原文 |
書き下し (武田祐吉) |
現代語訳 (武田祐吉) |
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此時。 | この時 | この時 |
阿遲志貴 高日子根神。 〈自阿下 四字以音〉 |
阿遲志貴 高日子根 あぢしき たかひこねの神 |
アヂシキ タカヒコネの神が |
到而。 | 到きまして、 | おいでになつて、 |
弔天若日子 之喪時。 |
天若日子が 喪もを弔ひたまふ時に、 |
天若日子の亡なくなつたのを 弔問される時に、 |
自天降到 天若日子之父。 |
天より降おり到れる 天若日子が父、 |
天から降つて來た 天若日子の父や |
亦其妻。 | またその妻 | 妻が |
皆哭云。 | みな哭きて、 | 皆泣いて、 |
我子者 不死有祁理。 〈此二字以音 下效此〉 |
「我が子は 死なずてありけり」 |
「わたしの子は 死ななかつた」 |
我君者不死 坐祁理云。 |
「我が君は死なずて ましけり」といひて、 |
「わたしの夫おつとは 死ななかつたのだ」と言つて |
取懸手足而。 | 手足に取り懸かりて、 | 手足に取りすがつて |
哭悲也。 | 哭き悲みき。 | 泣き悲しみました。 |
其過所以者。 | その過あやまてる所以ゆゑは、 | かように間違えた次第は |
此二柱神之容姿。 | この二柱の神の容姿かたち | この御二方の神のお姿が |
甚能相似。 | いと能く似のれり。 | 非常によく似ていたからです。 |
故是以過也。 | かれここを以ちて過てるなり。 | それで間違えたのでした。 |
於是 阿遲志貴 高日子根神。 |
ここに 阿遲志貴 高日子根の神、 |
ここに アヂシキ タカヒコネの神が |
大怒曰。 | いたく怒りていはく、 | 非常に怒つて言われるには、 |
我者愛友故 弔來耳。 |
「我は愛うるはしき友なれこそ 弔ひ來つらくのみ。 |
「わたしは親友だから 弔問に來たのだ。 |
何吾 比穢死人 云而。 |
何ぞは吾を、 穢き死しに人に比そふる」 といひて、 |
何だつてわたしを 穢きたない死人に比くらべるのか」 と言つて、 |
拔所御佩之 十掬劔。 |
御佩みはかしの 十掬つかの劒を拔きて、 |
お佩はきになつている 長い劒を拔いて |
切伏其喪屋。 | その喪屋もやを切り伏せ、 | その葬式の家を切り伏せ、 |
以足蹶離遣。 | 足もちて蹶くゑ離ち遣りき。 | 足で蹴飛とばしてしまいました。 |
此者 在美濃國 藍見河之河上。 喪山之者也。 |
こは 美濃の國の 藍見あゐみ河の河上なる 喪山もやまといふ山なり。 |
それは 美濃の國の アヰミ河の河上の 喪山もやまという山になりました。 |
其持所切 大刀名。 謂大量。 |
その持ちて切れる 大刀の名は 大量おほばかりといふ。 |
その持つて切きつた 大刀たちの名は オホバカリといい、 |
亦名謂 神度劔。 〈度字以音〉 |
またの名は 神度かむどの劒といふ。 |
また カンドの劒ともいいます。 |
ここで、死人と親友の容姿が似ているというのは、音が似ていることの比喩的表現。
しにんとしんゆう。愛友にずらしたのはその暗示で、愛友で友にあいに来た音とも掛けている。
もう一つの根拠が、大量と神度の対照(おほばかりとあえて読ませ、その延長で読むはずの、かむばかりとはあえて読ませない)。
並べるとまず違うように読むが、面倒な理由で似たようになる。
前段の葬式での泣女、八日八夜の遊びから、悲しいかな、誰も天若日子の死など悲しんではいない。
悲しんでないことが悲しいとはこれいかに。実は悲しんでいないから、実はしんでないと勘違いした。
立場上悲しんで見せている、それが泣女。そして他もみな同様だったと(親でも)。
みなが勘違いしたのではなく一人そうしたから追従した。それがここでの文脈。
これがひるがえって、天若日子の側女のサグメに「佐具売」を当てたことにもつながる。メに売を当てて売女。
つまり忠誠を誓ったり守ったりするように見える行為も、全て心からではないことの揶揄。
金のため、生活のため。したいからしているわけではないし、みながしているからそうしている。
その象徴単語が売女。サラリーマンと似た意味。女が本質ではない。金と弱さが本質。
金で自分を売ることを一般の人々(弱者)に強要する、金で人を動かし続けようとする非人道的社会、その非道の果てに心をなくした犠牲がここでの本質。
大量(おおばかり)は、大量の大ばかばかり。ばかは基本読み込む。万葉でも竹取でも。
神度(かむど)とは勘当。というよりしんどけん。ばかを読み込むこととパラレル。
このように、特殊な読みが指定されていても素直な読み方も考える。一つの暗示法。
直接書けばいいじゃない、じゃない。いやもうしんどけんって書けないでしょうが。
そこまでして書かなければいいじゃない。義を見てせざるは勇なきなりという漢(オトコ)の哲学がある。だからオトコに大丈夫の意を当てているのである。