原文 |
書き下し (武田祐吉) |
現代語訳 (武田祐吉) |
---|---|---|
於是亦。 高木大神之命以 覺白之。 |
ここにまた 高木の大神の命もちて、 覺さとし白したまはく、 |
ここにまた 高木の神の御命令で お教えになるには、 |
天神御子。 | 「天つ神の御子、 | 「天の神の御子よ、 |
自此於奧方 莫使入幸。 |
こよ奧つ方に な入りたまひそ。 |
これより奧には おはいりなさいますな。 |
荒神甚多。 | 荒ぶる神いと多さはにあり。 | 惡い神が澤山おります。 |
今自天。 遣八咫烏。 |
今天より 八咫烏やたがらすを 遣つかはさむ。 |
今天から 八咫烏やたがらすを よこしましよう。 |
故其八咫烏 引道。 |
かれその八咫烏 導きなむ。 |
その八咫烏が 導きするでしようから、 |
從其立後應幸行。 |
その立たむ後しりへより幸でまさね」 と、のりたまひき。 |
その後よりおいでなさい」 とお教え申しました。 |
八咫烏は神の眷族とされる。
ただ眷属なら稲荷でもいいがあえてカラス。
カラスの象徴性は、不吉・死。その暗示。
八をつける動物は、他に八俣大蛇。大蛇の中の剣で眷属。つまり同様の不幸の象徴。権力行使による。
これが古事記全体の文脈に即し(敵対する相手はすぐ○す)、象徴の素直な理解。
つまり神武を導くと同時に周囲に知らせている。
行幸と対照させて先行く不幸。その権力行使による。
それが高木の発言の趣旨。不幸を最小限にするために。
古事記において八咫は鏡につかない。ただの鏡。「八尺勾璁 鏡。及草那藝劔」
鏡の神はここでの高木(高木大神、タカムスビ。一言主大神。鏡のように振る舞う。高木も還矢で同様)。
八咫はあくまで烏の枕詞。八咫の鏡というのは、八俣の鏡というくらいない。ちなみに草那藝劔は八俣大蛇の中にあった剣。