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第107段 身を知る雨 |
伊勢物語 第四部 第108段 浪こす岩 |
第109段 人こそあだに |
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前段で、紀有常が、娘に言い寄ってきた藤原敏行を追い返したことを受け、娘が有常に恨み言を言う(後日両者は夫婦になる)。
それを聞き置いた著者の心の声が、二つ目の歌。
そして後日、有常は娘にも出て行かれたらしいのが、次段。
16段で妻にも出て行かれたのにな。娘はそこに行ったのだろう。多分。
~
むかし女、人の心を怨みて
これは、むかしむすめと読む。
13段(武蔵鐙)の「むかし武蔵」と音で対比させ(妻の尻にしかれ、何も言えない有常)、ここでもそういう文脈。有常ピンチ。
むすめを「女」と表記したのには、複次的意味がある。
これ以前に「むかし女」で始まった段は一つだけ41段にあり、それもやはり有常の家の女にまつわる話だった(妻の姉妹の話)。
しかも女が貧しい嫁ぎ先の男の服を洗濯して失敗して泣く話だった。
有常の妻の家は、藤原の右大臣なのだが、その女は地位の低い男との(愛の?)生活をとってそうなった。
つまり藤原の家ではなく、苦労してもその男と生活すること(本気の恋愛)をとった。
しかしそんなことも関係なく(?)、有常の妻は、尼になる口実で出て行った。それが16段。
以上の文脈が、本段の娘の歌に読み込まれる。
風吹けば とはに浪こす いはなれや わが衣手の かわく時なき
風と永久に去らぬ涙だ いわせんな 私の衣手は 渇きません。渇きはせんぞー 渇きはせん!
(永久に乾かぬ涙川、というおもーい恨み節)
これは万葉を受けた歌。
(風吹→浪。「風吹けば沖つ白浪」筒井筒の歌と同じ。下の句は定型句)
前段で娘は「言葉もいひ知らず、いはんや歌はよまざりければ」とされ、自分で歌える訳はない。だから詠んだと書いていない。つまり著者の翻案。
加えてこれは、101段で「もとより歌のことは知らざりければ」とした業平の歌も、全て著者が評し(クサし)た歌に過ぎないという表明でもある。
万葉集0703我が背子を相見しその日今日までに 我が衣手は乾ひる時もなし
万葉集07/1371ひさかたの雨には着ぬをあやしくも 我が衣手は干る時なきか
万葉集10/1994夏草の露別け衣着けなくに 我が衣手の干る時もなき
下の句で完全一致。
万葉では忙しい・貧しい・大変という定型句だが(1371は洗濯。生活の情景。恋愛ではない)、
それをここでは前段の涙川にかけ、恋で涙がとまらないことに掛ける。
有常の家は貧しいとかいうのもあるが、んなこたない。地位が有る以上、普通に(十分豊かに)生活できる。
貧しいのは藤原と比較しての話。この藤原は、娘の母の実家や敏行達のこと。
いやそれ言うたら世のほぼ全員貧民やがな、という話。あめーよ。それで雨。じゃないの多分。
さらにこの歌は、上述のように41段で、有常の義姉妹の女が、大晦日に男(地位の低い主人)の服を洗濯し、破いて泣いた話とも掛かる。
つまり、生活苦を嘆く要素、恋に泣く要素、衣の要素、手の要素、有常にまつわる女、これらを本段の歌で総括し、全て読み込んでいる。
ただ、有常の家で尼だの実家に帰るだの言うのは、かなり甘い。それが「蛙(帰る)」「あまた」。
こうした文脈を、古今の業平認定一発で、全て霧消させる。
だから、そういうのは読みが甘すぎる以外の何ものでもない。
と、常のことぐさにいひけるを
と、常の言い草として言っていたところ、というのが表面。
この常を有常と掛け、前段の有常の言い草に対し、娘が常々の言い草として文句を言っていた。
有常に常々を掛けるのは16段から一貫。「世の常の人のごともあらず」「世の常のこともしらず」。
それを「聞きおひける男」は、前段の流れで著者。
この物語で前触れなく突如新たな人が登場し、かつ歌を詠むことなどない。
聞き置くとは、他人の家のことなので、口出ししない。
さらに前段で、勝手に巻き込まれたことを受けている(「いままでまきて」)。突如何の説明もない人が出現したりはしない。
つまり有常が敏行と文通すると同時に、その状況で「文箱」を出し、第三者の文屋を巻き込んだことが、ここで裏づけられる。
よひ毎に 蛙のあまた 鳴く田には 水こそまされ 雨は降らねど
あまた・鳴く田を、涙川にかけ、雨も降らねーのによう増えると解く。
その心は、なんやいつにも増してうっさくない? 俺を巻き込まんで~。ちっとは静かにできんのか~。
涙の川が増水して流される位なら頼みにします? 意味不明。
でもあんまり蛙刺激すると、頭破裂しちゃう?
