそ。かく道理を言ひ聞かせたらばこそ、この君達は、後々にも笑はざらめ。さらずは、口さがなき君達は、長く笑ひなんものをや」とぞ言ひける。
人笑はする事、やくにするなりけり。
今は昔、三条院の八幡の行幸に、左京属にて、邦の俊宣といふ者の供奉したりけるに、長岡に寺戸といふ所の程行きけるに、人どもの、「この辺には、迷神あんなる辺ぞかし」といひつつ渡るほどに、「俊宣も、さ聞くは」と言ひて行くほどに、過ぎもやらで、日もやうやうさがれば、今は山崎のわたりには行き着ぬべきに、怪しう同じ長岡の辺を過ぎて、乙訓川の面を過ぐと思へば、また寺戸の岸を上る。寺戸過ぎて、また行きもて行きて、乙訓川の面に来て渡るぞと思へば、また少し桂川を渡る。
やうやう日も暮方になりぬ。後先見れば、人一人も見えずなりぬ。後先に遥かにうち続きたる人も見えず。
夜の更けぬれば、寺戸の西の方なる板屋の軒におりて、夜を明かして、つとめて思へば、「我は左京の官人なり。九条にてとまるべきに、かうまで来つらん、きはまりてよしなし。それに同じ所を、夜一夜めぐり歩きけるは、九条の程より迷はかし神の憑きて、率て来るを知らで、かうしてけるなめり」と思ひて、明けてなん、西京の家には帰り来たりける。
俊宣がまさしう語りし事なり。
昔、天竺の人、宝を買はんために、銭五十貫を子に持たせてやる。
大きなる川のはたをゆくに、舟に乗たる人あり。舟のかたを見やれば、舟より、亀、首をさしいだしたり。
銭もちたる人、たちどまりて、この亀をば、「何の料ぞ」と問へば、「殺して物にせんずる」と言ふ。
「その亀買はん」と言へば、この舟の人いはく、いみじき大切のことありて、まうけたる亀なれば、いみじき価なりとも、売るまじきよしをいへば、なほあながちに手をすりて、この五十貫の銭にて、亀を買ひとりて放ちつ。
心に思ふやう、親の、宝買ふに隣の国へやりつる銭を、亀にかへてやみぬれば、親、いかに腹立て給はんずらん。さりとて、また、親のもとへ行かであるべきにあらねば、親のもとへ帰り行くに、道に人のゐて言ふやう、「ここに亀売りつる人は、この下の渡りにて、舟うち返して死ぬ」と語るを聞きて、親の家に帰りゆきて、銭は亀にかへつるよし語らんと思ふほどに、
親のいふやう、「何とてこの銭をば、返しおこせたるぞ」と問へば、
子の言ふ、「さることなし。その銭にては、しかじか亀にかへてゆるしつれば、そのよしを申さんとて参りつるなり」と言へば、
親の言ふやう、「黒衣きたる人、おなじやうなるが五人、おのおの十貫づづもちてきたりつる。これ、そなる」とて見せければ、この銭いまだぬれながらあり。
はや、買ひて放しつる亀の、その銭川に落ち入るをみて、とりもちて、親のもとに、子の帰らぬ先にやりけるなり。
昔、備中国に郡司ありけり。それが子に、ひきのまき人といふありけり。
若き男にてありける時、夢をみたりければ、あはせさせんとて、夢ときの女のもとに行きて、夢あはせて後、物語してゐたるほどに、人々あまた声して来なり。
国守の御子の太朗君のおはするなりけり。年は一七八ばかりの男にておはしけり。
心ばへはしらず、かたちはきよげなり。人四五人ばかり具したり。
「これや夢ときの女のもと」と問へば、御供の侍、「これにて候ふ」と言ひて来れば、まき人は上の方のうちに入りて、部屋のあるに入りて、穴よりのぞきて見れば、この君、入り給ひ、「夢をしかじか見つるなり。いかなるぞ」とて、語り聞かす。
女、聞きて、「よにいみじき夢なり。必ず大臣までなりあがり給ふなり。返す返すめでたく御覧じて候ふ。あなかしこあなかしこ、人に語り給ふな」と申しければ、この君、うれしげにて、衣をぬぎて、女にとらせて、帰りぬ。
その折、まき人、部屋より出て、女にいやふう、「夢はとるといふ事のあるなり。この君の御夢、われらにとらせ給へ。国守は四年過ぎぬれば返りのぼりぬ。我は国人なれば、いつもながらへてあらんずるうへに、郡司の子にてあれば、我をこそ大事に思はめ」と言へば、女「宣はんままに侍るべし。さらば、おはしつる君のごとくにして、入り給ひて、その語られつる夢を、露もたがはず語り給へ」と言へば、まき人悦びて、かの君のありつるやうに、入り来て、夢がたりをしたれば、女おなじやうにいふ。
まき人、いとうれしく思ひて、衣をぬぎてとらせてさりぬ。
その後文をならひ読みたれば、ただ通りに通りて、才ある人になりぬ。
おほやけ、聞こしめして、試みらるるにまことに才深くありければ、唐土へ、「物よくよくならへ」とて、つかはして、久しく唐土にありて、さまざまの事どもならひ伝へて帰りてりければ、帝、かしこき者におぼしめして、次第になしあげ給ひて、大臣までになされにけり。
されば夢とることは、げにかしこしことなり。
かの夢とられたりし備中守の子は、司もなきものにて止みにけり。夢をとられざらましかば、大臣までもなりなまし。
されば、夢を人に聞かすまじきなりと、言ひ伝へける。
昔、甲斐国の相撲、大井光遠は、ひき太にいかめしく、力強く、足速く、みめ、ことがらより始めて、いみじかりし相撲なり。
それが妹に、年二十六七ばかりなる女の、みめ、ことがら、けはひもよく、姿も細やかなるありけり。
それは退きたる家に住みけるに、それが門に、人に追はれたる男の、刀を抜きて走り入りて、この女を質に取りて、腹に刀をさし当てて居ぬ。
人走り行きて、兄人の光遠に、「姫君は質に取られ給ひぬ」と告げければ、光遠がいふやう、「その御許は、薩摩の氏長ばかりこそは、質に取らめ」と言ひて、何となくて居たれば、告げつる男、怪しと思ひて、立ち帰りて、物より覗けば、九月ばかりの事なれば、薄色の衣一重に、紅葉の袴を着て、口おほひして居たり。
男は大なる男の恐ろしげなるが、大の刀を逆手に取りて、腹にさし当てて、足をもて後より抱きて居たり。
この姫君、左の手しては、顔を塞ぎて泣く。
右の手しては、前に矢箆の荒作りたるが、二三十ばかりあるを取りて、手ずさみに、節の本を指にて、板敷に押し当ててにじれば、朽木の柔かなるを押し砕くやうに砕くるを、この盗人目をつけて見るにあさましくなりぬ。
いみじからん兄人の主、金槌をもちて打ち砕くとも、かくはあらじ。
ゆゆしかりける力かな、このやうにては、ただ今のまに、我は取り砕かれぬべし。無益なり、逃げなんと思ひて、人目をはかりて、飛び出でて逃げ走る時に、末に人ども走りあひて捕へつ。
縛りて、光遠がもとへ具して行きぬ。
光遠、「いかに思ひて逃げつるぞ」と問へば、申すやう、「大なる矢箆の節を、朽木なんどのやうに、押し砕き給ひつるを、あさましと思ひて、恐ろしさに逃げ候ひつるなり」と申せば、
光遠うち笑ひて、「いかなりとも、その御許はよも突かれじ。突かんとせん手を取りて、かいねぢて、上ざまへ突かば、肩の骨は上ざまへ出でて、ねぢられなまし。かしこくおのれが腕抜かれまし。宿世ありて、御許はねぢざりけるなり。光遠だにも、おれをば手殺しに殺してん。腕をばねぢて、腹、胸を踏まんに、おのれは生きてんや。それにかの御許の力は、光遠二人ばかり合せたる力にておはするものを。さこそ細やかに、女めかしくおはすれども、光遠が手戯れするに、捕へたる腕を捕へられぬれば、手ひろごりてゆるしつべきものを。あはれ男子にてあらましかば、あふ敵なくてぞあらまし。口惜しく女にてある」と言ふを聞くに、この盗人死ぬべき心地す。
女と思ひて、いみじき質を取りたると思ひてあれども、その儀はなし。
「おれをば殺すべけれども、御許の死ぬべくはこそ殺さめ。おれ死ぬべかりけるに、かしこう疾く逃げて退きたるよ。大なる鹿の角を膝に当てて、小さき枯木の、細きなんどを折るやうにあるものを」とて、追ひ放ちてやりけり。
今は昔、唐土に、何とかやいふ司になりて、下らんとする者侍りき。名をば、慶植と言ふ。
それがむすめ一人ありけり。ならびなくをかしげなりし、十余歳にして失せにけり。父母、泣かなしむことかぎりなし。
さて二年ばかりありて、田舎にくだりて、親しき一家の一類はらから集めて、国へくだるべきよしを言ひ侍らんとするに、市より羊を買取て、この人々に食はせんとするに、その母が夢にみる様、失せしむすめ、青き衣をきて、白きさいでして、頭を包みて、髪に、玉のかんざし一よそひをさしてきたり。生きたりし折にかはらず。
母にいふやう、「我生きて侍りし時に、父母、われをかなしうし給ひて、よろづをまかせ給へりしかば、親に申さで、物をとりつかひ、また人にもとらせ侍りき。盗みにはあらねど、申さでせし罪によりて、いま羊の身を受けたり。来たりて、その報をつくし侍らんとす。明日、まさに首白き羊になりて、殺されんとす。願はくは、我が命をゆるし給へ」と言ふと見つ。
おどろきて、つとめて、食物する所を見れば、まことに青き羊の、首白きあり。
脛、背中白くて、頭に、二つのまだらあり。つねの人の、かんざしさす所なり。
母、これをみて、「しばし、この羊、な殺しそ。殿帰りおはしての後に、案内申して、ゆるさんずるぞ」と言ふに、守殿、物より帰りて、「など、人々参きとて、むつかる。されば、この羊を調じ侍りて、よそはんとするに、うへの御前、『しばし、な殺しそ。殿の申してゆるさん』とて、とどめ給へば」などいへば、腹立て、「ひがごとなせそ」とて、殺さんとてつりつけたるに、
このまらうどども、来て見れば、いとをかしげにて、顔よき女子の言ふやう、「童は、この守の女にて侍りしが、羊になりて侍るなり。けふの命を、御前たち、たすけ給へ」といふに、
この人々、「あなかしこ。あなかしこ。ゆめゆめ殺すな。申して来ん」とて行くほどに、この食物する人は、例の羊とみゆ。
「さだめて遅しと腹立ちなん」とて、うち殺しつ。その羊のなく声、この殺す者の耳には、ただつねの羊のなく声なり。
さて羊を殺して、炒り、焼き、さまざまにしたりけれど、このまらうどどもは、物も食はで帰りにければ、あやしがりて、人々に問へば、しかじかなりと、はじめより語りければ、悲しみて、まどひけるほどに、病になりて死にければ、田舎にも下り侍らずなりにけりとぞ。
今は昔、王城の北、上つ出雲寺といふ寺、たててより後、年久しくなりて、御堂も傾きて、はかばかしう修理する人もなし。
この近う、別当侍りき。その名をば、上覚となん言ひける。これぞ前の別当の子に侍りける。
あひつぎつつ、妻子もたる法師ぞ知り侍りける。いよいよ寺はこぼれて、荒れ侍りける。
さるは、伝教大師の唐土にて、天宗たてん所をえらび給ひけるに、この寺の所をば、絵にかきてつかはしける。
