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第106段 龍田川 |
伊勢物語 第四部 第107段 身を知る雨 |
第108段 浪こす岩 |
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目次
・あらすじ(大意)
・原文
・現代語訳(逐語解説)
あてなる男(有常。業平ではない)
男のもとなりける人(有常娘)
かのあれじなる人(有常)
♪袖のみひぢて(敏) ♪袖はひづらめ(有)
いままでまきて(敏行)
見わづらひ(有・文=著者)
♪降りぞまされる(有)
まどひきにけり(敏・文=著者)
むかし、あてなる男(紀有常)の娘に、藤原敏行が言い寄ってきた(後の夫婦)。
それを、娘に代わって有常が追い返そうとして、男同士で心惑わせる文通をした(敏行はそれを知らない)という笑い話。
次段がその後日談。
「常のことぐさ」に恨み言をいう女(むすめ)。常とは有常の常。いつもの口癖。
これで本段の認定が確実に裏づけられる(それだけではないが)。
~
本段の歌を、古今617・618・705は、それぞれ敏行・業平・業平の作と認定し、詞書も伊勢の内容をそのまま受けている。
なりひらの朝臣の家に侍りける女のもとによみて
(617)
かの女にかはりて返しによめる
(618)
藤原敏行朝臣のなりひらの朝臣の家なりける女をあひしりてふみつかはせりけることはに、…かの女にかはりてよめりける
(705)
しかしこれらの業平認定は全て誤り。
これらは伊勢を業平の歌集と認定し、内容を見誤ったことによる。
そして古今の元になった業平の原歌集など存在しえない。業平は歌をもとより知らないとされている(101段)。
歌集たる古今の詞書は、間違いなく伊勢を参照している。
古今はオリジナルではない。忠実な参照が命の歌集である。そして参照元は伊勢以外に確認されていない。
最も影響を及ぼした伊勢を完全に見誤った古今本体はいわば躯。だから仮名序に影響力がある。古今自体としては、そちらが本体。
何より、伊勢全体で複数の掛かりがあるが、その古今の認定には一切脈絡がない。
伊勢における「あてなる男」とは有常。常にそう用いられてきた。
41段むかし、女はらから(姉妹)ふたりありけり。ひとりはいやしき男の貧しき、ひとりはあてなる男もちたりけり
16段むかし、紀有常といふ人ありけり。人がらは…あてはかなることを好みて…妻…尼になりて姉のさきだちてなりたるところへ行く
(他方で業平を「貴なる男」と讃えたと見るのは、全く意味不明かつ文脈とも相容れない。むしろ在五として非難している)
さらに、歌を代わって歌うという行為が、伊勢で唯一明示されたのも有常のみ(代作はその性質上明示しえないし、上級貴族の役割ではない)。
82段(渚の院)
かの馬頭(業平)よみて奉りける…親王歌をかへすがへす誦じ給うて返しえし給はず。紀有常御供に仕うまつれり。それがかへし
かの馬頭のよめる…親王にかはり奉りて紀有常
(ここで明示しているのは、親王のどうしようもなさを揶揄している。つまり子供。著者がする場合は、徹底して主体を伏せる。例えば29段・花の賀)
このように全体のかかりを一切無視し、伊勢が断片的な古今の二番煎じと見ることは明らかにおかしい。というか無理。本末転倒。
いや、無視しているのではなく、単純に読めていないだけ。ただ、場当たり的に反応しているだけ。
だから業平説では、様々な無理・矛盾が生じる。
古今が、伊勢を歪曲・矮小化させたに過ぎない。
古今617の敏行の歌の語句が、一部変えられているのも安易さの表れ。
ここで敏行とされる歌も純粋にその作ではない。著者による心情の翻案(101段、及び歌はできないとされた娘の歌が次段にある)。
加えて、ここでの二人の歌のやりとりは、著者と有常の歌の、今までのやりとりを反映し、非常に面倒な技巧に走ったもの。
(典型は52段・飾り粽、そして38段・恋といふ)
だから敏行が歌える内容ではない。
一般に16段(紀有常)で、有常と業平は友人であったなどとされているが、それはない。
何より義父に対し、友人などと失礼すぎる。しかしそれが業平のありえなさ。
82段(渚の院)で、有常は、明確に馬頭(娘婿)の歌に対してダメだししている。そしてその構図は、この段と全く同じ。
さらに同じ82段で、馬頭の歌に対し、敵対して返した人が二人いる。それが有常と著者。いわば戦友。
クリシュナとアルジュナ、なんつって。いやそうなのよ。前の名で名前だから。バカ王子と戦う話、馬頭&親王。リズム&権力。
だから有常をこの物語で一番最初に出し、「かの友達」(16段)。次の109段でも「友だち」。
あ、これは古代インド、バガヴァッド・ギーター(神の歌)の話ね。え、馬頭の…? じゃねーよ。
今度は歌で戦ったと。その意味では平和…。
袖が濡れる?「袖のみひぢて」「袖はひづらめ」ですが?
