原文 |
書き下し (武田祐吉) |
現代語訳 (武田祐吉) |
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爾 日子番能 邇邇藝命。 |
ここに 日子番の 邇邇藝の命、 |
ここに ヒコホノ ニニギの命が |
將天降之時。 | 天降あもりまさむとする時に、 | 天からお降くだりになろうとする時に、 |
居天之八衢而。 | 天の八衢やちまたに居て、 | 道の眞中まんなかにいて |
上光高天原。 | 上は高天の原を光てらし | 上は天を照てらし、 |
下光葦原中國之神。 | 下は葦原の中つ國を光らす神 | 下したは葦原の中心の國を照らす神が |
於是有。 | ここにあり。 | おります。 |
故爾 天照大御神。 |
かれここに 天照らす大御神 |
そこで天照らす大神・ |
高木神之命以。 | 高木の神の命もちて、 | 高木の神の御命令で、 |
詔 天宇受賣神。 |
天の宇受賣うずめの神に 詔りたまはく、 |
アメノウズメの神に 仰せられるには、 |
汝者雖有 手弱女人。 |
「汝いましは 手弱女人たわやめなれども、 |
「あなたは 女ではあるが |
與伊牟迦布神。 〈自伊至布以音〉 |
い向むかふ神と | 出會つた神に |
面勝神。 | 面勝おもかつ神なり。 | 向き合つて勝つ神である。 |
故專汝往將問者。 | かれもはら汝往きて問はまくは、 | だからあなたが往つて尋ねることは、 |
吾御子爲 天降之道。 |
吾あが御子の 天降あもりまさむとする道に、 |
我が御子みこの お降くだりなろうとする道を |
誰如 此而居。 |
誰そかくて居ると問へ」 とのりたまひき。 |
かようにしているのは 誰であるかと問え」と仰せになりました。 |
故問賜之時。 | かれ問ひたまふ時に、 | そこで問われる時に |
答白。 | 答へ白さく、 | 答え申されるには、 |
僕者國神。 | 「僕は國つ神、 | 「わたくしは國の神で |
名猿田毘古神也。 | 名は猿田さるだ毘古の神なり。 | サルタ彦の神という者です。 |
所以出居者。 | 出で居る所以ゆゑは、 | |
聞天神御子 天降坐 故仕奉御前而。 |
天つ神の御子 天降りますと聞きしかば、 御前みさきに仕へまつらむとして、 |
天の神の御子みこが お降りになると聞きましたので、 御前みまえにお仕え申そうとして |
參向之侍。 | まゐ向ひ侍さもらふ」とまをしき。 | 出迎えております」と申しました。 |
冒頭の天降(あめふり・あまふり)は、精神(霊)が受肉することを言っている。
アメでレインでレインカネーション。普通にいえば、普通の人として生まれること。
読み方の指定はないので、序文にあるように前後の用法から自然に読む(上古之時。言意並朴。…意况易解更非注)。
よって訓読で「あもり」とか「あもらし」とされているが、上記のように見ていい。その方がニニギに優しい解釈。
天から降るのは素朴にいえばアメ。
その道中、猿の男神(猿田毘古神 )がいるというのは、地上の肉体、その精神を象徴している。
高次の精神ではなく、物レベルの精神。器の気質。
高きの神が出てくる時は、常に低次の精神と対比(いわば全体を調和させる広い霊的思考と対比した、即物利己的な心)。
天照と高木(二神あわせ造化三神。天照は神ムスビの分神)が、産む女神に向かって、あなたは向き合い勝ってきたというのは、それと向き合うようにと。
つまり野蛮であること。これは昔に限った話ではない。昔は昔と思っていない。
そもそも現状、洗練され助け合い余裕ある穏やかな社会か、常に必死でなければ生きれない嘘偽りまかり通る攻撃的社会、どちらの側面が強いか。
面勝とは、自らに向き合い克つ(克服・自省)の意味。
女神が勝ってきたというから、その意味でしかない。
女神は家・内(どちらもウチ)とかかり内面の精神。ここでの神は内面の精神の象徴させていることは上述。
しかし一般に、克つというのも外に勝つための意味で使われる。
害は偶然か外の悪からもたらされると見る。自分達の社会は悪くないと思う。苦痛と抑圧がありふれ、それが当然視されても。
これに面勝つには、それを打破するというより、まず社会全体が他人の痛みに無関心、それが生み出す苦しみの中にある、それを認めることから。
それを認めず、そこに染まったのが、天に帰ってこない天若日子、天からの声を黙殺・射殺した話。
ニニギはその天若日子の分身(日子番の邇邇藝の命)。