「高雄、比叡山、かむつ寺と、三の中にいづれかよかるべき」とあれば、「この寺の地は、人にすぐれてめでたけれど、僧なんらうがはしかるべき」とありければ、それによりて、とどめたる所なり。
いとやんごとなき所なれど、いかなるにか、さなり果て、わろく侍るなり。
それに、上覚が夢にみるやう、我父の別当、いみじう老いて、杖つきて、出で来て言ふやう、「あさて未の時に、大風吹きて、この寺倒れなんとす。しかるに、我、この寺のかはらの下に、三尺ばかりの鯰にてなん、行方なく、水も少なく、せばく暗き所にありて、あさましう苦しき目をなんみる。寺倒れば、こぼれて庭にはひありかば、童部打ち殺してんとす。その時、汝が前にゆかんとす。童部に打たせずして、加茂川に放ちてよ。さらば広きめもみん。大水に行きて頼もしくなんあるべき」と言ふ。
夢さめて、「かかる夢をこそみつれ」と語れば、「いかなることにか」と言ひて、日暮れぬ。
その日になりて、午の時の末より、にはかに空かき曇りて、木を折り、家を破る風いできぬ。
人々あわてて、家どもつくろひさわげども、風いよいよ吹き増さりて、村里の家どもみな吹き倒し、野山の竹木倒れ折れぬ。
この寺、まことに未の時ばかりに、吹き倒されぬ。柱折れ、棟くづれて、ずちなし。
さるほどに、うら板の中に、年ごろの雨水たまりけるに、大きなる魚どもおほかり。そのわたりの者ども、桶をさげて、みなかき入れさわぐほどに、三尺ばかりなる鯰の、ふたふたとして庭にはひ出たり。
夢のごとく、上覚がまへに来ぬるを、上覚思ひもあへず、魚の大きにたのしげなるにふけりて、鉄杖の大きなるをもちて、頭につきたてて、我が太郎童部をよびて、「これ」と言ひければ、魚大きにてうちとらねば、草刈鎌といふものをもちて、あぎとをかききりて、物につつませて、家にもて入りぬ。
さて、こと魚などしたためて、桶に入れて、女どもにいただかせて、我が坊にかへりたれば、妻の女「この鯰は夢に見えける魚にこそあめれ。なにしに殺し給へるぞ」と、心うがれど、「こと童部の殺さましも同じこと。あへなん、我は」などと言ひて、「こと人まぜず、太郎、次郎童など食ひたらんをぞ、故御房はうれしとおぼさん」とて、つぶつぶときり入れて、煮て食ひて、「あやしう、いかなるにか。こと鯰よりもあぢはひのよきは、故御房の肉なれば、よきなめり。これが汁すすれ」など、あひして食ひけるほどに、大きなる骨喉にたてて、えうえうといひけるほどに、とみに出ざりければ、苦痛して、遂に死に侍り。
妻はゆゆしがりて、鯰をば食はずなりにけりとなん。
昔、美濃国伊吹山に、久しく行ひける聖ありけり。阿弥陀仏より外の事知らず、他事なく念仏申してぞ年経にける。
夜深く、仏の御前に念仏申して居たるに、空に声ありて告げて日く、「汝、ねんごろに我を頼めり。今は念仏の数多く積りたれば、明日の未の時に、必ず必ず来たりて迎ふべし。ゆめゆめ念仏怠るべからず」と言ふ。
その声を聞きて、限りなくねんごろに念仏申して、水を浴み、香をたき、花を散して、弟子どもに念仏もろともに申させて、西に向ひて居たり。
やうやうひらめくやうにする物あり。手を摺りて、念仏申して見れば、仏の御身より金色の光を放ちて、さし入りたり。秋の月の、雲間より現れ出でたるがごとし。
さまざまの花を降らし、白毫の光、聖の身を照らす。
この時、聖尻をさかさまになして拝みに入る。数珠の緒も切れぬべし。
観音、蓮台を差し上げて、聖の前に寄り給ふに、紫雲あつくたなびき、聖這ひ寄りて、蓮台に乗りぬ。さて西の方へ去り給ひぬ。坊に残れる弟子ども、泣く泣く貴がりて、聖の後世をとぶらひけり。
かくて七八日過ぎて後、坊の下種法師ばら、念仏の僧に、湯沸して浴びせ奉らんとて、木こりに奥山に入りたりけるに、遥かなる滝にさし掩ひたる杉の木あり。
その木の梢に叫ぶ声しけり。怪しくて見上げたれば、法師を裸になして、梢に縛りつけたり。
木登りよくする法師、登りて見れば、極楽へ迎へられ給ひし我が師の聖を、葛にて縛りつけて置きたり。
この法師、「いかに我が師は、かかる目をば御覧ずるぞ」とて、寄りて縄を解きければ、「『今迎へんずるぞ、その程暫しかくて居たれ』とて、仏のおはしまししをば、何しにかく解きゆるすぞ」といひけれども、寄りて解きければ、「阿弥陀仏、我を殺す人あり。をうをう」とぞ叫びける。されども法師ばらあまた登りて、解きおろして、坊へ具して行きたれば、弟子ども、「心憂き事なり」と歎き惑ひけり。
聖は人心もなくて、二日三日ばかりありて死にけり。智恵なき聖は、かく天狗に欺かれけるなり。
昔、慈覚大師、仏法を習ひ伝へんとて、唐土へ渡り給ひておはしけるほどに、会昌年中に、唐武宗、仏法をほろぼして、堂塔をこぼち、僧尼をとらへて失ひ、あるいは還俗せしめ給ふ乱に合ひ給へり。
大師をもとらへんとしけるほどに、逃げて、ある堂のうちへ入り給ひぬ。その使、堂へ入りてさがしける間、大師、すべきかたなくて、仏の中に逃げ入りて、不動を念じ給ひけるほどに、使求めけるに、あたらしき不動尊、仏の御中におはしける。
それあやしがりて、いだきおろしてみるに、大師もとの姿になり給ひぬ。
使、おどろきて、帝にこのよし奏す。帝仰せられけるは、「他国の聖なり。すみやかに追ひ放つべし」と仰せければ放ちつ。
大師、喜びて、他国へ逃げ給ふに、はるかなる山をへだてて、人の家あり。築地高くつきめぐらして、一つの門あり。そこに、人立てり。
悦びをなして、問ひ給ふに、「これは、ひとりの長者の家なり。わ僧は何人ぞ」と問ふ。答ていはく、「日本国より、仏法習ひ伝へむとて渡れる僧なり。しかるに、かくあさましき乱れにあひて、しばらくかくれてあらんと思ふなり」といふに、「これは、おぼろけに人のきたらぬ所なり。しばらくここにおはして、世しづまりてのち出て、仏法も習ひ給へ」と言へば、大師喜びをなして、内へ入りぬれば、門をさしかためて、奥の方に入るに、しりにたちて行きて見れば、さまざまの屋ども作り続けて、人多くさわがし。かたはらなる所に据ゑつ。
さて仏法習ひつべき所やあると、見ありき給ふに、仏経、僧侶等すべて見えず。後ろの方、山によりて一宅あり。寄りて聞けば、人のうめく声あまたす。
あやしくて、垣のひまより見給へば、人をしばりて、上よりつりさげて、下に壺どもを据ゑて、血をたらし入る。
あさましくて、故を問へども、いらへもせず。大きにあやしくて、又異所を聞けば、おなじくによふ音す。覗きて見れば、色あさましう青びれたる者どもの、やせ損じたる、あまた臥せり。
一人を招きよせて、「これはいかなることぞ。かやうに堪へがたげには、いかであるぞ」と問へば、木のきれをもちて、細きかひなを差し出でて、土に書くをみれば、「これは纐纈城なり。これへ来たる人には、まづ物いはぬ薬を食はせて、次に肥ゆる薬を食はす、さてその後高き所につり下げて、ところどころをさし切りて、血をあやして、その血にて纐纈をそめて、売り侍るなり。これ知らずして、かかる目を見るなり。食物の中に、胡麻のやうにて、黒ばみたる物あり。それは物いはぬ薬なり、さる物参らせたらば、食ふまねをして捨て給へ。さて人の物申さば、うめきのみうめき給へ。さて後に、いかにもして、逃ぐべきしたくをして、逃げ給へ。門はかたくさして、おぼろけにて逃ぐべきやうなし」と、くはしく教へければ、ありつる居所に帰りゐ給ひぬ。
さるほどに、人、食物持ちて来たり。教へつるやうに、気色のあるもの、中にあり。
食ふやうにして、懐に入りて、のちに捨てつ。
人来たりて物を問へば、うめきて物も宣はず。今はしほせたりと思ひて、肥ゆべき薬を、さまざまにして食はすれば、おなじく、食ふまねして食はず。
人の立ちさりたるひまに、丑寅の方に向かひて、「我が山の三宝、助け給へ」と、手をすりて祈請し給ふに、大きなる犬一匹出できて、大師御袖をくひて引く。
様ありとおぼえて、引くかたに出で給ふに、思ひかけぬ水門のあるよりひき出でぬれば、犬は失せにけり。
今はかうとおぼして、足のむきたる方へ走り給ふ。
はるかに山をこえて人里あり。
人あひて、「これは、いづ方よりはおはする人の、かくは走り給ふぞ」と問ひければ、「かかる所へ行きたりつるが、逃げてまかるなり」と宣ふに、「あはれ、あさましかりける事かな。それは纐纈城なり。かしこへ行きぬる人の帰ることなし。おぼろけの仏の御助ならでは、出づべきやうなし。あはれ、貴くおはしける人かな」とて、拝みて去りぬ。
それよりいよいよ逃げのきて、また都へ入りて、しのびておはするに、会昌六年に武宗崩じ給ひぬ。
翌年大中元年、宣宗、位につき給ひて、仏法滅ぼすことやみぬれば、思ひのごとく仏法ならひ給ひて、十年といふに、日本へ帰り給ひて、真言をひろめ給ひけりとなん。
今は昔、唐にありける僧の、天竺に渡りて、他事にあらず、ただ物のゆかしければ、物見にしありきければ、所々見行きけり。
ある片山に、大なる穴あり。牛のありけるがこの穴に入りけるを見て、ゆかしく覚えければ、牛の行くにつきて、僧も入りけり。
遥かに行きて、明かき所へ出でぬ。見まはせば、あらぬ世界と覚えて、見も知らぬ花の色のいみじきが、咲き乱れたり。牛この花を食ひけり。
試みにこの花を一房取りて食ひたりければ、うまき事、天の甘露もかくあらんとおぼえて、めでたかりけるままに、多く食ひたりければ、ただ肥えに肥え太りけり。
心得ず恐ろしく思ひて、ありつる穴の方へ帰り行くに、初めはやすく通りつる穴、身の太くなりて、狭く覚えて、やうやうとして、穴の口までは出でたれども、え出でずして、堪へ難き事限りなし。
前を通る人に「これ助けよ」と呼ばはりけれども、耳に聞き入るる人もなし。助くる人もなかりけり。
人の目にも何と見えけるやらん、不思議なり。
日ごろ重なりて死にぬ。後は石になりて、穴の口に頭をさし出したるやうにてなんありける。
玄奘三蔵天竺に渡り給ひたりける日記に、この由記されたり。
今は昔、三河入道寂昭といふ人、唐に渡りて後、唐の王、やんごとなき聖どもを召し集めて、堂を飾りて、僧膳を設けて、経を講じ給ひけるに、王宣はく、「今日の斎莚は、手長の役あるべからず。おのおの我が鉢を飛せやりて、物は受くべし」と宣ふ。その心は、日本僧を試みんがためなり。
さて諸僧、一座より次第に鉢を飛ばせて、物を受く。
三河入道末座に着きたり。その番に当たりて、鉢を持ちて立たんとす。
「いかで。鉢をやりてこそ受けめ」とて、人々制しとどめけり。
