← |
第108段 浪こす岩 |
伊勢物語 第四部 第109段 人こそあだに |
第110段 魂結び |
→ |
この段は、前段で紀有常の娘が出て行ったことを受けて、著者が慰める歌を送る内容。
本段と似ている歌を古今850は「きのもちゆき」の歌とするが、この点は微妙なので後述。
ここでは、著者の字足らずのアレンジ、あるいは著者が既に贈呈していたものと解する。
~
むかし男、友だちの、人を失へるがもとにやりける
「友だち」とは、16段の「紀有常」「人がらは…あてはかなる」「かの友だち」で初出。
これが、前々段「あてなる男」、前段「常のことぐさ」と紐づいて、確実に著者と有常のこと。
だから「むかし男」も著者でしかない。
これを漫然と文中外の事情を補い、別の男(もちゆき)と解することは無理。
まして古今の認定と伊勢は真っ向から対立している(在五「けぢめ見せぬ心」63段)。
仮に認定しても両者の文脈は実はかみ合っていない。
古今では、桜を植えた人がみまかったことをうけ、その桜を見て詠んだことになっているが、伊勢ではそのような具体的事情も文脈も一切ない。
そして伊勢で突如脈絡なく段を出現させることはなく、確実に前後を連結させている。
また、もちゆきの歌を「むかし男」のものとして、まるごと借用することも今までの記述の仕方に反する。
特に明示しない場合は常に著者の歌だったし、他人と明示していても著者の歌だったのだから。
(前々段で、言葉を知らず歌を歌えないとした娘の心情を、前段で著者が歌で表わした。
これは101段で業平を評し、歌をもとより知らないとし、無理に歌わせればこのようだった、とした文脈から確実)
「人を失える」とは、安直に見ると人が亡くなることだが、ここでは娘が家を出たという意味。
言葉に直接ではない繊細な含みをもたせる。それが「あてはかなる」。
ここでは16段で、床を離れて有常の妻が尼になるといって出て行ったこと、つまり女として死んだという意味を受けている。
動機は、有常の家の経済状態に不満だった。実家が藤原の大臣の家だったから。
そして、前々段からの流れは有常の娘に藤原敏行が言い寄ってきたというもの。それで娘が出て行ったという表現。それを妻と重ねている文脈。
つまり著者は、娘の行動を有常の妻(母)と同じ動機と見た。家出と出家。
「もとにやりける」とは、説明がないので16段と同様、慰める内容。
ここに、有常にまつわる今までの文脈を、全て読み込んでいる。
歌と同時に贈り物を添えること(16段、52段・飾り粽)、馬の餞を一緒にしたこと(44段)に掛け、ここでは花を添えた暗示。
加えて、思うにまかせないことを恋というのか、それなら世の中全て恋になるだろ、という二人のボケとツッコミ(38段)。
花よりも 人こそあだに なりけれ 何れをさきに 恋ひむとかし
花もだが 人への思いも実を結ばない どちらと先に 恋しよう
花はどこへもいかない。しかし花に恋しても実りはない。
なのでこのような問いかけ自体、実りない(あだなり)という滑稽な歌。
しかしこの歌は、古今とその認定ともあいまって、極めて微妙な歌なので、若干詳しく検討しよう。
「もちゆき」は貫之の父とされるが、詳しくは不明。
茂行・望行などと、表記がブレることもそれを裏づけている。
歌も古今850の一首のみ。つまり歌にほぼ興味がない人物(興味があっても実力はさほどない)。
こうした事情ともあいまってこの点の人定は、非常に難しいが、伊勢が何の明示もなく人の歌を用いることはない。
なので、一つには著者が「もちゆき」の歌をアレンジして、同じ紀の有常に送った、という可能性が考えられる。
というのも、明らかに文字を二つ抜いているからだ。字余りはままあるが、字足らずはまずない。2つあることは意図しないとない。
こういう記述をするのは定家本しかないが、定家本はこういう微妙な記述で、まずブレない。
花よりも 人こそあたに なりにけれ いつれをさきに こひむとか見し
(古今850)
花よりも 人こそあだに なり けれ 何れをさきに 恋ひむとか し
(伊勢109段)
抜いた文字の一つが「見」で、「あだなり」の意味の、実りないと掛かっている。
そして「あだになり」の後の文字を抜いて、その意図を確実に表わしていると。
伊勢に載ったことで、貫之の手元の「もちゆき」歌が、たった一つ古今に参照される機縁になったと。
貫之の手元とは、古今の前後が貫之で固められていることからの、一つの想像だが。
それによって伊勢の記述も丸められた。そんな所ではないか。しかしこの点はよくわからない。
