六歌仙の文屋の康秀と同じ名(前の名に掛け名前)。法務博士(文屋は判事。さらに縫殿という後宮女官担当。このような経歴ある歌人は一人だけ)。
その知見と境遇を継承していると思ってほしい。
大学どころか30代後半(2019年)まで古文にも和歌にも興味はなかったが、後で説明する小野さんと六階の六つの席の職場で会った頃、竹取と伊勢を読み、原文を見たまま意味が解り、成立背景もわかった。
六歌仙唯一の女性が小野小町。彼女は見た目が先で有名になったのではない。女性で身元不詳なのに、なぜか古今の和歌上位だから有名になったのであり美人というのは言わば後づけ(古今で上位20人中女子は2人、伊勢の御息所と小町のみ。平安初期に仮名文字は女性のものなどではなく、古今だけでもそういう根拠はない)。
そして小町の歌は文屋の作詞ということは、縫殿という特殊な文屋の経歴、小町が断固男を拒んだ小町針という逸話、古今の秋下恋二で巻先頭連続という両者表裏一体の配置、小町が返事した相手は文屋のみ(古今938)であることから、盤石に証明できる(先頭連続は他は物名の敏行のみ、業平は恋三で敏行に先頭を崩される。ページフッター部研究概要参照)。
これらは文屋8・9貫之と文屋を立て最初に詞書を付し、物知らぬ世間の業平上げに断固対抗した貫之の配置という他ないが、学説は伝統的に文屋を軽視してきたため、こうした配置を認知すらできない(木を見て森を見ず、群盲象を評す。業平初出53=ゴミ)。
これらは何かの参考文献をヒントにして考えたのではなく、古文を読み始め一年ほどで自分で古今の原文データを整理し理解した。学説が見たまま意味をとれてないのもわかる。従来の解説を上から被せて理解したように思っているに過ぎない。
文屋姓は極少数、宮城・神奈川・岡山・北海道・東京の順に居るとされるが、私はこの全てに住んだことがある。
出生地が岡山(奈義町。裏山が那岐山でイザナギの那岐神社がある)、主な出身地が北海道(実家は春光という所。嵐山も近くにあった。いずれも文屋の和歌を象徴)、現在は東京・靖国神社辺り。
この観点から、竹取物語と伊勢物語が文屋の作というのは単なる私の面白仮説ではなく、合理的疑いをいれる余地がないほど多角的証拠で盤石に証明できる100%絶対の事実。従来の業平を前提にした学説の疑いは全く合理的ではない。自分達が理を決めている理性的集団と思い込むのが日本の論理の根本的な誤り。風評に基づく再伝聞を理論づけようと論文を重ねても、論理は弱くなりこそすれ強くはならない。そうした筋違いの見立てから次々生じる矛盾について言をアクロバティックに左右にして説明する労力を学問や政治の役割と勘違いしているように思われるが、それは御用系学問の努力であっても学問的努力ではない。
これを認められるかどうかは認識レベルによる。私一個人は信頼に値せず、集合体の公こそ信頼に値すると思っている社会と個人の。
自分達で決めれば何でも正しくできると思う、これが無法で古くは末法(普遍の法の根本的無理解)。
自分達の理屈が世界を支配していると思い込む、これが公頂点主義教育の認識枠組みの構造的限界。
摂理を考えたこともない人の論理と理論は、根本が自分達(社会)本位で当てつけた理屈に過ぎない。
30代半ばまで古文に一切興味も関わりもなかったが、職場に小野さんという女性が来た頃(六歌仙の一人が小野小町)、空いた時間で、竹取物語・伊勢物語を読み、原文を見たまま意味がわかることがわかった(職場は記事屋=文屋、6階の6つの席)。しかしその前は何もなかったので、小野さんが来て条件が満たされたと思う。
小野さんの名は「こまち」の一字を一字進めたアナグラム。小町は一切身元不詳とされるが、文屋の職歴の代名詞の縫殿つながりで、男達を断固拒否した小町針という逸話があることからも縫殿の下位女官という以外ありえない(独自)。