寂昭申しけるは、「鉢を飛ばする事は、別の法を行ひてするわざなり。然るに寂昭、いまだこの法を伝へ行はず。日本国に於いても、この法行ふ人ありけれど、末世には行ふ人なし。いかでか飛さん」と言ひて居たるに、
「日本の聖、鉢遅し鉢遅し」と責めければ、日本の方に向ひて、祈念していはく、「我が国の三宝、神祇助け給へ。恥見せ給ふな」と念じ入りて居たるほどに、鉢独楽のやうにくるめきて、唐の僧の鉢よりも速く飛びて、物を受けて帰りぬ。
その時、王より始めて、「やんごとなき人なり」とて、拝みけるとぞ申し伝へる。
今は昔、清瀧川の奥に、柴の庵をつくりて行ふ僧ありけり。
水ほしき時は、水瓶を飛ばして、くみにやりて飲みけり。年経にければ、かばかりの行者はあらじと、時々慢心おこりけり。
かかりけるほどに、我がゐたる上ざまより、水瓶来て、水をくむ。
いかなる者の、またかくはするやらんと、そねましくおぼえければ、見あらはさんと思ふほどに、例の水瓶飛び来て、水をくみて行く。
その時、水瓶につきて行きてみるに、水上に五六十町上りて、庵見ゆ。
行きて見れば、三間ばかりなる庵あり。持仏堂、別にいみじく造りたり。まことに、いみじう貴し。物きよくすまひたり。
庭に橘の木あり。木の下に行道したる跡あり。閼伽棚の下に、花がら多く積もれり。砌に苔むしたり。神さびたること限りなし。
窓の隙よりのぞけば、机に経多く巻さしたるなどあり。不断香の煙みちたり。
よく見れば、歳七八十ばかりなる僧の貴げなり。
五鈷をにぎり、脇息におしかかりて、眠ゐたり。
この聖を試みんと思ひて、やはらよりて、火界咒をもちて加持す。
火焔にはかにおこりて庵につく。聖、眠りながら散杖をとりて、香水にさしひたして、四方にそそく。
そのとき庵の火はきえて、我が衣に火つきて、ただ焼きに焼く。
下の聖、大声をはなちてまどふ時に、上の聖、めをみあげて、散杖を持て、下の聖の頭にそそく。その時火きえぬ。
上の聖いはく、「何料にかかる目をば見るぞ」と問ふ。
答へて言ふ、「これは、年ごろ、川のつらに庵をむすびて、行ひ候ふ修行者にて候ふ。この程、水瓶の来て、水をくみ候ひつるときに、いかなる人のおはしますぞと思ひ候ひて、みあらはし奉らんとて参たり。ちと試み奉らんとて、加持しつるなり。御ゆるし候へ。けふよりは御弟子になりて仕へ侍らん」といふに、聖、人は何事いふぞとも思はぬげにてありけりとぞ。
下の聖、我ばかり貴き者はあらじと、驕慢の心のありければ、仏の、にくみて、まさる聖をまうけて、あはせられけるなりとぞ、語り伝へたる。
今は昔、天竺に、仏の御弟子優婆崛多といふ聖おはしき。
如来滅後百年ばかりありて、その聖に弟子ありき。
いかなる心ばへをか見給ひたりけん、「女人に近づくことなかれ。女人に近づけば、生死にめぐること車輪のごとし」と、つねにいさめ給ひければ、弟子の申さく、「いかなる事を御覧じて、たびたび、かやうに承るぞ。我も証果の身にて侍れば、ゆめ女に近づくことあるべからず」と申す。
余の弟子共も、この中にはことに貴き人を、いかなればかく宣ふらんと、あやしく思ひけるほどに、この弟子の僧、物へ行くとて河をわたりける時、女人出来て、おなじく渡りけるが、ただ流に流れて、「あらかなし。われをたすけ給へ。あの御坊」と言ひければ、師の宣ひし事あり。耳に聞き入れじと思ひけるが、ただ流れにうきしづみ流れければ、いとほしくて、よりて手をとりて引わたしつ。手のいと白くふくやかにて、いとよかりければ、この手をはなしえず。
女、「今は手をはづし給へかし」、物恐ろしきものかなと、思ひたるけしきにて言ひければ、僧のいはく、「先世の契ふかきことやらん。きはめて心ざしふかく思ひ聞こゆ。わが申さんこと、きき給ひてんや」と言ひければ、女こたふ、「ただいま死ぬべかりつる命を助け給ひたれば、いかなることなりとも、なにしにかは、いなみ申さん」と言ひければ、うれしく思ひて、萩、すすきのおひ茂りたるところへ、手をとりて、「いざ給へ」とて、引いれつ。
おしふせて、ただ犯しに犯さんとて、股にはさまれてある折、この女を見れば、我師の尊者なり。淺ましく思ひて、ひきのかんとすれば、優婆崛多、股につよくはさみて、「なんの料に、この老法師をば、かくはせたむるぞや。これや汝、女犯の心なき証果の聖者なる」と宣ひければ、物おぼえず、はづかしくなりて、はさまれたるを逃れんとすれども、すべて強くはさみてはづさず。さてかくののしり給ひければ、道行く人集まりてみる。あさましく、はづかしきこと限りなし。
かやうに諸人に見せて後、おき給ひて、弟子をとらへて寺へおはして、鐘をつき、衆會をなして、大衆にこのよし語り給ふ。人々笑ふこと限りなし。
弟子の僧、生きたるにもあらず、死にたるにもあらずおぼえけり。
かくのごとく、罪を懺悔してければ、阿那含果を得つ。
尊者、方便をめぐらして、弟子をたばかりて、仏道に入らしめ給ひけり。
今は昔、海雲比丘、道を行き給ふに、十余歳ばかりなる童子、道にあひぬ。
比丘、童に問ひていふ、「何の料の童ぞ」と宣ふ。
童答へていふ、「ただ道まかる者にて候ふ」と言ふ。
比丘いふ、「汝は法華経はよみたりや」ととへば、童いふ、「法華経と申すらん物こそ、いまだ名をだにも聞き候はね」と申す。比丘またいふ、「さらば我が房に具して行きて、法華経教へん」と宣へば、童「仰せにしたがふべし」と申して、比丘の御供に行ふ。五臺山の坊に行きつきて、法華経を教へ給ふ。
経を習ほどに、小僧常に来て物語を申す。たれ人としらず。
比丘の宣ふ、「つねに来る小大徳をば、童はしりたりや」と。
童「しらず」と申す。
比丘の言ふ、「これこそこの山に住み給ふ文殊よ。我に物語しに来給ふなり」と。
かうやうに教へ給へども、童は文殊と言ふ事もしらず候ふなり。されば、何とも思ひ奉らず。
比丘、童に宣ふ、「汝、ゆめゆめ女人に近づくことなかれ。あたりを払ひて、なるなることなかれ」と。
童、物へ行くほどに、葦毛なる馬に乗たる女人の、いみじく仮粧してうつくしきが、道にあひぬ。
この女の言ふ、「われ、この馬のくち引きてたべ。道のゆゆしく悪しくて、落ちぬべくおぼゆるに」と言ひけれども、童、耳にも聞き入れずして行くに、この馬あらだちて、女さかさまに落ちぬ。
恨みて言ふ、「我を助よ。すでに死べくおぼゆるなり」といひけれども、なほ耳に聞き入れず。
我が師の、女人のかたはらへよることなかれと宣ひしにと思ひて、五台山へかへりて、女のありつるやうを比丘に語り申して、「されども、耳にも聞きいれずして帰りぬ」と申しければ、「いみじくしたり。その女は、文殊の化して、汝が心を見給ふにこそあるなれ」とて、ほめ給ひける。
さるほどに、童は法華経を一部読み終りにけり。
その時、比丘宣はく、「汝法華経を読み果てぬ。今は法師となりて受戒すべし」とて、法師になされぬ。
「受戒をばさづくべからず。東京に禅定寺にいまする、倫法師と申す人、この頃おほやけの宣旨を蒙て、受戒を行き給ふ人なり。其人のもとへ行きて受くべきなり。ただいまは汝を見るまじきことのあるなり」とて、泣き給ふこと限りなし。
童の、「受戒仕へては、すなはち帰り参り候ふべし。いかにおぼしめして、かくは仰せ候ふぞ」と。また「いかなれば、かく泣かせ給ふぞ」と申せば、「ただかなしきことのあるなり」とて泣き給ふ。
さて童に、「戒師の許に行きたらんに、「いづかたよりきたる人ぞ」と問はば、「清涼山の海雲比丘のもとより」と申すべきなり」と教へ給て、なくなく見送り給ひぬ。
童、仰せにしたがひて、倫法師のもとにゆきて、受戒すべきよし申しければ、案のごとく、「いづかたより来る人ぞ」と問ひ給ければ、教へ給ひつるやう申しければ、倫法師驚て、「貴き事なり」とて、礼拝していふ、「五臺山には文殊のかぎり住み給ふ所なり。汝沙彌は、海雲比丘の善知識にあひて、文殊をよく拝み奉りけるにこそありけれ」とて、貴ぶ事限りなし。
さて受戒して、五台山へ帰りて、日ごろゐたりつる坊の在所を見れば、すべて人の住みたるけしきなし。泣く泣くひと山を尋ねありけども、つひに在所なし。
これは優婆崛多の弟子の僧、かしこけれども、心よはく、女に近づきけり。
これはいとけなけれども、心つよくて、女人に近づかず。
かかるが故に、文殊、これを、かしこき者なれば、教化して仏道に入しめ給ふなり。
されば世の人、戒をばやぶるべからず。
今は昔、遍照寺僧正寛朝といふ人、仁和寺をもしりければ、仁和寺のやぶれたるところ修理せさすとて、番匠どもあまたつどひて作りけり。
日暮れて、番匠ども、おのおの出でてのちに、けふの造作はいかほどしたるぞとみんと思ひて、僧正、中結ひうちして、たかあしだはきて、ただひとり歩みきて、あかるくいども結ひたるもとに立ちまはりて、なま夕暮にみられけるほどに、くろき装束したる男の、烏帽子引たれて、顔たしかにも見えずして、僧正の前に出来て、ついゐて、刀をさかさまにぬきて、ひきかくしたるやうにもてなして居たりければ、僧正「かれは何者ぞ」と問ひけり。
男、かた膝をつきて、「わび人に侍り。寒さのたへがたく侍るに、その奉りたる御衣、一二、おろし申さんと思ひ給ふなり」といふままに、飛びかからんと思ひたるけしきなりければ、「ことにもあらぬことにこそあんなれ。かくおそろしげにおどさずとも、ただ乞はで、けしからぬ主の心ぎはかな」といふままに、男かきけちて見えずなりにければ、やはら歩み帰りて、坊のもと近く行きて、「人やある」と、たかやかに呼びければ、坊より、小法師走来にけり。
僧正、「行きて火ともして来よ。ここに我が衣はがんとしつる男の、にはかに失せぬるがあやしければ、見んと思ふぞ。法師ばら、よび具して来」と、宣ひければ、小法師、走かへりて、「御坊ひはぎにあはせ給ふたり。御房たち、参り給へ」と、よばばりければ、坊々にありとある僧ども、火ともし、太刀さげて、七八人、十人と出できにけり。
「いづくに盗人はさぶらふぞ」と問ひければ、「ここにゐたりつる盗人の、我が衣をはがむとしつれば、はがれては寒かりぬべくおぼえて、しりをほうと蹴たれば、うせぬるなり。火を高くともして、かくれ居るかと見よ」と宣ひければ、法師ばら「をかしくも仰せらるるかな」とて、火をうちふりつつ、かみざまを見るほどに、あかるくいの中に落ちつまりて、えはたらかぬ男あり。
