原文 |
書き下し (武田祐吉) |
現代語訳 (武田祐吉) |
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於是思奇 其言。 |
ここにその言を 奇しと思ほして、 |
ところがその言葉を 不思議に思われて、 |
竊伺 其方產者。 |
そのまさに産みますを 伺見かきまみたまへば、 |
今盛んに子をお産みになる 最中さいちゆうに 覗のぞいて御覽になると、 |
化八尋和邇而。 | 八尋鰐になりて、 | 八丈もある長い鰐になつて |
匍匐委蛇。 | 匍匐はひもこよひき。 | 匐はいのたくつておりました。 |
即見驚畏而。 | すなはち見驚き畏みて、 | そこで畏れ驚いて |
遁退。 | 遁げ退そきたまひき。 | 遁げ退きなさいました。 |
爾 豐玉毘賣命。 |
ここに 豐玉とよたま毘賣の命、 |
しかるに トヨタマ姫の命は |
知 其伺見之事。 |
その伺見かきまみたまひし事を 知りて、 |
窺見のぞきみなさつた事を お知りになつて、 |
以爲心恥。 | うら恥やさしとおもほして、 | 恥かしい事にお思いになつて |
乃生置其御子而。 |
その御子を生み置きて 白さく、 |
御子を産み置いて |
白妾 恆通海道。 |
「妾あれ、 恆は海道うみつぢを通して、 |
「わたくしは 常に海の道を通つて |
欲往來。 | 通はむと思ひき。 | 通かよおうと思つておりましたが、 |
然。 伺見 吾形。 |
然れども 吾が形を 伺見かきまみたまひしが、 |
わたくしの形を 覗のぞいて御覽になつたのは |
是甚怍。 | いと怍はづかしきこと」とまをして、 | 恥かしいことです」と申して、 |
之即塞海坂 而返入。 |
すなはち海坂うなさかを塞せきて、 返り入りたまひき。 |
海の道をふさいで 歸つておしまいになりました。 |
「八尋和邇」とは、これで大陸由来の渡来人ということを表現している。
先行する「一尋和邇」の内容に「渡海中時(海を渡る)」とあったから、海を渡ってきた渡来人。長さが半島と大陸を象徴している。
ワニ(和邇→王仁)はその名字。そして著者の太安万侶。
先段の「臨產時。以本國之形產生」の本国とは文脈上中国の暗示。
日本で地方のことを本国とは言わないだろう。そういう呼称があったと想定することも文脈において不自然。
安万侶(人麻呂)は、基本的にこの国の文化を大したものと思っていない。だから勅命を受けつつ天皇家に全力で諫言する内容を書いている。
天や神を言うのも、天皇家を権威づけるためではない。世の理の理解を示すため。天子と称した時の君主のあり方・責任を説明するため(君主論・天命論)。
それが民の困窮時には最低三年租税と労役を免除せよ、それが聖帝という下巻冒頭のエピソード。ここまでの思想は、現代日本どころかどこの国にもない。
八尋の八は至高の神の精神作用を象徴する数字だから、彼女はいわばメッセンジャー。同様の存在が八神姫(=天照)。そして八俣大蛇。
だからここでも蛇の動きと掛けられている(匍匐委蛇)。
神話における最初の動物が八俣大蛇で、最後が八尋和邇。
出産で乱れている様子を、ワニとして表現したというのが表面的な意味。
本国の姿を見て驚き畏れ逃げたとは、違う考えを受け入れられない様子。
違う出自と知ると、それだけで受け入れられない。
行き来した海路をふさいで返ったとは、もう生まないという意味。なのでここで神話が終わる。
神に掛けて上巻。