原文 |
書き下し (武田祐吉) |
現代語訳 (武田祐吉) |
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白髮 大倭根子命。 |
御子、白髮しらがの 大倭根子 おほやまとねこの命、 |
御子の シラガノ オホヤマトネコの命(清寧天皇)、 |
坐 伊波禮之 甕栗宮。 |
伊波禮いはれの 甕栗みかくりの宮に ましまして、 |
大和の磐余いわれの 甕栗みかくりの宮に おいでになつて |
治天下也。 | 天の下治らしめしき。 | 天下をお治めなさいました。 |
此天皇。 | この天皇、 | この天皇は |
無皇后。 | 皇后ましまさず、 | 皇后がおありでなく、 |
亦無御子。 | 御子もましまさざりき。 | 御子もございませんでした。 |
故御名代 定白髮部。 |
かれ御名代として、 白髮部しらがべを定めたまひき。 |
それで御名の記念として 白髮部をお定めになりました。 |
結論から言えば、清寧天皇は、白髪命という命名からいわゆるアルビノで、后も子もないとはその疾患で早世したもので、「清寧」という名称も幼さを表していると考える。
清寧天皇が白髪命とされる点について、以下のような説明がされている。
「御名の「白髪皇子」の通り、生来白髪であったため、父の雄略天皇は霊異を感じて皇太子としたという」(wikipedia清寧天皇#略歴)
しかし古事記にそのような記述は全くなく(記述は、本段と雄略天皇での系譜部分の白髪という名前のみ)、雄略天皇の系譜を見ると、残した子はこの白髪命と若帶比賣命(わかたらしひめ)しかいないので、霊異などという以前に、清寧(白髪命)しか直系で即位できる人物がいなかった。
白髪の名は、一連の記述とあいまって、若い名前と並べた早世の反転した暗示と解される。
生来の白髪に霊異を感じて皇太子というのは、日本書紀編纂者(御用学者)達による、権威をそこなわないための解釈。
先天的に肌や髪や目などの色素が薄いことは、一般にアルビノと呼ばれ、その特徴にまつわる症状は先天性白皮症などとされる。
以下でその特徴を少し示そう。適宜色づけした。
「眼皮膚白皮症(oculocutaneous albinism; OCA )は、出生時より皮膚、毛髪、眼のメラニン合成が低下ないしは消失することにより、全身皮膚が白色調であり、青~灰色調の虹彩、白~茶褐色あるいは銀色の頭髪を呈する。眼の症状を伴うことが多い。」「ほとんどの場合、視覚的な障害を伴い、日光(特に紫外線)による皮膚の損傷や皮膚がんのリスクが非常に高い。」(小児慢性特定疾病情報センター 眼皮膚白皮症(先天性白皮症))
「自然界での生存は極めてまれである。そのため、しばしば神聖なものやあるいは逆に凶兆とされ、信仰の対象として畏れられる」
「メラニンには、日焼けやDNAの破壊などの紫外線の害から身体を守る働きがあるが、アルビノの人にはこのメラニンが極めて少なく、あるいは全く欠如しているため……紫外線の影響を避けるためには日光に当たらないことが望ましいが、日常生活では不可能である。そこで、野外に出るときは直射日光をなるべく避け、SPF値が高く、UV-A・UV-B双方をカットできる日焼け止めクリームを塗り、長袖を着るなどの対策が必要である。また、目の組織も紫外線におかされやすいため、UV-Aカット機能のあるサングラスを着用するとよい」(wikipediaアルビノ)
「常染色体 劣性遺伝性 疾患ですので、親は健常人であることが多いです。
また、近親婚の夫婦からは、そうでない夫婦に比べて本症に罹患した子供の出生率が高くなります。」(難病情報センター・眼皮膚白皮症)
存在感が乏しいので、実在性や即位を疑う説もあるというが、例えば、唯一の子が極めて虚弱で短期間しか生きられなかったら存在や相続を疑う思考プロセスは妥当か。事実認定プロセス、論理的検討順序として不適当なので、仮説としても不適当。それなら自分達が不自然だと思えばないことにできる。
これはオケとヲケの実在を疑う説でも言える。世に信じがたい出来事というのは存在しないと思う平坦な世界。
后がいない帝とは、ごく素直に見れば、早世か不具(先天の異常)。それは皇室の歴史でありえないことだろうか。また、続くシビの歌ガキの最初の歌・小さなでっぱりが曲がっているという歌は不具の暗示で、つまりその血統自体の正統性自体を認めなかった(朝は朝廷、夜は志毘門とある)からシビは討たれた。
また古事記に一切存在せず、その趣旨と相容れない、清寧天皇の執政能力を根拠づけるような以下の日本書紀に基づく説明も、男子皇統の意志にない継承断絶を防ごうとする後の作り話で、女子の意志が入り込むことを避けたものと解される。
「雄略天皇23年8月、雄略天皇崩御。吉備氏の母を持つ星川稚宮皇子が大蔵を占拠し、権勢を縦(ほしいまま)にしたため、大伴室屋・東漢直掬らにこれを焼き殺させる(星川皇子の乱)。翌年正月に即位。
皇子がいないことを気に病んでいたが、清寧天皇2年、市辺押磐皇子の子である億計王(後の仁賢天皇)・弘計王(後の顕宗天皇)の兄弟を播磨で発見したとの情報を得、勅使を立てて明石に迎えさせる。翌年2王を宮中に迎え入れ、億計王を東宮に、弘計王を皇子とした。
清寧天皇5年正月に崩御した。『水鏡』に41歳、『神皇正統記』に39歳という。
なお、『古事記』では2王の発見は天皇崩御後の出来事としている。」(wikipedia清寧天皇#略歴)