「かしこにこそ人は見え侍りけれ。番匠にやあらんと思へども、くろき装束したり」と言ひて、のぼりて見れば、あかるくいの中におちはさまりて、みじろぐべきやうもなくて、うんじ顔つくりてあり。さかてにぬきたりける刀は、いまだ持たり。それを見つけて、法師ばらよりて、刀も、もとどりも、かいなとを、とりてひきあげて、おろして率て参りたり。具して坊に帰りて、「今より後、老法師とて、なあなづりそ。いとびんなきことなり」と言ひて、着たりける衣の中に、綿あつかりけるをぬぎて、とらせて、追ひいだしてやりてけり。
昔、経頼といひける相撲の家のかたはらに、ふる河のありけるが、ふかき淵なる所ありけるに、夏、その川ちかく、木陰のありければ、かたびらばかり着て、中ゆひて、あしだはきて、またぶり杖といふものにつき、小童ひとり供に具して、とかく歩きけるが、涼まんとて、その渕のかたはらの木陰に居りけり。渕青くおそろしげにて、底もみえず。葦、菰などいふ物、生ひしげりたりけるを見て、汀近く立てりけるに、あなたの岸は、六七反ばかりはのきたるらんと見ゆるに、水のみなぎりて、こなたざまに来ければ、何のするにかあらんと思ふほどに、この方の汀近くなりて、蛇の頭をさし出でたりければ、「この蛇大ならんかし。とざまにのぼらんとするにや」と見立てりけるほどに、蛇、頭をもたげて、つくづくとまもりけり。
いかに思ふにかあらんと思ひて、汀一尺ばかりのきて、はた近く立てみければ、しばしばかり、まもりまもりて、頭を引入てけり。
さてあなたの岸ざまに、水みなぎると見けるほどに、又こなたざまに水波たちてのち、蛇の尾を汀よりさしあげて、わが立てる方ざまにさしよせければ、「この蛇、思ふやうのあるにこそ」とて、まかせて見立てりければ、なほさしよせて、経頼が足を三四返ばかりまとひけり。いかにせんずるにかあらんと思ひて、立てるほどに、まとひ得て、きしきしとひきければ、川に引きいれんとするにこそありけれと、その折に知りて、ふみつよりて立てりければ、いみじうつよく引と思ふほどに、はきたるあしだのはをふみ折りつ。
引き倒されぬべきをかまへてふみ直りて立てれば、つよくひくともおろかなり。
ひきとられぬべくおぼゆるを、足をつよくふみ立てければ、かたつらに五六寸ばかり足をふみいれて立てりけり。
よくひくなりと思ふほどに、縄などの切るるやうに切るるままに、水中に血のさつとわき出づる様にみえければ、きれぬるなりとて、足をひきければ、蛇引きさしてのぼりけり。
そのとき、足にまとひたる尾をひきほどきて、足を水にあらひけれども、蛇の跡うせざりければ、「酒にてぞあらふ」と、人の言ひければ、酒とりにやりてあらひなどして後に、従者共よびて、尾のかたを引あげさせたりければ、大きなりなどもおろかなり。
切り口の大きさ、わたり一尺ばかりあるらんとぞ見えける。頭の方のきれを見せにやりたりければ、あなたの岸に木の根のありけるに、かしらにかたを、あまたかへりまとひて、尾をさしおこして、あしをまとひて引くなりけり。
力の劣りて、中より切れにけるなめり。我が身の切るるをもしらず引きけん、あさましきことなりかし。
その後、蛇の力のほど、幾人ばかりの力にかありしとこころみんとて、大きなる縄を、蛇の巻きたる所につけて、人十人ばかりして引かせけれども、「なほたらずたらず」と言ひて、六十人ばかりかかりて引きける時にぞ、「かばかりぞおぼえし」と言ひける。それを思ふに、経頼が力は、さは百人ばかりが力をもたるにやとおぼゆるなり。
今は昔、遣唐使の唐にある間に、妻を設けて、子を生ませつ。その子いまだいとけなきほどに、日本に帰る。
妻に契りて日く、「異遣唐使行かんにつけて、消息やるべし。またこの子、乳母離れん程には迎へ取るべし」と契りて帰朝しぬ。
母、遣唐使の来るごとに、「消息やある」と尋ぬれど、敢へて音もなし。
母大きに恨みて、この児を抱きて、日本へ向きて、児の首に、遣唐使それがしが子といふ札を書きて、結ひつけて、「宿世あらば、親子の中は行きあひなん」と言ひて、海に投げ入れて帰りぬ。
父ある時難波の浦の辺を行くに、沖の方に鳥の浮びたるやうにて、白き物見ゆ。
近くなるままに見れば、童に見なしつ。
怪しければ、馬を控へて見れば、いと近く寄りくるに、四つばかりなる児の、白くをかしげなる、波につきて寄り来たり。
馬をうち寄せて見れば、大なる魚の背中に乗れり。
従者をもちて、抱き取らせて見ければ、首に札あり。
遣唐使それがしが子と書けり。さは、我が子にこそありけれ、唐にて言ひ契りし児を、問はずとて、母が腹立ちて、海に投げ入れてけるが、然るべき縁ありて、かく魚に乗りて来たるなめりと、あはれにおぼえて、いみじうかなしくて養ふ。
遣唐使の行きけるにつけて、この由を書きやりたりければ、母も、今ははかなきものに思ひけるに、かくと聞きてなん、希有の事なりと悦びける。
さてこの子、大人になるままに、手をめでたく書きけり。魚に助けられたりければ、名をば魚養とぞつけたりける。七大寺の額どもは、これが書きたるなりけりと。
これも今は昔、新羅国に后おはしけり。その后、忍びて密男を設けてけり。
帝この由を聞き給ひて、后を捕へて、髪に繩をつけて、上へつりつけて、足を二三尺引き上げて置きたりければ、すべきやうもなくて、心のうちに思ひ給ひけるやう、かかる悲しき目を見れども、助くる人もなし。
伝へて聞けば、この国より東に日本といふ国あなり。その国に長谷観音と申す仏現じ給ふなり。菩薩の御慈悲、この国まで聞こえてはかりなし。
たのみをかけ奉らば、などかは助け給はざらんとて、目をふさぎて、念じ入り給ふほどに、金の榻足の下に出で来ぬ。それを踏まへて立てるに、すべて苦しみなし。人の見るには、この榻見えず。日頃ありて、ゆるされ給ひぬ。
後に、后、持ち給へる宝どもを多く、使をさして長谷寺に奉り給ふ。その中に大なる鈴、鏡、金の簾今にありとぞ。かの観音念じ奉れば、他国の人も験を蒙らずといふ事なしとなん。
これも今は昔、筑紫に丈夫さだしげと申す者ありけり。この頃ある箱崎の丈夫のりしげが祖父なり。そのさだしげ京上しけるに、故宇治殿に参らせ、またわたくしの知りたる人々にも心ざさんとて、唐人に物を六七千疋が程借るとて、太刀を十腰ぞ質に置きける。
さて京に上りて、宇治殿に参らせ、思ひのままにわたくしの人人にやりなどして、帰り下りけるに、淀にて舟に乗りけるほどに、人設けしたりければ、これぞ食ひなどして居たりけるほどに、端舟にて商をする者ども寄り来て、「その物や買ふ。かの物や買ふ」など尋ね問ひける中に、「玉をや買ふ」といひけるを、聞き入るる人もなかりけるに、さだしげが舎人に仕へけるをのこ、舳に立てりけるが、「ここへ持ておはせ。見ん」と言ひければ、袴の腰よりあこやの玉の、大なる豆ばかりありけるを取り出して、取らせたりければ、着たりける水干を脱ぎて、「これにかへてんや」と言ひければ、玉の主の男、所得したりと思ひけるに、惑ひ取りて、舟さし放ちて去にければ、舎人も高く買ひたるにやと思ひけれども、惑ひ去にければ、悔しと思ふ思ふ、袴の腰に包みて、異水干着かへてぞありける。
かかるほどに、日数積もりて、博多といふ所に行き着きにけり。
さだしげ舟よりおるるままに、物貨したりし唐人のもとに、「質は少なかりしに、物は多くありし」などいはんとて、行きたりければ、唐人も待ち悦びて、酒飲ませなどして物語しけるほどに、この玉持のをのこ、下種唐人にあひて、「玉や買ふ」と言ひて、袴見て、「十貫」と言ひければ、惑ひて、「十貫に買はん」といひけり。
「まことは二十貫と言ひければ、それをも惑ひ、「買はん」といひけり。
さては価高き物にやあらんと思ひて、「賜べ、まづ」と乞ひけるを、惜みけれども、いたく乞ひければ、我にもあらで取らせたりければ、「今よく定めて売らん」とて、袴の腰に包みて、退きにければ、唐人すべきやうもなくて、さだしげと向ひたる船頭がもとに来て、その事ともなくさへづりければ、この船頭うち頷きて、さだしげにいふやう、「御従者の中に、玉持ちたる者あり。その玉取りて給ふらん」と言ひければ、さだしげ、人を呼びて、「この共なる者の中に、玉持ちたる者やある。それ尋ねて呼べ」と言ひければ、このさへづる唐人走り出でて、やがてそのをのこの袖を控へて、「くは、これぞこれぞ」とて、引き出でたりければ、さだしげ、「まことに玉や持ちたる」と問ひければ、しぶしぶに、候ふ由を言ひければ、「いで、くれよ」と乞はれて、袴の腰より取り出でたりけるを、さだしげ、郎等して取らせけり。
それを取りて、向ひ居たる唐人、手に入れ受け取りて、うち振りみて、立ち走り、内に入りぬ。何事にもかあらんと見るほどに、さだしげが七十貫が質に置きし太刀どもを、十ながら取らせたりければ、さだしげはあきれたるやうにてぞありける。古水干一つにかへたるものを、そこばくの物にかへてやみにけん、げにあきれぬべき事ぞかし。
玉の価は限なきものといふ事は、今始めたる事にはあらず。筑紫にたうしせうずをいふ者あり。
それがかたりけるは、物へ行きける道に、をのこの、「玉や買ふ」と言ひて、反古の端に包みたる玉を、懐より引き出でて、取らせたりけるを見れば、木欒子よりも小さき玉にてぞありける。
「これはいくら」と問ひければ、「絹二十疋」と言ひければ、あさましと思ひて、物へ行きけるをとどめて、玉持のをのこ具して家に帰りて、絹のありけるままに、六十疋ぞ取らせたりける。
「これは二十疋のみはすまじきものを、少なくいふがいとほしさに、六十疋を取らするなり」と言ひければ、をのこ悦びて去にけり。
その玉を持ちて、唐に渡りけるに、道の程恐ろしかりけれども、身をも放たず、守などのやうに、首にかけてぞありける。
悪しき風の吹きければ、唐人は悪しき波風にあひぬれば、舟の内に一の宝と思ふ物を海に入るるなるに、「このせうずが玉を海に入れん」を言ひければ、せうずがいひけるやうは、「この玉を海に入れては、生きてもかじあるまじ。ただ我が身ながら入れば入れよ」とて、抱へて居たり。さすがに人を入るべきやうもなかりければ、とかくいひけるほどに、玉失ふまじき報やありけん、風直りにければ、悦びて、入れずなりにけり。その舟の一の船頭といふ者も、大きなる玉持ちたりけれども、それは少し平にて、この玉には劣りてぞありける。
かくて唐に行き着きて、「玉買はん」といひける人のもとに、船頭が玉を、このせうずにもたせてやりけるほどに、道に落してけり。あきれ騒ぎて、帰り求めけれども、いづくにあらんずると思ひ侘びて、我が玉を具して、「そこの玉落しつれば、すべき方なし。それがかはりにこれを見よ」とて取らせたれば、「我が玉はこれには劣りたりつるなり。その玉のかはりに、この玉を得たらば、罪深かりなん」とて返しけるぞ、さすがにここの人には違ひたりける。この国の人ならば取らざらんやは。