小野さんは服飾学校の出で縫うのは苦手と言っていたので100%確実(私が聞き出したのではなく、特に関わりない時に他の人にそう言っていたのが聞こえてきた。ちなみに私に接点あった人で服飾学校出の人は他に一人もいない)。
小町は美人で有名になったのでなく、初の勅撰歌集に多数収録されながら、出自不明の神秘的歌人だったから国家的伝説となったと見るのが筋。
また私は麴町(こうじまち)とつく建物に住んでおり、至近に靖国神社があり、通り名は靖国通り、最寄りは市ヶ谷、小野さんは越ケ谷。
私が以前プレーリードッグ(北米の小動物)に似ていたと言われたことがあるというと、小野さんは「私、プレーリードッグ飼ってた!」という。そんな偶然があるか。よって偶然ではない。これを解釈すると小町と少しの間、同棲していたと思う。
さらに私は北海道育ちだが、実家と学校が6条にあり(実家は春光という住所で、文屋の代表作・古今8は雪と春の光の歌)、嵐山も京都と同じ配置で近くにあり子供の頃はスキーにも何回かいった(職場の一階付近にも京都の嵐山本店の呉服屋があり、また文屋の百人一首の句は、山風を嵐というもの)。
そんな感じで色々北海道の話をして、確か3~4月頃、これからの初夏の季節は観光に良い、美瑛とかラベンダーが良いというと、小野さんは数か月もしない内に旅行でそこに行って、おすすめしたラーメン(蜂屋)がおいしかったと言ってくれ、どうして道に条がついているのか質問してきたりした。
結局その職場は色々あって辞めることになると、「ど~して…?」と言ってくれたが、色々言って君が何を言っているのかわからないよ状態にさせてしまい、3年後そこに顔を出して見ると、小野さんも辞めていた。
とまあ、千年前もこんな感じだったと思う。
またこの職場には、二条の后の名前をもじったような綺麗な人が隣の部署にいた。
そんなこんなで、世間の古文の原文、特に和歌の解説・通説の、少なからずの失笑レベルのこじつけ曲解が直ちにわかるようになり(他の解説・権威ある文献と比較しておかしいというのではない)、
・竹取伊勢両物語の著者は未詳とされるが、100%文屋が書いたものであること、
(他候補を学者が想像で次々繰り出しても筋は絶対通らない。伊勢物語は当初業平が著者=昔男と、事実の根拠なく業平日記・業平歌集と安易に丸ごとみなしてきた(そういう呼称もある上に一般の認識は今もそう)ことを集団健忘し、物語後半で初出の在五(業平)言及段の他人目線記述と辻褄が合わなくなると、お馬鹿な業平を思慕した著者とか、業平に仮託しながら自由になったとなどとこね始めた。議論は何も進んでいない)
・かぐやは光を放つ衣通姫のりうという小町がモデルであること、
・個の文芸的実績と無縁の公至上主義の御用系学者が、京の根本的精神、をかしとあはれ、即ち大真面目で滑稽な権力に対する批判(それが竹取の一つの趣旨)を認めず、全体主義的・大政翼賛会的に解釈と称し、全力で超転回で賛美に文言を曲げていること、
・小町は自分で和歌が詠めず文屋の歌を詠んでいたこと(当初小町を文屋の代役として出したのがきっかけと見ないと通らない)、
・小町の詞書の有意な少なさと未詳経歴、京への執着のなさも、それを裏付けていること、
上記の情況で、私のこれまでの境遇・経歴・職能はこれまでの生の要所をなぞり、かつ古文の専門的文献・文言解釈のためにあったことがわかった。
