原文 |
書き下し (武田祐吉) |
現代語訳 (武田祐吉) |
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自其地幸。 | 其地より幸でまして、 | 其處からおいでになつて、 |
到三重村之時。 | 三重の村に到ります時に、 | 三重みえの村においでになつた時に、 |
亦詔之。 吾足如 三重勾而 甚疲。 |
また詔りたまはく、 「吾が足 三重の勾まがりなして、 いたく疲れたり」とのりたまひき。 |
また 「わたしの足は、 三重に曲つた餅のようになつて 非常に疲れた」と仰せられました。 |
故號其地謂三重。 | かれ其地に名づけて三重といふ。 | そこでその地を三重といいます。 |
これは、俺の足は、三十も曲がった(三十半ば過ぎた)ので、甚く×痛く疲れたという自虐表現と解する(ヤマトタケル享年39)。
通説は「足が三重に折れ曲がったようになって」と解しているが、そんなことは事実上ありえないし、そういう慣用表現もないので、そういう意味ではない。一見しておかしな内容は、解釈として間違っている。つまり文脈を誤解している。
つまり「如三重勾」は独立した表現で(文脈での意味を通すには吾にかけるしかない)、「甚疲」が吾と足(痛く)に掛かっている。痛いに掛けているから、直前の段で「當藝野上」トゲの上という言葉がある。
そこでは「因甚疲衝御杖稍歩」(杖を衝いて少しずつ歩く)とあり、この杖は年寄りの象徴で、年を取って満足に歩けなくなったという描写。「吾心恆念自虚翔行然。今吾足不得歩」も、前はあちこち飛び回っていたが(物理的な飛行ではない)今はもうダメという意味。
ただし自然老化ではなく、過負荷や劣悪な生活環境によると見る。享年39ヤマトタケルの親の景行(12代)の寿命が137とあるが、2代から4代までは、特に戦争の描写もなく40代で連続死亡した記述があるから、三十だからもう老人というのも半ば冗談で通る記述であり、そのような環境下での100歳以上の寿命は、超人性を付与するための、それとわかる誇張と見るのが自然。
武田注釈は「三重勾」を「餅米をこねて、ねじまげて作つた餅」とするが、文脈上に根拠がない。またそう言うためには、最低でも「三重勾」にあたる餅が、古事記の時点であったと言えなければならない。それに何より解釈は文面上の根拠をもってするものであり、大きな文脈に即していることが肝心である。みだりに補わない。補う対象がそこだけに新たに出現するものは端的に誤りであり、読者の連想であり、著者の見解とはいえない。