かくてこの失ひつる玉の事を歎くほどに、遊のもとに去にけり。二人物語しけるついでに、胸を探りて、「など胸は騒ぐぞ」と問ひければ、「しかじの人の玉を落して、それが大事なる事を思へば、胸騒ぐぞ」と言ひければ、「ことわりなり」とぞ言ひける。
さて帰りて後、二日ばかりありて、この遊のもとより、「さしたる事なんいはんと思ふ。今の程時かはさず来」と言ひければ、何事かあらんとて、急ぎ行きたりけるを、例の入る方よりは入れずして、隠れの方より呼び入れければ、いかなる事にあらんと、思ふ思ふ入りたりければ、「これは、もしそれに落したりけん玉か」とて、取り出でたるを見れば、違はずその玉なり。
「こはいかに」とあさましくて問へば、「ここに玉売らんとてすぎつるを、さる事いひしぞかしと思ひて、呼び入れて見るに、玉の大なりつれば、もしさもやと思ひて、いひとどめて、呼びにやりつるなり」といふに、「事もおろかなり。いづくぞ、その玉持ちたりつらん者は」と言へば、「かしこに居たり」と言ふを、呼び取りてやりて、玉の主のもとに率て行きて、「これはしかじかして、その程に落したりし玉なり」と言へば、えあらがはで、「その程に見つけたる玉なりけり」とぞ言ひける。
いささかなる物取らせてぞやりける。
さてその玉を返して後、唐綾一つをば、唐には美濃五疋が程にぞ用ひるなる。
せうずが玉をば、唐綾五千段にぞかへたりける。
その価の程を思ふに、ここにては絹六十疋にかへたる玉を、五万貫に売りたるにこそあんなれ。それを思へば、さだしげが七十貫が質返したりけんも、驚くべくなき事にてありけりと、人の語りしなり。
これも今は昔、白川院の御時、北面のざうしにうるせき女ありけり。名をば六とぞ言ひける。
殿上人ども、もてなし興じけるに、雨うちそぼふりて、つれづれなりける日、ある人、「六および、つれづれなぐさめん」とて、使をやりて、「六よびて来」と言ひければ、ほどなく、「六召して参りて候ふ」と言ひければ、「あなたより内の出居のかたへ具して来」と言ひければ、さぶらひ、いできて、「こなたへ参り給へ」と言へば、「びんなく候ふ」などいへば、侍、帰りきて、「召し候へば、「びんなくさぶらふ」と申して、恐れ申し候ふなり」と言へば、つきみて言ふにこそと思ひて、「などかくはいふ。ただ来」といへども、「ひが事にてこそ候ふらめ。さきざきも内御出居などへ参事も候はぬに」と言ひければ、このおほくゐたる人々「ただ参り給へ。やうぞあらん」とせめければ、「ずちなき恐に候へども、めしにて候へば」とて参る。
このあるじ見やりたれば、刑部録といふ庁官、びんひげに白髪まじりたるが、とくさの狩衣に青袴きたるが、いとことうるはしく、さやさやとなりて、しともおぼえず、物もいはれねば、この廳官、いよいよおそれかしこまりてうつぶしたり。あるじ、さてあるべきならねば、「やや廳には又何者か候ふ」と言へば、「それがし、かれがし」と言ふ。いとげにげにしくもおぼえずして、庁官、うしろざまへすべりゆく。
このあるじ、「かう宮仕へするこそ、神妙なれ。見参には必ずいれんずるぞ。とう罷りね」とこそやりけれ。
この六、のちに聞きて笑ひけるとか。
これも今は昔、青蓮院の座主のもとへ、七宮渡らせ給ひたりければ、御つれづれ慰め参らせんとて、若き僧網、有職など、庚申して遊びけるに、上童のいと憎さげなるが、瓶子取などしありきけるを、ある僧忍びやかに、
♪19 うへわらは 大童子にも 劣りたり
と連歌にしたりけるを、人々暫し案ずるほどに、仲胤僧都、その座にありけるが、「やや、胤、早うつきたり」と言ひければ、若き僧たち、いかにと、顔をまもり合ひ侍りけるに、仲胤は、
♪19-2 祇園の御会を 待つばかりなり
とつけたりけり。
これをおのおの、「この連歌はいかにつきたるぞ」と、忍びやかに言ひ合ひけるを、仲胤聞きて、「やや、わたう、連歌だにつかぬとつきたるぞかし」といひたりければ、これを聞き伝えたる者ども、一度にはつと、とよみ笑ひけりとか。
これも今は昔、「月の大将星をおかす」といふ勘文を奉れり。よりて、「近衛大将重く慎み給ふべし」とて、小野宮右大将はさまざまの御祈どもありて、春日社、山階寺などにも御祈あまたせらる。
その時の左大将は、枇杷左大将仲平と申す人にてぞおはしける。東大寺の法蔵僧都は、この左大将の御祈の師なり。定めて御祈の事ありなんと待つに、音もし給はねば、おぼつかなきに京に上りて、枇杷殿に参りぬ。
殿あひ給ひて、「何事にて上られたるぞ」と宣へば、
僧都申しけるやう、「奈良にて承れば、左右大将慎み給ふべしと、天文博士勘へ申したりとて、右大将殿は、春日社、山階寺などに御祈さまざまに候へば、殿よりも、定めて候ひなんと思ひ給へて、案内つかうまつるに、『さる事も承らず』と、皆申し候へば、おぼつかなく思ひ給へて、参り候ひつるなり。なほ御祈候はんこそよく候はめ」と申しければ、
左大将宣ふやう、「もとも然るべき事なり。されどおのが思ふやうは、大将の慎むべしと申すなるに、おのれも慎まば、右大将のために悪しうもこそあれ。かの大将は、才もかしこくいますかり。年も若し。長くおほやけにつかうまつるべき人なり。おのれにおきては、させる事もなし。年も老いたり。いかにもなれ、何でふ事かあらんと思へば、祈らぬなり」と宣ひければ、
僧都ほろほろとうち泣きて、「百万の御祈にまさるらん。この御心の定にては、ことの恐り更に候はじ」と言ひてまかでぬ。されば実に事なくて、大臣になりて、七十余までなんおはしける。
これも今は昔、御堂關白殿、法成寺を建立し給ひて後は、日ごとに、御堂へ参らせ給ひけるに、白き犬を愛してなん飼せ給ひければ、いつも御身をはなれず御供しけり。ある日例のごとく御供しけるが、門を入らんとし給へば、この犬、御さきにふたがるやうにまはりて、うちへ入れ奉らじとしければ、「なでふ」とて、車よりおりて、入らんとし給へば、御衣のすそをくひて、ひきとどめ申さんとしければ、「いかさま、様ある事ならん」とて、榻を召しよせて、御尻をかけて、晴明に、「きと参れ」と、召しにつかはしたりければ、晴明すなはち参りたり。
「かかることのあるはいかが」と尋ね給ひければ、晴明、しばしうらなひて、申しけるは、「これは君を呪咀し奉りて候ふ物を、みちにうづみて候ふ。御越あらましかば、あしく候ふべき。犬は通力のものにて、つげ申し候ふなり」と申せば、「さて、それはいづくにかうづみたる。あらはせ」と宣へば、「やすく候ふ」と申して、しばしうらなひて、「ここにて候ふ」と申す所を、掘らせて見給ふに、土五尺ばかり掘たりければ、案のごとく物ありけり。
土器を二うちあはせて、黄なる紙捻にて十文字にからげたり。
開きて見れば、中には物もなし。朱砂にて、一文字を土器のそこに書きたるばかりなり。
「晴明が外には、しりたる者候はず。もし道摩法師や仕りたるらん。糺して見候はん」とて、ふところより紙をとり出し、鳥の姿に引きむすびて、呪を誦じかけて、空へ投げ上げたれば、たちまちに、白鷺になりて、南をさして飛び行きけり。
「この鳥おちつかん所をみて参れ」とて、下部を走らするに、六篠坊門萬里小路辺に、古たる家の諸折戸の中へ落ち入りにけり。
すなはち、家主、老法師にてありける、からめ取りて参りたり。
呪咀の故を問はるるに、「堀川左大臣顕光公のかたりをえて仕へたり」とぞ申しける。
「このうへは、流罪すべけれども、道魔がとがにはあらず」とて、「向後、かかるわざすべからず」とて、本国播磨へ、追ひくだされにけり。
この顕光公は、死後に怨霊となりて、御堂殿辺へはたたりをなされけり。開く悪霊左府となづく云々。犬はいよいよ不便にせさせ給ひけるとなん。
これも今は昔、丹後前司高階俊平といふ者ありける。
のちには、法師になりて、丹後入道とてぞありける。
それが弟にて、司もなくてあるものありけり。それが、主のともにくだりて、筑紫にありけるほどに、あたらしく渡たりける唐人の、算いみじく置くありけり。
それにぞあひて、「算置くことならはん」と言ひければ、はじめは心にも入らで、教へざりけるを、すこし置かせてみて、「いみじく算置きつべかりけり。日本にありては、何にかはせん。日本に算置く道、いとしもかしこからぬ所なり。我に具して唐にわたらんと言はば、教へん」と言ひければ、「よくだに教へて、その道にかしこくだにありぬべくは、いはんにこそしたがひて、唐にわたりても、用られてだにありぬべくは、いはんにしたがひて、唐にも具せられていかん」なんど、ことよく言ひければ、それになんひかれて、心に入りて教へける。
教ふるにしたがひて、一事をききては、十事もしるやうになりければ、唐人もいみじくめでて、「我が国に算置くものはおほかれど、汝ばかりこの道に心得たるものはなきなり。かはらずして我に具して、唐へわたれ」と言ひければ、「さらなり。言はんにしたがはむ」と言ひけり。
「この算の道には、病する人を置やむる術もあり。又病えねども、にくし、ねたしと思ふものを、たち所に置き殺す術などあるも、さらに惜しみかくさじ。ねんごろにつたへむとす。たしかにわれに具せんといふちか事たてよ」と言ひければ、まほにはたてず、すこしはたてなどしければ、「なほ人殺す術をば、唐へわたらん船のなかにて伝へん」とて、異事どもをば、よく教へたりけれども、その一事をばひかへて、教へざりけり。
かかるほどに、よく習ひ伝へてけり。それに、にはかに、主の、ことありてのぼりければ、そのともにのぼりけるを、唐人、聞きてとどめけれども、「いかで、としごろの君の、かかることありて、にはかにのぼり給はん、送りせではあらん。思ひしり給へ。約束をばたがふまじきぞ」などすかしければ、げにと唐人思ひて、「さは、かならず帰りてこよ。けふあすにても、唐へかへらんと思ふに、君のきたらんを待つけて、わたらん」と言ひければ、その契りをふかくして、京にのぼりけり。世中のすさまじきままには、やをら唐にや渡りなましと思ひけれども、京にのぼりにければ、したしき人々にいひとどめられて、俊平入道なぼ聞きて、制しとどめければ、筑紫へだに、え行かずなりにけり。