いやもう何。何でここまで意味不明。
男女 及び 和歌 |
定家本 |
武田本 (定家系) |
朱雀院塗籠本 (群書類従本) |
---|---|---|---|
第108段 浪こす岩 | |||
♀ | むかし、女、人の心を怨みて、 | むかし、女、ひとの心をうらみて、 | むかし女。ひとの心をうらみて。 |
♪ 186 |
風吹けば とはに浪こす いはなれや |
風ふけば とはに浪こす いはなれや |
風吹は とはに波こす いそ(は一本)なれや |
わが衣手の かわく時なき |
わか衣手の かはく時なき |
我衣手の かはく時なき |
|
と、常のことぐさにいひけるを、 | とつねのことぐさにいひけるを、 | とつねのことぐさにいひけるを。 | |
聞きおひける男、 | きゝおひけるおとこ、 | 聞をよびける男。 | |
♪ 187 |
よひ毎に 蛙のあまた鳴く田には |
夜ゐごとに かはづのあまたなく田には |
宵ことに 蛙のいたくなくなるは |
水こそまされ 雨は降らねど |
水こそまされ 雨はふらねど |
水こそまされ 雨はふらねと |
|
むかし、女、人の心を怨みて、
風吹けば とはに浪こす いはなれや
わが衣手の かわく時なき
むかし女
むかしむすめ
前段の有常の娘。女をむすめと読む。
13段「むかし武蔵」と同じ。この物語の武蔵は有常。
「むかし女」から始まる段が、これまでに一つだけあった。それが41段(紫)。
その段では、有常の妻の姉妹を描いている。つまりこのことからも、本段の「常」は有常だ。
(41段の男も古今は業平と認定するが、それは、これら有機的一体をなす文脈を全く読めていないから。二条の噂に基づき伊勢の全てを認定した)。
「常のことぐさ」は、の「常」とは有常。
前段で有常が、娘に言い寄ってきた藤原敏行を(娘を称し)追い返したこと。
後に二人は夫婦になることもあってか、恐らくそのことで娘は有常を恨んでいる。
この前段について、古今とそれを受けた一般の認定は、業平と家に侍る女の話と解するが、文脈を表面しか見なかった誤認定。
有常と見るとすんなり事情は通るが、業平と見るとただ意味不明で下世話な話(しかし一般の伊勢の見方は常にそう。ふざけている)。
家の主人が女中の恋愛に介入する道理はない。いやそれをするのが馬頭か。自分はおかまいなしで踏み越えるのにな、ふざけた話だ。
しかも主とは書いていない。「あれじ」としたヒッカケにひっかかり、勝手に丸めた。
その段での「今までまきて」は急ぎの巻きだが、文脈では通らない、手紙を丸めて(文箱に入れる)の方向に誘導したこともヒッカケ。
人の心を怨みて
人の心を恨んで
これは有常の親心。
だから良いという訳ではない。著者は親をほぼ無視している(10段・23段・84段)。そんな安易じゃない。
凡の発想なら、ここまで突き抜けて残っていない。
内実・実力・理解の伴わない無意味な序列は完全無視。しかし対外的な作法、人としてのマナーは守るがな。
風吹けば とはに浪こす いはなれや
風吹けば 永久に波越す 岩なれや
このままだと風共に去りぬの涙涙でで永久に離れ離れや。
だから言はなければ。
わが衣手の かわく時なき
わが衣手の 乾く時なし
万葉集0703我が背子を相見しその日今日までに 我が衣手は乾ひる時もなし