というか、みひぢて・ひづらめ、この言葉の解釈はどこに消えたの?
どうしてあえて、この一見無理のある不自然な言葉にしたと? 直接書けないから。これが作法。
濡れるなんて最後以外書いてない。しかも雨に濡れるで川じゃない。そういう牽制。
体が流されるほどの涙を流す男を頼るって何。頼れる? 花畑過ぎるでしょ。学芸会?
ま、そんなもん?
「いままでまきて(文箱に入れてあり)」とは、文脈における意味では、今すぐ急いで(巻きで)という意味。
それと文箱は著者(文屋)への投書という暗示。だからこのことを書いている。
それで、俺を巻き込むなって。
ざっくり言えばとか言うけど違うでしょ。誤魔化しているだけ。どうみても意味とるの難しい文面じゃない。
解釈自体がお話になっていないでしょ。涙で人が流されるって。だからそんな内容ではない。
男女 及び 和歌 |
定家本 |
武田本 (定家系) |
朱雀院塗籠本 (群書類従本) |
---|---|---|---|
第107段 身を知る雨 藤原の敏行 | |||
♂ | むかし、あてなる男ありけり。 | 昔、あてなる男ありけり。 | 昔なまあてなる男の |
その男のもとなりける人を、 | そのおとこのもとなりける人を、 | もとにごたち有けり。それを | |
内記にありける | 内記にありける | 內記なる | |
藤原の敏行といふ人 | ふぢはらのとしゆきといふ人 | 藤原のとしゆきといふ人 | |
よばひけり。 | よばひけり。 | よばひけり。 | |
此女かほかたちはよけれど。 | |||
されど若ければ、 | されどまだわかければ、 | いまだわかゝりければにや。 | |
文もをさをさしからず、 | ふみもおさおさしからず、 | ふみもおさおさしからず。 | |
言葉もいひ知らず、 | ことばもいひしらず、 | ことばもいひしらず。 | |
いはんや歌はよまざりければ、 | いはむやうたはよまざりければ、 | いはむやうたはよまざりければ。 | |
かのあれじなる人、 | このあるじなる人、 | このあるじなりける人。 | |
案を書きて かゝせてやりけり。 |
あんをかきて かゝせてやりけり。 |
ふみのあむをかきて女にかきうつさす。 さてかへりごとはしけり。 ことはいかゞ有けむ。 |
|
めでまどひにけり。 | めでまどひにけり。 | めでまどひて | |
さて男のよめる、 | さて、おとこのよめる。 | 男のよめりける。 | |
♪ 183 |
つれづれの ながめにまさる涙川 |
つれづれの ながめにまさる涙河 |
つれ〳〵の なかめにまさる淚 |
袖のみひぢて 逢ふよしもなし |
袖のみひぢて あふよしもなし |
袖のみぬれ古今ひちて 逢よしもなし |
|
かへし、れいの男、女にかはりて、 | 返し、れいのおとこ、女にかはりて、 | 返し。れいのおとこ。女にかはりて。 | |
♪ 184 |
浅みこそ 袖はひづらめ涙川 |
あさみこそ ゝではひづらめ涙河 |
淺みこそ 袖はひつらめ淚河 |
身さへながると 聞かばたのまむ |
身さへながると きかばたのまむ |
身さへなかると きかはたのまん |
|
といへりければ、 | といへりければ、 | といへりければ。 | |
男いといたうめでて、 | おとこいといたうめでゝ、 | 男いたうめでて。 | |
いままでまきて | いまゝでまきて、 | ||
文箱に入れてありとなむいふなる。 | ふばこにいれてありとなむいふなる。 | ふみばこにいれてもてありくとぞいふなる。 | |