この唐人は、しばしは待ちけるに、音をもせざりければ、わざと使おこせて、文を書きて、恨みおこせけれども、「年老たる親のあるが、けふあすともしらねば、それがならんやう見はてて、行かんと思ふなり」と言ひやりて、行かずなりにければ、しばしこそ待ちけれども、はかりけるなりけりと思へば、唐人は唐に帰り渡りて、よくのろひて行きにけり。
はじめは、いみじく、かしこかりけるものの、唐人にのろはれてのちには、いみじくほうけて、ものおぼえぬやうにてありければ、しわびて、法師になりてけり。入道の君とて、ほうけほうけとして、させる事なき者にて、俊平入道がもとと、山寺などに通ひてぞありける。
ある時、わかき女房どもの集まりて、庚申しける夜、この入道の君、かたすみに、ほうけたる体にて居たりけるを、夜ふけけるままに、ねぶたがりて、中に若くほこりたる女房のいひけるやう、「入道の君こそ。かかる人はをかしき物語し給へ。わらひてめをさまさん」と言ひければ、
入道、「おのれは口てづつにて、人の笑ひ給ふばかりの物語は、えし侍らじ。さはあれども、わらはんとだにあらば、わらはかし奉てんかし」と言ひければ、「物語はせじ、ただわらはかさんとあるは、猿楽をし給ふか。それは物語よりは、まさることにてこそあらめ」と、まだしきに笑ひければ、「さも侍らず。ただ、わらはかし奉らんと思ふなり」と言ひければ、「こは何事ぞ。とく笑はかし給へ。いづらいづら」とせめられて、
何にかあらん、物もちて、火のあかき所へ出で来たりて、何事せんずるぞと見れば、算をさらさらと出しければ、これをみて、女房ども、「これ、をかしきことにてあるかあるか、いざいざわらはん」などあざけるを、いらへもせで、算をさらさらと置きゐたりけり。
置きはてて、ひろさ七八分ばかりの算のありけるを一つ取り出でて、手にささげて、「御ぜんたち、さは、いたく笑ひ給ひて、わび給ふなよ。いざ、笑はかし奉らん」と言ひければ、「その算ささげ給へるこそ、をこがましくてをかしけれ。なにごとにて、わぶばかりは笑はんぞ」など、いひあひたりけるに、その八分ばかりの算を置き加ふると見れば、ある人みなながら、すずろにゑつぼに入にけり。いたく笑ひて、とどまらんとすれどもかなはず。
腹のわた切る心地して、死ぬべくおぼえければ、涙をこぼし、すべきかたなくて、ゑつぼにいりたるものども、物をだにえ言はで、入道にむかひて、手をすりければ、「さればこそ申しつれ。笑ひあき給ひぬや」と言ひければ、うなづきさわぎて、ふしかへり、笑ふ笑ふ手をすりければ、よくわびしめてのちに、置たる算をさらさらと押しこぼちたりければ、笑ひさめにけり。
「いましばしあらましかば、死まなし。またかばかりたへがたきことこそなかりつれ」とぞいひあひける。笑ひこうじて、集まり伏して、病むやうにぞしける。
かかれば、「人を置き殺し、置き生くる術ありといひけるをも伝へたらましかば、いみじからまし」とぞ、人もいひける。
算の道は恐しきことにぞありけるとなん。
今は昔、天智天皇の御子に、大友皇子といふ人ありけり。
太政大臣になりて、世の政を行きてなんありける。
心の中に、「帝失ひ給ひなば、次の帝には、我ならん」と思ひ給ひけり。
清見原天皇、その時は春宮にておはしましけるが、この気色を知らせ給ひければ、「大友皇子は、時の政をし、世のおぼえも威勢も猛なり。我は春宮にてあれば、勢も及べからず。あやまたれなん」と、おそりおぼして、帝、病つき給はばすなはち、「吉野山の奥に入りて、法師になりぬ」と言ひて、籠り給ひぬ。
其時、大友皇子に人申しけるは、「春宮を吉野山にこめつるは、虎に羽をつけて、野に放ものなり。同宮に据へてこそ、心のままにせめ」と申しければ、げにもとおぼして、軍をととのへて、迎へ奉るやうにして、殺し奉らんとはかり給ふ。
この大友皇子の妻にては、春宮の御女ましましければ、父の殺され給はん事をかなしみ給ひて、「いかで、この事告げ申さん」とおぼしけれど、すべきやうなかりけるに、思ひわび給ひて、鮒のつつみ焼のありける腹に、小さく文を書きて、をし入て奉り給へり。
春宮、これを御覧じて、さらでだに恐れおぼしける事なれば、「さればこそ」とて、いそぎ下種の狩衣、袴を着給ひて、藁沓をはきて、宮の人にも知られず、ただ一人、山を越て、北ざまにおはしけるほどに、山城国田原といふ所へ、道も知り給はねば、五六日にぞ、たどるたどるおはしつきにける。
その里人、あやしくけはひのけだかくおぼえければ、高杯に栗を焼き、またゆでなどして参らせたり。
その二色の栗を、「思ふ事かなふべくは、生ひ出でて、木になれ」とて、片山のそへにうづみ給ひぬ。
里人、これを見て、あたしがりて、しるしをさして置きつ。
そこを出で給ひて、志摩国ざまへ、山に添て出で給ひぬ。
その国の人、あやしがりて問ひ奉れば、「道に迷たる人なり。喉かはきたり。水飲ませよと仰せられければ、大なるつるべに、水を汲みて参らせたりければ、喜びて仰せられけるは、「汝は族にこの国の守とはなさん」とて、美濃国へおはしぬ。
この国の洲股の渡りに、舟のなくて布入て洗ひけるに、「この渡り、なにともして渡してんや」と宣ひければ、女申しけるは、「一昨日、大友の大臣の御使といふもの来りて、渡の舟ども、みなとり隠させていにしかば、これを渡り奉りたりども、多くの渡り、え過ぐさせ給ひまじ。かくはかりぬる事なれば、いま軍、責来らんずらん。と言ふ。「さては、いかがしてのがれ給ふべき」と言ふ。「さては、いかがすべき」と宣ひければ、女申しけるは、「見奉るやうあり。ただにはいません人にこそ。さらば隠し奉らん」と言ひて、湯舟をうつぶしになして、その下にふせ奉りて、上に布を多く置きて、水汲かけて洗ゐたり。
しばしばかりありて、兵四五百人ばかり来たり。
女に問ひてふやう、「これより人や渡りつる」と言へば、女のいふやう、「やごとなき人の、軍千人ばかり具しておはしつる。今は信濃国に入り給ひぬらん。いみじき竜のやうなる馬に乗て、飛がごとくしておはしき。この少勢にては、追ひ付き給ひたりとも、みな殺され給ひなん。これより帰りて、軍を多くととのへてこそ追ひ給はめ」と言ひければ、まことにと思ひて、大友皇子の兵、みな引返しにけり。
その後、女に仰せられけるは、「この辺に、軍催さんに、出で来なんや」と問ひ給ひければ、女、はしりまひて、その国のむねとある者どもを催しかたらふに、すなはち、二三千人の兵出で来にけり。
それを引具して、大友皇子を追ひ給ふに、近江国大津といふ所に追付て、たたかふに、皇子の軍やぶれて、散りじりに逃げけるほどに、大友皇子、つゐに山崎にて討たれ給ひて、頭とられぬ。
それより春宮、大和国に帰りおはしてなん、位につき給ひけり。
田原にうづみ給ひし焼栗、ゆで栗は、形もかはらず生ひ出でけり。
今に、田原の御栗として奉るなり。
志摩国にて水めさせたる者は、高階氏のものなり。
されば、それが子孫、国守にてはあるなり。
その水めしたりしつるべは、今に薬師寺にあり。
洲股の女は、不破の明神にてましましけりとなん。
これも今は昔、胡国といふは、唐よりも遙かに北と聞くを、「陸奥の地に続きたるにやあらん」とて、宗任法師とて筑紫にありしが、語り侍りけるなり。
この宗任が父は頼時とて、陸奥の夷にて、おほやけに随ひ奉らずとて、攻めんとせられけるほどに、「いにしへより今にいたるまで、おほやけに勝ち奉る者なし。我は過ぐさずと思へども、責をのみ蒙れば、晴るくべき方なきを、奥地より北に見渡さるる地あんなり。そこに渡りて、有様を見て、さてもありぬべき所ならば、我に随ふ人の限りを、みな率て渡して住まん」と言ひて、まづ舟一つを整へて、それに乗りて行きたりける人々、頼時、廚川の二郎、鳥海の三郎、さてはまた、睦ましき郎等ども二十人ばかり、食物、酒など多く入れて、舟を出してければ、いくばくも走らぬほどに、見渡しなりければ、渡りけり。
左右は遙なる葦原ぞありける。
大なる川の湊を見つけて、その湊にさし入れにけり。
「人や見ゆる」と見けれども、人気もなし。
「陸に上りぬべき所やある」と見けれども、葦原にて、道踏みたる方もなかりければ、「もし人気する所やある」と、川を上りざまに、七日まで上りにけり。
それがただ同じやうなりければ、「あさましきわざかな」とて、なほ廿日ばかり上りけれども、人のけはひもせざりけり。
三十日ばかり上りけるに、地の響くやうにしければ、いかなる事のあるにかと恐ろしくて、葦原にさし隠れて、響くやうにする方を覗きて見ければ、胡人とて、絵に書きたる姿したる者の、赤き物にて頭結ひたるが、馬に乗り連れて、うち出でたり。
「これはいかなる者ぞ」と見る程、うち続き、数知らず出で来にけり。
川原のはたに集り立ちて、聞きも知らぬ事をさへづり合ひて、川にはらはらとうち入りて渡りけるほどに、千騎ばかりやあらんとぞ見えわたる。
これが足音の響にて、遙かに聞こえけるなりけり。
徒の者をば、馬に乗りたる者のそばに、引きつけ引きつけして渡りけるをば、ただ徒渡する所なめりと見けり。
三十日ばかり上りつるに、一所も瀬なかりしに川なれば、かれこそ渡る瀬なりけれと見て、人過ぎて後にさし寄せて見れば、同じやうに、底ひも知らぬ淵にてなんありける。
馬筏を作りて泳がせけるに、徒人はそれに取りつきて渡りけるなるべし。
なほ上るとも、はかりもなく覚えければ、恐ろしくて、それより帰りにけり。
さていくばくもなくてぞ、頼時は失せにける。
されば胡国と日本の東の奥の地とは、さしあひてぞあんなると申しける。
これも今は昔、賀茂祭の供に下野武正、秦兼行遣はしたりけり。
その帰さ、法性寺殿、紫野にて御覧じけるに、武正、兼行、殿下御覧ずと知りて、殊に引き繕ひて渡りけり。
武正殊に気色して渡る。次に兼行また渡る。おのおのとりどりに言ひ知らず。
殿御覧じて、「今一度北へ渡れ」と仰せありければ、また北へ渡りぬ。
さてあるべきならねば、また南へ帰り渡るに、この度は兼行さきに南へ渡りぬ。
次に武正渡らんずらんと人々待つほどに、武正やや久しく見えず。
こはいかにと思ふほどに、向ひに引きたる幔より、東を渡るなりけり。
いかにいかにと待ちけるに、幔の上より冠の巾子ばかり見えて、南へ渡りけるを、人々、「なほすぢなき者の心際なり」とほめけりとか。
これも今は昔、門部の府生といふ舎人ありけり。
若く、身はまづしくてぞありけるに、細弓を好みて射けり。
夜も射ければ、わづかなる家の葺板を抜きて、ともして射けり。
妻もこの事をうけず、近辺の人も、「あはれ、よしなき事し給ふものかな」といへども、「我が家もなくて的射むは、たれも何か苦しかるべき」とて、なほ葺板をともして射る。