万葉集07/1371ひさかたの雨には着ぬをあやしくも 我が衣手は干る時なきか
万葉集10/1994夏草の露別け衣着けなくに 我が衣手の干る時もなき
下の句で完全一致。
万葉では忙しい・貧しいという定型句だが(1371は洗濯のこと。恋愛と見るのは無理。文中外の事情を勝手に補う思い込みが多すぎる)、
ここでは前段の涙川にかけ、恋で涙がとまらないことに掛ける(なお有常の家計は裕福ではない。それが16段。ただし普通の貴族並にはという意味)。
さらに上述した41段で、有常の義姉妹の女が、大晦日に男(身分の低い主人)の服を洗濯し、破いて泣いた話とも掛かっている。
非常に厳密な掛かり。
だから一般の読みは、総じて甘すぎる。中身がない。根拠がない。思いつきで言い放っているだけ。
緩い。テキトー。何となく。文脈の掛かりを完全無視。そういう掛かりは「だから何」レベル。掛かりではなく、ただのこじつけ。
ダラダラ色々参照しないで、ポイント絞って。
そもそも和歌はそういう趣旨で生まれた。膨らませればいい訳じゃない。
長さを誇ってどーする。中身だ中身。緻密な1000の文脈を10に濃縮させるのと、なんとなーくの0.1を10に膨らますのは全然違う。
と、常のことぐさにいひけるを、
と、常のことぐさにいひけるを
と、有常の常々からの言い草に(悲しくて堪らないと文句を)言った所、
常のことぐさ
:有常の言葉。前段で敏行を追い払ったこと。上述。
言い草
:悪い言葉にかかる。
草は、基本ばかにする文字(クサし)。
いひける
:前段で著者は娘のことを言葉も歌も知らないとしたのだから、
文もをさをさしからず、言葉もいひ知らず、いはんや歌はよまざりければ
上記の歌は、伊勢全編を通し、登場人物の心情を著者が翻案していることの表明でもある。
歌の内容が端的に万葉を参照していることからもそう。99%以上の人には絶対無理。
著者は、娘の歌には万葉を参照する。
聞きおひける男、
よひ毎に 蛙のあまた鳴く田には
水こそまされ 雨は降らねど
聞きおひける男
そのことを聞きおいた男が、
著者。
聞き置く
:意見は言わず、話を聞くだけにしておくこと。
つまり以下は、心の声。
聞きおひけるは、文脈で特有の意味も持つ。
前段で有常と敏行の文通が、有常によって著者(文屋)の文箱に、置いて入れられていたことによる。
それで前段では、
何も知らない敏行が心を惑わせ有常の娘の家に来たのと同じく、著者もその意味不明な行為をやめさせようと有常の家に来たのだった。
よひ毎に 蛙のあまた 鳴く田には
宵毎に 蛙がアマ田 鳴く田には
水こそまされ 雨は降らねど
水が増えても アマ水降ってねーど(いや、冗談だよ)
あまたを雨水と掛け、雨でないのに濡れるカワずで、泣き増すねんの涙川と解く。
その心は、なんやようわからんが、夜によー鳴いとるのう。
田んぼの世界のことは、よー知らんけど。
あ、ケロタンは可愛いよね。
いやー田んぼって強烈。京と対比させているんじゃないの、いや、気のせいかもね。
その心の声は、俺をまきこむな、でしょ。
前段からの「いままでまきて」と掛けて。
もちろんギャグ。だから万葉の歌を当てている。
大事にしないとこうしない。しかしその内容は生活苦の内容なのだが。
あ、ということはやっぱ藤原が良かった?
ま、そういうことね。著者は恋愛というより、そう見たのではないの。多分ね。