男文おこせたり。 | おとこ、ふみをこせたり。 | おなじ男。あひてのちふみをこせたり。 | |
えてのちの事なりけり。 | えてのちの事なりけり。 | まうでこんとするに。 | |
雨の降りぬべきになむ見わづらひ侍る。 | あめのふりぬべきになむ見わづらひ侍。 | 雨のふるになん見わづらひぬ。 | |
身さいはひあらば、この雨は降らじ | みさいはひあらば、このあめはふらじ、 | 身さいはひあらば。この雨ふらじ | |
といへりければ、 | といへりければ、 | といへりければ。 | |
例の男、女に代りて | れいのおとこ、女にかはりて | れいの男。女にかはりて。 | |
よみてやらす。 | よみてやらす。 | ||
♪ 185 |
かずかずに 思ひ思はず問ひがたみ |
かずかずに おもひおもはずとひがたみ |
數々に 思ひおもはぬとひかたみ |
身をしる雨は 降りぞまされる |
身をしるあめは ふりぞまされる |
身をしる雨は 降そまされる |
|
とよみてやれりければ、 | とよみてやれりければ、 | とてやりたりければ。 | |
蓑も笠もとりあへで、 | みのもかさもとりあへで、 | みのかさもとりあへで。 | |
しとゞに濡れてまどひきにけり。 | しとゞにぬれてまどひきにけり。 | しとゞにぬれてまどひきけり。 | |
むかし、あてなる男ありけり。
むかしあてなる男ありけり
むかし高貴な男(紀有常)がいた。
この物語で「あてなる男」は有常のみ。
41段むかし、女はらから(姉妹)ふたりありけり。ひとりはいやしき男の貧しき、ひとりはあてなる男もちたりけり
16段むかし、紀有常といふ人ありけり。人がらは…あてはかなることを好みて…妻…尼になりて姉のさきだちてなりたるところへ行く
有常は著者の特に親しい人物・冗談を言い合う仲として描かれ、この段もその一環。
「ありつね」だから「あてなる」と「あるじ」にやっつけで掛ける。やっつけ(真剣ではない)は、52段(飾り粽・端午の節句)の文脈。
44段(馬の餞)での「主の男」も有常。著者と共に小町を送り出した時のホスト。
主というのは、妻に尼になると称して逃げられたことの当てつけ(尼になるとは、家出≒出家の意味)。
そしてこれは妻にフラれて他の男に寝取られた昔男の自虐(24段)、その後仲良くなった伊勢斎宮が尼になったこと(102,104段)の含みがある。
このような文脈を一切無視して、この男の歌を、業平の歌と突如認定する古今618は誤り。
古今論者達は、業平主人公ありきで、どこかに業平の歌集があり、伊勢がそれを受けた古今を参照したのだとするが、そのようなものは確認されていない。
そもそも本段のようなプライベートの内容が、何の記録もなく周知されていたと見ることが無理。そしてその記録は伊勢にしかない。
しかも、男が下(もと)の立場の女に代わって詠むという、極めて特殊な情況。
古今は家に侍るなどとしたのはそういう文脈だが、ナンセンス。
業平と認定する以上そうするしかないのだが、不自然極まるだろう。
そして、このように代わって詠む行為は、82段(渚の院)で、有常の行為として唯一明示されている。
かの馬頭(業平)よみて奉りける…親王歌をかへすがへす誦じ給うて返しえし給はず。紀有常御供に仕うまつれり。それがかへし
かの馬頭のよめる…親王にかはり奉りて紀有常
このように、ここでも業平は相容れない。
