紀貫之『土佐日記』935年、原文全文対照、55日。和歌一覧、歌60首(和歌58、長歌1、舟歌1)。
総論目次
・男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなりの解釈:
=男もしてる日記を女もしてみようといって(分かり易い仮名で)するなりという啓蒙。「む」は勧誘。
通説は、女の私もしてみようと思って、貫之は女を装った(仮託した)とするが、第一に貫之は女ではないし、女を装う動機も女を装った特殊な文脈もない。したがって、貫之はなぜ女を装ったのかと論を立てる説や、貫之も男目線から抜け切れなかったとかいう説があるが、これ自体貫之が女を装う動機も文脈もなく思い込んで見ていることの証拠。
冒頭貫之の署名、解由(辞令)の文脈、全て男目線の文脈であり、女を装っていないと通らない文脈がどこにもない。つまり通説は、事実と論理に基づかない自分達の集団的思い込みを根拠としている。
加えて日本初のかな和歌集・905年の古今集において女子は上位20人中2人のみ(伊勢・小町。全体は女子1割以下)、さらに貫之は古今の仮名序を記したがそこでは女を装ったとされていない。935年の土佐日記以前に女流作品は現状認定されておらず、最初の女流作品とされる蜻蛉日記は954-974年の内容である。
以上から、仮名文字は漢(オトコ)に対し軟弱な男が開発したのもので、貫之らの啓蒙を受けて、女性の「日記」が続いたと見るのが確実な根拠のある認定。土佐でも「男文字」とあるが、女文字とはしていない。これは万葉「ますらを」、古今「たをやめ」と同旨の文字(キャラクター性)の比喩としか解せない。
貫之も男目線から抜け切れなかったとかいう説は、はなから女目線ではないので失礼ではないか。もしできれば撤回してほしい。海の向こうのマッチョ礼賛の国と比較して、過小評価や過ちを潔く認め、擁護賛同に回る現象を目にした記憶がないが、それは個人の実力の軽視と女々しさによるのかもしれない。
・「上中下」「しほ海のほとりにてあざれあへり」の解釈:
上中下の伊勢82段の渚の院の固有表現で、中は中将。身分は古来上下で、上中下とは言わない。それを示すために土佐はこの後で「上下童まで醉ひしれて」とし(童が酔うのもおかしい)、さらに「渚の院」を明示して引用している。したがって土佐と宇治拾遺の序の「上中下」はこの用法が枕詞化したもの。いずれもおかしさが特徴の作風であり、この表現が身分の一般用法ということはできない。竹取の「今は昔」なども物語の普通の表現とみなす傾向は、ひとえに始祖達の実力を軽視したがる多数の人々の認識による(出る杭は認めない、出ていると認めない。認識を変えて対応する)。
「しほ海のほとり」=渚。その文脈を読み込んでいる。
「あざれ」には通説は、あざる(鯘)という語に掛け、海で魚が腐らないはずのなのに腐れ合うと掛けたおかしみとするが、人が腐れ合うという表現はないし、おかしくても意味頭がおかしいタイプのおかしさ。これはざれあうこと・ふざけあう意味でしかない(戯る・狂る)。まず面白くないし、掛かりというが、魚が腐る意味がないので掛かっていない。