これをそしらぬ者、ひとりもなし。
かくするほどに、葺板みな失せぬ。
果てには、垂木、木舞を、割りたきつ。
また後には、棟、うつ梁、焼きつ。後には、桁、柱、みな割りたき、「これ、あさましきもののさまかな」と、いひあひたるほどに、板敷、下桁までもみな割りたきて、隣の人の家に宿りけるを、家主、この人の様体を見るに、この家もこぼちたきなんぞと思ひて、いとへども、「さのみこそあれ、待ち給へ」など言ひてすぐるほどに、よく射るよし聞こえありて、召し出だされて、賭弓つかうまつるに、めでたく射ければ、叡感ありて、はてには相撲の使ひにくだりぬ。
よき相撲どもおほく催し出でぬ。
また数しらず物まうけて、上りけるに、かばね島といふ所は、海賊のあつまる所なり。
すぎ行くほどに、具したるもののいふやう、「あれ御覧候へ。あの舟共は、海賊の舟どもにこそ候ふめれ。こはいかがせさせ給ふべき」と言へば、この門部の府生いふやう、「をのこ、なさわぎそ。千万人の海賊ありとも、今見よ」と言ひて、皮籠より、賭弓の時着たりける装束とり出でて、うるはしく装束きて、冠、老懸など、あるべき定にしければ、従者ども「こはものに狂はせ給ふか。かなはぬまでも、楯づきなどし給へかし」と、いりめきあひたり。
うるはしくとりつけて、かたぬぎて、馬手、うしろ見まはして、屋形のうへに立ちて、「今は四十六歩により来にたるか」と言へば、従者ども「おほかたとかく申すに及ばず」とて、黄水をつきあひたり。
「いかに、かくより来にたるか」と言へば、四十六歩に、近づきさぶらひぬらん」といふ時に、上屋形へ出るて、あるべきやうに弓立ちして、弓をさしかざして、しばしありて、うちあげたれば、海賊が宗徒のもの、くろばみたる物着て、あかき扇をひらきつかひて、「とくとくこぎよせて、のりうつりて、うつしとれ」といへども、この府生、さわがずして、ひきかためて、とろとろと放ちて、弓倒して見やれば、この矢、目にもみえずして、むねとの海賊がゐたる所へ入りぬ。はやく左の目に、このいたつき立ちにけり。
海賊、「や」と言ひて、扇を投げ捨てて、のけざまに倒れぬ。矢をぬきて見るに、うるはしく、戦ひなどする時のやうにもあらず、ちりばかりの物なり。
これをこの海賊ども見て、「やや、これは、うちある矢にもあらざりけり。神箭なりけり」と言ひて、「とくとく、おのおのこぎもどりね」とて、逃げにけり。
その時、門部府生、うす笑ひて、「なにがしらが前には、あぶなく立つ奴ばらかな」と言ひて、袖うちおろして、小唾はきてゐたりけり。海賊、さわぎ逃げけるほどに、袋ひとつなど、少々物ども落としたりける、海に浮かびたりければ、この府生とりて、笑ひてゐたりけるとか。
これも今は昔、土佐判官代通清といふものありけり。
歌をよみ、源氏、狭衣などをうかべ、花の下、月の前とすきありきけり。
かかるすき物なれば、後徳大寺左大臣、「大内の花見んずるに、かならず」といざなはれければ、通清、目出き事にあひたりと思ひて、やがて破車に乗りて行くほどに、あとより車二三ばかりして人の来れば、疑ひなきこの左大臣のおはすると思ひて、尻の簾をかきあげて、「あなうたて、あなうたて。とくとくおはせ」と扉を開きて招きけり。
はやう、関白殿の物へおはしますなりけり。
招くを見て、御供の随身、馬を走らせて、かけ寄せて、車の尻の簾をかりおとしてけり。
其時、通清、あはて騒ぎで、前よりまろび落ちけるほどに、烏帽子落にけり。
いといと不便なりけりとか。
好きぬる者は、すこしをこにもありけるにや。
これも今は昔、堀川兼道公太政大臣と申す人、世心地大事に煩ひ給ふ。
御祈りどもさまざまにせらる。世にある僧どもの参らぬはなし。
参り集ひて御祈どもをす。殿中騒ぐ事限りなし。
ここに極楽寺は、殿の造り給へる寺なり。
その寺に住みける僧ども、「御祈りせよ」といふ仰せもなかりければ、人も召さず。
この時にある僧の思ひけるは、御寺にやすく住む事は、殿の御徳にてこそあれ。
殿失せ給ひなば、世にあるべきやうなし。
召さずとも参らんとて、仁王経を持ち奉りて、物騒がしかりければ、中門の北の廊の隅にかがまり居て、つゆ目も見かくる人もなきに、仁王経他念なく読み奉る。
二時ばかりありて、殿仰せらるるやう、「極楽寺の僧、なにがしの大徳やこれにある」と尋ね給ふに、ある人、「中門の脇の廊に候ふ」と申しければ、「それ、こなたへ呼べ」と仰せらるるに、人々怪しと思ひ、そこばくのやんごとなき僧をば召さずして、かく参りたるをだに、よしなしと見居たるをしも、召しあれば、心も得ず思へども、行きて、召す由をいへば参る。
高僧どもの着き並びたる後の縁に、かがまり居たり。
「さて参りたるか」と問はせ給へば、南の簀子に候ふよし申せば、「内へ呼び入れよ」とて、臥し給へる所へ召し入れらる。
無下に物も仰せられず、重くおはしつるに、この僧召す程の御気色、こよなくよろしく見えければ、人々怪しく思ひけるに、宣ふやう、「寝たりつる夢に、恐ろしげなる鬼どもの、我が身をとりどりに打ちれうじつるに、びんづら結ひたる童子の、楉持ちたるが、中門の方より入り来て、楉してこの鬼どもを打ち払へば、鬼どもみな逃げ散りぬ。『何ぞの童のかくはするぞ』と問ひしかば、『極楽寺のそれがしが、かく煩はせ給ふ事、いみじう歎き申して、年来読み奉る仁王経を、今朝より中門の脇に候ひて、他念なく読み奉りて祈り申し侍る。その聖の護法の、かく病ませ奉る悪鬼どもを、追ひ払ひ侍るなり』と申すと見て、夢覚めてより、心地のかいのごふやうによければ、その悦いはんとて、呼びつるなり」とて、手を摺りて拝ませ給ひて、棹にかかりたる御衣を召して、被け給ふ。
「寺に帰りてなほなほ御祈よく申せ」と仰せらるれば、悦びてまかり出づるほどに、僧俗の見思へる気色やんごとなし
。中門の脇に、ひめもすにかがみ居たりつる、おぼえなかりしに、殊の外美々しくてぞまかり出でにける。
されば人の祈りは、僧の浄不浄にはよらぬ事なり。
ただ心に入りたるが験あるものなり。
「母の尼して祈りをばすべし」と、昔より言ひ伝へたるも、この心なり。
今は昔、越前国に、伊良縁の世恒といふ者ありけり。
とりわきてつかうまつる毘沙門に、物も食はで、物のほしかりければ、「助け給へ」と申しけるほどに、「門にいとをかしげなる女の、家主に物いはんと宣ふ」と言ひければ、誰にかあらんとて、出であひたれば、土器に物を一盛、「これ食ひ給へ。物ほしとありつるに」とて、取らせたれば、悦びて取りて入りて、ただ少し食ひたれば、やがて飽き満ちたる心地して、二三日は物もほしからねば、これを置きて、物のほしき折ごとに、少しづつ食ひてありけるほどに、月ごろ過ぎて、この物も失せにけり。
いかがせんずるとて、また念じ奉りければ、またありしやうに、人の告げければ、始にならひて、惑ひ出でて見れば、ありし女房宣ふやう、「これ下文奉らん。これより北の谷、峯百町を越えて、中に高き峯あり。それに立ちて、『なりた』と呼ばば、もの出で来なん。それにこの文を見せて、奉らん物を受けよ」と言ひて去ぬ。この下文を見れば、「米二斗渡すべし」とあり。
やがてそのまま行きて見ければ、まことに高き峯あり。
それにて、「なりた」と呼べば、恐ろしげなる声にていらへて、出で来たるものあり。
見れば額に角生ひて、目一つあるもの、赤き褌したるもの出で来て、ひざまづきて居たり。
「これ御下文なりこの米得させよ」と言へば、「さる事候ふ」とて、下文を見て、「これは二斗と候へども、一斗を奉れとなん候ひつるなり」とて、一斗をぞ取らせたりける。そのままに受け取りて帰りて、その入れたる袋の米を使ふに、一斗尽きせざりけり。
千万石取れども、ただ同じやうにて、一斗は失せざりけり。
これを国守聞きて、この世恒を召して、「その袋、我に得させよ」と言ひければ、国の内にある身なれば、えいなびずして、「米百石の分奉る」と言ひて取らせたり。
一斗取れば、また出でき出できしてければ、いみじき物まうけたりと思ひて、持たりけるほどに、百石取り果てたれば、米失せにけり。
袋ばかりになりぬれば、本意なくて返し取らせたり。
世恒がもとにて、また米一斗出で来にけり。
かくてえもいはぬ長者にてぞありける。
今は昔、叡山無動寺に、相応和尚といふ人おはしけり。
比良山の西に、葛川の三瀧といふ所にも、通ひて行ひ給ひけり。
その瀧にて、不動尊の申し給はく、「我を負ひて、都卒の内院、弥勒菩薩の御許に率て行き給へ」と、あながちに申しければ、「極めてかたき事なれど、強ひて申す事なれば、率てゆくべし。其尻をあらへ」と仰せければ、瀧の尻にて、水あみ、尻よくあらひて、明王の頭に乗せて、都卒天にのぼり給ふ。
ここに、内院の門の額に、「妙法蓮華」とかかれたり。
明王宣はく、「これへ参入の者は、この経を誦して入り、誦せざれば入らず」と宣へば、はるかに見上げて、相応宣はく、「我、この経、読みは読み奉る。誦すること、いまだかなはず」と。
明王、「さては口惜しき事なり。その儀ならば、参入かなふべからず。帰りて法華経を誦してのち、参り給へ」とて、かき負ひ給ひて、葛川へ帰り給ひければ、泣き悲しみ給ふ事限りなし。
さて本尊の御前にて、経を誦し給ひて後、本意をとげ給ひけりとなん。
その不動尊は、いまに無動寺におはします等身の像にぞましましける。
その和尚、かやうに奇特の効験おはしければ、染殿后、物の怪に悩み給ひけるを、或る人申しけるは、「滋覚大師御弟子に、無動寺の相応和尚と申すこそ、いみじき行者にて侍れ」と申しければ、召しにつかはす。
すなはち御使につれて、参りて、中門にたてり。
人々見れば、長高き僧の、鬼のごとくなるが、信濃布を衣にき、椙のひらあしだをはきて、大木槵子の念珠を持り。
「その体、御前に召上ぐべき者にあらず。無下の下種法師にこそ」とて、「ただ簀子の辺に立ちながら、加持申すべし」と、おのおの申して、「御階の高欄のもとにて、たちながら候へ」と仰せ下しければ、御階の東の高欄に立ちながら、押しかかり祈り奉る。
宮は寝殿の母屋にふし給ふ。いとくるしげなる御声、時々、御簾にほかに聞こゆ。和尚、纔に其声をききて、高声に加持し奉る。その声、明王も現じ給ひぬと、御前に候ふ人々、身の毛よだちておぼゆ。しばしあれば、宮、紅の御衣二ばかりに押しつつまれて、鞠のごとく簾中よりころび出させ給うて、和尚の前の簀子になげ置き奉る。人々さわぎて「いと見ぐるし。内へいれ奉りて、和尚も御前に候へ」といへども、和尚、「かかるかたゐの身にて候へば、いかでか、まかりのぼるべき」とて、更にのぼらず。