代読は性質上、普通は明示しえない。下の者にやらせるものだから。
だからここでの親王は、そのような気遣いが不要なほど、しょうもなく描かれている。
このような上下関係を覆し、下の女(ここでは娘)のために詠んでやるなど、よほどのお人よしでないとない。つまり有常。
業平は歌など得意ではない。少なくとも著者の認識はそう(101段)。
加えて、女に優しくする描写などない。むしろ真逆(63・65段等、出る段全て)。
断片的な古今のみを無条件に信奉し、伊勢の記述は全く都合よく無視し続ける。その違いはなんだ? 古今が先だ・正しいという思い込みだけ。
しかし参照先に伊勢以上のものがない。伊勢の記述から、これから出てくることなど、ない。
その可能性を持ち出し、想定しようとした人がいること、それ自体が根拠が全くないことの証拠。
101段(藤の花)
あるじ(行平)のはらから(兄弟=業平。と問題なく認定される)なる、あるじし給ふと聞きて来たりければ、とらへてよませける。
もとより歌のことは知らざりければ、すまひけれど、強ひてよませければ、かくなむ
伊勢以上の歌集など存在しないのに、それを二番煎じと決めて錯綜させ、伊勢が本体という自然な可能性を頑なに避けること自体、極めて不自然。
普通に考えて業平の歌だというスタートがおかしい。根拠が古今の認定以外何もない。伊勢は断固業平を否定している(63・65段等、出る段全て)
現状と同じく、内容をよく読まず、二条の噂に基づき、女の話が沢山出てくる=業平の話・日記と安易に決めつけただけ。伊勢の乗っ取り。
当初は日記と解されたが、読解力が多少上がり、それは成り立ちえないことが広まっても、なお業平主人公認定は放置されたから話が錯綜している。
日記とみたから主人公と「みなし」たのであって、そうではない以上、業平の目線で厚く語る意味も動機も一切ない。
業平のことは、歌の知識などないと評しているのだから(101段「もとより歌のことは知らざりければ」)、
その名を装う動機などない。むしろ徹底して嫌悪・拒絶している。
つまり、単純に認識を誤っている。誤った認識に基づき延々議論を繰り広げている。それだけ。
その男のもとなりける人を、
内記にありける藤原の敏行といふ人、よばひけり。
その男のもとなりける人を
その男の所にいた人を
つまり有常の娘。敏行がめとった人の話。
こういう関係を一切無視するところからも、業平認定はナンセンス。
もと 【許】:(人のいる)所。
内記にありける
内記に勤めている
ないき 【内記】
:中務省に属し、記録をつかさどる職。
藤原の敏行といふ人
藤原敏行という人が、
藤原敏行(?~901-907)
:図書頭になったのが875とされ、この時期は他の登場人物の肩書の基準時とも合致する。
なお肩書は、基本的に認識しえた最高のものを用いている。
つまり伊勢は少なくともこれ以降の880頃に仕上げた。
敏行は、その約20年後の897年に「右兵衛督」となっているが(つまり一世代後。ここでの娘の話と符合)、
101段で行平のことを「左兵衛督」としていること、その時在原に下げられた藤原であることから、敏行がなっていたら確実に書く。
記録係と「右兵衛督」じゃ立場が違い過ぎる。それを書いていないということは、著者はそのしばらく前に没した(885年)。
この点からも、古今を参照したとかいうのはナンセンス。
古今の後、数次の補丁を経て成立した? ではこの話を当事者から聞いた人は誰か。前半の有常と記述が符合しとるが。誰かわからんが別の人か?