腑に落ちないが、とりあえずこんなところにしておこう。
本当言えば古今の勝手な認定、あるいは「もちゆき」に贈られた著者の歌ではないかと言いたいが。
歌を代読すること自体は、著者は数知れずしている。
(29段・花の賀。114段、117段での行幸随伴。だからこそ歌仙。業平ではない)
男女 及び 和歌 |
定家本 |
武田本 (定家系) |
朱雀院塗籠本 (群書類従本) |
---|---|---|---|
第109段 人こそあだに | |||
♂ | むかし、男、 | むかし、おとこ、 | むかし男。 |
友だちの、人を失へるがもとに | ともだちの人をうしなへるがもとに | 友だちの人をうしなへるが許に | |
やりける。 | やりける。 | いひやりけり。 | |
♪ 188 |
花よりも 人こそあだになりけれ |
花よりも 人こそあだになりにけれ |
花よりも 人こそあたに成にける |
何れをさきに 恋ひむとかし |
いづれをさきに こひむとか見し |
孰れをさきに 戀んとかみし |
|
むかし、男、
友だちの、人を失へるがもとにやりける。
むかし男
むかし男が、
著者。
友だちの人を失へるがもとに
友達が人を失った所に
ここでの「友だち」は有常。
「人を失へる」とは、人が亡くなったではない。
有常の娘が出て行ったこと。
どういうことかというと、
前々段で有常の娘に言い寄ってきた藤原敏行を有常が勝手に追い返した。
それを受け、前段で娘が抗議していた。
(「常のことぐさにいひける」。これは、有常の言い草に常々抗議していたという意味)
これらは、16段で有常の妻が、尼になると言って家を出て行ったことと、リンクしている。
そこでの尼は口実で、実家が藤原の右大臣だったから、有常の家の生活に我慢ならなかった。
それが41段で、妻の姉妹が身分の低い男と(好きで)一緒になって困窮し泣いた描写に間接的に表わされている。
(ただ、それは地位のない男の話で、有常は貴族だから生活に困ることはない。しかし実家の時のようには贅沢できないという意味)
そして、娘に言い寄ってきたのも藤原の男。その意味で娘にチャンス。
だから、娘は恐らく母の元へ行った。
尼になるというのは、女として死ぬことと同義なので、それと掛けて「人を失へる」。今まで女としてきたが、そう書いてない。
女として死ぬとは、好きな人と生きるのではなく、即物的な生活・金のために生きるということ。著者にとっては。
金と愛はごちゃごちゃ言われるが、難しい状況で維持できないなら、その程度でしかない。
なお、以上の認定は、基点となる107段の「あてなる男」が有常という前提に立っているが、
(16段「紀有常…人がらは心うつくしく、 あてはかなることを好みて」41段「あてなる男」)
古今はこれらの符合及び、敏行と有常娘は夫婦になることを一切無視し、
107段は、業平とその家にいる謎の女に言い寄った敏行の歌なのだと認定しているので、
このような業平認定を維持する者にとっては、本段に至るまでの文脈は存在しない。全てバラバラ。
このような、歴史の記録に極めて自然に合致する文脈ですらも、後づけなのだろう。
自分達の認定が、極めて不自然で、無数に矛盾をきたすことは差し置いて。
やりける
(慰めの言葉を)やる。
慰めを入れたのは、
16段で有常の妻が出て行った時に、そのことを揶揄して、著者が有常と冗談を言い合ったり、贈物をしたことに掛けている。
花よりも 人こそあだになりけれ
何れをさきに 恋ひむとかし
※この歌は古今850に「きのもちゆき」の歌として収録されるが、この点は上述。
花よりも 人こそあだに なり(▲△に)けれ
花よりも 人こそ徒になるもの
あだになる
:無駄になる。実を結ばずむなしいさま。無益。
実を結ぶ、を花の特性に掛けている。
何れをさきに 恋ひむとか(▲△見)し
どちらと先に 恋しようか
普通に考えて、花に恋することなどないので、これは比喩。
思うにまかせないことが恋なのかといった、38段において有常と明示してされた著者との、あからさまな冗談と掛けた内容。
人に思いをかけても、それがあだになってしまう(有常の場合は娘に恨まれて、著者の場合は妻のために出稼ぎに出たら…24段)。
しかし花はどこにもいかない。
しかしいくら花を愛でてても、実は結ばない。
なので実りないとかけて、「見」をなくす。
実りないの「あだになり」の後の「に」を抜いて、ただの誤記ではないことを示す。
そういう歌かと思う。