はじめ、めし上げられざりしを、やすからず、いきどほり思ひて、ただ簀子にて、宮を四五尺あげて打ち奉る。
人々、しわびて、御几帳どもをさし出だして、たてかくし、中門をさして、人をはらへども、きはめて顕露なり。
四五度ばかり、打ち奉りて、投げ入れ投げ入れ、祈りければ、もとのごとく、内へ投げ入れつ。
その後、和尚まかり出づ。
「しばし候へ」と、とどむれども、「久しく立ちて、腰いたく候ふ」とて、耳にも聞き入れずして出でぬ。
宮は投げ入れられて後、御物の怪さめて、御心地さはやかになり給ひぬ。
験徳あらたなりとて、僧都に任ずべきよし、宣下せらるれども、「かやうのかたゐは、何でふ僧坑になるべき」とて、返し奉る。
その後も、召されけれど、「京は、人をいやしうする所なり」とて、さらに参らざりけるとぞ。
これも今は昔、南京に仁戒上人といふ人ありけり。山階寺の僧なり。才学、寺中に並ぶ輩なし。
しかるに、にはかに道心をおこして、寺を出でんとしけるに、その時の別当興正僧都、いみじう惜しみて、制しとどめて、出だし給はず。
しわびて、西の里なる人の女を、妻にして通ひければ、人々やうやうささやき立ちけり。
人にあまねく知らせんとて、家の門に、この女の頸にいだきつきて、後ろに立ちそひたり。
行き通る人見て、あさましがり、心憂がる事限りなし。
いたづら者になりぬと人に知らせんためなり。
さりながら、この妻と相具しながら、さらに近づく事なし。
堂に入りて、夜もすがら眠らずして、涙を落して行きたり。
この事を別当僧都聞きて、いよいよたうとみて喚び寄せければ、しわびて逃げて、葛下卿の郡司が聟になりにけり。
念珠などをもわざと持たずして、ただ、心中の道心は、いよいよ堅固に行ひけり。
爰に添下郡の郡司、この上人に目をとどめて、深くたうとみ思ひければ、跡も定めずありきける尻に立ちて、衣食、沐浴等をいとなみけり。
上人思ふやう、「いかに思ひて、この郡司夫妻はねんごろに我を訪ふらん」とて、その心を尋ねければ、郡司答ふるやう、「何事か侍らん。ただ貴く思ひ侍れば、かやうに、つかまつるなり。ただし、一事申さんと思ふ事あり」と言ふ。「何事ぞ」と問へば、「御臨終の時、いかにしてかあひ申すべき」と言ひければ、上人、心にまかせたる事のやうに、「いとやすき事にありなん」と答ふれば、郡司、手をすりて悦びけり。
さて、年ごろ過ぎて、ある冬、雪降りける日、暮れがたに、上人、郡司が家に来ぬ。
郡司、喜びて、例の事なれば、食物、下人どもにもいとなませず、夫婦手づからみづからして召させけり。
湯など浴みて、伏しぬ。
暁はまた、郡司夫妻とく起きて、食物、種々にいとなむに、上人の臥し給へる方、かうばしき事限りなし。
匂ひ、一家に宛まり。
「これは名香など焼き給ふなめり」と思ふ。
「暁はとく出ん」と宣ひつれども、夜明るまで起き給はず。
郡司、「御粥いできたり。この由申せ」と御弟子にいへば、「腹悪しくおはす上人なり。悪しく申して打たれ申さん。今起き給ひなん」と言ひてゐたり。
さるほどに、日も出でぬれば、「例はかやうに久しくは寝給はぬに、あやし」と思ひて、寄りておとなひけれど、音なし。
引きあけて見ければ、西に向かひ、端座合掌して、はや死に給へり。
あさまき事限りなし。
郡司夫婦、御弟子共など、泣き悲しみ、かつはたうとみ拝みけり。
「暁かうばしかりつるは、極楽の迎へなりけり」と思ひ合はす。
「おはりにあひ申さんと申ししかば、ここに来給ひてけるにこそ」と、郡司泣く泣く葬送の事もとり沙汰しけるとなん。
今は昔、唐の秦始皇の代に、天竺より僧渡れり。
帝あやしみ給ひて、「これはいかなる者ぞ。何事によりて来たれるぞ」。
僧申していはく、「釈迦牟尼仏の御弟子なり。仏法を伝へんために、遙に西天より来たり渡れるなり」と申しければ、帝腹立ち給ひて、「その姿きはめて怪し。頭の髪禿なり。衣の体人に違へり。仏の御弟子と名のる。仏とは何者ぞ。これは怪しき者なり。ただに返すべからず。人屋に籠めよ。今より後、かくのごとく怪しき事いはん者をば、殺さしむべきものなり」と言ひて、人屋に据ゑられぬ。
「深く閉ぢ籠めて、重くいましめて置け」と宣旨を下されぬ。
人屋の司の者、宣旨のままに、重く罪ある者置く所に籠めて置きて、戸にあまた錠さしつ。
この僧、「悪王にあひて、かく悲しき目を見る。我が本師釈迦牟尼如来、滅後なりとも、あらたに見給ふらん。我を助け給へ」と念じ入りたるに、釈迦仏、丈六の御姿にて、紫磨黄金の光を放ちて、空より飛び来たり給ひて、この獄門を踏み破りて、この僧を取りて去り給ひぬ。
その次に、多くの盗人どもみな逃げ去りぬ。
獄の司、空に物の鳴りければ、出でて見るに、金の色したる僧の、光を放ちたるが、大さ丈六なる、空より飛び来たりて、獄の門を踏み破りて、籠められたる天竺の僧を、取りて行く音なりければ、この由を申すに、帝、いみじくおぢ恐り給ひけりとなん。
その時に渡らんとしける仏法、世下りての漢には渡りけるなり。
今は昔、唐に荘子といふ人ありけり。家いみじう貧しくて、今日の食物絶えぬ。隣に監河侯といふ人ありけり。それがもとへ、今日食ふべき料の粟を乞ふ。
河侯がいはく、「今五日ありておはせよ。千両の金を得んとす。それを奉らん。いかでかやんごとなき人に、今日参るばかりの粟をば奉らん。返す返すおのが恥なるべし」と言へば、
荘子のいはく、「昨日道をまかりしに、跡に呼ばふ声あり。顧みれば人なし。ただ車の輪跡のくぼみたる所にたまりたる少水に、鮒一つふためく。何ぞの鮒にかあらんと思ひて、寄りて見れば、少しばかりの水に、いみじう大なる鮒あり。『何ぞの鮒ぞ』と問へば、鮒のいはく、『我は河伯神の使に、江湖へ行くなり。それが飛びそこなひて、この溝に落ち入りたるなり。喉乾き死なんとす。我を助けよと思ひて、呼びつるなり』と言ふ。答へていはく、『吾今二三日ありて、江湖もとといふ所に遊びしに行かんとす。そこにもて行きて放さん』と言ふに、魚のいはく、『さらにそれまで、え待つまじ。ただ今日一提ばかりの水をもて、喉をうるへよ』と言ひしかば、さてなん助けし。鮒の言ひし事、我が身に知りぬ。さらに今日の命、物食はずは生くべからず。後の千の金、さらに益なし」とぞ言ひける。
それより、後の千金といふ事、名誉せり。
これも今は昔、唐土に、柳下恵といふ人ありき。世の賢き者にして、人に重くせらる。
その弟に、盗跖と言ふものあり。一の山懐に住みて、もろもろの悪しき者を招き集めて、おのが伴侶として、人の物をば我が物とす。ありくときは、この悪しき者どもを具する事、二三千人なり。道に逢ふ人を滅ぼし、恥を見せ、よからぬ事の限りを好みて過ぐすに、柳下恵、道を行く時に、孔子にあひぬ。
「いづくへおはするぞ。自ら対面して聞こえんと思ふことのあるに、かしこく逢ひ給へり」と言ふ。
柳下恵「いかなる事ぞ」と問ふ。「教訓し聞こえんと思ふ事は、そこの舎弟、もろもろの悪しき事の限りを好みて、多くの人を嘆かする、など制し給はぬぞ。」
柳下恵、答へて言はく、「おのれが申さむ事を、あへて用ふべきにあらず。されば嘆きながら年月を経るなり」と言ふ。
孔子のいはく、「そこ教へ給はずは、我行きて教へん。いかがあるべき。」
柳下恵言ふ、「さらにおはすべからず。いみじき言葉を尽くして教へ給ふとも、なびくべき者にあらず。返りて悪しき事出で来なん。あるべき事にあらず。」
孔子いはく、「悪しけれど、人の身を得たる者は、おのづからよき事を言ふに、つく事もあるなり。それに、『悪しかりなん、よも聞かじ』と言ふことは、僻事なり。よし、見給へ。教へて見せ申さん」と、言葉を放ちて、盗跖がもとへおはしぬ。
馬より下り、門に立ちて見れば、ありとある者、獣、鳥を殺し、もろもろの悪しき事をつどへたり。
人を招きて、「魯の孔子と言ふものなん参りたる」と、言ひ入るるに、すなはち使帰りていはく、「音に聞く人なり。何事によりて来れるぞ。人を教ふる人と聞く。我を教へに来れるか。我が心にかなはば、用ひん。かなはずは、肝膾に作らん」と言ふ。
その時に、孔子進み出でて、庭に立ちて、先盗跖を拝みて、上りて座に着く。
盗跖を見れば、頭の髪は上ざまにして、乱れるたること蓬のごとし。目大きにして、見くるべかす。鼻をふきいからかし、牙をかみ、髭をそらしてゐたり。
盗跖が言はく、「汝来たれる故はいかにぞ。たしかに申せ」と、怒れる声の、高く恐ろしげなるをもちて言ふ。
孔子思ひ給ふ、かねても聞きし事なれど、かくばかり恐ろしき者とは思はざりき。
かたち、有様、声まで、人とはおぼえず。肝心も砕けて、震はるれど、思ひ念じていはく、「人の世にある様は、道理をもちて身の飾りとし、心の掟とするものなり。天をいただき、地を踏みて、四方を固めとし、おほやけを敬ひ奉る。下を哀れみ、人に情をいたすを事とするものなり。しかるに、承れば、心のほしきままに、悪しき事をのみ事とするは、当時は心にかなふやうなれども、終り悪しきものなり。さればなほ、人はよきに随ふをよしとす。然れば申すに随ひていますかるべきなり。その事申さんと思ひて、参りつるなり」と言ふ時に、
盗跖、雷のやうなる声をして、笑ひていはく、「汝が言ふ事ども、一つも当たらず。その故は、昔、堯舜と申す二人の帝、世に貴まれ給ひき。しかれども、その子孫、世に針さすばかりの所を知らず。また、世に賢き人は、伯夷、叔齊なり。首陽山に伏せりて飢ゑ死にき。また、そこの弟子に、顔回といふ者ありき。賢く教へたてたりしかども、不幸にして命短し。また、同じき弟子にて、子路といふ者ありき。衛の門にして殺されき。しかあれば、賢き輩は、つひに賢き事もなし。我また、悪しき事を好めど、災身に来たらず。ほめらるるもの、四五日に過ぎず、そしらるるもの、また四五日に過ぎず。悪しき事もよき事も、長くほめられ、長くそしられず。しかれば、我が好みに随ひて振る舞ふべきなり。汝また木を折りて冠にし、皮をもちて衣とし、世を恐り、おほやけにおぢ奉るも、二たび魯に移され、跡を衛に削らる。など賢からぬ。汝がいふ所、まことに愚かなり。すみやかに、走り帰りね。一つも用ふるべからず」と言ふ時に、
孔子、また言ふべきことおぼえずして、座を立ちて、急ぎ出でて、馬に乗り給ふに、よく臆しけるにや、轡を二度取りはづし、鐙をしきりに踏みはづす。
これを、世の人「孔子倒れす」と言ふなり。