色んな無名の人が、古今みて妄想膨らましたか? それこそが妄想。
別にそこまでして読まんでいい。理解できなければ別人。不誠実。
よばひけり
呼びに(デートの誘いに)きた。
夜這いではない。呼ばひ。
夜這いするのは文通などしない。夜這い脳=イケる!寝る! =業平
なお、「よばひ」は文字通り呼びにきた(ここでは、一緒にあそぼー)であり、これ自体に求婚という意味はない。
それは他の文脈によって示されるべきことで、この言葉自体にその意味はない。
語義から離れて意味は存在しない。
されど若ければ、文もをさをさしからず、言葉もいひ知らず、
いはんや歌はよまざりければ、
かのあれじなる人、案を書きてかゝせてやりけり。
めでまどひにけり。
されど若ければ
しかし(女は)若かったので
文もをさをさしからず
文もほとんどできず
をさをさ:
①〔下に打消の語を伴って〕ほとんど。あまり。めったに。
②しっかりと。きちんと。
言葉もいひ知らず
言葉もよく言わず知らず
いひしる 【言ひ知る】
:適切な言い方を知っている。
とされるが、伊勢のこの部分が出典なので、この定義(訳)が適切とも限らない。
伊勢は基本、字義通り解する。「よばひ」と直後の文通の、入念な文脈は、それを明らかに意図している。
ここで「よく」入れたのは、「をさをさ」の意味がこちらにも掛けているからだ。著者は言葉を最小限に留める。
一つの言葉の配置で、同時に複数の文脈で、多義的に用いる。
いはんや歌はよまざりければ
言うまでもなく歌など詠まなかったので、
これは上述した、101段(藤の花)での、業平を歌を知らないと評したことを受けている。
あるじ(行平)のはらから…もとより歌のことは知らざりければ
つまり間接的に業平はこのレベルと。
かのあれじ(▲△あるじ)なる人
かの主のようだが主ではない人が
かのあれじなる人:主ではない。有常は父親だから。
「あれ」は指示代名詞と「あれじ」の存在(いただろう)を掛け、先に示した人という意味。
居ても立ってもいられない、という含みもある。すぐ安直に丸める。だからこそ定家は流石。
業平と解すると、こういう含みが破壊される。
娘を思って男を寄せ付けない父親バカ話あるある話ではなく、ただの卑しいイタズラに成り下がる。
案を書きて、かゝせてやりけり
案を書いて、書かせてやった。
つまり娘は引っ込めたか、表に出さず、返答を考えた。
めでまどひにけり
女はそれで心を惑わせ、男はその返事を見て愛で(さらに)心惑わせた。
めでまどふ 【愛で惑ふ】:
ひどく感心する。
大騒ぎしてほめそやす。→意味不明。品性もまるでない。
主体を明示しない以上、複数の掛かりで用いる。「め」は女の暗示でもある。
ひどく感心、ではない。めで(愛で)の意味を無視し、「まどふ」も無視している。つまり全て無視している。
「まどふ」は、思い悩む・あわてふためく・迷うという意味しかない。
語義から離れ、自分達の思い込みで言葉を定義しないように。それが「言葉もいひ知らず」。
さて男のよめる、
つれづれの ながめにまさる涙川
袖のみひぢて 逢ふよしもなし
さて男のよめる
さて男が詠んだ。
敏行。
つまり有常の腹案が、どれほどの傑作だったのかが、ここで間接的に示される。
つれづれの ながめにまさる涙川
心もとない 眺めに勝る 涙かな
つれづれ 【徒然】
①手持ちぶさた。所在なさ。
②しんみりしたもの寂しさ。物思いに沈むこと。
涙川:陳腐で大げさな例えという著者の暗喩。「よしもなし」につながる。
袖のみひぢて(△みぬれ) 逢ふよしもなし
???
一見意味不明。みひぢて? 右肘手?
続く歌のかかりから、この意味を考えることに、この段の意味がある。
そしてこのように言葉の意味を(文脈=掛かりに即して)考えることは、伊勢の一つのテーマと言ってもいい。
みぬれ? ほんと、安易だよな。
袖のみ=肘手
つまり、
袖褄(そでつま)を引く
:異性に言い寄る。
と掛けて、妻がない(妻を引いて)と見る。それでつまんない。
袖にされて(冷たくされて)、つまんない。
根拠
よしなし:理由がない、つまらない。
冷たくされてつまんない、会えなくてつまんない。という連続。
それが「つれづれ」・「よしもなし」という語調とリンクする。
涙を(気取って風流に)流した風にするのもいいけど、やっぱそれじゃつまんない。
加えて、根拠なのに理由がないというトンチ。
え、心惑わせる傑作だったはずでは? いや歌は関係なかった、そういうオチ。
(そしてここで、断って帰そうとしたことも分かった)
このように、非常に込み入った技巧でギャグを含ませることは、有常と著者の歌の常(16段、13段、38段、41段、52段)。
したがって、これは敏行の歌ではない。著者が敏行のことを有常から伝え聞き(後の文脈)、その心情を翻案したもの。
古今617で敏行作とされているのは、撰者が非常に安直に見ただけ。名前が明示されていると引用しやすい。
なのに「袖のみひぢて」が「袖のみぬれて」になっているのは、塗籠同様記述が理解できず、袖=濡れるという安直な発想で判別できなかった。それだけ。
詞書の流れからいって、著者が改変したのではなく古今が丸めた。全体の流れは全てそうだ。常に伊勢の情報量の方が緻密。
伊勢が乗っかって増やしたのではない。なぜなら伊勢は業平を明確に否定しているからだ。そして古今には参照先が伊勢以外に確認されていない。
何より伊勢全体の年代が、一貫して古今の一世代前の描写。古今以後の記述は、39段(源の至)の一番末尾に、変な注記めいたものが一つあるだけ。
「至は順が祖父なり。みこの本意なし」。源順は911年の生まれだが、この瑣末な一箇所の付加で、伊勢の成立を左右させるのは、本末転倒も甚だしい。
後日の人が薄い感想を一言二言付け足したら、それだけで全体を全て無視して、作品が規定されるか?
