原文 |
書き下し (武田祐吉) |
現代語訳 (武田祐吉) |
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故大毘古命。 | かれ大毘古おほびこの命、 | その大彦の命が |
罷往於 高志國之時。 |
高志こしの國に 罷り往いでます時に、 |
越の國に おいでになる時に、 |
服腰裳 少女。 |
腰裳こしも服けせる 少女をとめ、 |
裳もを穿はいた女が |
立山代之 幣羅坂而 |
山代の 幣羅坂へらさかに立ちて、 |
山城やましろの ヘラ坂に立つて |
歌曰。 | 歌よみして曰ひしく、 | 歌つて言うには、 |
古波夜 | ||
美麻紀伊理毘古波夜 | 御眞木入日子みまきいりびこはや、 | 御眞木入日子さまは、 |
美麻紀伊理毘古波夜 | 御眞木入日子はや、 | |
意能賀袁袁 | おのが命をを | 御自分の命を |
奴須美斯勢牟登 | 竊ぬすみ殺しせむと、 | 人知れず殺そうと、 |
斯理都斗用 伊由岐多賀比 | 後しりつ戸とよ い行き違たがひ | 背後うしろの入口から行き違ちがい |
麻幣都斗用 伊由岐多賀比 | 前まへつ戸よ い行き違ひ | 前の入口から行き違い |
宇迦迦波久 斯良爾登 | 窺はく 知らにと、 | 窺のぞいているのも知らないで、 |
美麻紀伊理毘古波夜 | 御眞木入日子はや。 | 御眞木入日子さまは。 |
と歌ひき。 | と歌いました。 | |
於是 大毘古命。 |
ここに 大毘古おほびこの命、 |
そこで 大彦の命が |
思怪 返馬。 |
怪しと思ひて、 馬を返して、 |
怪しいことを言うと思つて、 馬を返してその孃子に、 |
問少女曰。 | その少女に問ひて曰はく、 | |
汝所謂之言。 何言。 |
「汝いましがいへる言は、 いかに言ふぞ」と問ひしかば、 |
「あなたの言うことは どういうことですか」と尋ねましたら、 |
爾少女。答曰。 吾勿言。 唯爲詠歌耳。 |
少女答へて曰はく、 「吾あは言ふこともなし。 ただ歌よみしつらくのみ」といひて、 |
「わたくしは何も申しません。 ただ歌を歌つただけです」と答えて、 |
即不見 其所如而。 忽失。 |
その行く方へも見えずして 忽に失せぬ。 |
行く方も見せずに 消えてしまいました。 |
歌で繰り返される「古波夜」は、主語の強調たる「美麻紀伊理毘古はや」(係り)と、怖やを掛けている。
つまり、こわやこわや。
最後の「波夜」は早やの意味もあるだろう(美麻紀伊理毘古波夜)。
何が波夜に掛け、はよ〇寝夜なのかは、読者の解釈に委ねられているが、それはとても人には言えない内容である。越の国は討伐対象だったのだから(直前の文脈参照)。女の出自は明らかにされていないが、そのかわり腰裳をつけている。
つまりこれは第一に、恨み節。
第二には、続く文脈の意味である。その心は、コシのラインから目をそらせるもの、それが腰裳(こしも・古代日本女性のスカート)の役割である。実際はともかく、ここではその役割で用いている。つまり腰と高志(越)を掛けている。
そして以上が、一つの詞に複数の意味を持たせる掛詞の心得。この一見して誰も見れない一連の掛かりの文脈の歌が、どこかの伝承をそのまま記述したものと見るのは無理だろう(太安万侶=人麻呂の歌=字形)。
この直後、この歌で歌われた犯人とされる「建波邇安王(起邪心)」のタケハニヤスの王で、犯人はヤス。
「犯人はヤス」とは、古いファミコンゲームの伝説的フレーズ。
「真野 康彦(まの やすひこ) 通称ヤス。ボスの部下であり、捜査上のパートナー。彼がボス(プレイヤー)に語りかけ、ボスの命令で動き、状況をボスに報告するという形式でゲームが進行する。物語の語り手とも言える立場の人物だが、実は劇中における最大の秘密を隠し事にしている信頼できない語り手であり、物語の結末では、彼が文江の兄であり、事件の犯人はヤスであったという真相が明かされる」。
「発売当時のゲームはSFやファンタジーといった現実から離れた物語のジャンルが主流で、本作のような現代日本を舞台とするゲームは初めてではないものの[1]、少数派であった。また、当時のアドベンチャーゲームというジャンルも、宝探しか迷宮脱出のいずれかに分類できるようなゲーム性のものがほとんどであり[1]、本作のように実在する土地を舞台に、人間ドラマを盛り込んだ小説仕立てのストーリーが展開されるという趣向は、革新的なものであった[1]。一方、ゲームシステムの制約から、アリバイ崩しのような複雑な展開を盛り込むことは断念され、事件の因果関係を明らかにしていくというストーリーが設定された[1]。最後に意外性のある結末でプレイヤーを驚かせるという手法を用いたのも、少ない容量で娯楽性を追求するという制約の中で生まれた工夫による」
もちろんこのゲームの設定を還元させて論じている訳ではない。古事記の情況がよく反映されている(投影)。ボスは元明帝、ヤスは安万侶。ゲームを本、本作を古事記に置きかえてみると極めて示唆的ではないか。上記と全く同じことは伊勢物語にも言え、その犯人は業平とされているが、それは誤り。だから論理的に全く通らないし、それで当初は業平日記とみなされていたから業平の歌と認定したのを忘れて、歌の認定はそのままで、しれっと著者不明にした。そこでも犯人はヤス。ヤスのボスは二条の后。女所に仕え、古今で二条の后の完全オリジナルの詞書をもつのは文屋のみ。卑官で実力者とされるのは伊達じゃない。というかそれ以外の貴族は基本凡人(貫之仮名序)。当時から女上位で、それに従う卑官の男が一般であることはありえない。だから極めて特別な作品になっているのだが、なぜそれを認めたがらず、すぐ当時の人々は、などと言い出すのか。実力に対する理解も敬意もない。ハイドンやバッハやモーツァルトやベートーヴェンやショパンが輩出されたからといって、当時の人々、まして貴族が、まして一般人が彼らのレベルであったと言えるのか? ありえないだろう。余人をもって代えられない極めて特別な才能で書かれたことを前提にするのは、最低限のマナー。しかしそれすら知らない単なる権威主義だから、業平とか家持とかいう全く分不相応のありえなさを全く疑問に思えないし、字義をすぐ無視する自分達の筋の通らない解釈で古典とはそういうものとドグマ化するのである。