深草の帝
♪♪♪良少将=少将大徳=僧正(六歌仙:僧正遍照)
♪♀女
深草の帝と申しける御時、良少将といふ人、いみじき時にてありける。
いと色好みになむありける。
しのびてときどきあひける女、おなじ内にありけり。
「今宵かならずあはむ」と契りたりける夜ありけり。
女いたう化粧して待つに、音もせず。
目をさまして、夜や更けぬらむと思ふほどに、
時申す音のしければ、聞くに、「丑三つ」と申しけるを聞きて、男のもとに、ふと言ひやりける。
♪280
人心 うしみつ今は 頼まじよ
といひやりけるに、おどろきて、
♪280-2
夢に見ゆやと ねぞすぎにける
とぞつけてやりける。
しばしと思ひて、うちやすみけるほどに、寝過ぎにたるになむありける。
かくて世にも労あるものにおぼえ、つかうまつる帝、かぎりなくおぼされてあるほどに、この帝、うせ給ひぬ。
御葬の夜、御供にみな人つかうまつりけるなかに、その夜より、この少将うせにけり。
友だち、妻も、いかならむとて、しばしはここかしこもとむれども、音耳にも聞こえず。
法師にやなりにけむ。身をや投げてけむ。
法師になりたらば、さてなむあるとも聞こえなむ、なほ身を投げたるなるべしと思ふに、
世の中にもいみじうあはれがり、妻子どおはさらにもいはず、夜昼精進潔斎して、世間の仏神に願を立てまどへど、音にも聞こえず。
妻は三人なむありけるを、よろしく思ひけるには、「なほ世に経じとなむ思ふ」と二人には言ひけり。
かぎりなく思ひて子供などあるには、ちりばかりもさるけしきも見せざりけり。
このことをかけてもいはば、女も、いみじと思ふべし。
われも、えかくなるまじき心地のしければ、寄りだに来で、にはかになむ失せにける。
ともかくもなれ、「かくなむ思ふ」ともいはざりけることのいみじきことを思ひつつ泣きいられて、初瀬の御寺にこの妻まうでにけり。
この少将は法師になりて、蓑ひとつをうち着て、世間世界を行ひありきて、初瀬の御寺に行ふほどになむありける。
局近うゐて行へば、この女、導師にいふやう、
「この人かくなりにたるを、生きてこの世にあるものならば、いまひとたびあひ見せ給へ。
身を投げ死にたるものならば、その道なし給へ。
さてなむ死にたりとも、この人のあらむやうを、夢にてもうつつにても、聞き見せ給へ」
といひて、わが装束、上下、帯、太刀まで、みな誦経にしけり。
みづからも申しもやらず泣きけり。
はじめは、「なに人のまうでたるらむ」と聞きゐたるに、
わが上をかく申しつつ、わが装束などをかく誦経するを見るに、心も肝もなく、悲しきこと、ものに似ず。
走りやいでなまし、と千たび思ひけれども、思ひかへし思ひかへしゐて、夜ひと夜泣きあかしけり。
わが妻子どもの泣く泣く申す声どもも聞こゆ。
いといみじき心地しけり。
されど念じて泣きあかして、朝に見れば、蓑もなにも涙のかかりたる所は、血の涙にてなむありける。
「いみじう泣けば、血の涙といふものはるものになむありける」
とぞいひける。
「その折なむ走りもいでぬべき心地せし」
とぞ、後にいひける。
かかれどなほえ聞かず。
御はてになりて、御ぶくぬぎに、よろづの殿上人、川原にいでたるに、
童のことやうなるなむ、柏に書きたる文をもて来たる。
とりて見れば、
♪281
みな人は 花の衣に なりぬなり
苔のたもとよ かはきだにせよ
とありければ、この良少将の手に見なしつ。
「いづら」といひて、もて来し人を世界にもとむれど、なし。
法師になりたるべしとは、これにてなむみな人知りにける。
されど、いづくにかあらむといふこと、さらにえ知らず。
かくて世の中にありけりといふことを聞こし召して、
五条の后の宮より、内舎人を御使にて、山々たづねさせ給ひける。
「ここにあり」
と聞きて、いけば失せぬ。
「かしこにはあり」
と聞きてたづぬれば失せぬ。えあはず。
からうじて、かくれたる所にゆくりもなくいにけり。
えかくれあへであひにけり。
「宮より御使になむまゐり来つる」
とて、
「おほせごとには、
『かう、帝もおはしまさず、むつまじくおぼしめしし人をかたみと思ふべきに、かく世に失せかくれ給ひにたれば、いとなむ悲しき。
などか山林に行ひ給ふとも、ここにだに消息も宣はぬ。御里とありし所にも、音もし給はざなれば、いとあはれになむ泣きわぶる。
いかなる御心にて、かうはものし給ふらむと聞こえよ』
とてなむおほせられつる。
ここかしこたづね奉りてなむ、まゐり来つる」
といふ。
少将大徳うち泣きて、
「おほせごと、かしこまりて承りぬ。
帝かくれた舞うて、かしこき御蔭にならひて、おはしまさぬ世に、
しばしもありふべき心地もしはべらざりしかば、かかる山の末にこもりはべりて、死なむを期にてと思ひ給ふるを、
まだなむかくあやしきことは生きめぐらひはべる。
いともかしこくとはせ給へること。
わらはべの侍ることは、さらに忘れ侍る時も侍らず」
とて、「
♪282
かぎりなき 雲ゐのよそに わかるとも
人を心に おくらさめやは
となむ申しつると啓し給へ」
といひける。
この大徳の顔かたち、姿を見るに、悲しきことものにも似ず。
その人にもあらず、影のごとになりて、ただ蓑をのみなむ着たりける。
少将にてありし時のさまの、いと清げなりしを思ひいでて、涙もとどまらざりけり。
悲しとても、かた時のゐるべくもあらぬ山の奥なりければ、泣く泣く、
「さらば」
といひてかへり来て、この大徳たづねいでて、ありつるよしを、上のくだり啓せさせてけり。
后の宮も、いといたう泣き給ふ。
さぶらふ人々も、いらなくなむ泣きあはれがりける。
宮の御返りも、人々の消息も、いひつけてまたやれりければ、ありし所にもまたなくなりにけり。