それに「みこ(皇子)」には、伊勢で良い文脈は何一つない(43、81、82、83、85段)。ただ好き勝手して、酒飲んで放蕩しているだけ。
よってその本意など、どうでもいい。
かへし、れいの男、女にかはりて、
浅みこそ 袖はひづらめ 涙川
身さへながると 聞かばたのまむ
といへりければ、
かへしれいの男、女にかはりて
返事を例の男が、例の女に代わって
当然、有常とその娘
浅みこそ 袖はひづらめ 涙川
浅いから ???
袖はひづらめ
:袖這いずらめ→這いずれば(這いつくばれば)
らめ:仮定推量
(らむ・現在推量)
身さへながると 聞かばたのまむ
涙川に身も流すと聞くなら 頼まん(こともない)
土下座したまま川に流される位なら、聞いてやってもいい。娘を任せてもいい。
しかしそんなことをするやつには頼まないという、無茶振り。
夏の風物詩、BBQ&DQNの川流れ。
いや浅いからできるでしょ。涙川ゆーても、雀の涙だから安全でしょ。
といへりければ
と言ったらば、
男いといたうめでて、
いままでまきて
文箱に入れてありとなむいふなる。
男文おこせたり。
男いといたうめでて
男は(逆に)滅茶苦茶愛おしく思い、
いといたう 【いと甚う】
:たいそうひどく。
めづ 【愛づ】
:思い慕う。好きになる。感じ入る。
消火じゃなくて油そそいでしまった。燃料投下。
いままでまきて(△欠落)
今まで巻きて(??)
明らかに韻を踏んで、かつ判別し難いので、掛かりがある
(塗籠が無視しているから逆に大事。これはお決まり)。
つまり、今すぐにとても早く(巻きで)。
「いといたう」とパラレルで。
「いま」は、今すぐ・間もなくという意味。
「まき」は手紙クルクルではない(今までと整合しない)。急いで・早送りという意味の巻き。
つまり今すぐ急いで・すごく早く(文を)送る。それで手紙が来る来る。来るわ来るわ。
敏行にかけ、敏く行きます。え、マジでこれじゃない? だって女に一杯手ー出しているじゃない。
文箱に入れてありとなむいふなる
ポストに入れてあるから、と言って
一般の訳:男はひどく感動して、今まで(手紙を)、丸く巻いて文箱に入れてある
→これが辞書に付され流布している訳だが、全く脈絡がない。
字面でみるとこうなるが、
勝手に丸めてんじゃねーよ。そういうヒッカケ。
よく今まで(表現を勝手に)丸めてきたよな。
しかし不思議なのは、字義通りみれば絶対通らないのだから、ここでこそ(語義に即して)解釈せねばならない。
なのにこういう所は、頑なに動かさず思考停止。そして文字が通っている所でズラす。
これは「天の逆手」(96段)を、逆拍手などと頑なに意味不明に見ることと同様。
多分、一般的な頭の回路がそうなっているのだろう。
認知機能のレベルの話。だからといって正当化されるわけではない。そういうことを改善していくことが、いわば進化。
しかし「いといたうめで」を「ひどく感動」とするのは、この時点で素朴な語義を完全に無視している。
先の「めでまどふ」と一緒なら、「まどふ」があろうとなかろうと関係ない。
感動はそれ自体重い言葉。「ひどく感動」とは、それ自体軽い。
古典は、何やら脈絡のない文章を、それっぽい語尾(~でございますよ、などと)することではない。
それ自体で意味が通っていない場合、その時点で誤り。
男文おこせたり
男が文を(文屋に)寄こしてきた。
おこす 【遣す】
:こちらへ送ってくる。よこす。