日本の文学部の古文解釈は、解釈学ではなく文献学。本の収集分類・字の翻刻は緻密としても、その先の解釈と事実認定は素人感覚的で無法。専門領域を縦割りで決め、発想がせせこましい(略してせこい)スケールの狭量さ、法的素養が素人的で、一国の言語の古文なだけにその自覚を促されることが有史以来なく、自分達が正解を決める側で、自分達で間違いと認めさえしなければ間違っていることはないと思う、知的にぬるく天に不遜な思考様式が、貫之が女を装ったという総体的文脈の根拠の一切ない頓珍漢な近視眼的解釈が正解として千年はびこる原因となっている。
でなければ、それまで一切の古文と和歌の予備知識なく一年ほどでHPを構築し、後述のように米国著名大学教授から伊勢物語に関する立論に感心して論文に引用したいというメールを貰うことも段階を飛ばし過ぎてありえない。
奇しくもこの数日後、おいらという匿名男性から、伊勢物語の解説が支離滅裂な妄想なのでもっと勉強した方がいいというメールが来たが、まさに両国の知的先進性の違いが対照的に示された象徴的出来事であったと思う。この差を思うと愕然とするが、今まで見て来た知的風土、立論レベルの違いに照らし納得できることで、日本は従来と異なる新たな考えを基本的に受け入れがたいものと思う。
米国にも結論ありきはあるにはあるが、日本ほどトップ層が大同小異ではなく、理論的トップ層が著しく多様で充実している。
してみると、古文の学説解釈は本質文献論で、それ以上の文言解釈になると、論理ではなく自分達の推定に沿わせた推測・推理に過ぎず、ネイティブ的理解ではない。ネイティブ的理解(解釈力)ある人は他に誰一人いないことも、自信を持って言える(それが文屋の経歴の唯一性)。
最高に権威ある学者でも、古文を見たまま理解できているわけではない。その理論を正解に設定して講じる教師や講師は言うまでもない。皆さんの古文の理解の仕方を考えて欲しい。それと同じで見たまま理解できている訳ではない。だから貫之が女を装ったという集団的思い込み以外根拠ないトンデモ理論が千年通用している。
自分は古文をわかる、教えられるという人は、従来の通説的解釈を頭に叩き込み、それを書いてある内容そのものと混同して見ているに過ぎない。良くて専門作品でそうでないにしても、他作品になると全くそうなる。そういう暗記主義的な条件反射・定型的処理が日本的優秀さだろう。伝統保守層の想定する優秀さはどこまでいってもそれ。それらは既存の説明にないことは対応しないし、対応もできない。どんなにおかしくても問題ではない、通説を知らないだけ、もっと勉強しろと押し通す。そういう大真面目な的外れぶりを日本伝統の統治界隈に感じる人も少なくないと思う。
ネイティブや著者本人は文意を表すのに、品詞分類や後世の参考文献を持ち出さない。どこまでも前後の多角的文脈(特徴語の連なり+個人的経験)によるが、そういう説明が世の中に一切ない。この語は当時はこういう意味などの宙に浮いた観念分類論に持ち込む。しかしその当時はそういう意味だったということ自体学説により決めているという、循環論法。
旧来の古文解釈の本質が循環論法。その象徴的な例が、「女もしてみむ」で貫之が女を装ったとする土佐冒頭の異論ない通説と、その根拠となる仮名は女文字ということ。しかし冒頭に他作品で例のない貫之の署名がある上、貫之が編纂した初の公的仮名和歌集の古今集上位20人中女性2人、かつ土佐以前に女流作品は認定されておらず、貫之の当時仮名が女性文字という根拠は記録に全く基づかず、安易に論理反転させたもの。
