昔男が、馬の餞(送別会)をしようとして人を待っていたが、来なかったので。
今ぞ知る 苦しきものと 人待たむ 里をば離れず 訪ふべかりけり
「今知った 人を待つその 苦しさを 訪ねられない 苦しさを」
ここでは訪ねるを、訪問と質問(問いかけ)に掛けている。
少し前の44段(馬の餞)と掛けたかと思いきや最初だけで、後は次の45段(行く蛍)の内容とリンクさせている(里に籠っていた女)。
本段は、すっぽかされた話ではなく、待ち人が少し遅れた間に少々逡巡した話と思う。「今ぞ」とはそういう意味に見れる。
そして、この歌を収録した古今969の詞書は、この説明とある意味ではリンクするのだが、その認定(業平作)には根拠がない。
紀のとしさたか阿波のすけにまかりける時に、むまのはなむけせむとて、けふといひおくれりける時に、
ここかしこにまかりありきて、夜ふくるまて見えさりけれはつかはしける
全く脈絡なく紀利貞がでてくること、そもそも業平の認定自体に根拠がないことから、業平説を何とか固めようとした試みと解する。
だから、その説明がやたらと細かい点を出そうとしているし、モタモタと説明的。利貞というのは、有常近辺で適当に符合する人物にしたいえる。
この認定を前提にすると、881年頃この歌が作られたことになるが、遅すぎる(業平は880年に死亡)。つまり一貫性が、認定に自然さが、全くない。
しかも、訪ねてこない、しかしその理由も訪ねられないと掛けた歌なのに、使いを出したというナンセンスさ。
言葉が軽いし理解もしていない。実際のことと歌は違う、そこまでの意味はないなどと、いとも簡単に言葉と伊勢物語を貶めるその感覚。それがナンセンス。
男女 及び 和歌 |
定家本 |
武田本 (定家系) |
朱雀院塗籠本 (群書類従本) |
---|---|---|---|
第48段 人待たむ里 | |||
♂ | むかし、男ありけり。 | むかし、おとこありけり。 | むかしおとこ有けり。 |
馬のはなむけせむとて、 | むまのはなむけせむとて、 | ものへ行人に。むまのはなむけせんとて。 | |
人を待ちけるに、来ざりければ、 | 人をまちけるに、こざりければ、 | ひと日まちけるに。こざりければ。 | |
♪ 89 |
今ぞ知る 苦しきものと人待たむ |
いまぞしる くるしき物と人またむ |
今そしる 苦しき物と人またん |
里をば離れず 訪ふべかりけり |
さとをばかれず とふべかりけり |
里をはかれす とふへかりけり |
|
むかし、男ありけり。
馬のはなむけせむとて、人を待ちけるに、来ざりければ、
今ぞ知る 苦しきものと 人待たむ
里をば離れず 訪ふべかりけり
むかし男ありけり
むかし男がいた。
馬のはなむけせむとて
馬のはなむけ(送別会)をしようといって、
→44段「馬の餞」では宴会をし、服の贈物をした。
馬の鼻を向かせることではなく、ウマもハナも当てただけ。
人を待ちけるに来ざりければ
人を待っていたが、来なかったので。
(ありえない状況なので、素朴にみれば前段からの流れで笑い話。皮肉。)
今ぞ知る
今知った。
苦しきものと
苦しいということを。(つまり)
人待たむ
人を待って
「む」は否定ではなく意志。
例:せむとす。
里をば離れず
里を離れられず
訪ふべかりけり
訪ねることもできないこと。
これは45段(行く蛍)の内容にかけていることが一つ。
そこでは、死にそうな女が自分の都合で男を呼びつけて、よくわからんこと(内容は書いていない)を言って果てた。
したがって、ここでの餞別も、そのような自分勝手だったのか、その時の自分のように来たくなかったのか、辛いわという内容。
待つしかないのが辛い、というのは表面的なこと。
もう一つには、訪ねる(訪問)を、理由を聞くことにかけて、来ない理由を自分からは聞けないということを言っている。
だけど、ここでは相手は少し遅れているだけだと思う。
「今ぞ知る」「苦しき」という格好つけたような表現はそういうフリ。