この「男」は、実は定かではない。
敏行は当然だが、同時に、有常が著者に転送してきたとも見れる。文にウンザリして文屋に送る。それで伊勢に収録された。
今までの二重のかかり具合からすれば、こうなる。
えてのちの事なりけり。
雨の降りぬべきになむ見わづらひ侍る。
身、さいはひあらば、この雨は降らじといへりければ、
※藤原敏行朝臣のなりひらの朝臣の家なりける女をあひしりてふみつかはせりけることはに、いままうてく、あめのふりけるをなむ見わつらひ侍るといへりけるをききて、かの女にかはりてよめりける
(古今705)
この符合を比較しても、伊勢を参照していることは明らか。
伊勢は情況の流れに即して描いているが、古今は断片化させたにすぎない。
なぜそれを頑なに逆に見続けようとするのか。
古今の認定が揺らぐと、議論が根底から覆って困るから。
しかし業平認定に根拠はない。古今のこの断片的な記述しかない。
他方で、有常という認定には、幾重にも根拠がある。
えてのちの事なりけり
(その文を有常と文屋が)得て、後のことであった。
以下の文章も主体は明示されないので、基本敏行と見つつ、文屋を含ませた二重構文。
雨の降りぬべきになむ
雨が(今にも)ふりそうなので
上述の「いままで」が、今すぐにもの用法であることの裏づけ。
見わづらひ侍る
見て困っています。
みわづらふ 【見煩ふ】
:見て思案にくれる。もてあます。
身さいはひあらば
この身に運があれば
見わづらいと明らかに対置。
この身は続く「この雨」と掛かる。
この雨は降らじ
この雨も振るまい
といへりければ
と言えば、
つまり、有常から文を転送されて文屋がもてあましている。
だからこの五月雨方式で送ってくるの、やめてくれないかな~と。
この身に降りかかる不幸とまってくれないかな~。こわいなこわいな~。
しかし表面的には、敏行が、
雨が降りそうだから、有常の娘のところに行けず困ったな~と言っている。
例の男、女に代りてよみてやらす。
かずかずに 思ひ思はず問ひがたみ
身をしる雨は 降りぞまされる
とよみてやれりければ、
※かの女にかはりてよめりける
(古今705)
業平認定については上述の通り、誤り。
例の男、女に代りてよみてやらす
例の男が、女に代わって詠んで(敏行&文箱ならぬ文屋)にやる。
かずかずに 思ひ思はず 問ひがたみ
数多の文に 何も思わず? と問い難しこの身
身をしる雨は 降りぞまされる
身を知る雨は 降ってこそ(ナガめに)まさる
とよみてやれりければ
と詠んでやったらば、
蓑も笠もとりあへで、しとゞに濡れてまどひきにけり。
蓑(みの)も笠もとりあへで
とりあえずコートも傘もとらずに
しとゞに濡れて、まどひきにけり
びっしょり濡れて、惑いながら(も)来たのであった。
しとど:びっしょり。
つまり一つには、
敏行が、思わせぶりの文脈で、雨の中来てナンボだろという挑発に発奮して来た。
(冒頭の「めでまどひにけり」と「まどひきにけり」を掛けて。俺は敏行!と急行した)
もう一つは、
こっちにも言うに言えない事情があんねん、このままだと思い知るまで雨は強まるで。
という脅迫文を受けて、著者が慌てて止めさせに来た。
有常を止めに来たのか、敏行を止めにきたのか。
でも敏行は早いから止められない…。早く来て早くイク。…え?
手が早いって、そういうことも関係あるでしょ。
しかし有常の婿はどうしてこうかな。絶対因縁があるだろ。