判事(刑事系裁判官)という高度な知的経歴があり、縫殿という後宮に仕えた顕著に異色の記録ある唯一の歌人、小町と文通した唯一の記録ある、家名も血筋も何の後ろ盾もない(即ち平安初期の六人の代表歌人として貫之に挙げられる根拠が実力以外ない)文屋の作と見る以外、国文和歌根幹をなした作品成立および内実の説明として全く筋が通らないが、西洋化を免れ続け安穏とガラパゴス化し続けている御用系学説はそれを受け入れられず、古今枢要の配置を占め二条の后に至近する文屋を断固黙殺、果ては嘲笑し、自分達本位の筋の全く通りようがない支離滅裂な筋(竹取の女性に群がる貴族皇族の滑稽さを全力で揶揄する内容に全く基づかない貴族著者羅列、伊勢の著者見立ての変遷と無秩序な人定に基づく段階成立論という作品破壊)に固執している。
これが日本的な学問の認識の限界・知的な器の狭量さと思うので、今の世の学界には、近代的良識ある人として潔く、旧来の見立ての根本的な貴族本位動機の独善的過ちを認めて受け入れて頂きたいが、現状の反応から期待できず虚しく思うが、やるべきことをして早く終わらせようと思う。
最後に、私の名の頭文字を英語的に略して言うとヤーウェになる。
誕生日はテン・メイ。この解釈を発見した人は誰もいないと思う。
私は大学生の時に父のつてで初めてアメリカ本土に行き、ホームステイした先がデービッド家で(それまで米国本土に行ったことも、外国に一人で行ったこともなかった)、名前の由来を聞いたらキングと言っていた。
多くの日本の人はダビデ像でしか知らないと思うが、ダビデはユダヤの王で、旧約聖書中最も厚い詩篇(Psalms。発音はsάːm)で最多の歌人。奥さんはパムさん。息子さんには創世記や旧約預言書の人物の名が当てられていた。
私の生まれは岡山の奈義町。県境を越えた鳥取(父の実家)では那岐となり由来はイザナギのナギ。伊邪那岐を祀る那岐神社もある。
北海道に引っ越す前、芭蕉の奥の細道にも出る仙台・宮城野の小学校に1~2年生の頃通っていた(奈義→大宮→っ四街道→八戸→宮城野→北海道・旭川)。
そこで土曜の午前授業終りの雨の日、学校の昇降口の前に、キリスト教の教えが書かれたカードが濡れて落ちていて、それらを手に取って回り、こんなに素晴らしい内容なのに、地に落ちて汚れていると思った記憶があり、未だにその情景が思い出される。これは象徴的に解釈される事象と思う。
ちなみに家は宗教や信仰と無縁で、普通の葬式仏教程度で私も宗教とは無縁。鳥取の家には天照大御神と書かれた掛け軸が床の間にあったが、祖母はその横の仏壇で般若信教で唱えていたので信仰というほどではなかった。
そうした宗教への無理解で、米国(中西部)に行き、その世界主流宗教の信仰の熱心さに驚く。日本のいただきますの比でなく、時間をかけて夕食前に家族で祈った(祈る対象が違うと思うが)。あとは日曜に教会に行く位で、信仰の置物があったりするわけではない。
その経験により、日米の思考様式や行動規範の根本的違いが、直観的に理解できた(もちろん後から)。
巨額の組織的寄付文化は信仰による(責任感)。あえて言わないだけ。地震がとかではなく常時する。日本の寄付に規模感が生じない原因は、国家的に拝金的だから(金が出資とセットの資本ではなく、一方的に入れ続け貯め続けることが目的。金を目的達成の手段と思わない。金獲得自体が目的。控除もあわよくば利用させたくない)。
そうして聖書を読んで旧約の意図がわかることもわかったので、そちらに取り組むことが世界的に意義あることとも思うが、ネイティブではないので可能性はあるが絶望的と思っている。
キリスト教を信じた方がいいとかは思ってない。そもそも肝心の主の設定に問題(最後のなぜ見捨てた発言、生まれの星のエピソード)。
古文に関しては東も西も五十歩百歩(孟子が出典とされるが、こうした対の表現が古典・聖書の特徴)。
つまりドグマという認識がある時点で一歩二歩や単なる倍ではなく何十歩も進んでいるが、最終的なゴールから見るとさほどの違いではないという趣旨。
ゴールはなぜGOALというか。Go to the God; the ALMIGHTY.